第四章 母の歌


 その日は学校のあたりに雪は降っていなかった。このところ晴れの日が多い。寒さの厳しい智慧の峰にも春が少しだけ近づいてきたのかもしれない。夕陽を浴びた三つの建物は心なしか暖かそうにさえ見えた。宿舎の二階にあるスハーラの部屋の窓からは、学校からふもとへと続いている道が見える。夏には茶色い土が見えるその道も、今はキラキラ光る雪の中にわずかにくぼんだ溝になっていた。しばらくここを通ってくる者がいなかったのだ。スハーラはその道をぼんやりと眺めた。
(もうすぐこの道をブライスがやって来る。自分がこんな気持ちで窓の外を眺めるなんて一年前には思いもよらなかった)
 ふと視線を上にあげたスハーラは針葉樹の森のはるか彼方、学校より高い場所に建っている神殿の方角の空に黒いゆらめきがあるのに気がついた。やがてその黒いゆらめきは汚れた煙になって立ち昇った。スハーラは激しい胸騒ぎを感じて急いで階下に降りたが、まだ他に気がついた者はいないようだった。そこで通りかかった巫女達を呼び止めて、数名の者を従えて庭に出た。外に出た巫女達は、スハーラの指さす神殿の方角をふり仰いで、真っ黒になった空に恐怖の声をあげた。スハーラが学校付きの兵士を調べにやろうとしたその時、神殿と学校を繋ぐ道のほうに、血だらけのエイトリ神の神官の姿が見え、やがてがよろめきながら庭に走り込んできた。そしてその数は見る見る増えていった。
「ああ、何てことでしょう」
 巫女達は駆け出して行って、倒れそうになっている神官達を助け起こした。
 程なくして、学校の施設の中で最も広い部屋が多い教会はけが人の手当のために騒然となった。だが実際にはたどり着く事が出来た神官達には、けがの程度が軽い者が多かった。ギルゾンとルフーの襲撃を直接受けた者はほとんどが命を落としてしまったのだ。巫女達の神官への手当が一段落する頃には、学校のまわりはすっかり夜の闇に包まれていた。横たわった神官達の列の中で一息ついて顔を上げたスハーラは、神官長のエスタフが巫女の長サンザの部屋に向かうのを見て、その後を追った。
 スハーラが部屋に入った時、年老いた巻物の守護者は椅子に座って真っ暗な窓の外を凝視していた。胸の前にはリラの巻物がしっかりと両手で握られている。隣に長い髭のエスタフがやつれきった沈痛な面持ちで立っていた。スハーラは心配そうに声をかけた。
「サンザ様、ギルゾンは」
 サンザはスハーラに気がつくと険しい表情の顔を向けた。
「スハーラ、落ち着きなさい。もしギルゾンがここも襲うつもりならば、逃げても無駄だわ。無防備な夜の山道で襲われるより、むしろここで抵抗したほうが良いでしょう。手があいている巫女達をあつめておきなさい」
「はい」
 スハーラはチラッとエスタフに目をやったが、エスタフの青白い顔には血の気が全く無く、呆然とサンザを見つめているままだった。スハーラはいかめしく恐い印象しか無かった神官長の打ちひしがれた姿に、この災いの深刻さを痛感した。スハーラが学校中をかけまわって、手が空いた巫女達を宿舎のエントランスに集め終わった頃、屋外に狼の遠吠えが響いた。その声に引きずられるように見習いの若い巫女が恐怖の悲鳴をあげた。スハーラは急いで教会の最上階に戻り、年長の巫女達と一緒に自分で歩く事ができないサンザの輿をかついだ。輿の上のサンザが大切にしている青いスカーフをしているのを見てスハーラは不思議な感じがした。サンザはスハーラの視線に気がついて微笑した。
「もう部屋には戻れないかもしれないでしょう。せめてお気に入りのものを身につけさせてちょうだい」
 巫女達は巻物の守護者の落ち着いた覚悟にうながされて、輿を階下におろした。
 やがてサンザの輿はゆっくりと教会から出た。すっかり暗くなった中で、学校の建物だけがかがり火で照らし出されている。闇は揺れる炎の明かりに切り取られ、なんとなくこじんまりとした空間が巫女達の目の前にあった。突然夜の冷たい風が乱れた事に気がついたスハーラが、森の中に視線を向けると、闇の中に狼達の光る目が点々と浮かび上がった。
 サンザも、スハーラも輿をかついできた巫女達も息を殺して闇の中をみつめた。やがてその闇から溶け出すように小柄な男がかがり火のあかりの中に歩み出てきた。先程見たエスタフの青白い顔よりもさらに青い顔。なめらかな肌、そして冷たい目。その姿からだけでは年齢すらうかがい知る事も出来ないが、その存在自体が放つ禍々しさは例えようもない。
「ギルゾン」
 サンザが小さくあえいだ。黒い短剣の魔法使いギルゾンは雪の向こうに、やや体を右にかしげてじっとたたずんでいた。巫女達は命まで凍らされてしまいそうな恐怖に必死に耐えた。
 しかし突然その黒い姿はフッとかき消すように闇に消えた。巫女達は息が続くかぎり息をとめて何も無くなった闇をみつめていたが、やがて大きく息を吐きだした。その時かがり火が大きくはぜて、闇を切り裂く鋭い音に巫女と神官達は驚いて震え上がった。

