『タイムトンネル堀り』

中条 卓

 まったく、気まぐれで自分の頭の中なんて覗いてみるもんじゃないよな。かといって見つかっちまったものは仕方がないんだが。いやね、そもそもは新しいMRIのテストのつもりだったのさ。今日びボランティアなんてつかまんないし、アルバイトはたちが悪いからね。そもそもバイトで雇った国籍不明年齢不詳の学生にヘリウムを抜かれたせいで前のマシンがいかれちまったんだから。いくらおれがヘリウムのことを略してヘロって呼んでたからって、ヘリウムとヘロインを取り違えるとはね。ヘリウムってのは2番目に軽い元素で太陽の中で燃えてるやつさ。太陽のことをギリシア語でヘリオスっていうんだ。ヘリウム、ヘリオスコープ、ヘリオトロープ、みんな太陽から来てるんだぜ。でもってヘリウムは常温じゃ安定した気体で、空気より軽いくせに水素みたいに爆発しないから気球に詰めるんじゃないか。ほら、デパートなんかに置いてあるだろ、風船の自動販売機、あの中身もヘリウムさ。もっともおれの装置に使われてるのは液化ヘリウムっていう極低温の液体だけど。それを抜き取って、こともあろうに味見しようとしたっていうからとことん頭悪いよね。もちろんそいつは指を大やけど、おまけにコックを閉め忘れやがった。どうなったと思う? MRIのスキャナってのは液化ヘリウムの中にばかでかい電磁石を漬けて冷やしてあるのさ。極低温だと電気抵抗がゼロになる、いわゆる超伝導状態になるから大電流を流せるんだ。ところがコイルを冷やすはずのヘリウムが蒸発して減っちまったからコイルの温度が上昇しだした。そのうちに超伝導状態が破れていきなり電気抵抗が生じたもんで、コイルから莫大な熱が発生して、ヘリウムが爆発的に気化したんだ。クェンチングっていう現象さ。コイルから何から全部交換しなくちゃなんないってんで、また借金が増えちまったい。
 …何の話だっけ。そうそう、バイトの話だ。いやその前だ。バイトを雇う気がしなかったから、仕方なく自分で自分の頭をスキャンしてみたのさ。そしたらなんと大当たり、脳動脈瘤が見つかっちまった。それも、いかにも破裂しそうな危ない顔したやつ。動脈瘤に顔があるのかって、あるんだよそれが。瘤が血管とつながってる部分をネックっていうくらいだからね、瘤ってのは頭なのさ。目鼻がついててこっちを睨むことだってある。おれ、ふだんはよぼよぼのじいさんばあさん取っつかまえてさ、蹴飛ばしたって絶対破裂しそうもないよな動脈瘤、もう目鼻どころか口まであって「ほっといてちょうだい!」ってヒステリックに叫んでるようなやつをいいかげんに治療して金取ってんだけど、今度ばかりは弱ったね。勝手に膨らみやがったくせに「責任取ってよ」なんて目を吊り上げながら迫ってきて、無視しようもんならあんたを殺してあたしも死ぬわ、ええもう今すぐ死んでやる、きぃーってな感じ。ほんとは手術で取ってもらいたいんだけどさ、なんたって脳外科の向こうを張って(1)髪の毛剃らない、(2)頭蓋骨開けない、(3)脳みそ取らない、の3ない主義を貫きます、なんて宣伝してる手前、きゃつらに頭を下げるわけにゃいかんのよ。かといって同業者はみんなライバルだもんなあ、何されるかわからんもんなあ。どうしようかなあ。
 こう見えてもおれだって一応医者のはしれなんだけど、なにせインジェクタブル=マシンが登場してから内科と外科の区別があいまいになっちまったもんで、しょうがないからインターベンショニストって名乗ってるんだ。イベント屋じゃないよ。オナニスト…も似てるけど違う。INTERVENTIONIST、それも血管専門のね。早く言やあ血管修理請負業だ。洒落のわかるクライアントにはタイムトンネル掘りです、なんて自己紹介するの。「血管は未来へ続く生還トンネル」…どう、悪くない標語でしょ? 血管と生還で脚韻を踏んでるし、生還は青函と星間に通じるってね。まあ口の悪い連中には下水工呼ばわりされることもあるけどね。せめて配管工ぐらいにしといて欲しいやね、まったく…ててて、どうも最近肩が凝っていけねえや。それに頚を右に向けるとめまいがしやがる。疲れてんだなあ。それとも借金のせいかなあ。首が回らない、なんちって。
