第五章 癒しの神


 カインザー大陸の東側の中部に位置する大都市セスタは、紅の男爵の名で巨大な敵ソンタール帝国にまで勇猛さを轟かせている、若きクライバー男爵の領地の中心地である。対ソンタール戦線の補給基地として歴史を刻んだ大都市には主要な街道が南北西の三方から通じ、その道が町の中央部で交差したあたりに大きな美しい公園がある。その公園に面して緑多い庭に囲まれた男爵の豪邸があった。
 そこに失なわれた王国バルトールのベリック王が、二千五百年ぶりに帰還して滞在しているとの噂が立ってから数ヶ月がたった。いまやセスタには大量のバルトール人が流れ込み、まるで巡礼地と言ってもいいほどの賑わいを見せている。なかでもクライバー邸の高い塀のまわりには、連日黒い瞳と髪の小柄な人々が大勢詰めかけて、邸の護衛の兵士を困らせた。それらのバルトール人の中で、男爵家に客人として招かれるような繋がりをつけられた有力者達が、王への面会を求めて連日門をくぐった。そのほとんどが地下商人の背景を持っている事に、クライバー家の者達は少なからず驚いた。
 ベリック王のそばには、帰還以来片時も離れずにフスツというバルトール屈指の切れ者がついていたが、そのフスツがこの数週間姿を見せていない。今こそ王に花嫁を売りこむチャンスだというのが、バルトールの有力者達の一致した見解であった。フスツに命じられて留守をあずかっているのはクチュクという名の人の良さそうな小太りの男だったが、この男はバルトールでは知名度が低い。それほど気を遣わなくても良さそうだとの情報を、客人となった者達は交換しあっていた。
 しかしせっかくクライバー家の門をくぐっても、ベリック王はなかなかその姿を客の前にはあらわさなかった。そのため客達は自然と、王の親友として知られているクライバー男爵の息子アントンと、白い髪の娘アーヤ・シャン・フーイを標的に売り込みをはかる事になった。この二人がカインザーの貴族達の間ではとても可愛いがられている事も、アントンの父が次期カインザー国王のセルダン王子の親友である事も良く知られている。バルトールがやがてベリック王に率いられてカインザーの盟友になる日が来るのならば、この子供達のご機嫌を取っておいて損は無い。
 天真爛漫でちやほやされるのが大好きなアーヤはこの展開を楽しんでいるようだったが、アントンは憂鬱でしかなかった。客の相手をしているうちにバルトールの事を知るにつれ、すっかり親しくなったベリックの置かれている立場の複雑さに心を痛めるようになっていたのだ。より詳しく事情を知ろうとする真摯なアントンの姿は、客達にしばしば予定外の言葉をしゃべらせ、いつのまにかアントンはバルトールに関してかなりの知識を持つようになっていた。
 
 今日もアントンとアーヤは、庭の小さなテーブルを囲んで客人の相手をしていた。テーブルの上には客の地下商人が持ってきた、髪飾りや絵本などのアーヤへのプレゼントがちらかっている。商人はバルトール人とは思えない巨体を揺らして、二人にさかんに娘を売り込んでいるところだった。その男の突き出たお腹の影であくびをかみ殺しながら、アーヤが無邪気さを装って商人に聞いた。
「でも娘さんは、ベリック王より年上なんじゃない」
 商人は、待ってましたとばかりに熱弁をふるった。
「何をおっしゃいます。年上だからこそ、細やかな気遣いで王のお世話をさせていただく事ができるのです。お嬢様にはまだおわかりにならないと思いますが、これからベリック王が大人になっていく過程での、様々な悩みを解決して差し上げる事ができるのですよ。いかがでしょう、アントン様。どうか王にお目通りをたまわるようにご手配くださいませぬか」
「大人になる準備ってなに」
 アントンが期待をこめて問い返したとき、アーヤがそれをさえぎった。
「ベリック王」
 三人から少し離れた庭の生け垣の向こうに、バルトール人らしい少年の姿が見えた。少年はゆっくりと庭を歩いている。商人がアントン達を押し分けるように身を乗り出した時、その少年は建物の中に姿を消した。商人はため息をついて、椅子にどっかりと尻を落とした。

 クライバー男爵の妻ポーラは、戻ってきた息子とアーヤを丸いテーブルにつかせて甘いお茶を出した。部屋の中には、ベリック王の身替わりの少年とフスツの部下のクチュクがすでに戻ってきている。ポーラは得意満面の四人をじっとにらみつけた。
「クチュク。私の夫の大事な跡取りと、翼の神のお弟子の大事な養い子をこのまま陰謀家にしてしまうつもりなの」
 クチュクは人の良さそうな顔に笑みを浮かべ、顔の前でたくさんの指輪がはまった右手の指をひらひらと振った。
「何をおっしゃいます奥様。アントン様もアーヤ様も我らがベリック王の使命に協力してくださっているのですよ。王の使命はカインザーのセルダン王子と同じシャンダイアの復興。アントン様達は立派にセルダン王子の手助けをもしていらっしゃるのです」
 腰に手をあてて深くため息をついたポーラは、今度はじっとアントンを見つめた。明るい栗色の髪を頭の上に巻き上げた母上は今日も美しいと少年は思った。
「アントン。お父様のレドは、まっすぐな性格でカインザー九諸侯に名をはせているのよ。あなたにも父上のようになって欲しいわ」
 クチュクは口に手をあてて、ホホホと気味の悪い声で笑った。
「僭越ながらそれはご本人がお決めになる事でございましょう。レド男爵の勇猛さは天性のもの。血で継承できるものではありますまい。アントン様の聡明さは果たして父上の武勇と相容れるものなのかどうか、さてさて」
 腰に幅の広い布を巻いて、懸命に腹を支えている小太りのバルトール人はそう言いながらアントンを横目で見た。アントンは父のような勇敢な将軍にはなれないと言われたような気がしてちょっと悔しさを感じたが、クチュクの言う事は自分の心をそのまま語っているようにも思えた。クチュクはアントンに片目をつぶると、ベリックの身替わりの少年の肩を抱くようにして部屋を出ていった。それを目で見送ったポーラはアントンに視線を戻した。
「それでアントン、今日は何の話をしたの」
 慎重にお茶をフーフー吹いてさましていたアーヤが、嬉しそうに横から答えた。
「大人の男になるにはどうすればいいか、アントンが知りたがったの」
 アントンはアーヤを睨み付けた。
「それはあの商人が言った事だよ。それより母上、これから僕たちはどうしたらいいんだろう」
 ポーラは自分もお茶をついで、アントン達と同じテーブルに座った。そしてカップをフーフー吹きながらしばらく考えて答えた。
「そうね、そろそろベリックの身替わりの子を表に出す頃だと思うわ。奥に隠してかいま見せる作戦にはそろそろ限界が来たと思うの」
 てっきり現在の身替わり作戦をやめるように言われるだろうと思っていたアントンは、この言葉に女性というのは母親ですら信じられないという事を知った。ポーラは続けた。
「アーヤ、どうすればいいかしら」
 アーヤは、お芋をあげた菓子をポリポリとかじりながら、ふがふがと答えた。
「もちろん園遊会よ。王の帰還を祝って園遊会を開くの」
 ポーラの目が輝いた。
「まあ、それは名案だわ。でも、サルパートが窮状にあるこの時に、戦場に夫を送り出している私が主催するわけにはいかないわよ」
「あらもちろん。主催はアントンよ」
 アントンはびっくりした。
「えっ、どうして」
「あなたは王の親友でしょ。友人であるあなたが王を励ますために開くの。あなたが主催ならば誰も怒らないわ」
「なぜ」
「子供だから」
 そういうとアーヤとポーラは具体的な相談に入った。ふてくされたアントンはクチュクと相談しようと思って部屋を出た。ちょっと気持ち悪い人物だけど、男同士のぶんだけきっと心が通じるだろう。

