おばあさまと箪笥(たんす)

児島 康子

 桜の季節になると思い出す。花の季節に逝ったおばあさまのことを。おばあさまとともに煙となって空に昇った、あの見事な箪笥のことを。

 私が生まれたのは兵庫県の片田舎の旧家で、古びて大きな屋敷には、長い廊下で母屋と繋がれた離れがいくつもあった。その離れのひとつに、おばあさまはひっそりと暮らしていた。おばあさまと言っても、本当は祖父の一番年上の姉。私にとっては大叔母にあたる人だ。けれども家族はなぜだか皆、彼女のことをおばあさまと呼んだ。それが不思議と自然なように思われた。

 あれは私が十一歳の頃のことだ。
 その頃のおばあさまは、いつも趣味の良い着物をきちんと着込み、少なくなった白髪を小さく頭の後ろにまとめて、ちょこんと大きな和箪笥の前に座っていた。おばあさまの部屋の目立った調度と言えば、この箪笥ひとつきり。あとは座ぶとんと細々した品があるばかりだ。年令を経て体が小さくなったおばあさまと、立派な箪笥との対比はいくぶんユーモラスですらあった。けれど私にはこの、穏やかでいつもうっすらと笑みを浮かべたおばあさまが、なぜだか少し恐かった。穏やかな表情の下、彼女の心はいつもどこか深みにあって手が届かず、得体の知れない感じがした。
 桐材でつくられ、繊細な細工を施した金具で飾られたおばあさまの箪笥は、おばあさまがまだ十代の頃に、恋人の家具職人から贈られた物と聞く。ほどなくして、身分違いと周囲から結婚を反対された二人は手に手をとって駆け落ちした。けれど数年経っておばあさまが一人で家族の元に帰ったときには、おばあさまはすっかり気がふれていたという。時が心を癒しても、けっきょくおばあさまは二人の間に何が起こったかは語らず終い。家具職人の行方も知れないままで、おばあさまはそれきり、二度と恋をすることもなかった。

 ある日のことである。
 離れで一人ひっそりと食事を取るおばあさまのために、ふだんは祖母か母が食事をお膳にのせて部屋まで運ぶのだが、その日はあいにく二人とも手が塞がっており、私が代わりにおばあさまの食事のお世話をすることになった。
 重いお膳を顔の前に捧げ持ち、よく磨かれた床に足を取られぬようにそろそろと長い廊下を進んで、やっとおばあさまの部屋の前まで辿り着いた。
 おばあさまの部屋の襖が、ほんの少し開いている。
 声をかけようとして、中から聞こえてくるおばあさまの小さな話し声に気づいた。独り言のようでもあり、誰かと話しているようでもある。いけないとは知りつつも、こっそり中を覗きたい気持ちが抑えられない。私はためらいながら襖の隙間に顔を近づけた。
 私の位置からは、左側の壁に背をつけて置かれた箪笥と、それに向かい合って座るおばあさまの姿が見えた。おばあさまは下から二番目の引き出しを開けて、中を覗き込んでいる。何やらモゾモゾとつぶやきながら。
「あなたが……、あなたを……」
 時折、フォッフォッとくぐもった笑いが話声に混ざる。皺だらけの小さな顔に、えも言えぬ恍惚の表情が浮かんでいる。
 その光景の異様さに気圧されて、私は後ずさった拍子に廊下にしりもちをついてしまった。どすんと大きな音が響いた。
「おや、貴子(たかこ)さん。もう夕餉の時間かえ」
 たちまち部屋の中から、おばあさまののんびりとした声がした。
「は、はい!」
 私は慌ててお膳をおばあさまの部屋に運び入れた。箪笥の引き出しは既に閉じられており、おばあさまはいつもの静かなおばあさまに戻っていた。
 おばあさまは部屋の奥に座ったままで、廊下にいたのが私だとどうしてわかったのだろう。襖の隙間から覗いているのに気づいていたのか。けれど近頃、おばあさまは視力もずいぶんと弱くなっているはず……。疑念は私の心の中に、澱のように残った。

