TVプロデューサーの御手洗は、ある日自宅の敷地に侵入してきた喋る牛に驚く。突如、牛たちが人間並みの知性を獲得したのだ。これは、視聴率が取れると思った御手洗は、「我々を食べるな」と訴える牛を担当番組に出演させる。世論は動き、やがて「牛権法」が制定されるが……。第3回日本SF新人賞受賞作。
指を差して強く念じれば、その対象を殺すことができる――大学生の路子は、そんな不思議な能力を持っていた。二十歳の誕生日目前、胸に秘めた「決意」を実行に移さんとする彼女は、急病に倒れた瀕死の母親を見て、やり場のない怒りを抱くこととなる。「この女を殺すのは私。病気で死ぬなんて、絶対に許さない……」父親と共に看病に没頭する日々が始まった。真摯な医師鷺森、難病の少女彩乃らとの交流は、愛情薄い両親への復讐心に凝り固まった路子の心を解すことができるのか……?
町内のママ友コミュニティから何故か反感をかった亜矢子は、陰湿な仕打ちを受けるようになった。コミュニティ唯一の独身女性時恵や旧友志穂を心の支えとしつつも、無関心な夫、育児疲れもあいまって、亜矢子は追い詰められ、幸せな日常から転落していく。その破滅の裏側には、思いも寄らない「悪意」が存在していた……。
「女が舞台に上がることなど、許せん! ましてや少女歌劇とは!」名門“響ヶ丘歌劇団”撲滅をたくらむ、男だけの謎の組織。その名も“征服座”。そんな、こわーい秘密結社があるとも知らず、ひょんなことから劇団の危機を勝手に嗅ぎ取った響ヶ丘音楽学校の新入生3人は、とにかく立ち上がった。でも、ご安心。3人の熱い決意の前には、どんな陰謀も粉砕される、きっと、されるはずである。
インキオス・イエローは大量の再生紙の中で起動した。ブラック、シアン、マゼンタはどこだ? 廃棄物として記憶を取り戻すインキオス・イエローはシュモクザメのようなキレハムシに出会う。ここで朽ち果てるのか? この小宇宙からの脱出と新たな旅立ちは可能なのか?
ダガーマンは、商品タグの九十九神だ。屑篭を出て、広い世界への旅に出るのだ。体に付いたままのタグには何か特別な役割があるはずだった。ダガーマンの冒険は今始まったところだ。
電子出版関連と“日本SF新人賞と小松左京賞の出身者で構成される『NEO ─Next Entertainment Order─』(次世代娯楽騎士団)”からの流れもあり、今回はぜひ井上先生にお話をうかがいたいと思いまして、インタビューをお願いすることになりました。どうぞよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
井上先生は第三回日本SF新人賞受賞作『マーブル騒動記』でプロデビューされたそうですが、同賞受賞時の謝辞で“SF作家になるのが夢だったが、受験・就職・結婚・父親業に追われて破天荒も気宇壮大も非日常性も、すっかり色褪せてしまった(要約)”とおっしゃられていましたが、SFを読むのもお留守になられていたのでしょうか。
もう15年も前のことなので謝辞の内容も忘れてしまいましたが、ちょっと確認を。おお、確かにそう言ってますね。
そうですね、高校生ぐらいまではSF作家になるのが夢だと公言していましたが、大学に入ったぐらいからは、SFはめっきり読まなくなりました。読んでいたのは「広義のミステリ」が多かったと思います。そもそも、読書量じたいが激減していました。
小学生の時からノートに小説(のようなもの)を書くのが趣味でしたが、それも同じ頃からすっかりやらなくなりました。
私も子育て期間中は読書量そのものが激減してました(汗;)
ということは、大森望先生(61早生まれ)とか藤田雅矢先生(61年生)、小浜徹也先生とかの活動が活発だった京大SF研との接点は無かったんですね。
はい、まったくありませんでした。そもそも、私は64年生まれで、しかも勉強が大好きで大学に入る前に2年ほど勉強してましたので(笑)、諸先生方とは在学期間も重なっていないと思います。
学生時代はアマチュアバンドと混声合唱団に勤しんでいましたね。どちらも今でも細々と続けています。
おぉ、私はもっぱら聴くだけなので、音楽出来る方は羨ましいです。
高校生くらいまでは、どういった作品(小説・マンガ・映像)がお好きだったのでしょうか?
