マサキは正午前に、ようやく最後の荷をトラックに乗せ終えた。午前中いっぱいかかって仕上げた最後の鏡だ。これでようやく四十八時間勤務から解放される。昼食のあとは夕方まで仮眠して、それから皆と一緒に酒場で憂さ晴らしだ。
エンジンの音が響き、トラックは、すさまじい勢いで工場の敷地内から飛び出していった。緩衝材を入れて梱包してあるとはいえ、マサキはひやりとした。何といっても壊れ物なのである。注文主が荷をあけた時点で破損していたのでは、何のためにギリギリまで仕事をしていたのかわからない。
尤も、時間がないのも確かだった。アオツグミはあと二時間ほどでやってくる。彼らは腹の中に水晶時計を持っている。祭りの初日に遅れてくることは、まず有り得なかった。
マサキは屋内へ戻ると、社員食堂へ直行した。色褪せた長卓が並ぶ食堂には、料理の匂いと、生ぬるい空気が充満していた。マサキは銀色の盆を手に取った。厨房のカウンター前で列を作っている工員達の最後についた。カウンターの向こうから、熱い豆のスープや焼いた鹿肉、パンや林檎の乗った皿を盆の上に受け取り、空いている席に座った。疵だらけの匙で豆のスープを啜っていると、同じ班で働いているシギタが隣に腰をおろした。
シギタは言った。「今年は、やけに追加注文が多かったな」
「ああ」と、マサキは答えた。「取り付けをしくじった顧客が大勢いたんだろう。作業員に頼まないで、家族だけで鏡を屋根まで上げるのが流行っているらしい。設置費を払わなくて済むから、安上がりなんだそうだ」
「だが、割ったら、倍の出費になるだけじゃないか」
「『自分だけは大丈夫』と思ってやってるんだよ。おれ達が口を挟むことじゃないさ。それより、来年から、もっと在庫を増やしたほうがいいんじゃないかな。今の人数で、この態勢はつら過ぎる」
マサキは掌で右目を擦った。寝不足で充血した目に涙が滲んだ。
シギタが続けた。「飲み会には来るんだろう?」
「ちょっと休んでからな。他には誰が?」
「ウタガワとヨシムラとマキノが来る。タナベにはまだ聞いていない。ホリヤマは家族サービスだそうだ」
「待ち合わせ場所は」
「中央広場の噴水前。五時半頃でどうかな」
「わかった。じゃあ五時半にな」
マサキはシギタよりも先に食事を終え、食堂を出た。ロッカールームで汚れた作業服を脱ぎ、赤茶色の洗濯籠の中へ放り込んだ。
私服に着替えて工場の外へ出ると、街は、もうすっかり祭りの色に染まっていた。
赤・青・黄・白・紫の五色の旗が、家屋の軒先で、清々しい秋風に吹かれてはためいている。マサキは通りを歩きながら、自分達の仕事の成果を確かめるように、家屋の屋根や屋上を見上げた。
各々の家屋の屋根やビルの屋上には、金属の枠が組み上げられ、巨大な鏡が嵌め込まれていた。それはこの数ヶ月間、工場でマサキ達が必死になって作り続けてきたものだった。
祝祭鏡――祭りの初日だけに使う特殊な鏡。それらは、全て疵ひとつなく隅々まで磨きあげられ、空の青さを完璧に映していた。吸い込まれそうな滑った青さは、空の青さというよりも、どことなく海の青さを連想させた。
鏡は皆、東の方角を向くように設置され、鏡面は、地面に対してほぼ垂直の角度に保たれていた。数は、建造物の大きさによって様々だ。民家の屋根の上には、横並びに五・六枚程度。会社が幾つも入っているような、大きなビルの屋上には、二十枚から三十枚程度。多い場合には四十枚前後の鏡が、金属枠の中にずらりと並ぶ。
新建材を使ったビルと違って、この街の石造りのビルには、マサキ達の作る祝祭鏡がよく似合った。どっしりとした石造りの建物とガラスの調和は、この街の観光ポイントの一つになっている。街中に敷き詰められた石畳は、欧州の通りを模して配置されたものだ。アオツグミが飛来する異国風の工芸街。この売り文句につられて、毎年、大勢の観光客が、この小さな都市を訪れる。
住宅街の換気扇からは、祭魚を煮る出汁の匂いと、甘い焼き菓子の匂いが溢れていた。蜂蜜とナッツを練り込んで作る焼き菓子は、祭魚料理と同様に、祝祭期間中には欠かせない品物だ。以前は妻が焼いてくれたものだが、今ではマサキが自分で焼く。出来合いを買えば楽なのはわかっていたが、祭りの初日、台所に、ふんわりと広がる香ばしい匂いが懐かしくて、どうしても家で焼かずにはいられないのだ。
商店街で焼き菓子の生地とワインを一瓶買い、マサキは自分のアパートへ戻った。時刻は午後一時過ぎ。買ったものを冷蔵庫へ入れ、寝室の目覚まし時計を午後四時に鳴るようにセットした。服を着たままベッドへ倒れ込む。過剰勤務の疲れから、マサキはすぐさま眠りに落ちた。アオツグミが来る前に熟睡しておくのだ。あいつらが到着したら、あの、とち狂った騒ぎで眠れなくなってしまう。だからその前に――。
アパートの一室でマサキが眠りこけている間、街の上空には、アオツグミの大群が押し寄せつつあった。東の地平線から、藍色の雲の如く湧き上がった鳥達は、今や一塊りの嵐となり、街へ向かって一直線に突き進んでいた。
アオツグミという名前は、その外観からつけられた名だ。体は普通のツグミより三回り大きく、むしろ太ったヒヨドリの姿に近い。羽毛の色は深い藍色だ。瞳と嘴は黒曜石のように黒く、胸元には、一握りの白い飾り羽毛が生えている。鳴き声は細い笛のように甲高く、鳥達が鳴き交わすと、あたりの大気が激しく揺さぶられた。
