第5回 パルテノジェネシス


「ただいま」
 カオルの母親であるタチバナ・ミカ42才経理コンサルタントは我が耳を疑った。最近息子の顔色と機嫌がすこぶるいいのには気づいていたが、自分から挨拶してくるなんて何年ぶりのことだろうか。カオルさんの引きこもりがはじまって在宅ワークに切り替えたのは3年前のことで、それ以来つい最近まで彼が外出することはなかったのだから3年ぶり? いやいやもっと前からだわまあなんてことでしょ今夜は久しぶりにローストビーフなんか作っちゃおうかしらだったらいいお肉を買いに行かないとそうだワインも奮発してつけちゃおうかワイングラスはどこに仕舞ってあったかしら…とめどなく奔逸する想念をむりやり押しとどめて振りかえる、と階段を上りかけていた息子も途中で振りかえるところだった。やや気まずい沈黙。お互い視線を合わせて話すのには慣れていない。カオルがぼそっと呟く。
「今日、ヒカルに会ったんだ」
 ミカの瞳孔が大きく開き、顔からさっと血の気が引いた。カオル君は母親が今にも卒倒するんじゃないかと心配になったが駆け寄ったりはしなかった。
「…えっ? ヒカルって、あの、I…にいたときに毎日うちに来てたあのヒカルくん? まあ」
 電磁波よけのエプロンの端をめくったり直したりしながらしゃべるミカの口調は上ずり、セリフが棒読みになっている。
(ずいぶん大きくなったでしょうねってそりゃ当たり前よねママったら何言ってるのかしら、そうなじゃくてえーと彼は今何しているのなんてきっといい大学に通ってることでしょうからカオルさんを刺激してしまうわ、それにしてもほんとに久しぶりだことなんて言ったら眠っていた子を起こしてしまうし)何でもいい、何でもいいからとにかく何か話さなきゃ、せっかくの親子の対話の機会なんだからと思いつつ口をぱくぱくさせているうちにカオル君の姿は階段から消えていた。ミカは後悔と安堵の大きな溜息をついた。
 ふたたびノートパソコンに視線を落とし、夕方までに完成しなければならないスプレッドシートのマクロを入力しようとふたつみっつキイを叩いたところで手が止まってしまう。そうよあの時もこんなふうにパソコンの画面に向かっていたのだわ、20年も前のこと。パソコンといってもこんなにスマートなのじゃなくてやたらと箱ばかり大きくてディスプレイはA4の書類が画面からはみ出す小さなものだった。画面の右下隅に昔の郵便ポストの形をした不恰好なアイコンがあって…

