第二章 聖なる巻物の守護者


 ソンタール帝国が旧シャンダイア勢力を押さえるために配置した五人の将の一人、北の将ライバーの巨大な要塞は冷たい石で築かれている。長い年月の間、北方の荒れた風にさらされたその石の一つ一つは黒ずみ冷えきって、建物全体がほんのわずかのぬくもりさえも拒絶するようなたたずまいを見せるようになっていた。今日もまた要塞を覆う空は灰色に沈み、時折はげしい吹雪や雨が吹きつけている。戦いの年月がどれ程流れようと変わらない北の将の要塞。こここそ、ソンタール帝国最北の凍れる要衝である。その要塞の謁見の間の、背の高い冷たい椅子にライバーは深く深く沈み込んでいた。
 長い白髪を肩まで垂らした老将は雄大な体格に恵まれており、骨ばった巨体には鈍い青の鎧をまとっているが、それはすでにほとんど飾りに等しい厚さにつくりかえられている。その皺だらけの皮膚には精気がとぼしく、風雪に絶えた顔を絶望の気配がおおっている。命が宿っているとは思えないほど、ぼう然とした遠くを見る目つき。それは生涯戦い続けて、何物もその手に残らなかった男の目と言ってもよいかもしれない。
 ライバーは、ふと目の焦点を椅子から数段下ったじゅうたんの上に合わせた。そこでは、黒い服の小さな男が立って自信満々に何かを説明している。北の将は、男が何者かを一瞬忘れて、気力をふりしぼって男の話に耳を傾けた。
「我らがマスターのお言葉をお伝えいたします。わが主、ロッグのバルトールマスター、マサズはベリック王の帰還を認めておりません」
(そうであった。この男はバルトールのマスターの使いであった)
「バルトールの打ち捨てられた都のマスターが、王に叛旗を翻すのか」
 ライバーは反逆が嫌いであった。ソンタール帝国の歴史が反逆から始まっている事すら認めたくない程だった。イサシと名乗った小柄なバルトール人は、両手をおおげさに振り回して弁解した。
「いいえ、めっそうもございません。わがマスターはベリック王の正当性を認めないのでございます」
「そのベリックと名乗る少年が、バザの短剣を自在に操っていてもか」
 イサシは口元をゆがめた。
「マルヴェスターの魔法です。短剣など偽物に決まっております。あの魔術師はロッグ陥落の際に我らが都を救ってはくれませんでした。それのみならず、シャンダイアの国々をけしかけて、バルトールの民を迫害し続けたのです。我らはシャンダイアの国々に受けた屈辱を忘れておりません。むしろソンタール帝国の中で暮らしていこうと思っております。ロッグの民はソンタール帝国に加勢する準備がございます」
 ここで初めてライバーは笑った。
「バルトールの民などに加勢してもらわんでも、ソンタールは盤石。そしてこの北の将の要塞は不落じゃ」
「おっしゃる通りです。しかしカインザー人がソンタール大陸に進入してきております。バルトール人の一部もすでにカインザー入りをして王と名乗るベリックの元にはせ参じているとの報告。さらにサルーパートの兵を加えた三軍連合が相手になれば、それは軽々しい敵ではございません」
 ライバーの頬にうっすらと精気がよみがえった。
「それを待っていたのだ。サルパートの神官や巫女など、ギルゾンの狼に食われてしまえば良い。カインザー戦士こそ我が敵にふさわしい、やっとまともな相手と戦えるわ」
 そう言ってライバーはイサシの顔を凝視した。小男の顔に冷や汗が浮かんでいる。ライバーは内心このバルトールからの使いの者を疑っていた。二重の裏切りの可能性もあるのだ。この懸命な態度さえ演技かもしれない。
 バルトールの使いはしばらく話を続けた後、将の前を辞した。ライバーは再び椅子に背をもたれさせてため気をついた。
(バルトールの盗賊共がいまさら何を言うか)

 バルトールの使いイサシは与えられた部屋に戻ると、すぐに窓から外に出て、ベランダと窓を伝って別の部屋に忍び込んだ。訓練を積んだ機敏なバルトール人は、そこからさらに要塞の巡回兵を巧みに避けながら廊下を走って、謁見の間の上部にあたる部屋にたどり着いた。すでに数日の滞在で、その部屋の窓から下の謁見の間の窓への足がかりはつくってある。イサシは器用に建物の外側に出ると、鉤をつかってからだをつり下げ、謁見の間の窓の外に取りついて中の様子をうかがった。イサシの見守る前で、謁見室の扉が開いてこの日二人目の謁見者が部屋に入ってきた。茶色の髪に茶色の服。昨日着いたばかりの魔法使いだ。
(あれがカインザーの中心部にまで攻め込んだ魔法使いか。なんと若くて頼りなげな。しかし見かけにだまされてはいけない。我々に届いた報告のすべてがあの魔法使いが尋常な能力の持ち主では無い事を物語っている)
 イサシは耳を済ました。姿では無く声で人を見分ける、バルトール人特有の鍛練をここでは使う事に決めたのだ。

 北の将ライバーは、なぜこうも面倒な者ばかりがやってくるのかと、いささかイラつきだしていた。なぜカインザー軍が押し寄せたとでもいう楽しい報告が届か無いのだろう。ライバーは目の前に立っている若い男を見つめた。これまでに見てきた魔法使いとは全く雰囲気が違う。その事に気が付いてライバーは興味を持った。痩せた若い魔法使いは、北の将に真っすぐに目を向けて口を開いた。
「北の将に申し上げます。サルパートの峰の命をこれ以上奪わないようお願いいたします」
 その声の意外な力強さに、ライバーと窓の外のイサシは驚いた。そこには微塵も自分の行動に迷いを感じていない者の、鋭さすら感じられた。しかしライバーは全くそんな気持ちを面には出さずに、不機嫌そうにこれに応じた。