ご多分に漏れず、『宇宙戦艦ヤマト』でSF、あるいはアニメにハマった口でした。小学生の時ですね。中学に入ると『月刊OUT』や『月刊アニメージュ』を毎月購入するなど、すっかりアニメオタク(という語は当時まだありませんでしたが)になりました。
並行して、先ほど申しました「ノートに小説を書く」のも、SFっぽいものが中心になっていきました。ただ、小説を「読む」ようになったのは高校の頃からで、何がきっかけだったのかは覚えていませんが、筒井康隆先生やかんべむさし先生の著作を好んで読んでいました。
アニメ雑誌にちょっと世代差が(汗;)
筒井康隆先生やかんべむさし先生は私も大好きであります。
通信サービス業が本職とのことですが、TV関係のお仕事にもお詳しいのでしょか。
『マーブル騒動記』のまさにありそうな仕事ぶりと、本当に居そうなプロデューサー像にはニヤリとさせていただきました。前号の著者インタビューの森下一仁先生は作家になられる前は地方局勤務だったとのことなので、こちらは本職ですが。
テレビ局については何の予備知識もありませんでした。番組そのものは実際にテレビで観て参考にすればよいのですが、それ以外のことはさっぱり。ですので、局の内情みたいな部分はすべて書物を参考にしました。
刊行後、実際にテレビ局の方とお話しする機会があったのですが、「よく書けてますよ」と言われたので、安心しました。ま、お世辞かもしれませんが。
面白く感じたわけだ、業界の方からもお墨付きが出てたんですね。
実は『マーブル騒動記』が出た当時、ぜひうかがいたいと思っていたことがあるんですよ。この題名は受賞に際して「さらば牛肉」を改題されたとうかがって、それは何故なのかと想像したんです。
作中の説明で初めて知ったのですが“マーブル”って、さしの入ったいわゆる“霜降り(肉)”のことなんですね。それと黒毛和牛に代表される肉牛だけが知性化し、乳牛などは知性を獲得しなかったと。となると、これはマーブルの所以たる脂肪部分に秘密があるのではないかと推測できます。水棲とか極寒地に生息するほ乳類は別として、自然状態では陸上に住むほ乳類が霜降り状態になるほど脂肪分の比率が高くなることはないですよね、一部の人間と和牛以外は。ここに知性化の秘密があるのではないかと。
あと、人間と和牛間のテレパシーは、牛肉に含まれた脂肪分が人間に取り込まれて、何らかの相互作用を起こしたためではないかと想像できます。プリオンが原因となって、BSEが人のクロイツフェルト=ヤコブ病を起こすように。
あの改題はタイヘンだったんです。最終選考会が終わって、徳間書店さんから受賞連絡があったのが午後3時半ごろで、その電話で「報道発表するので、午後5時までに別のタイトルを考えてください」って。これしかない、と自信を持ってつけたタイトルでしたから、もう脳内大パニックです。
平日だったので当然会社で勤務中だったんですが、もう仕事そっちのけで知恵を絞るとともに、物書き仲間一同に「何か考えてくれ!」とメールを書きまくりました。何とか5時過ぎには改題を報告できましたが、あんなに頭を使ったのは後にも先にもあの時だけですね。
牛が知能化した理由とかテレパシーが使える理由とかは、すみません、何の理屈も考えてませんでした。お読みになった方が自由に想像していただくのは嬉しいことですが、作品の主眼はそこにはなかったので。
ありゃま、全くの見当外れでありましたか(汗;) しかし、改題にもそんなドラマがあったんですね。すみません、よく出来た作品を読むとあれこれ妄想するのが癖なので(汗;)
妄想ついでに書いておきますが、モー太郎の考えは他の牛の考えと同じであるということから自己保存本能とか死生観が人間とは少し異なり、知性化した牛の個体数を増やすために自ら主導して霜降り肉を輸出し海外に広め、また海外でも和牛のような育て方をおこない、日本以外でも念波が使える牛の発生を促す計画を立てていたとか(笑)
脱線してすみません、続けます。
日本SF新人賞の最終選考会の様子を読んでみると、皆さん『マーブル騒動記』を高く評価されているんですが、ラストにはちょっと不満があるみたいで、故小松左京先生は「ウシ科ウシの総てが知性を獲得するとかスケールの大きい物語を期待していた。インドやテキサスだったらどうだっただろうという視点があってもいいと思った。」と書いてあって、期待の大きさがうかがえました。
小松先生のご指摘というかアイデアは、さすがスケールの大きな傑作長編を何本も書かれた先生ならでは、と感じました。自分にはそこまでの巨大な構想力はありません。また、もしそんなスケールの大きな話にしたら、最後にどう収束させればよいのか、途方に暮れたと思います。収束させず、発散させたままで結了させるという手法もありますが、不得手なんですね。予定調和と言われようが、最後はきれいに終わらせたかったんです。
哲学的な命題とエンターテイメント性のバランスがほどよく取れていて面白く読ませていただきました。なんでこの作品は電子化されてないんでしょう。今回アマゾンにはリクエスト希望入れました。あとがきで、“「人間を食う知的生命がいたらどうなるか」を「人間が知的生命体を食うとしたらどうなるか」へと逆転させた”と書かれていたので、そこから生じる展開が主題なのでしょうか?