通りには、先刻から人の姿が消えていた。誰もが家の中へ逃げ込んで、窓の奥から鳥達の様子を眺めていた。うっかり外へ出ようものなら、ものすごい勢いで突っ込んでくる鳥達の嘴で大怪我をすることになるからだ。やがて上空から降下してきたツグミ達は、屋上や屋根の上にあげられた祝祭鏡に向かって、まっすぐに飛び込んでいった。磨きあげられた祝祭鏡は、空の青さを完璧に映している。鏡の中の空を本物の空と錯覚したかのように、ツグミ達は次々とそこへ突進した。
あっというまに、屋根の上に、アオツグミの死体が転がり始めた。高速で飛ぶ鳥達が、鏡と正面衝突して無事でいられるわけがない。ツグミ達の体が、青い雹のように屋根や道路を叩き始める。祝祭鏡とは、つまりツグミ達を捕獲するための罠なのだ。ツグミ達は屋根の上で弾み、傾斜を転がって石畳の上へ落下した。あるいは高いビルの屋上で鏡と衝突し、そのまま何十メートルも下の石畳へ向かって落ちていった。藍色の鳥の死骸が道路に積み重なった。街中の石畳が藍色の絨毯を敷いたようになった。雪でも降ったように白い飾り羽毛があたりに飛散した。仲間達が何百羽死のうと、ツグミ達は鏡へ向かうことをやめなかった。何千、何万ものアオツグミが、止むことなく鏡との衝突を繰り返した。まるで、この街で死ぬことが長い旅の最終目的であるかのように。鳥達の衝突でひび割れた鏡は、やがて台座からボロボロと剥がれ落ちた。このためだけに作られた新品の鏡が、無惨に砕けて、ただのゴミへと変わっていった。
鳥達と鏡の衝突が続いている間、人間達は屋内で、わくわくと胸を躍らせていた。雹が降るような音にガラスの破砕音が混じり始めると、人々は、もうそろそろだなと、一層顔をほころばせる。
衝突音が聞こえなくなると、人々は鳥を拾いに外へ出た。アオツグミは、鶏や鴨の何倍も旨い。適度な歯ごたえ、まろやかな芳香。じゅわっと口中に広がる脂の旨さ。毎年、この時期になると街を訪れるアオツグミの大群は、天からの貴重な恵みだった。それを目当てに、近隣の街からも観光客がどっと押し寄せる。この街のこの季節が、《祝祭期間》と呼ばれるのはそのためだった。アオツグミには、どんな調理法もよく合った。煮る、焼く、野菜と一緒に網の上で串焼きにする、摺り潰して肉団子にする、薄くスライスした切り身を氷水にくぐらせ、胡麻だれをつけて食べる。唯一手に入らないのはアオツグミの卵だけだったが、アオツグミがどこで卵を産んでいるのかは、まだ誰も知らなかった。
目覚まし時計のアラームで、マサキは午後四時過ぎに目を覚ました。台所へ行って冷蔵庫から焼き菓子の生地を出し、オーブンレンジの皿に並べた。タイマーをセットして、加熱皿が回っている間に、浴室でシャワーを浴びて髭を剃った。
台所へ戻ってくると、焼き菓子の甘い匂いが部屋中に充満していた。オーブンの扉を開けて、熱く焼けた皿を引き出す。キツネ色に焼きあがった菓子を、ざらっと器にあけて、コーヒーを飲みながら何個か囓った。甘く香ばしい焼き菓子は、夕食前のからっぽの胃を適度に満足させてくれた。
食器を洗い、新しい服に着替えると、マサキは居間の姿見を覗き込んだ。妻がいつも使っていた、全身が写る大きな鏡だ。妻がいた頃には、使わない時にはカバーをかけていた。だが、マサキはそれを取り払い、好きな時に鏡を覗き込めるようにしている。
マサキのいる部屋は和室だったが、鏡の中には、洋間の風景が映っていた。毛足の長い絨毯が敷かれ、ベッドが据え付けられた洒落た洋室。こんな部屋があるといいよねぇ、と妻が言っていたのとそっくりな、広々とした空間――。
「キョウコ」と、マサキは鏡の中へ向かって呼びかけてみた。だが、返事はなかった。鏡の向こうに妻の姿を見なくなってから、もう一週間がたつ。以前は姿が見えなくても、こちらから呼びかければ、必ず、顔を見せてくれたものなのだが……。
マサキは、しばらく妻を待ってみた。が、待ちきれなくなって、やがて部屋を出た。
午後五時過ぎ。街の住人達は、既にアオツグミの死体を片づけ終えていた。マサキの歩く道路に、鳥の死骸は一つもなかった。鏡の破片も全て掃き集められている。とりきれなかった白い羽毛が、道端に吹き寄せられて毛玉のように固まっていたが、血の跡は残っていなかったし、死骸をむさぼり食う野良猫の姿もなかった。石畳には水が撒かれ、鳥達の体液はすっかり洗い流されていた。一緒に撒かれた薄荷水の香りが、僅かに立ちのぼっているだけだった。
中央広場の噴水の前で、マサキは職場の同僚達を待った。噴水のまわりは人だらけだった。誰もが周囲を気にしながら、そわそわと相手が来るのを待ち続けている。
やがて、人混みをぬって現れたのは、シギタ、ヨシムラ、ウタガワ、タナベの四人だった。マキノがいないのでどうしたのかと訊ねると、急用ができたそうだ、と、シギタが答えた。
「親父さんが鳥の死骸を片づけていて屋根から足を滑らせたらしい。庭に落ちて腰の骨を折ったそうだ。マキノは付き添いで病院だ。手術の予定を聞いたり入院用品を揃えたり、結構大変らしい。飲み会には行けそうにないから、適当にやっていてくれとさ」
「そうか。じゃあ、今度、お見舞いを持ってゆかなくっちゃな」
「組合からも幾らか出るんじゃないかな」と、ヨシムラが言った。
