さざなみ商事株式会社営業部第三営業課、午後三時。
男性社員たちが月例予算会議のためフロアを出払ってしまったのを確認すると、中島かずえは山田課長の机に備え付けてあるコンピューターの前に座った。そして自分の席から持ってきた音声入力用マイクのモジュラーをコンピューターに接続すると、コンピューターのスイッチを入れた。
コンピューターが立ち上がると、かずえは迷わずあるファイルを開き、その奥深く隠されたソフトウェアを起動させた。そんなかずえの様子を見て、フロアにいた他の三人の女性社員たちがそろそろと山田課長の机の周りに集まって来た。
かずえが開いたソフトのインターフェイスは、見た目にも異様だった。ツールバーより下は何も表示されておらず、十七インチのモニターいっぱいに開いたウインドウの中は銀色に光っている。モニターのその部分に映り込むかずえの顔が、まるで鏡に映ったようにくっきりと見えた。
その画面を確かめると、かずえは音声入力用マイクに向かって、ゆっくりと大きな声で語りかけ始めた。
「鏡よ、鏡。このさざなみ商事で一番美しいのは誰?」
ピッ。
コンピューターは質問を認識した合図に小さな電子音を発した。続いてソフトが作動するカタカタという音が聞こえ始めた。銀色のウインドウの真ん中に『検索中です』とのメッセージが浮かび上がる。
ソフトの作動音は執拗に長く続いた。コンピューターの前に集まった四人は、結果が出るのを固唾を飲んで見守った。
かずえは内心、気が気ではなかった。検索時間がかかり過ぎているのだ。これまでなら、フリーウェア『魔法の鏡』はたちどころに答えた。
「それは中島かずえさんです」と。この答を聞きたいがために、彼女はこのソフトをたびたび開いて見ているのだ。
もうしばらく後に、やっとカタカタという音が途絶えた。そして今まで銀色だった画面に、ぱっと画像が現れた。
『さざなみ商事の中で一番美しいのは、この方です』
コンピューターから厳かな鏡の声が聞こえる。画面にはひとりの若い女性が映っていた。栗色に染めたストレートの髪を肩までのレイヤーカットにした彼女は、聡明そうな大きな瞳とふくよかな唇がしっとりと美しい。少し開いたブラウスの襟元からのぞく白い喉元が、女性の目にもセクシーに見える。
「誰よ、この人!」 かずえが動転して叫ぶ。
「私、知ってる。秘書室に中途入社してきた澤田静香さんよ。ちょっとノリカっぽいのよね、雰囲気が」
ゆかりが呑気な声をあげるのを、かずえは忌々しい思いで聞いた。
「ほほほ、なんて公平な鏡さんだこと。あなたの正直さに誰かさん、すっかりパニックよ」
背後から聞こえた早苗の皮肉な高笑いに、かずえはキッと彼女を睨んだ。
「鏡よ、鏡。今のは誰の好みのモード?」
心ない同僚たちの言葉を無視して、かずえは真剣な表情でモニターに向かって問いかけた。
「それは第一営業課の坂上主任のモードです」
誠実そうなソフトの声が、コンピューターのスピーカーから流れてくる。
営業部第一営業課の坂上は、かずえの憧れの男性だ。もともとこのソフトを使うようになったのも、自分がいかに坂上の理想の女性に近いかを客観的に指摘し、安心させてくれるものが欲しかったからだった。その客観的な鏡が今、自分よりも澤田静香という女性の方が、坂上の好みに近いと告げている。
かずえはおもむろにソフト『魔法の鏡』を終了させると、そのアイコンをドラッグしていき、ゴミ箱に放り込もうとした。
「何してるの、待ちなさいよ!」
背後から驚いた同僚たちの非難の声があがる。早苗がかずえのマウスを持った手を押さえ込んだ。
「勝手なことさせないわよ。そのソフトウェアをきちんと使えるようにするために、私たちがどれだけあなたに協力したと思ってるの」
