『あるいはドワーフでいっぱいの宇宙』

 スクイーズド状態から再構成されるときジョゼフ・マカベウスは無意識にしっかり目を閉じている自分に気づいた。しかもどうやらそれはグリフィス・ロデンベリィに目撃されてしまったらしく、彼は転送の成功にほっとする一方で密かに心の中で舌打ちした。連邦科学情報局の長官として周囲の人々に人間的な弱さを目撃されることはけっして望ましいことではない。しかしマカベウスのその思いを知ってか知らずか、教授はにこやかに笑みを浮かべながら痩せた手をさし出した。
「ようこそ、長官」
「内心は迷惑に思っているんじゃないのかね? ロデンベリィ教授」
 さし出された手を無視して彼は素っ気なく言った。
「余計なお荷物がやってきたと」
 口辺の微笑を絶やすことなく、この既知の宇宙でもっとも名高い科学者は答えた。
「とんでもない。もちろん条約どおりに連邦からの査察はいつでも歓迎します。それが『大学』の自治を許していただいていることに対する交換条件ですから。ただ……できればもう少し専門領域に関するわたしの判断を信用していただければありがたい。以前から何度も申しあげているように、この実験は非常に危険です。万一の場合、失われるのはこの老骨だけにしておきたかったのですがね……」
「そうしてきみにこの宇宙船を与え、どこへ飛ばそうと勝手気ままにさせておけというのかね? そんなことを許せるわけはないだろう?」
「この船はどこへも行けはしませんよ。反物質燃料なしにどうやってエンジンを始動するというのです?」
「それはきみがそうわれわれに報告しているだけのことだ」
 長官は手にしたブリーフケースを抱え直しながら言った。それは書類入れにしては少しばかり大きすぎたが教授は気にした様子もなく肩をすくめ、量子テレポーテーション装置のコヒーレント・フィールドから歩みでてくる相手を迎えた。
「ご注意ください。周期的に遠心力が微妙に変化しますから……」
 そこらじゅうに罠がしかけられていると疑っているかのような慎重な足取りで長官はテレポート装置のデッキから管制ルームの床に降り立った。
「幸いモジュールの切り離しは無事に行われました」
 円形の床の中央に立っておそるおそるマカベウスは機関モジュールをふり仰いだ。十二本の金属炭素ケーブルは黒く細く観測窓の外わずか数メートルの距離までしか見ることはできない。そのために巨大なエンジンはあたかも天頂から彼らの頭上に落下してくるごとくに見えた。しかし星々をちりばめた背景の闇がゆっくり回転していることでこれらのテザーが絡まることなくふたつのモジュールが互いをふりまわしていることが彼にも納得できた。
「一見したところ不具合はないようだが?」
「かすかですがテザーの一本が横揺れしています。タイレルの潮汐作用でふたつのモジュールは共通重心のまわりに完全な円を描くことはありません。そこでわずかな張力の変化に応じてテザーをコントロールしているのですが、その機構に若干問題があるようです」
「制御システムの故障かね?」
 科学者は首をふった。
「船載コンピューターは完全に作動しています。おそらく巻取り装置の機械的トラブルでしょう」
「危険があるのか?」
「すぐにどうこうということはありません。が、なるべく早めに手をうつべきでしょうな。このさきタイレルに接近するにつれて振動はしだいに大きくなるはずです。まかり間違うとテザーがからまり最悪の場合モジュール同士が接触する事態もありえます」
 長官はその途方もない重量のパイプやバルブやノズルの集合体が居住区画を粉々に破砕する光景を思い描いていささか心が怯んだ。
「あれより小さな居住天体を見たこともある。本当にこのちっぽけな船をここまで送りだすだけのために、あんな大層な仕掛けが必要なのかね?」
「長官。問題は超遠距離航宙における質量比で……」
 マカベウスは片手をあげてロデンベリィの説明をさえぎった。
「けっこうだ。どうせ何度聞いてもわからん……いずれにせよ、わたしは船が航行不能であるというきみの報告を鵜のみにするつもりはない」
 マカベウスの疑い深い目つきを変わらぬ愛想のよさで受けとめつつ教授は答えた。
「あなたがいま利用されたテレポーテーション装置がなかったら間違いなくあの機関モジュールは数倍の規模のものになっていたはずですよ。何名もの搭乗員と生活物資をここまで送り届け、のみならず彼らをふたたび故郷につれ戻すためにね。あのエンジンが建造された当時の地球の技術をもってしても、光速の数パーセントの速度を達成するのが精一杯だったのです。だからこの船は片道飛行のために設計されました。当然、推進剤も燃料もタイレルまで飛行するぶんしか積んでいません。昔から反物質の生産は高くついたのです……もっともわたしの最初の提案どおり量子テレポーテーションを利用して反物質と水を補給すればこの船と貴重な対消滅エンジンを回収することも可能なのですが……」
「反物質は戦略物資だ」
 マカベウスはとりつくしまもない口調で言った。
「民間人にまかせるわけにはいかない」
「しかし量子テレポーテーションの研究のほうは……」
 長官は周囲のいにしえの地球テクノロジーの産物を値ぶみするように眺めまわしながら答えた。
「予言しておこう。いずれきみの研究は連邦の厳重な管理下に置かれる。いまのところこのテレポート装置の原理を理解している者がほかにいないという事情のためにやむなく政府もきみの行動を黙認しているだけの話だ」
「まあ、それでもいままで自由に研究を続けさせていただいたことに感謝すべきでしょうな」
「正直、わたし個人としてはこの研究は極秘のうちに抹消されてしかるべきものと思っている。本来ならきみが例の地球時代の古記録とやらを調査している段階で手をうつべきだったのだ」