「出ないよ」と、タナベが即座に答えた。「あれは冠婚葬祭の時だけだろう」
「そうだっけ? おれ、工場で指を切った時に、何か貰ったような気がしたんだけど」
「そりゃ労災のほうだろう。家族の怪我は、会社とは関係ないからなぁ」
マサキは皆と一緒に、近くのビアホールへ入った。板張りの広い店内は、開店直後だというのに半ば座席が埋まっていた。人のいないテーブルにも、旅行会社のロゴマークが入った予約札が立ち並んでいる。案の定、団体客が押し寄せてくると、店は、あっというまに満席になった。
各テーブルからの注文が相次ぎ、給仕が、厨房と客との間を蜜蜂のようにせわしく飛び回った。飲み物や料理の注文の通りが次第に悪くなり、手持ち無沙汰になったマサキ達は、職場の上司の悪口や儲け話に花を咲かせ始めた。
シギタは、来年から、祝祭鏡をこっそり横流ししてみないかと皆に持ちかけた。工員の誰もが祝祭期間の前日まで必死になって残業を続けるが、そうやって作られる鏡の何割かは、本来売ってはいけない他の街へ流れている。勿論、何割増しかの値段でだ。工場長は、その儲けを自分の懐へ入れている。おれ達も同じことをやってみようじゃないかとシギタは言った。あれだけ残業して雀の涙ほどの手当てじゃ馬鹿らしいだろう?
マサキ達の街は、アオツグミの捕獲を一手に引き受けている。街としては、観光客が落としてゆく金銭を、よそに奪われたくはないのだった。だから表向きは、祝祭鏡も捕獲したアオツグミも、他の街へ売ってはいけないことになっている。だが、欲しがる人間がいる以上、商売は成り立つのだ。
「でも、どうやって?」と、ヨシムラが首を竦めた。「バレたら、確実にクビだぜ」
「在庫表につける前に商品を抜くんだ」と、シギタは言った。「これだと、在庫リストと現物の間に数差が出ないから安全だ。ただ、抜きすぎると、原料と生産品との分量の辻褄が合わなくなるから、不審に思われるだろうがな。元手が掛からないんだから、半額で売ったって丸儲けだ。悪い話じゃないだろう」
シギタの言っていることは、鏡工場の誰もが一度は考えることだった。だが、実行に移したことのある者がいるのかどうか、いたとしても成功したのかどうか、マサキは全く知らなかった。
ましてや、自分からやってみたいとは思わなかった。裏ルートで荷をさばく時の面倒臭さを考えると、どうしても躊躇してしまうのだ。盗品だとバレれば相手に買い叩かれる。信用できない相手と取引すれば、いつ密告されるかわからない。シギタならうまくやれるかもしれない。だが、おれは御免だ。
他の三人も同じように考えているに違いない、とマサキは思った。ウタガワは、その言動とは裏腹に危ない橋を渡ることをひどく警戒する男だ。ヨシムラは、こういうことに関しては極めて勘の働きが鈍い。タナベは現実主義的な皮肉屋だ。一攫千金を狙うような夢は絶対に見ない。
とすると、結局、この顔ぶれの中に、シギタに手を貸す者はいないのだということに気づいて、マサキは思わず苦笑いを洩らしそうになった。それを隠すために、ジョッキの底に残っていた僅かばかりのビールを口に含む。シギタは皆を計画に引き込むべく、熱心に詳細を喋っている。ウタガワやヨシムラやタナベは、聞いているふりをして聞いていなかった。マサキもそれに倣った。第一、シギタ自身、本気で言っているのかどうか、わからないのだ。こうやってまくしたてることで、日頃のストレスを発散させているだけなのかもしれない。
注文した飲み物や料理の遅さに、ウタガワが悪態をつき始めた。タナベがそれをなだめて、続きは、もっと静かな店で飲もうと提案した。
その時、ホールのステージに照明が射し、サックスとベースの演奏者が姿を現した。少し遅れて若い女が姿を現した。袖のない葡萄色のスリムなドレスを着ていた。歳は二十代の初め頃に見えた。客席に向かってちょっと頭を下げると、肩まである漆黒の髪がさらさらと流れた。
サックスとベースが、スローテンポの曲を演奏し始めた。力強い低音が腹へ直接響いてきた。甘い雰囲気のバラードだった。店を出ようと駄々をこねていたウタガワが、おっと声を上げてステージのほうへ向き直った。「あの子知ってるぞ。時々、十二番街のクラブで歌っている女の子だ。ものすごくうまいんだ!」
マサキは椅子の位置を少し変え、ステージに注目した。女は、音楽に身をまかせるように、力強く張りのある声で歌った。よく響くが、耳に邪魔にならない心地よい声質――それは、春の陽射しのような暖かさと、その陽射しを浴びて輝く、冷たい小川の清らかさを連想させた。十二番街は何度も行ったことがあるが、こんないい歌手がいたと知らなかった。マサキは何となく、今まで人生を損していたような気分になった。
女は五曲ほど歌い終えると、演奏者を連れてステージを降りた。客席を回り、客に小さなカードを手渡していった。どうやら別の店へ勧誘しているらしい。自分の店なのか、次に演奏する予定になっている店の名刺なのか。
マサキ達のテーブルに回ってきた時、ウタガワが彼女を呼び止めた。「君、いつも《サテンドール》で歌っている子だろう。何て名前なの?」
ミヤです、と女は答え、ウタガワにカードを差し出した。「前にも聞いてくれたことがあるんですね。ありがとう。明日の夜九時と十時にはそこにいますから、よかったらまた来て下さい」
