癖は本能時にあり しょの5
軽茶一 成助
Dday 前日 旧暦では天正10年6月1日
光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した
斎藤利三に命じて1万3,000人を勢ぞろいさせたのは 午後6時頃(酉の刻)のことであった
木星にとって酉の刻は人気時刻である(厳密には浮気時刻)
光秀は軍議を開き ここで初めて重臣達5名に謀反の計画を告げた 兵達は知らされなかった
亀山から西国への道は南の三草山を越えるのが当時は普通であったが 光秀は「老の山(老ノ坂)を上り 山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵に告げて軍を東に向かわせた
歴史はいごいた
さて 光秀はなぜ別心したのか
50以上もの説があるのでテキトーに検索していただくとして
福知山で行われた原因説50総選挙では
圧倒的1位は 暴君信長討伐説
2位は 秀吉黒幕説 ※秀吉実行犯説(5位) 秀吉家康光秀謀議説(11位)もある
3位は 怨恨説
少なくとも秀吉は黒幕ではなく光秀が何かしでかしそうだとゆう危機管理意識の強さによる即処と思われる また秀吉は後に自分の都合の良いように資料を書き換えている
野望説も怨恨説も違う ほとんどが後の時代の脚色ゴシップである
最近では四国説(長宗我部問題)が有力になっているが 複合説だとおもしろくない
ぼくの推論は 次回