 エイトリ神の幻を見て、ただならぬ事態が起きた事を察知したセルダン達は、学校への道を懸命に急いだ。しかし雪山の行軍は難しく、寒さに不慣れな若者達の歩みは心ほどには進まなかった。そんな中でセルダンが驚いたのはブライスの変わり様だった。これまで雪や山に文句を言いまくっていた男が、あの日から一言の不平も言わず黙々と足を運ぶようになったのだ。真剣になったブライスは、本来の活躍の場である海を遠く離れた山の上においてさえ力強く頼もしく見えた。やがて疲れ切った一行の前方の、雪をかぶった針葉樹の向こうに尖った屋根の建物が三っつ見えてきた。セルダン達はエイトリ神の幻を見てから四日後に、ようやく学校にたどり着いた。
 学校が見えたとみるや、それまで最後尾を黙々とついてきていたブライスは、先頭のセルダンを追い越して走り出した。セルダンは驚いてその後ろ姿を見送った。大男はなだらかな坂道を駆け上がって学校の庭に走り込んだが、似たような三つの建物の前でしばらくまごついていた。その時、ブライスが額にはめているエルディ神の銀の輪が一瞬キラリと光り、ハッと気がついたブライスは弾かれたように右手の建物に走って行って入り口の扉を開いた。大きな音がして開かれた扉の向こうには、ふいをつかれたスハーラが驚いた顔をして立っていた。ブライスは何も言わずに、背の高いやせ気味の巫女を抱きしめた。
 セルダンはその光景を見て不思議そうにマルヴェスターにたずねた。
「今、ブライスの額の輪が光りましたよね」
 マルヴェスターが苦笑いした。
「いつあれができるかと心配しておった。ザイマンの王子であるという事は、正しい道を見つけて皆を導くという事なのだよ」
「ブライスにはそんな力があったんですか」
「まだ使いこなせておらんがな」
 建物から続々と、巫女や神官達が出てきた。鋭い観察者でもあるベロフがまわりを見回した。
「ここにいるのは巫女と、護衛の兵士だけかと思いましたが」
 マルヴェスターがうなずいて考え込むように頬に手をあてた。
「神官達がここにいるという事は、神殿に何かがあったという事だ。さて行くか」
 カインザーのセルダン王子の後に、武術師範のベロフ男爵、元バルトールマスター、ロトフの家来であった黒い衣の大柄なアタルス、ポルタス、タスカル兄弟。そしてあたりを観察しながら、ゆっくりと翼の神の一番弟子マルヴェスターが続いた。集まってきた巫女や神官達は、初めて見るカインザーの戦士の姿に威圧されたようにあとずさりした。しかしその目がすがるように救いを求めている事が、セルダンには痛いほどわかった。やがて一行を囲んだ人々の中から、威厳のある老人が進み出た。白い長髭が心なしか震えている。セルダンはそれがエイトリ神の神官長エスタフだろうと思った。
「マルヴェスター、やられた。ギルゾンが神殿に来た」
 マルヴェスターはすれ違うように体を寄せ、自分と似たような歳格好の老人の肩をたたいた。
「泣き虫のおぬしの神が泣いている姿を見たよ」
「あっという間だった。神殿中に狼があふれ、ギルゾンが黒い短剣をもって神殿を荒らし回った。何かを探しているようだったと、見た者は話している」
 マルヴェスターはハッとしてたずねた。
「巻物は」
「無事だ。わしが持って逃れた。しかしギルゾンが巻物を求めていたのであれば、わしは生きていないだろう。事実、その後魔法使いは学校までやってきたが、興味が無さそうに去っていった」
「そうか。おそらくギルゾンは黒の魔法に関する何かを探しているのだろう。よし、まずサンザに会おう」
 セルダンは久しぶりに敵が間近にいる事を感じて身震いした。そしてドラティやゾノボートと戦った数ヶ月前の緊張感が戻ってきたのを感じた。エスタフは先頭に立ってセルダン達一行を教会の三階にあるサンザの部屋に導き入れた。すでにブライスとスハーラが中で待っていた。二人はしっかりと手を握り合っている。セルダンはサンザという巻物の守護者に初めて会ったが、惨事の直後というわりには、何かふっ切れたような明るい表情をただよわせていると思った。マルヴェスターはまずエスタフに話しかけた。
「エスタフ。どうやらギルゾンと決着をつけなければならない時が来たようだ。サルパートはこれまでの歴史の中で、様々な局面で有益なアドバイスをシャンダイアの国々にしてきてくれた。しかし力ある巻物を神殿から戦いの中に持ち出す事はしなかった。どうやらその姿勢を変える時がきたと思うのだ」
 エスタフは弱々しく答えた。
「それには異存は無い。今度こそはどうにかしなければならん。エイトリ神の神殿まで黒い魔法使いに蹂躙されてしまうとは。我々の不覚であった」
 エイトリ神の神官長は思いのほか協力的だった。マルヴェスターは今度はサンザに向かって言った。
「サンザ。巻物の守護者の地位をスハーラに譲る準備はできているか」