「明日と言わずに、ここで一緒に飲もうよ。ビールを奢ってあげるから」
「ごめんなさい。私、ビールは飲まないの」
「じゃあ、ワインでも何でも好きなものを頼むといいよ。今日は祝祭期間の始まりじゃないか。仕事のことなんて忘れて、一緒に楽しもうよ。おれ達も、やっと鏡作りから解放されて、せいせいしているところなんだ。明日は必ずその店で飲むから、ちょっとだけつき合ってくれないかな」
ミヤの瞳に、少しだけ好奇心のようなものが輝いた。「あなた達、鏡工場の人? 祝祭鏡を作っている人達なの?」
「そうだよ。だから、鏡のことなら何でも知っているし、何でも教えてあげられるよ」
「そうなの? じゃあ、ちょっと待ってて」
ミヤは、一緒にいた演奏者達に何事か囁いた。二人の演奏者は頷くと、ミヤを残して、その場から立ち去った。
ミヤが席につくと、ウタガワは得意げな表情であたりを見回した。隣の客達が、羨ましそうな視線を送ってきた。
「アオツグミ、どうですか?」と、マサキが声をかけると、ミヤはすまなそうに答えた。「ごめんなさい。私、鳥は食べられないの。焼いた鹿肉を頂けるかしら、アプリコット・ソースを添えて」
「飲み物は」
「赤ワインをグラスで」
ウタガワは、何かと理由をつけてはミヤに話しかけた。が、シギタやヨシムラにしょっちゅう遮られ、その都度、大声を出して二人を追い払おうとした。
ミヤは鹿肉とトマトのサラダを食べてしまうと、ウタガワにではなく、その場にいる全員に向かって言った。
「アンティークといえば、私の実家にも、葡萄柄の額がついた大きな鏡があるんです。でも、最近、映りが悪くなって、磨いても磨いても像がぼやけちゃうの。そういうのって、修繕できるんですか?」
シギタが答えた。「古い鏡は、水銀を塗った面とガラス面が剥離して、いろいろと不都合が出てくるものだ。何だったら、今度、うちの工場から取りに行かせようか?」
「いえ、取りに来て貰うよりも、直接、実家へ行って、様子を見て貰えるとありがたいわ」
「いつ頃に?」
「できれば今夜。私、これから、実家へ寄る予定になっているから」
「よし!」と、ウタガワが言った。「じゃあ、皆でこれからそこへ行こう。これだけの人数がいれば、大きなものでも運び出せるし」
「いえ、来て頂くのは一人でいいんです。そう――できれば、通り鏡のことを知っている人がいいかな。そういう人なら、どんな鏡だって修繕できそうだし」
「通り鏡というのは、ただの噂話じゃないんですか?」と、ヨシムラが言った。「あれって、よくできた作り話なんでしょう?」
ミヤはヨシムラに微笑みを返した。「普通の人はそう思うでしょうね。でも、今夜は祝祭期間の始まりだから、そんな話も、本気で聞いてくれる人に来て貰いたいわ」
「おれは信じているよ」と、ウタガワが早速名乗りをあげた。「通り鏡っていうのは、鏡の亡霊さ。祝祭期間になるとこの街に出現して、通りのあちこちを彷徨うんだ。そして、出会った人間を、あちら側の世界へ連れていってしまう」
「見たことがあるの?」
「とんでもない。あれを実際に見たら、今、こうやって、ここにはいられないさ」
タナベは自分から降りた、と言い、シギタは「面白そうだな。じゃあ、おれも立候補しようかな」と口を出した。
ウタガワが反駁した。「彼女は一人だけって言ってるだろう? 権利は、最初に答えたおれにある筈だぜ」
「私は、誰に来て貰うとは、まだ言っていないわよ」と、ミヤはウタガワを遮った。そして、マサキの顔を見ながら訊ねた。「あなたはどう? 通り鏡の存在を信じている?」
「信じているよ」と、マサキは静かに答えた。「でも、これで候補が三人になった。どうやって一人に絞るんだい」
「万華鏡迷路で競争するというのはどう?」と、ミヤは言った。「一秒でも早く迷路を抜けた人が勝ち。それでどうかしら?」
万華鏡迷路のある遊園地は、そこから徒歩で十分ほどの距離にあった。祝祭期間中は格安のフリーパスで出入りが自由になっており、乗り物や夜のイルミネーションを楽しみたい客達で、結構、混み合っていた。
迷路館は、園内に入ってすぐの場所にあった。黒い建物の外壁に、花火が散っているような極彩色の曼陀羅絵模様が描かれている。入り口は三つあった。一つの建物の中に、三つの迷路があるのだ。
客達は入り口の前に列を作っていた。一定時間ごとに、係員が客に入場を促す。出口は反対側にあり、そちらからは時々、嬌声をあげながら子供達が出てきたり、ぐったりと疲れ切ったカップルや、酔っぱらったように足元をふらつかせた中年男性が姿を現した。時々、係員に付き添われて出てくる客もいた。自力で脱出できなくて救出された人達だ。
迷路からの脱出には制限時間があった。十分で普通。十三分たっても客が出てこない場合には、係員が居場所を探しにゆく。逆に、五分以内で出られた場合には、景品が貰えるのだ。
「三分間で出てくるさ」と、ウタガワは胸を張って言い切った。
「三つの迷路の難易度は同じなのかなぁ」と、シギタが呟いた。「迷路によって不利・有利があると損だね」
ウタガワが悠然と言い捨てた。「損な迷路にあたるのも運のうちなのさ」