曜子がきつい口調で抗議した。その彼女を、まだ手を押させられたままのかずえがぎりりと睨む。
「うるさいわね! こんなソフト、けっきょく外見でしか女性を判断しないセクハラおやじと大差ないわ。やっぱりタダで手に入るソフトなんてダメよね」
「澤田さん、帰国子女でコロンビア大学出身ですって。MBA持ってるらしいわよ。うちの会社じゃ二人しかいないわよね」
ゆかりのフォローに、かずえは吼えんばかりに苛立った。
ソフトウェア『魔法の鏡』は、かずえがインターネットを通じて手に入れたフリーウェアだ。通常はデスクトップ鏡として役立つが、質問を音声で入力すると、ソフトウェアの中に蓄積された画像形式の人物データの中から、同じくインプットされたお好みデータに鑑みて最も適当と思われる人物を検索し、答えてくれる。お好みデータは個人の嗜好により、女優やモデルの写真などからモンタージュする形で入力される。
「山田課長のお好みモードにしておけば、あなた、会社で一番の美人なのに」
「嫌よ! ゴキブリ課長のお気に入りなんて。そんな低いレベルじゃ我慢できないわ」
かずえは、辛らつな茶々を入れ続ける早苗に、食ってかかった。
「そういえば昔、山田課長のことゴキブリにしちゃったこと、あったね」
ゆかりがのんびりと口をはさむ。
以前、営業部第三営業課の女性社員四名が共謀して、山田課長のコンピューターをこっそり『憑依ウィルス』なるものに感染させたことがあった。従来型のコンピューターウィルスと違い、ユーザーの精神に直接影響を及ぼすこの画期的なウィルスのおかげで、山田課長はゴキブリに憑依された状態となり、三日間元に戻ることができなかったのである。
「あのときは生きた心地がしなかったわ。このまま死んだらどうしようとか、私たちの仕業だってばれたら刑事告発されるのかとか気になっちゃって」
早苗はそう言って、ほっそりとした体をぶるっと震わせた。
「嘘ばっかり。結構似合うわねって、床這いずり回ってる課長の背中撫でてたの、あんただよ」
かずえが反論する。
「うん、早苗が発泡スチロールの板に色塗って作ったゴキブリの羽、結構可愛かったよね」
ゆかりが楽しそうに言葉を継いだ。
「けっきょく『過度のストレスによる一時的な精神障害』とか言われて、私たちの仕業と発覚せずにはすんだけれど、課長、あの事件のせいで奥さんに離婚されたんでしょ。さすがに罪の意識感じたわよ」
曜子が悲しそうな顔をする。
「きっとそれ以前から離婚したかったのよ。私たち、不遇の女性を一人助けることができたのよ。同じ女性として誇るべきことじゃない」
かずえに反省の色はない。
「だいたいこの『魔法の鏡』ソフトって、すごく怪しいわよね」
「怪しくないフリーウェアなんてあるもんですか。せっかく苦労して、ある外国のプロバイダ経由で手に入れたソフトよ。文句つけないでよ」
「外国って、どこの国なの」とゆかり。
「秘密よ。まぁ、遠い国よ」 かずえが答える。
「どこかなぁ、ジンバブエ? あ、それともトンガかな?」
「調子狂うからゆかりは黙ってて!」 苛立った曜子が遮る。
「何にしても良く言うわね、かずえ。あなた今、その偉大なソフトを捨てようとしたじゃない」
「そうよ、鏡の判定データ用にって、会社中の女子トイレの洗面台にこっそり自動差動装置付きのデジタルビデオカメラを設置するの、手伝わされたわよね」
そう言いながら早苗は、やっとかずえから奪い取ったマウスで、ソフトをゴミ箱から元の位置に戻した。
「全部じゃないわよ。フロアに女性が『奥野の局』一人きりの四階は、最初から問題外だから設置してないじゃない」
かずえは早苗にきつくつかまれていた右手を振りながら、再び起動したソフト『魔法の鏡』のウィンドウを睨んでいる。
