大きさに制限を加えられた文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)のロケットに対して、宇宙開発事業団(NASDA)のロケットは、N-Iロケット以降段階的に大きさを増して行った。
しかし、そこに大きな問題がひとつあった。NASDA は当初の打上げからアメリカの技術を輸入したロケットを使用しつづけていた。これは、ロケットを軍事目的に転用させないよう技術提供によってコントロールしようというアメリカの思惑もあった。日本としても、このまま進化しつづけるロケット技術を吸収していくことで進歩していこうという考えがあった。
しかし、日本が技術を吸収していくということは、アメリカと対等な技術力を背景に競争力を付けてくるということにも等しく、やがて、アメリカは技術協力に消極的になっていった。
それでも N-I に続く N-II, H-I ともにアメリカからの技術を取り入れつつやってきた。
世界のニーズから言って、やがてそのクラスの衛星を多く打上げられるロケットが必要になってくることは調査で明らかになっていた。
そのためには、制約のあるアメリカからの技術移入によるロケットでは能力的に足りないのだ。
NASDA はいくつかのプランを立て、やがてひとつのスタイルを採用した。それが H-II ロケットだった。
H-II は一段エンジンに国産で新開発の LE-7 を使用し、ISAS の運用でも実績のある固体補助ブースターを二本横につける形となった。二段はすでに H-I ロケット用に開発中の LE-5 を改良した LE-5A を使用することとし、しかも世界でもめずらしい、再着火方式によって二段だけで二段と三段の役目をこなしてしまおうというものだった。中心のコアの直径は4メートルの寸胴な形だが、これによって機体を製作したり組み立てたりするときの工具が共通化できる。
問題は一段のメインエンジンであった。なにしろ、今までに経験のない巨大な出力を持つエンジンだ。このエンジンの開発が H-II ロケット開発の鍵となっていた。さらに NASDA はこのエンジンのターボポンプにスペースシャトルのエンジンと同じ方式の新しい技術を取り入れることとした。これによってエンジンの性能はぐんと上ることが予想されていた。
乱暴な比較ではあるが、H-II の LE-7 の性能を、ヨーロッパのアリアンV のエンジンと比較してみると、実に倍近い性能の差がある。アリアンV は H-II の倍近い燃料を消費するのだ。
1984年7月6日。宇宙開発委員会は NASDA の H-II ロケット開発についての審議を通した。ここに正式に H-II ロケットの開発ははじまった。
H-II の開発費用は二千億円を予定していた。これは通常の感覚ではべらぼうな額であるが、宇宙開発の立場からすると、非常識なほどに安い額であった。アメリカとの商談で、H-II の開発に二千億かかると言ったところ、相手はエンジンの開発だけでそれだけかかるものと受けとった。ロケット全体の開発費であることを伝えると、相手はクレイジーとだけ言ってだまってしまったという話がある。最終的には1号機、2号機の開発を含めて二千七百億となった。
同時に、打上げにかかる費用も低くおさえられた。後にコストがかかりすぎると言われるようになったが、それはひとつには為替レートが変動し、極端な円高が進んだ結果相対的に価格が高くなってしまったことと、アメリカのスーパー301条の影響で商用衛星の受注が事実上できなくなり、量産効果がのぞめなくなったことに原因はある。事実、H-II 初号機が打上げられた当初にはすでに H-II の打上げコストは、世界的に見ても非常識な程に高価格になってしまっていた。
1985年3月。秋田県田代試験場で LE-7 の最初の燃焼試験が行われた。
そして1985年10月。ストックホルムで開催された国際宇宙航行連盟開場にて H-II 計画は世界に大々的に発表された。
続く1986年は、世界の宇宙開発にとって悪夢の年であった。1月のスペースシャトル・チャレンジャーの悲劇は今も人々の記憶に深く刻まれている。それに続いて、4月にはタイタンの失敗、5月にはデルタロケットの失敗、そして同じく5月にはヨーロッパのアリアン2が失敗していた。しかし、その一方で、日本は H-II の前に開発が進んでいた H-I ロケットの初打上げに成功していた。また、ロシアの宇宙ステーション、ミールが打上げられたのもこの年のことであった。
H-II の開発は順調に進むかと思われた。しかし、1987年ごろから液体水素ターボポンプがうまくいってないといううわさが立ち始めていた。H-II 8号機で事故を起こしたターボポンプ開発は始めから苦難に満ちていたといえる。
LE-7 は水素の燃料に少量の酸素を混ぜて燃焼することによって得られる高圧のガスをターボポンプの駆動に用いている。H-I の LE-5 などではターボの駆動に使われた燃料は捨てられていたが、それを効率良く再利用できるようになっていたのだ。いきおい、構造は複雑にならざるをえない。そこに数々の難関が待ち構えていたのだった。
1989年6月。種子島のテストスタンドを使った試験がようやっと開始された。
1989年9月エンジン試験中に火災発生。これは LE-5 の試験中にも起きた事故であったが、NASDA の広報担当の対応が未成熟であったため、話は大きくなってしまった。実際には事故はさらに多くあった。しかし、それは通常のエンジンの開発においては不可避のものであったのだ。
それと時を同じくしてスーパー301条問題が持ち上がった。事実上アメリカが独占していた人工衛星市場を解放せよとの要求なのだ。まだ成熟するには至っていなかった日本の衛星産業はこれによって大打撃を受けた。その一方で、安く衛星を調達したいという要求はかなえられた。いずれにせよ、国産の衛星による大量の打上げによってコストダウンを計ろうとしていた H-II 計画はその根底から崩されてしまっていた。
1991年2月。LE-7 の燃焼試験でついに350秒の長秒時燃焼に成功した。これは H-II の一段フェーズの燃焼時間にほぼ等しい。
1991年8月8日。LE-7 の供試体は三菱の名古屋の工場でガスによって加圧する試験を行っていた。悲劇はその時起きた。加圧中に配管のひとつが破裂し、ガスがドアをつきやぶって、その前にいた金谷有浩を襲ったのだ。即死だった。
さっそく原因の追求と安全対策がなされることとなった。配管をやぶったのは、溶接部が脆弱なせいであった。これを一体成形によって頑丈となるように設計は見直された。
1992年2月。ダミーの機体を実際に射点にすえつけて試験を行う GTV (Ground Test Vehicle)が行われた。機体は本番さながらに組み立てられ、燃焼試験を除くさまざまな試験が行われた。
秋田県の田代では LE-7 の長秒時耐久燃焼試験がくりかえし実施されていた。手応え十分。今度こそ行けそうだ。そんな折、またもや事故に見舞われた。6月18日、LE-7 はその日テストスタンドで短秒時の燃焼試験を行うことになっていた。しかし燃焼開始5秒、エンジンをモニタするカメラは突然白いけむりに覆われた。試験に参加した人たちは、呆然としてしばしなにが起きたかを把握することはできなかった。ようやく係の者が燃料バルブを閉め、火はただちに止まった。テスト用エンジンが大爆発を起こしていたのだった。
ただちに原因の調査と対応が行われた。構造上の弱い箇所を洗い出し、改良が加えられた。これによって、さらに初号機の打上げ時期はのびることとなった。
やがてエンジンの燃焼試験をクリアし、ロケットにエンジンをすえつけた状態での燃焼試験も完了し、とうとうあとは打上げを待つばかりとなった。
1994年2月3日。NASDA を筆頭に、H-II 開発に関わったメーカの人たちは極限まで神経を張りつめていた。
そんな中で H-II 初号機の打上げは行われた。大成功であった。