丸い小さな空が真っ青で、井戸の底にも春がひたひたと満ちている。井戸男はすこぶるご機嫌だ。鼻歌まじりで水面を探り、木札をひとつ取ると墨痕ゆたかに句を綴る。
はるのそらわたしをほしてみたくなる
そしてまた木札を浮かべる。墨が流れてしまう、という事を彼はいつも忘れてしまう。
壁面には暗緑色の苔が密生している。可憐なベティの黄いろの花弁、またたく光は珠の露。高みに咲くその花を彼はベティと呼ぶのだ。その下方に蝸牛が一匹。
したたれるつゆまちがおのかたつむり
とつぜん壁掛け電話が鳴り、ベル音が轟々と渦を巻く。彼は聞こえないふりで、だが内心どきどきして。二十回きっかりでベルは止む。彼はほっと空を仰ぎ−−そして人が降ってくる。いちめんの飛沫、激しく揺れる水面。若い女だ。髪は濡れて蒼くひかり、金のサークレットは朱く染まって、そしてその美しき頬。水中で白のドレスがゆらゆら揺れる。木札を掴むと井戸男は一句。
あかときんのいのちちらずばよまれまい
女は微笑ったように見えた。沈んでいく。彼は素早く「じあまり」と書き足すと女の手にその木札を握らせる。やがて女は見えなくなり、そして女もいま詠んだ句も彼の記憶から消えた。…井戸男はとってもご機嫌だ。
(了)