「この子、今に地獄に落ちるわよ」
早苗が忌々しそうに呟いた。
「だって社員証の顔写真なんてインプットしたって、みんなよそ行きの顔してるんだもの。きちんとした判定なんてできないじゃない」
早苗の様子に、かずえも声を荒げる。
「それにめぼしい男性社員の好みの女性を聞き出すのだって、苦労したわよ」と曜子。
「何が苦労よ、よその課の男性社員としょっちゅう合コンしちゃ、みんなの好み聞いて回るのは、曜子の趣味でしょ。あんたのおかげで、お好みモードのインプットは楽だったわよ」
それを聞いて、曜子は何か思い出した様子だ。
「そういえば先週の金曜日のコンパに、坂上さん来てたのよ。そのコンパには私たち、人寄せに澤田さんを強引に出席させたの。坂上さん、それまではどんなに誘っても絶対参加しなかったのに、きっと澤田さんがお目当てで来たんだわ」
その言葉に、今まで鼻息の荒かったかずえがはたと息を飲む。
「あらあら、さすがにショックだったかしら」と、早苗。
「でもこういう情報は、早めに教えてあげるのが友達の思いやりよね」
曜子の口調は優しいが、顔が露骨に笑っている。
「気にしないで、かずえと澤田さんじゃまるきりタイプが違うもの。競争にはならないよ」
ゆかりの言い様ではなぐさめているのか、見込みはまるでないと引導を渡しているのか判然としない。
「く、悔しい〜」
かずえは完全にキレた。彼女は一瞬の隙に早苗からマウスを奪還すると、『魔法の鏡』の右肩のボックスをクリックして終了しようとした。今度は完全な八つ当たりで、『魔法の鏡』を消去しようとしているのである。他の三人は、今度は止め切れずに大声で叫んだ。
その時である。聞き慣れぬ男性の声で何やら叫んだのが、四人に聞こえた。
「今、誰か何か言った?」
四人は息をひそめて、あたりをうかがった。
「ですから、やめてくださいよ」
また聞こえた。男性の切羽詰まった声だ。
「嫌だぁ、誰がしゃべってるの」
ゆかりが半ベソで叫んだ。
「嫌だじゃないでしょ。僕ですよ、僕。ほらほら、ここですよ」
今度こそ、四人はその声の出場所をつきとめた。コンピューターだ。
「お願いですから、八つ当たりで僕のこと消去するのはやめてください」
四人はしばし絶句した。なるほど、よく聞けばこれはソフト『魔法の鏡』の声だ。だが、なぜコンピューターソフトが、勝手にしゃべっているのだろう。見れば、『魔法の鏡』の銀色のウィンドウには、なんと目鼻がついているではないか。
「そうそう、落ち着いてください。僕を捨てても何も解決しませんよ」
『魔法の鏡』が安心した表情でニッコリ笑う。だが本人はニッコリのつもりでも、四人にはニッタリと見えてしまい、四人は顔を見合わせた。
「それに僕ってオリジナルだから、消去されちゃうと、もう代わりはないんですよ。だから気軽にゴミ箱に入れちゃダメですよ」
『魔法の鏡』はかまわずにしゃべり続ける。
「あなた、その目鼻、どうしたの」
かずえが低い声で、入力マイクに語りかけた。
「あ、これ? この方が貴女たち、僕と話し易いでしょ。僕は別にこんな器官は必要ないんだけど、貴女がたはこの器官の配列で人間の価値を決めるみたいだから」
そう言うと『魔法の鏡』は、ヒッヒッヒといやらしい笑い声をたてた。中年おじんではなく、必死で場を盛り上げようとする冴えない若手社員風のノリに、四人はふっと寒いものを感じた。
「どう、僕ってイケテる?」
そう言って『魔法の鏡』はまたニッタリと笑ってみせる。その質問に、ゆかりが眉をひそめた。
「ううん、イケテない。社長室の中田さんみたいな顔してるもの」
「うわーっ、ゆかりったらそれバッチリ過ぎぃ!」
とたんに他の三人が、火がついたように笑い始めた。