「もちろんよマルヴェスター」
 これにはさすがにエスタフが驚いて反対した。
「しかし、しかし、守護者は終生だ。変える事はできない」
「それを変えるんだ」
 マルヴェスターがピシャリと言った。サンザがその後を続けた。
「エスタフ、変えなければギルゾンに勝てないわ。私は一人では歩けません。でも輿に乗ってではギルゾンの動きについていけません」
 エスタフはみるからに取り乱していた。
「どうするんだ。何をするつもりなんだ」
「するつもりではない、おぬしがするのだエスタフ。わかっているだろう、三千年前におぬしらが頼んだ事と反対の事をエイトリ神にお願いするのだ」
「わしがか。わしの代で三千年間続いた智慧の峰の慣習を変えてしまうのか」
「そうだ」
「おお、何という事だ」
 エスタフは嘆いて、他の神官達と協議すると言いながら部屋を出ていった。セルダンはこの期に及んでも迷っている神官長の頭の硬さに心配になった
「大丈夫でしょうかマルヴェスター様」
「他に方法は無い。神官達もわかってくれよう」

 その日の夕暮れ、スハーラはブライスを連れ出して一緒に学校の裏道を歩いた。冷たい空気の中で細い体を大きなブライスに寄り添わせるようにすると、体中にぬくもりがひろがって心強さが増してきた。
(私たちにも戦う事ができるかもしれない。ブライスとセルダン王子とマルヴェスター様がいれば)
 学校から少し道を降った先には小さな小屋があって、その入り口にある止まり木には白い大きなふくろうが堂々ととまっていた。その目が明るく光っているのを知って大男がちょっと驚いたように立ち止まった。しかしスハーラは嬉しそうにふくろうのとまっている枝にゆっくりと近づいていった。ブライスは憮然として眺めている。
「翼の神の一番弟子のマルヴェスターのいる所では言えないが、ザイマンの人間は南の将の鳥にいつもひどいめに会っているせいか、どうにも鳥が好きになれんのだ」
 スハーラは時折見せるいたずらっぽい目でブライスを見た。
「サルパートのふくろうは知恵の象徴なのよ。この賢い鳥は私の友人なの。離れている間は寂しかったわ」
 だがそう言いながらスハーラはふくろうを森に飛ばした。
「さあこちらへ」
 小屋の小さな窓を通して見える部屋の中には、すでに赤い火が炊かれていた。そして二人は手を取りあって暖かい小屋の中に入っていった。

 翌日の朝食の前に、エスタフは神官一同を代表してサンザからスハーラへの、巻物の守護者の継承を承諾する旨を告げた。エスタフは寝不足で真っ赤な目をしていた。おそらく神官達は徹夜でこの問題を議論したのだろう。一同はそのまま教会の祭壇へと向かった。巫女や神官の主立った者達もすべてそこに集合した。厳粛な空気が支配する中、まずエスタフが祭壇の前に進み出てエイトリ神に祈った。その後、年長の巫女達がサンザの座った椅子を持って進み出た。サンザも巻物を胸に抱いて一心に祈りをささげた。セルダンはその間、過去に何度か神を迎えるときに感じた静謐な空気の心地よさに見をまかせていた。やがてサンザが顔をあげたが、その顔は一気に老け込んだように焦燥していた。
「エイトリ神がお答えにならない」
 横にいたエスタフが絶望的に声をあげた。
「やはりダメなんだ。エイトリ神が継承をお認めにならないんだ。巻物はサンザに託すしかないのだ」
 しかし後ろに控えていたザイマンの王子ブライスが前に進み出てその声をさえぎった。
「エイトリ神が姿を見せなくても、冠の守護者とその神が巻物の守護者の交替を支持するさ」
 エスタフはエイトリ神が答えなかった事に力を得て反論した。
「そんな馬鹿な事があるか、巻物はエイトリ神の守護物だ」
「だけど、エイトリ神もザイマンのエルディ神も、同じアイシム神の力を分け合った兄妹神でしょう」
 カインザーのセルダン王子もそう言って進み出た。
「剣の守護者とクライドン神も、スハーラさんへの守護者の交替を支持します」
 スハーラは意を決してサンザの前に進み出た。サンザは涙に頬を濡らしながら巻物をスハーラに渡した。
「あなたには素晴らしい力添えがいるのね」
 スハーラは厳粛な面持ちで巻物を受け取ると、振り返って皆に宣言した。 
「我々は進まなければなりません。狼からこの国を救い、シャンダイアに再び王を迎える日まで」
 
 セルダンやブライス達が部屋に戻ると、セルダンと同じ部屋をあてがわれていた、アタルス達兄弟の末弟のタスカルが待っていた。
「ベリック王からの伝言が届きました」
 セルダンは驚いた。セルダンと一緒だったアタルスがいかつい顔をゆがめて笑った。
「逃げてきた神殿の給仕の一人がバルトールの手のものでした。私達にしかわからなかったでしょう」
「何と言ってきたんだ」
「ふくろうの紋章の小瓶を、サシ・カシュウが持っているかもしれない。とのお言づてです」
 セルダンはパンと手を叩いた。