 暖かいカインザーでささやかな陰謀が展開されている頃、遙か北のサルパートの寒い山中を、一人の魔法使いが奇怪な生き物の群を率いて南下している。魔法使いは明るい茶色の髪をした痩せぎみの若者で、奇怪な生き物は赤い足をした小型の人間型生物だった。小鬼の魔法使いの名で呼ばれるその魔法使いテイリンは、数ヶ月前のカインザー大陸での行軍を思い出していた。
(あの時俺は西の将の命令で、南に行き、戦い、敗れ、そして北に逃げ帰った。その俺が大陸こそ違え、また山脈に沿って南下している。なんだか同じ事の繰り返しだな)
 昨日までの数日間は天気がおだやかだったサルパート山脈だが、また天気が崩れだしていた。いかにゾックが山岳生物で巨竜ドラティの血を浴びて強靱な体を手に入れているとはいえ、天気があまりに悪いときに進むのは賢明ではない。テイリンはサルパート山中に無数にある洞窟の一つにゾック達を入れた。すでにこのあたりの地形の特徴はつかんでいる。二千数百のゾックを収容できる規模の洞窟があるのがこの山のありがたいところだ。これほど雪が多く無くてギルゾンさえいなければ、テイリンはこの山脈にしばらく落ち着くのも良いと思ったほどだった。
 そこはサルパート山中によくある入り口が小さく、中で天井が高い大きな空洞になっている洞窟の一つだった。ゾック達は黙々と闇の中に入って行って思い思いの場所に落ち着いた。ゾックは雑食であるため、冬の山道の行軍の最中に、注意深く食べ物を見つけては革の服のポケットにためるようにテイリンは指示している。雪の中ではたいした物はみつからないが、携帯してきた食料も慎重に配分して残していた。ゾック達はそうやってためた食べ物をゴソゴソと食べはじめた。
 一緒に腰を降ろしたテイリンは、いつもどおりお茶を暖めようとして小さな魔法を指先にこめた。するとその指が何かに引っ張られるような感じを受けるのに気がついた。テイリンは不思議に思ってもう一度指に魔法をこめてみると、また指が引っ張られる感じがした。
(何かの魔法がここにあるぞ)
 テイリンはこんな所に魔法がある理由に思い当たるものが無かった。そこでゾックたちにその場を動かないように命じると、指の感触に従って洞窟の奥に入っていった。暗闇に魔法の灯をともして見ると、洞窟の奥の床には所々水がたまっているのが見えた。外に比べてかなり暖かいという証拠なのだろうが、それも少し奇妙だった。その水をさけながら進むと床が窪んで穴のようになっており、その穴の壁にさらに横に延びる穴が開いていた。その横穴に入ると、そこでは寒気がすっかりなくなっている。魔法の空間である事に間違いは無い。やがて穴の先に深い縦穴が開いているのを見つけた。テイリンは魔法を使わずに器用に壁を飛び伝って穴の底に降りた。ドラティの血の力は、テイリンの跳躍力をも増していたのだ。
 やがて底にたどりついたテイリンの目の前には広い空洞が広がっていた。注意深くその空洞に足を踏み入れると、穴のの中央部に青白い筋が床から上に向かって縦に伸びているのを見つけた。
(これは黒の魔法だ。しかもとてつもない力だ)
 テイリンは驚いてその光の筋に近づいていった。これ程の魔法が地上から察知できないとは。おそろしく巧みな力で隠されていたに違いない。テイリン自身の魔法は黒の魔法を元にしているが、徐々に大地の力と結びついた別の魔法に変容しつつある。テイリンはその事を自覚していた。その二つの魔法の性質の差がこの魔法の存在に気づかせたのかもしれない。
 青白い筋のようなものに近づいたテイリンは、その光のすじが細い鎖である事に気がついた。鎖の下の端は地面に、上の端は空中に消えている。
(どうする。うかつにさわれば命にかかわるかもしれない。しかしこれ程の魔法に出会う機会はそうあるものではない)
 テイリンはしばらく迷っていたが、若い好奇心が慎重さに勝った。テイリンは意を決して右手を延ばし、目の前の鎖を握った。すると鎖の上端はゆっくりとテイリンの手の中に落ちて丸まった。そして地面につながっていた下端が巻き上がって手にまきついた。テイリンはしばらく様子を見ていたが、それ以上何も起きないと判断してゆっくりと洞窟の入り口に向かって戻っていった。テイリンにはそれが何の魔法なのかはわからなかった。