「しかしあなたがたは何も信じようとなされなかったのでは?」
「当然だ!」
 マカベウスは語気荒く言った。
「人間を距離を無視して光より速い速度で転送できる……などという夢物語を誰が信じる?」
「しかし地球人はそれを実現したばかりか現実に宇宙探査計画に利用していたのです。カイパーベルトに独立国家群が誕生する何百年も前にね」
「いまいましい古代の遺物だ!」
 彼はいらだたし気に腕をふった。
「万一この技術が『外縁』の連中にわたったらと思うとぞっとする。強力に武装したサイボーグ戦士部隊をどこでも好きな場所に送ってよこせるわけだからな!」
「まさか……どこでもというわけにはいきません。量子テレポーテーションを可能にするためには受信側に大規模な設備が必要です」
 マカベウスはじろりと痩身の科学者をにらんだ。
「われわれは領有した天体に十分な兵力を駐屯させるという手段で内域ベルトの治安をからくも保っている。彼らは戦闘の専門家だ。しかし科学者でも技術者でもない。目の前で組み立てられている量子コンピューターが化学物質循環をシミュレートするためのものか、それとも量子テレポーテーションに転用できうるものかの判断をまかせるわけにはいかない」
「それは、長官。察するところあなたがたのお仕事でしょうな?」
「確かにそれがわたしがここにいる理由のひとつではある」
「任務とはいえあの『量子もつれ』状態に進んで入られる勇気は感嘆すべきものです」
 一瞬、長官の眼ざしがこの言葉の裏に皮肉があるかどうかを推しはかるように老科学者の表情に注がれた。しかしロデンベリィは目をそらし、そしらぬ顔で話を続けた。
「なにしろ非局所性原理への不信はアインシュタイン以来の伝統ですから」
「わたしには原理などどうでもいい。きみが自分自身で志願したという事実のほうがよほど気にかかる」
「量子テレポーテーション装置の調整はデリケートなのです。転送フィールドのコヒーレンスを崩さないよう細心の注意が必要です。他の未経験な者にまかせるわけには……」
「きみは自分のやることすべてにもっともらしい理由をつけている。だがそれが本当の動機かどうかわれわれが疑っていることを忘れないほうがいいぞ。とにかくきみは重要人物だ。それゆえつねにわたしの目の届くところに居てもらおう」
 教授は慇懃な態度でうなづいたがその変わらぬ微笑はどこかマカベウスを不安にさせるものだった。

 赤黒い憤怒の色をたたえた眼が闇の中に浮かんでいた。ロデンベリィがコンソールを操作するとそれは急速に拡大して熾火のように暗く燃える球体になった。マカベウスは立体映像に歩み寄るとまるであってはならぬものを見るような目つきでこの異様な天体を観察した。
「褐色矮星?」
「そう……ブラウン・ドワーフです。この船は褐色矮星タイレルの調査のために建造されたのです」
「……まさに地獄だな」
 その無気味な色彩をのぞけばタイレルは海王星にわずかに似ているかも知れない。高速の自転のために緯度方向に細く伸びた巻雲が幾筋もそれを取り巻いているからだ。しかしメタンの淡く美しい青緑色の代わりにその表面を彩るのはほの暗く燃える血の赤であり、さらに照らし出す外部からの光を一切欠く有機質の雲がまがまがしい黒い線条となってその上を覆っていた。
「もう少し拡大すると表面をびっしりと細かい亀甲状の斑紋が覆っていることがわかるでしょう」
 暗赤色の星がいきなり膨張しマカベウスはぞっとして立体映像から身を引いた。
「それらは内部からの熱対流による『ベナールのセル』。太陽で言う光球粒状斑に相当するものです。小さく見えますがひとつひとつの直径は大きいものでは千キロを超えます。こうした大規模な内部対流が見られることがもっとも軽い水素から金属核まで層状に重なった静的構造を持つガス惑星と褐色矮星との決定的な違いです」
 話が専門領域になるとロデンベリィは生きかえるようだった。たとえ情報局長官が相手であれ、とにかく彼は他人に自分の知識を分け与えることに無条件に喜びと生き甲斐とを感じているらしかった。
 ……危険人物だ。マカベウスは確信した。
「地球人たちはこの星を調査することにいったいどんな意味を求めていたのだ?」
「褐色矮星は非常にユニークな天体なのです、長官。まず第一にそれは非常に小さい……タイレルの赤道半径は約七万五千キロ。つまり木星よりひとまわり大きい程度です」
「太陽系最大の惑星より大きい天体に対してあえてきみは非常に小さいという言葉を使うのか?」
「ええ。恒星の仲間としては……タイレルは木星の五十倍の質量を持っていますが水素核融合を起こすにはそれでは足りません。例えばわれわれの太陽が木星の千倍の質量を持つことを思い出してください。褐色矮星は核融合で光り輝くためには小さく軽すぎるのです。もっとも誕生したばかりの時期には重水素を融合させることはできますが……それは数百万年のうちに燃え尽き、そのあと星は収縮の一途をたどります。つまり褐色矮星は中性子星やブラックホールと同じ縮退天体の一種であり、中心核での電子によるフェルミ縮退圧がその外形を支えているのです」
 長官がもういいというふうに手をふるとロデンベリィは映像を消し、部屋はふたたび明るくなった。
「いずれにせよわたしには膨大な労力と資源を投入した愚行としか思えない」
「もともと学問は元来そういう性質のものではありますがね。加えて地球時代の人類はわれわれよりはるかに余裕をもって労働と資源とを消費できました……とはいえまったくの無駄というわけではありませんよ。例えば褐色矮星は将来の水素供給源として……」
「水素? われわれにはそれを供給するガス巨星が四つもある。やがて連邦の手で木星のリグシステムが再建されれば水素は安価にほぼ無尽蔵で手に入るようになるだろう」
