第四章 要塞


 ケマール川は、アルラス山脈に源を発して大陸の東の平野を横断する大河である。レンドー城の付近では川幅が広いところで約二百メートル、水深はそれ程深く無い。地元の漁師の話によれば五メートルから、深い所でも二十メートルといったところだろうか。もちろんここでは馬で川を渡る事はできないので、物資は橋や船によって運ばれている。かつてこの川までソンタール軍が攻め寄せた事が無いため、川に沿っていくつか架けられた橋は丈夫な石造りになっていた。しかしこれが今回カインザー側の悩みの種となった、西の将の来襲までにかろうじて、レンドー城付近の三つの橋は落としたが、上流と下流にそれぞれ二十キロメートル程行った所に橋が残った。当面この二つの橋を守れば良いというのが、ベーレンス伯爵以下カインザーの諸将の意見だった。
 すでにマコーキン軍の進路がレンドー城と見極められた時点で、ブルック城のバイルン子爵指揮の兵五万がレンドー城に向かって発進している。その到着までの一週間が勝負になるだろう。クライバー男爵が残していった三万の遊撃隊が下流の橋に、巨大な葦毛の軍馬にまたがったベーレンス伯爵の五万の大軍が上流の橋に配置された。オルドン王自身は二万の兵と共にレンドー城に残り、連日はるか対岸に黒い旗をなびかせながらひたひたと押し寄せるマコーキンの軍を、城の上階の作戦指令室のテラスからにらんでいた。
 戦機は熟しつつある。カインザーのオルドン王は今日も早朝から各部隊を率いる将校達を集めて兵の配置や敵の情勢の確認に余念が無かった。太陽が地平線の上、人の視線のやや上くらいにまで昇って、これから気温が上がろうという時刻に、その作戦室に前線からの伝令が入ってきた。
「申し上げます。敵の第一軍の中から、バルツコワ将軍の長槍部隊が上流の橋に向かいました」
 レンドー城付近の地図を広げた円卓から顔を上げたオルドン王は、じっとしていられないといった様子で手を振って先をうながした。伝令はハキハキとした声で続けた。
「マコーキンの参謀バーンの軍は、この城の正面、川のすぐそばに布陣いたしました。その後方に西の将の本隊が展開いたしております」
 オルドンの周りをかためていた将校たちが不信がって聞いた。
「西の将は上流や下流に向かう気配は無いのか」
「ありません。キアニス将軍の第三軍もはるか後方で、占領した町々の維持に努めているようです」
 その報告を聞いてオルドン王は怒りの形相を見せた。
「正面か。マコーキンめは、このオルドンの目の前で川を渡るつもりなのか。カインザー王をそこまで見くびるのか」
 将校達はそのあまりの剣幕の凄まじさに、たじろいで声がかけられなかった。そこに、カインザー軍の重鎮ベーレンス伯爵が、ガチャガチャという鎧の音をたてて緑のマントをひるがえしながら入ってきた。すでに銀の鎧と銀の小手をがっしりした身に付けて武装を済ませている。伯爵は古い戦友に対しての言葉遣いでオルドンに言った。
「オルドン、どうやらバルツコワの小僧が私の相手と決まったようだ。いささか相手不足だが、わしももう歳なのでちょっとは苦戦するかもしれん。とにかく、しばらくはこの城に戻ってくる事は出来なくなる。約束してくれ、よもやとは思うのだが、もしマコーキンがケマール川を渡って攻めて来ても、この城にて迎え撃つと」
 オルドン王は、厳しい目でベーレンス伯爵を見つめた。ベーレンスは続けた。
「マコーキンに雪辱したい気持ちはわかる。しかしこの作戦は元々、セルダン王子とマルヴェスター達を西の将の要塞に潜入させるための陽動作戦だ。総力をあげた決戦はその後でいい。城にこもって、バイルンの軍の到着を待つんだ、そうすれば数でマコーキンを圧倒できる。敵もいったん引き上げるだろう」
 オルドンは怒ったように言った。
「しかしすでにクライの町の半分が焼失した。敵はそのままマイスター城方面に向かっているらしい。わしらの古い親友、マイラス・クライバーまで戦死しているのだぞ。もはや引く事は出来ない、全面戦闘に入る時だ」
「マイラスは私の親友でもあった。しかしそのマイラスの死を無駄にしてはいけない。あのゾックの襲撃で今回の相手の真剣さがわかったはずだ。セルダン王子が剣を取り戻して戦線に加わるまで、お主がまぎれもなくこの国の王であり柱なのだよ。軽率な行動はいかん」
 ベーレンスはあくまで落ち着いた声でオルドン王をなだめるように説明した。そしてきびすを返すと、扉に向かって歩きかけた。
「それでは行ってくるぞ」
 オルドン王はそれでも腕を組んで黙っている。古い戦友は微笑みかけた。
「送る言葉はかけてくれないのかね」
 オルドンは仕方がないといった感じで大きく手を広げ、旧友の大きな体に腕をまわして笑いながら言った。
「安心して行ってこいベーレンス。バルツコワの小僧はどう料理してもかまわん。マコーキンの始末はおまえが帰ってきてからゆっくりとつけてやる」
 それを聞いたベーレンス伯爵も笑って手を振り、まわりの将校達にもいくつか声をかけて指示をした後、作戦室を出て行った。オルドン王は旧友の足音が遠ざかるのを複雑な表情で聞いていた。
 カインザー軍は、もちろん川岸にも布陣している。レンドー城に最も近い石橋を壊した地点が川底に足場となる堆積物が多いため、敵が橋をかけるならこの地点と思われていた。そのためカインザーの弓兵と大弓部隊はここを中心に展開して、敵が渡河作戦を始めたら狙い撃ちにしようと待ち構えていた。カインザー兵達はぬかりなく敵陣に目をくばっていたが、敵はベーレンス伯爵が出撃したその日に、思いがけないものを打ち込んできたのだった。
 昼時、食事をはじめようとしたカインザー兵達の目の前で、対岸のバーンの部隊の陣地から突然長さが七、八メートルもある巨大な木の杭が高々と打ち上げられてケマール川の水面に打ち込まれた。飛距離は対岸のカインザー陣までは届かないが、巨大な木の杭は川底にしっかりと突き刺さった。
 カインザー軍は、これに大弓で応戦してみたが、敵が河原にまで出てこないのでまるで届かず、不信に思っているうちに、第二、第三の杭が次々と川に打ち込まれていった。日が暮れる頃になると川に刺さった杭の不規則な線が出来ていたが、これが何のためのものかカインザーの将校達には全くわからなかった。
 また同日、川の五百メートル程上流に、正面に平らな板が並べて打ち付けられた二十メートル程の高さの、奇妙な形のやぐらが無数に出現しているのが報告されたが、この目的も不明だった。わかったのは、マコーキン軍は行軍の最中に、この杭と、杭を打ち上げる機械とそのやぐらを作っていたらしいという事くらいだった。
 翌朝、川に打ち込まれた木の杭を確認したカインザーの兵士達は、その数が減っている事に気が付いた、不規則な並びの中心線から大きく外れている部分に刺さった杭がいつのまにか無くなっていたのだ。二日目も杭はマコーキン軍から打ち上げられ、さらに翌日の朝には杭の並びが整えられるように数が調整されていた。ここにきてカインザー側はマコーキンが架橋の手がかりをつくっているのだと確信した。だが余分な杭がどうやって抜かれたのかまではわからなかった。川底にまで付き刺さった杭を抜くために、カインザー側から小舟に乗って少数の隊が出撃してみたが、マコーキン軍の大弓の集中射撃にあって大被害を受けて退却した。
 杭の打ち上げがはじまって四日目の未明、河原に布陣していたカインザー軍の中で、少数のグループで野営していた隊が三隊、いつのまにか全滅しているのが発見された。その無残な現場を見た者は、それがとかげ兵ブールの仕業に間違いないと証言した。その前夜、川面に浮かぶあやしい影が目撃されたと報告されるに至って、とかげ兵ブールの部隊がマコーキン軍におり、しかも水中活動が可能である事がカインザー全軍に知れ渡った。さすがのカインザー戦士達も、深夜に川から襲撃してくるブールの姿を想像して戦慄に身を震わせた。
 その日、マコーキン軍からの杭の打ち上げは無かったが、かわりに投石器と火砲による猛攻撃が対岸のカインザー軍に向かって仕掛けられた。バーンが工夫をこらして開発した飛び道具の飛距離は驚異的であり、後手を踏んだカインザー軍は大被害を出して河原から後退した。敵と直接剣を交えれば、無敵のカインザー戦士軍団も、飛び道具と巧妙に組み立てられたソンタール軍の作戦にいつのまにか翻弄されはじめていた。
 その夜、西の将の参謀バーンの指揮のもと、闇にまぎれて上流に建てられたやぐらがケマール川の水面に横倒しにされ、次々に下流に向けて流された。西の将の要塞第四位の魔法使いキゾーニ自らが水中に潜って指揮するブール部隊は、やぐらをうまく操作して川幅いっぱいに展開し、平らな板を張った部分を上に向けて流していった。やがてやぐらは打ち込まれた杭の地点で止まり、横に並んで橋になった。ブール部隊は水中でやぐらを杭に固定し、下に散乱している石橋のざんがいでさらに土台を固めた。その急ごしらえの橋の上を工兵部隊があっという間に渡って行って各やぐらを繋ぎ、さらに補強の板を打ち付けた。
 馬が渡れるほどまでに橋が完成した頃、わざわざ橋から離れた地点に上陸した別のブール部隊がカインザー軍の野営地を襲撃して、カインザー側の気をそらせた。そしてその間にバーン自ら率いる一隊が橋を渡ってケマール川を越え、橋のカインザー側に防衛陣地の構築を開始した。それに気が付いたカインザー軍は反撃をしようとしたが、深夜の不意打ちに命令の統一が取れなかった。バーンはレンドー城の対岸の川沿いに配置していた投石器部隊と砲兵隊に、一斉に砲陣を張らせてカインザー側の混乱に拍車をかけた。そしてマコーキン率いる本体が橋を渡って上陸するに至って、ついにカインザーの防衛軍は崩壊して退却した。こうして朝もやが晴れる頃、まるで魔法でも使ったかのように西の将マコーキンはケマール川を渡ってカインザー側の岸に立っていた。
 渡河作戦で兵達がごったがえす中、マコーキンは一人ポツンと馬の背にまたがっていた。その心には、史上初めてケマール川を渡った西の将であるという感慨より、ようやく敵に手が届く所までやってきたという現実的な感想しかなかった。その証拠に、この後マコーキンは驚異的なスピードで戦闘を展開することになる。