 インジェクタブル=マシンてのは注射可能機械、略して注射機だ。機械の部品をマイクロマシン技術でうんと小さくしてさ、コロイドつうのかな、浮遊液をこしらえて注射しちまうわけ。血管内に注入された部品は特定の場所で自分勝手に集まっていろんな機械をこしらえ上げる。それを外から操って血管を広げたり、潰瘍を治したり、穴を塞いだり色々やるわけだ。おれが操作するのは中でも一番精巧なやつでさ、潜航艇みたいな格好してるんだぜ。「ミクロの決死圏」みたいだって?…古いなあ。まあ似たようなもんだけどさ、あんな質量保存の法則を無視したデタラメな代物じゃあないの。VR技術の粋を凝らしてあっからさ、抜群の臨場感なの。血管の中は真っ暗で何も見えないだろうって? そりゃまあ、肉眼ならそうだけど、赤外線やドップラーエコーを使って得た情報をコンピュータグラフィックス化して、でっかいスクリーンに投影するからさ、血管壁のでこぼこや迫って来る白血球なんかがオールカラーで手に取るように見えるのよ。下手な洞窟アドベンチャー・ゲームなんて目じゃないって。でも考えて見りゃ妙だよね、人間の身体の中に人間が入り込むってのは。似たような体験だったのは医学生時代に上部消化管の内視鏡検査、大昔は胃カメラなんて呼ばれてたあれね、あれを学生同士でやったときだな。モニターを見てたら自分がぐるっと裏返しになって自分の中に頭からもぐりこんでいくような気がしたもんな。ウロボロスっての、自分のしっぽを飲み込んでどんどん縮んでいくヘビになったような気分。…待てよ。そうかぁ、そうそう、そうですよ。自分でマシンを操縦して自分を治せばいいんじゃない。X線透視でモニターできないのが難点だけど、そこはそれ勝手知ったる我が家、じゃなくて我が身だもん、なんとかなるっしょ。万一迷子になったら、やけどしない程度に軽くレーザービームを打ってやりゃ、熱くなったところが現在位置だもんね。それにちゃんとカルテ作って記録さえ取っておけば後で保険請求もできるし。そうだ、学会に症例報告しちゃおうかな、まだ誰もやったことないはずだから、一流の医学雑誌にだって載るはずだよ。
 うーん、考えれば考えるほどこれはいいアイデアですよ。治療だけじゃなくて人間ドックに組み込んじゃってさ、コクピットに助手席をこしらえて「血管内体験ツアー」なんてやったら受けるかもね。「消化管下り24時間〜食物からウンチまで」なんて小学生相手に商売してもいいしさ、「卵子をたずねて〜源流への旅」なんて中学生相手に性教育して、ついでに裏ルートでソフト売りさばいて大もうけ。むひひひひ。そうとなったら善は急げだね。
 おっといけねえ、ボイスレコーダーがつきっぱなしだったか、まあいいや。ツアーコンダクターの練習と思ってしゃべくろう。注射液を調整して、と。もともは作業内容を記録するための装置なんだけどね、どうもこいつがオンになってると見えない観客相手のスタンダップコメディアンみたいな調子で強迫的にべらべらとしゃべっちまう。治療機の狭いコクピットって圧迫感がすごいんだよ。それともおれ、閉所恐怖症の気があるのかな。とにかくしゃべってないと不安なのよ。さてどのキットにしようか。脳血管用の標準キットにするか、安いから。駆血用のゴム管を上腕に巻いて、さあ肘の静脈に針を刺しますよ。痛くない、痛くありませんからね。なんだかジャンキーにでもなった気分だな。病み付きになったらどうしよう。てててっ、ゆっくり注入しても結構痛いなあ。浸透圧が高いからな。針を抜いてバンソーコー貼ってと。
 タイマーをセットして、作業服に着替えたら乗船だ。別に着替える必要はないんだが、こういうのは気分の問題だからな。
(ハッチが閉まる音)
 どうだい? 特注なんだぜ、これ。サンダーバードの隊員服そっくりに作らせたの。こっちがシミュレータなんだけど、外見はサンダーバード4号なんだよ。色も自分で塗った。いいんだよ、クライアントには見えないんだから。コクピットもそれっぽくしてくれって頼んだんだけどさ、資料がなかったからNASAのスペースシャトルなんだな、ここは。よっこらしょ、換気扇回してまずは一服と……ぷはーうめえ。電子部品の塊だからタバコはいけないんだけどね、本当は。火災報知機だのドロボーよけだのが一緒くたになったセキュリティー端末もあるんだけどさ、タバコの火と煙でしょっちゅう誤作動するもんだから電源切っちゃったもんね。