 しかし、テイリンが隠されていた魔法に触った事にすぐに気がついた者がサルパートの峰に一人と一体いた。テイリンが鎖を手に入れたとき、遠い雪の中でまずこの星の最初の狼バイオンが咆吼をあげた。そしてバイオンの近くにいたギルゾンは自分の求めていた魔法が地上にあらわれた事を知った。
 黒い魔法の総帥、黒い指輪の魔法使いガザヴォックが、サルパートの峰に巨狼バイオンをつなぎとめた「くびきの鎖」に誰かが手を触れたのだ。全身を走る衝撃からさめたバイオンも同時にこの事に気がついた。
「ギルゾン」
「バイオン」
 両者は叫び声をあげると、相手より先に鎖を手に入れようと走り出した。テイリンによって地上に引き出されたくびきの鎖は、この二つの魔法の存在にとってあまりにあきらかな気配を発していたのだ。小型の狼ルフーの群はバイオンに従おうとしたが、巨大な狼の王の走りについて行けず、遠く引き離された。
(子供達よ離れておれ。これはわしの問題だ)
 バイオンはギルゾンに念を送った。
「ギルゾン、貴様これを探していたのか。ガザヴォックの魔法を手に入れるつもりだったのか」
 この問いにギルゾンは狂ったような笑い声で答えた。バイオンはゾッとした。
(もしギルゾンに先に鎖を手に入れられれば、自分はこの狂った魔法使いに支配されてしまう)
 魔法使いと狼は雪の中を疾走した。

 巨大な洞窟のゾック達のいる地点まで戻ったテイリンは、何とも言えない胸騒ぎを感じて雪の舞う洞窟の外に出てみた。そしてすぐに、ビリビリするような殺気のこもった二つの大きな魔法の存在が猛スピードで近づいてくるのを感じた。
 テイリンは自分のしでかした間違いに気がついた。
「しまった。ギルゾンの探しているのはこれだったのだ」
 急いでテイリンはゾック達にその洞窟の奥の、いままで鎖があった最下層に逃げ込むように命じた。狼ルフー達はそこまでは降りる事ができない。巨獣バイオンも、入り口が小さいため洞窟には入れないはずだ。狼といつも一緒に行動しているギルゾンが、これまで鎖を見つけられるはずは無かったのだ。
 テイリンが一緒に洞窟に入らない事に気がついたゾック達は、この命令に不服そうだったが、小鬼の魔法使いは厳しく命じてゾックを追いやった。
(俺はゾックの保護官だ。数が残り少ないゾック達を、ギルゾンやバイオンとのトラブルに巻き込むわけにはいかない)
 ゾック達が洞窟の闇の中に消えると、テイリンはゾックから離れるために雪の中に走り出した。しかし、もうほとんど逃げる時間が無いのを知っていた。