 その頃、ベーレンス伯爵の軍はレンドー城から上流に二十キロメートル程行った所にある橋を堅持していた。西の将の突撃隊、バルツコワ将軍の率いる二万の騎兵は何度かその長い槍を構えて強行突破を試みたが、その都度撃退されている。橋の幅が狭いため、密集の突撃体勢が取れない事がバルツコワを悩ませていた。時には、ようやく橋を渡り切った後に、取り囲まれて全滅する部隊もあった。あきらかにベーレンスの作戦である。老獪で、地理を知り尽くしたベーレンスは積極的に攻める様子はいっさい見せず、陣を厚く構え策をめぐらして持久戦に持ち込もうとしていた。
 出撃してから五日目、ベーレンスは対岸で荒れ狂いながら部下に当たり散らしている、派手な鷲の羽飾りの兜と赤い鎧のバルツコワ将軍を面白そうに眺めていた。
「赤い熊が踊っているようだ」
 長年の戦役を通じてベーレンスは戦上手で通っている。もちろん猛き心はカインザーのどの将軍にも負けないつもりだったが、プライドが高く闘志に溢れたオルドン王や、クライで戦死した猛将マイラス・クライバーのそばで戦い続ける機会が多かったため、いつしかベーレンス自身はバランスを取るように慎重な作戦を展開するようになっていた。そのためいつも王と意見が食い違いながらも、すでに前線から退いたランバン公爵を除けば、九諸侯の中で最もオルドン王の信頼の厚い将軍と言われている。
 川岸に立って敵陣を眺めていたベーレンス伯爵のもとに伝令が駆け込んできた。
「一大事です。西の将が川を渡りました」
 この伝令の言葉にベーレンスを取り囲んでいた将校達が愕然として顔色を変えた。しかしベーレンスは冷静さを失う事無く伝令に問い返した。
「どの程度の数がどの地点から渡ったのだ」
「レンドー城のほぼ正面にあたる地点からです。マコーキン自ら率いる騎兵一万がすでに渡河を完了。まわりにはバーンの指揮するおよそ五千の兵が緊急の陣地をすでに設営しており、今日中に残り五万あまりの歩兵が渡河を完了するでしょう」
「オルドン王はどうしている」
「最初の防衛線を破られた時点で、城に兵を引きました」
 ベーレンスはホッと息をついた。
「それで良い。ここの守りはそう人数がいらない。我らは、オルドン王と挟み込む形でマコーキン軍を攻めればよい」
 ベーレンス伯爵は将校達に的確な指示を与えると、橋の守備に一万の兵を残し、残りの四万の兵の陣をマコーキンに向けて移動しはじめた。

 渡河した兵士から順に朝食を取るように命じたマコーキンは、黒鹿毛の馬にまたがって森のかなたの丘の上にそびえるレンドー城を眺めていた。カインザーのオルドン王がろう城の構えを見せたのは全くの予想外だった。城とそのまわりの陣地に兵約二万。下流の橋を守っていた三万が今日中に合流すればその数は五万。上流のベーレンス伯爵の軍五万をあわせれば、十分に有利な戦闘が出来るはずなのに。
 前線を守備する参謀バーンが、馬で駈け寄ってきた。
「カインザーの鋼鉄王もようやく頭を使いだしましたね。あと二日で、下流からブルック城のバイルン子爵指揮の兵五万が到着します。私が率いている歩兵はほとんどが工兵や輸送部隊ですから、こちら側で正味戦闘が出来る人数は閣下の兵六万と、私の弓兵と投石器部隊と砲兵部隊をあわせた五千。これではカインザーの戦士達にかないません。上流のバルツコワの二万を呼び戻しましょう。半日もかからずに来るはずです」
 マコーキンは涼しい顔でバーンを見やった。
「オルドンが出てこないなら簡単な事ではないか。全軍をもってベーレンスを討つ。ベーレンス軍が動揺すればバルツコワが背後から川を渡って挟み撃ちにできる。オルドン王の片腕を叩き落としてしまおう」
 バーンはこの大胆な作戦に難色を示した。
「カインザー王に背を向けて戦うのですか」
「おまえの築いた陣地と弓兵隊で、防げるだけ防いでくれ。こっちは今日一日でケリを付ける」
「それは危ない賭けです。もし私の陣が崩されたら、逆に閣下が挟み撃ちにあいます。せめて歩兵四万すべての渡河が終わってからにしてはいかがでしょう」
「ベーレンスは、今、陣を替えている。この機を逃せばあの老獪な将軍はなかなか討てるものではない。歩兵は、おまえが指揮してオルドンへのおさえにしてくれ」
 マコーキンはそう言うと、腰の名剣バゼッツ・アランをすらりと引き抜いた。そしてレンドー城に向けて突き刺すように振り上げると、その切っ先を転じて川上に向けた。その指揮を受けてマコーキン配下の将校達は各部隊に一斉に進軍の合図をした。西の将の重騎馬軍団は、黒い戦旗をたなびかせ、密集体系をつくりながらベーレンス伯爵が陣替えを行っている方向に向けて進撃していった。

 オルドン王は、レンドー城の作戦室のテラスで、黒地に銀の竜をあしらったマコーキンの将旗が川上に向けて移動を開始するのを見た。 王は手すりを激しく叩いて吐き出すように言った。
「うぬ、マコーキンめ。ベーレンスを討つつもりか。よし、出撃するぞ」
 この言葉を予期していたかのように、側に控えていた将校が答えた。
「下流の橋を守っていた兵三万がまだ合流していません。城の手勢だけでは不利です」
 しかしオルドン王は耳を貸さなかった。
「マコーキンがこの私に背を向けているのだ。時間をかければ、こしゃくなバーンがまた面倒な陣地を築くだろう。一気にバーンの軍を蹴散らしてマコーキンを襲うのだ」
 深い青色の鎧とマントに身を包んだオルドンは、失ったカンゼルの剣の代わりに腰にたばさんだ大剣をさすりながら、彼方のマコーキン軍目がけて心の中で叫んだ。
(見ておれマコーキン。一気に決着をつけてやる)
 王の出撃の一声のもと、城中の鳴り物が鳴らされ、馬が引きだされ、戦士達は鎧に身を固めた。このあたりの手際はさすがに小気味よい。程なくレンドー城の城門が開かれ、青の王旗がたなびいて鋼鉄王オルドン自らが先頭に立つカインザー戦士団が現れた。城の守備兵二万のほとんどがその後に従っている。王の掛け声と共に、地鳴りを上げて青の軍団はバーンが張り巡らす陣地に向けて出撃していった。

 大軍を擁したベーレンス伯爵とマコーキンの軍の間は二十キロメートルしか無い。すでにベーレンスの陣の最も下流に配されていた部隊がマコーキン軍に蹂躙されつつあった。橋の向こう側に陣取るバルツコワ軍から、同じ岸の下流にいる西の将に向けて陣をぐるりと回そうとした、その最も弱い側面をマコーキンに突き刺されたのだ。ベーレンスの陣はケマール川にかかる橋に向かって層を重ねた布陣になっているため、陣替えのための移動にてこずっていた。その横を向いた層と層の間を押し分けるようにマコーキンの二万の重騎馬軍団が、猛攻を仕掛けながら一直線にベーレンスの本陣を目指している。
 さすがのベーレンスもこのマコーキンの襲来の早さに驚いていた。まさか、川を渡ってすぐに、自分のほうに押し寄せてくるとは思っていなかったのだ。いたずらに陣立てに固執しては不利とみたベーレンスは、仕方なく全部隊に一斉に川下へ向けて移動する事を命じた。数で勝っている間に、マコーキン軍を包み込んで押しつぶしてしまおうという作戦だ。しかしそうする事によって、いままで守備してきた橋の守備隊と、ベーレンスの本隊の間にすき間ができてしまう事になった。そしてそのすき間が橋の守備隊に動揺をもたらした。
 歴戦の名将ベーレンスもこの危機にいどんで判断を誤ったと言ってもよいかもしれない。しかしまだわずかにベーレンス軍には地の利があった。川上から川下へ、ケマール川の水を横に眺めながら、その川の流れのように、カインザー軍は倍の数に物を言わせてマコーキン軍に向かって押し寄せていった。

 マコーキン軍が渡河した河原から一キロ程陸に入った所に小さな山がある。参謀バーンは弓兵隊と、先に渡っていた歩兵の合わせて一万の兵士を引き連れて早々にそこに陣を敷いた。見下ろすと橋をわたって続々とソンタール軍の歩兵が渡ってきつつある。その兵達には川岸に沿ってバーンのこもる山と対置するように陣を敷くように命じた。二つの陣の間に数百メートルの幅があいた。そこに工兵隊がつくった柵や溝が何段にも渡ってもうけられている。
 さすがのバーンもこんな仕掛けでオルドン王を食い止めることができるとはおもっていない。しかし、歩兵だけでは、とてもオルドン王の騎馬軍団と正面から戦うのは無理である。先の戦いを考えた時、ここで兵を無駄に失ってはならない。要は時間稼ぎだ。オルドン軍には中央を突破させてしまうしかない。ただし、柵や溝ですこしでも足が鈍った所に両脇から攻撃を仕掛けて出来る限り敵兵を減らす。あとは、バルツコワが川を渡って、ベールンス軍を打ち崩し、西の将に合流してくれるのを願うばかりだ。そうなったら逆にオルドンを挟み撃ちにしてしまえばいい。これはカインザー王の命を奪う千載一遇の好機かもしれない。

 レンドー城から二十キロ程川を遡った川岸のソンタール側。川にかかる石橋のたもとに、バルツコワ将軍が率いるマコーキン軍の突撃部隊が滞陣している。勇猛を誇るバルツコワ軍も、何度か試みた橋の突破作戦は、すべてベーレンス伯爵の重厚な陣立てに跳ね返されていた。しかし、マコーキン軍渡河成功の知らせが両軍に流れてから、その風向きが変わってきた。
 百九十センチメートルはあろうかという巨漢の将軍は、色白のため行軍で赤く日焼けしてしまった顔を隠すように、鷲の羽飾りの兜を目深にかぶって対岸を見つめていた。川向こうのベーレンス軍の旗が明らかに減っている。そして陣全体が動揺している様が対岸から感じ取る事ができた。マコーキン軍がベーレンス軍に戦闘を仕掛けたことはまだ知らなかったが、おそらく背面から何らかの攻撃を受けているに違いない。そう判断したバルツコワは自ら長槍をたずさえて橋に向かった。あわてて脇に控える部下達が引き止めようと声をかけた。
「将軍。先頭にお立ちになるのは危険です」
 バルツコワはそう言った部下に感情を押し殺した乾いた声で聞いた。
「俺は誰だ」
 部下は、一瞬とまどったが、すぐにハキとした声で答えた。
「バルツコワ将軍閣下です」
「ふむ。それで、俺が手に持っているのは何だ」
「バルツコワ様が先祖代々受け継がれ、戦場で幾多の敵を打ち破ってこられた槍です」
「それがわかっているのならば、黙って俺に付いてこい」
 そう言うと、橋の入り口に堂々と馬をすすめた。将軍を討たせじとして、配下の諸将もそれに並んだ。猛将バルツコワ将軍とその一軍は、槍を頭上高くふりかざして高々と雄たけびをあげると、馬のわき腹を蹴って、動揺を見せ始めているベーレンス軍の守備隊目がけて突進していった。

 川下からベーレンス軍に攻め入ったマコーキンは、徐々に抵抗が強まるのを感じていた。敵は兵数でマコーキン軍の倍である。しかも戦闘のために生まれたカインザー人だ。最初の突撃であまりに深くベーレンス軍の中に入り込んだため、マコーキン軍には取れる進路が一つしか残っていなかった。すなわち前である。前に進んで、どうしてもベーレンスその人を討たなければ、このまま囲まれて押しつぶされてしまうだろう。
 マコーキンはバゼッツ・アランを振り立てて叫んだ。
「進め、敵は前だ。前しか見るな、突き進め」
 太陽がようやく中天に昇った。真昼の炎熱のもと、名門ベーレンス家のカインザー戦士と、マコーキンの精鋭部隊の死に物狂いの白兵戦が開始された。兵達の剣は血に染まり、馬はいななき倒れ、剣を失った兵達は組みあい、殴り合った。マコーキン軍は、ソンタール内で唯一カインザー戦士と互角以上に渡り合える事を見事に証明していったが、数の差に物を言わせたベーレンス軍は徐々にマコ−キン軍をおし包んでいった。