「それは黒い短剣の魔法使いギルゾンが勝手にしている事だ。貴様も魔法使いなら、それくらいの事はわかろう」
 茶色い服の魔法使いはすこし困った顔をした。
「いいえ、我々の間には、世間で思われているほどの密接な繋がりは無いのです。むしろ憎み合っていると言ってもいいかもしれません」
 ライバーは若者の観察を続けた。
「そなたは一度この要塞への参戦を希望したが、わしは拒絶したはずだ」
「はい。そのために私とゾックは西の将マコーキン様の元で戦いました。しかしカインザー軍は、我ら小鬼の軍が正面から戦える相手ではありませんでした」
 ライバーは魔法使いの意図が読み取れなかった。
(このテイリンという魔法使いの西の将の元での戦いぶりは聞いている。しかし、要塞が陥落してゾノボート一党が滅びた中を、どう逃げ延びてきたのかはわかっていない。そしてここに現れたのも、帝国中央部の命令では無く自分の意志からだと言っていた。まるで帝国の命令の外にいるような振る舞いだ)
「貴様はサルパートの峰に住む生き物の、助命嘆願をするだけのためにここに来たのか」
「いいえ。ある理由からミルトラの水という物について知りたいのです。しかしソンタールにある資料の中にはミルトラ神に関する詳しい情報がみつかりませんでした。だから智慧の峰サルパートの知識を入手したいと思っているのです」
 ライバーはふと意地悪い気持ちが動いた。
「ならばギルゾンと直接話してみるがいい。あやつも何かを探しておる」
 意外にもテイリンという魔法使いはこれに素直に応じた。
「もちろんそうするつもりです」
「言っておくが、ギルゾンはバステラ神の高位の神官なのだぞ。ゾノボート亡き後に残ったこの世で最も強力な五人の魔法使いの一人なのだ」
「心得ています。それでもギルゾンの殺戮は止めなければならないのです。彼の目的をご存知ですか」
「それは直接聞いてみるがいい」
 ライバーは実は知らなかった。
(実際のところあの狼使いは何を探しているのだろう)

 カインザー軍の先鋒を受け持ったロッティ子爵とクライバー男爵は、空の青が目に痛いくらいの快晴の日に、三万の軍勢を整えてポイントポートを発進した。埃っぽい軍道をまぶしい日差しに目をしばたたかせながら、カインザー軍で最も騎乗がうまいロッテイ軍の明るい茶色の鎧の軍隊と、それに継ぐ機動力を持つクライバー軍の紅の鎧の軍隊が隊列を整えて進んでゆく。この軍の目指しているのはソンタールとサルパートの国境近くのサルパート側にあるテイト城。そこに至る街道沿いの村や町にはソンタール兵が駐屯しているはずだが、ロッティ、クライバーの二将の前にかなうはずも無かった。問題はソンタール帝国中央部がどのような対応をしてくるかだ。
 部隊のほぼ先頭近くで馬を並ばせながら、紅のマントのクライバーが年長の貴族に聞いた。
「ソンタールの大平原はどうやって防衛しているのでしょう」
 物知りのロッティは記憶を確かめるようにゆっくりとこれに答えた。
「まだシャンダイアの誰も、ソンタールの平原に攻め込んだ者はいない。しかしおそらく平原自体は比較的手薄なのではないだろうか。過去、カインザー軍が二度もポイントポートの町を奪いながらその先へ進めなかったのは、補給路を確保する前に奪回されてしまったからだ。言い換えれば、平原の広さそのものが最大の防衛手段と言ってもいいかもしれない」
 ここでロッティは言葉を切った。そしてしばらく思案した後、クライバーに顔を向けた。クライバーはロッティの乗っている馬まで、主といっしょに顔を向けて流し目をくれたのに一瞬ギョッとした。
「おそらく押さえるべきは川だな。グラン・エルバ・ソンタールを攻めるにはエルバナ川にそった町を確保して、艦隊による補給路を完成させなければならないのだろう」
「カインザーの艦隊をそこまで育てなければいけないのでしたら、かなり先の事になりますね」
「いや、カインザー艦隊では無理だ。たとえ船の数を揃えられたとしても操船の経験が無さ過ぎる。やはりザイマンの艦隊にエルバナ川を攻め上ってもらうしかないだろう」
「ザイマン艦隊に来てもらうためには、まず南の将とユマールの将の艦隊をザイマンが倒さなければなりませんね」
「そうだ。あるいは我々が地上から南の将の要塞を落とし、東の将を倒してセントーンを開放し、ユマールを孤立させるかだ」
 このロッティの言葉にさすがのクライバーもうなった。
「それは、なんとも困難で時間のかかる作戦のように思えますが。私は一直線にソンタールの首都を落とす事しか考えていませんでした」
 ロッティは馬上で上手に体を揺らして笑った。
「それはまず無理だ。シャンダイアの全軍をもってしなければグラン・エルバ・ソンタールは落とせない。それ程の大軍を送るにはそれなりの準備がいる。時間はかかるが、一人ひとり将を倒して追いつめるんだ。まずは北のおいぼれ狼だ」
「それならば私の手も届くでしょう」
 クライバーの顔にも笑みが浮かんだ。ロッティもうすら笑いを浮かべている。戦いの話をする時のカインザーの貴族達特有の癖である。
「そう北の将なら手が届く。しかしその前にまずセルダン王子とマルヴェスター様が黒い短剣の魔法使いギルゾンと、その狼を始末してくれなければならない」
「王子ならば大丈夫でしょう。いや、ギルゾンごときで手間取ってもらっては困るのです。シャンダイア王家の血筋が消えてしまった今、シャンダイア軍の総大将はカインザーの王しかいないのですから。オルドン王の跡継ぎのセルダン王子こそがその任を背負うのです」