 天候が悪くなりつつある。ドラティの血の洗礼を受けたおかげでテイリンは超人的な肉体を持っていたが、視界がすでにほとんどきかない状態だった。洞窟から離れて山を下ったテイリンだったが、逃げ切れたのはわずかに半日だった。巨大な二つの力が間近に近づいてくるのを感じたテイリンは、あきらめて雪の中に立ち止まった。そこは森の中の開けた窪地だった。白い雪はゆうに若い魔法使いの膝まであったが、やがてその深い雪に足首までしかもぐらない巨大な白い狼がテイリンの前にのっそりと姿を現した。
「バイオン」
 見上げたテイリンはその美しいとさえ言える気高い姿に感銘を受けた。カインザー大陸で見た巨竜ドラティの歳を経たあの荒涼とした厳しさはそこには無く、ただ孤高の存在の威厳があった。テイリンはしばらく言葉を失っていたが、背後にかつて感じた事が無いほどの邪悪な気配を感じた。全身に激しい不快感を感じてテイリンがゆっくりと振り向くと、そこには黒い衣装の小柄な魔法使いがほとんど雪の中に埋もれるようにして立っていた。黒い影はククククと笑った。
「そうか貴様か。テイリンだな、カインザーから逃げてきた小鬼の魔法使いの」
 テイリンは雪の中に黒々とうずくまる姿に目をこらした。黒いフードの下の顔は意外に皺の無いすっきりした顔だったが、そこからうかがえる冷酷さは計り知れない。
「あなたがギルゾン」
「その手の鎖、よくぞ見つけた。もらうぞ」
 テイリンはギルゾンのあまりに高圧的な態度に一瞬とまどったが、すぐに気を取り直して問い返した。
「その前にこの鎖が何の魔法なのか教えていただけますか」
 テイリンの背後のバイオンが念を放って答えた。
「私をこの山に縛った鎖だ。ソンタールと旧シャンダイアの国々の戦いが始まった時、黒い指輪の魔法使いガザヴォックが魔法で五体の獣をソンタールにつなぎ止め、五将と五人の魔法使いとともに戦うように命じた。その魔法の鎖だよ」
 これを聞いたテイリンは、ガザヴォックの魔力の強さに気が遠くなる思いがした。ドラティも、このバイオンも、ほかの巨大な獣達もまとめて支配してしまう力があの静かな老人にあるのか。そこでふとテイリンはある事を思い出した。
「ザークはどうしたんです。ゾックと対をなしていた巨獣、大鬼ザークは行方不明になっています」
 ギルゾンは沈黙したままだった。バイオンが答えた。
「ザークはくびきを逃れたのではない。代わりの獣が繋がれたので、放たれたのだ。その後の行動はザークの勝手、わしはしらん」
 その時、ふいにギルゾンが動いた。
「テイリン、鎖を取られるな」
 バイオンが叫んだ。テイリンはその声にとっさに飛び退いた。ギルゾンの黒い短剣から放たれた妖気が、それまでテイリンが立っていた場所の雪を黒くこがした。テイリンは同じソンタールの魔法使いであるギルゾンが、躊躇する事無く自分を殺そうとした事にショックを受けてタジタジとなった。しかし驚いている暇は無い。次から次へとギルゾンは妖気を放ってテイリンを追いつめる。若い魔法使いは雪の中を転げるようにして逃げ回った。
「気を確かに持て、小鬼の魔法使い」
 バイオンの叫びに気を取り直したテイリンは心を決めた。テイリンは本気になってこの場からの脱出を試みようとしたが、ギルゾンの動きの素早さは想像を遙かに越えていた。たまらずにバイオンが巨大な体を何度かふたりの間に割り込ませてギルゾンの邪魔をした。
「テイリン、鎖を私に渡せ」
 バイオンはそう言ったが、そのわずかな時間の余裕が無かった。バイオンが先にこの場に到着していればテイリンはおとなしくバイオンに鎖を渡したろう。しかし今は逃げ回るのに精いっぱいだ。その時、雪の中からふと森を見たテイリンの瞳に、洞窟に残してきたはずのゾックの姿がチラリと映った。
「隠れろ」
 驚いたテイリンが叫んだ。その次の瞬間に数体のゾックが黒い炎をあげて燃え上がった。ギルゾンが甲高い笑い声をあげて森の中に黒い炎をふりまいた。
「やめろ。やめろ」
 テイリンは激怒してギルゾンに向き直った、その顔の直前の空間を炎がなでた。テイリンは大地の力を使って地面の雪を巻き上げ、壁のようにして炎を防いだ。黒い短剣の魔法使いはのけぞって大笑いした。
「ホウホウホウホウ、楽しいぞ。久びさにやる気のある魔法使いと戦えそうだな。何しろ本国から部下にと送られてくる魔法使いを俺が皆殺しにしたので、最近では誰も来なくなってしまったからなあ」
 ギルゾンは短剣から出る妖気を今度は鞭のようにしなわせてテイリンを打とうとした。雪の壁で懸命にそれを防いだテイリンは、徐々に壁をギルゾンのほうに押し出していった。ギルゾンは笑いながらその雪の壁を蹴飛ばした。壁は粉々に砕けたが、今度は雪の粉が渦を巻いてギルゾンを取り巻いた。
「ホウホウホウ、頑張るじゃないか」
 そう言うとギルゾンは粉雪の渦の中心から軽々と真上に飛び上がった。そしてケーンという叫び声と共に、槍のように鋭くなった妖気をテイリンに突き刺した。テイリンはこれを避けきれなかった。仕方なく両手で真っ向からこの槍を掴んだが、切っ先が深々とテイリンの胸を刺し貫いた。若い魔法使いは後方の雪の中に、もんどりうって頭から真っ逆さまにつっこんだ。ギルゾンが空中に浮いたままとどめを刺そうと短剣をふりかぶった時、駆け寄ったバイオンがテイリンの体の上に足を乗せて宣言した。
「そこまでだギルゾン。この男は今までおまえが面白半分になぶり殺しにした魔法使いとは違う。いやしくも獣を使う魔法使いだ。いかにおまえとて、殺してはガザヴォックの叱責を受けよう」
 ギルゾンは雪の上にフワリと舞い降りると、スタスタとテイリンに近づいてその右手から鎖をひきはがした。鎖に引っ張られたテイリンが雪の中で転がった。ギルゾンは興味無さそうにその体を蹴とばした。
「今はな。しかしこの鎖の秘密を解ければ、あるいはガザヴォック様とて戦える相手になるかもしれん。ところでどうだバイオン、まだ遊び足りないのだがお前も俺と戦わないか」
「戦わん。くびきの鎖はすでにおまえの手の中にある」
 バイオンは悔しそうにギルゾンの手の中の鎖を見た、ギルゾンは無造作に鎖を腕に巻き付けた。すると鎖はひとりでにギルゾンの腕にからみついた。
「つまらん奴だ。さて、北の将ライバーをそろそろ穴蔵から引っぱり出して鞭打ってやらねばなるまい。サルパート王国を滅ぼすぞ。山脈の西のサルパート人をすべてルフーにくれてやる。腹いっぱい食うがいい」
 ギルゾンはそう言ってプイと背をむけると、笑いながら走り去っていった。バイオンは粉雪の中で、テイりンの上に立ちはだかったままそれを見送った。
(あの魔法使いは歩くと言う事を知らんのか)
 やや遅れて追いついてきた狼ルフーの群が、バイオンと倒れているテイリンのまわりを囲んだ。ギルゾンが十分にはなれたと思う頃、バイオンはまわりの森の中に向けて静かに念をはなった。
「出てくるがいい、小鬼たち」 
 雪の森の中に無数の影がうごめいた。やがて、茶色い革の服を雪で白く染めてゾック達がおずおずと狼王の前に姿を現わした。バイオンはテイリンの上に置いていた足を降ろした。
「心配するな、そなたらの主は無事だ。手当をしてやるがいい。ギルゾンとあそこまでやりあって命があるのが奇跡のようだが、当分は動けまい」
 バイオンはそこで嬉しそうにニヤリとした。
「それにしても久々に姿を見るぞゾック。まだ生き残っておったか。この魔法使いを大事にするがいい、面白い魔法を使う男だ。おまえたちに未来を開いてくれるかもしれん」
 そう言うと狼の王はルフーの群れを引き連れて北に去っていった。