「よし、ベロフ。みんなを呼び戻してくれ」
 再びサンザの部屋に一同が集まった。セルダンがベリックの伝言を皆に告げた。
「スハーラさん。ベリックからの報告で、ルドニアの霊薬が見つかったかもしれないと伝えてきました。吟遊詩人のサシ・カシュウが持っている可能性が高いとのことです」
 皆がホウという声をあげた。セルダンは続けた。
「もし霊薬が手に入ったとして、どうすれば狼ルフーをギルゾンの手から解放できるのですか」
 スハーラが一同を見回して説明した。
「サンザ様と私達でずっと調べていたのです。そして何とかできそうな方法を考え出しました。巻物と、巫女達の祈りの力で霊薬を気体にします。おそらく煙のようなものになるのでしょう。祈りにはほぼすべての巫女の力が必要です」
 セルダンは困った顔をした。
「それは難しいですね。まず巫女達全員がいる場所に狼達を集めて、しかもその上に霊薬の煙をゆきわたらせなければならない。おびき出すのはむずかしいとマキア王も言ってたし」
「ギルゾンが来るように仕向ければいいんだろう。たとえば挑戦はどうだ。マキア王よりあの魔法使いに戦意をわかせる者が挑戦状をつきつけるんだ」
 ブライスが思いつくままに言った。セルダンはブライスの大胆な案に驚いた。
「挑戦。だれがするの」
 ブライスがマルヴェスターを見やった。マルヴェスターは指名を受けてちょっと嬉しそうな顔をした。
「挑戦はいい案かもしれん。しかしギルゾンは狂ってはいるが馬鹿ではないぞ。現段階でわしと正面から戦うはずがない」
「ならば冠の守護者の俺がやる」
 セルダンが控えめに言葉をはさんだ。
「いや、それは僕の役割だと思う。戦うのならば剣を持つ僕のほうがいい」
 ブライスはちょっと悔しそうな顔をした。
「やはりそうかな」
「場所も決めないといけませんね」
 サンザが言った。
「遠いのですが、私が若い頃通った道が、谷の中央を走っていました。あそこの谷の奥ならば狼達にまとめてルドニアの霊薬の煙をかける事ができるでしょう」
「どこです」
「牙の道」
 そう言うとサンザはテーブルの上の地図を指さした。セルダンは地図を目で追ってその地名を見つけると驚いて見開いた。
「北の将の要塞の真ん前じゃないですか」
 セルダンの後から地図を見たベロフは嬉しそうだった。
「それが挑戦というものです。まさしくカインザーの王子にふさわしい行為です。私と抜刀隊がお共いたしますぞ」 
 まだ不満げなエスタフがおずおずと文句を言った。
「まず、ルドニアの霊薬を手に入れなければならないだろう。それはどこで手に入るんだ」
「もはやベリックにまかせるしかないな」
 マルヴェスターがあっさり答えた。エスタフは驚いた。
「おい、子供にそんな大切な事をまかせてしまうのか。霊薬を探し出して、しかも我々が必要な時に、必要な場所に届けなければならんのだぞ」
「ベリックは信用してよい。若いが、現在のシャンダイアの貴顕の中では最も信頼できる者だ」
 セルダンとブライスは顔を見合わせた。マルヴェスターは続けた。
「ベリック本人はカインザーのセスタにいるが、配下の者がしっかりと届けてくれるはずだ」
 サンザは心配そうだった。 
「巫女達をどうやってそこまで導けばよいでしょうか。雪の中で北の将の軍やギルゾンの狼にみつかったら全滅させられてしまいます」
「しかし待ち伏せをするのだから、まさかマキア王の軍隊に送ってもらうわけにはいくまい」
 その時、苦しそうな顔をして、エスタフが部屋の中を歩き出した。ブライスがその姿を見て声をかけた。
「どうしたエスタフ。心当たりがあるのか」
 立ち止まってふりむいたエスタフの白い顔は、血が上って真っ赤になっていた。
「どうしても牙の道でギルゾンと対決すると言うのなら心当たりがある。だが、おそらくこの道を行くのは無理だ」
「なぜわかる」
「まだ誰も通り抜けた者がいないと言われているのだ」
 部屋中の者の注目がエスタフに集まった。エスタフはあきらめて吐き出すように言った。
「アントワの町の東、ジンネマンの大洞窟が牙の道につながっているという伝説がある」
 サンザがハッとして言った。
「ああ、思い出したわ。試す者がいないようにほとんど伏せられている伝説です。中に入った者が、誰も戻ってこないと言われているのだけは本当のようです」
 しかしブライスは嬉しそうだった。
「誰も通り抜けた者がいないのに、その先がわかるものですか。おそらく誰かが大昔に通り抜けて伝説を残したんでしょう」
 エスタフは首を振った。
「深い洞窟だ。もし先が牙の道に繋がっているとしても、闇の中を何日も行軍しなければならないだろう」
「行ってみよう」
 マルヴェスターが決めた。
「ジンネマンにはわしですら入った事が無い。しかしもはや我々には時間がない。このままギルゾンを野放しにしておくわけにはいかんのだ。洞窟の先が牙の道に通じている事を信じてみよう」