時間は、ミヤとヨシムラとタナベが、それぞれに測ることになった。ちょうど三人いるので、皆で腕時計の針を合わせ、それぞれの出口で待つ形になった。マサキ達はジャンケンで入り口を選んだ。各迷路の入り口にいる受付嬢から、卵形の計器を渡された。非常呼び出し用ボタンだ。迷路を歩いているうちに気分が悪くなったらこのボタンを押す。すると電波が発信されて、係員が助けに来てくれる。係員は、この計器を使って、常時、客の位置をモニターしているのだ。
「じゃあ、スタート!」
ウタガワの掛け声で、マサキ達は、一斉に迷路館に足を踏み入れた。入り口を通り抜けると、衝立で仕切られた向こうは、もう迷路になっていた。青い電灯が、仕切り板で区切られた狭い通路を、ほの明るく照らしている。通路の幅は二メートルぐらい。少し進んだ先で、早くも、二方向へ分岐していた。
マサキは右の通路を選んだ。角を曲がった途端、天井のセンサーが反応して、周囲の壁いっぱいに、色鮮やかな万華鏡模様が映し出された。オレンジ色を基調した、十二重対称の星形模様――。それらが両側の壁いっぱいに広がり、ゆるやかに回転しながら、次々と模様を変化させ始めた。
たちまち、壁全体がまわっているような錯覚に襲われ、マサキの足元はぐらついた。体がぐーっと傾斜して、壁に衝突しそうになる。迷路の仕切り板は、全て、電気仕掛けで映写スクリーンに切り替わるようになっている。迷路の外部には、巨大な機械仕掛けの万華鏡が設置されており、それがセンサーの反応で回転し始めると、万華鏡内部に作られる虚像が、投影装置経由で迷路の壁いっぱいに投影されるのだ。
壁の上で展開される曼陀羅模様は、迷路を脱出しようとしている客の感覚を掻き乱す。平衡感覚を狂わせ、脱出のための勘を鈍らせる。万華鏡迷路に入る者は、色彩と模様の変化に翻弄されながら、脱出路を見つけ出さなければならない。小さな覗き穴から万華鏡を覗く時のような優雅さは、この迷路には存在しなかった。周囲からのしかかってくる色彩の狂宴から逃れるには、一分一秒でも早く、迷路を脱出する以外道はないのだ。
反射率ゼロの黒い床板を見つめながら、マサキは時々立ち止まり、吐き気と頭痛をこらえた。眩暈は、模様の投射されない床面を見つめていることで、少しは解消される筈だった。だが、ビアホールで飲んだ酒がきいているのか、いつもほどの効果はなかった。ウタガワやシギタも、今頃は、ここへ入ったことを後悔しているに違いなかった。あいつらは――特にウタガワは、おれの何倍も飲んでいた。今頃、四苦八苦していることだろう。
壁の上では、ツー・ミラー・システムの万華鏡が作り出す円形模様が、マサキを嘲笑うように、くるくると回転していた。透明感のある色彩は、教会によくある円形ステンドグラスを連想させた。
迷路の外部で、機械仕掛けのチャンバーが回転するたびに、脳味噌を掻き回すような色彩世界が、途切れることなく壁の上で花開いた。その豪華な虚像を作り出している表面反射鏡もまた、マサキの工場で作られたものだった。残業までして真面目に作っているものに、こんなところで苦しめられることになろうとは。もはや、他の二人の心配をする余裕もないままに、マサキは迷路の角を何度も曲がり続け、やがて館の外へ転がり出た。
待っていた三人が、わっと拍手を寄越した。
「あなたが一番よ!」と、ミヤが言った。
マサキが返事をかえそうとした時、別の出口からシギタが姿を現した。マサキと同様に青ざめた顔色をしていたが、マサキを目にすると、「あ、ちくしょう!」と叫んで、両方の掌で自分の太股を叩いた。
ウタガワは脱出まで十五分もかかった。しかも、迷路館の係員に抱きかかえられての到着だった。完全に悪酔いした時の顔つきで、ふらふらになっていた。檸檬水でも買ってこようか、と、タナベが声をかけると、
「いらない。それよりも、どこかで休ませてくれ!」と情けない声をあげて、ヨシムラの腕の中へ倒れ込んだ。
皆は、ウタガワを近くのベンチに寝かせた。騒ぎが一段落つくと、シギタがマサキを呼び寄せて、小声で言った。
「こいつは当分動けないと思うから、おまえはもういいよ。彼女と一緒に行ってこい。今日は、祝祭期間の始まりの夜だ。充分に楽しんでこいよ」
「おれは、鏡を修繕してくるだけだよ」
「野暮なことを言わせるなよ。それ以外に、何があるっていうんだ?」
ミヤの家へ行きたいのは、彼女が通り鏡のことを知っているからだ。おれは通り鏡のことを知っている人間と、それについて話したいだけなのだ。と、マサキは思ったが、説明するのが面倒だったので、それっきり黙り込んだ。
四人に挨拶した後、マサキは、ミヤと共に遊園地をあとにした。
ミヤの実家は貸家ではなく、庭のある一戸建てだった。彼女は普段はマンションで一人暮らしをしているのだが、毎年、祝祭期間中だけは実家に戻るのだという。
門のかんぬきを外しながら、ミヤは言った。「今日は祭りの初日だから、父も母も一晩中帰ってこないわ。遠慮なく入ってね」
「夫婦で外泊か。いいねぇ」
「違うわ。父も母も、今日は別々の友達と一緒なの」
ミヤはマサキを、母屋ではなく、庭に建てられた離れのほうへ案内した。広そうに見えてもたいしたものじゃないのよ、と言いながら扉の鍵を開く。
離れは、部屋というよりは物置のようになっていた。収納箱や紙箱が天井近くまで積み上げられ、古びた衣装箱や箪笥が壁際に並んでいる。埃っぽい匂いが鼻腔をくすぐった。大きなくしゃみが何度も出た。足元は板の間で、しんとした秋の寒さが靴下から伝わってくる。部屋の隅から、ミヤがスリッパを持ってきた。マサキは礼を言って両足に履いた。
