SF随想録パンセ - Les Pensées de la Science-Fiction -

- SF社会学 -

おおむらゆう

私は社会学云々についてはど素人ですし、今回の内容はある意味倫理的にどうかという内容を含んでいるかもしれません。

まぁそこはSF的な考察の中で、そう言った考え方もあるかもな、という程度に思っていただければ。


1. 性善説と性悪説

儒家の孟子は性善説で、人には善の兆しが先天的に備わっているととなえました。 徳を積むことで善となることができると考えたようです。 (今日言う、そのままでも本質的に善であるという意味ではなかったみたいですね。) 一方で、同じ儒家の荀子は性善説からの批判において性悪説で、人の自然な状態というのは放置すれば社会混乱などをまねくものだと考え、 礼によって矯正、感化する必要があるものだとしました。

人は善なるものを内包してるにしろしてないにしろ、後天的な努力によって善なるものに近付き得るものだというのが両者に共通の考えみたいですね。

実際のところどうなんでしょう。

人の本性は善でも悪でもなく、脳は本能に従って最善と思われる行動を取ってるに過ぎないという考えがあるそうです。

善と悪は相対的で、あくまでその対象となる個の所属する社会形態に依存するというのも厄介な話。 ある人にとっての悪も、別の立場からは合理的でなされるべきこと(つまり、ある意味において善)であることがあります。

もしかしたら、悪なるものは存在せず、立場の違いだけが存在するのかもしれないですね。


2. 雑婚

現代社会においては一対一の夫婦が当たり前の存在で、一夫多妻制とか、逆の多夫一妻制などは倫理にもとると考える人が多数でしょう。

でも、イスラム教の国の中には今も一夫多妻制が合法であるところも現実にあります。

では、それは野蛮なことなのか。

おそらく、そこに至るにはなんらかの合理的な理由があったと思われます。例えば戦争で男女比が大きく差が開いてしまった時、 効率的に人口を増やすには一人の男と多勢の女が関係をもつようにするのが簡単な解決方法です。

そうでなくても、歴史上権力者は側室を持ったり、ハーレムのようなものを作ってることがあります。 優秀な子孫を残すためだと説明されることもありますが、むしろ権力の中心を同族で埋めて、 権力を維持するためだと考えた方がよいかと思います。他人よりは家族の方が意思の統一を図りやすいです。 もちろん、家族とは言っても所詮は他人でもあるので、思惑の違いから分裂に向かうことが多々あります。 でも、権力を確立したばかりの統治者が、手っ取り早く周囲を固めるには子供を作ってそれに統治のサポートを任せるのは楽なことでしょう。

会社でも同族経営というのはよくある話です。こちらは子供で固めるというわけではありませんが。

男女は基本的なところに差はないので、一人の女性に多数の男性という構図も条件によってはあり得るでしょう。 こちらは子供をなすという意味ではリスクがかなり大きそうですが。

じゃあ、男女比に差が出ない時には一対一が自然なのか?

これにも疑義があります。

なぜなら、どう頑張っても浮気というものが世の中無くならないようなのは、日々のニュースを見てると伺うことができます。 人間は生物学的には雑婚をするもので、特定の相手を選ぶものではないという話があります。 でも、そうだとすれば、そもそも浮気という問題ではなく、一人の相手と一緒にい続けること自体が普通でないようにも聞こえてしまいます。

では、何故夫婦という単位が自然だとされるのでしょうか?

