癖は本能時にあり

軽茶一かるちゃいち 成助なりすけ

ゼロ学的考察では現在は大運「未」の時代である

現在の「未」の時代は2010年に始まり2021年までがこれにあたる

大運とは十二支の時の移ろいにおいて12年さらにその12倍の144年周期の話


まず144年前の前回の未の時代に何があったかとゆうと 明治維新である

その144年前が享保の改革の頃であり

さらにその144年前がこの信長の時代

つまり未は変革の時代とゆうことだ


まず2010年の144×3年前とは1578年の天正6年

ここから天正18年までがこれにあたる

天正10年(1582年)が本能寺の変


かつて令洋先生から聞いた話で

信長が火王星

秀吉が水王星

家康が木王星 とゆうことで今まで納得していたのだが

ゼロ学データでもう一度確認すると それぞれ誕生日が正確とすれば

光秀 1528年3月10日生まれは 木星の子年 (木)

信長 1534年6月23日生まれは 土星の午年 (土)

秀吉 1537年3月17日生まれは 海王星の酉年(木)

家康 1543年1月31日生まれは 冥王星の卯年(火)

なのである


本能寺の変は1582年午年6月申月21日寅日午前6時卯の刻は間違いないので

信長にとっては再開年充実月※土星+の場合で火星+ならゼロ年

光秀にとっては決定年人気月ゼロ日!精算時刻!

秀吉にとっては生長年健康月※木星-の場合で水星-なら人気年

人はゼロ期に死ぬわけではないので別におかしくはないし 光秀にとってはこれでも良いが

各の性格についてはモシトツ面白くない


これはゼロ学が合わないのではなくて 生年月日がきっと間違っているのだ

令洋先生亡き今 確かめようがないが 彼を信じ 干支だけは正確とすると

光秀 子年 ?王星

信長 午年 火王星のゼロ

秀吉 酉年 水王星

家康 卯年 木王星のゼロ となる


そこで単年度における午年つまり 本能寺の変 1582年が

背信期の人は 火王星のマイナス

ゼロ期の人は 火王星のプラス ※信長

精算期の人は 月王星のマイナス

であるから 1528年子年生まれではなく

光秀は火王星の亥(1927年生まれ)

もしくは月王星の丑(1929年生まれ)ならどうだろう


信長の火行(火王星)にとって

午未は苦手で 申酉は興味があり 戌亥は無視で 子丑を目標に 寅卯を避けて 辰巳に安定する

光秀が亥年なら 信長からは健康相性 子年なら人気相性 丑年なら浮気相性だ

光秀が空行(月王星)なら

辰巳は苦手で 午未は興味があり 申酉は無視で 戌亥を目標に 子丑を避けて 寅卯に安定する

光秀が土行(土王星)なら

戌亥は苦手で 子丑は興味があり 寅卯は無視で 辰巳を目標に 午未を避けて 申酉に安定する


信長のゼロ王星は台風のようなもので周りは疲れる しかしぼくは光秀もゼロ王星とは思わない

なので火王星の午未や月王星の辰また土王星の亥ではない 亥年や丑年なら信長からは良い相性ではないが 信長は光秀を嫌っていない 怨恨説は正しくないのだ

信長が残虐的だとするのは江戸時代の新井白石の批判であって 明治になっては勤王家として神格化され 大戦後においても革新者として評価されている しかしまだ疑問な点は多い


大略 信長は光秀を本気でいじめていなかったと思う フロイスもゆうている 秀吉とNO2を争う位置であり信頼していたはずである 本能寺に討ち入られたとき相手が光秀とわかって 是非もなし と言ったのは何故かとゆうことだ もうひとつは 恨みを以って恩に報ずるの謂れ、ためし無きに非ず(惟任退治記) とゆうのもある ただこの書は秀吉の部下が本能時の数ヶ月あとに編纂したもので 秀吉の都合の良いように脚色されたと思われる


以下次回

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