 …メールが届くとアイコンがふくらみ、「くろヤギさんからおてがみついた」のメロディを奏でるのだが業務時間中は音量をぎりぎりに下げてあった。メールは同じフロアに勤務しているユキからで内容はたった一行、「極秘情報を入手。昼休みドリアンに集合」というものだった。ドリアンはふたりのお気に入りの喫茶店で会社から5分ほど歩いた古いビルの地下にあり、夜はバーとしてけっこう賑わうのだが昼間は閑散としていて謀議にはおあつらえ向きだった。階段の降り口からちょっとのぞいただけでは開いているのかどうかわからないような薄暗い店で看板も小さく、ランチサービスがないとあっては営業意欲を疑いたくなるが、黄ばんだ海泡石のパイプを斜にくわえたマスターが淹れてくれるコーヒーは本格的な水出しのダッチコーヒーでよそでは味わえない深い香りとコクがあった。
「極秘情報って?」
 ふたりとも足しげく通っているわけでもないのに、何も言わなくてもマスターはデルフト産のどっしりしたカップ&ソーサーを運んできてくれる。熱々のダッチコーヒーをブラックで。それにかりかりのアーモンドを少々。コーヒー中毒ぎみのユキはすでに1杯目のアメリカンコーヒーを飲み干していて、カップを持ち上げてマスターにお代わりを頼みながら左手の人差し指を唇の前に立てて見せた。(しっ、声が高いよ)合図に気づいたマスターが大きくうなずき、両手でつぶれた輪を作って見せる。
(ホットドッグは?)
 ユキはウィンクしながらVサインを送る。
(ふたつ。芥子をたっぷり利かせてね)
 ユキの動作はいつも芝居がかっているけどそれがちっとも不自然じゃない。さすがは元演劇部長にして主演女優だ。女優は優美な指を組み合わせて複雑な印を結び、重々しくのたもうた。
「『ブリーダー』との連絡方法を突きとめたのよ」
「ほんとに? ガセネタじゃないでしょうね」ミカは思わず刑事ものみたいな口調になる。
「あたくしの腕を信じなさいって」
 そりゃあんたは情報検索のプロ、超一流のサーチャーだものね。そのとおり、ユキはこちらに質問の隙を与えず一方的に宣言する。
「料金は前金で200万。あたしはもう指定口座に振りこんだわ」
 200万! そう、一介のOLにとっては大金よね、でもあなたには「結婚資金」があったはずでしょ。ユキの大きな目がそう言っている。冗談めかして結婚資金と名づけた通帳の残高は現在196万だったはず。それならOKじゃない、もちろんあなたも申しこむわよね。
(うん)承諾のしるしにうなずいたかどうか自分でも定かでないうちにユキは手続きについてとうとうと喋りはじめていた。いつも強引なんだから。あんたってばセールスウーマンとしてもトップでやっていけるわ。
 2杯目のコーヒーを女優らしく音もなく口に運び、あざやかな口紅の跡を残しながらユキが説明してくれた内容は複雑でちんぷんかんぷんだったが、要するに今から3ヶ月きちんと基礎体温をつけてメールで報告しているとある日どこそこのクリニックを受診せよという指令が下るから、シャワーを浴びて下着を穿き替えてそこへ行けば『ブリーダー』が現れてタネをもらえるというのだった。容姿についての希望があればアンケートフォームに記入しておけばできるだけ配慮してもらえるそうよ。知能はIQ120以上を保証するけど文学とか音楽とかお料理とかの特殊な才能については別料金。種付けは1回こっきり。結果は保証してくれないけど今までの成功率は70%以上だって。どう?
 どうって言われても答えようがなかったけれど、あたしには悪くない賭けに思えた。あの頃のあたしたちにとって、普通に結婚してこどもを作れる可能性なんてほとんどゼロに近かったんだもの。ユキもあたしもはたちそこそこだったけれど、その辺はとっくにあきらめていた。精子カウントが基準に達する男性は50%を切っていたし、カウントは足りていても運動能力が低かったり奇形が多かったりで、結婚したカップルのうち5年以内に子供ができるのは10組に1組あるかないか、という状況では結婚なんてとても割のいいギャンブルとは言いかねた。男たちは妊孕力テストを受けたがらなかったし、受けたら受けたで妊孕力の低い男性は訴訟が恐いから結婚に踏み切れず、妊孕力の高い男性は結婚なんかに見向きもしないでせっせと種を蒔くばかり。あの時代、自分のこどもが欲しい若い女の選択肢はとても少なかった。(1)数をこなして命中を待つ、(2)一発必中を狙って種付け男のお情けを乞う、それとも(3)非合法の受胎ビジネスに手を出す…
 ブリーダーと呼ばれる非合法の受胎業者の噂はネット中にあふれていたけれど、実際にそれを利用した人に会うことはできなかった。いたとしてもそうした人たちはめったなことでは口を割らないのだろう。警察と厚生省とマスコミはやっきになってブリーダーを追いかけていたわね。あとで報道されたところによるときゃつはもともと優秀な遺伝学者で、そのノウハウを政府が欲しがっていたとかなんとか。そういえば10年前のあの夏に彼が逮捕されたあとだったわね、受精卵の配給制が始まったのは。

