第9回
[その19]/[その20]
エリーEF2263Nは、自分が小さかった頃、いつも寝る前に母親が絵本を読んでくれたことを記憶している。その中でも、その頃はやっていた羊皮紙製の分厚く異常に大きい絵本の一つが、特にお気に入りだった。
昔むかしの第一太陽系が舞台で、あるとき小惑星が地球に衝突しそうになり、地球に住んでいた人々が懸命の努力で衝突を回避し、地球に住んでいた人々も小惑星も救われるという話だった。
物語の中で、その小惑星は「あすたくん」という名前で人格を与えられており、羊皮紙の上に、ペパーミントグリーンの球状の身体に真ん丸い目と大きな口がついた姿として描かれていた。泣きながら地球に向かって飛んでくる小惑星あすたくんの「だめだめ、こわいよ、だれかとめて」というせりふを、いつも母親は、まるで彼女自身がコントロールを失った乗り物で暴走している最中でもあるかのように真に迫った大声で絶叫した。
実際には、汎用タイプのクローンとして生まれた後大幅な改良を受けて半ロボット化しているエリーEF2263Nに母親がいるはずはなく、ましてや寝る前に母親に絵本を読んでもらった事実はなく、このような思い出話はすべて就学時に創作されて植え付けられたものであることは、本人も承知していた。
だが、自分が体験したのではない記憶と、実際に体験した記憶と、実際にはどれほどの違いがあるというのだろう。本当に体験したはずの記憶は、なんとも退屈なつまらないものなのかもしれなかった。エリーEF2263にとっては、幼い頃の実際の記憶というのは、ただ身体を適性サイズに成長させるためだけにすごす毎日だった。その退屈な経験を延々と記憶しているのと、古典的な親や家族の中で慈しまれ育まれてきた記憶をたとえ本当のものではないにしろ持っているのとを比較してみても、エリーEF2263Nは、やはり作られた記憶を持っているほうがずっといいと信じて疑わなかった。
エリーEF2263Nは、小惑星のあすたくんが、強い竜が炎を吹きかけても、巨大な魔法の箒で掃き捨てようとしても、どうしても進路を変えることが出来ないでその度に「だめだめ、こわいよ、だれかとめて」と叫ぶところが一番好きだった。だが、最後に地球に住んでいる人々が一斉に歌いだすと、歌声が一団となってあすたくんに届き、あわやという時にあすたくんがはじき飛ばされるように進路を変えて地球の横をすりぬけていくという結末は、不思議なことに。どうしても好きになれなかったのだ。
歌声が力となって人類の危機を救ったという話は、学校に入ったエリーEF2263Nを合唱隊に入れて歌を歌わせるための動機づけの一つとして与えられた記憶のはずだったのだが、どうした訳かエリーEF2263Nにとっては、その肝心の動機づけの部分が一番印象が薄かった。
小惑星あすたくんの絵本のことを思い浮かべる時、EF2263Nの心に浮かぶのは、いつも「だめだめ、こわいよ、だれかとめて」と絶叫する母親の声だった。
20世紀カフェの入り口を、エリーEF2263Nのすぐ後ろに続いてくぐりながら、美々絵JE5825Nは、エリーの栗色の髪をじっと見つめていた。
美々絵JE5825Nは、同じ学校に入学して以来、5年間もエリーEF2263Nと一緒に生活している。
生まれたのは別系統の細胞からだったし、エリーEF2263Nほど高度のロボット化はされていなかったが、それでも同じ合唱隊で同じように少女合唱のパートを受け持ち、毎日生活を共にしてきた。
「それでも、どうしてもエリーEF2263Nの気持ちが分からない……」
美々絵JE5825Nは、他人の気持ちを推し量るのが得意だった。実際、そうやって他人の気持ちを考えながら周囲の人々とうまくやっていくように改良されてきた系統として生まれたのだった。自分と同じようなJE型のクローンはもとより、まったく人間の形をとどめていない据置型の唯脳体まで、何らかの方法を使ってコミュニケーションを取れるなら、ほとんどどんな相手とでも上手に会話をかわして相手の心情を推することができるはずだった。
だが、エリーEF2263Nの気持ちだけは、どうしても推察することが出来なかった。
「なぜなのだろう。一番近い友人なのに」
美々絵JE5825NがエリーEF2263Nについて確かに分かっていると断言できるのは、ある小惑星についての異常な執着についてのことだけだった。
美々絵JE5825Nが合唱隊のエリーEF2263Nと出会った時に、エリーEF2263Nが見せてくれた小惑星の写真。
「これが、私のものになるの」
当時、まだ身体の成長過程の途中にあり、今よりも30センチ身長の低かったエリーEF2263Nは、同じように幼かった美々絵JE5825Nの耳元に顏を寄せて、そっと囁いた。
(第10回に続く)
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