 青白い午後の日ざしのなかで、大きな座ぶとんに埋もれるように座ったおばあさまが、私に向かってもみじのような手で手招きをする。おばあさまの隣にはあの箪笥が、威圧するように立っている。ためらいながら近づく私の手首を、おばあさまがいきなりつかんだ。痛いようなこそばゆいような、言葉にできない感覚に、私はなぜだかぞっとする。
 貴子さん、見たかったのでしょう。どう、中をごらんなさいな。
 おばあさまは、私の手首をつかんだまま、もう片方の手で下から二段目の引き出しを手前に引いた。
 おばあさま、なんて力持ちなの。こんな大きな箪笥の引き出しを片手で開けるなんて。
 おばあさまはそれには答えない。ただ薄く笑いながら、引き出しの中を覗くように私を促した。
 恐るおそる引き出しの中を見下ろす。何も入っていない引き出しの底に、若い男性の顔がまるで彫刻のように、くっきりと浮かび上がっている。
 ひっ!
 驚いて後ずさる私を、背後から羽交い締めにするように、おばあさまが抱きしめた。
 どうしたんだい。中に何があるか確かめてみたかったんでしょう。これがそうだよ。
 重い。のしかかられて、私はいっそう顔を引き出しの底に近づける。
 じっと目を閉じた男性の顔は、言い知れぬ苦悶に醜く歪んでいる。恐ろしいのに、私はその顔から目をそらすことができない。
 いきなり男の目がカッと見開かれた。そして叫んだ。
「許してくれ、タエさん!」
 そこで私は母に揺り起こされた。熱にうかされた床の中で、私はぐっしょりと汗にぬれていた。
 妙(タエ)とは、おばあさまの名前だった。夢だったはずなのに、男の声は目が醒めた後もずいぶんと長い間、じっとりと私の耳の奥にこびりついて離れなかった。
 こんなことがあってから、私の足は自然とおばあさまの離れから遠退いた。