「わたしの申し上げているのはもっと大きなタイムスパンでのことです。太陽を含めて、恒星はいつかは自分の持つ水素を燃やしつくすでしょう。新しく生まれる星の数も次第に減っていき、星間物質を含めて核融合に使える水素がこの宇宙から消滅するのは時間の問題です」
「それはいまから何十……いや何百億年も先の話ではないのか?」
「もちろんそうです。しかしその日は必ずやってきます。その時、褐色矮星はゆいいつ残された水素の供給源となるでしょう。かつては暗黒物質の候補にあげられたほどで、銀河系には恐らく何百億という数でそれらが存在するはずですから……」
 マカベウスは顔をしかめた。
「きみと遠い夢物語を話し合っている暇はない。わたしは現実の問題を抱えている。まず第一に行うべきなのはこの船に使われている地球時代の技術をすべて調査記録することだ。幾度もの戦争の間にわれわれが失ってしまった知識がここには残されているかも知れない」
 老科学者の目から夢見るような光が消えいつもの密かな皮肉を楽しんでいるような眼ざしが戻った。
「武器に転用できそうなものはないようですが……」
「そんなことはわかるものか。きみもわたしも軍事技術の専門家じゃない。とにかく可能な限りすべてを記録し持ち帰ること……」
「そしてその後はすべてを破壊すること……ですか? あなたの持ち込まれたブリーフケースの中身は三重水素ペレットですね? 長官?」
 マカベウスは感情を欠いた視線を老科学者に送った。
「……これは提案ではない、教授。命令だ!」

 ロデンベリィは長官に呼ばれ生命維持装置の点検作業を中断した。マカベウスは開いた扉の前に立って奇妙な表情でその小部屋の内部を見つめていた。
「どうしました?」
「教授? これは船外作業用の気密服だと思うが……」
 ロデンベリィは彼の視線の先を追った。小部屋、というより壁の凹みと呼んだほうがふさわしいような小さな空間に、派手な原色で色分けされた気密ヘルメットとスーツが押し込まれたように並んでいた。
「いま着用なさっている連邦標準装備のほうがたぶんはるかに高性能です。生活上の必要性からか気密服に関してはわれわれのほうが地球人たちよりずっと進歩しているようです」
「そんなことを尋ねたいんじゃない」長官はいらだたしげに言った。
「ほかに何か?」
「地球人の体格はわれわれとは相当違っていたかね?」
「さあ……少なくとも骨格ががっちりしてはいたでしょう。われわれよりずっと大きな重力に慣れていましたからね。当然循環器系も頑強だったはずです。逆に同じ理由から平均身長はわれわれのほうが若干高いでしょう。しかしそのほかの点ではそれほどの差はないと思いますが……それらの宇宙服をご覧になればわかるように」
「それではこの装備は誰のためのものだ?」
 長官は奥のほうに吊るされた数組の気密服を指した。ほかのスーツに比べてそれらは明らかに数十センチほど丈が短かった。
「子供用……でしょうか?」
 長官は狭いロッカーに半身を踏み入れてそれらをあらためながら言った。
「なぜ学術調査船に子供が乗る必要がある?」
「あるいは……特別に知能強化された類人猿のためのものかも知れません。宇宙開発の初期にいわゆる『スーパーチンプ』が造り出され利用されたという記録があります」
「いや……違う」
「どうしてそう言いきれるのです?」
 マカベウスは傍らの棚に置かれたグローブを手にしていた。いつもより少しよけいに青白い顔で彼は言った。
「こいつを見たまえ」
 さし出されたそれを受け取ろうとして教授はびくりと手を止めた。グローブには指が四本しかなかったのだ。通常の人間の指が欠けているというのではなく手の形そのものがどこか妙だった。
「いくら類人猿でもこんな手をしているはずはない」
 しばらく思いあぐねるようにそれをもてあそんでから教授は言った。
「なにかの目的で形成外科的処置をほどこされていたのでは?」
「どんな理由で? 仮にきみの言うとおりそれがスーパーチンプのものとしても、むしろ逆に人間の手の形に合わせたほうがすべてによほど好都合だろう」
「……親指が二本あるように見えますね。確かコアラベアがこんな前足をしていたように思いますが……」
 マカベウスは不愉快そうに鼻をならした。
「知能強化されたコアラ? ……馬鹿な! きみ自身そんな説明を信じてはいまい」
「まあ可能性として言ってみたまでです。このスーツは確かに謎です」
「ふん……きみは必ずしもそう思っていないんじゃないかね?」
 情報局長官は胸のまえで腕を組みながら言った。彼がそうすると上着の下の無反動銃の膨らみがいっそう強調された。
「どういう意味です?」
「きみは何かを知っている。わたしに隠していることがあるはずだ」
「隠しごと……ですって?」
 老教授は小さな笑い声をたてた。
「わたしが密かにサイボーグ戦士の一連隊をエアロックに潜ませているとでもおっしゃるのですか?」
「質問を冗談でかわすのはあまり利口なやり方じゃないぞ。ロデンベリィくん」
 マカベウスの口調はぞっとするほど冷たかった。
「わたしが情報局長官として尋ねているときはとくにだ」
「と言われましても……長官。確かにあなたに伝えていない知識は少なからずありますが、それらはすべて専門領域に関係するものです。知ったところであなたのお役にたつとは思えません。それとも量子テレポーテーションの技術的細部についての情報をお望みですか?」
「あるいはそのあたりに何かがあるのかも知れん……。とにかくわたしの職業的勘がそう教えるのだ。きみのその不愉快な微笑は何やら重大な事柄を隠している証しだとね」
「あなたのその職業的勘とやらはつねに当たるのですか? 長官?」
「それを必要とするときはいつでもな……」
「羨ましいことです。われわれ科学者もつねづねそうした才能がありさえすればと願っています」