 そう言ってクライバーはスラリと細身の剣を抜いた。ほぼ同時にロッティも半円を描くように湾曲した特殊な剣を抜いた。右前方の彼方からかすかに馬蹄の響きが聞こえる。やがて蹄の音は後方からも聞こえるようになった。ロッティが冷静に数をかぞえるように言った。
「前方から五千、後方もほぼ同数。数において我々より少ない。どういうつもりなのだろう」
 クライバーは少し不満げな顔をしたが、やがてニヤリと笑った。
「カインザー軍と戦った事が無いからでしょう。このあたりのソンタール兵はサルパートの兵しか知らないはずです。可哀相ですが、手加減無しでいきましょう。この一戦で相手が戦意喪失してくれればそれだけ早く北へ向かう事が出来ます」
「その通りだ。目指すは北だ」
 ロッティがそう言った時、街道沿いに進行していたカインザー軍を挟み打つようにして、前後から北の将の灰色の大軍が襲いかかった。しかし茶色の鎧のロッティの騎馬軍団はすこしも動じず、信じられないほどの速さで反転して後方から来た敵軍を迎え撃った。一方、クライバーの紅の軍団は全く躊躇する事無く前方の敵軍に突撃した。北の将の兵士達は、生まれて初めて真の戦士を相手に戦を挑んでしまった事にすぐに気がついたが、その時にはもうソンタール軍は散々に打ち負かされて敗走にかかっていた。機動力にまかせてソンタール軍を追ったロッティとクライバーは、自分達が予定の進路より北に踏み込んでしまった事をうすうす感づいていたが、あえて口にはせずにそのまま北へと進んでいった。
 こうして北の将ライバーが老いて後、久しく膠着状態にあったサルパート戦線は、黒い短剣の魔法使いギルゾンの無差別とも言って良い殺戮と、カインザーの二人の将軍の北進によって、一気に戦況を加速させていく事になる。

 古くからサルパートのエイトリ神信仰の中心的存在であった学校は、智慧の峰の中腹よりやや登った所に建っていた。歴史ある巫女達の教育施設は、幾度かの改築を重ね、現在では似たような三つの大きな建物からなっている。それぞれ教会と校舎と宿舎で、雪の中に尖った屋根の三階建ての大きな建物が向かい合うように建っていた。
 智慧の峰が珍しく晴れた日。スハーラは学校と巫女の長サンザの部屋をたずねた。サンザの部屋は教会の三階にある。スハーラは軽くノックをして、いつもどおり返事を待たずに中に入った。巫女がこの扉を叩くとき、サンザが応じなかった事は無い。さほど大きくない部屋の床と壁は、長い年月をかけて巫女達の手で磨きあげられてツルツルに光っていた。部屋の中心には大きな安楽椅子が置いてあり、現在の聖なるリラ巻物の守護者はいつもどおり静かにそこに座っていた。
「ごきげんようスハーラ。エイトリ神の娘よ」
 歳に似合わず、ふっくらとして血色のいいサンザは、おだやかなほほ笑みを浮かべてスハーラを迎えた。白い髪はお付の巫女の手で上品に結い上げられている。
「ごきげんうるわしゅうサンザ様。エイトリ神の声を告げ、リラの巻物を守る方」
 年老いた巫女の長がクスクス笑いながらスハーラに話しかけた。
「いつも思うのですよ、この堅苦しい挨拶は誰が考えたのかしらと」
「私もそう思いますわ。きっと昔は巫女の長は恐い方だったのでしょう。もちろん今でも厳しい方には違いありませんが」
 スハーラもそう答えて微笑んだ。
「おや、それは知りませんでした。私としたことがうかつだったわ。さあスハーラ、お茶を入れてちょうだい」
「はい。サンザ様」
 白い衣のスハーラは慣れた手つきで暖かいお茶をついで、椅子に座っているサンザに手渡した。サンザの世話は、スハーラが入学した最初の年のお勤めだったので、このあたりの手順は身に染みついている。ポットをテーブルに戻したスハーラは、部屋の中をくまなく見回して小さなゴミを拾って屑かごに捨てた。今朝の掃除係はちょっとサボったようだ。
「細かいわねスハーラ。私はもう気にしなくなってしまったわよ」
「サンザ様らしくもありませんこと、巻物の守護者の部屋の掃除は、新入生の大切な日課です。何も言わないと甘やかす事になりますよ」
「そうね。十年前のあなたは、とてもきれいに掃除をしてくれたわ。いまだにあなたほど几帳面で清潔好きな巫女には出会った事がありません。さあ、あなたもお茶をもっておすわりなさい」
 スハーラは親にしかられる娘のように、そそくさと自分のぶんのお茶をついで、サンザの向かいに小さな丸いすを引き寄せて座った。若い巫女が椅子に腰掛けたちょうどその時、窓の外で久しぶりの太陽にあたためられたツララがピッとするどい音をたてた。スハーラはふと窓の外に目を向けた。晴れた日の智慧の峰の空は目に痛い程青い。
 しばらく静かな時間が流れた。スハーラが決心したように口を開こうとした時、それを見計らったようにサンザがゆっくりと話しはじめた。
「カインザーとザイマンの王子がサルパートに見えたようですね」
「はい。伝令鳥が伝えてまいりました。もうすぐネイランの町に着く頃だと思います。マキア王がネイランにいらっしゃいますので、まずは王様とお話をする事になるでしょう」
「ここにも参りますね」
「ネイランにどのくらい滞在されるかにもよりますが、おそらく王子達とマルヴェスター様は三週間程の間にはこちらにいらっしゃると思います」
 老女は残念そうなため息をついた。