修繕してくれという鏡はどこだろう、とマサキは思った。だが、ミヤは答えず、葡萄色のドレスの裾をひるがえして床の上にしゃがみ込んだ。床板の両端についている回転金具を起こし、取っ手を掴んで、板を一枚持ち上げた。床下貯蔵庫でもあるのかと思って、マサキは横合いから中を覗き込んだ。だが、そこには梅干しや梅酒の壺など並んおらず、灰色の地面が、剥き出しになっているだけだった。
「よく見ていてね。面白いことが起きるから」
ミヤはそう言って地面を指さした。マサキは仕方なく、床に両膝をついて、穴の底を覗き込んだ。しばらく待っていると、突然、地面が下から何かに突き上げられたように盛り上がった。拳大の土塊が、あちこちに出現して地面が凸凹になった。モグラかネズミでもいるのだろうかと思い、マサキは地面を見つめていた。すると、土塊を崩して、中から生き物が姿を現した。土の中から出てきたものを見て、マサキは、あっと声をあげた。
アオツグミだ――。
両翼を胴にぴったりと付け、体を左右に捻りながら、一羽のアオツグミが土塊の中から体を引っ張り出した。ばっと両翼を打ち振るって、全身についた土を払い飛ばした。泥で汚れているせいではなく、体全体が焦げ茶色をしていた。嘴の色も灰色がかっている。――幼鳥?と、マサキは直感した。では、この下には、アオツグミの卵が埋まっているのだろうか。誰も見つけたことのないアオツグミの卵が、こんなところで孵化しているのか?
「下がって! そこから出てくるから!」
ミヤが叫んだので、マサキは慌てて後方へ退いた。と同時に、床下のアオツグミが激しく羽ばたいて、穴の底から飛び出した。マサキは反射的に、右手でツグミを叩き落とそうとした。が、ツグミは何度か羽ばたいただけで、よろよろと床板の上へ落下した。地面から出てくるのに体力を使い果たしているようだった。ミヤは、アオツグミを素早く両手で押さえ込み、いつのまに用意していたのか、大きな籠の中へ閉じこめた。
その間にも、ツグミ達は、次々と穴の底から飛び出してきた。マサキはミヤに命じられるままに鳥を追い回し、彼女の手助けで、籠の中へ押し込んだ。飛ぶ力こそ弱かったが、ツグミ達の蹴る力は強く、油断していると、たちまち両手が引っ掻き傷だらけになった。
ツグミ達は止むことなく、続々と地面の中から生まれてきた。小さな嘴を激しく振りたて、羽化したての蝶のように、続々と室内へ飛び上がってきた。
十二ほどの籠がアオツグミでいっぱいになった頃、地面は、ようやく鳥を吐き出すことをやめた。マサキは、ほっと一息をつき、最後の鳥籠を部屋の隅へ移動させた。
「ごめんなさいね」と、ミヤが、悪戯っぽく笑いながら言った。「うちは毎年こんなことをやっているんだけれど、今年は父も母も出かけちゃったから、どうしても人手が欲しくって」
「毎年だって? いったい、どうなってるんだ? この下は」
「マサキさんが、自分で確認してみて」
懐中電灯を渡され、マサキは、そのまま床下へ降りた。床下で這いつくばりながら、マサキはツグミ達の出てきた場所の土を掻き分けた。掘り進めてゆくうちに、そう深くない場所で、堅く冷たいものが掌に触れたのを感じた。その表面を撫でたマサキは、埋まっているものが何なのかすぐに気づき、大急ぎで土を払いのけた。
やがて、埋められていたものが姿を現した。それは、半径だけでマサキの身長を超えるほどの大きさの、一枚の古びた鏡だった。
「私達の家族は、代々、こうやって、アオツグミの渡りを助けているの」
ミヤは、鳥達でいっぱいになった籠を眺めながら、床下から上がってきたマサキに説明した。「毎年、祝祭期間の夜になると、ああやってうちの床下から――正確に言うと鏡の中から、アオツグミが何万羽も現れる。祝祭期間中、ずっと、ああいう現象が続くのよ。私達はツグミ達を一時捕獲すると、充分に休ませてやってから、夜中のうちに空へ放つ。ツグミ達は、そのまま東の方角へ飛んでいって、翌年になると、東の方角からまたこの街へ戻ってくる。鮭が生まれ故郷へ帰ってくるようにね。私の家系は、それに何百年も立ち会い続けているんです。でも、きっとうちだけじゃなくて、いろんな場所に、同じ作業をしている家族がいるんでしょうね。でないと、毎年、あれだけの数のツグミが東から戻ってくるわけはないから」
「そう言われても、まだ、よく事情が呑み込めないな。あの鏡とツグミ達は、一体、どういう関係になっているんだ。どうして鏡の中から、ツグミが産まれてくるんだい」
「ツグミ達は、鏡を利用して、向こう側の世界とこちら側の世界を行き来しているだけよ。来年アオツグミが飛来したら、祝祭鏡と衝突する瞬間を、よーく見ていて。たいていの鳥
は鏡と衝突して道路へ落ちてしまうけど、何回かに一回、鏡とぶつからずに、鏡の中へ吸
い込まれてゆく鳥達がいる筈だから。鏡を通り抜けた鳥達は、向こう側の世界で巣を作って卵を産み、雛は、ある程度まで育つと、あの鏡を通ってこちら側へ渡ってくる。その時期が、こちら側では、ちょうど祝祭期間中にあたっているの。私がアオツグミを食べない理由が、これでわかったでしょう? 毎年、あれだけの数のアオツグミの世話をしているのよ。食べるのなんて、もう、うんざりって感じ」
