夜桜とエチュード

庵 之雲

 ピアノを弾く。白と黒のキーの上で私の指が踊る。ショパンエチュードop10−1。不意に音がとぎれる。指が。鍵盤に叩きつけようとして、溜め息ひとつ。ピアノに両腕を乗せ、横向きに顔を伏せた。窓からライトアップされた桜が見える。それは痛ましく、造り物めいて、散る花びらもまるでセルロイドのよう。
 6月。ジューンブライド。私は彼とあの紙吹雪を浴びるのだ。でも、それでいいの?…私は、本当に…。

 …いけない、寝てしまったようだ、コンクールは6日後なのに。コーヒー、切らしてたかしら。不意に何かが聴覚を刺激する。これは…ショパン? 外からだ。恐る恐るドアの覗きに目を当てた。
 最初は何が映っているのか判らなかった。ダイヤの形に切り取られ、廻る世界は万華鏡。やがてそれは鍵盤であると知れた。合わせ鏡に指は舞い、完璧なアルペジオを紡ぎだす。私がいつもつまずく部分を難なくクリアし、エチュードは終わりを迎えた。降りそそぐピンクの花弁、震える指にリングが光る。その時、私は愕然とした。あれは、彼から贈られたリング−−私の指だ。震える両手を私は、ゆっくりと持ち上げる。そしてピアノ、叩きつけるような不協和音!

 1月後、婚約は破談になった。私はそれから、ピアノを弾いてない。

(了)


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