「あなたにはわかるでしょうスハーラ。この国の人々は大きな変化には慣れていません。一年の大半を雪の中で過ごす私たちは、目の前の生活の事を考えるのがまず第一で、あまり先の事までは考えるのがうまく無いのです。この国の人々の暮らしも政治の機構も、もう長い間変わっていません。言うなれば国全体が年老いてしまっているような状態です。それに、私達の敵である北の将も年老いました」
 サンザはそこで一息ついて、ゆっくりとお茶を飲んだ。
「サルパートと北の将の戦いは、少なくとも私の代の間はおだやかに済むと思っていたのですが。まさかカインザーやザイマンの男達が大挙して押し寄せて来る事など、考えてみた事もありませんでした。私が心配するのは、この国の人々の心があまりに急激な変化に耐えられないのではないかという事なのです」
 スハーラはお茶を膝の上にのせ、まっすぐにサンザを見て問い返した。
「お言葉ですが、そのために人々がギルゾンの狼に殺されてもですか」
「マキアが話し合いに出かければ良いのです。若い頃に私がしたように」
 かつてライバーと対決したがある巫女は、思い出すようにそう言った。若き日、サンザはサルパートの代表として北の将の要塞を訪れ、これも若かったライバーに一時の平和を訴えた。ライバーはサンザの凛とした美しさと勇気に感銘を受けて、数年の平穏をサンザに約束した。圧倒的な軍事力を持ちながら、ライバーが老いるまでサルパートを攻略しきれなかった背景には、サンザへの好意も含まれているとの噂もあった。しかし、スハーラは納得しなかった。
「目をそらしてはなりません。サンザ様。それでこのサルパートが一時生き延びても、現在ソンタールの包囲網に取り囲まれているセントーンが滅ぼされてしまいます。セントーンが滅びれば、これまでセントーンを囲んでいた将や兵が、残りのシャンダイアの国々にやってきます。遅かれ早かれ私たちは滅びるでしょう。それに現在の北の将はサンザ様が憶えていらっしゃるライバーではありません。あの悪魔のようなギルゾンに操られているだけなのです。ギルゾンには話し合いの余地はありません」
 スハーラはいつになく熱っぽくそこまで一気に話すと、少し急いでお茶を口に含んだ。しかしそんなスハーラを見ながらサンザは寂しそうに笑った。
「あのライバーも老いたのね。若いころはそれはそれは立派な戦士だったのに。それにしてもスハーラ、あなたは強くなりましたね。ザイマンの王子はそれ程頼もしい方ですか。あなたとブライス王子の仲は、学校中の見習いの巫女達の噂になっていますよ」
 スハーラは少し顔をあからめながら答えた。
「ブライス様だけではございません。セルダン王子も、カインザーの将軍達も、そして二千五百年ぶりにあらわれたバルトールのベリック王も。皆頼りになる方達です。彼らはこの国を北の将とあの残酷な魔法使いから解放するためにやってくるのです。どうかお心を強く持ってください。そしてリラの巻物をサルパートの民の先頭に立ててお進みください」
 サンザの顔から笑みが消えて悔しそうな表情になった。
「それはもうあなたの仕事なのですスハーラ。私は自分の力では、ほとんど歩く事ができません。なぜ、エイトリ神は巻物の守護者を終生とお決めになったのでしょう。剣の守護者のように、譲りたい時にしかるべき後継者に譲る事ができればよいのに」
 スハーラも唇を噛んだ。それが問題なのだ。おそらくその意志があってもサンザにはギルゾンと狼達に立ち向かう事は無理だろう。
(ああ、マルヴェスター様が早くこないかしら。何か知恵は無いだろうか)
 しばらくしてスハーラは師でもある巻物の守護者の部屋を出た。庭に出ると、静謐な空気の中にかすかに春のにおいがした。
(あとふた月でこのあたりは雪が溶け始める。ここは何とかギルゾンの攻撃に耐えられるだろう。しかし北の村々は無理だ。このままでは必ず滅びてしまう。何とかしなければ)
 凍える手に息を吹きかけながら、スハーラは自分の住む宿舎の建物に向かった。
(さてと、もうすぐブライスがやってくる。あの不平屋の大男に文句を言わせないように暖かな部屋と食事を準備しなければ)
 そう考えながらスハーラは靴の中で何気なく足の指を動かした。靴下の親指の所に穴があきそうになっている。
(最近歩く事が増えたからかしら。そうだ、ブライスは厚手の靴下を持ってきているだろうか。いや、そもそも海賊は靴下をはくのかしら)
 巫女は形の良い首をかしげながら、雪の中を歩いていった。

 ネイランに向かう街道には人影がまばらだった。季節は冬のさなかであり、セルダン達は北風に向かって身を縮ませるようにしながら馬上で手綱を握った。手はすぐにかじかみ、耳ははれて厚ぼったくなった。すれ違うサルパートの人々は寒さに慣れているようで、震える事もなく黙々と歩いていたが、暖かい地方に生まれ育ったセルダンもブライスもうまく寒さになじめなかった。やがて道端の茶色い土が黒いくなり、枯れた下生えさえもまばらになって、細かな雪が風に吹かれてサラサラと道を横切るようになったある日、セルダン達は街道の宿に逃げ込むように飛び込んだ。サルパートの土地は痩せ、人々は小さな家で質素な暮らしをしるようだったが、街道沿いの宿だけは木材とレンガをふんだんに使ったがっしりした造りをしていた。やはり、兵士や神官達が利用する事があるからだろう。

「あらかじめ言っておきますが、俺はやりませんよ」
 暖かな食堂の、暖炉の前の椅子にさっさと腰をおろしたブライスはそう宣言した。粉雪をはたきながらマルヴェスターが胡散臭そうに文句を言った。