 レンドー城から出撃したオルドン王は、前方のバーンの陣を見て小馬鹿にしたように鼻で笑った。西の将の参謀はやはりこの私と正面切って戦う程の力も勇気も無い。正面中央に軽い障害物を残して、前方の進路の両側に延々と続く敵兵の壁は、むしろ面白い景色でしかなかった。こんな戦い方をオルドンは聞いたことも考えた事も無い。だから、それに応じた対応もしなかった。
 青い鎧の鋼鉄王の率いる軍は。柵を蹴散らし、溝を飛び越え、巧みに馬をあやつって、全くバランスを崩すことなく、スピードを落とす事もなく、バーンが配置した陣の中を駆け抜けて行った。時々、大きな障害物にあたった時には迂回するが、そこに立ちふさがるバーン軍の歩兵はあっという間にカインザー戦士の血祭りにあげられた。カインザーの騎兵とソンタールの歩兵には戦闘力の差がありすぎた。
 バーンは彼方からオルドン王の軍勢が見えたとき、さすがに戦慄が背中に走った。カインザーの王である。ソンタールにとって最強の敵だ。その軍が自分の構築した陣に突入してくる。その戦闘はまるで別の世界の出来事のようにバーンの目の前で展開した。結果は無残なものだった。バーンはこの狂戦士のような軍への抵抗を早々と放棄したくなってきた。なんと見事な軍だ。とても止められるものではない。しかしこのまま通してしまっては西の将マコーキンが危ない。
 こうなっては味方の兵の損害等を考えている場合では無くなってきた。弓兵と長槍の部隊はすでにフル回転している。徹底的に側面から攻撃し、敵兵を一兵でも多く減らすことに専念しているのだ。いままで、積極的にかかわらないように指示していた歩兵に、バーンはやむなく前進の命令を下した。両側から兵の壁がオルドン軍に迫る。もちろんその損害は極めて大きかった。しかしこの戦闘が少しずつではあったが、オルドン王の軍の数を減らし、スピードを落とさせていった。

 バルツコワの軍はついに橋の守りを突破してカインザー側に渡った。ベーレンスの残していった守備隊は、バルツコワ軍の渡河と共に退却を始め、下流に移動していった本隊への合流をはかった。これが合流してしまえば、下流からベーレンス軍めがけて攻めかけているソンタール軍は数の上で完全に圧倒されてしまうだろう。バルツコワはまさかマコーキンその人が指揮しているとは思っていなかったが、その場の戦況をかなり正確に把握していた。
 しかしバルツコワは、すぐにベーレンス軍の守備隊に追い打ちをかける事はしなかった。この将軍は、決して猪突猛進なだけでは無い。二万の騎兵全部が橋を渡り終わるのを見届けるまで、じっと戦機を待った。そして全軍が渡り終えると、隊列を整備し、その戦力が最も生きる密集体形をつくってベーレンス軍に川上から突撃した。この時点で最も地の利を得、最も傷の少ない部隊が雪崩をうって一気に戦場に切り込んでいったのだ。まだまだ陽は高い。

 ベーレンス伯爵は、前方のマコーキン軍との激しい戦闘に全神経を集中していた。それ程までにマコーキンの精鋭部隊との戦いは激しく、倍の数をもってしてもなかなか押しつぶす事が出来なかった。これはベーレンスのこれまでの経験に反している。ソンタールの兵がかつてこれ程強かった事は無い。やむなく自分の身の回りを守備している本陣の将校達にも出撃を命じようとしたその時に、いつの間にか背後から現れた真っ赤な鎧の軍団が、血が流れるように味方の軍の中に浸透してゆくのが見えた。
 呆気に取られるベーレンスの前で、銀色の鎧のベーレンス家の戦士達は、またたく間に赤い戦士達に刈り倒されて、戦場に散っていった。そして気がつくと、ベーレンスの前に巨大な軍馬に乗った、赤い鎧のバルツコワ将軍が立っていた。ベーレンスはうめいた。橋が破られたのだ、味方は挟み撃ちにあっている。しかしもう手遅れだった。巨漢の将軍が叫んだ。
「バルツコワ見参。ベーレンス伯爵とお見受けした。いざ尋常に勝負されたい」
 そう言うと、バルツコワは長い槍を持ってベーレンスに突撃してきた。ベーレンスも槍を取って、これに向かっていった。巨大な馬と馬がぶつかりあうようにすれ違い、赤い鎧と銀の鎧の二つの影は駆け抜けた。やがて銀の鎧の胸の所から血が勢い良く噴きだし、歴戦の勇ベーレンス伯爵は馬からもんどりうって地上に落ちた。すこし遅れて緑のマントが静かにその体を覆った。
 バルツコワは槍をかかげて敬礼し、戦場に鳴り響く大声でベーレンス伯爵の戦死を告げた。それを境にベーレンス軍は崩壊した。大将を失った軍は各部隊ごとに分裂し、各々が必死になってレンドー城への脱出を試みるしかなくなっていた。それにバルツコワの軍が追い打ちをかけて、さらに被害を拡大させた。ようやくバーンの陣を突破したオルドン王もこの流れに飲み込まれた。
(ベーレンスが死んだか。どうやらこの戦闘の決着はついたらしい)
 それに気が付いてなおも踏みとどまる程オルドンも愚かな王ではなかった。青の軍はふたたびバーンの陣を切り裂き、ベーレンス軍の兵のための逃走路をつくった後、しんがりをつとめて奮戦した。この軍に対してはバーンは追い打ちをかけなかった。戦線があまりに混乱しており、また死に物狂いになったオルドン王に逆らう愚を避けたのである。マコーキンはバルツコワと轡を並べて、逃げ遅れたカインザー軍の掃討作戦にはいった。こうして陽が傾きかけた頃、レンドー城をめぐる第一次の戦いは西の将マコーキンの率いるソンタール軍の圧勝で幕を閉じた。

 夕焼けがレンドー城を真っ赤に染め、城の城門には逃げ延びた兵士達が続々と収容されていった。その混乱の中、オルドン王は城に戻ると、真っすぐに作戦指令室への階段を駈け昇った。オルドン軍とベーレンス軍の主立った将校達も、帰還し次第、泥のように疲れ切った体を引きずってそこに集まった。オルドン王はケマ−ル川とレンドー城周辺の地図を食い入るように見つめながら、将校達の報告を聞いた。特にベーレンスの最後に関する報告には詳細を求めた。ベーレンスの遺体はなんとか家臣の者たちが城に運んできていたが、オルドンは旧友の悲しい姿と対面する前にしておかなければならない事があった。
 オルドンは親友を失い、誇りを踏みにじられながらも、冷静に戦闘を分析しようとしている。今日の戦闘において勝つチャンスが間違いなく一度はあった。ベーレンス軍が倍の軍勢でマコーキン軍を囲んだ時に、マコーキンを討ち取ってしまえばよかったのである。だが勝てなかった。その原因を探る事がこの先の戦闘を指揮する上で大切になってくる。
 ベーレンス家の兵は、これまでに輝かしい戦績をあげているが、それらはベーレンスの見事な作戦指揮のもとで行われた戦闘であり、もしかしたら個々の兵士の戦闘能力はあまり鍛えられていなかったのかもしれない。オルドン王はまずそう思った。そしてもう一つ。ベーレンスは自らが先頭に立って相手を斬り伏せてゆく豪傑タイプの将軍では無かったという事もある。戦線が混乱した時にそれを個人の力で打開する能力に欠けていた。
 敗戦の原因は、クライバー男爵を後方に送った事にある。オルドンはその結論に達した。あの若いクライバーならば、マコーキン軍の来襲に気がつくとともに、躊躇せずにそこに全力を投入してに真っ先に切り込んでいっただろう。もうすぐバイルン子爵の五万の兵が到着するため、兵数の優位を活かしてレンドー城を守備する事は十分に出来る。しかしバイルンの得意は長弓であり、海上と川岸との連携作戦や輸送等に詳しい将軍であるため、白兵戦の指揮には向いていない。これではマコーキンに勝つ事はとても出来無い。
 どうしてもクライバーを一刻も早く呼び戻さねばならない。オルドンはすぐさま後方のクライバーに向けて戻るように司令を発した。もはや少数のゾック部隊等を相手にしている場合ではないのだ。

 このオルドンと同じ判断をしている人物がもう一人いる。西の将の参謀バーンである。結果的に魔法使いテイリンのゾック部隊にクライの町を襲撃させたのが正解だった。今回の戦いで、オルドン王以外にクライバーのような向こう見ずな将軍がカインザー側にもう一人いたら、結果はどうなっていたかわからない。
 バーンはマコーキンとこの事を相談しようと、幕営のほうに向かって足を運んでいるところだった。すでに陽は暮れて、あちこちにソンタールの兵達が設営して休んでいる。かがり火が焚かれ、歌声が聞こえる。勝利の後の夜だけに、酒もかなりまわっているらしい。この軍には他のソンタール軍に無い明るさがある。バーンはこれを良いことだと思っていた。
 かがり火の中に影を揺らしながら歩いていたバーンは、自分と同じように前方からマコーキンの幕営に近づこうとしている人影がある事に気が付いた。今回の作戦でとかげ兵ブール部隊を率いて功績の大きかった魔法使いキゾーニである。
 キゾーニという魔法使いは、とかげと付きあい過ぎてまるで自分自身がとかげに近づいてしまったような奇妙な顔立ちをしている。鼻が低く、口が大きく唇が薄い。耳は頭に張り付いたようになっており、頭髪は師匠のゾノボートにならってきれいに剃りあげられている。特徴はその瞳で、目自体はそれ程大きくないが、瞳の色が薄い緑色のために不気味な透明感がある。裸になると見事な筋肉をしているのだが、黒い神官衣を着ていると小柄に見えた。
 キゾーニは要塞第四位の魔法使いだが、キゾーニより下の者は獣を扱う程の力はもっていないため、西の将の要塞で高位の神官と呼ばれる者の最下位でもあった。しかし、もちろんその野心は他の魔法使いに負けてはいない。今回のマコーキンの一連の作戦についても、獣を操るクラスの魔法使いにしか扱えない念波を使って、逐一ゾノボートに報告を送ってごきげんをうかがっていた。
 その念派によるベーレンス伯爵の戦死についての報告に対して、ゾノボートは折り返しオルドンの暗殺をキゾーニに命じてきている。これを成功させれば、一躍要塞第二位に昇れるだろう。昇進に必要なのは魔力だけでない。今回の戦役で、シゲノア・ボストール城方面に向かった要塞第二位の魔法使いブアビットも第三位のズグルもまだ功績をあげていない。ゾノボートがこの二人をあまり好いていない事実からしても、キゾーニに昇進のチャンスは十分にあった。そのキゾーニがバーンを見つけてうやうやしく頭を下げた。
「これはバーン参謀。見事な勝利でございました。さぞや西の将もお喜びでございましょう」
 バーンは肩をすくめて軽く答えた。
「オルドン王を逃してしまいましたからね。私の最後の詰めがちょっと甘かったかもしれません。まあ、ケマール川を渡るという最初の目的は達しました。これはあなたのおかげです」
 キゾーニは不気味な唇をゆがめて微笑んだ。
「ブールを水中で使うチャンスをくっださった参謀に感謝いたします。いままでブアビットやズグルのような頭の堅い魔法使いに率いられていたため、せっかくのとかげ兵もあまり能力を発揮できずに残念に思っておりました」
 バーンは話題を変える事にした。この魔法使い共の仲の悪さにはいつもうんざりさせられる。
「今日は何かマコーキン様にご用ですか」
「はい、おとりなしをお願い出来れば助かります」
「なんの、今回の戦闘で功績があったあなたが遠慮なさる事は無い。自ら扉をたたいても西の将は大喜びでお迎えになるでしょう」
 バーンは適当に魔法使いの機嫌を取って、キゾーニといっしょにマコーキンの幕営に入っていった。
 西の将は、酒を片手に、一人でぼんやりと机の上に広げた地図をながめていた。ランプの明かりに照らされたその顔はまるで子供のように邪心が無い。バーンはふと不安になった。
(何を目的にこの男は生きているのだろう)
 純粋に戦闘だけを楽しんでいるのだろうか。もう少し人間としてのアクが強くならないと、これから先に待ち受けている、ソンタール帝国内での権力闘争に勝ち残っていけないような気がバーンにはした。
 マコーキンは顔をあげると手を振って二人を招いた。
「今日の戦闘の最大の功労者はバルツコワだが、今ごろはいつも通り部下と酒を飲んで大騒ぎをしているだろう。ケマール川を渡る事に関して言えば、おまえたち二人のおかげで作戦が成功した。あらためて礼を言わせてもらう」
 そう言って、西の将は自らグラスに酒をついで二人に手渡した。バーンは受け取ってあっさり飲み干したが、キゾーニはとまどっているようだった。バーンは察して言った。
「お飲みなさい。神官の世界にはそれなりの上下関係についての決まりがあるのでしょうが、ここは戦場です。将軍が戦功を上げた部下に酒をくださっただけの事。あまり深く考えなさるな」
 キゾーニはようやく納得すると、うまそうに酒を飲み干した。実際、マコーキンの酒の趣味はとても良いとバーンはいつも思っている。
「キゾーニ殿。今夜はマコーキン様に何かお話があるとの事でしたが」
 バーンの言葉にうながされて、キゾーニはマコーキンに申し出た。
「西の将に、お願いがございます。ケマール川とレンドー城を結ぶ水路の調査をお許しいただきたい。レンドー城を外から攻めるには時間と兵力がかかりましょう。しかし、生活のための水の流れを調べ上げれば必ず弱点が見えてくるはずです」
 これにはマコーキンもバーンも異論が無かった。むしろ、魔法使いがここまで協力的に案を出してくることに驚きを感じていた。
「それは理にかなった申し出だ。さっそくやってみてくれ。この城で無駄な時間を使いたくないのだ。ようやくカインザー王国の入り口をくぐっただけなのだから」
 マコーキンはそう言ってキゾーニを送りだした。魔法使いを見送った後、西の将とその参謀は、夜遅くまでこれからの戦闘について議論を交わした。二人は決してうかれていなかった。本当の戦いはこれからなのだ。

