日本最初のロケットはなにかという問いに、ちょっと事情を知っている人ならすかさずペンシルロケットと答えることであろう。しかし、そのペンシルロケットの最初の発射が上ではなく水平だったことを知る人はどれだけいるだろうか。
最初のペンシルロケットは直径1.8センチ、全長23センチの極小さなロケットであった。それこそ今でなら玩具店でも容易に入手できるモデルロケットと、そう大差ないような大きさである。
構造もモデルロケットと似ていて固体の燃料を積んでいる。言ってしまえばロケット花火と、そう原理に大差はない。
しかし、そんなちっぽけなロケットではあっても、日本の宇宙開発の歴史はここからはじまる。
さて、ペンシルロケットというと必ずペアで名前が出てくるのが、「ロケット博士」こと、東京大学の糸川英夫である。
糸川は戦時中戦闘機の開発に携わっていたが、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効され、日本における航空機の開発が再び可能になったときに、他のかつての同僚たちのように普通の航空機に戻ることはしなかった。終戦による航空宇宙開発や研究の禁止から7年がすでにたっていて、そのギャップをうめることはかなわないと判断したからである。
糸川の考えは非常に先進的であった。ジェット機の開発は欧米に大きく遅れをとった。しかし、まだ誰も手につけていないロケットだったらどうか。ロケットを推進に使った航空機を作れば、今からでも欧米に追いつき追い越すことが可能なはずだ。
つまり、糸川は元々宇宙開発のためのロケットというよりも、現在も各国で研究が進められているスペースプレーンのようなものをすでにこの時期から想定していたのである。
糸川の働きかけもあり、それではロケットを作ろう、ということになった。
ロケットには液体式と固体式の二通りあるが費用の観点から固体式を採用することになった。
この固体燃料ロケットに富士精密(のちの日産自動車。現在のアイエイチアイ・エアロスペース)が協力を申し出、燃料は日本油脂のものが使われることになった。
余談であるが、日本の最初のロケットはペンシルロケットではなく、「火薬の申し子」と呼ばれる村田勉が1934年に打ち上げた、手製のロケットであるという。村田は戦時中は戦艦大和の40センチ砲の火薬も手掛けたのだそうだ。戦後村田は日本油脂に入ったが、ペンシルロケットのモータの火薬はこの村田の提供によるものだった。そのモータ火薬の大きさに合わせてペンシルロケットは製造された。
この日本油脂は最近武豊の工場で火薬の爆発事故を起こしているが、当時の村田もその武豊工場に勤めていた。
ペンシルロケットは1955年4月12日、東京・国分寺の工場跡地において糸川自身のカウントダウンの後、「水平に」発射された。(実はその前、非公開で3月11日に試射が行われている。)
ペンシルロケットは幾重もの紙のついたてをつきやぶってその向うの砂地につきささった。
この非常に小さなロケットの発射試験に対して、糸川がメガホン片手に行ったカウントダウンは、つめかけた報道陣から嘲笑されたし、糸川に対して好意的でない学者はこれを糸川のスタンドプレーだと非難した。しかし、本人はいたってまじめで、この実験が将来の本格的なロケットの打上げにつながるとの認識から、大型ロケットと同様の手順を踏んで発射試験を行ったのであった。
国分寺においては都合29機の試験が行われ、全て成功を収めた。
このペンシルロケットの試験場は現在は新日鉄のグラウンドになっている。
そして、いよいよ「打上げ」試験だ。
しかし、国分寺の試験場は近くに国鉄(現在のJR)の線路が走っていて、もし仮りに機体が線路や近くの人家などに落下したりしたら大事である。日本にはこのような機体の落下の気にしなくても済むような大きな砂漠などないので、海岸から打上げることになる。海岸といっても、海に機体が落下した場合、漁業に影響する可能性もあるので、魚があまりとれない場所である必要があった。様々な調整や調査の末、射場は秋田県の道川海岸に決定された。
ちなみに、この機体の落下は現在でも頭の痛い問題で、打上げに際して常に大きな問題となっている。
道川におけるペンシルロケットの最初の打上げ実験は1955年の8月6日のことであった。このときのペンシルは全長300ミリメートルのペンシル300。
糸川による秒読みが進み、いざ発射という段になって、居合せた人々は肝を冷した。ランチャーから斜め上に上昇するはずだったペンシルロケットは、砂場にころげ落ちてねずみ花火のようにころげ回ったのだ。これはランチャーに機体を固定する方法がまずかったためだという。
急拠機体の固定方法が変更され、15時32分、再度試験を実施し、打上げは成功した。
到達高度600メートル、水平到達距離700メートル、飛翔時間16.8秒だった。
ペンシルロケットの研究の段階から、どのようにしてロケットを大型化させていこうかという議論があり、その中でそれぞれのクラスのロケットの名称も考えられていた。最初にタイニー・ランス次いでベビー・ランス、フライイング・ランスという順に開発していこうという構想であった。しかし、タイニー・ランスはその形状からペンシルロケットと呼ばれるようになり、その名前の方が定着してしまった。また、ペンシルと同じく道川で打上げられたベビーロケットも、「ランス(槍)」の名前がとれてしまっていた。フライイング・ランスも後にアルファと名称を変え、アルファ→ベータ→カッパ→オメガという風に発展させていく計画であった。
しかし、当時1957年から1958年にわたって世界中の科学者が協力して地球について調べようという、国際地球観測年(IGY)という計画がもちあがっていた。日本の代表も1954年に行われたローマでの準備会に参加し、日本もこれに参加しようということになった。当時自前でロケットを持っていなかった日本に対し、アメリカは自国のロケットを貸すとまで言っていた。ところが、代表団が日本に戻ってみると、糸川らが実験をしているではないか。
そこで、糸川らの研究は当面の目標をIGYにむけての観測機器の打上げとすることとなった。
その時点でIGYまでに残された時間はわずか2年しかなかったので、そんなに悠長に開発を行っているわけにもいかなくなってきた。アルファロケットとベータロケットの開発は簡単な試験と机上の理論だけで終了し、いきなりカッパロケットの開発へと移行することになった。
周知のように、このあと、カッパ、ラムダ、ミューとギリシャ語のアルファベット順にロケットの開発は進んでいる。プロローグで紹介したM-Vはこの最後のミュー系列の最新ロケットである。
しかし、ロケットの開発はこのように一本調子で行われてきたわけではなかった。
糸川らの東大の研究から端を発っしたこれらのロケット開発と並行して、もうひとつのロケット開発機関が活動を始めたのであった。
ちなみにペンシルの生みの親である糸川であるが、後にアメリカからの圧力や、マスコミによる排斥運動によって1967年にロケット開発の場から去ることになる。