日本宇宙開拓史
(第5回)
第4章 最初の衛星


 写真:宇宙科学研究所提供

 参考文献:
 的川泰宣著
 「宇宙にいちばん近い町〜内之浦のロケット発射場〜」
  春苑堂出版
 「宇宙に取り憑かれた男たち」 講談社
 「LIFT OFF」 立風書房 SKY WATCHER, 1995年11月号

 松浦晋也著
 「H-IIロケット上昇」 日経BP社

 中野不二男
 「日本の宇宙開発」 文春新書

 野田昌宏
 「宇宙ロケットの世紀」 NTT出版

今でこそ、ロケットの打上げに失敗するとこぞってマスコミにたたかれているが、宇宙開発の黎明期にはそれこそ数多くの失敗がくりかえされてきたものだった。人工衛星の打上げもまた、多くの苦難の後に達成された快挙だったのだ。
東京大学宇宙航空研究所(後のISAS)の最初の目標は衛星を打上げることだった。
1960年ごろからバン・アレン帯に達する能力を持つロケットとしてラムダロケットが計画され、さらにその外側のバン・アレン帯に到達できるロケットとしてミューロケットが構想された。そして生研の射場が内之浦に移った次の年1963年には最初のラムダロケットL-2型1号機が打上げられている。ラムダロケットの開発は順調に進み、L-3型ロケットが1964年に打上げられている。
そんなとき、糸川英夫は後にL-4の実験主任となる野村民也にこんなことをささやいたという。L-3型ロケットは3段式なのだが、これに4段をとりつけると人工衛星になる。まずはこれでいこう、と。こうして、人工衛星を打上げるためのロケットL-4Sの開発がはじまったのだった。
しかし、当時、宇宙研のロケットに精密な軌道制御方法はなかった。しかし、なんらかの方法で機体を制御しなくては、衛星を軌道に投入することはできない。ただまっすぐに打上げればそのまま衛星になってくれるという単純な話ではないのだ。そこで採用されたのが重力ターン方式と無誘導打上げ方式だった。
機体をななめに打上げて、空気力と推力がつりあうようにしてやると、機体は時刻とともに水平に近い姿勢になってくる。さらに機体は回転運動させることで、まっすぐに進むようにしてやる。ジャイロなどのように、強く回転している物体はその回転の軸の向きを変えないような力が働く。そのため、機体に回転をあたえてやると、軸の向きが安定してくれるのである。やがて機体は地上に対して水平になる。その時点で、水平方向にモータをふかしてやることで、衛星を軌道に乗せてやろうというのだった。この水平方向にモータをふかすタイミングは地上からのコマンドによって行われる。つまり、地上からの誘導は一回しか行われないのだ。
なにはともあれ、最初の打上げへの挑戦は1966年9月26日に行われた。しかし、3段の途中から軌道がそれて、軌道投入制御が正常に行えず、やがて機体はレーダの可視範囲から姿を消した。原因は2段と3段の分離が完全に行われなかったことと推定され、その部分の改良がなされた。
1966年12月20日に2回目の挑戦が行われた。今回は3段までの燃焼は正常だった。しかし、4段が正常に点火されず、またもや失敗に終った。
3回目の挑戦は1967年の4月13日のことだった。今度は3段に火がつかない。またもや失敗だ。
そんなおり、もうひとつの宇宙機関である宇宙開発推進本部(後のNASDA)の射場が自衛隊基地のある新島から種子島に移ることとなった。しかし、漁業連との話し合いがこじれ、それが宇宙研の打上げにまで影響することとなってしまった。漁業連への保障問題がかたづくまでのあいだ、ラムダロケットの打上げも凍結された。しかし、その間にもロケット機体への改良はたゆまなく続けられたのだった。
漁業問題が解決して1969年9月3日にロケットの打上げは再開された。しかし、このとき打上げられた L-4T-1は、改良された部分の機能を確認しようと計画されたために4段の燃料が少し減らされていた。
L-4T-1は3段切り離し後に、3段に残っていた燃料のために3段が4段にぶつかるという事故がおきたが、このときの衝突は重心近くでおきたために軌道への影響はなかった。このとき、4段が十分な燃料をつんでいたなら、日本初の人工衛星打上げは数ヶ月早くなっていたことだろう。
4回目の挑戦は1969年の9月22日のことであった。しかし、このときも3段が4段にぶつかるという事故が発生し、このときは4段の軌道がそれてしまったので、衛星を軌道に乗せることはできなかった。このときの教訓を生かして、5号機では3段に逆噴射モータをつけることになった。
日本最初の人工衛星打上げは次の5回目の挑戦によって成しとげられた。1970年2月11日のことであった。
衛星は打上げ地から名前をとり「おおすみ」と名付けられた。
当日は新聞休刊日であったが、テレビによる中継が行われ、日本中を興奮の渦にまきこんだ。
晴れて日本は独力で人工衛星を打上げた4番目の国となったのである。
この4番目というのは実はタッチの差ともいえた。なぜなら、わずか3ヶ月後には中国が人工衛星「東方紅」の打上げに成功しているからである。
水を差すようで悪いが、実はこのとき世界中で打上げられた衛星はすでに1000個を越えていた。しかし、その他の国はみなアメリカなどのロケットを借りて衛星を打上げていたのだ。独力で人工衛星を打上げたということはやはり快挙といえるだろう。
なお、おもしろいことであるが、最初の衛星「おおすみ」を打上げたのはISASであったが、軌道に乗ったあとそれを追跡していたのはNASDAの設備だったりする。ふたつの機関は実は対立する組織ではなく、相補的な組織だったのである。

さて、最初の衛星というテーマにそった衛星をまたいくつか紹介しておこう。
1963年、世界気象機構(WMO)は世界気象観測計画(WWW)を計画し、1977年までに地球全域をカバーする静止衛星を打上げようというのだった。太平洋の観測担当として日本が割り当てられた。しかし、当時日本には静止軌道に衛星を打上げるだけのロケットはなかった。そのため、日本初の実用衛星である、気象衛星「ひまわり」、通信衛星「さくら」、放送衛星「ゆり」はみなアメリカのデルタロケットによって打上げられた。1977年から1978年にかけてのことであった。
実験フェーズであるなら、日本が独力で静止衛星を打上げることに成功したのは1975年のことであった。NASDA による N-I ロケットによって技術試験衛星ETS-I「きく」が打上げられたのだった。また、この「きく」は NASDAが打上げた最初の衛星でもあった。

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