 キゾーニが、獣を操るクラスの魔法使いにしか扱えないと思って発する念波は、ある程度魔法に関係した者ならば受け取る事ができる。ゾノボートもそれを承知で、むしろまわりに動揺を与えるために使わせている。他人が動揺するのを喜ぶゾノボートの悪い癖である。逆にゾノボートがキゾーニに送る指示は、もう少し黒の魔法に深くからんだものなので黒の神官以外に聞く事はできない。
 そのため、マコーキンのケマール川の渡河作戦の成功とそれに続いた戦闘でベーレンス伯爵が戦死した事を、キゾーニがゾノボートに報告した時、その念派を捕らえた存在が要塞の四人の魔法使い以外に、カインザー大陸に少なくとも四っつあった。一体は神であるクライドン。一匹は古き竜ドラティ。そして翼の神の一番弟子魔術師マルヴェスター。さらに小鬼の魔法使いのテイリンである。
 テイリンはこの知らせに、思わず両手を挙げて泣き出さんばかりに喜んだ。その頃テイリン軍はアルラス山脈の山中で、クライバー男爵と山賊の頭バンドンの連合軍を相手に苦戦を強いられていたからである。

 −−−−−− 

 どこか頭上の彼方で夏の虫が騒がしく鳴いている。昨夜、激しい戦闘があった事が嘘のように思える、明るい雨上がりの木立の中をカインザーの紅の男爵クライバーは歩いていた。ここはアルラス山脈の南部、ベイン湖からそう遠く無い地点の山麓にある小さな谷。木漏れ日に木の葉に溜まった雨の滴が光り、付き従っている兵士達はやがてくる蒸し暑さの予感に、早くも腋の下あたりの服の生地を引っ張って風を入れようとしていた。
 やがて、何本かの切り倒された大木の向こうに、緑と茶色の服を着たバンドンとその手下達が見えてきた。クライバーは、進行方向の左手の下に流れる小川を覗きこんで、そこに戦いの残骸を確認した。
 バンドン達が周到に用意した罠だったのだろう。河原には丸太や岩や木の杭が散乱しており、その間に押しつぶされたり突き刺されたりしたゾックの死体が点々と散乱している。焼け焦げた木の杭の先には獣の体の一部しか残っていない。戦闘の後の風景は見慣れていたが、クライバーはこの光景が気に入らなかった。
 バンドン達は今、林の中の木と木の間に細い糸を張り巡らしているところだった。近づいていったクライバーは、その糸を不思議そうに覗き込んだ。
「さわっちゃなんねえぞ、男爵」
 やぶにらみのバンドンの手下に怒鳴られて、クライバーは伸ばしかけていた指を引っ込めた。この男達は貴族に対する敬意のようなものを全く持っていない。ふと顔を上げると、少し離れた岩の上から、バンドンが座ってニヤニヤしながら眺めていた。白茶けた金髪の男はくわえていた木の葉をわきに吐き出して言った。
「クライバー。ここは俺達にまかせな。ゾックはもうここから南には行けない」
「この糸はなんだ」
「詳しくは言えないが、俺達の連絡の暗号と、このあたり一帯に仕掛けた罠の目印だと思ってくれ」
 クライバーは黙ってうなずいた。昨夜は、万が一のために山を下った平地で待機していたので戦闘は見ていないが、この元山賊の頭の言葉が信頼できるという事は、すでに何度かの戦闘を共に戦ってわかっていた。豊富な実戦量と山に関する知識を持ったバンドンの指揮する山賊部隊は、魔法使い一人が懸命に操るゾック部隊の襲撃を見事に封じ込めたのだ。
 クライの町を襲撃した後、クライの神官長の代理となったダーレスの予想通り、ゾック部隊はマイスター城がある方角に向かってアルラス山脈を南下していった。しかし、今回はカインザー側にも襲撃に対する準備ができていた。
 ロッティ子爵の軽騎馬軍団程のスピードは無いながらも、クライバー率いる騎馬軍団もその機動力には定評があった。クライバーは一万の軍勢を二手に分け、アルラス山脈沿いに並んだ町を一つおきに交互に担当するようにしながら、ゾック部隊と平行するようにして南下した。そして山中のバンドン一味と連携を取り、ゾックの襲撃を効果的に撃退してきた。しかし昨夜までのところ、ゾック部隊は引き返す気配は見せてはいない。
 その作戦と平行してバンドンは、マイスター城とアルラス山脈の中間にあるベイン湖でザイマンの艦船建造用に切り出されていた材木と、作業に従事していた技術者や樵をかき集めて、ベイン湖近くの渓谷にさまざまな仕掛けを用いた罠をはりめぐらした。
 最初の頃、バンドンが逃げ出すのではないかと疑っていたクライバーも、その山を知り尽くした行動に、とてもこの男を監視しきれるものでは無いとあきらめた。それどころか、いつのまにか、この痩せた人なつっこい笑顔の男に魅かれている自分に気が付いていた。クライの囚人達がバンドン以外のリーダーを認めなかったわけがわかるような気がする。一方、バンドンもまた、この颯爽とした若い男爵が気に入ったらしく、二人は全く違うタイプの男ながら妙にウマが合った。
 クライバーはバンドンに話かけた。
「ゾック軍はどっちに移動して行った」
 バンドンはあごを山のほうにしゃくった。
「ひとまず山を駆け登って逃げていった。だがまだ予断は許さない。問題は後続が来るか来ないかだ、孤軍ならばそういつまでも頑張れるものではないからな」
 クライバーは渋い顔をしながらしばらくバンドンを見つめていたが、やがて言った。
「その後続が来る可能性があるんだ。西の将がケマール川を渡った。その際の戦闘で、信じられない事だがオルドン王が大敗して、ベーレンス伯爵が戦死した」
 バンドンはじめ、盗賊団の面々が一瞬ギョッとしたような顔つきになった。バンドンが口笛を吹くように息をはいた。
「ベーレンスといやあ、現役の九諸侯の筆頭じゃねえか。それが戦死したのか、そいつは歴史的敗戦だぜ。マコーキンはすぐにここまで来るのか」
「いや。まだレンドー城にオルドン王と、遅れて駆けつけたバイルン子爵の軍が頑張っている。そこを突破するのはいかにマコーキンといえども難しいだろう。だが、俺に戻れという指示が来た」
「そいつはまずい。この山の中は俺達の庭のようなもんだが、いかんせん人数が足りない。罠や不意打ちではゾックをくいとめるくらいの事は出来ても、包囲網を絞って北に追い返す事はできんぞ。お前の地上軍との連携がどうしても必要だ」
「俺だって父のかたきの魔法使いを逃したくはない。だがオルドン王のご命令なんだ。今すぐゾックを追いかけて壊滅させる事はできないだろうか」
 バンドンは木々の間に見える、アルラス山脈の山肌を右手の親指で肩越しに指し示した。
「おまえさんの騎馬軍団があそこを登れるなら出来るがな」
 クライバーはしばらく、その急な傾斜を眺めていたが、ふと自分の肩に目を落として答えた。
「馬はなんとか登れるかもしれないが、このマントが汚れるのは好かん」
 バンドンは、つまらない言い訳をしやがって、というふうに肩をすくめて背を向けた。そのままクライバーとバンドンは、考えをまとめようとしばらく立ち尽くした。鳴き止んでいた虫の声が、また聞こえ出した。