「話というのは、まず何を、という事から話すようにと習わなかったのか」
 ブライスは額の輪を指さした。
「これです。こんな寒い所に我らが女神は呼び出しませんよ」
 マルヴェスターは思いもよらない事を言われたような顔をした。
「何だそんな事か。それは大丈夫だ、また綿入れを着て出てくるだろう」
 アシュアンと並んで旅の支度を降ろしていたエラク伯爵が、キョトンとした顔で話を聞いていた。セルダンが説明した。
「ザイマンの女神は、寒いと綿入れを着てあらわれるんです」
「ほほうそれは、さすがに用心深い女神様でございますな。しかしそれであの伝説的な美しさがいくらかでも割引になってしまうという事など、もちろん無いのでございましょう」
「もちろん。ただ、普段の薄い衣姿があまりに美しいので、ちょっと残念なだけです」
 マルヴェスターがそんなセルダンを見てニヤリとしながら話を戻した。
「しかしブライスよ、良い事に気がついた。そろそろ女神におうかがいをたてる頃合いだな。いざというときにあらわれてくれないと困るから、明日の朝一度試してみよう」
 ブライスはうめいた。
「明日にはネイランに着くのでしょう。せめて王宮の屋根がある聖堂でさせてくださいよ」
「そこまでは譲歩してもよいが、ネイランの王宮に聖堂などあったかなあ」
「ありませんね」
 やっと自分にわかる話題になったので、エラク伯爵がすかさず答えた。ブライスは憤然とした。
「サルパート人が不信心だとは知らなかったぞ」
「いえ、エイトリ神はあまり形式を好まないのです。智慧の峰の神殿とて、エイトリ神が顕現した記録はほとんどございません」
「それじゃエイトリ神はどこにあらわれるんだ」
「ほとんどが吟遊詩人サシ・カシュウの場合のように山の中です。神殿や学校はむしろ政治的意味合いが強いのです」
 セルダンは話がわからなくなくなってきた事に気がついた。どうも自分には知らない事が多過ぎる。勉強をさぼったつもりは無いのだが、カインザーの教育方法自体に問題があったのではないかと最近思い始めていた。やむなくセルダンは質問した。
「この国は神官と巫女がおさめているんですよね」
 エラク伯爵が活き活きと答えた。
「はい。神官の政治力と巫女の霊力です」
「それではマキア王は何をなさっているのですか」
「もちろん軍を率いています」
「うーん、カインザーではそれはすべて王家に集中していますよ」
「それはうらやましい。しかしサルパートはこの形態で三千年間。何とか国を存続させて参りました」
 これに対してマルヴェスターは辛辣だった。
「だからサルパートは動きが鈍いのだ。大切なことがいつになっても決まらん。この国が今日まで滅びないで生き延びたのは、雪のおかげと辺境だったのでソンタール軍の本体が動かなかったおかげだ」
 雲行きがあやしくなってきたので、すでにエラク伯爵と名前で呼び合う仲になっていたアシュアンが割って入った。
「エラク、マキア王へのご連絡はもう」
「はい。すでに迎えを送ってくださるように使者を出しました」
 あきらめがつかないブライスはセルダンに期待を込めてたずねた。
「セルダン、クライドン神は軍神であるとともに火の神だ。カンゼルの剣を一振りすると、暖かい炎の輪があらわれるとか、そういう術はつかえないのか」
 セルダンはびっくりした。
「今日は冴えてるなあ、次から次へといい事を思いつくじゃないか。それはやってみる価値があるかもね」
「試すのはやめておけ。聖宝をおもちゃにするな」
 マルヴェスターが怒った所へ、重い宿の扉を開けて見回りに出ていたベロフとタルカス達が戻ってきた。三兄弟は買い出しの荷物を山程かかえている。ベロフが報告した。
「やはりここでも小型の狼ルフーの噂が広がっています。まさかこんな低地の街道沿いの町までやって来るとは思えないのですが」
 しかしエラク伯爵は心配そうだった。
「わかりません。もうサルパートの峰には彼らの餌が無いのです。ふもとの村が襲われるのは時間の問題ではないでしょうか。まさかバイオンまでやってくる事は無いでしょうが」
 セルダンが不思議そうに言った。
「ドラティの次はバイオン。なぜアイシイム神とバステラ神は、様々な生き物を創った後、その雛形となった生物を消さなかったのでしょうね」
 マルヴェスターが教えた。
「もとより害をなす生き物では無かったのだよ。シャンダイアが分裂した時にいち早く獣に目をつけたガザヴォックがその魔力で繋ぎとめたのだ。だから闇の側にだけ巨獣がいる。むしろ戦いの哀れな道具にされたと考えたほうが良いのかもしれない」
「そうだったんですか」
 老魔術師はいつのまにか手にしていたビールを目の高さにあげた。
「もちろんそれで危険さが減るわけではないがな」

 翌朝、確信犯的寝坊をしたブライスをスウェルトの鞍上に押し上げて、セルダン達はネイランの町に向かった。どんよりとしてよく時間がつかめない空の下、ブライスの腹時計が大声で昼を告げた頃、海沿いの低い土地にどっしりと広がる大きな町が一行の前にあらわれた。その町は都市と言ってもよい規模だったが、色彩には乏しく、むしろ家々を覆う白い雪の美しさが印象的だった。建物の窓は皆小さくて二重になっており、扉は厚く重く外気を遮り、煙突からは白い煙が立ち上っている。総じて、ネイランという町はサルパートではかなりマシな町のようにセルダンには見えた。
 町の入り口にあたる広場で一行は馬を休ませた。
「実に堅実なつくりの町ですな」
 馬車から降りたアシュアンが感想をもらした。エラクが誇らしげに説明した。
