癖は本能時にあり しょの4
軽茶一 成助
Dday 2日前 旧暦では天正10年5月29日
光秀は弓鉄砲の矢玉の入った長持などの百個の荷物を運ぶ輜重隊を西国へ先発させた
信長は安土城を留守居衆と御番衆に託すと「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じて 供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し 同日 京での定宿であった本能寺に入った
※当時の本能寺は現在とは場所が異なり 東は西洞院大路 西は油小路通 南は四条坊門小路(現蛸薬師通) 北は六角通に囲まれた4町々(1町)の区画内にあって 東西約120メートル南北約120メートルという敷地に存在した
信長の誕生日について再考する
wikiで信長の誕生日は 天文3年5月12日(ユリウス暦1534年6月23日 グレゴリオ暦1534年7月3日)あるいは天文3年5月28日である
現在使われているのは太陽歴のグレゴリオ暦で江戸時代までの旧暦・太陽太陰暦と違う新暦である この違いは閏年の考え方だ
信長時代に京都で使われていたのは中国から伝わった宣明暦をもとにした京暦 関東では三嶋暦を使用していて 信長は天正3年に三嶋暦に統一するよう朝廷に申し入れるが却下される
ここで旧暦6月1日 部分日蝕が起こる 日蝕は為政者の威信が傷つくので御所を菰(こも)で包むのだが これを宣明暦では予測できなかったのである しかし信長は知っていた そして彼の主張通り日蝕が起こり シトびとは信長は魔王であると実感した そこでまた信長は三嶋暦への統一を持ち出すが それはかなわなかった
なぜならその翌日に本人が死んだからである
西暦は 信長の死後5ヶ月経ってようやくユリウス歴からグレゴリオ暦に切り替わる ずれがあるため1582年10月4日(木)まではユリウス暦を使い 翌日はグレゴリオ暦の1582年10月15日(金)となった(外国の話)
日本独自の暦は 貞享2年(1685年)に宣明暦から貞享暦に変わり さらに宝暦暦(1755年から使用)寛政暦(1798年から使用)天保暦(1844年から使用)と変る 日本で西暦(グレゴリオ歴)が採用されたのは明治5年である
信長が日本で最初にお誕生日会をやったとゆう話がある
フロイス『日本史』によると信長は天正7年5月11日?に安土城で自らを神とする儀式を行い 総見寺で信長の誕生日を祝祭日と定め 参詣する者には現世利益がかなうとしたとゆう
但しこの話の信憑性は薄い このときフロイスは安土周辺にいなかった
しかし 本能寺の変の日より19日前の天正10年5月12日 この日に「己の祝い」をしたので5月12日が誕生日とされているわけだ
とゆうのは 信長に何度も面会したイエズス会宣教師ルイス=フロイスは「信長の神をも恐れぬ態度は、神が彼の誕生日の後、19日以上生かしておく事を許さなかった」…と記しているからである 総見寺の功徳では『第三に、予の誕生日を聖日とし、当寺に参詣することを命ずる』とした
これが書かれたのがユリウス暦1582年6月19日 日本の宣明暦でいう6月2日 つまり本能寺の変当日である
そこでユリウス歴で考えるのはおかしいとゆうことでグレゴリオ暦で見ると
信長の満48歳の誕生日は 1582年7月3日
本能寺の変は 1582年7月1日 になるので
つまり太陽歴では満48歳の誕生日を迎える2日前に死去したことになり 太陽太陰暦の誕生日19日後ではなくなるのだが 実はこの理由は閏月のあるなしによるズレである
ちなみに太陰暦のばわい一ヶ月は28日か29日で 天文3年は1月のあとに閏1月があったが 天正10年は閏月がなかったのだ
そのためか? wikiではユリウス歴で書かれていて 本能寺の変もそうである
さて このデータだと信長の星は ユリウスでは土星 グレゴリオでは金星 になる 午年は同じ
また話がややこしなった^^
他には『改選諸家系譜』という江戸時代に編纂された織田系図によると 信長の誕生日は5月28日とされている
このばわいに
信長は火星なのであった