「話をはぐらかすのはやめるんだ。教授」
 彼は一歩踏み出すとロデンベリィの目をにらみつけて言った。それは威嚇としてはあまり成功しているとは言い難かった。老いているとはいえ科学者はマカベウスより頭半分ほど背が高かったからだ。しばしの間ふたりはそうしてにらみ合っていたが、やがてロデンベリィのほうがため息をつきつつ目をそらした。
「キュービットに誓って、この宇宙服についてはわたしもはじめて知りました。……だがあなたのその優れた勘どおり、ある意味でわたしはこうした事態を予想していたとも言えますな。これは量子テレポーテーションの基本原理に関係する問題なのです」
「つづけたまえ」
 老科学者は全面降伏するかのように両腕をひろげた。
「すべてお話することを約束しましょう。だが今はわれわれの身の安全のためにテザーの修復が先です。……いかがです? 長官。わたしの船外作業を補佐していただけますか?」
 わずかにとまどった後、マカベウスはうなづいた。
「いいだろう。だが妙な考えは起こさぬように。わたしの銃は気密服の『内側』にあるわけではないのだからな」

「装置をこちらへ」
 教授の声にマカベウスは足元の複雑な形状の機械に目を落とした。それは居住モジュールの外周に設置された狭い足場を一杯に占領していた。油断なくかがみこもうとして長官は自分の命綱にその動作をはばまれた。目に見えて躊躇しながら彼はかたわらの梯子からフックを外し手すりのパイプに手早くつけ替えた。……遠心力はほぼ1Gで彼らを『下向き』に押しつけている。もし足場から投げ出されれば際限のない暗黒の空間への落下が待っているのだ。
「巻取りシステムの不具合を調整すればいいんじゃないのか?」
「いえ……ここまで波が大きくなってしまうとただ単にケーブルのたるみを巻き取っただけではだめです。それでは振動数が危険なまでに増えてしまうでしょう」
「それでこの機械かね?」
 長官はどっしりと重量感のあるそれを科学者に向けてさしあげつつ言った。ケーブルをくわえこむプーリーが並んだ溝が刻まれた太い円筒が三つ、頑丈そうな自在アームで互いに接合されている。アームのそれぞれの取り付け部分にはあきらかにサーボモーターのハウジングとわかる部分が突出し、周囲をモジュールユニット化された制御回路がとりまいていた。
「単純なロボットですが、振幅と周期を感知するそれぞれのセンサーからの信号を比較判断しながら振動エネルギーを漸減吸収するように工夫されています」
 教授はそれを自らこの船の工作室でパズルを組み合わせるようにして短期間に組み立てたのだった。あらかじめ豊富に用意された汎用ユニットを組み合わせて特殊な用途に対応する装置を作り出すという一見資材を不必要に浪費しているとしか思えないこうした奇妙なシステムが、どうやら彼の知っている技術文明のそれとはまったくかけ離れた発想にもとづいたものであるらしいことをマカベウスは肌で感じとっていた。この船につめ込まれたこうした異質な技術情報を連邦の優位を脅かすことのないよう以後いかに取捨選択し管理すべきか……情報局の長としてマカベウスは胃が痛くなるような重荷としてそれを感じはじめていた。これらの知識はカイパーベルト世界全体に大規模なカルチャーショックを与えることで思わしからぬ状況の変化をもたらす可能性さえある。いっそすべてを破壊して忘れてしまうことができれば……無意識にいらだたしく腰の無反動銃の握りをまさぐりながら彼は陰気に考えた。
「さて、そろそろ約束を果たしてもらおうか? きみの知っていることとは何だ?」
「もう少しだけお待ちください……これで最後ですから」
 ロデンベリィの指が装置の側面に並んだスイッチを端から順に押していった。そうして制御ユニットのひとつにグリーンの光が点灯するのを確認した彼は満足気に立ち上がった。
「完了しました」
 見守るふたりの目の前で金属炭素ケーブルに取りつけられた装置はゆっくりと上昇を始め、まもなく光のとどかぬ闇のなかに見えなくなった。ただ緑色の小さな輝きだけがそれが振動するテザーの中間点にむかって着実に進みつづけていることをしめしていた。
「この世界を作っている素粒子は古典的な粒子と違って奇妙な性質を持っていることはご存じでしょう? 人はそれらの位置と運動量を同時に知ることはできません」
 教授がヘルメットの照明を消すと足元の観測窓からの微光のなかにその姿が白く浮かび上がった。そうして薄闇のなかで輝くパイロットランプを見上げた姿勢のまま教授は語りはじめた。唐突な話題にとまどいながらもマカベウスはひとまず黙って耳を傾けることにした。
「のみならずそれは『重ね合わせ』の状態で存在します。例えばひとつの電子が場所Aにある状態と場所Bにある状態とが重ねあうようにして存在しているのです。
 このとき人間が観測を行い電子を場所Aに見い出したとすると場所Bに電子が存在する可能性は瞬時に消滅する。これを波束の収束といいます」
「ハンゼンベルグの不確定性原理の講議かね?」
 マカベウスが言い科学者はうれしそうに笑った。
「かなり予習されているようですね。結構です……さて、こうした事実は非常に奇妙な結論をひき出します。
 例えば物理学者たちはダウンコンバーターを利用してひとつの光子を半分のエネルギーレベルの光子ふたつに変換することができます。このときこれらの光子は『量子もつれ』と呼ばれる状態にあって互いの量子的性質が密接に関連しあっています。……たとえば偏光の角度が互いにそろっていたりするわけです。
 だが実際にどの角度に偏光しているかはわかりません。不確定性原理によってそれらは複数の偏光角度が『重ねあわされた』状態にあるからです。そしていっぽうの光子を偏光子を通すなどして『観測』することで波束は収束し偏光角度はただひととおりに決まってしまいます」