 小鬼の魔法使いテイリンは傷だらけになったゾック達を懸命に手当てしていた。やけどをしたもの、切り傷で痛んだもの、骨折した者。黒い革の服にすっぽり身を包んだ小さな人間型生物が、木々の根元に静かなうめき声をあげながらたくさん横たわっている中を、汗みどろのテイリンはひょこひょこ跳び歩いて、自然の力を借りた癒しの魔法をかけてまわった。
 ゾックは繁殖力が弱いので同族に対する愛情が見かけの印象よりはるかに強い。よほど切迫していない限り仲間をかばい逃げる。戦場に死体が残らないのもほとんどが背負って逃げるからだが、今回はカインザー軍の罠にかかって、たくさんの仲間を見捨てなければならなかった。
 やがて一通りの治療が済むと、テイリンはゾック達に命じてやっとの事でかかえてきた仲間の死体をくぼ地に積み上げさせた。そしてよれよれになって肩を落とした若い魔法使いは、腕をふってまわりの木々に呼びかけた。
「恵み深き木々よ、わが同朋のみじめな姿を隠すために、そなた達の弱った葉、老いて使命を終えた葉をわけて欲しい」
 その声に答えるように、木々は枝を揺らし、その葉をゾックの死体の上に降らした。他のゾック達も落ち葉をかき集めて仲間の姿をていねいに隠した。
 昨夜、テイリン軍はもう少しでベイン湖に到達しようとしていた。それまでの町への襲撃が失敗に終わっている事から、テイリンはあきらめて真っすぐにマイスター城の近くの町を目指したのだ。しかし、山間には、思いもかけない様々な罠が待ち構えていた。
 狭い木々の間を通った通路の先に、突然空き地が現れたかと思うと、材木や岩や煮えたぎった湯が降りかかった。戻ろうとすると林の中では小さな矢が四方から飛んできてゾック部隊に突き刺さり、さらに逃げようとした者達は巧妙に隠された落とし穴に落ちて、底に打ってある杭で命を落とした。単独での判断力に劣るゾックにはこういう事態に対処する術が無かった。目の前で、次々に罠にかかってゆくゾック達にテイリンが指示できたのはただ一つ、退却の言葉だけだった。
 テイリンは決して山に不慣れな者では無い。ゾックも山岳戦にこそ力を発揮する生物のはずであった。しかし、若い純朴な魔法使いには、木々を物のように切り刻んで罠をつくるという発想が無かったのだ。生物との感応力という特殊な力を身に付けたテイリンは、自然と一体になる力はあっても、自然を物として利用する戦い方に関する知識に欠けていた。クライ襲撃の成功後に展開された一連の戦闘での失敗は、明らかにバンドンとテイリンの経験の差だったと言える。
 熱湯でひどい火傷を負ったゾックが一体。テイリンの目の前で息を引き取った。無残な苦しみようだったが、魔法を使い尽くしたテイリンには、その苦しみをわずかに和らげさせるくらいの事しか出来なかった。その死体の前に跪き、しばらく顔をうつむかせていたテイリンは、やがて思いつめたようにゆっくりと立ち上がった。その気配に何か決意を感じ取ったのだろうか、まわりにいたゾック達がしだいに集まりだし、やがて動く事の出来るゾックがすべてテイリンのまわりに集まって、輪になって座った。テイリンはゆっくりその生き物達を見回した。
 ショックと過労でぼんやりしていたテイリンの心の中で、戦闘という事実の厳しさと残酷さがしっかりとその位置を定めた。若い魔法使いは、ようやく戦闘指揮官がどういうものなのかが解りかけていた。それと同時に、このソンタールとシャンダイアの戦争の意義についての疑問もテイリンの心にかすかに芽生えた。いままでゾックという生物の存続だけしかなかったテイリンの頭に、戦いの相手を含めたすべての生物の命についての、様々な事柄が意識されるようになったのだ。今回のカインザー戦役に生き残る事ができたら、もう一度この星の歴史と生き物について勉強してみよう。そうテイリンは思った。
 テイリンは自分を囲むゾック達の様子から、すぐに戦闘を再開する事は無理だと判断した。西の将マコーキンが、レンドー城を突破するまで、しばらくはアルラス山脈に潜伏するしかないだろう。このあたりはすでに罠に取り囲まれている。
(どこに向かおうか)
 テイリンはアルラス山脈の峰々を見上げて考えた。

 山に逃げ込んだゾック軍の次の動きに最初に気付いたのは、やはりバンドンだった。ゾックの移動に関する見張りの報告を聞いたバンドンは、すぐさま追跡隊を組織してゾックの行動を完全な監視下に置く事にした。ゾック部隊のスピードが落ちている事で追跡も容易になった。やがて入ってきた情報を仔細に検討したバンドンは、クライバーの元をたずねる事にした。クライバーはオルドン王の使者へ数日の猶予を頼んでグズグズしていたのだが、仕方なく今日出発するための準備をしているはずだった。
 バンドンが山道を下ってゆくと、山麓の空き地にカインザーの精鋭騎馬軍団が勢揃いしているのが見えた。規律正しい事で知られるクライバー軍の姿はさすがに壮観で見事だ。その軍団の総指揮官であるクライバーは、いましも愛馬にまたがろうとマントに手をやって軽く後方にひるがえらせた所だった。バンドンはその姿の爽やかさが妙に嬉しくて、久々に大声を出して呼びかけた。
「クライバー、どうやらゾックどもの目的地がわかったぞ」
 クライバーは馬の鞍に置こうとした手を止めて、いつもの涼しい目で振り向いた。
「どこだ」
「ライア山のクライドン神の神殿だ」
 これを聞いたクライバーは、まるで子供のように愛馬の影で小躍りした。
「そこならばクライの町から馬で行けるじゃないか。神殿はクライドン神の結界で封じられているはずだ。ようしっ、山頂で決着を着けてやる」
 バンドンはちょっと驚いた。
「オルドン王の命令はどうするんだ」
「ゾックを壊滅させて、魔法使いを倒せば後方の脅威は無くなる。カインザーのためになるんだ、俺はクライドン神の神殿に行くぞ」
 そう言って、クライバーは精鋭の中からさらに精鋭を選んで軍勢を二手に分けるよう部下に指示した後、バンドンに言った。
「バンドン、おまえはゾックの後を追うように移動してくれないか。連中が道を逸れそうになったら、ライア山へ追い込んで欲しい」
「わかった。どうやら俺もその神殿に行くしかなさそうだな」
 バンドンも仕方無しといった感じでこれを了承した。その答えを聞くと、紅の男爵レド・クライバーは鮮やかなマントをひるがえして愛馬に飛び乗り、三千になった部隊を率いてアルラス山脈に沿って北上するために出発した。そして残された七千の騎兵達もバンドン達と連絡を取りつつ、ゆっくりとこれも北に向けて移動を開始したのだった。

