癖は本能時にあり しょの3

軽茶一かるちゃいち 成助なりすけ

Dday 3日前 今日は旧暦では天正10年5月28日


この日 光秀は愛宕百韻を催した

愛宕百韻とは光秀が京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである

百韻は神前奉納されて写本記録も多く史料の信憑性も高いが 一方で連歌の解釈については異論が幾つかある


【発句】 ときは今 あめが下な(し)る五月哉 (光秀)

【脇句】 水上まさる庭の夏(松)山 (行祐)

【第三】 花落つる流れの末をせきとめて (紹巴)

【挙句】 国々はなほ長閑なる時 (光慶)


光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある 「時」を「土岐」「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている

あるいは「天が下知る」というのは朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある

また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は以仁王の挙兵 承久の乱 元弘の乱が起こった月であり いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから 平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる


しかし これらの連歌は奉納されており信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり 本意を知ればただでは置かないはずである)

また愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料が近年発見されたことから この時点では謀反の決断をしておらず謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている


この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら 発句だけでなく第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)

まず「水上まさる」というのは 光秀が源氏 信長が平氏であることを前提に考えれば「源氏がまさる」という意味になる 「庭」は古来、朝廷という意味でしばしば使われている 「まつ山」というのは 待望しているというときの常套句である したがって この第2句は源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある

橋場日月は『明智光秀 残虐と謀略』の中で 第23句の「葛の葉の みだるる露や 玉ならん」の葛の葉が「裏見=恨み=不平・不満」を表す言葉であることなどに注目し 信長との方針の違いが歌に込められていると解釈した

 ー wiki その他より


光秀は前日の愛宕権現で何度もおみくじを引いたように

もっと前から決意していると思われるので 当然この連歌に秘めた想いはあったはずだ

もちろん これも意図的に書き替えられたとゆう説もあり ご子孫の明智憲三郎氏も独自解釈を出している


以下次回



これにちなみ 連歌の催しをしました結果


連歌 一

【発句】歳も経て 涸れし涙も さつきまで(軽茶)

【脇句】憂きに耐えつつ 夏越しの祓い(三恵)

【第三】今や昔 春の足音 懐かしき(五茶)

【挙句】庭に興隆 七変化華(無茶)


連歌 二 (回文含む)

【発句】喫茶にて せっせと節制 手に皐月(軽茶・回文)

【脇句】紫手にし 偲ばん式部(五茶)

【第三】幼さを 愛(う)いと手回し 恥も何(な)も

【挙句】しばしは待てと 言う幼さを(※若紫を詠む回文)


連歌 三 (軽茶・自己完結例)

【発句】夢现(うつつ) ぶんぶぶんぶと 五月蚊の

【脇句】国盗り果取り 戦功菩提

【第三】五十路なる 憂ひの亀山 いま越えて

【挙句】合点のうちに 喰らふ幻

戻る