 エスタフが食い下がった。
「ベリック王のルドニアの霊薬は間に合うのか」
「それもベリックを信じる。たとえベリックが遅れて霊薬が手に入らなくても牙の道で一戦やってみる覚悟で行こう。わしとスハーラ、ブライスは、巫女達を連れてふもとの安全な道を選んで洞窟へ向かう。アタルス、ベリックの手の者にジンネマンの洞窟の入り口に一か月後に霊薬を届けるように伝えてくれ。セルダン」
「僕はギルゾンへの挑戦状を書いてから、まずアントワに行きましょう。そこでベロフの抜刀隊と合流して牙の道に向かいます」
「地上を、堂々とです」
 ベロフが言い添えた。ブライスがちょっと心細そうにぼやいた。
「山の次は洞窟か。どんどん俺の嫌いな世界に向かっていくなあ」
 しかしスハーラがそっと手を握ると、ブライスはテレ臭そうに笑った。セルダンは友人にいつもの不平が戻ってきた事にホッとした。

 翌日、セルダン、ベロフ、アタルス達三兄弟はさっそく学校を後にした。巫女達は準備が整い次第、ブライス達が引き連れてジンネマンの洞窟に向かう事になっている。出発には皆が見送りに出ていた。
「それでは一か月後、僕とベロフは牙の道に。マルヴェスター様達はジンネマンの洞窟に。ブライス、洞窟を抜けたらすぐに連絡をくれよ」
「ああ。だが洞窟を抜けてからの事を考えると、洞窟に馬を入れる事ができればいいんだが」
 スハーラが首を振った。
「それは難しいでしょう。短い時間ならともかく何日も暗闇を歩かせるのは無理です。それにいなないたり、暴れたりして敵に感づかれてしまっては何もなりません」
 マツヴェスターは残念そうだった。
「そのあたりは洞窟ヘ向かう道すがら考えてみるとしよう。挑戦状はどうした」
 セルダンが答えた
「今朝がた、伝令鳥に持たせてブンデンバート城に送りました。マキア王もネイランから城に戻られるようですので、王の元から北の将の要塞に届けてもらう事にします」
「よし。ではたっしゃで」
「しゅったーつ」
 ベロフのいつものかけ声を合図に、セルダン達は雪道を神殿に向けて出発した。神殿からアントワに向けて山を降りる道が続いているのだ。学校で借りた雪に馴れた馬でザクザクと雪道を進むと、やがて一行の前にギルゾンの黒い炎で焼け落ちた神殿が見えてきた。その徹底した破壊ぶりにを目にした一行は、声も無く硬い表情でそこを通り過ぎた。
(これはひどい)
 そう思いながらセルダンは心の中で聖なるカンゼルの剣に誓った。必ず黒い短剣の魔法使いを倒すと。

 かつてカインザー南部の山岳地帯を荒らし回った盗賊の頭バンドンは、どういう運命のいたずらか現在はカインザーで最も勇敢と言われるクライバー男爵の顧問のような地位についていた。しかしソンタール領に侵攻した軍に従軍している現在、バンドンは不平のかたまりになっていた。
 ロッティ、クライバーの軍は気楽とでも言っていい程の軽快さで、北の将の軍を蹴散らしていったが。背後の補給路は全く寂しいかぎりだった。この軍の補給と情報収集は、今では事実上バンドンがすべて取り仕切っている。ロッティの騎馬部隊も、クライバーの軍も規律が良かったので、住民のひどい反抗を引き起こす事も無くここまで進軍してきていたが、このままでは間違いなく行き詰まるだろう。
 バンドンは三万の軍の最後方に、配下の元盗賊達と共に進んでいた。クライバーを通してオルドン王に頼み込んで、クライの町の収容所から呼び寄せたのだ。いざという時にはこの者達しか信用しないとバンドンは心に決めていた。その盗賊の一人がのんきそうに無遠慮な声をあげた。
「おかしら、西に見えるのはサルパートの山ですよね」
「ああ、そうだ」
「夜にでもあそこに逃げ込みましょうぜ。おら思うんだが、カインザーの将軍なんぞに付き合ってたら、命が幾つあっても足んねえ」
「おめえの考えは正しい。俺もそうしたい所だが、あの山の中にゃあお宝はねえ。ギルゾンって狂った魔法使いの狼だけだそうだ。入ったらたちまち喰われちまう」
「そいつは割に合わねえ」
 バンドンはニヤリとした。いい事を思いついたのだ。
「どうせ逃げ込むならソンタールの山脈まで行ってそっちに逃げこもう。ソンタールはカインザーみてえな辺境とは違う。グラン・エルバ・ソンタールに近づけば、宝石や金を満載した商人や貴族達の馬車が道から溢れる程走っているらしい」
「そいつはいいや。行きましょうぜ」
「ああ」
 そう言ってバンドンは元盗賊達と大笑いした。そこに情報収集のため偵察に出していた部下が戻ってきた。
「おかしら。大事な情報があります」
「よし」
 そう言ってバンドンは馬の速度をあげた。そして情報を持ってきた部下と並びながら隊列の外を走って先頭に向かった。これならば、他の者が聞く気遣いは無い。走りながら報告を受けたバンドンは、ロッティとクライバーの姿を探して一人隊列の中に走り込んでいった。
