「148、147、146、…」
そのカウントダウンは、直前までのごたごたした騒ぎからは想像もつかないほどあっけないものであった。
管制室も、すでに7回目の打上げにリラックスした様子であった。
「…、18、17、16、15、14、13、…」
「フライトモード、オン」
ここまでのシーケンスは順調だ。
「…、9、8、7、6、…」
「メインエンジン点火。」
「…、5、4、3、2、1、0、…」
「SRB点火。」
「リフトオフ」
「リフトオフ確認」
「パッドクリア」
この日、1999年11月15日4時29分、たび重なる延期ののちに、MTSAT(運輸多目的衛星)を載せて、H-IIロケット8号機は種子島宇宙センターより打上げられた。
リフトオフからしばらくしてから、少し遅れて、低いドドドドド、という音が竹崎RCCまで聞こえてきた。
経路はやや高く、若干横にもずれていたが、これは直前の風による解析によって予想されていた通りの結果であり、あらかじめ想定されていた誤差範囲内におさまっていた。この程度なら、やがてノミナルに復帰するだろう。
しかし、安全上クリティカルなSRB燃焼フェーズがつつがなくすぎたしばらく後のことであった。
「メコ(メインエンジン燃焼停止)!」
「え?」
ここに来て、スタッフに動揺の色が見えはじめた。
まだ100秒以上燃焼停止には早すぎる。
メインエンジンの燃焼時間が十分でないと、ロケット機体は地球の重力をふりきることができないのだ。
このとき、異常に晴れわたった空のなか、観測を続けていた光学局の望遠鏡により、機体のまわりよりガスのようなものがふき出ていることが後に確認された。
速度チャートをしばらく見ていると、先程のメコが確認された直後から速度の上昇はなく、ずっと同じ速度をたもっていることが確認できた。
「これは、だめだね。」
誰からともなく、そんなことばがつぶやかれ、一部の部署では事後処理のための準備にとりかかった。
「メコ確認」
通常のシーケンス付近の時刻で、ロケット機体のコンピュータで検知された燃焼停止信号が地上に降りてきた。
先程の燃焼停止はエンジンの燃焼圧をモニタしていたことによるので、コンピュータは正常なのに、途中の配管でガス漏れが発生したのではないかと想像された。
「1、2段分離。」
「2段燃焼開始。」
まさか2段の燃焼がされるとは思っていなかったので、これで少なくとも大気圏を脱出してくれれば、という願いにも似た気持が皆の顔に走った。
しかし、機体の高度は落ちはじめており、姿勢も異常でぐるぐる回転(タンブリング)してしまっていた。このような状態で2段が燃焼を開始しても、もはや機体を上方向に加速する能力はなかった。
「コマンド局可視範囲内で破壊します。…破壊。」
「デストラクト!
アンサーがありません。」
「再度破壊送信! 何度かくりかえして下さい。」
「了解。」
機体に日本宇宙開発史上初の指令破壊信号が計5回にわたって送出された。
そのとき、レーダもテレメータも機体を見失ったあとのことであったが、指令破壊用コマンドはそういった場合でも確実に動作するように設計されていた。
スタッフは落胆にひたっているヒマはなかった。
機体の情報をできるだけ整理し、今後の分析にそなえなくてはならないのだ。
ロケットをロストする寸前の経路情報による計算結果から、1段および破壊された2段と衛星は太平洋上小笠原諸島父島の北西約380kmに落下したと推定された。
すぐに原因調査委員会が結成され、ロケットに起きた現象を特定しようとする作業がはじまった。しかし、事故の原因は地上に降りてきていたいくつかのモニタ信号をもとに解析するよりほかない。現物を実検するわけにはいかないのだ。
そんなさなか、だれかが言い出した。
現物がないのなら、海からひきあげて調べればいいではないか。
さっそく、1、2段分離時の機体の状態をもとに、落下途中のさまざまな要因を考慮してさらに詳細な落下推定領域が割り出された。
調査は海洋科学技術センターに依頼され、水深約2000〜3000mの海域に落下したとされる機体部分の海底調査が、11月20日から3度にわけて実施された。
調査は、海洋科学技術センター所有の深海調査研究船「かいれい」を使用し、ロケットの様な人工物を示す強い反射に対しては、「かいこう」ビークルでの目視観察および、映像取得等を行った。
そして、調査開始から8日目、小笠原諸島の北西約380km、水深3009mの海域にて第1段機体の一部がTVカメラにより目視観察にて確認された。
やがて、海洋科学技術センターの3度にわたる海底調査によって、ついにロケット第1段エンジンが発見され、年明けとともにそれは海底より引き上げられることとなった。
調査中、何度か落下推定領域は再計算されたが、結局エンジンが発見されたのは最初に計算された落下点からさほど遠くないところであった。
一度海底に落下した機体の一部を、計算によって位置を特定し、さらに海底からひきあげるというのは世界でも例のないことであった。
原因調査委員会は洗浄されたエンジンをもとに事故の原因の特定にいそしんだ。
結果としては、エンジンに燃料を供給するターボポンプで気泡が発生し、それが異常な振動を呼び込んで配管の破壊にいたったのではないかということであった。
しかし、日本の宇宙関係者はH-IIの事故のすぐあと、またさらに大きなショックに見舞われることになる。
宇宙開発事業団と2本柱で活躍していた宇宙科学研究所のM-V ロケットが、ノズルの異常から所期の軌道に投入できず、太平洋に沈んだと推定された。
第1段のノズルに異常があり、1段フェーズで高度が高く上りすぎてしまったため十分な速度が得られず、2段、3段による修正もむなしく軌道に復帰させることはできなかった。
そのとき、太平洋の東の方にある、キリバス共和国にあるクリスマステレメータ局はロケットが来るのを今か今かと待ち構えていたが、ついにロケット機体をとらえることはできなかった。
M-V ロケットのエンジンは H-IIA の SRB-A とも共通する技術が用いられており、宇宙開発事業団の次期ロケットである H-IIA の開発にもまた暗い影が落された。
のっけから暗い話題で恐縮だが、日本の、いや世界どこでも、宇宙開発というものは多くの障害をかかえたものなのである。
宇宙開発ではないが、ロケットの開発そのものもまた、障害の連続であった…
1944年。
終戦を真近に控えたある日、潜水艦によりドイツの新型飛行機の設計図がもたらされた。
それは首都の空爆を行っている B29 戦闘機に対抗するための、高機動戦闘機の設計図であった。
その飛行機は今までの戦闘機とはまったく異った形状をしていて、尾翼がなくロケットエンジンを塔載したものだったのだ。
当時、日本にロケットを自力で製作する技術があったかどうかはわからない。しかし、彼等はその設計図をもとに試作第1号の製作に成功していた。
秋水と名付けられたその機体の初飛行は1945年7月7日に実施されたが、離陸まもなくエンジンが停止し、機体は大破。乗員は重傷を負い翌日死亡した。
この当時、すでに秋水の大量生産計画はあったということであったが、結局1号機の事故のまもなく終戦をむかえ、ついに日の目を見ることはできなかった。
日本はこの他にも人間ロケット爆弾を開発しており、連合国にとってそれは脅威となりえるものであった。
そこで終戦まもない1945年に締結された条約により、日本の航空宇宙開発は禁止させられることとなったのであった。
こうして、日本の空への道は閉ざされたのであった。
日本の宇宙開発、いやロケット開発は1955年のペンシルロケットの登場を待たなくてはならなかった。
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