「お国柄です。華やかな町並みに期待されているのでしたら、ここサルパートではがっかりなさるでしょう。どこもここと同じ。暖かく、そして安全を第一に建設されております」
「こうなると暖かいだけでも嬉しいと思うぞ、伯爵。ザイマンの暑い海が恋しい。王の執務している宮殿というのはは遠いのか」
 ブライスがふるえながらたずねた。
「町の北側。ここからだとちょうど反対側になりますな」
「それでは宮殿より先に食堂に寄ろう。俺は腹が減った、久々に新鮮な魚が食いたい。街道の宿ではしなびた野菜と保存肉ばかりだったからな」
 ブライスがそんな話をしている所に、赤い服に緑のマントが雪に映える数十騎の迎えの騎馬隊が到着した。
「美しい部隊ですな」
 批評家の目でベロフが値踏みするように感想を述べた。馬にまで華麗なガウンをかけた騎馬隊はたしかに美しかったが、あまりに揃いすぎている歩調は、戦いの訓練より、行進の訓練に時間を費やしている事を物語っていた。
 騎馬隊の指揮官は、ブライスの訴えを無視してセルダン達一行を容赦なく王の宮殿に送り届けた。宮殿は確かに町の反対側にあったが、それはおそらく北からの侵攻にそなえて町を守るために建てられたからだろう。南の国からの旅人達の前に姿をあらわした宮殿は、深い堀と頑丈な壁に守られたまるで城のような建築物だった。一行ははね橋を渡り、雪が積もった庭に馬を繋いで、宮殿の階段を上った。すると建物の入り口に、兵士に混じって長身で白髪の貴族が出迎えていた。先導役のエラクがセルダンに紹介した。
「王の顧問をおおせつかっている、レリス侯爵です」
 長身痩躯、娘によく似た侯爵は笑顔で一行を迎えた。セルダンはレリスの手を握って声をかけた。
「お世話になります侯爵。スハーラさんはお元気ですか」
 侯爵は少ししわがれた低い声をしていた。
「なにぶんにも山の上の事で私には様子がかなかわかりませんが、健康な子ですので元気にしているでしょう」
 セルダンの後ろにふらりと立ったマルヴェスターが声をかけた。
「久しぶりだなレリス。王の様子はどうだ」
「相変わらずと申し上げるのが適当でしょう。北の要衝ブンデンバートは堅城です。しかし城をいくら守り抜いても、山が死んでしまってはサルパートは滅びます。さすがに今回のギルゾンの襲撃の繰り返しには、王もお心を痛めていらっしゃいます」
「痛むのが心のうちにどうにかしよう。足の先が狼の口の中で痛み出しては手遅れだ」
「まさしく。さあこちらにおいでください」
 宮殿に迎え入れられた一行は、低い天井の廊下を通り抜けて奥まった中庭に面した大きな部屋に案内された。そしてそこにサルパートの聖王マキアの姿があった。
 赤と緑の豪華なマントを身にまとったマキアは何か書類のような紙筒を握って、部屋の中を歩き回っていた。部屋を見回すと壁には深い色合いの壁掛けがかかり、残りの壁も隙間無く絵や地図でうめられている。まるで壁の石がわずかでも見えると、そこから寒さが進入してくるのでは、という恐怖にかられているようにも見える。セルダン達がやって来た事に気がついた王は持っていた書類を机の上に投げ出して、そそくさとかけ寄って来た。
「これはこれはようこそ北の地へ。セルダン、ブライス、そして長老」
 そう言ったマキアを見たマルヴェスターの顔が曇った。
「マキア、たっしゃで何より」
 マキアは長身の人間が多いサルパート人にしては小柄だったが、細面の神経質そうな顔だちはサルパート人特有のものだった。笑えばかなりのハンサムだと思われるのだが、その目は落ち着き無く、あおじろい顔は憂いに満ちていた。
 マブライスが小声でセルダンに教えた。
「マキア王の顔が、かつてマルバ海で亡くしたマルヴェスターの弟弟子のセリスに似ているという噂だ。最も魔術師セリスもサルパート王家の者だったから不思議という程でも無いが」
 セルダンは違う事を考えていた。
「そうか、僕はセントーンの魔術師ミリア様に似ていると思った」
 ブライスは妙な顔をして、マキア王をじっと見つめた。
「ああ、そういえばそうだ。なんだセルダン。女性の顔をちゃんと憶えるようになったじゃないか」
「ミリア様の美しさは格別だからね」
「そんな事エルネイアの前で言うなよ」
「もう言った」
「結果は」
「きっかり五日。口をきいてもらえなかった」

 華美と言ってもよい服を身にまとった青白い細い顔の聖王は、油断のない目つきで一同を見回して部屋に招き入れた。堅苦しい挨拶がかわされた後、一同は円形のテーブルを中心にして席についた。例によってマルヴェターは座らなかった。この老人は酒を飲むときと食事をする時以外は座らない。長旅の疲れが一同に溜まっている。体力の充実しているベロフですら椅子に座った時にあきらかに安堵の息をもらしていた。セルダンはあたらめてこの魔術師の超人的体力に驚いた。
「カインザーと、ザイマンの王子がお越しとはこころ強い事ですな」
 そう言ってマキアは口元をゆがめて笑った。マルヴェスターは笑わなかった。
「カインザーには、帰還したバルトールのベリックも控えておる。マキア、北の狼とケリをつける時が来た」
「御大はだいそれた事を事も無げにおっしゃる。ルフーならば兵を広く分散させて、何とか防げるかもしれません。しかしギルゾンとバイオンにはわずかの兵など無力です。軍団を丸々一個当てなければ戦えないでしょう」
 ベロフが発言した。
「どこかにおびき出せないのですか」
「やったよ。だが、奴らは速い。罠など仕掛けてもかかってくれないのさ」