マサキは呆然とミヤの話を聞いていた。すぐには、次の言葉が出てこなかった。「――で……君は、この鏡をどうしたいんだ。修繕してくれというのは口実なんだろう。他に、何か考えていることがあるんだね?」
「ええ。私達、ツグミを守る仕事に飽きちゃったの」と、ミヤは、悪戯っぽく笑いながら言った。「だって、毎年この時期になると、実家へ戻って鳥の世話をしなくちゃならないのよ。せっかくの祝祭期間なのに、旅行にも遊びにも行けやしない。去年までは母も一緒にやっていたけど、とうとう今年からは、私一人にまかせて投げ出したわ。――引き取り手が欲しいのよ。私達の代わりに、ツグミ達の面倒を見てくれる人が欲しいの。でも、変な相手に渡したらツグミの市場に悪影響が出そうだし、どんな人なら信用できるだろうって、迷ったわ。鏡工場の人に声をかけたのは、鏡の話から入ってゆけるからと思ったから。それに、祝祭鏡を作っている人達なら、ツグミの渡りのことも知っているんじゃないかと思って――」
「残念ながら、全く知らなかったよ」と、マサキは溜息を洩らした。「自分が、そんな奇妙な鏡を作っているなんて知らなかった。工場はオートメーションだし、僕達は決められた仕事をやっているだけだ。どうしてツグミ達が祝祭鏡を通過できるのか、僕には見当もつかないな」
「じゃあ、鳥達のほうに何か仕組みがあるのかもしれないわね。どっちにしても、あの鏡を何とかしたいのは本当なの」
「わかった。――じゃあ、アオツグミの件は、僕の友人に話をしてみよう。迷路で一緒に競争したシギタという男だ。彼には商才がありそうだから、ツグミの世話を、うまく続けてくれるかもしれない。でも、何だか惜しいな」
「何が」
「君の家族が、ツグミの世話をやめてしまうこと」
「どうして?」
「だって、何となくロマンチックな仕事じゃないか。こういうのって」
「だったら、マサキさんがやってみる?」ミヤは、くすくす笑いながら言った。「私はそれでもいいのよ。この仕事を引き継いでくれる人がいるなら、それは誰でも構わないわ」
マサキは、自分がツグミ達の世話をしているところを想像してみた。――が、うまくゆかなかった。ツグミ達を追いかけて、ばたばたと走り回っている滑稽な男。それが浮かんできただけだった。これじゃ、ロマンのかけらもあったもんじゃない。マサキの心の中を見抜いたのか、ミヤは「お茶にしましょう。手も洗いたいしね」と言って、マサキを離れから連れ出した。
洗面所で手を洗った後、マサキは母屋の応接室へ案内された。ミヤは、二人分の緑茶と焼き菓子を盆にのせてきて、向かいのソファに座った。
自分で焼いたの?とマサキが訊くと、ミヤは「ええ」と答えた。「お菓子を作るのは大好きよ。母は、お菓子よりも、料理をうまく作れるようになりなさいって言うけれど」
「僕の家でも、祝祭の焼き菓子は自家製だったよ。今は、僕が生地を買ってきて、それを焼いているだけだがね」
「マサキさんって、独身なの?」
「いや、妻はいる。だが、少し前から、向こう側なんだ」
「ああ、それで……」
「うん。君は酒場で会った時に、通り鏡のことを話していたよね。あれは、どうしてなんだ?」
「通り鏡を信じている人なら、こういう不思議な現象を見ても、うろたえないだろうと思ったから。うちの場合は父だったわ。五年ぐらい前だったかしら。通り鏡に出会って、しばらく向こう側で生活していたの。二・三年したら、ちゃんと戻ってきたけどね」
「戻ってきた? こちら側へ戻ってくる方法があるのかい?」
「あるみたいね。父は、そのことについては、あまり話したがらないけど。アオツグミの渡りを観察していれば、こち側へ帰ってくる方法を見つけられるんじゃないかしら。奥さんは、向こう側へ行ってから、もう長いの?」
「二年になるね」マサキは、ミヤに語り始めた。「あれは、二年前の祝祭期間のことだ。あの日、妻は買い物の帰りに、奇妙な現象に出くわした。一本道で、道の向こうから、自分とそっくりの顔、そっくりの格好をした人物が近づいてくるのを目撃したんだ。妻が驚いて立ち止まると、相手も驚いた表情で立ち止まった。その時の距離は、もう、お互いに手を伸ばせば掌が触れそうなほどの近さだった。妻が『あなた誰?』と問いかけると、相手も同じように、『あなた誰?』と訊ね返してきた。手を振り上げると、向こうも同じ側の手を上げた。脇へよけようとすると、相手も同じ方向へ踏み出した。妻は気味が悪くなって、ついに、相手とぶつかるのを承知で、思い切って前へ踏み出した。――しかし、衝突は起こらなかった。ぶつかると思った瞬間、妻は相手の体をすり抜けていたんだ。振り返った時、もう相手の姿は消えていた。相手の背中を見ることになると思っていた彼女は、予想が外れて気抜けした。が、同時に、言いようのない不安に襲われて、大急ぎで自宅へ向かった。しかし、一本道を歩いていたにも関わらず、妻は、自分の家に辿りつくことができなかった。そこにあったのは、自分の住んでいる街とそっくりな――しかし、僕や友人達のいない別の世界だった――」
「父の時と同じだわ」と言って、ミヤは頷いた。「通り鏡は、祝祭期間になると、この街に現れる鏡の亡霊よ。街のあちこちを彷徨って、姿を映した者を、向こう側の世界へ送り込んでしまう。マサキさんの奥さんが見たのは、通り鏡に映った、奥さん自身の姿だったのね」
