日本宇宙開拓史
(第9回)
第8章 つまずきのはじまり

 参考文献:
 松浦晋也
 「H-IIロケット上昇」
 日経BP社

 「NASDA ノート」
 財団法人 日本宇宙フォーラム

 写真:「宇宙開発事業団(NASDA)提供」

1994年8月18日。その日、H-II ロケット2号機は打上げられる予定であった。
カウントダウンは進み、打上げ6秒前にメインエンジンに点火した。しかし、カウントが0秒となっても固体補助ロケット・ブースター (SRB) は点火せず、機体は上昇することがなかった。
その時、現場では大騒ぎになっていたという。なにしろ、エンジンに火が入っていたのだから。この時もし仮に SRBの片方だけでも点火していたら、騒ぎはさらに大きなことになっていただろう。機体がバランスをくずして、射場が火の海になっていただろうから。
リフトオフが確認されなかったためメインエンジンは燃焼停止させられ、打上げは延期となった。
さっそく原因が追求され、地上にある機体に対して指令を送る設備に不具合があることが判明した。一度機体に燃料が注入されたあとで打上げが延期になると、燃料をゆっくりとタンクから抜く必要があるので、再度の打上げまでに一週間程度要する。
結局、H-II ロケット2号機の打上げは1994年の8月28日16時50分に行われた。今度の打上げは順調のようだ。
しかし、ロケットのミッションが終了して、衛星フェーズに移行したところでそれが起きた。
ロケットのミッションとしては、遠い方の高度が静止軌道になる楕円型の軌道に投入するまでであり、その後は衛星に塔載されているアポジモータを点火することによって楕円の低い方を持ち上げ、地球を一周する速度が地球の自転と同じになる静止軌道に投入することになっていた。しかし、アポジモータの燃焼がおかしい。さまざまなコマンドを地上から送っているうちに、今度はアポジモータに燃料を供給するバルブが開いたまま閉じなくなってしまった。燃料は徐々にもれ出してしまい、結局衛星は静止軌道に乗ることができなかった。
マスコミはこぞってこの失敗を取り上げた。
実際には、このミッションは完全なる失敗というわけではなく、H-II ロケットが静止軌道に2トンの衛星を投入するだけの能力があることを証明したし、衛星もその任務の大部分を遂行することができていた。
次いで1995年3月18日17時01分、H-IIロケット3号機が無事打上げられ、現在も天気予報のときに活躍しているひまわり5号 (GMS-5) と、後に宇宙飛行士若田光一がスペースシャトルで回収した SFU が軌道に投入された。H-II ロケットは1号機から3号機までの間にテストフライトを完了し、実運用段階に入った。
1996年8月17日、H-II ロケットでははじめての極軌道ミッションであるみどり (ADEOS) が打上げられた。極軌道とは、南北の極をいったりきたりして、地球を縦にぐるぐるまわる軌道のことであり、地表面すべての上を通過するので、観測衛星に用いられる。4号機の打上げは予定日丁度になされた。通常、ロケットの打上げは延期が普通であり、予定通りの日に上がるということはまずない。これは日本では10何年かぶりのことであった。
ADEOS ミッションも軌道にのり、さて次の機体だと思っていたころに、悲報が舞い込んできた。ADEOS の電源電圧が下がってきたのだ。後の原因調査により衛星本体にとりつけられている太陽電池パドルが破断したと考えられている。衛星は当然電子機器によって動作しているため、電源電圧が低下すれば運用を続けることはできない。ADEOS は米国やフランスと共同で開発された衛星でありそれだけ期待も大きかったが、涙を飲んで運用を断念せざるを得なかった。ADEOS, Adeos (さようなら)などという笑えないジョークも飛ばされた。
しかし、この時関係者はロケットそのものは成功している、衛星の失敗はまだ取り戻すことができると、誰しもが考えていた。
続く機体はフライトナンバーが入れかわり、6号機だった。1997年11月28日に打上げられている。
6号機で打上げられた「おりひめ」「ひこぼし」のドッキング実験は丁度七夕に行われ、久し振りの明るいニュースとなった。
翌年1998年2月21日、H-II ロケット5号機が打上げられた。
衛星を周回軌道に乗せるための2段エンジンの第1回目燃焼までは順調だった。そして、2回目の燃焼中、テレメータは突然の燃焼圧の低下を検知した。早すぎる。2段エンジンのタンクから漏れが生じて、燃焼が終了してしまったのだ。
衛星の分離は計画されていた時刻に行われたが、衛星は静止軌道に乗るための速度をもはや持っていなかった。
急拠燃焼中断時点でのデータを元に軌道が割り出されて、1周して戻ってきたロケットを捕捉することになった。ロケットは1周する間にさまざまな外乱を受けているはずであり、予測した通りの軌道をとるとは限らなかった。時間は刻一刻とすぎてゆきやがて機体が見えはじめるころあいとなった。
「入感!」
思わず計算機室からは歓声が漏れた。この時の追尾データは後に原因追求の時にも使われることとなった。
衛星はその後姿勢制御用のモータによって軌道を少し上げることに成功し、限定的ではあったがミッションの一部を遂行することができた。
しかし、このころから NASDA の自信はゆらぎはじめていたのかもしれない。なにしろ、H-I 時代から継続していた2段エンジンである LE-5A に不具合が発生したのだから。絶対にあってはならない失敗だったのだ。
原因追求が徹底して行われた。次に予定している H-II 8号機は、LE-5A を改良した LE-5B が使われることになっていて、5号機で発生した事象は発生しないことが確認された。
しかし、この時点で、打上げの現場の目は次の H-IIA に向けられていて、H-II への予算も人も減らされていた。そして H-II ロケット8号機が1999年11月15日に打上げられた。当初夏に予定されていた打上げであったが、燃料枯渇検知センサに不具合がみつかり、秋まで延期されていたのだ。
8号機の打上げのとき、誰もがもう不具合に悩まされることはないと考えていた。メインエンジンが予定より早く燃焼停止するまでは……。
先に出てきたひまわり5号はすでに設計寿命をすぎており、8号機で打上げられる予定である MTSAT に交代する予定となっていた。また、新しい航空管制システムが MTSAT によって導入される予定であり、航空関係者の期待も集めていた。
しかし、H-II ロケット機体は軌道投入されることなく、MTSAT ともども小笠原近海に沈むこととなった。
関係者の漏らした一言が耳に残る。
「絶対にあってはならない出来事であった。」

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