 −−−−−− 

 セルダン達が、バルトールの七人のマスターの一人、ロトフの手配の元に三台の馬車に荷物を積んで深夜のボストール城下を出発してから十日ばかりが経っていた。れっきとしたシャンダイアの王子であるセルダンもブライスも、バルトールふうの幅広の帯をしめた商人の衣装に着替えて、編み上げた柔らかい革の靴を履いている。マルヴェスターはやや風変わりなズボンとガウンを着ていたが、これはバルトールの隊商の医者の衣装だそうで、この一団の付添のような役柄を割り振られていた。
 ロトフは、ソンタールの要塞軍とトルソン侯爵の軍がぶつかりそうな戦場を、大きく迂回する道を三台の馬車の御者に指示したため、一行はボストールから真っすぐ東へ向かい、アルラス山脈に沿った山道を通る事になった。セルダンは連日馬車に揺られながら、今回の長い旅の中でも、最も殺風景な景色の中を進んでいる事に気がついた。地図の上でも何も無い所だが、実際に走ってみて、まさか本当にこれ程不毛な場所だとは思わなかった。ただ潅木が生えただけの乾いた大地が延々と続いている。
(どうやったら、ここを豊かにできるのだろう)
 暑い幌馬車の後ろから顔を出して、ぼうっとしながら次期カインザー王は考えた。
 この一行の先頭を進むやや造りのいい馬車には、マスター・ロトフその人がいくつかの鞄と共に乗り込んでいる。鞄には商品サンプルが入っているらしく、特に黒い小さな鞄は片時も手元から離していない。それに続く真ん中の幌馬車にセルダンとブライスが乗り、マルヴェスターは幌を取った最後尾の馬車の荷台の上に乗って、一日中空を眺めながら大の字になって眠っていた。一度、ブライスがたずねた事がある。
「どうして、そう上ばっかり見て眠ってるんですか」
「体と地面の角度とでも言おうかの、こうして大地と体を平行にして手足を伸ばすのが、世界中の気の流れを一番読みやすい形なのだよ」
 その時やはりそばにいたセルダンは、ふと思いついてマルヴェスターに聞いた。
「マルヴェスター様。強い力を持った人は強力な気を発散させているんですよね」
「まあ、そうだな」
「西の将の要塞にマルヴェスター様が潜入した時、ゾノボートに気付かれないでしょうか」
「外部に流れる気配はコントロールする事ができる。それが熟練した本当の魔法の使い手だ。気のコントロールは、生まれながらの特異な存在である聖宝神や古き竜ドラティのような獣にもできない、人間特有の能力なのだ」
「そうだったんですか、でも要塞の中で魔法を使えば居場所がバレてしまいますよね」
「そうだ。できれば西の将の要塞への潜入はこっそり入ってこっそり出てきたい。ゾノボートは黒い秘法の魔法使いの中でも最も用心深い魔法使いだ。おそらく周到な準備をしているだろう。西の将の要塞は、カインザー軍が二度落として二度取り返された要塞だ。防御のためにそれなりの仕掛けも施されていよう」
 セルダンもブライスもこれには同感だった。要塞の中でマコーキンの要塞守備隊とゾノボート配下の神官達と戦うなど、思っただけでもうんざりする。
 三台の馬車のまわりには、最初の夜にロトフの部屋でセルダンとマルヴェスターが出会ったロトフ配下の者達六名が、三名ずつに分かれて両側を進んでいる。どの男もバルトール人で、獲物を狙う獣のように動きが機敏だ。また、路地からバルトールマスターの元へと導いた、黒い衣装の大柄な三人の男が最後尾に付いてしんがりを守っている。この三人はカインザー人だとセルダンにはわかった。セルダンに対した時に、それとない敬意が伝わってくる。各馬車の御者三人はやはりバルトール人だろう。これにセルダン、ブライス、マルヴェスター、ロトフを合わせて総勢十六名の小さな隊商は熱い太陽の下をガタガタと旅して行った。
 一行が背を向けている西の地平線にだいだい色の太陽が沈もうとした頃、最後尾の馬車の荷台の上のマルヴェスターが、舌打ちをして何かののしり声を上げながら飛び起きた。ちょうど馬車の後ろの、幌の間からその様子を見ていたセルダンが声をかけた。
「どうしたんですかマルヴェスター様」
「やられた」
「えっ」
「マコーキンがケマール川を渡った。同行しているバステラの神官が得意げに大陸中にその事を念波でふれまわっておる」
 その声を馬車の中で聞きつけたブライスも、セルダンの上にのしかかるようにして、顔を上下に並べた。
「戦いはあったんですか、オルドン王はどうしました」
「大敗した。ベーレンスが戦死した」
 セルダンは信じられないといった面持ちで確認した。
「ベーレンスって。ベーレンス伯爵の事ですよね。あの伯爵が戦死したんですか」
 マルヴェスターは荷台から御者の脇に滑り降りて、前の馬車で揺られているセルダンを恐いくらいの顔で見返した。
「そう言ったんだ」
「父はどうしました」
「どうやら無事なようだ。しかしレンドー城にこもってろう城しているらしい」
 セルダンは愕然とした。父とベーレンス伯爵の軍と言えばカインザーで最も安定した戦力を誇る軍団であったはずだ。それが、川を前にして守りを固めていたにもかかわらず、大敗をきっするとは。この会話は、脇を進むロトフの配下の者にも当然聞こえており、そのうちの一名がマスターに注進して一行の馬車は停止した。
 先頭の馬車から黒い鞄をかかえて降りたロトフが、小さな体を震わせるようにして駆け寄ってきた。つるつるした丸い顔を心配そうに陰らせている。
「長老。西の将がケマール川を渡ったというのは本当ですか」
「間違い無い。こんな事で嘘を流すようなゾノボートの部下では無い」
「それは困った」
 セルダンが聞いた。
「どうしたんですか。確かに父の軍はこれで西の将に連敗してしまいましたが、まだまだカインザーの諸侯の軍勢がたくさん残っています。本当の戦いはこれからですよ。それとも事情が変わってソンタールの要塞の者が取り引きに現れなくなるのでしょうか」
 ロトフはセルダンを見て、不思議そうに言った。
「そうではないんですよカインザーの王子。西の将の勢いがあがれば、商品が安く買い叩かれるんです」
「そんな事を考えていたのか。バルトールの者にはシャンダイア人の誇りと忠誠心は無いのか」
 思わず叫んだセルダンの後ろでブライスが大笑いした。
「徹底しているな、マスター・ロトフ。セルダン、バルトールにはバルトールのルールがあるんだろうさ。前にも言ったが、おそらくカインザーは旧シャンダイアの国々の中では最も密貿易がし易い国だ。しかもカインザーがソンタールに対して常に優勢に戦いを進めてきたから、さぞかしいい値段でソンタールと取り引きをしていたのだろう」
 ロトフは鞄を両手で持ってうなずいた。
「その通りです。さすがにザイマンは交易の国でもありますね。実際、カインザーのマスターは儲けに関してはマスター議会の特等席なんですよ。しかしこれが虐げられたバルトールの民の生き方です。」
 セルダンはあきれる思いだった。やはりバルトールの民はわからない。
 やがて夜になった。一行がたき火を囲んで食事をしている時、遠くの丘の向こうから細くて甲高い笛の音が鳴った。ロトフとその配下の者達が立ち上がった。
「来ましたね。ここからは私の仕事です。いつでも出発できる準備をしておいてください」
 そう言うとロトフは、先頭の馬車からいくつか鞄を降ろして、一つ一つ丁寧に中身を確認した。特に、先程も手放さなかった黒い小さな鞄には気をくばっているようだった。交易も手がけるザイマンの王子ブライスはこれを興味津々といった感じで覗き込んでいたが、すぐに目をそらした。
「なんてこった。これは見ない事にしておこう。セルダンおまえもやめとけ」
「僕は見たってわからないよ」
 ロトフが小さく笑った。
「それでけっこう」
 そう言ったロトフにブライスが一つだけ文句を付けた。
「おまえはカインザーのバルトールマスターだから、セルダンやオルドン王にわからなければ、俺は何も言わん。しかしな、その中のモッホの粉をザイマンに持ち込んでみやがれ、ザイマン中の酒場をひっくり返してでもザイマンのバルトールマスターを捕まえてしばり首にしてやる」
「無駄な事はされないほうがよろしいでしょう。どこの国でもバルトールマスターはそう簡単には捕まりません。さて、私はバステラの神官どもに品物の説明をしてまいります」
 そう言うと、闇にまぎれていつの間にか近づいて来ていた、黒い衣装のバステラの下級神官達の一団に向かって歩いて行った。心配そうに見送ったセルダンはブライスに聞いた。
「モッホの粉って何」
「習慣性のある幻覚剤だ。サルパートの医師達が治療に使う薬に似たような物があるが、はるかに深く人間の神経を支配して、一度使うとなかなかやめられなくなる」
「そんな物まで取り引きしているんだ」
 マルヴェスターが補足した。
「バステラの神官達が儀式に使うのだよ。しかしセルダン、ここは見逃すのだ。やがてシャンダイアが一つになれば、バルトールの民もこういう物に手を付けなくてすむのだから」
 セルダン達の馬車から少し離れた所で、黒い人影とロトフが顔を寄せて話しあっているのが見えた。しばらくしてロトフの悲鳴のような声が聞こえてきた。
「お願いです。この粉を商売したからには、もうボストールには戻れません。ロッティ子爵の処刑の残酷さは有名なんです。お願いです、このまま要塞にお連れください。陸橋を渡る許可をいただければ、またバルトールの者を遣わして豊かな交易品をお送りいたします」
 セルダンは怒ったような顔でブライスにぼやいた。
「ロッティ子爵は拷問なんかしないぞ」
 ブライスはセルダンの肩をたたいて感心しながら言った。
「もちろん芝居だ。しかしうまいもんだ」
 しばらくロトフは悲しげな声でバステラの神官達に訴え続けていた。セルダンはこのロトフの芝居をハラハラしながら眺めていたが、やがて、これでおしまいといった感じで黒の神官が片手を振ってロトフを追い払った。そしてロトフが肩を落として一同の元に戻ってきた。ブライスがたずねた。
「だめだったのか」
「いえ。このまま要塞へ行けますよ。私のプライドが少し傷付いただけです。全くバステラの神官どもの横柄さには我慢がなりません」
 いささか元気が無くなっていたロトフに、マルヴェスターがやさしく声をかけた。
「今、西の将の要塞の牢にいる少年が、もしバルトール王家の末裔なら。おまえが二千五百年ぶりに拝謁する最初の家臣になる事を考えるんだ」
 ロトフの顔が瞬時にして輝いた。
「おお、それならどんなに嬉しい事か。もしそうなら私はどんな屈辱にも耐えましょう。本当にそうであって欲しい」
 やがて、セルダン達の馬車の周りを黒い神官達の馬がぐるりと取り囲んだ。セルダンは初めてバステラの神官を真近かで見た。黒いガウンのような服と頭巾をかぶった神官の、仕種や表情にはにはなんとも言えない冷たさがある。どうやれば人間がこんな雰囲気を身に付けられるのだろう。神官の一人が馬上から一行をじろじろと眺めながらロトフに文句を付けた。
「カインザー人が混じっているな。それにどこの国の出身かわからん者もいる」
 ロトフは丁寧な口調でこれに答えた
「はい、我々の商売は国にとらわれません。カインザーにいれば、カインザー人の部下を使います。他の国から来た者ももちろん用います」
 神官はすぐに興味なさそうになって、目をあちこちと動かしていたが、マルヴェスターに目をとめた。
「そこにいる老人は衣装が違うな。何者だ」
 マルヴェスターは自ら腰を低くかがめておじぎをしながらこれに答えた。
「医者でございます。バルトールの隊商には必ず一名、私のような者がついております」
 神官はしばらくいぶかしげにマルヴェスターを見つめていたが、プイと背を向けると仲間に合図をして馬の腹を蹴った。
「要塞までついてくるのはかまわん。そこから先はおまえたちの幸運に頼るがいい。バステラ神のご加護があれば、パイラルの陸橋を渡る事もできるだろう。間違っても気まぐれなバリオラなどを拝まないように」
 そう言うと、低いこもった笑い声をあげて、要塞の方角に駆け出した。ロトフの配下の一人が怒りのあまり真っ赤な顔をして何かをしそうになったが、ロトフがこれを身振りで制した。やがて神官達は三台の馬車の前後に数人ずつにわかれて付き、馬車からは距離をおいて走り出した。セルダン達一行は捕らわれるような格好で、要塞への道を進みはじめた。セルダンは生まれて初めての息が詰まりそうな緊張感を味わっていた。それは初陣の時よりはるかに神経を締めつけられる体験だった。
 月明かりにかすかに馬車の影だけが揺れている闇の中、馬車の幌のすき間からはるか彼方のアルラス山脈の巨大な影を見ていたセルダンは、山陰にぼんやりと淡い光が浮かぶのを見たと思った。
「ブライス」
 セルダンは後ろで横になっているブライスをささやき声で呼んだ。
「なんだセルダン。寝ろよ」
「ちょっと来て」
 ブライスはぶつぶつ言いながら、セルダンに巨体をくっつけて幌の外を覗いた。
「なんだ。何か見えるのか」
「アルラス山脈のふもとで何かが光った」
「このあたりの山中には村なんて無いぜ。この戦時下だ、商人も狩人もいないだろう」
「でもぼんやりと光が見えた。要塞の神官達かな」
「可能性はあるが、奴らなら光なんか灯さなくたって夜道は歩けるはずだ。何かの錯覚だろう。もし本当にそこで何か起きていたとしても、今のところ俺達にはどうにもできない」
「そうだね。小さな光だったし、どうにもならないや」
 ブライスはそれを聞くと、もう興味なさそうにさっさと毛布にもぐり込んだ。セルダンもそれにならったが、決して自分が見た光を錯覚だとは思わなかった。

 カインザー大陸の北方。ソンタールとカインザーの二つの大陸を繋ぐパイラルの陸橋を背に西の将の大要塞は建っている。カインザー軍の度重なる猛攻と二度の陥落、さらにはカインザー軍をソンタール軍が破った二度の奪回作戦によって傷つき崩れた個所も数多く見受けられるが、うずたかく建築物が積み重なったような巨大な威容は、さすがに大ソンタール帝国の西の鎮護の砦と呼ばれるにふさわしい威厳を保っている。
 要塞を囲む平地には兵たちが住む都市があり、さらに人々の営みに必要な様々な職業の人間達が集まっていた。ソンタールの将の要塞には色々な形があるが、都市を抱えた要塞は平野にある西の将の要塞と、港を擁するユマールの将の要塞の二つである。北の将と東の将の堅固な要塞は山間にあり、南の将の要塞は海に囲まれて建っていた。
 その西の将の要塞の北側の地下にある祭壇の間で、闇の神バステラの高位の神官、黒い盾の魔法使いゾノボートは祭壇の上に浮かぶ黒い盾をじっと観察していた。先日まで、力に溢れていた盾の妖気にかすかに不安の影が差している。信じられないことだが、何者かに黒の秘宝の盾がおびえているのだ。ゾノボート自身はその脅威の気配を感じてはいないのだが、黒の秘宝の中でこの守りの盾だけは自らの危機を感じる事ができるのだ。この特殊な力の事はゾノボート以外にはバステラ神の神官の最高位にあるガザヴォックしか知らない。
 痩せこけた魔法使いは、その原因を考えながら体を小刻みに揺らしてイライラと室内を歩き回った。黒の盾が恐れるもので最初に思いつくのは聖宝カンゼルの剣だが、それはすでに西の将マコーキンが奪って管理下に置いている。とすると、外部から巨大な力が要塞に近づいてきていると考えるべきだ。何者だろう、他の黒の魔法使いがこの要塞を乗っ取りに来たのだろうか、それとも巨獣か、あるいは翼の神の弟子か。現在カインザーにいる翼の神の弟子は、あのマルヴェスターだ。ついに翼の神の一番弟子が直接この要塞にのりこんでくるのか。
 何をしに来るのか、何を目指して来るのか。何者がどんな目的で来るにしろ、黒の魔法のすべてを駆使して罠におとしいれてやる。ゾノボートは祭壇に向かって暗闇の神バステラに祈りを捧げはじめた。