 ゾックたちは傷ついたテイリンを抱えてもう一度あの洞窟に戻った。そしてゆっくりと最下層の空洞に向かい、かつて鎖があった床に主を横たえた。テイリンには息があったが、傷は深く、回復には時間がかかりそうだった。ゾック達は心配そうにテイリンの周りにあつまって見守っていたが、小鬼達にはこれ程の傷を手当する手段は無かった。洞窟の中は暗く、テイリンは傷の痛みにかすかなうめき声をあげながら苦しんだ。やむなくゾック達は小さな手に水たまりの水をすくってはテイリンの元に運んで、その顔にかけた。そうやって何時間もゾックの行列によって絶え間なく水が運ばれ、テイリンのうめき声は次第に小さくなっていった。
 あるゾックが水たまりから水をすくおうとした時、その水面に青白く光る人間の姿が映った。ゾックが驚いて顔をあげると、そこに白い衣をまとった美しい少年の姿があった。少年はシンと静まりかえるゾック達の間を静かに進んで行って、テイリンの元にひざまずいた。そして、テイリンの額に手をかざしてしばらく何かを念じていた。するとやがて、小鬼の魔法使いは弱々しく目を見開いた。ゾック達の間に驚きと喜びのざわめきが広まった。テイリンは弱々しく問いかけた。
「エイトリ神ですね。ああ、やっとシャンダイアの神に会えた。カインザーではクライドン神に会いそこねてしまいましたから」
 癒しの神とも呼ばれるエイトリは、軽く手をあげてテイリンを制した。
「あまり話すでない。大地の子よ」
 長い衣をまとったその姿には力強さは無かったが、あふれるような英知がうかがえた。テイリンは静かに笑った。
「でも意外なお姿です。私は知恵の神は老人だとばかり思っていました」
 これにはエイトリが笑った。
「宇宙神であるアイシム神やバステラ神と違って、聖宝神には決まった姿などは無い。エルディは美しい娘の姿が好きだし、クライドンはたくましい男の姿でいる事を好む。それはその姿が導きの神として、あるいは戦いの神として崇拝者に受け入れやすいからだ。私はかつてそなたが思い描くように老人の姿をしていた」
 そこまで話すと、エイトリはため息をついて横たわるテイリンのそばに座り込んだ。 
「お疲れですか神よ」
 エイトリは寂しそうな目をテイリンに向けた。
「智恵は消耗するものだという事を知っているかね。リラの巻物から戦いに知恵が使われるたびに私は知恵を失ってゆく。今ではこの少年の姿がふさわしいくらいに力ない存在なのだよ。もはや神官達の呼びかけに応える事すら難しくなってきた」
 テイリンは驚きに目を見開いた。エイトリは続けた。
「神には明確な特性がある。わしは、智恵と医療の神。クライドンのように戦う事も、エルディのように皆を導く事もできない。そしてサルパートが老いるように私も力を失ってゆく」
 テイリンはゆっくりと体を起こした。
「ですが神よ、ギルゾンに蹂躙されてサルパートの峰の命が奪われています」
「わかっておる。もはや救うのをあきらめかけていたのだが、どうやらカインザーの王子が間にあったようだな」
 テイリンは困った顔をした。
「そうですか。ついにカインザーの王子がサルパートに来ましたか。しかしわたしはソンタールの者です。ギルゾンとは相容れませんが、ゾックの存続のためにソンタール内で確固たる地位を得たいとも思っています。おそらくこれからセルダン王子を敵となすでしょう」
 エイトリは立ち上がった。
「それはそなたの定め。しかしわが身に宿る神の英知の何かが告げている。そなたの存在が特別なものであると。今はまだわからないが、ドラティもバイオンもそれに気がついておぬしに力を与え助けたのだろう」
 テイリンはしばらくこの言葉の意味を考えていたが、理解するのをあきらめた。おそらくエイトリ神にすらもはっきりとは判らないのだろう。そしてこのサルパートに来た目的についての質問をする事にした。
「私の定めに関して一つおうかがいしたい事があります。ミルトラの水について知りたいのです」
 智恵の神エイトリは驚いた表情を見せた。
「これは意外な質問だ。なるほど、そなたは私ですら計り知れない定めを持っているのかもしれんな。ミルトラの水は今はもちろんセントーンにある」
「やはりそうですか」
「しかし、おそらく手にいれるのは困難だろう」
「なぜですか」
 そう言ってテイリンは思わず手をあげかけたが、胸の傷の痛みにうめいた。エイトリはさとすように教えた。
「ミルトラの水はミルトラの聖なる宝とともにある」
 テイリンにはなぜ困難かがわかった。
「ミルトラの水はミルカの盾の守護者とともにあるわけですね」
「そういう事だ」
 エイトリはそう言った後、しばらくじっとテイリンを見つめていたが、やがて静かに薄れるように姿を消した。テイリンはまた床に横たわった。ミルカの盾の守護者は鉄壁の守りを誇るセントーン王国のエルネイア姫だ。東、南、ユマールの三将の攻撃を受けながらいまだに頑強に抵抗を続けている国の王女にどうやって会えば良いのだ。

 サルパートの北部の都市アントワに着いた剣の守護者セルダン王子一行を、一足先にアントワ入りしていたカインザーの外務大臣アシュアン伯爵が待っていた。アシュアンは王子到着の知らせを受けると、王室が滞在に使う豪華な屋敷から転がるようにして迎えに出た。息をきらしてセルダンの前に立ったアシュアンはしばらく口をパクパクさせていたが、セルダンのお供をしてきた者達が笑っているのに気がついて、咳払いして威厳をとりつくろった。
「王子、ギルゾンに挑戦されたというのは本当ですか」
「やあ、アシュアン。本当だよ」
 アシュアンはセルダンの後ろに控えているベルフにどなった
「なんとなんと、ベロフ。おまえは何をしておったのだ。オルドン王に何とご報告すれば良いのだ」
 ベロフは意外と言った顔をした。
「王はお喜びだろう。オルドン王は王子の歳には十回を越える挑戦をしたと聞いているぞ」
 この二人の光景はカインザーから離れてもちっともかわらないな。とセルダンは思って心の中で微笑んだ。
 アシュアンはしばらくオロオロとしていたが、カインザー人が一度挑戦した以上もう反対しても無駄だという事もわかっていた。セルダンは笑いながらアシュアンの肩をたたくと、屋敷に向かって歩き出した。アシュアンは追いかけながら状況を説明した。
「マキア王はスハーラ殿の父上のレリス侯爵とともに、ブンデンバート城にお戻りになられました。サルパート軍も今度は全力をあげて戦うつもりだそうです」
 ベロフが、さもありなんとうなずいた。
「頑張ってもらわないといけない。サルパートの歴史はじまって以来の好機なのだ。ギルゾンとは王子が戦い、ルフーはスハーラ殿と巫女達が解放する。ソンタールの本国軍はロッティとクライバーが引きつけて北の将への援軍を遅らせる。マキア王のサルパート軍の敵は北の将ライバーだけなのだ」
 セルダン達が屋敷の敷地内に入ると、その大きな中庭に二百人程の部隊が待機していた。手足の関節の動きを邪魔しないように、細かく分けられた黒い鎧を身にまとい、長い剣を一本腰にさしている。皆、筋骨逞しいが、まるで獣のように身ごなしが柔らかく、その眼差しの鋭さは猛禽でさえも怯むほどだ。これこそがカインザーの重騎馬軍団と並ぶ精鋭部隊。ベロフ抜刀隊である。
 王子とベロフの姿を認めると、抜刀隊は一糸乱れぬ動作でザッと敬礼をした。久々にその姿を見たセルダンは何とも言えない気持ち良い戦慄を憶えた。この者達ならば、狼の群れの中ですら何事も無いように進んでゆくだろう。
 その時、庭の隅でびっくりしたように抜刀隊を眺めている見慣れた姿にセルダンは気がついた。
「エラク伯爵」
 セルダンに呼びかけられたエラク伯爵は、大柄な葦毛馬を引いて震えながらやってきた。
「ごきげんうるわしゅうセルダン王子。ベロフ殿、抜刀隊は噂以上の殺気ですな」
 ベロフは誇らしげだった。セルダンは伯爵が引いている馬に気がついた。
「おお、スウェルト」 
 エラクがたずねた。
「この馬はいかがいたしましょう。ネイランからこちらに連れてまいりましたが」
 セルダンは嬉しそうにかけよった。
「僕たちが連れて行こう。ジンネマンの大洞窟を抜けた後のブライスに必要になる」
 葦毛の軍馬は不服そうな声でいなないた。