「パラダイム=シフトっていうのかしらね、人口問題がどうのこうので子供はたくさん作らないにしましょうなんてそれまで大々的にキャンペーンしてたのが、ある日突然子供は未来への財産です、みんなで殖やしましょうだものね。笑っちゃう。現人神だったてんのーさまがいきなり人間になった時以来じゃないかしら、ああいうのは」
 結局仕事が長引いてローストビーフを作るひまはなくなり、冷凍庫の奥で長い眠りについていたサーロインを解凍し、ワインだけは近所の酒屋で調達して実に久しぶりの親子水入らずの夕食、気がつけば料理用のワインまで空けていて、ミカはすっかり饒舌になっていた。
「母子家庭の保護がこんなに手厚くなったのは日本史上はじめてなんですってよ。そりゃそうよね、年金だの国債だの、将来に先送りしてる借金を払う人間がいなくなったらこの社会はそれこそご破算だもの。あ、よかったらこっちのブロッコリーも食べてね。…なんの話だっけか、そう、子供ができなくなった原因はオゾン層が破壊されて紫外線が増えたせいだとかダイオキシンなんかの環境ホルモンのせいだとかあちこちに立てられた原発から放射能が出てるんだとか、やれコンピュータの電磁波がいけないんだとかそうじゃなくてテレビゲームのせいだとかいろんなことが言われて、緯度の低いところなら大丈夫なんていうデマが流れてアフリカや南米に移住したカップルも大勢いたけど、世界中どこも同じように出生率が低下しているのがわかるとしぶしぶ引き返してきたのよね」
 カオル君もすっかりできあがり、こちらは真っ赤になって誰に言うともなくしゃべり続けている。
「そう、ゲーム。あいつはゲームを作る才能があったんだよ。実際にプレイするのはおれの方がうまかったけどさ。アイデアはあいつの方が一枚も二枚も上手だったなあ」
「発展途上国は最初のうちは大喜びだったのよ。これで人口問題が解決するって。アフリカや東南アジアじゃそれ以前にエイズでどんどん人口が減ってたんだけどね。喜んでたのもつかの間、はっと気がついたらGNPだかGDPだかがどんどん下がりはじめてたわけ。そりゃそうよね、国民総生産ってゆうぐらいだから国民の数が減っちゃったらどうしようもないもんね。あはははは。あわてて1夫多妻制に戻したりして。政策の転換が遅れたのは中国だったのよ、あそこはほら、何ヵ年計画を修正するのが大変だから。でもって自分で受精卵バンクを作れなかったもんだから、同じ中国人だからいいやってんで台湾に手を出したのが今度の戦争のきっかけなんだって。うーん、ビールも出しちゃおうか」
 母親が国際情勢おたくだったとはちっとも知らなかったカオル君だが、こちらはすっかり10年前のヒカルとの思い出にひたりきっていた。なんのことはない、もはやふたりとも独り言をつぶやき合っているだけなのだった。
「あいつとなら何でもやれそうな気がした。1+1が3にも4にもなっちゃうみたいな、お互いのパワーが爆発して空高く舞いあがっちゃう感じ。DNAの2重らせんみたいなイメージかな」それともヘルメスの杖に巻き付く2匹の蛇、あるいは追いかけあう2つの旋律、絡み合い、ますます強く結びつきながら決してひとつになることはない…そうさあれはセックスなんかよりはるかに刺激的で危険だった。ふたりで語り合っていると時間がびゅんびゅんと音を立ててすぐ脇をすり抜けて行くのに、自分たちがいる場所だけは奇妙に静かで何も動くものなんかないような気がした。台風の目だ。井戸の中から見上げると昼間でも星がみえたっけ…
 食卓に突っ伏していびきをかき始めた息子を尻目にミカの独白は続く。
(子供たちの引きこもりが増えたのは社会全体が過保護になったからだなんていうけど、そうじゃない。多分。それともそうなのかしら。いずれにしてもあたしたちは子供に負い目を感じていて、それをこどもたちも感じとってしまうのだわ。合わせ鏡に吸いこまれて身動きができないのよ)
 冷蔵庫から缶ピールを取り出してワイングラスにどぼどぼと注ぐ。勢いよく泡が吹きあがり、こぼれるところに唇をつけ、ずるずると音立てて吸っては手の甲でぬぐう。
(てやんでい。子供のいる男性はひっぱりだこだったけれど、あたしもユキもおじさん達に抱かれる気はなかった。ユキは新入社員の妊孕力データを盗み出して、これはっていうコをかたっぱしからひっかけて試したけれどうまくいかなかった。あたしなんざ結局バージンのままこの子を産んだんだわ。しょじょせーしょくよ。サンタマリア)