「そう。それ以来、僕の家の鏡に向こう側の世界が映るようになって、妻との会話は、その鏡を通してしかできなくなった。勿論、会話だけだ。触れ合うことなんてできない。当然、家事は全部僕ひとりの仕事になったよ。独身生活に逆戻りというわけだ。こんな話、誰にも相談できなくてね。通り鏡の噂は聞いていたけれど、ただの噂話だと思っていたし、身近に、そんな体験をした人間はいなかったから。だから、誰かに話して、異常者だと思われるのが恐かった。変な噂がたったら、工場をクビになるかもしれないし……」
「奥さんは向こう側へ行って、ショックを受けていた?」
「最初のうちはね。でも、すぐに慣れたみたいだよ。どこへ行こうと、生活しなければならないのは同じだし、逆境に対しては、昔から強いほうだったからね。最近は、向こう側に馴染み過ぎたのか、僕の前に、あんまり姿を現さなくなったよ。向こうで何か面白いことを見つけたか、好きな人でもできたのかもしれない。もう一週間も姿を見ていないんだ」
「……そう。でも、あんまり、悪いほうへ考えないほうがいいと思うわ。奥さんには、奥さんの事情があるんだろうし」
「だが、長過ぎると思わないか? 君は、お父さんが帰ってくるまでの数年間、長いと思わなかった? もう帰ってこないんじゃないかと心配になっただろう?」
「それは確かにそうだけど、こちら側と向こう側では、時間の流れ方が違うみたいだし、私達にはどうにもできないことだったから」
「――僕には、とてもそこまで割り切れない。そんなに強くはなれないよ」
「ねぇ、もしよかったら、一度、父と話をしてみない? 何か、参考になることが聞けるかもしれないわ」
「いいのかい?」
「いいわよ。それぐらいのこと。父が帰ってきたら相談してみるから、マサキさんの電話番号を教えてくれる?」
マサキは、ミヤに連絡先を教えた。それから二人は、鳥達を休ませるための時間を使って、少しだけ話をした。
マサキは、鏡工場の話や、祝祭期間にまつわる子供時代の思い出話をした。ミヤは、父親が万華鏡作りを趣味にしていることを話し、万華鏡の一種である、テレイドスコープというものをマサキに見せた。普通の万華鏡は、模様を作り出す「具」が筒の中に入っている。だが、テレイドスコープにはそれがない。代わりに、筒の先端に透明なアクリル球がついていて、そのアクリル球を通して物を見ることで、その場にあるどんなものでも、万華鏡の模様に変えてしまうことができるのだ。
野原へ行って花を見たり、これで人の顔を見ると面白いのだと言って、ミヤはマサキにそれを手渡した。マサキはテレイドスコープを使って、室内の壁紙や茶器を覗いてみた。三枚に組まれた鏡が作り出す万華鏡模様は、くるくると何度も姿を変え、見たことのない世界を筒の中に作り出した。万華鏡模様は、やはり、これぐらいの大きさで見るのが一番だと、マサキはつくづく思った。
夜が更けた頃、二人は、アオツグミの入った十二の籠を庭へ出し、一つづつ蓋を開いた。鳥は夜には目が見えないんじゃないのか?とマサキが問うと、ミヤは微笑みながら、夜、鳥目になるのは鶏だけよと答えた。
鳥達は、籠の蓋が開くと、声をたてずに飛んでゆくのが一番良いのだと知っているかのように、微かな羽音だけを残して次々と夜空へ飛び立った。まだ少しの青さもない焦げ茶色のツグミ達は、瞬く間に、闇夜の色に溶け込んで見えなくなった。
作業が終わって帰る時、ミヤはマサキに向かって、手伝ってくれてありがとう、と、もう一度言った。今度は、十二番街のほうでもよろしくね。
マサキは微笑を返し、ミヤの実家をあとにした。
祝祭期間に入った街は、夜中でも灯火が消えることはなかった。繁華街の側を通り抜けた時、抽選会で一等賞が出た時のような騒々しい鐘の音が、がらんがらんと響き渡った。同時に、どよめくような歓声が湧き起こり、酒瓶の栓が何個も飛んだような音が聞こえた。少し興味をひかれはしたが、マサキは足を止めずに自宅へ向かった。
マサキはふと、もしかしたら妻は今、アオツグミの幼鳥達のように、こちら側へ向かって旅をしているところなのではないだろうかと考えた。一週間前から姿が見えなくなっているのは、そのせいではないのか。祝祭期間の慣わしに合わせて、アオツグミの子供達と一緒に、こちら側へ渡ってくるための、長い長い、渡りの旅を始めたのではないのか。
だとすれば、今夜こそ自分は、妻と再会できるのだろうか。家へ帰ればそこに妻がいる。鏡に映った虚像ではなく、本物の妻が。お帰りなさいと言って、焼き菓子と料理を作ってくれる。祝祭期間の最中であればこそ、そんなことも起こり得るのではないか。
そう考えると、マサキの足は自然に早くなった。思い過ごしかもしれない。ただの妄想なのかもしれない。妻はまだ向こう側にいて、こちら側へ帰る気など全く持っていないのかもしれない。向こう側の生活を楽しんで、自分のことなど爪の先ほども考えていないのかもしれない。
だが、一度頭に浮かんでしまったからには、確かめずにはいられなかった。たとえ、そこに、失望以外の何物も待っていないのだとしても。
マサキはアパートへの道のりを急いだ。空想を信じ、妄想を信じ、石畳の上を飛ぶように走り始めた。
(了)
※万華鏡の構造と原理については、以下のサイトに、詳しい説明と画像があります。
ご参照下さい。