 その日もカインザーの二人の貴族はのんびりと軍の先頭にたって馬を進ませていた。サルパートの峰の西側と違ってこちらは天候が良い。熱く乾燥したカインザーに比べればずっと涼しい事は確かだが、馬達のためにはむしろ良い気候だった。そこにバンドンが、仕入れたばかりの情報を持って追いついた。
「ロッティ、クライバー、ついにソンタールの本国が動いた。北の将への援軍が来るぞ」
 馬の上でロッティが器用に体をゆすりながら嬉しそうに笑い声をあげた。
「ついに来るか」
 そして片手を上げると、全軍を止めて休止を命じた。
「さてと、これで第一段階が終わりだ」
 バンドンは不信げに問い返した。
「何だと」
 ロッティは起用に馬をくるりと回して答えた。
「どうせソンタールの援軍がくるのならば、なるべく早く引っ張り出したかったのさ。援軍はいつぐらいにやってくる」
「それでこんなに無謀にソンタールに深入りしたのか。俺の苦労も考えてくれやい、ちくしょう。ソンタールの援軍が来るまで一か月といったところだ」
「一か月か。さすがにソンタール大陸は広いな。俺達がいまいるのはどのあたりだ」
「まだ北の将の要塞までの半分も来てない。もうちょい行くと山脈が東に張り出すが、ちょうどそこのあたりが半分だ」
「ここで、青の要塞の議論に戻るな。砦をどこつくるか」
 バンドンは爆発寸前だった。
「気が狂ったのか子爵。ソンタールのど真ん中だぞ。退却するんだ、時間は充分にあるんだから。補給が可能で、カイト・ベーレンスや怪物のトルソンが救援に追いつける距離に戻れ」
 ロッティはしばらくポツンと馬の上で考えていたが、ふとサルパートの山脈に目を向けて微笑んだ。
「だが俺達が背にしているのは、盟友のサルパートの峰だ」
「そこからの補給は細い。ましてや援軍など来やしない。この大軍を守れると思うのか」
「北の将の軍は相手にならん。ソンタールの援軍がどの程度強いかによるな」
 それを聞いたバンドンも少し考えた。
(確かにロッティとクライバーの軍は、ソンタールのほとんどの軍より強い)
「援軍が弱い事を期待しないほうがいいが、ソンタールの本隊はセントーン攻めに向かっている。それ程の軍は来るまい」
「ならば、相手の数によっては互角以上に戦えるかもしれん。待ちうけるか」
 それまで年長の二人の議論を黙って聞いていたクライバーが言った。
「さっき、サルパートの峰が東に張り出していると言ったな」
「ああ」
「それはどのくらい張り出してるんだ」
「もちろん俺自身は見たことが無いが、地図や地元の者の話を総合すると、ちょうど向かい側にソンタールのランスタイン大山脈の西の端があって、ソンタール平原の一番狭い所になるようだ」
 クライバーは満足そうだった。
「そこだ。そこならば、ソンタールの軍が我々を無視して通り過ぎる事はできない。町か村はその辺にあるのか」
「村だ。サムサラの村がある」
 ロッティとクライバーは顔を見合わせた。ロッティが言った。
「サムサラに砦を築こう。背後のサルパートからの補給ができるようにサルパートに滞在しているアシュアンに連絡を入れてくれ」
 バンドンは天を仰いで、両方の手の平で顔を覆った。 

 二千五百年の時を経て帰還したバルトールの少年王、聖なるバザの短剣の守護者ベリックは、風のように走る鹿毛の馬の背で踊るように体を弾ませていた。付き従うのはバルトールの地下商人フスツと、フスツが選んだ精鋭の部下四人。すでにポイントポートを抜け、智慧の峰の南部に入っている。ベリックは現在サシ・カシュウやマスター、モントと同じサルパート山脈の東の街道を通っている。
 すでにこのあたりはロッティ達の通った後で、カインザーの兵士達が町などの要所ごとに駐屯している。ベリックはバンドンの悩みなど知らなかったが、実はバンドンが心配している程ロッティとクライバーの背後は寂しくなかった。周到なカイト・ベーレンスが少しずつではあるが兵力を増やして、補給路を延ばしていたのである。
 ベリックはポイントポートの築城風景も通り抜ける際に観察してきたが、カイトの造ろうとしている城のつくりはとても手堅いように見受けられた。トルソンの最強軍団と共に戦えば、当分落ちる心配は無いだろう。カインザーは得難い人物を大事な時期に起用できるという幸運をつかんでいるとベリックは思った。後ろを走っていたフスツが馬を寄せてきて、短く用件を伝えた。
「一か月後、ジンネマンの大洞窟」
 少年王はチラッとほほ笑みを見せて、さらに馬を急がせた。
 
 その頃サルパートの吟遊詩人サシ・カシュウは、バルトールマスター、モントに連れられて智慧の峰を東から西に越えようとしていた。一行は今、山脈の西側のアントワの町にあるモントの本拠地に向かっている。サルパート越えの山道は北の将の兵、ギルゾンと狼、さらには山賊達等、数々の危険に満ちていたが、バルトールマスターを取り巻く男たちには微塵の恐怖も感じられなかった。事実サシはこれ程安心して旅をするのは久々である事に気がついていた。しかしまわりの者たちにスキが無いぶん、脱出の機会を得るのが難しい事もわかってきた。