 馬に乗った黒の神官達に取り囲まれながら要塞に向かっていたセルダン達一行は、ようやく荒野を抜けて人々が住む村々が点在する地域に入ってきていた。セルダンは馬車の幌の間から初めてソンタールの民の生活をその目で見たが、とりたててシャンダイアの国々と変わっているように見えなかったので、ちょっとがっかりした。さぞかし辛い生活をしているだろうと思っていたのだ。
 見ると畑には青々と野菜が育っており、体つきのいい牛が農夫に付き添われて農具を引いている。これではむしろカインザーの農民のほうが厳しい生活をしているのようにも思える。やはり国の大きさが豊かさの違いになっているのだろうか。もっともここは西の将が治める地域だし、西の将はソンタールでは少し変わり者だと聞いている。セルダンが王室付きの教師から学んだソンタール帝国に関する知識によれば、かなりひどい生活をしている村や、バステラ神信仰の妖しい儀式へ住民の参加が強制されている土地もあるはずだった。
 やがて一行は幅が広くて埃っぽい軍道に出た。何週間か前におそらくこの道を通って黒の神官率いる要塞軍がシゲノア城方面に向かったのだろう。ベロフはトルソン侯爵の説得に成功しただろうか。セルダンはトルソン侯爵の姿を思い浮かべてその可能性は低いだろうと思った。カインザー一の豪傑トルソン侯爵には何度も会った事があるが、あの全身にみなぎる自分の力に対する自信はちょっとやそっとでは揺るがないだろう。
 あれこれと考え事をしていたセルダンの隣で、前方を見ていたブライスが咽が詰まったようなあえぎ声をあげた。
「おお、あれが要塞か」
 セルダンも急いで馬車の前方の窓から顔を出した。道の彼方に灰色の大要塞とそれを取り囲む都市の姿が見えてきた。その要塞のあまりの巨大さにセルダンは息を呑んだ。カインザーで最大の城はシゲノア城だが、この要塞の大きさはゆうにその四倍はあるだろう。どう考えてもカインザーの九諸侯の全軍をもってしなければこの要塞は落とせない。こんなものを二度も攻め落としたのかと思うと、あらためて先祖の偉大さにセルダンは驚きと尊敬の念をいだくのだった。
 道の両脇に、馬を繋ぐ場所や大型の荷物を運ぶ馬車、露店などが増えるにつれて、セルダンはその要塞を囲む都市の大きさにも気が付きはじめた。セルダンの祖国カインザーの乾いた大地を耕す人口はそれ程多くはない。最前線で戦い続ける三十万の軍勢はカインザーの国力で養えるほぼ限界に近い。それに対してソンタール帝国は、五人の将のそれぞれにシャンダイアの一国に匹敵する程の軍隊を持たせ、さらにそれを上回る強大な軍団が皇帝直属の大元帥ハルバルトの元に待機していると言う。悔しいがスケールが違いすぎるのだ。やがて都市を囲む城壁の巨大な門が近づいてきた時、さすがのセルダンの心も不安に満たされた。セルダンは隣にいるブライスに小声で聞いた。
「ねえブライス。この要塞を僕らが攻め落とせると思うかい」
 ブライスはすぐ横にあるセルダンの顔を真近に覗き込んで答えた。
「過去に落とす事が出来たのならば、俺たちにだってできるだろう」
「相手がマコーキンでも、聖なる剣が無くてもできるだろうか」
 ブライスはセルダンのほうに体を向き直らせた。
「その剣をこれから取り返すんだろう、おまえが弱気になっては困るぜ。シャンダイアの国々が軍を結集してグラン・エルバ・ソンタールに攻め寄せる日が来るならば、その先頭に立つのはカインザーの王しかいないんだぞ」
 セルダンはブライスの顔をまじまじと見返した。そして陽気な友人が本気で言っているのを知って、黙って弱々しくうなずいた。ブライスがセルダンに言い聞かせるように言った。
「あまり気にするな。誰だってこの状況なら不安になる。俺も銀の輪の力が完全に無くなってしまっていささか心細いんだ」
 セルダンはこの事を初めて聞いた。
「銀の輪の力って普段も感じる事ができるものだったの、エルディ神におうかがいをたてる時にだけあらわれるものかと思っていた」
 ブライスが輪を人差し指で叩きながら少し寂しげにつぶやいた。
「ああ、いつもかすかに優しい力を感じていたのさ」
 厳重な警備の門をくぐって、一行は都市の中に入って行った。門の兵士の姿勢は良い。この都市の主のマコーキンがすぐれた指導者である事がここでもわかる。セルダン達を連れてきた黒の神官達のリーダーらしい男が馬車に近づいて、ロトフに向かって大声で叫ぶように言った。
「おい、おまえは馬車といっしょに要塞に行って報告をしろ。残りの物は他所者の逗留地へ連れて行け」
 ロトフはそそくさと馬車を降りて、そのリーダーらしき神官と言葉を交じわした後、しぶしぶ馬車や馬を降りたセルダン達のそばにやってきた。そして、一行を逗留地に連れて行くために近づいて来た神官に何かをこっそり渡した。そしてロトフはマルヴェスターにちょっと目くばせした。
「この神官様が、他所者の逗留地におまえ達を案内してくださる。後に従って行きなさい」
 そう大声で言うと馬車に乗り込み、黒の神官達に囲まれて町の中心部にそびえる要塞に向かって去って行った。三人の御者はロトフと馬車と共に去ったが、馬に乗って隊商の護衛をしていたバルトール人六人としんがりを守っていた三人の大男は、セルダン、ブライス、マルヴェスターらといっしょに徒歩で案内の神官の後に従った。
 セルダン達は頭を下げ、いかにも心もとなげな様子を演じながら、神官の馬の後についてトボトボと歩いていった。巨大な都市は、そこの主な住人である兵がほとんど出払っているせいか、妙に人の密度が薄くて静かだった。かなりの距離を歩かされた後、一行は都市のはずれにある堀と塀に囲まれた逗留地の中の、やや古びてはいるが造りのがっしりした宿に連れて行かれた。神官は中に入って大声で宿の主人を呼んで二言三言交わした後、セルダン達に横柄な態度で指図をした。
「ここに留まって指示を待て。外出はならん」
 それだけ言うと、馬首をめぐらしさっさと去って行った。ブライスが二十軒程の宿や酒場が、肩を寄せ合うように建っている狭い逗留地を見回して大きくあくびをした。
「黒の神官ってのは気にくわねえなあ。まあそれは仕方が無いか、しかし見ろよ、見張りがびっちりだぜ」
 セルダンも堀の内側の塀と、その塀から上に付きだすように建てられた見張り所のやぐらを見て、いささか絶望的な気分になった。どうやって抜け出せばいいんだろう。そのセルダンの心を見透かしたように、宿の入り口から主人の大きな声がした。
「おい、客人方。黒の神官にここに泊まるように言われたのなら、そうしなきゃなんねえんだ、さっさと中に入ってくれ。ここは町ん中でも警備が厳重で有名な区域なんだから、抜け出す算段なんかしたって無駄だあね」
 セルダンは振り向いて大柄な宿の主人を見た。この男もカインザー人だろう、おおきな腹でパンパンに張った白い前掛けが料理の汁で汚れている。マルヴェスターが仕方無いといった感じで一同をうながした。
「とにかく入ろうではないか。主人、ここは部外者向けの食い物もソンタール流なのかね」
 主人はニヤリと笑った。
「いや、食い物だけはカインザー流だ」
 それまで無口だった、ロトフ配下の大柄なカインザー人らしい三人の男が同時に口元をほころばせた。そして一番年長らしい男が嬉しそうに言った。
「それはいい。ここまでバルトール流の食事ばかりだったからな」
 ロトフの手下の一人で痩せた頬に傷のある男が、セルダンに近寄って小声でささやいた。
「マスターが不在の間は私がバルトールを代表します。フスツと申します」
 セルダンは小柄ながら目つきの鋭い男に年長者に対する敬意を表して答えた。
「こちらこそよろしくお願いします」
 フスツはちょっと意外そうな表情をした。もっと横柄な答え方を予想していたのかもしれない。もうすぐ暮れそうな夕方の太陽を背に、セルダン達はゾロゾロと宿の中に入って行った。そこでは分厚い木材で造られた大きな食堂がまず一行を迎えた。ブライスは遠慮なく中央の大テーブルに向かってズカズカと歩み寄り、扉に背を向けてドッカと座った。
「俺は食ってる最中に外が見えたりするのが嫌いなんだ」
 セルダンは入り口が見えて、何かあったらすぐに飛び出せるようにブライスの斜め横に座った。マルヴェスターは入り口の正面に陣取って、その三人の間をバルトールの者達が埋めた。そして最後にフスツがセルダンの正面の位置についた。この動きを興味深そうに見つめていた宿の主人が、木のタイヤを付けた台にビールのジョッキを載せてやってきた。フスツが主人に聞いた。
「この逗留地には、現在どの位の旅人が泊まっているんだ」
 主人はビールを配りながら表情を変えずに答えた。
「今はほとんどカラだ、と言うか最近はずっと宿は暇さ。西の将が本格的にカインザー攻略に乗り出しているんでな。兵隊が居ないし、神官共も出払っちまってこの町にゃ今のところ女、子供しか残ってない。すっかり寂しい町になっちまってる」
 ブライスはそんな話などおかまいなしに真っ先にビールを咽に流し込んだ。
「ひゃー。ようやくまともな飲み物に出会えたぜ」
 その声につられるように、一同は咽をうるおしはじめた。やがてカインザー流の塩を振っただけの上質の焼き肉が運ばれてきて、またたくまにテーブルの上は皿と串でごちゃごちゃになった。しかしセルダンは口を動かしながらも、不安な気持ちで窓の外の暗くなっていく空を見つめていた。こうしている間にも父が守るレンドー城はマコーキンの猛攻にさらされているだろう。トルソン侯爵はとかげ兵を中心とした要塞軍と戦いに入るはずだ。早くカンゼルの剣を取り返さなければ。若いセルダンの心は焦燥にかられて痛い程だった。

 西の将の要塞の南に広がる大草原サルバンの野の中央部から、ややケマール川に寄った地点にある町に陣取ったマコーキン配下の実務型軍人キアニス将軍は、ランプの下で机の上に拡げた地図を見ながら部下の報告に耳を傾けていた。キアニス軍は前方で戦闘を続けるマコーキンのための補給路を確保するために配備された軍だったので、マコーキンがレンドー城を囲んで膠着状態に入った現在、主な関心は後方でのブアビット対トルソンの戦いに移っていた。やがて報告を聞き終わったキアニスは、小柄な体を機敏に動かして地図の上をなぞりながら部下に確認した。
「本当にシゲノア城のトルソン侯爵は単独でブアビットの混成部隊と戦うつもりなのか」
 報告を行っていた、真っ黒に日焼けした将校はうなずいて答えた。
「はい。明朝あたりに戦闘が開始される見込みです」
 キアニスは地図の上に置いていたトルソン軍の馬の形をした人形を横に倒した。
「ならばブアビットの勝ちだ。今回の混成部隊は、黒の神官が指揮しているにしては非常によく攻撃のバリエーションが考えられている。タフが取り柄のトルソン軍が一撃で崩れるとは思えないが、ブアビットの優位は間違いない。これで俺も少し前線に動くことができるかもしれないな」
(そろそろ俺も戦いたくなった)
 そうキアニスは心から思った。若い西の将と名門出の参謀の立てた作戦はこれまでは実に見事だった。いままで防戦一方だった西の将の軍が見違えるように強くなり、ついにはカンゼルの剣を奪い九諸侯の重鎮だったベーレンス伯爵をも討ち取ってしまった。しかし。
 キアニスは椅子の後ろの壁に立て掛けられた灰色の鎧と片刃の斧に目をやった。
(この俺だって将軍なのだ。もう少し戦場で起用してもらいたい)
 わずかに二万の兵を指揮しての補給作戦しか担当できない悔しさが、心の中で行き場を求めて鳴いていた。キアニスは陣が置いてある町の大きな公会堂からゆっくり表に出て空を見上げた。この天の下で壮大な戦いが大きな局面を迎えようとしている。明日ブアビットがトルソンを破れば、長年ソンタールの最大の敵だったカインザー王国に決定的な打撃を与える事になるだろう。そうなればバステラ神の像の中央の腕にさげられたコウイの秤が、さらに闇に傾くはずだ。かがり火が突然キアニスの後ろではぜた。まるで闇の到来におびているようだと将軍は思った。