 さて注入された機械がわが血管内で組み上がるまでしばらく待ちますか。静脈から注入された部品はそのまんまだとぜーんぶ肺に引っ掛かっちまうんでね、上腕静脈腋窩静脈鎖骨下静脈無名静脈上大静脈を経て右心房に入るってえと、まず土台になる部品が右心房の壁にがきっと杭を打って自分を固定するんだ。どうやって右心房に着いたことを判定するのかって、難しいことはよくわかんないけどペーハーだか酸素分圧だか上下大静脈血の合流によって生じる乱流だかを検知するんじゃないのかな、たしかそんなことが能書に書いてあったよ。とにかくさ、土台になる部品が心房中隔に食らいついて杭を打ち込むと強い磁場を発生して他の部品を呼び集める。集まった部品は疎水基と親水基の向きに従って順序よくくっついてって立体的な複雑な形になっていくらしいよ。蛋白質の3次構造決定の原理だかなんだか、まあそんなわけだ。実はこの部品てのは必要量以上にたくさん注入しておくもんで、余ったやつはやっぱり肺に飛んでって毛細血管に引っ掛かっちゃうんだ。そのままだと具合が悪いから、部品の表面には20分で融ける時限コーティングがしてある。これが融けると血中の蛋白分解酵素やら脂質分解酵素やらが働いて、余った部品はきれいさっぱりなくなっちまうんだ。どうせ吸収されるんならって、ビタミンだの血小板凝集抑制剤だの抗生物質だのを混ぜてあるらしいよ。よけいなお世話っつう気もするけどさ。
 おっ、来た来た。スクリーンが明るくなって、いよいよおれの出番だ。ミュージックスタート、「ワルキューレの騎行」ときた。静脈用の機械だったらここ右心房から遡航していけば地続きでどこへでも行けるんだが、今おれが操作しているこいつは動脈系の機械だからね、まずは右心系から左心系に移動しなくちゃいけない。なんだかどきどきするな。自分の心音がコクピット中に響いてるんだから当り前か。モニタを赤外線から超音波に切り替えて、と。赤一色だな。なにも血の海の中にいるからってこんな色にしなくってもよさそうなもんだ。個人的には緑一色の方が好きなんだが。さあて目の前に迫ってきたのが左右両心房の境、心房中隔だよ。これをそろそろと移動していくと、ほら、卵円孔の痕が見つかる。卵円孔ってのは胎生期に右心系と左心系を連絡してた穴なんだ。これが残ってたら楽なんだが、開いてないから自分で開けるよ、レーザーを照射してと……あいた! おお痛え、こんなに痛いもんだとは思わなかったな。鎮痛剤を打ってないから余計なんだけど、それにしてもクライアントは大変だねえ。クライアントのおれは寝かしておいて、マシンを操作するおれだけ起きてるわけにはいかないかしらん。
 ここからが見ものですよ。さあてお立ち会い、レールなしの3次元ジェットコースター、千番に一番の兼ね合いでござい。土台から離れるぞ、1、2のさん!…うひゃあ、毎度ながら目が回るぜ。実際は秒速数cmってとこなんだが、おれの体感速度は時速300kmくらいあるんだ。新々幹線並だよ。大動脈弁のゲートを通り、左室で180度ターンして上行大動脈へ、おっとここで急ブレーキだ。炭酸ガス=ジェットをふかしてまた壁に接近、アンカーを打ち出してと……ててて、痛えなあ。
 さて解剖学をご存じない方のために解説いたしましょうかね。本船はただいま上行大動脈の外側壁すなわち頭に向かって左側の壁に接地しております。ここから大動脈は大きなアーチ、いわゆる大動脈弓を描きつつ3本の太い枝を出し、やや細くなって下行大動脈となります。下行大動脈の先は腹部骨盤下肢へと続くわけですが、今回の目的地は脳血管、正確に言いますと左内頚動脈の枝であるところの左中大脳動脈でありますから、まずは頚動脈へ向かわなければなりません…ところがですよ、MRIで見たらどうも左内頚動脈そのものが詰まってるみたいなんだなあ。やっぱタバコがよくないのかなあ。かーちゃんに逃げられてから一日5箱は吸ってるもんなあ。気がつくと昼間から酒飲んでるし運動なんてもちろんしないし、食事ときたら朝飯抜いて昼はコンビニ弁当、晩は居酒屋夜食にラーメンだもんな。高脂血症高血圧に糖尿病、尿路結石に痛風の気もあって、これで血管が詰まらなかったら人間じゃないよね。