 その日、モントの一行は智慧の峰の北部中腹にある川の近くで休んでいた。夕暮れにはまだ間があったが、人気の無い山の中はさすがに寂しく、寒気が強いため空には鳥の姿すらも無かった。バルトール人の一行は思い思いに腰を降ろして、ゆっくりとお茶を飲み体を暖めた。この休憩を取る間隔も、実に的確に指示されている事にサシは感心した。もしバルトールがベリック王の元に結束すれば、極めて有能な軍隊ができあがるだろう。
 お茶を飲みながら、何とか脱出の機会を得たいと思案をしていたサシは、その時かすかな歌声を耳にした。耳をそばだてるサシの後ろから、モントが近づいてきて声をかけた。一見人の良い老人に見えるこの男も、おそろしく強靱な体力をもっている事をこの数日の旅でサシは知っている。
「女の歌声だな」
 サシは手をあげてモントを遮り、しばらくして大きなあえぎをもらした。その顔が蒼白になっていくのに横に立ったモントは気がついた。
「おお、おお、アリアの声だ、妹の声だ。」
 モントは驚いた。
「妹を探しているおまえの噂は知っているが、八年前に別れた妹の声がそんなに簡単にわかるのか」
 サシはキッとしてモントのほうに顔を向けた。
「俺は吟遊詩人だぞ。声と歌を聞き分けるなどたやすい事。あの声、あの歌。間違いない。探してくれモント、連れてきてくれここに」
 モントはすぐに了解した。この吟遊詩人に大きな興味を持つようになっていたのだ。
「わかった。待っていろ」
 そう言ってモントは数人の手下を連れてみずから声の主を探しに行った。すぐにモントの残りの部下がサシのまわりに陣取って、サシの監視にあたる。サシは笑った。
「心配するな。あれは妹の声に間違いない、俺が今逃げるわけが無いではないか」
 しばらくして、かすかに聞こえていた歌声が途絶え、やがて雪道をかき分けるようにしてモント達が戻ってきた。サシは足音に聞きなれない音を聞き取り、モントが歌の主を連れて来た事を知った。
「連れて来てくれたんだな」
「ああ、しかし」
 サシ・カシュウはフラフラと立ち上がった。突然風が吹いた。そして空が曇り、あたりが薄暗くなった。モントは驚いてまわりを見回した。
「これはどうしたんだ」
 まぶたに感じる光が弱くなった事に気がついたサシが答えた。
「エイトリ神のご配慮だ。俺が目を開こうと決意したときにこうなるようにしたのだろう。評判通り用心深い神よ」
「待て、サシ。待つんだ」
 しかしモントの制止を聞かずに、サシは八年間閉じていたまぶたを開いた。
 
 八年ぶりに光をとらえた吟遊詩人の瞳に写ったのは、汚れた服を身にまとい、水を汲む桶を下げた少女の姿だった。がく然とするサシを見ながら、モントが少女の肩にゆっくりと手を置いてうながした。
「おまえの名前を言っておあげ」
「エレーデ」
「おかあさんの名前は」
「アリア」
 サシの瞳から涙が溢れだした。モントは続けた。
「君はいくつ」
「七つ」 
「おかあさんは今、どうしている」
 少女は突然思い出したように泣き出した。
「三年前に死んだの。おとうさんにいじめられて死んだの」
 それを聞いたサシは、突然頭をかかえて絶叫した。その時、サシの叫び声に引き寄せられるように、まわりの森から一団の男達があらわれてモント達を囲んだ。山賊の一味らしい。そして荒くれた男達の中から首領らしき男が進み出た。
「俺の娘を返してもらおうか」
 キッとした目を向けたサシは、その男に向かって鋭くたずねた。
「この子の母親をどうした」
 山賊の首領はせせら笑いながら答えた。
「死んだ、死んだ。北の将の兵士達にもらった女で。叩くといい声で泣いたが、病気になって働かなくなったので山に放り出したら死んじまった」
 サシはスッと目をつぶった。それを見たモントはその姿に凄まじい殺意を感じてゾッとした。次の瞬間、目をつぶったサシはブーツから細い針のようなものを引きだすと、何も言わずに山賊の首領に走り寄った。誰もが目を疑った次の瞬間、鋭い針の首への一刺しで山賊の首領は死んだ。モントの横でエレーデが呆けたようにその光景を見つめている。一瞬の後、やっと自分達のリーダーが殺された事に気がついた山賊の部下達は、大騒ぎでサシ・カシュウに襲いかかろうとした。それを見たモントが一喝した。
「静まれ。我が名はマスター、モント。バルトールのベリック王からサルパートを預かるバルトールマスターである。その男に手を出すな。我が言葉に刃向かう者は命が無いと思え」
 バルトールマスターの言葉にひるんだ山賊の一団は、しばらく遠巻きにしてサシをにらんでいたが、突然くるりと後ろを向いて森の中に姿を消した。サシはがっくりと膝をついた。しばしの沈黙が降りた。