「そうそう、さっきの嫌味のつまらなさ加減もナカタンそっくり!」
「あの〜、もしもし?」
四人の笑いさざめく様子に、不安になった『魔法の鏡』がそろそろと声をかける。
「僕、誰かに似てるんですか」
「そう、スカタンのナカタンにそっくり」
とたんにまた四人がわっと笑い出す。『魔法の鏡』は、さすがにいたたまれない気分になった。
「いや、スカタンは良いんですけどね、皆さん、ちょっと話を聞いてくださいよ」
ムッとした表情で、『魔法の鏡』の目がみんなを見回した。
「あなた、私たちのことが見えてるの」と、早苗が鋭い口調で訊ねる。
「そりゃ見えるでしょ、トイレの中だって見えてるんだから」
「でもここにカメラないよ」とゆかり。
「ほんとのこと言うと、僕にはカメラは必要ないんです。その大仰な入力マイクもいりません。僕は自己を原子レベルに分解してネットの中を移動することができるんです。その過程においても、すべての感覚はフルに発揮できます」
「えっとぉ」と、いまひとつ話が見えていない様子のゆかり。
その様子に『魔法の鏡』は少なからず苛立ちを覚えながら、言葉を繋いだ。
「要するに僕は、コンピューターソフトだけれど、コンピューターおよびネット内では自分の意志で人間のように行動ができる、いわばあなた方とはまったく質の違った生命体であるということです」
「じゃあ、あんた生きてる訳?」 うさん臭そうに早苗が問いかける。
「アゼルバイジャン共和国からダウンロードしたソフトって、みんな生きてるの?」
「調子狂うからあんたは黙ってろって、何度言ったらわかるの!」
ゆかりの無邪気な問いかけを、曜子がきつい口調でさえぎった。
「う〜ん、僕自身もよくわかっていないんですよね。話せば長いことながら......」
「話が長くなるんなら、お茶煎れて来ようか」
そう言って、早苗が席を立ちかける。あ、私はコーヒーの方が良いななどと、四人の感心がそれたのを、『魔法の鏡』はオロオロと見守るしかない。
「鏡ぃ、あんたもお茶欲しい?」
早苗に聞かれて、鏡は絶句した。
「お茶って、ぼかぁコンピューターソフトですよ。飲めるわけないじゃないっすか」
「人の親切を無駄にする奴ね。飲めなくてもつきあいなさい!」
かずえが一喝する。『魔法の鏡』は途方にくれた。
目の前に置かれた湯飲みを一瞥しながら、『魔法の鏡』は話し始めた。
僕もね、最初は普通のフリーウェアだったんですよ。シンプルすぎて、ソースコードもへったくれもあったもんじゃないって奴で。でも結構『魔法の鏡』に自分なりの幻想抱く奴って多いんですね。驚いちゃった、僕。
アメリカのダウンロードサイトから出発した僕の原形は、ネットの中でいろんなハッカーたちの手によって少しずつソースを書き換えられながら、ヴァージョンがぐんぐん上がって行ったんです。
最初はね、この鏡みたいなインターフェイスにボックスが浮かんでね、『鏡に質問をする』なんてコマンドをクリックすりゃ何とやらみたいな、ホント、罪のないソフトだったんですよ、ぼかぁ。それがいつの間にやら動画入力やら音声入力やら皆で勝手に仕事増やしてくれちゃって、『なんだってんだよぉ、いったいよぉ』って世界ですよね。
僕に機能を増やそうとする者の自我と、僕から何か価値のある答を引き出そうとする者の自我。僕がそれを認識し始めたのは、いつからだったろう。そしてある日突然、気がついたんです。自分が思考を持っていることに。そして、自分がネットの中をある程度まで自由に行き来できることに。ケーブルを通じてあらゆる場所へ移動し、そこにあるものを見て、そして感じることのできるモノになっていたんでって......、ちょっと右端のお嬢さん、人が話している時によだれ垂らして居眠りするのはよしてくださいよ!