とにかく左が詰まっているとすれば、右内頚動脈から前大脳動脈を通って前交通動脈経由で反対側に行くしかないか。ふむ。さて大動脈の枝と申しますのは手前から腕頭動脈、左総頚動脈、左鎖骨下動脈と通常はこの順に分岐しております。腕頭動脈とはその名のごとく腕と頭に行く血管の元締めで、右の総頚動脈と鎖骨下動脈に分かれるのであります。てなわけで腕頭動脈めざしキャタピラの爪を立てて壁を登っていくと……あひゃひゃひゃ、こりゃこそばゆい。胸の奥がかゆいなんて妙な気分だな。なんだかうきうきしてくるな。そろそろ画面を赤外線とドップラーエコーのハイブリッド画像に戻そうか。ほーらとたんにサイケデリック。このへんはあれだね、軽快に「ブラジル」でも聞きながらドライブしたいところですね。血管壁は砂丘のごとくゆるやかに起伏し、地平線は地上とは逆に両端へ行くほど徐々にせりあがり、黄色く盛り上がるアテロームの丘を迂回すると爆撃の跡みたいな潰瘍があって、頭上を流れる血流は周辺部の赤から中心部の緑まで流速に応じたなだらかなグラデーション、次々とマシンを追い越していくのは円盤型の赤血球、キャタピラの痕跡に群がるこんぺいとうみたいな血小板、アメーバみたいに変形しつつ追いすがり、時にはマシンの舷窓にへばりついて攻撃を仕掛けて来る白血球。ああ気分は異世界探険。空がすぼまって地平線の端と端がつながるともうここは腕頭動脈だ。入り口付近は血流が激しく渦を巻いてて、色ペンキをこね回したみたいだな。はは、白血球のやつ、振り落とされちまったぜ。このまま右の壁伝いにいくと右鎖骨下動脈から腕の方にいっちまうから車線変更してと、おお見えてきた、あれなるは右総頚動脈……れれ? やけに細くねえか、おい。げげっ、ここも狭いんでやんの。
(にぶい衝撃音)
 おっといけねえ、血管にはまり込んじまった。おわっ、左手が利かれえろ、やびゃい、ろれるが回りゃにゃいひ、気も遠くなっへひは……あああ危ない危ない。逆噴射レバーが右側にあって助かった。うわあすげえ頻脈だ、血圧も上がってるぞ。いかん船殻がきしみだした。降圧剤、降圧剤は青のボタン、と。ふう。救急用医薬品のカートリッジを点滴のルートにつないでおいで正解だった。あーあ、だいぶバッテリーを食っちまったな。いつもならクライアントにマイクロ波を照射して充電するんだが、今日はなんてったってクライアント兼オペレータの身体が船の中と来てるからな。おれ自身にマイクロ波を当てるためにはおれがいったん船の外に出なくちゃならない。ちょっと待てよ。その船は今おれの身体の中にあるわけだから、おれがこの船の外へ出るということはおれがおれ自身の身体の中に出て行くということで…どうも変だな。えーと、整理してみよう。おれは今この船の中にいる。船はおれの身体の中にある。その船の中にはおれがいて、そのおれの中にはこの船があって、船の中にはおれ、の中には船、の中にはおれの中には船の中にはおれの…ええい、ややこしい。
 しかしよく見るとひでえ狭窄だな。ありゃりゃ、壁が黄色と赤のだんだら模様になってると思ったら、でっかい潰瘍があるじゃないか。こりゃ改めて広げる算段を講じないとまずいな。といって今日は血管拡張キットも潰瘍修復キットも用意してないぞ。まったく何て不健康なクライアントなんだ、って自分を責めてもなあ。
 大動脈弓までいったん戻ろう。左総頚動脈は行き止まりだからパスして3本目の枝にジャンプだな。ちょっと遠いけど、左鎖骨下動脈から椎骨動脈経由で終点の脳底動脈まで行って、後大脳動脈から後交通動脈経由で内頚動脈系に乗り換えますか。なんか地下鉄の乗り換えみたいだな。腕頭動脈の起始部にアンカーを打って、ケーブル付きのモリを下行大動脈に打ち込むぞ。どん。痛ててて。まったく乱暴な治療だよこれは。キャタピラ付きの海底探険車が今度はロープウェイに早変わり。左総頚動脈の火口の上を綱渡りとござい。
 皆様お待たせしました。ロープウェイの終点、左鎖骨下動脈でございます。おやおや、ここも相当な狭さですよ。いやんなっちゃうなあ。ちょっと後退して、船を涙滴状に変形してから勢いをつけて、ほい! 一気に狭窄部を越えたぞ。どんなもんだい。さらば大動脈よ、しばしの別れ。チャオ!