 二日後、セルダンは精鋭部隊を率いて牙の道に向かった。従うのは武術師範ベロフ男爵、ベロフ抜刀隊、アタルス、ポルタス、タスカル兄弟。そしてサルパートのエラク伯爵である。細身の伯爵はついに最悪の敵であるギルゾンとの決闘の場にまで連れていかれると知って、まるでこの世の終わりがきたかと思われる程に青ざめた。しかしサルパートが本気で戦う意志がある事を証明するべく、雄々しくその苦難に立ち向かう決意を固めたのだった。盟友のアシュアンは、今度もうまく山登りをのがれて、ブンデンバート城の聖王マキアの元に向かう事になっている。
 セルダンは道の遥か前方にサルパート山脈の北の端を見た。いよいよ北の果てまでやってきたのだ。風が服の間にわずかに覗いた肌を切り裂くように冷たかった。

 * * * * *

 サシ・カシュウが森の中に去った後、マスター、モントはサルパートをとりまく複雑な状況について考えた。ロッグのマスター、マサズの腹心イサシが現在北の将の要塞に滞在している。やがてベリック王と一緒にカインザーのフスツもやってくる。バルトールでもっとも危険な人物二人がここに揃う事になる。
(わしは部下を厳しく鍛えたつもりだが、サルパートの閉塞した環境の中での事だ。ロッグやカインザーのような環境で生活しているバルトール人達とわたりあえるようにしなければいけないな)
 そう考えた後、年老いたバルトールマスターは笑った。
(そうだ、王が帰還したのだった。我々バルトールは一つになるのだ)
 モントと部下達は今、ベリック王を迎えるためにサルパートの峰を東側に向かって引き返している。モントは王に会える喜びで叫びだしそうだった。そして死んだとはいえ、最初に王につかえたカインザーのマスター、ロトフをうらやましいとさえ思った。モントに同行している部下達もモントと同じ思いだろう。このバルトール人の心はほかの民族にはわかるまい。
 モントはふと列の後方に目をやった。エレーデという名のサシ・カシュウの姪は父親を目の前で叔父に殺されて以来、ほとんど口をきいていない。おとなしくモントの一行についてトボトボと歩いてきている。むごい運命だとモントは思った。バルトール人はここまで子供にむごい事はしない。長年サルパートのバルトールマスターをつとめているが、この国の人間は少し心が冷たいという事を感じる時があった。サシ・カシュウにしてもそうだ。姪の事よりも妹の復讐を優先させた。しかしあれはサシが自分自身の心に従っただけで、そこには妹への思いやりすらなかったのかもしれない。
 一時期、荒れていた天気はこの数日おだやかになっている。気がつけば短い一日が早くも暮れようとしている。モント達が歩いている道は、少し先で左に枝が出た三叉路になっている。枝の先に今夜泊まる予定の村があるはずだった。モントは道を下っていった。すると前方遠くに夕陽を受けて道を登ってくる人の姿が見えた。
 まず馬を引いた頬に深い傷のある男が見えた。その後ろに四人のバルトール人。どの男も油断のない顔つきをしている。そして背が低いため最初は気がつかなかったが、その五人の前に十歳を越えたばかりと思われる少年が歩いていた。夕陽はモント達の背中の方角から差しており、その少年は太陽を全身いっぱいに浴びて道を登ってきた。モントはこの光景を生涯忘れないだろうと思った。
 三叉路に先に着いたモントは静かに跪いて王を待った。ベリックと一緒に道を登ってきたフスツがベリックにささやいた。ベリックはゆっくりと近づいてモントの肩に手を置いた。
「待たせたね」
 老マスターは、声をあげて泣いた。そして後ろにひざまずいた部下達も涙を流した。列の後ろでエレーデだけがきょとんとしてこの光景を見つめていた。ベリックはその少女に気がついて、軽く手を上げて微笑んだ。
 夕陽の中、二組の油断のない男達は三叉路で出会い、そして一緒に村に向かった。