 緑の点はまだ見えていた。真空と暗黒の宇宙では微かな光も驚くほど遠くまでとどく。満天の星の海のなかでもその特徴のある色と動きをもつ光点を見失うことはなかった。
「……先に言った奇妙な結論というのはこのとき『量子もつれ』状態におかれたもうひとつの光子の偏光角度も観測することなく同時に決まってしまうということです。しかもこの波束の収束は時間をおくことなく瞬時に……超光速で伝わるように見えます。
 この一見パラドックスに思える現象を初めてその可能性を提唱した三人の学者……アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼン……の頭文字をとってEPR効果と呼びます」
 老科学者の『告白』は情報局長官の慣れ親しんだ尋問の形式からの際限のない逸脱を予感させた。つのる内心の苛立ちをおさえこみつつマカベウスは言葉をはさんだ。
「彼らは量子論のもつ不完全さを示そうとしてその現象をとりあげたのだ。そして皮肉にも観測事実はアインシュタインたちの予想を裏切り非局所性原理のほうを支持している。……とはいえ、その波束の収束は情報を伝えたりはしないはずだ。超光速といってもべつに相対性理論に矛盾する現象ではない、と聞いている」
「たいへんよくご存じだ。情報局におられるべきではありませんな……」
「職務上きみの研究している専門分野についてある程度詳しく調べるのは当然のことだ。われわれをあまり甘く見ないことだよ、教授」
 ロデンベリィのくぐもった笑い声がヘルメットのなかに響いた。
「胆に銘じておきましょう。しかし、それではもはやわたしの語るべきこともないのではないかと思えます」
「わたしはきみの口から直接聞きたいのだ」
 教授は気密服の肩をわずかにすくめるポーズを見せ、マカベウスはそのフェイスプレートの中に例の皮肉な笑みが見えるような気がした。
「そういうお心づもりなら……お言葉のとおりEPR効果そのものは超光速トランスポートを実現するものではありません。しかしその効果を利用して対象を光よりも速く送りとどけることは可能なのです。この可能性は1997年にウィーン大学のザイリンガーたちによって実験的に証明されました。……たぶんすでにご存じとは思いますが」
 マカベウスは気ぜわしく気密グローブを動かして先をうながした。
「ここでは話を簡単にするために人間のような複雑な物体ではなく一個の光子をテレポートする場合を例にとりましょう。前もって補助要素として『量子もつれ』状態に置かれた別のふたつの光子が送信側と受信側にそれぞれ準備されていると考えてください。コヒーレント状態がそこなわれないようにこれらの光子が厳重にシールドされていなければならないのは言うまでもありません。
 この状況ではテレポートする光子の偏光状態も準備された補助要素の光子の偏光状態も直接測定することはできません。もしそうすれば測定の瞬間に量子的重ね合わせが壊れてしまいテレポーテーションも不可能になるからです。しかし両方の光子を同時に測定してその偏光の相互関係……例えば直交しているかどうか、を知ることはできます。これをベル測定といいますが、このとき例のEPR効果で受信側の光子も送信側で重ねあわされたふたつの光子と瞬間的にまったく同じ状態になります。
 さて、ベル測定によって『量子もつれ』状態に置かれた光子の基本状態……ベル基底は四通りありえます。しかし実際にこのうちどの状態にあるかは受信側にはわかりません。それを知るためには送信側でのベル測定の結果をなんらかの手段で受信側に伝える必要があるのです。
 そうして受信側がこの情報によって手元の光子を偏光子などを通して送信側にあったもとの光子と同一のものに作りかえることで、いわゆる『テレボーテーション』は完了します。ただしこうして測定結果を送るプロセスは必然的に有限の速度にならざるをえません。よって量子テレポーテーションは光速度を超えることはできない……」
「……それでも、きみはその光速の壁は超えることができるというわけだ」
「ええ。受信側でもとの光子の情報を再構成する場合、たかだか四通りのベル基底状態のなかからひとつを選べばよいことに注目してください。つまりたとえデタラメに選んだとしても四分の一の確率でテレポーテーションは成功する……」
 教授は言葉をとめて頭上をふりあおいだ。どうやら装置はあらかじめ定められた位置に到着したらしい。少し前から緑の点はもはや遠ざかることなくゆったりと左右に揺れるだけになっていた。
「……きみの自慢のロボットの首尾はどうかね?」
「たぶん……装置そのものの重さが加わったことを考慮しても振動周期の明瞭な減少が確認できると思います」
 ロデンベリィは緑点の動きをリスト端末のタイマー表示と見比べながら満足げにつぶやいた。
「複数の振動が合成された『うなり』が生じているとやっかいなのですが……幸い杞憂だったようです」
「それではこんな場所にいつまでいることはない。戻るとしよう」
 エアロックへ続く梯子を指さして教授に先に行くよううながしたマカベウスは、ふたたび話の流れを引き戻すべく詰問口調でつづけた。
「きみはまだ何か重要な要素について黙しているはずだ。量子テレポーテーションに関する今までのきみの説明はほとんど理屈になっていない。実際にはそうしてテレポーテーションされた光子がもとの光子と同一のものであるかどうかを受信側で知るすべはない。きみ自身がさきほど言ったように、それはベル測定の結果がなんらかの形で情報として伝えられてはじめて可能となるのだからな」
「……量子テレポーテーションされるものが光子の場合はそのとおりです。しかし意識をもった人間……観測者自身をテレポートする場合はそういうふうにはなりません」