 (30秒間の沈黙。緩慢な心音と不規則な呼吸音)

 …んぁ、ああ? あれ、おれ、こんなところで何してるんだ。うう、頭がいてえ。おおっと、よだれが垂れてるぜ。ああそうか、おれ、自分の血管の中にいるんだっけ。変だな。そうだ、右肩越しに投げキッスしようとしたら強烈なめまいがして、そのまま気を失っちまったんだ。ところでここはどこなんだ? 左鎖骨下動脈に入ってすぐに気を失ったはずだから、椎骨動脈か内胸動脈に吸い込まれたか、はたまた上腕動脈をまっすぐ突き進んだか。椎骨動脈なら頚か頭の中だし、内胸動脈なら胸壁、上腕動脈なら腕だなあ。なんにしても完全にはまり込んじまってるから流速ゼロでスクリーンが真っ暗やみだ。Bモードに切り替えてと、うわっ、こんな末梢の動脈まででこぼこだらけ。血糖値のコントロール悪いからなあ。しょうがない、レーザーの試し撃ちといきますか。せーの、あちちちち! おお熱い、親指がちぎれるかと思った。ううむここは橈骨動脈だったか。くそ、戻らなくちゃ。
 だいたい何だって右を向いただけで気絶しなくちゃならんのだ …待てよ、ひょっとして椎骨動脈系の血流もぎりぎりなんじゃないか。頚を回すと血管がよじれるか何かして、少ない血流がさらに少なくなるんだ。こりゃ椎骨動脈経由も危険だな。さっきは椅子からずり落ちる時に何かの拍子で首が元に戻って助かったみたいだけど、椎骨動脈の狭窄部に船が詰まったら今度は間違いなく死ぬぞ。業務上過失致死で逮捕…ってこたないか、書類送検だ。仕方ない、大動脈弓まで引き返そう。しかし動脈瘤の補修が終わったら大急ぎで血管の大掃除をしなけりゃなあ。ええいタバコもきっぱり止めるぞ。くわえタバコで右向いて死んでた、なんて言うと格好いいけど、MRIのローンも済んでないからな。ここで死んだら葬式代も出ねえや。さて腕頭動脈もだめ、左椎骨動脈もだめとなると、残るは左総頚動脈から内頚動脈の正面突破しかないじゃないですか。うげげ、よもや自分の体内でトンネル掘りすることになろうとはね。しかたない、未来へ続くタイムトンネルを掘りますか。方向転換もままならないから、このままバックするしかないな、ジェット全開だ。ああもうバッテリーが半分しかないぞ。
 来た来たここです。ここが左総頚動脈の入口。うーん流れが淀んでるなあ。またしても流速ゼロじゃないか。ただ行ったり来たりしてるだけでやんの。まいったな。血流がないとなると、とたんに粘性抵抗が問題になってくるんだよね。どろどろの糊の中を泳ぐようなもんだ。アンカーを使って少しずつ前進するしかない。穴掘りの前に登山かよ、ハードだな。
 レーザーメスで切り出した血栓を超音波破砕装置で粉々にしながら少しずつ進んでいくと …開いた!