 マルヴェスターが話を変えた。
「まずは力のある聖なる巻物をスハーラに継承させる事だ。年老いたサンザの重荷を移してやれ」
「巫女は死ななければ、次の巫女に継承できないのはご存知のはずです。できればとっくにしています」
「そろそろその伝統を変える時がきたのだと思う。そもそもエイトリ神が最初にそう決められたのではないのだ。知恵の巻物などという大層な者をあずかった初期の神官達が、経験の浅い若者にそれを自由にさせるのを恐れて神にお願いしたのだ」
 ブライスが驚いた。
「そうだったんですか。それではもう一度神官達にエイトリ神に願わせればいいんですね」
 マキアは素っ気無かった。
「そう簡単にはいかんよ。この国の神官達の頑固さはいささか異常だ。王のわしの話ですら聞く耳をもたんのだから。それに神官達に聞いたところによると、ルドニアの霊薬が無ければ、いずれにしてもどうにもならないらしいじゃないか」
「それは現在、バルトールのベリック王の部下と、我がザイマンが国をあげて探している。絶対に見つけてやるさ」
 ブライスが請け負った。そこでカインザーの外務大臣のアシュアンが、緊迫した空気をとりなすように握りあわせた両手をテーブルの上に置いた。
「どうやら議論はそこに行き着くようですな。マキア王、我々は今日この町に着いたばかりです。しばらく状況を検討する時間をください。そして明日、あらためてこの件について解決策を検討して参りましょう」

 会議の後、宮殿の兵士達に部屋に案内されようとしていたブライスを、レリス侯爵が呼び止めた。ブライスはサルパートの重鎮とも言える貴族に向かって、ゆっくりと振り向いた。
「その、娘の事で少し話をしておいたほうがいいと思いまして」
 侯爵は控えめに言ったが、ブライスは遠慮が無かった。
「気になさらずに侯爵。俺達は愛し合っています」
 レリス侯爵は見るからにひるんだ。
「そう娘が言ったのですか」
「いえ。ただ俺は女性に関しては詳しいのです」
 侯爵は顔を覆うように両手を広げてブライスに訴えた。
「ブライス王子、スハーラは男性に詳しくないのですよ」
 そして興味津々といった感じで見物していたマルヴェスターに助けを求めた。
「マルヴェスター様」
「ふおほっほっ、心配するな。ザイマンの守護神は女神だ、わしが見た限りでは、おそらく世界で一番女性を大切にする民族だろう」
 これにはセルダンが興味を持った。
「そうなんですか。それではカインザーはどのあたりです」
「もちろんソンタールも含めて、すべての国々の中で最下位だ」
「それはひどい」
「安全が第一という理由が無ければ、わしだってアーヤをあずけたりせなんだわい」
 ブライスもこれに同意した。
「およそロマンチックでは無いからなあ、粗暴だし、いつも戦闘で屋敷は空けっぱなしだし。たぶんカインザーの全女性は今の評価に賛成すると思うよ」
 セルダンの後ろに控えていた妻帯者のアシュアンとベロフは何か言いたげだったが、顔を見合わせて反論の言葉が見つからない事に気がついた。ブライスがおおらかに笑って侯爵の背中をたたいた。
「そういう事です。レリス侯爵。どうかご心配無く」

 王宮の客室に落ち着いた一行は、夕食の後、セルダンに割り当てられた大きな部屋に集まった。そこでセルダンはまずブライスに文句を言った。
「ブライス、ちょっとレリス侯爵に意地悪だったんじゃない」
 ブライスも少し機嫌が悪いようだった。
「ううむ。こう言っては何だが、俺はなんとなくサルパート人が好きになれないようだ。俺達は戦っているんだぜ。なぜマキア王はああも他人事のように巻物や狼の事を言うんだ」
 ベロフもこれに賛同した。
「同感ですな。おっつけロッティとクライバーがテイト城に到着するでしょう。カインザーの戦士が使えるのですから、これからはもう少し積極的な考えを持ってもらいたいものです」
 マルヴェスターは冷えた顔で、一同を見回した。
「そろそろこの話題はやめにしよう。サルパートの民はおとなしい。だがそれは無力な事では無いのだ。かつてはサンザも勇敢だった。マキアの父もまた勇敢だった。だがそれは国を守るための勇敢さだ。敵を攻撃する事には慣れておらんのだ。自分達と考え方が違うからと言ってさげすんではいけない」
 タルカスが発言した。
「王子、町では民族についての面白いたとえを耳にしました」
「何と言っていたんだ」
「ギルゾンの狼に加えて、カインザーの狂戦士と、ザイマンの海賊と、バルトールの盗賊がこの国を破滅させにやってきた」 
 ブライスがはじかれたように大笑いした。
「これは参った。それでも俺達はこの国を救わけらばならんばならないのか」
 それを聞いて、マルヴェスターがおごそかに言いわたした。
「そうだ。この国を助けるんだ。そうしなければ、我々は東に進めない。いつになってもソンタールに向かえないんだ」
 シャンダイアを支え続けた長老のこの言葉には誰も逆らえなかった。ブライスもしぶしぶ従った。
「もちろんそのつもりです。ただちょっと期待したいたのと違っていただけですよ。俺達は全力で北の将を倒しましょう」
「うむ。だがしかしちょと難航しそうな気がしてきたぞ。我々は滞在を長引かせるわけにはいかん。仕方がないな、アシュアンはここに残って引き続きマキアにカインザー側から見た状況を説明してくれ」
 これから智慧の峰への山登りをするのではないかと恐れていたアシュアンは、ホッとしたように肩の力を抜いた。