 ブリーダーに逢ったあとあたしたちはふたりとも首尾よく妊娠して退職し、実家に戻って子供を産んだ。予定日は違っていたけど産まれたのは同じ日で、どちらも男の子だった。それがカオルとヒカルだ。それからはお互い子育てに追われてメールのやり取りも途切れがちになり、10年後にI…で再会するまでお互いの子どもの顔は写真でしか知らなかった。
 退職するとき、ユキは「どっちがいい男に育てるか、競争よ」とあたしに耳打ちしていった。文字通り光り輝いているようなユキの子供を見るまではそんなことすっかり忘れていたけど、あたしはつい貧乏くじを引いてしまったような気がしたものだわ。それにしてもこの子は気味が悪いくらいあの似顔絵そっくりになってきたわ…
「そうだ似顔絵だよ」
 カオル君が突然顔を上げ、真顔になってミカに尋ねた。
「えっ」一瞬テレパシーでも通じたかと思ったが、なんのことはない、思ったことをそのまま口に出していたのだった。
「似顔絵。前に見せてくれたやつ。前から思ってたんだけどさ、あれって…」
(実は父さんの顔なんじゃないの)と言いかけたところで酔いがぶり返し、カオル君は何を言うつもりだったのか忘れてしまった。
「ま、いいや。おれ、もう寝るよ」

 似顔絵というのはこんな子供が欲しいというのをパソコンで描いてブリーダーに送った絵をプリントアウトしたものだった。ずいぶん前に一度だけカオルが机の引出しから持ち出してきたことがある。(これ誰の顔?)(あなたの顔よ)(嘘だぁ、だってこれ大人のひとだよ)(だからねえ、これは完成予想図なの)(ふーん?)特にモデルはない。強いて言えば好きだったアニメの主人公や早世した母方の叔父、小学校のときあこがれた学級委員の男の子、そんなこんなを勝手にミックスして作り上げたものだったが、そういえば実家の父に多少は似ていないこともない。いや、そうではない、カオルは自分の父親の顔ではないかと聞きたかったのだろう。カオルの父親…あたし自身はマスクとキャップを着けメガネを掛けた彼の姿しか目にしていないし、その後報道された写真ではいつもサングラスを掛けていて人相がよくわからなかったけれど、彼の顔は例の似顔絵とは全然ちがう。カオルは実の父親にも、あたしにも似てなくて、唯一そっくりなのがあの似顔絵なのだ。考えてみれば不思議だ。ヒカルだって…

 …そう、あの子、ヒカルはカオルとは対照的だった。ふたりとも父親にも、たぶん母親にも似ていないし、互いに正反対なんだわ。同じコインの表と裏みたいに。それにしてもなんだってヒカルが今になって突然現れたのだろう。もちろんふたりとも成人しているのだから会うのは自由なんだけれど。でも何だか悪い予感がする。何て言ったっけ、ドッペルなんとか。自分の分身に会ったら死期が近いとか、そんな迷信なかったっけ…

 すっかり冷えて牛脂が固まった皿を片付けながら、ミカは思わず身震いしていた。

(第6回に続く)


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