 同じ頃、傷だらけの豪傑トルソン侯爵は、いぶし銀の鎧に身を包んで荒野の彼方に押し寄せる松明の海を見渡していた。不気味な軍勢がひたひたと布陣をしているのを待っているのは、さすがの歴戦の猛者でも気持ちが良いものでは無い。間違いなく明日が決戦になるだろう。トルソンは七万の兵が息をひそめて野営している自軍を振り返った。ベロフの説得に応じるべきだったのだろうか。怒鳴り合いの口論の末、ベロフはロッティの元に戻って行ってしまった。どうもベロフと俺とでは気性がお互いに激し過ぎて話し合いにならない。トルソンはその時の事を思い出して苦笑した。
 しかしトルソン家の軍団はここで引くわけにはいかないのだ。シゲノア築城から今日まで戦い続け、いつもいま一歩の所で要塞に逃げ込まれていた敵が、ようやくここまで出てきたのだ。シゲノア城の民はこの日のために生きてきた。ボストール城のロッティにもこの恨みがわかるはずなのだが、あの軽騎馬軍団では、参戦しても今回の敵の重圧は支えきれないだろう。ここはこのトルソンが引き受けた。幸い七万の兵には沸騰せんばかりの戦意が溢れている。必ずや要塞の軍を壊滅させてみせる。
 風がソンタール軍から吹きつけてきた。はやくも黒の神官達の魔法が動き始めたのかもしれない。

 シゲノア城方面のソンタール軍司令官は、西の将の要塞第二位の魔法使いブアビットである。まだ若く野心に燃えたブアビットは、この戦いに並々ならぬ熱意を持って挑んでいた。ここでトルソン侯爵を倒せばカインザー大陸における戦いにほぼ決着が着く。トルソン亡きシゲノア城を落とすのは容易だろうし、シゲノア城が落ちれば残されたロッティ子爵はボストール城にこもるはずだ。そうなったロッティなどもはや敵では無い。西の将がケマール川を渡ってレンドー城にカインザー王を追いつめた報告はすでに入っている。結局ゾノボートはこの戦いに何の役にも立たなかったのだ。そうなれば帝国の中央部は黒い盾の魔法使いの交代を考え始めるだろう。
 ブアビットは黒い馬にまたがってソンタール軍の布陣を指揮していた。すでに深夜におよぼうとしているのに、かつてない大軍に膨れ上がった混成部隊はようやく位置についたばかりだった。三万のとかげ兵ブール部隊はぶ厚い隊列を組んで中央に陣取った。明朝、この部隊がトルソン軍に向けて前進を開始する。その際にブアビットのすることはただ一つ。全軍の密集体系を崩さないことだ。このタフな部隊が密集している限り、たとえ敵に倍以上の兵力があるとしてもトルソン軍とがっぷり四つに組めるはずだ。中央部がトルソンの動きを止めた後、左右から特殊な部隊が包囲して攻撃にかかればいい。
 右翼からは傭兵隊長ガッゼンの傭兵部隊二万五千が攻撃にかかる。装備はまちまちだが、その気性の激しさは時々黒の神官のブアビットですらおびえを感じることがあるくらいだ。ソンタール中から集まった猛者達なので素性もさっぱりわからない者が多い。左翼からはブアビットの盟友と言ってもよい、要塞第三位の神官ズグルに率いられた神官兵二万が攻撃を開始する。共にゾノボート追い出しという意見で一致している。ブアビットが黒い盾の魔法使いに昇進すれば、ズグルが要塞第二位になる。その後は二者による権力闘争がはじまるだろう、それは双方承知していた。西の将に同行しているとかげにしか興味の無い第四位の魔法使いキゾーニは論外だ。ガッゼンとズグルが攻撃にかかれば、兵数において両軍はほぼ互角。特異な能力を考慮に入れれば必ず勝てる。ブアビットは馬上で黒いマントをひるがえして不気味な笑い声を上げた。

 一方、西の将の要塞に乗り込んだセルダン達は、何事もなさずに三日目の夜を迎えようとしていた。要塞に連れて行かれたきりバルトールマスターのロトフは戻ってこない。セルダンとブライスはロトフの部下のフスツに脱出をもちかけてみたが、積極的な反応は得られなかった。頼みのマルヴェスターも日がな一日食堂の奥の席に座って、酒を片手に本を読みふけっている。最初の一日はバタバタしていたセルダン達二人だったが、二日目の午後になるとあきらめて体力の回復のためにゴーゴーとベットで寝て過ごす事にした。色々と心配事があったのだが、さすがに若い体も休息を必要としていたのだ。幸いに宿のベッドは大きく、虫もいなかったので、久々にセルダンもブライスも飽きるほどに眠った。
 三日目の夕食が終わった後、セルダンとブライスはマルヴェスターの部屋を訪れた。
「マルヴェスター様、これからどうなさるおつもりですか」
「ロトフが戻るまではうかつに動けまい」
 マルヴェスターはいつもの本を取り出して読み出そうとした。
「しかしこうやっている間にも、戦闘はすすんでいます」
「ふむ。セルダン、鍵になるのは何処の戦闘だと思うかね」
「それは」
 セルダンは口ごもった、父のオルドン王が篭城しているレンドー城と言いたかったが、全体の流れから言うとトルソン侯爵の軍が負ければカインザー軍全体が危ないだろう。
「トルソン侯爵と、要塞軍の戦いですか」
「違うな」
 マルヴェスターは本を置いて立ち上がった。
「ここだ。この要塞だよ。カンゼルの剣を取り戻す事がすべての解決に繋がるのだ。ライア山の山頂の出来事を忘れるな。ドラティを倒し、クライドン神の力を復活させなければ所詮この戦いに勝ち目は無いのだ」
 セルダンは、長い旅の中では遠い過去のように思えてしまう光景を思い出した。ドラティにのしかかられたまま、懸命に耐えているクライドン神。その両者の力の格闘を示す光の膜が暗くなり、クライドン神の光が消える時。確かにカインザーの命運も尽きるだろう。
「わかりました。ここが一番大切なんですね」
「そうだ。最も重要な場所がここで、最も慎重を期さねばならない時が今なのだ」
 その時、扉にノックの音がした。ブライスが扉を開くと宿の主人がそこに立っていた。
「お客が来ました」
 ブライスは不思議そうな顔をして聞き返した。
「客だと」
「行こう二人とも」
 マルヴェスターは二人を引き連れるように部屋を出た。宿の主人に導かれるままに三人は宿の地下に降りていった。セルダンは主人の後を歩きながら、この廊下にやけに曲がり角が多いことに気が付いた。以前にもこんな廊下を歩いた事がある。そう、ボストールの城下町のマスターロトフの隠れ家がこうだった。
 セルダンがそんな事を思いだしていると、宿の主人がいくつ目かの曲がり角の先の、突き当たりの部屋の扉を開いた。すると、その部屋の中にそのマスターロトフとロトフの配下達が待っていた。相変わらずの赤いチョッキと白いシャツを着たロトフは、ニヤニヤしながらセルダンの驚いた顔を見て言った。
「お元気そうですね王子、すっかり顔色が良くなった。長老様、時間がかかりましたが神官達を相手に色々と商売をしながら、要塞内の様子を調べてまいりました」
 部屋に入りながらブライスが感心してうなった。
「さすがバルトールの民。いつも抜け目ないな。この宿もバルトールの活動網の一つだったわけか」
「そのとおりです。要塞に連れて行かれると決まった時点でこの逗留地に来る事はわかっていました。ここは造られてすでに五十年も経つバルトール宿です。逗留地から外部に繋がる地下道ももちろん用意されております」
 セルダンはマルヴェスターを振り向いた。
「ご存知だったんですか」
 マルヴェスターは軽く手を振って答えた。
「おおよそな、見当は付いた。ロトフ、ほぼ事情はわかった。それで、カンゼルの聖剣と、ドラティの洞窟から連れて来られた少年の場所についての調べはついたかね」
「はい、ぬかりなく。剣は要塞の最上階、マコーキンの部屋の近くに。少年は地下の牢です。地下はゾノボートの支配区域です」
 翼の神の一番弟子たる白髪長髭の魔術師は、その深淵な頭脳に詰め込まれた要塞に関する知識を総ざらえするかのように考え込んだ後、口を開いた。
「よし。行くのはわしと剣の担い手セルダン。ブライスだ。バルトールの民は誰がゆくのかね」
「ここにいる全員です。その少年が真にバルトール王家の末裔ならば、我らは命をかけて救い出さなければなりません」
 ロトフの顔には憑かれたような興奮が見えた。二千五百年ぶりに王が戻ってくるかもしれないのだから、無理もないだろう。ブライスが自分の巨体をちょっと気にするような素振りを見せた。
「要塞内にはどうやって入るんだ」
「神官の服装をするのが一番早いでしょう。マコーキンの兵の規律は正しいので、兵士の格好では必ず誰何されます。それに神官服には頭を覆う部分が付いていますから、もしもの場合にもごまかす事ができるかもしれません」
「しかし、あの巨大な要塞の中を怪しまれずに行動するのは難しいだろう」
「いえ、西の将の要塞は特殊なのです。おそらく五将の要塞の中では最も手薄な要塞と言ってもいいでしょう。原因はマコーキンとゾノボートの不和にあります。かつては要塞内に同居していた二つの勢力が現在では全く支配区域を分けてしまいました。そのため、かつて神官達が用いていた通路と、戦士達が用いていた通路がお互いの支配領域で使用されなくなってしまったのです」
「なるほど、地上では神官通路を、地下では戦士用通路を使うわけだな」
「そうです。ちょうど現在、戦士も神官もそのほとんどが出払ってしまっています。千載一遇の好機とはこの時を言うのでしょう」
 マルヴェスターはニヤリとした。
「それはいい。ついでに黒い盾の魔法使いをこの世から消滅させてしまおうかのう」
 一同はギョッとしたようにマルヴェスターを見た。セルダンがあわてて言った。
「ちょっと待ってください。こっそり入ってこっそり出てくる予定だったんじゃないんですか」
「しかし好機だ。さすがに準備万端の要塞ではわしも侵入しきれない。しかし現在の要塞でこっそり地下のゾノボートに接近できればその機会はある」
 ブライスは珍しく冷静だった。
「あなたがそういう思い付きをしたときには注意するように、セントーンのレディ・ミリアに教わりましたよ。とりあえずは剣の奪回と少年の救出だけを目的にしましょう。その先はご自由になさってください」
 マルヴェスターは真顔でミリアをののしってから言った。
「よし。出発は明日の夜だ。ロトフ、その前に頼みがある。ザイマンの高速艇を要塞近くの海域に配備して欲しい。剣を奪回したらすぐに船でブルック城に行き、そこからケマール川を溯ってクライドン神の神殿へ向かう」
 ロトフは宿の主人を振り向いた。主人はちょっと考え込んだ。
「ザイマンの船はザイマン人が頼まなければ動きませんよ」
 ブライスがニヤリと笑った。
「あたりまえだ。しかし王子がここにいるさ、どうすればいい、書状でも書けばいいのか」
 ブライスが書状をしたためている間に、ロトフは配下の者達の意志を確認した。躊躇する事なく全員が明日の要塞潜入への同行を希望した。行動予定が明確になった事で、セルダンの心からは不安が消えていった。そして、なんとなく要塞の方角からカンゼルの剣の気配が流れてくるような気がしてきた。マルヴェスターのほうを向くと、魔術師は片目をつぶってセルダンに微笑んだ。

(第五章に続く)


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