「もちろんそのために私は参ったのです。ここで連絡係をつとめさせていただきましょう」
「わしとセルダン、ブライス、ベロフ。そしてタルカス兄弟で智慧の峰を目指す。サンザとスハーラに会わねばなまい。そして神官達にも」

 翌朝、銀の輪の力を借りてエルディ神を呼び出そうとしたブライスの試みは失敗に終わった。祈りから立ち上がったブライスはホッとしたようにも見えた。
「遠いのかな、やはり」
 マルヴェスターは残念そうだった。
「何か印を送ってよこした気配は無いか」
 皆、しばらく息をひそめてまわりに変化が起きないか観察した。
「どうやら無いようですね」
 セルダンも残念そうだった。久々のエルディ神との再会にちょっと若者らしい期待を持っていたのだ。マルヴェスターがあきらめて手を振った。
「サルパートはカインザーのように聖宝神の力が完全に支配しているわけではないからな。この次はどうしても必要な時に、セルダンのカンゼルの剣の力も借りて試してみよう」
 その日の午後、セルダン達は王宮の庭で旅の準備をした。サルパートの旅の寒さと厳しさはここまでの旅程で身に染みていたので、一同は特に防寒対策に余念が無かった。セルダンの隣で馬の背に鞍を置いていたブライスは、黒みがかったサルパートの峰の空を見上げて嘆いた。
「どうしてこんな時期に山登りをしなきゃならないんだろうなあ。あと二か月もすれば少しは気候も良くなるだろうに」
「その二か月で智慧の峰が死んでしまうのさ。行きたくないのかいブライス」
「いや、行かねばならない。俺はザイマンの王子だ」
 セルダンは不思議そうに巨漢の友人を見つめた。
「それってどういう関係があるの」
「わからん。ただ言ってみたくなったんだ。なんとなく俺がここに来る事にも意義がありそうな気がしたのさ」
 マルヴェスターが近づいてきて、妙に真面目な口調で言った。
「おまえにしては賢い事を言ったものだ。おそらく聖宝の守護者が智慧の峰に登る事には意義があるのだろう。だが我々が最終的に目指しているのが北の将の要塞だと言う事を忘れるな。使命はさらに北の果てにあるのだ」
 そこへテイト城主でもある、エラク伯爵がやってきた。
「セルダン王子におうかがいしたい事がございます。青の要塞の会議ではロッティ子爵とクライバー男爵がポイントポートとテイト城の間の地域を平定して、カインザー、サルパート間の陸路を確保する事になっていたと思うのですが」
「その通りです。ロッティとクライバーの軍の力からして、そろそろテイト城に着く頃ですよ」
「いや、それが」
「まだなのですか」
 意外といった感じでベロフが確認した。
「あの辺の北の将の軍は強いのか」
「いえ、それがどうやらテイト城に向かっていないらしいのです」
 マルヴェスターがうめいた。エラク伯爵が続けた。
「今朝着いた伝令鳥の知らせによると、どうやら、ポイントポートを出てすぐに北に向かったそうです」
 マルヴェスターは真っ赤な顔をしてセルダンに詰め寄ると、地団駄を踏んで大声をあげた。
「だからカインザーの将軍をかってに行動させられんのだ。おまえらを放し飼いにするとすぐにこうなる」
「僕がしたわけではありませんよ」
「だがおまえの父の家臣だ、やがておまえの家臣となる。ああ、カインザーの貴族など信用するものではないわい。クライバーはともかくロッティまでも」
 ベロフが苦笑した。
「いや、おそらくロッティが引っ張っているのでしょう。平原であの男を馬に乗せたら誰にも止められません。仕方ないでしょう、あの二人ならばいざとなれば猛スピードで退却できます」
「勝手にするがいいわい」
 ベロフがセルダンに進言した。
「こちらはこちらで、少し腕のたつ戦士を補充いたしましょう。山岳地帯や狭い土地では、大軍や騎馬軍団よりもむしろ剣技に優れた者のほうが役に立つ時があるはずです。我がベロフ家の精鋭部隊の抜刀隊が必要な時が参ったような気がします。船でネイランに呼びよせましょう。お許しが出ればすぐに出発できるように、すでにバイルンには話をしてきました」
「そうだね。ねえブライス、もっと北のブンデンバート城に近いアントワには、バイルンの船では運べないと思うかい」
「大丈夫だろう。ザイマンの航海士を乗せてあるから。このあたりの沿岸なら、カインザー人の操船技術でもそれ程難しくないはずだ」
「それじゃあベロフ、抜刀隊は一足先にアントワのほうに行くように指示してくれないか。いずれにしろ戦場はもっと北だから」
「かしこまりました」
 マルヴェスターはぷりぷりしながら、横でかしこまっているエラク伯爵に指示を出した。
「ついにカインザーの特殊部隊まで繰り出すのか。どうやらカインザーの狂戦士というたとえは正確らしいわい。エラク、わしの言葉として、青の要塞のオルドンに伝えてくれ。トルソンだけは動かすな。あの男がポイントポートを離れたら、この戦線全体が大混乱に陥ってしまう」
 セルダンが同胞をかばった。
「マルヴェスター様。それはあんまりな言い方」
「おまえ達にはわかっておらん。かつて二度、ポイントポートを手中にしたカインザーが結局退却を余儀なくされたのも、カインザーの諸侯が己の勇を頼んで、ソンタール相手に無謀な戦いを挑んだからだ。今回そのテツを踏んだら、サルパートとセントーンが道連れになる」
 それを聞いたエラクは、真っ青になって伝令鳥の小屋に飛んでいった。

(第三章に続く)


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