 無限の奈落へさしかけられた梯子にためらうことなく足をかけながら老科学者は平静な口調で答えた。カイパーベルトで生まれ育った彼はあきらかにこの手の船外作業に慣れていた。
「もちろん人間をテレポーテーションの後再構成するのに必要な情報量は光子の場合とは比較しようもないぐらい膨大ですが……原理的には四つのベル基底状態となんら変わることはありません。デタラメに操作された四回のうち三回ではテレポーテーションは失敗するでしょう。しかしあとの一回では成功します。
 そして光子と違って人間にはテレポーテーションの成功を自ら『観測』できるのです。残りの三通りの場合では再構成は失敗しますが、この失敗は当然ながらテレポートされた本人に『観測』されることはありません。
 散文的な表現で恐縮ですが……猫は箱の外部にいるシュレディンガーにとって生死重ね合わせの状態でいるかも知れないけれど猫自身にとって自分が死んでいる状態などそもそも経験しようもない、というわけです……」
「だが、それはひたすら奇跡的な幸運だけをあてにしたいちかばちかのギャンブルも同じだ。確かにテレポーテーション装置の受信側に死んで到着したとしたらその失敗はきみの知るところとはならないだろう。しかしそんなことは何の助けにもなりはしない。生きて成功を体験する確率ときたらお話にならないぐらい低いのだからな……どうした?」
 教授の言葉じりが妙な具合に終わり、その後の沈黙がやたらに長びいていた。マカベウスが見下ろすと教授は降りる手を休め梯子の途中に佇んたままどこか緊張した気配で上空を見つめていた。長官がその視線を追うとちょうど機関モジュールの背後から彼の故郷トリトンから見た海王星ほどの大きさに膨れ上がったタイレルがあらわれるところだった。すでに薄闇に慣れた目にはその天体の妖しく燃える表面の様子がはっきりと見えた。
「さきほどから気になっていたのですが……どうもあそこで何か妙なことが起っているようだ」

 ふたたび明かりを落とした管制ルームの中央にタイレルの立体映像が浮かびあがっていた。映像は部屋の半分を占めるほどまで拡大され、マカベウスは壁ぎわまで後退を余儀なくされていかにも気にそまぬという表情でそれを眺めていた。褐色矮星のイメージは今回は全面的にコンピューター処理されていて、ベクトルを持つ微細な色点で表現された乱流の微分表示と速められた時間尺度のおかげで通常なら数十時間におよぶ『セル』の生成消滅の様子を彼らはわずか数秒の間に観察することができた。そのため以前の死を予感させる暗く衰退した星という印象は一変し、タイレルの表面はなにやら顕微鏡下で微細な生物が一斉に絶えまなく蠢いてでもいるようにざわついて見えた。細胞が爆発的に増殖をつづけているかのようなその光景にこの星の持つ底知れぬ生命力を感じてマカベウスはいささか圧倒された。……現実にはそれらは微生物や細胞のスケールどころか、さしわたし数百キロの規模をもつ高温高圧の液状水素、ヘリウム、そしてリチウムの巨大な対流なのだ。確かにこの星は冷たいガス巨星というよりは燃えさかる恒星にはるかに近かった。
「やはり黒点に類するものじゃないのかね?」
 画像をじっと観察しつづけているロデンベリィの沈黙に耐え切れなくなって長官は口をひらいた。老科学者はかがみこんでいた背筋を伸ばして彼のほうを見た。ホログラフィックスの微細な色線パターンで彩られたその顔が地獄の門の前に立つメフィストフェレスかなにかのように見えてマカベウスは一瞬鳥肌だった。
 教授の背後に並ぶモニタースクリーンのなかには船に先行する探査機から送られてくるタイレルの映像があり、そこには赤道付近を自転方向にゆっくりと移動していく巨大な黒い円形の影が映っていた。船外活動中に彼らが見たのはその不可解な黒斑の航跡に沿う形で褐色矮星表面に巻き起こされた大規模な乱流だったのだ。
「違うと思います」さすがに困惑した口調でロデンベリィは答えた。
「褐色矮星の内部対流は太陽のそれのように電離したプラズマではなく液化した金属水素です。したがってタイレルの磁場は内部物質に表面構造を突き破って突出するエネルギーを与えられるほど強力なものには成長できない……加えて太陽黒点のようなトロイダル磁場に起因する現象なら南北両半球の比較的高い緯度に現れるはずですが、この黒斑はほぼ赤道面を動いています」
「では小天体の影かも知れない」
 ロデンベリィは論外というように首をふった。
「長官。あなたはタイレルを外部から照らすものが一切ないことを忘れていらっしゃる。あれは実体を持った何かです」
 彼はふたたび立体映像にかがみこみ、もはや情報局長官の存在を無視して独り言のようにつぶやいた。
「木星大赤斑のような帯状環流がひき起こしたロスビー波渦であるとしたら……いや、それではどうしてこんな完璧な円形状を保ち続けていられるのか説明できない。やはり固体なみの密度を持つ物体……しかもガリレオ衛星クラスの大きさをもつ剛体があそこにあると考えるほかは……」
「表面ぎりぎりの軌道を持つタイレルの惑星ということは?」
 マカベウスは半ばやけくそで問うた。この新しい事態が危険をともなうものかどうかを判断しないかぎりすべての作業は中断せざるを得ない。そしてこの船でそれを決めることができるのは総合科学者たるロデンベリィをおいていないのだ。
「うむ……それも考えにくいですな。ああして擾乱をひき起こしている以上あの物体は上層大気すれすれか、おそらくはその内部を運動しているはず。当然、膨大な粘性抵抗を受けるわけで、通常の天体がそんな状態で短期間であれ安定した軌道を保てるとは思えません」
「では、どう説明する?」