 その村にある宿はバルトール人達の定宿で、モントの組織の一部であったため、一行は安心して泊まる事ができた。宿のあるじはベリック王の来訪に心の底から驚愕したようだった。
 その夜、バルトール名物の鍋料理を楽しんだ一同は、食堂の暖かい暖炉を囲んで集まった。すっかり疲れた様子だったエレーデは早めに床につかせた。モントはそこでサシ・カシュウとのいきさつをベリック王に説明した。ベリックは慎重に耳を傾けた後、モントから受け取ったルドニアの霊薬を握りしめて首をかしげた。
「ザイマンのマスター、メソル。メソルおばさんは手紙の中で、大切なものを必要とされる場所で役に立つ人物に持たせたと言っていた。ルドニアの霊薬はここにあるけど、たぶんサシ・カシュウにも何か役目があるんだと思う」
 モントは不思議そうだった。
「メソルの目的がわかりません。いったい何を知り、何を目的にしているのでしょう。そもそも信じて良いのでしょうか」
 ベリックの後ろで、酒のカップを手に持って立っていたフスツがこれに答えた。
「マスター、モント。俺達もそれを悩み続けた。しかしメソルの行動は不可解ながらも、結果的にバルトールのためになっていると思う。王は帰還し、ルドニアの霊薬も手に入った。ここでの一件が片づくまでは確認のしようが無いが、今は信じてみるほかあるまい。北の将を始末したらマスター、メソルと直接話してみよう」
 モントは首をふった。
「その前にまずロッグのマスター、マサズとケリをつけないと、今後のバルトール復興の大きな妨げになるだろう」
 これを聞いてフスツが頬の傷をひきつらせてニヤリと笑った。
「イサシがサルパートに来ているな」
「ああ、サシ・カシュウは北の将に近づくために、イサシと取り引きをするつもりらしい」
「それは死ぬという事を意味するぞ。あいつは俺より容赦が無い」
 モントは机をコツコツと指先でたたいて思案げに言った。
「それはどうかなあ。おまえの噂もイサシと似たり寄ったりだ。両方が敵にまわらなくて俺は心底ホッとしているよ」
 その時、食堂の重い扉を、体重をあずけるようにして開いてエレーデが部屋に入ってきた。
「庭にお馬さんが来ている」 
「馬」
 そうつぶやいてモントが窓から外を見た。雪の中にみすぼらしい馬がすくむように立っている。
「サシ・カシュウの馬だ」
 一同は厳寒と言っても良い庭に出てみた。モントはフスツに確認した。
「おまえは馬のいななきを聞いたか」
「いや」
 ベリックは馬の鼻面をなでながら、ぶつぶつつぶやいているエレーデの後ろに立って声をかけた。
「どうしてここに馬がいる事がわかったの」
 エレーデは黒く綺麗な瞳をベリックに向けた。
「馬が呼んだから」
 モントが近寄って馬の背中をたたいた。
「だが我々には聞こえなかった。ここにいるバルトール人は最高に訓練された者達のみだから、聞き落とす事はありえない」
 エレーデは困ったように答えた。
「みんなそう言うの。でも馬の声はふつうの鳴き声とは違うから」
 そう言って、馬に向かって息がきしるような低い声を出すと、馬がかすかに似たような鳴声で答えた。モントは青ざめた。
「馬と話す者だ。サルパートの伝説だ」
 エレーデは不安そうだったが話を続けた。
「お馬さんが言ってる。あの歌をうたうおじさんがお父さんの仲間に捕まったって」
 モントは了解した。
「サシが山賊に捕らわれたか。どうやら頭を殺された仕返しの機会をねらっていたようですな。さてさてサシはまだ生きているだろうか」
 フスツが素っ気無く言った。
「イサシに殺されるよりは良いだろう」 
 ベリックはためらわなかっった。 
「行ってみよう。あの吟遊詩人が必要なんだ」 
 モントはかしこまってこれに答えた。
「わかりました。しかし王みずからがおいでになる程の事ではありません。王は大洞窟の入り口にあるジンネマンの村にお向かいください」
 ベリックはエレーデに自分の来ていた上着を着せかけながら指示した。
「よし。それではサシの件はこの山に詳しいおまえにまかせる。フスツ、僕達はジンネマンの村に向かう。マルヴェスター様に連絡してくれ、これ以上僕らがここにいる事を隠密にしておいてもしかたあるまい」
「了解いたしました」
 ベリックはエレーデに問いかけた。
「君は僕らと一緒に来てくれるかい」
 エレーデはしばらく悩んでいたが、自分と同じくらいの少年についてゆく事に決めた。
「はい。でもあの歌をうたうおじさんを助けてね」
「わかった。きっと助けるよ」
 ベリックは約束した。これがエレーデとの最初の約束になった。