 梅の花がつぼみを開き始める頃、おばあさまが体調を損ねた。祖父母と両親は、床に着いたきりになったおばあさまを母屋へ移そうとした。その方がおばあさまのお世話が行き届くと考えたのだが、とうのおばあさまは頑なにそれを拒否した。
 おばあさまは箪笥のある部屋を離れたくないのだ。
 誰もがそう思い至って、無理強いはしなかった。
 梅の花が散る頃になって、いよいよおばあさまの具合が悪くなった。ある夜とうとう昏睡状態に陥って、救急車で病院へと運ばれた。祖父母と両親も病院までおばあさまに付き添い、家には私と兄弟、そして留守を頼まれた従姉妹の佳子さんだけが残された。夜が更けても祖父母も両親も病院から戻らず、家の中は重苦しい静けさに包まれた。その雰囲気を察してか、日頃は騒々しい兄弟たちもその夜はみな黙りこくって、早々と各々の部屋へと戻って行った。
 ふとんの中でひとり、私はおばあさまのことを考え続けた。
 かわいそうに、おばあさま。このまま逝ってしまわれるのだろうか。
 私にはおばあさまがこの家からいなくなることも、箪笥だけがあの離れの部屋に残ることも、まるきり想像がつかなかった。
 夜はますます更けて行くのに、目は冴えるばかり。いったいどのくらいの時間が経っただろうか。いきなり何かが私の鼻先に当たった。
 驚いて、がばりとふとんから起き上がる。するとそばにいた白い大きなうさぎが、私の枕元から飛び退いた。
 うさぎだなんて、いったいどこから来たのだろう。
 私が見つめている間に、うさぎはくるりと襖の方に向きを変えた。すると、襖はひとりでに音もなく開いた。そこからうさぎは廊下へと飛び出していった。
 私はあわててうさぎの後を追った。なぜだかそうしなければならない気がした。
 長い廊下を、うさぎは一心に跳ねて行く。春先の夜気のなか、素足に廊下は切れるほどに冷たい。離れの部屋に続く廊下はどこまでも暗く、私は何度も恐れに声をあげたくなるのを堪えながら、それでもなおうさぎの後を追い続けた。
 やがて、うさぎは離れの一室の前で止まった。おばあさまの部屋である。うさぎは私の方を確かめるようにちらと振り返ると、そのままおばあさまの部屋に入って行った。
 恐るおそる、おばあさまの部屋に足を踏み入れた。不思議なことにそこにはうさぎの姿はなく、ただひっそりとおばあさまの箪笥があるばかりだった。大振りの箪笥は、縁側から差し込む月の光をうけて、それ自体が光を放っているかのように、暗い部屋のなかで青白く浮かび上がって見えた。
 箪笥を開けてみたい。
 好奇心が恐れに勝った。私は部屋にあった小さなランプをつけた。コードをひきづったままそのランプをかざし、箪笥にそろそろと歩み寄った。
 まず最上段の小引き出しを開けてみた。中には古い小さな紙箱がたくさん入っており、いくつか手にとって開けてみると、中からは象牙細工の帯留めや瑪瑙玉のかんざし、絹でつくった椿の花などが現れた。
 次にその下の長引き出しを開けてみた。とたんに歳月を経た布と防虫剤の混ざり合った香りが、私の鼻をつんと刺した。
 一番上に置かれていた文庫紙をめくってみた。中にしまわれていたのは、銀鼠の地色につがいの鴛鴦(おしどり)の描かれた御召の着物である。鈍いランプの光の中ですら、その着物の美しさは目をみはるばかりだ。次にその下の着物を取り出してみると、それは藍の地に櫓(やぐら)文様が織り込まれた優雅な紬だった。
 月明かりとランプの光の中で、箪笥の中にしまい込まれたおばあさまの秘めた世界が次々と明かされていく。私は夢中で箪笥の中を探った。引き出しの中から現れる花の刺繍がほどこされた瑠璃色の半襟や、山吹色の絞りの帯揚げ……。こうした華やかな品々は、本当に昔、おばあさまが身につけていたものなのだろうか。私には想像もつかない。私は女としての性も、人であることすらも超越してしまったようなおばあさましか知らない。
 ふと気がつくと、いつの間にか私の隣に、先ほどのうさぎが座っていた。
 うさぎは物言いた気にひくひくと鼻を動かすと、縁側の障子の方に跳ねて行った。障子がすーっと音もなく開く。続いて中庭に通じるガラス障子も、まるでうさぎに命令でもされたように素直に開いた。うさぎはほとんど足を止めることもなく、中庭に飛び出した。
 後を追って外へ出た私が見たのは、この世のものではない光景だった。
 こうこうと照りはえる満月の下、遠くに城楼の荘厳な屋根が見える。その月を横切るように鶴が二羽、ゆっくりと飛んで行く。
 私の背後でわーっと歓声が上がる。驚いて振り向くと、数人の唐子たちが四方に走り散った。その間を縫うように、燃え立つようなたてがみをした獅子が悠然と歩き過ぎて行く。足下にはいつの間にか小さな池ができ、その鏡のような表面を鴛鴦のつがいが滑るように泳いで行く。覗き込むと底には大きな鯉の影が見え、池の傍らには私の背丈ほどの椿の木がたくさんの赤い花をつけて立っていた。
「これはおばあさまの絽の着物に織り込まれた鯉、あれは丸帯にあった獅子。そしてこれは浅葱色の着物のすそ模様……」
 今や私は月の光の下、おばあさまの絢爛たる宝物たちの世界に立っていた。おばあさまが生きた九十年に近い歳月が、今、解放されて中庭を自由に広がっている。この懐かしいような心地はいったいどこから来るのだろう。茫漠とした幸福感に、私はしばし我を忘れた。
 うさぎが私の足下を跳び過ぎた。行く先を目で追うと、うさぎは垣根の側にある桜の木まで跳ねて止まった。まだつぼみすらおぼつかないはずの桜がなぜか満開に咲いており、その花の下、振袖姿の若い女性がひとり立っていた。歳の頃は十八、九といったところか。リボンでまとめた黒髪を長く背に垂らしていた。女性はかがみ込むと足下のうさぎの首筋を撫でたが、私に気づくと嬉しそうに私に微笑みかけた。まるで姉妹のような、親しい女友達のような風情で。彼女の薄桃色の着物の袖と裾には、大輪の牡丹の花が鮮やかに描かれていた。
「おばあさま!」
 その瞬間、すべては私の周りから消えた。月明かりさえ雲に翳り、私は暗闇の中にひとりとり残された。