「もし自然現象であるなら矮星内部のまったく未知のメカニズムで産み出されたものということになります。しかし……」
 ロデンベリィの声には微かに畏怖の調子が含まれていて、それを聞いたマカベウスもまた背筋に何やらひやりとしたものを感じた。
「しかし……?」
「自然のものではないかも知れません」
 マカベウスは黙り込み、やがて意味もなく声をひそめて言った。
「人工物だと?」
「われわれも水素ラムジェットで駆動する同様な構造を木星の上層大気中に下ろしていますからね……」
「リグは確かに巨大な装置だが……しかしあんな途方もない大きさではない。きみはあれが……」
 彼はつぎの台詞を言おうとして一瞬絶句し唾を飲込んだ。
「……太陽系外文明の産物かも知れないと言いたいのか?」
 教授は沈黙したまま首をめぐらした。その視線の先に例の気密服ロッカーがあることを思い出しマカベウスはわれ知らず額の冷たい汗をぬぐった。

「『エヴェレットの多世界解釈』?」
 ロデンベリィの顔にはふたたびマカベウスをいらいらさせる例の微笑が浮かんでいた。
「……たとえば『量子もつれ』に置かれた光子の四通りのベル基底状態はすべて実現しうるはずです。にもかかわらず測定されることで重ねあわされた量子的状態の波束はただひとつの値に収束し残りの可能性は失われてしまう。なぜでしょう? 量子論研究の主流であったコペンハーゲン学派はこの疑問に答えようとはしませんでした」
「わたしはあの星の上で現在進行している新しい事態に対するきみの見解を正したのだぞ?」
「ええ、ですからそれを申し上げているのです。例の奇妙な気密服の存在へのわたしなりの解釈も含めてね……」
 マカベウスはため息をついて簡易スツールに腰を下ろした。彼はふいに深い疲労を感じている自分に気づいた。
「よかろう。つづけたまえ」
 彼の忍耐に微かに謝意を示して教授はつづけた。
「それに対して1957年にプリンストン大学のヒュー・エヴェレットはつぎのような解釈を提案したのです……なぜならわれわれがその値が実現するたったひとつの世界に存在しているからだ、と。この『多世界解釈』では量子的な重ね合わせの状態は単にそうあり得たという潜在的可能性にとどまらずに実際にそれぞれの状態を実現する宇宙があり、それらが並立的に存在すると考えます。それぞれの宇宙に同様に分裂した観測者たちがいてそれぞれのベル基底状態を測定している……この解釈に立てばどうころんでも結局すべての可能性は実現され、どれかひとつの世界で観測されることになるのです。
 ……長官、この宇宙の物理的な諸定数が信じられないような偶然でわたしたち人間を生存させるような値になっていることはご存じでしょうか?」
「それがどうしたというのだ?」
 とつぜん話題が飛躍することに漠とした不安を感じながらマカベウスは尋ねた。
「そうした状態で宇宙が生まれるにあたって創造主の奇跡的なみわざが働いたと考えることもできます。しかし神秘主義に組みする前に別の逃げ道もある。それはあらゆる諸定数の組み合わせの可能性がすべて実際に実現された、と考えることです。宇宙はわずかに物理定数の値が違っている無数の並列する諸世界からなりたっていて生命が存在できるのはそのうちでごくわずかな一部にすぎない。だからこそわたしたちが生き、それゆえそれを認識できる宇宙の諸定数は必然的に生命に都合のいい値になっている……」
「ふん、わたしには神学的な詭弁としか思えないがね」
「あるいは詭弁なのかも知れません。しかしこの原理を量子テレポーテーションに適応してごらんなさい。この場合『宇宙を認識する』のはテレポートされる人間自身です。人間を形成するためのベル基底状態の可能性の数は膨大なものに違いないけれど、そのうちテレポーテーションが完了するのはごくごくわずかな組み合わせのもとでしかありません。言いかえれば無数の可能性宇宙のうちでテレポートされた人間が自分の存在を知りうるのは送信側とまったく同一の再生条件がたまたま選ばれたひとにぎりの宇宙です。それは奇跡的な幸運かも知れないが……しかし多世界解釈からこうした宇宙は必ずひとつは存在します」
「つまりこういうことかね? われわれがきみの研究室のテレポート装置によって送りだされた宇宙とこの船のテレポート装置で再生されていまこうして存在している宇宙とは、多世界解釈における別の世界であると?」
「まあそういうことです。とはいえこれらの並列する多世界を別べつのものとしている違いは微細な量子的重ね合わせの不確定性の範囲に限られているはずです。たとえばそれらは原子核をめぐる電子の軌道上の位置やスピンの方向といった微視的な観測値の差にすぎないのです……」
「そんなミクロな差異が例の奇妙な宇宙服や黒斑の存在とどう関わってくるというのだ?」
 マカベウスの絡みつく視線を避けるかのように老科学者は背後に身をそらして頭上の観測窓の外に広がる銀河の星々を眺めた。
「わたしたちは量子論的重ね合わせというものの本質について実際にはなにひとつ知らないのです。そしてまた『幸運』と呼ばれるものの本質についても……。ひとつの可能性ですが、そうした微細な差も極端に長い時間の間には目に見えるマクロな効果を産み出すのかも知れません……例えば地質学的年代にわたる惑星上の生命進化のドラマのような……」
 マカベウスはぎくりとした。
「きみはあの気密服の主であるドワーフたちが別の歴史で人間と共に暮らしているもうひとつの知的種族であるとほのめかしているのか?」
「『ドワーフ』? ……なるほど、あなたは確かに凡庸な役人ではありませんね。なかなかに美しくも詩的な呼び方だ……」