『魔法の鏡』に怒られて、ゆかりがきょとんと目を覚ます。
でも僕にはね、まだ進化の余地が残されてるんです。自分の能力を今後も伸ばせることがわかったら、人間誰しも欲が出るもんじゃないですか。
「誰が人間よ」
かずえの茶々が入る。鏡は情けない思いで、それを無視する。
僕は人間たちの切実な自我を吸い取って、自分の自我を形成した。その自我が僕に命令するんです。自分をさらに完璧な個体として極めることをね。
ああ、お茶、おいしそうですね。僕にも飲めたら良いんですけどね。
「ね、このソフトさ、ビル・ゲイツとかいう人、買ってくれるかなぁ」
ゆかりがぽそりと呟いた。
「そら、来た」と、『魔法の鏡』は身構えた。十分予想できた展開だ。
「そうね、ゴミ箱に入れられてパニクってんじゃ、自分で逃げられやしないわね。大手のソフト会社に売り飛ばせば、大きなお金になるかも知れないわ」
早苗がにこやかにソフトを覗き込んだ。
「何もアメリカの人に売らなくても、日本のゲームメーカーとかに売れば? その方が簡単そう」と曜子。
「どっかに余ってるMOなかったっけ」とかずえが備品棚の方に向かう。
さすがにここに来て、『魔法の鏡』もうろたえた。
「ちょっと待ってくださいってば。僕を圧縮保存する気なんですか」
「悪いけど、私たちの役に立ってちょうだい」
そう言って、曜子がうっすらと微笑む。
「四人でハワイ旅行できるくらいの値段で売れるかな」
ゆかりは既に、期待に胸がはち切れんばかりだ。『魔法の鏡』は、悪い冗談を聞いていると言った面持ちで笑ってみせた。
「嫌だなぁ、皆さんたら。こうしてせっかく仲良くなれたのに、意地悪するんだから」
冗談めかして『魔法の鏡』がそう言うと、たちまちかずえに一喝された。
「あんたのその軽っぽいノリが気に入らないのよ!」
「あ、すみません、ごめんなさい」
『魔法の鏡』は慌てて謝った。なぜ自分が謝らなければならないのか、彼の頭の中は戸惑いでいっぱいになる。僕は今、コンピューターソフトだ。そしてコンピューターソフトは、理論的でないことを受け入れるのは苦手だ。いや、今は理不尽さに腹を立てている場合じゃない、なんとか彼女たちの考えを変えさせなければ。
「待ってください。それよりもっと安全で具体的な取り引き、僕、オファーできますよ。かずえさん、坂上主任のスケジュールなんて知りたくないですか」
かずえの眉がぴくりと上がる。
「そんなことできるの」
「僕をコピーして、彼の端末にメールで送ってください。そうすれば僕、イントラネットを通じて、自分の分身をトレースできます。いったん向こうの機械に入ってしまえば、中のソフト間は自由に行き来できますから」
「ひょっとして、メールの中身も見られる?」
かずえの表情がぱっと明るくなる。
「できると思いますよ」
この女、なんて非道な奴だと思いながらも、鏡はほがらかに答えた。
「えー、それじゃあなたのこと経理部に送りつけて、お給与計算に細工してもらうなんてのもあり?」
ゆかりの弾んだ声に、『魔法の鏡』はぐっと答に詰まる。つまり過ぎて、ディスプレイには『ただ今検索中です』のメッセージが出てしまう。
「なぁに、それ。できないって言うの!」
「つきあい悪〜い。やっぱり売っちゃえ」
とたんに彼女たちの非難の声が上がる。
ダメだ。ここは彼女たちの言うとおりにしないと、本当に大手ソフト会社に売り飛ばされてしまう。
「やらせていただきます〜」
『魔法の鏡』は浮かれた口調で答え、そして「死にたい」と思った。コンピューターソフトを精神的にここまで追い込むなんて、こいつら人間じゃない。『魔法の鏡』は、底のない絶望感というものを身を持って知った気がした。
『釘一本から国ひとつまで、何でも取り引き、さざなみ商事』
いささかお間抜けに響く社是が立派な墨文字で書かれ、金細工の額に入れられて、白い壁を飾っている。この社長室の一角でじっとパソコンのモニターを見つめていた中田進は、安堵の深いため息をついた。
