育む

たなかなつみ

 彼女は男に唇で触れたことがない。彼女の口には,触れるものを吸い込む呪いがかけられている。だから彼女は誰とも唇を合わせない。男には,触れない。
 彼女は恋をした。彼女は男に触れたいと思った。ある日,彼女は男の求めるまま,彼の唇に自分の唇を預け,目を閉じた。つながる感触。その途端,彼女は男を吸引した。
 それ以来,彼女の目は閉ざされた。彼女の瞳の裏では彼が絶え間なくノックを続けている。だから彼女は絶対に目を開かない。彼女の瞼は,彼を世界から遮っている。
 ある日,彼女は彼の執拗な願いに耐えきれず,目を開いた。彼女は彼が遠くへと飛び立つのを臆病に待った。けれども彼は出られなかった。そのかわり,彼女の瞳に映った世界がそのうえに吸引された。彼は世界とともにさらに彼女の奥へと落ちていった。彼女は哀しくて泣いた。その涙さえも,彼女の中に取り込まれた。彼女は独り,すべてを自分のなかに育みながら泣いている。

(了)


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