「貴子ちゃん、貴子ちゃん」
 私を呼ぶ声がする。揺さぶられて私は目が醒めた。寝巻きの上にカーディガンを羽織った佳子さんが、私を覗き込んでいた。
 起き上がって私は驚いた。私は自分の部屋のふとんの中にいた。つい今まで、離れの中庭にいたはずだったのに。
 きょとんとしている私に、佳子さんが静かに言った。
「今しがた、おばあさまが病院で亡くなられたのよ」
 夜が明けるまでには、まだ少し間が合った。


 おばあさまの通夜の準備は翌朝早くから始められた。『女の子は家のことを手伝うものだ』と、遊び回る兄弟たちを後目に、私は準備の手伝いに追われた。お客さま用の座ぶとんを運んで仏間に入り、そこに寝かされたおばあさまの遺体が目に入る。
 私は、白い布をかけられたおばあさまの小さな顔をまじまじと眺めるばかりだった。“死ぬ”ということが、私にはまだよく理解できていなかった。こうして終わりを迎えてしまう命の中で、人にとっての時間とは、いったいどういう意味を持つものなのだろうか。
 夜になって弔問客を迎えてしまうと、やっと家の中にも落ち着きが戻って来た。
 祖母と母、それに父の姉にあたる叔母が、今のうちにおばあさまの形見分けをしておこうと話し合い、女の子なら着物に興味があるだろうとの祖母の提案で、私も一緒に箪笥の整理を手伝うことになった。
 果たして昨夜のことは本当に夢だったのだろうか。箪笥の引き出しの重みも、月の光の下の冴えた夜の空気も、こんなにはっきりと体が記憶しているのに。あれは本当に起こったことで、おばあさまの部屋は今も私が散らかしたままになってはいないか。
 私は内心びくびくしながら、祖母たちに付き従っておばあさまの部屋に入った。
 主人を失った箪笥はいつもと同じ様子でどっしりと部屋の中に置かれてあり、私が昨夜、箪笥を開けて散らかした痕はかけらもなかった。良かった。昨夜のことは、やはり私が見た夢だったに違いない。
「あらまぁ、着物がぎっしり」
 最初に一番上の長引き出しを開けた叔母が、興奮混じりの声をあげた。
「おばあさま、この家の長女だったから、それは大切に扱われていたのよ」
「お義母さま、おばあさまのお若い頃をよくご存知なんですか」
 叔母が引き出しから着物を取り出すのを手伝いながら、控えめに母が訊ねる。それを聞いて祖母は哀し気な様子で微笑んだ。
「おばあさまと一番下の弟、つまりうちのお父さんとでは歳がひとまわりも違うから、私がこの家に嫁いで来た頃には、もう例の駆け落ち騒動はすべて終わっていたわね。小柄でおとなしい人で、ほとんど周りの人たちと親しく言葉を交すこともしなかった。あるいは駆け落ちの前なら、もう少し打ち解けたのかも知れないけれどね。でも本当にいつも美しく装っていた。着物だけが、あの人の唯一の愉しみだったのね」
 祖母がこんな風に昔語りをするのを、私は初めて聞いた。
 叔母と母が引き出しから文庫紙に包まれた着物を取り出して畳の上に所狭しと並べ、祖母がそれをひとつひとつ開いて行く。そうして広げられた着物を見て、私は自分の目を疑った。
 櫓の模様が織り込まれた紬に、鴛鴦の御召。すべて夢で見たものと寸分変わりないものばかり。いったい何が起こっているのだろう。鮮やかな錦糸で織られた鶴の模様の丸帯、こちらの浅葱色の着物の裾には可愛らしい唐子たちが描かれている……。
「あら、これ可愛い柄。貴子ちゃん、これいただいたらどう?」
 そう言いながら叔母が差し出したのは、雪輪文様の中にうさぎが描かれた茜色の着物だ。ゆうべのうさぎのもの言いた気な目を私はふと思い出した。
 祖母が下から二段目の引き出しに手をかけた。とたんに私の背筋に冷たいものが走った。あれはおばあさまが中を覗き込んで話しかけていた引き出し。あの悪夢に出て来た引き出しだ。
「おばあちゃま、その引き出し開けるのよそう」
 私の体は恐れのあまり震え始めた。この押し寄せる恐怖感が体の内から湧くものなのか、それとも外から流れ込んでくるものなのか、私にははかりかねた。
「なんなの、変な子だね」
「お義母さん、貴子、以前に箪笥のことで恐い夢見たようなんです」
 母が私の弁明をすると、祖母は納得したようにうなづいて少し笑った。
「確かに大きくて恐い感じのする箪笥だものね。じゃあ中を開けて見てみよう。それで貴子の恐い気持をなくしてあげようね」
 もう私には、祖母をとめる術はない。
 祖母が引くと、引き出しはぎしぎしときしみながら開いた。
「まぁまぁ、ここにはずいぶんと古いものが入っていること」
 黄色く変色した文庫紙に包まれた着物を、祖母がひとつひとつ取り出していく。
「これなんて、おばあさまも先代の方からいただいたものじゃないかね」
 そう言いながら祖母が赤い総絞りの羽織を文庫紙から取り出して、膝の上で広げてみせた。若い女性が着るように、いくぶん袖を長く仕立ててあるものだ。
「ほんとに見事な絞り模様だこと」
と、祖母が後ろ襟を両手でつまんで持ち上げたとたん、何かがポトリと袂のあたりから落ちた。
 おやと、落ちたものをしばらく見ていた祖母たちの表情が見るみるこわばる。
 母はいきなりかん高い叫び声をあげると、私を胸に押しつけるようにして抱き締めた。
「貴子、見ちゃダメ。見ちゃダメよ!」
 そう言いながら、母は私を抱く手になお力を込める。
「静子、おとうさんたち呼んで来てちょうだい!」
 祖母の声に、叔母が慌ただしく部屋を飛び出した。
 おばあさまの羽織の袂から落ちたのは、乾涸びて黒く変色した人間の片耳だった。