 ザイマンの王子ブライスとサルパートの巫女スハーラの二人の聖宝の守護者に率いられた二百人の巫女達は、まず山脈を西のサルパート側のふもと近くまで降りた。寒さの中、厳しい戦いへの辛い行軍だったが、若い娘達は久々に学校を離れての旅を楽しんでいるようにさえ見えた。その巨体と豪快な性格からは信じられないほど女性に優しいブライスは、まるで父親のように隊列の前後をかけまわって色々と気をつかっているようだったが、夜になると真っ先に気を失うように眠りについた。スハーラと巫女達は微笑みながら、この山に馴れない大男を見守っていた。
 一行はこれまで、ギルゾンの襲撃を受けた事のない比較的安全な地域を通ってジンネマンの大洞窟を目指す事にしている。もっともこの二週間ほどは、ギルゾンの襲撃がバッタリとやんでいる。その不気味な静けさのかわりに、今度は北の将ライバーが本格的な大侵攻を準備しているという噂が立ち始めていた。
「いよいよだな」
 ある日、いつもどおり列の最後方までの巡回から戻ってきたブライスが、白い息をきらしながらスハーラに話しかけた。それに答えようとしたスハーラは、前方から大きなふくろうが飛んでくるのに気がついた。ふくろうは一行の上空で数回旋回すると、やがて前方の大きな木に翼を広げてドサリととまった。その意外な大きさにブライスは首をすくめた。
「フクロウってのは、昼間も飛ぶのか」
 これを聞いた数人の巫女が後ろでクスクスと笑い声をあげた。ブライスは全体に一時休止を命じて列を止めた。スハーラはブライスの鳥嫌いに困ったような顔をしていたが、フクロウの足の木管から取り出した手紙に目を落として驚いて声をあげた。
「まあ」
「どうした」
 ブライスが心配そうにかけ寄った。
「ルドニアの霊薬が手にはいったわ。ベリックからの知らせよ」
 巫女達の間に喜びの声があがった。スハーラは目に涙をにじませて手紙を読んでいたが、やがて眉をしかめて心配そうにブライスに顔を寄せた。
「マルヴェスター様のご機嫌はどうかしら。ちょっと気になる報告もあるんだけど」
 ブライスは一行の最後尾にいるはずのマルベスターを目で探しながら答えた。
「うーん。あれほどいつも機嫌が悪い老人も珍しい気がするんだが、しかし御大を怒らせるのはもうそろそろうんざりだなあ」
「わしもうんざりだ」
 キャッと声をあげてブライスとスハーラが飛び退いた。防寒用のマントを体に巻き付けたマルヴェスターが二人の後ろに立っていた。
「いつから後ろにいたんですか。人の悪い」
「おまえら二人の話を聞いていると楽しいからの」
 マルヴェスターはそう言うと、スハーラの手から手紙を受け取ってしばらく手紙に目を落としていたが、やがて静かにブライスに手紙を渡して、後ろを向いて何かを抑えるようにこぶしを握りしめた。そして押し殺すような声で言った。
「ベリックがサルパートに来てるのか」
 ブライスがびっくりして手紙を読んだ。
「なんと」
 振り向いたマルヴェスターはブルブルと震えながらブライスにつめよった。
「ロッティ、クライバーに続いて今度はベリックだ。おまえたちシャンダイアの若者達は人の言いつけを守るという事を知らんのか。しかも手遅れになるほど深入りするまで誰にも言わん。おまえらはいったい幾つ秘密を隠しているんだ」
「俺達は隠していませんよ」
 マルヴェスターは手を振ってまくしたてた。
「そうか、そうであって欲しいものだ。いつだったか、シャンダイアの王家に子供が少ない伝統を変えてやると息巻いていたが、どうせならそのあたりにでも挑戦しといてくれ」
「マルヴェスター様」
 スハーラが真っ赤になって叫んだ。マルヴェスターはそこで大きく息をはいた。
「ベリックが来てしまったのならば仕方がない。考えようによってはこの複雑な事態にバルトールの精鋭がいる事は頼もしい」
 ブライスが手紙の残りを読んでさらに驚いた。
「なんだって、馬と話す少女がいるのか、ありゃ伝説じゃなかったのか」
 マルヴェスターは怒鳴って気分がおさまったのか、これには落ち着いて答えた。
「いや、伝説ではなく確かにいるんだ。一世代に一人でるか出ないかの確率で現れるので、今回は駄目だと思っておったんだが。おかげでジンネマンの洞窟の中に馬を連れ込む事ができるかもしれない」

 その夜、一行は小さな町の教会とそのまわりの民家に宿をとった。夕食の後、マルヴェスターとブライスとスハーラは三人だけでブライスの部屋に集まった。マルヴェスターが魔法をちょいと使って自分とブライスのカップにつめた雪を酒に変えると、スハーラはとがめるような目つきでにらんだ。老魔術師は弁解した。
「酒ではないぞ。そんな味がする水だよ」
 ブライスが味見して意見を述べた。
「なるほど。三千年かかっても、完璧な味にはほど遠いですね」
「今度マルトン神がこの星に立ち寄ったら、たっぷり酒を飲んでもらって造りかたを教えてもらうさ」 
 ブライスはカップをコトリと机に置いて二人に体を向けた。
「マルヴェスター、どうも出来過ぎな気がするんです。まるで我々がジンネマンの洞窟を目指すのをあらかじめ予測して、馬と話ができる少女を手配したようだ」
 マルヴェスターもこれに同意した。
「ベリックだ。ベリックが動き出してから、二千五百年の均衡が急に崩れた」
「ベリックを見つけだして、ドラティ討伐に送り出したのは、ザイマンのマスター、メソルですね」
「だがバルトールマスターに未来の予測などできない。それはエルディ神の力だし、馬と話す人間はエイトリ神が時々送り出す者だ。ベリックからの手紙にあったとおり馬と会話ができる少女がサシ・カシュウの姪であるならば、サシに声を与えた時にその種がまかれたのだろう」
 スハーラがはっと気がついたように言った。
「シャンダイアの神々の計画ですか」
「いやそうとも思えない。聖宝神は現在世界各地に散らばってとても協力して何かをできる状態ではない。わしはむしろ、カインザーのクライドン神の力が弱まったときに、聖宝の力が徐々に弱まってきているのではないかと思ったほどだ。しかし少しずつ連携を取り戻して戦いの流れに介在しだした感じもしてきたな」
 ブライスが腕を組んで立ち上がった。
「戦う時が来たって事ですね。どちらにしろその流れにのるしかない」
「そうだ。よくはわからないが、今戦わなければ、逆に黒の秘宝の力に圧倒されて二度と戦えなくなるだろう」
 スハーラは不思議そうだった。
「最後の機会なのですね。闇に傾きすぎたコウイの秤の最後のより戻しなんでしょうか。コウイの秤をお預かりになっているのはマルトン神ですが、この星にお戻りになられた気配はありますか」
 マルヴェスターは首を振った。
「いや、わしは感じていない。いまの所この問題に結論は出さないでおこう。戦いの時には何かに頼ろうという気持ちを持ってはいけない。もしかしたらそれは、わしたちの敵になる力なのかもしれないのだから」
 スハーラが不安げにたずねた。
「そんな可能性があるのですか」
「もちろんだ。神はエルディやクライドンだけではないし、ガザヴォックはおそらく聖宝神以上の力を持っている。さらに宇宙神だとてアイシム、バステラ、マルトンの三神以外にも無数にいるのだから」
 これには神経の太いブライスですらさすがにゾッとしたように首をすくめた。

 翌朝は天気が良かった。雪に消えそうな白い服の巫女達とブライス、スハーラ、マルヴェスターは大洞窟の入り口近くにあるジンネマンの村をめざして出発した。ルドニアの霊薬が手には入った事が全員に知らされていたため、巫女達の足どりは昨日よりはるかに軽く、力強いものだった。ブライスは若い娘達のほほ笑みを見ているうちに、この智慧の峰にもようやく春が近づいているのを感じた。

(第六章に続く)


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