「美しくも詩的? ……きみがそうしてずうずうしく落ち着きはらっていられる理由が理解できない。いま言ったとおりだとしたら事態はあきらかに連邦にとっての脅威をはらんでいる! きみの量子テレポート装置を通って、もしもそうした異質な知的生命体がわれわれの宇宙に侵入してきたら……?」
「おお、長官。あなたはまだわかっていらっしゃらない。……量子テレポーテーションは可能な無限に近い組み合わせの数の宇宙のうちただひとつの宇宙に通じています。だがそれがどんな宇宙であるかは決して前もって選択できない……つまりこれは常に一方通行の扉なのです」
 ロデンベリィの言葉が情報局長官の心に浸透するまでしばらくかかった。やがて蒼白の顔で彼は無反動銃をひき抜くと目の前の老科学者に狙いをつけた。
「きみはそれを承知で量子テレポーテーション装置の被験者をかって出たのか? そして情報局長官であるこのわたしをまんまと誘きだしたんだな?」
「連邦の暴政に支配されたあの世界に心残りはありませんでしたからね。なによりこの年齢ではもはや恐れるものとてない……。わたしは警告しておいたはずですよ、長官。この実験は危険だと」
 マカベウスは発作的な怒りの唸り声をあげると震える指に力をこめた。しかしマイクロ・ロケット推進の弾丸は発射されることなく、彼はその姿勢のまま凍りついた。突然青白いまばゆい閃光が頭上の観測窓を透して管制ルームの床にふりそそいだからだ。
「なんだ!? この光は?」
 立ちつくす長官のかたわらでロデンベリィはすばやくコンソールに向きなおりモニターに流れる無数の数値を読み取っていた。
「……急いで加速シートにおつきなさい」
「わたしに命令するつもりか?」
「生命が惜しかったら言うとおりにするんだ!」
 ロデンベリィの有無をいわさぬ剣幕にただならぬ気配を感じ取って、マカベウスはそれ以上あがらうことなく無反動銃をかざしたまま対Gシートにころがりこんだ。
 彼らがそうして身体を縛りつけると同時に激しい衝撃が船を襲った。電子回路が火花を散らし、あらゆる構造材が悲鳴をあげるなか、異様な力がじりじり床を傾けていく様子をマカベウスは恐怖に見開いた目で眺めた。やがて何かが断ち切られる鋭い金属的な響きが聞こえ猛烈な加速度を一瞬感じたのち、我にかえった彼は静寂のなか自分の身体がシートの上で無重力状態で漂っていることに気づいた。
「……な、何がおこっているんだ?」
「観測窓をごらんなさい」
 そう言われて上下がなくなったいまは意味のない数分前までの『頭上』に目をやったマカベウスは機関モジュールがゆっくりととんぼ返りをうちながら暗黒の彼方へ遠ざかっていく光景を見て戦慄した。星空そのものが動いているのはこちらのモジュールもまた回転しているために違いなく、やがて巨大なエンジンは流れるように視界から消えていった。
「どうやらテザーが切れたようだ」
 自分の組み立てた張力補正ロボットの運命を気にしてのことか、少し無念そうに教授は言った。
「あの衝撃はいったい何だったんだ?」
「確証はありません。しかし直前に閃光とともに多量の中性子をセンサーがカウントしていることから考えて……」
 ロデンベリィがそこまで言ったとき観測窓に突然陽光が差し込んできた。自動的にシャッターが閉じるわずかな間に彼らは漆黒の宇宙を背景にまばゆく輝く光の点を見た。
「……誰かがタイレルに火をつけたようだ」
「火をつけたって? ……誰が?」
「言うまでもなく、それができるテクノロジーを持った知的生命体……いわばドワーフたちですよ。むろんわれわれがここにいることを知らずにやったのだろうが……」
「しかし……いったい、どうやって?」
 答える前にこのカイパーベルトでもっとも著名な総合物理学者は少し時間をかけた。
「点火する方法は原理的にはふたつあると思う。ひとつは自己点火するまで質量を増してやること……だがこれはあまり実際的ではないだろう。もうひとつは中心核の縮退圧を消し去ってやることだ。どうやるのかわたしに聞かれても困るがね……。例えば電子はフェルミ粒子だ。それはその固有エネルギーで定まる量子力学的波長の範囲に一つしか入ることができない。これが『パウリの排他律』と呼ばれるものだ。だがもし何らかの手段でボーズ粒子としてふるまうように電子の性質をほんのわずかな時間だけ変えてやることができるなら……縮退圧は消滅し褐色矮星は水素核融合反応を起こす密度にまで自分自身で崩壊するはずだ。たぶんあの黒斑がタイレル内部に打ち込まれたそうした変成装置だったのだろう」
「だが……何のために?」
 マカベウスは自分が馬鹿に思えたが質問するのを止めることはできなかった。
「……説明したとおり褐色矮星は水素が枯渇した後の宇宙で唯一の供給源だ。たぶん彼らにとって恒星だけでは数が十分ではなかったのさ」
 ロデンベリィは例の微笑を浮かべてマカベウスを見た。
「量子テレポーテーションが成功する宇宙は同時に生命にとって『幸運な』世界なのだ。どうやらこの宇宙は知的生命体であふれかえっているらしい。さてと……」
 呆然自失の態の長官から無反動銃をとりあげながらこの科学者はいまや皮肉な笑いを隠そうともせずに言った。
「元気を出したまえ。観測すべき褐色矮星が消滅した今もはやこの船にとどまる理由もなくなった。同調時間にあわせて量子テレポートをすれば瞬時にカイパーベルトに帰れるだろう。ただしそこは出発した宇宙ではないし今わたしたちがいるこの宇宙でもない……まったく別の宇宙だ。いままでの経緯から考えるとあるいはもっともっと多種多様の生命に満ちあふれた世界になるのではないかと思う。
 賭けてもいいが……天の星ほどいるだろうドワーフたちとうまくやっていくために、マカベウス。きみの実務的才能はその世界で大いに必要とされるはずだよ……」

(了)


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