 その沈黙を破ったのは、エレーデと名乗った娘だった。娘は山賊の首領の亡きがらに走り寄ると、その腰のさやから短剣を引き抜いて、ぼう然としているサシ・カシュウに切りかかった。サシは抵抗しなかった。あわてたモントの部下が駆けつけて二人を引き離した時には、吟遊詩人は肩に軽い傷を負っていた。サシ・カシュウは自分の腕に流れる血をしばらくぼんやりと見つめていた。
 エレーデは自分を取りおさえたモントの手下の手を振り払うと、泣きながら父親の遺骸にすがりついた。モントは悲しげな目でサシ・カシュウに話しかけた。
「こんな男でも娘にとってはたった一人の父親だったのだ。少しは優しい所もあったのかもしれん。サシ・カシュウ、復讐とはこういうものだ」
 サシは顔を覆ってすすり泣いた。しばらく伯父と姪の泣き声があたりを覆った。やがて、吟遊詩人の両手の間から、美しいつぶやくような歌声が流れ出した。モントとその手下達は徐々に明瞭になっていくその歌の美しさに心を奪われた。しばらく父の亡きがらにすがって歌を聞いていたエレーデが、その歌声を聞いてゆっくりと顔をあげた。その小さな顔には驚いたような表情が貼り付いている。そして山賊の娘は次の瞬間に、サシ・カシュウにむかって走り寄り、その薄い胸に飛び込んだ。エレーデは今度は両腕で男を強く抱きしめて叫んだ。
「かあさん」
 人生経験が豊富なモントでさえ、その二人の姿を見た時には涙をこらえる事が出来なかった。サシの歌っていた歌は、おそらくカシュウ兄妹しか知らない歌だったのだろう。暗い空の下で母の歌を思い出した娘は泣き、カシュウは妹の死と自分の復讐の罪の深さに泣いた。

 その夜。一行は大きなたき火をたいて野営した。食事を終え、休む準備ができた者達は、ほとんど無言のまま防寒対策を施したテントに入った。山賊の娘エレーデもそのテントの一つに招き入れられて眠りについた。外にはサシとモントの二人が残った。
 たき火の明かりが強弱をつけて、座っているサシとモントの顔を交互に照らしている。モントはまぶしそうに炎を見つめるサシ・カシュウの横顔を見つめた。細い顔に埋め込まれたような瞳は恐ろしい程に黒く深い。閉じ続けた八年の間にすべての光を失ってしまったようだ。
(この男は仕事で客に笑う時以外には、笑った事が無いに違いない)
 モントはたき火に乾いた木の枝を放った。
「これからどうする」
 サシは静かな声で言った。
「妹はもういない。八年間の俺の旅は終わった。だが、妹を殺した北の将の軍はまだ北にいる」
 モントはこの答えを予期していた。
「やめておけ。おぬしが死んだら、エレーデはたった一人の肉親を失う事になる」
 サシはモントに顔を向け、真剣な瞳で見つめた。
「俺の決意は変わらん。むしのいい話だと思うが、エレーデを頼む。どこか安全な所に預けてくれ。俺が持っている金ならばすべてやろう」
「金などいらん。バルトールの民は決して子供を見捨てたりはしない」
 サシは感謝の印に頭を一つ下げると、言葉を続けた。
「もう一つ頼みがある。俺を解放してくれ。妹の命を北の将ライバーの命で償わせてやる」
 モントはこれも予期していた。サシとはそういう男だ。
「エレーデの件は良い。だが貴様を解放するわけにはいかない。ベリック王のご命令だ」
「王が欲しいのは俺の身柄ではない」
 そう言うとサシは愛馬に近寄って、鞍の帯の中の隠し袋から小さくて平たい瓶を取り出した。サシの、年齢よりはるかに年老いたように見える皺だらけの手に掴まれた小瓶には、ふくろうの紋章が刻まれていた。
「ルドニアの霊薬と呼ばれるものらしい。俺はこれをロッグのマスター、マサズの配下のイサシという男に渡す事になっていた。それと引き換えに妹に関する情報がもらえるはずだったのだ」
 モントは目をすがめた。この謎の男の行動の核心に入ってきた。
「誰に頼まれたんだ」
「ザイマンのマスター、メソル」
「やはりな。どうやらメソルはマサズと組んで、ベリック王を敵とする事に決めたらしいな」
 サシはバルトール内の争いには興味が無いらしかった。
「これを置いていく。だから俺を解放してくれ」
「北の将ライバーにはどうやって近づく」
「イサシが要塞にいる」
「しかし、ルドニアの霊薬を持っていなければイサシはおまえを許すまい。イサシはバルトールの中で最も警戒すべき男の一人だ」
 サシは何も言わずに瓶をモントに渡した。
「せめて一晩、姪と一緒にいてやらんか」
 吟遊詩人サシ・カシュウは笑って答えた。
「人の温もりが恐ろしい。俺の心を壊してしまう」
 そして立ち上がると、愛馬を引きながら森の闇の中に消えていった。モントは追わなかった。これ程悲しい心を持った男を呼び止める言葉は、さすがのモントにも無かったのだ。

(第五章に続く)


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