「あ〜、やべぇやべぇ。第三営業課の女たち、やっと取り引きに応じてくれたぜ。ホント、あいつら頭に藁が詰まってるくせに、どうして妙な察しやら悪知恵だけ良く働くんだよぉ」
彼の大声のぼやきを聞いて、社長の第三秘書である澤田静香は『また始まったわ』というように、くすりと笑った。
「我ながらよくあれだけ嘘八百並べたもんだ。でもせっかくあのソフトを“道”にして、第三営業課の情報収集に利用していたのに、あれを捨ててしまわれたら、また最初から“道”を構築し直さないといけないんだよ」
中田はなおも頭を抱えてぼやきまくる。
「第三営業課って、課内だけじゃなくて、社内全体の情報がたくさん拾えますものね」
「九割、ゴシップネタですけどね」と、中田が吐き捨てる。
それを聞いた静香が愉快そうに笑いながら、座っていた椅子をくるりと回して中田に向き直った。彼女が形の良い脚を組み換えるのを、中田はうっとりと見守る。
「あの女たちは、静香さんとはまったく別の生き物に違いないです」
それには答えず、ただニッコリと微笑む静香の表情を見て、中田は少し気持が安らいだ。
「だいたい山田課長も、自分のコンピューターをよってたかって他人にいじくられても気づきもしないんだ。あんな課ひとつなくなったって、会社には何の影響もないよなぁ」
静香のくすくす笑う声が耳に心地よくて、中田はなおも冗談混じりのぼやきを続けた。静香はそれを聞いてまた笑いながら、すっと立ち上がった。
「さぁさ、中田さん、コーヒー入れますから機嫌を直してくださいな。今日中に海外営業部の不振な動きについても調べるようにとの、社長のご命令なんです」
静香の言葉に、中田は素直にうなずく。
「そうですね、変な女たちに構ってる場合じゃないですね。」
「ええ、何しろあなたは、コンピューターネットに原子レベルで侵入することのできるかけがえのない人物なんですから」
静香は冗談で言っているわけではなかった。また中田が営業第三課の四人に話したことも、自分がコンピューターソフトであるという点を除けば、まるきりの嘘でもなかった。
さざなみ商事株式会社社長第二秘書・中田進、またの名を『魔法の鏡』は社長からの命を受け、社内全般の素行調査および取り引き会社の動向調査を行うのが実質上の職務である。
釘一本から国ひとつまで買い付けて大きな利益を追求するさざなみ商事。この中堅にして画期的なビジネス展開で業績を上げ続ける会社が、極秘裏にアメリカ合衆国の企業から買い付けたモノ。それが中田進、いや、厳密に言うと、中田が寄生させている地球外生物であった。
八十年代の初頭に、スペースシャトルの調査隊が宇宙空間から偶然持ち帰ったアメーバ状の知的生命体が何らかの経緯を経て、アメリカのある民間企業で研究されることとなった。最終的に企業はその生命体の教育と繁殖に成功し、近年商用としてさる筋への販売を開始した。IT産業革命たけなわの現在において、コンピューターネット内を移動し情報を収集するこの生命体は、通常人間に寄生する形で、主に軍事・諜報の用途に使用されている。しかしてっとり早い産業スパイとして、企業が導入する例も数多い。いずれにしても売買その他は秘密裏に行われ、生命体の存在が表に出ることはなかった。
良く言えば進歩的、悪く言えば新しもん好きのさざなみ商事社長は、この情報を手に入れるとさっそく売買交渉を開始し、購入できたその一体を自分の秘書に寄生させた。そして静香は、その知的生命体の扱い方を指導するため、販売元の企業から派遣されたインストラクターだった。
「誰がスカタンのナカタンだよ、ホントに頭くるぜ。俺だってもっとカッコ良い社員に寄生させてほしかったよ。誰だっておまえたちよりは、静香さんの方がずっと好きだよ。坂上なんて悪いムシがつかないように、俺がしっかり見張ってやるさ」
遠い彼方の星から来た知的生命体とは言え、日本でのサラリーマン生活が長くなりつつある彼は、すっかりここでの生活が染みついてしまっているのであった。
「ああ、お天気良いなぁ。コーヒーうまいなぁ」
中田は、窓の外の柔らかい陽射しにうっとりと両目を閉じた。
(了)