 葬儀のために集まっていた一族の者たちは一晩話し合い、おばあさまの箪笥の中からみつかった片耳を秘密裏に処理することに決めた。地元の名士として名の通った私の家では、どんな醜聞も許されない。恐らくは数十年以上前の、誰のものとも知れないおぞましいもののために家名を汚すわけには行かないと、誰もが考えたらしかった。
 成りゆきを静かに見守っていた女たちは、おばあさまの着物の整理を始めた。
「おばあさまがこの世にいらしたことを忘れないように、みんな一枚ずついただきましょう。あとはおばあさまが持っていかれるわ」
 祖母の言葉に、母や叔母たちは黙ってうなづいた。
 仏間の廊下を通りかかった時、赤い総絞りの羽織をおばあさまの棺にかける祖母の姿を見た。祖母は何も言わず、棺の小さな窓からおばあさまの顔をただ見つめていた。
 下から二段目の引き出しの中からは、おばあさまの若い頃の写真も出て来た。リボンでまとめた黒い髪を背に垂らし、いくぶん緊張した顔でカメラを見つめるおばあさまの振袖の袖と裾には、誇らし気に咲く大輪の牡丹が描かれていた。
 おばあさまの箪笥は葬儀の終わった日の夕方、まだ家に残っていた親戚の男性たちの手で小さく割かれ、おばあさまの着物とともに中庭で燃やされた。鮮やかな炎の上に立ち上る煙が、まだ硬い庭の桜のつぼみに黒い煤を降らせた。
 箪笥の燃える炎を、私は桜の木の下から見つめ続けた。炎の中に、さまざまな疑問の答が見えはしまいかと。
 果たしてあの耳は、おばあさまの恋人の家具職人のものであったのだろうか。それでは、おばあさまがあの耳に囁き続けたのは、自分を捨てた恋人への恨みの言葉だったか。それとも絶えてなおやまぬ彼への想いだったのだろうか。今となっては誰にもわからない。箪笥ひと竿分のおばあさまの一生は今、煙となって春の空へと昇って行く……。

 やっとおばあさまの半分の歳になり、けれどまだおばあさまの想いをはかりかね、物思いに眠れぬ夜を過ごすことがある。
 それまで頑なに心を閉ざし続けたおばあさまが、なぜ命の尽きる夜、私に自分の世界を見せたのだろうか。
 それを考えるにつけ、私はおばあさまの内にあった孤独と情念を想う。女として持ち得たすべて、恋人すらも箪笥の中にしまい込んで、おばあさま、あなたの人生は幸せだったのですか。
 今は私の箪笥の奥にある茜色の着物のうさぎは、今もなお物言いた気な顔つきのままだ。

(了)


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