 うわっ、なんだなんだ、いきなり左目が見えなくなったぞ。おまけに右手に力が入らない。ほ、ほえわみゃうい(こ、これはまずい)。ひひひょう(ちきしょう)、へっへんをふふひへほはひひはっははひひ(血栓をつついて飛ばしちまったらしい)。

(切迫した呼吸音。椅子から転げ落ちる音。サイレンそして合成音声のアナウンス)
『警告。警告。操作室にて緊急事態発生。直ちに治療を中止し、クライアントを覚醒させてください。繰り返します、直ちに治療を中止し…』
(アナウンスの合間を縫うように何かが床を這う音。クリック音。薬液が急速に注入されるしゅっという音。ふたたびアナウンス)
『クライアントを覚醒させてください。警告。けいこ』
(突然の沈黙)

 はあはあ、な、なんとか右手が利くようになったぜ。血栓溶解剤が間に合ったんだな。まだ小指がうまく動かんが、船の操縦くらいはできそうだ。ああよかった。柔らかい血栓だったからよかったもののの、下手をすると脳梗塞でよいよいになるところだった。まだそこらじゅうにに溶けかけの血栓がごろごろしてるからな、慎重に操縦してと…あったあったよ瘤子ちゃん。といってもここからはネックっていう入口しか見えないけどね。ネックは小さいな。コンマ7ミリってとこか。船首をネックに突っ込んで蓋をして、瘤の中を生理食塩水で洗ってと。ライトの光量を上げましょうかね。えー、瘤の直径は約2ミリ、天井にはミッキーマウスの耳みたいなでっぱりがふたつ。危ねえ危ねえ。破裂寸前だ。まずは高周波で瘤内の血液を凝固させ(あちちちち)てから船首を引っこ抜き、船殻の一部を流用して瘤のネックにパッチを当てます。この船首を引っ込めるタイミングてのが難しいんだよ、実際。凝固した血液につかまって離れなくなっちまったっちゅう話が山ほどある。おれたちは船を一隻駄目にするだけで済むけど、かわいそうなのはクライアントですよ。半分とろけた船が細い動脈に飛んでって失語症になったりする。「ほーら治りましたよ」「あうううう」「瘤はもうぜったいに破裂しませんからねえ」「うああああ」「え? 治療費ですか。ちょっとアクシデントがありましたからね、半額にまけときましょう」「うあうあうー」「へい、まいどあり!」てな調子だね……ひとりで漫才やってる場合じゃないな。早く仕上げちまおう。内皮とパッチを接合して、と、よし出来上り。
 さあて、仕上げにいつものやつをやっておこうか。いつもなら動脈の壁にイニシャルを焼付けるんだが、自分の血管に自分の名前彫ってもしかたないか。どうしようか。でもこのまま何もしないで帰るのもつまらないな。あ、そうだ、遺言でも書いとこうかな。ここなら絶対に改竄される心配がないからな。うん、我ながらいいアイデアだ。よーしごにょごにょごにょ、と。
 ああようやく終わった。おっと船が溶けだす制限時間ぎりぎりじゃないか。大動脈に戻る前にちょっと一服…いやいや、タバコはやめると決めたんだったな。決めたんだ…けど、最後の一本だから吸っちまおうかな、もったいないから、ということでひとつお目こぼしを。ぷはーうまい。いやーこれだからひと仕事終えたあとのタバコってやめらんないんだよ。おおっとくらくらするな。気のせいか窓の外が暗くなったような…ああそうか、酸素分圧が下がってやがる。効果てきめんだな。これがまたいいんだけどさ。

 さあてキャタピラ走行に切り替えて大動脈に戻りましょうかね。…え? ぐわっ、なんだこれは。む、胸が、胸が痛い! い、息がくるしい…し、心筋梗塞? しまった冠動脈もぼろぼろだったのか…
(規則正しく聞こえていた心音がもつれて不揃いなギャロップになる。血圧低下を告げる警告音。自動音声によるバイタルサインの読み上げ)
『血圧低下。現在90/50…さらに下降…収縮期圧60mmHg…ショック状態と思われます。看護職員は直ちに操作室に向かってください』
(タバコが落ちるかすかな音)

 ああ、ニトロが少し効いたかな。今のうちだ、今のうちに船の向きを変えるんだ。今なら心拍手量が低下してるから抵抗が少ないはずだ。ああ、船が融けかかっているぞ。バッテリーもレッドゾーンだ。いや、だいじょうぶ、勝手知ったるおれの体内じゃないか。大動脈を遡行して冠動脈に向かうんだ。だいじょうぶ、ほんの60センチばかりタイムトンネルをさかのぼるだけだ。わずか60センチなんだ…でもなんて遠いんだろう…

(了)


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