これもおそらくは社会の中で一対一の夫婦という形態を取る方がメリットが大きいことから来ているのでではないでしょうか。

人数が多くなるほど意見の相違は大きくなり、互いの妬みなども増えることでしょう。 人が社会の中の存在として、夫婦がひとつになってすごすという形態を取っているからこそ生じることではないでしょうか。 多分、夫婦という形態を取らず、普段は人が個別に暮しているなら問題がないのでしょうが。 それに、別な社会的な理由として、経済的なものもあります。二人目の妻を持つ人は、 経済的に二人分を養っていくことができる人に限られるという話を聞いたことがあります。 それぞれに子供がいれば、支出はかなり膨大なものになることでしょう。

社会の形態が今の状態から変化した時、果たして夫婦というあり方が今のままかという保証はないのかもしれません。 事実、SF作品の中には夫婦が存在しないコミュニティが描かれることがありますね。ハインラインとかヴァーリイとかはこの傾向が顕著な気がします。

人が番うということは、多く、人間の社会の形態に依存してるということは言えそうです。


3. 犯罪とルール

世の中には数え切れないほどのルールが存在しますが、全ての法律を完全に守ることはできるのでしょうか?

じゃあその法を完全に守れないのは犯罪者となるのでしょうか?

法治国家としてはおそらく条件付きでイエスかと。

ルールは本来物事をスムーズに行うためのものであるはず。みんな一斉に好きなことを始めたら収拾がつかないので交通整理する必要があります。 ただ、異なる物事に対するルール同士は両立しないことがあり得ます。 それらのルールの間の辻褄を合わせるためにさらにルールが作られて、社会はどんどん複雑化してきています。

根っこのところは、そのコミュニティー内での交通整理のためのものだから、コミュニティーが変わればそこに制定されたルールも異なるはずです。

その異なるルールが出会った時に、互いに相手のルールが違法であると糾弾することがどれだけ無意味なことか。

結局は、両者を結合するための新たなローカルルールを策定する必要が発生します。

そしてまた社会は複雑化していく。

そもそも、生きてるということ自体、生命であることによる法則に支配されていますから、これも広義のルールととらえることができるかもしれません。

もっと言って、物理現象を逸脱することはできないので、これもまたルールといえばルールかもしれません。

そんなもんなんでしょう。


4. 経済

社会にしろ人間にしろコストがかからない方向に動くものなんだと思います。 食料がなくなれば他の場所に供給源を求めるしかなく、そこで元にいた人達との間での争いや、 もしくは商業取引が始まったりするかもしれません。もし食糧難の原因が、人口の増加で隣の地域まで居留地がはみ出してしまったことだとしても。

このような広義の経済活動によって、歴史のかなりの部分が必然となるところがあるみたいです。

必要な物が不足したら他から取って来なくてはいけない。 必要な物を収穫することが妨害されれば、それを奪い返す必要がある。 他者の侵入で人口が増加し、物資の供給が相対的に減るなら、人口の流入をおさえるように動かないといけない。

もちろん、判断するのは人間なので、個人や集団の別の事情によって動きが異なるかもしれない。

支配欲のために、領地を拡大するための戦争を仕掛けるというシチュエーションがよくありますが、 でも、なんで領地を拡大しようとするのか。それは領地を拡大することによって得られる利益があるということですよね。 何もなくて領地と領民だけ増やして食料などの必要物資の供給が増えなければ、かえって国や集団としては貧しくなるので、 そこに領地拡大のメリットはありませんし、そんなことをしてわざわざ戦争をしかけようとしても、 誰もついてこないでしょう。逆に、新たに獲得した土地の住民に対して産業生産物を売りつける余地が拡大したり、 領民が増えることで労働人口が増え、産業を拡大(農業も含めて)できる可能性が増えるなら、そこに領地拡大のメリットがあるし、 新たに増える土地に入植させることを家臣らに約束できれば、新しい収入源を求めて家臣たちも戦争に協力的になるでしょう。

近代の戦争も、結局は経済活動が遠因となってることが多いみたいです。 特に、資本主義経済の中で、生産物の市場拡大というのは常に重要な位置付けを占めるものですから。


今回はいつにも増してまとまりの無い内容となってしまいました。

それにSFの範疇を逸脱してしまってるものもあるかもしれませんし。

随想というのは元々主観的なものだとすれば、これはこれでそういうものなのかも。

ですから、いつにも増してここの文章をコピペしても点数はもらえませんのでよろしく。

それではおあとがよろしいようで。