続編 癖は本能時にあり しょの9

軽茶一かるちゃいち 成助なりすけ

さて お立ち会い

ときは 天正十年五月二十八日 (ぱしっ


舞台は連歌会の席にあい戻る


ときは今 雨が下しる 五月哉 (光秀)


とゆう発句は 

(とき)土岐氏である自分が (あめが下)天下を (しる)統べる 季節の五月になった

と読める謀反の句だとゆうのは のちの秀吉による惟任退治記の意図的すり替えであって


ときは今 雨が下なる 五月哉


とゆう単なる季節の句であったはずなのだ


しかも 歌会が五月であることで 六月の謀反の日とそぐわない点を ぎりぎりの二十八日にまで日にちすら改竄している


これは実際には歌会が二十四日ではないかとの説があり

当日の天気が 二十八日は晴れで 雨は二十四日だったとゆうことだ

この日であれば 光秀が土岐氏の苦境を愛宕山の雨の風情として詠んだだけとなる


しかし愛宕百韻は戦勝祈願の催しであり これは一見些細なことのようだが 神前に奉納もされているわけでいい加減な祈願ではないのだ


そこで次の句

水上まさる 庭の夏山

花落る 池のながれを せきとめて


これもこのように書き換えられた

水上まさる 庭のまつ山

花落つる 流れの末を せきとめて


最初の方が正しいとするのは 脇句は発句と同じ季を詠むとの連歌のルールによる

そしてわざわざ脇句と第三も書き換えられたのは 謀反共謀の詮議が及ばないようにとの配慮であるらしい しかしこれも


【挙句】国々は猶のどかなるとき (光秀嫡男光慶)


ときに始まり ときに終わる

まさに土岐一族の苦境から安寧への祈願である


光秀はここに謀反とゆうよりは長く続く乱世を終わらせたいとゆう想いがあったのだ が


以下次回

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