発端はそのとおりです。最初に考えついたのは、牛権法制定にまつわるドタバタ劇の短篇でした。まさしく、筒井先生やかんべ先生のテイストですね。作中、テレビ番組で牛と政治家が対決する場面や国会審議の場面が妙にコメディタッチなのはその名残です。
確か短篇のラストは、牛権法が成立したのはいいが、今度は牛が食べる牧草が知能化してチャンチャン、というのを想定していました。いま気づいたんですが、小松先生のアイデアの方向性に近かったかもしれません。
短篇なので、きれいに結了せず「この先いったいどうなるんだろう?」という投げっぱなしのエンディングでも違和感がなかったのだと思います。
作中でも書かれてましたが、“牛と人間の間に何か新しい地平が開拓できていたら、もっと数多くの知的生物が誕生していたのではないか”とあったので、「その展開読みたいぞ〜」と思ったのですが、牧草が知性化するアイデアもあったんですね。植物も知性化するとなると小松先生の手にもあまるかもしれません(笑)
ところが、牛や畜産について勉強するために、農林水産省の研究所にお勤めの研究者の方にお願いしてメールをやり取りする中で、その研究者の方が、次のようなことをおっしゃったのです。
「この仕事をしていると、動物愛護団体の人から非難されたり攻撃されたりすることがある。けれど、動物がどう感じているか、何を考えているか、どうして分かるだろう? 自分たちの運動が動物たちのためになっているとどうして疑いもなく信じられるのだろう? 人間どうしでさえも分かり合えるとは限らないのに」
それを読んだ時、「牛の知能化による社会的な大事件と、『互いに分かり合えないからこそ尊重し合わなければならない』というテーマの物語を並行させる」という長篇の骨格が、ほとんど一瞬のうちにできあがりました。
社会的な大事件を描くためには、主人公はその当事者として事件の渦中に身を置く必要があります。必然的にテレビ業界の人間ということになりました。
そこから自然に、功名心が強い自分勝手な男が妻を一人の人間として認め尊重するようになるまでのプロットが導き出されたという次第です。
なるほど。御手洗と妻とのエピソードが、「マーブル騒動」とシンクロしているように感じたのはそういう理由付けがあったんですね。
また最終選考会に戻りますが、“「作品が提示している哲学的命題の解答が提示されていない」「モー太郎はそれを語ったはずだが主人公が眠ってしまって聞いていないことになっている」「それを加筆するという条件で新人賞に推す」”とかの意見もあったようですが……。
はい、加筆しました。というか、もともと書いてあったのを、SF新人賞へ応募する際に削除したんです。それを元に戻しただけ(笑)。
具体的には、「牛の知能化は、異なる種の知性と邂逅させることによって、人類が招来するであろう未来の滅亡を回避させるために、自然の摂理が行った実験だった。が、失敗した」というような内容の部分です。
でも、最終盤で読み手はおそらく「これはお涙頂戴のラストだな」と予測してくると思うので、もうここまで来たら小難しい理屈みたいなのは極力排除してうまく泣かせることに徹したほうが娯楽小説としては適切だろう、と考えて、応募直前に削除しました。
主人公が眠ってしまって聞いてない、というのは、モー太郎にはまだ言いたいことがあったのにとうとう伝えられなかった、という物悲しさを演出するためのシークエンスです。
その演出は読んでみてすごくわかるんですけど、SF者としては最終選考会での哲学的命題が云々という要求も凄くわかるので困ります(笑)
哲学的命題というと、二作目の『死なないで』は、誰にも等しく訪れる“死”がテーマですよね。指を向けて念ずるだけで死をもたらすことが出来る能力を持った女の子の揺れる心を描いていて、いったいこの先どうなるんだろうという興味と死そのものを考える哲学性に惹かれて一気に読めました。
指を向けるだけで相手に死をもたらすことが出来る能力のことを打ち明けた医師に「それは大した力ではない、そんな能力が無くても人を殺す方法はそれこそごまんとある」と言われるシーンには、なるほどなぁと思いました。主人公のよすがとなっているこの能力を軽く扱うことによってラストの展開が生きてきている印象を受けました。
(中田秀夫映画監督(地元出身にして中高の後輩)の『MONSTERZ モンスターズ』なんかは派手な演出・展開で、超能力を出すとなるとこういう風なのが主流(笑))
『死なないで』は、SFのジャンルで言えば「超能力もの」なんでしょうけど、SF好きな人は「なんだこのショボい超能力は?」と落胆されたのではないでしょうか(笑)。
主人公も割と普通で共感しやすいし、生活というか物語も淡々と進行するしで、ショボい超能力との親和性は高い(笑)し、リーダビリティは高くて良かったです。
あの能力の利点は、「人を殺してもバレない」という点にあるのであって、能力そのものはショボいんですよね。そして主人公は、両親を殺して自分も死ぬつもりだと言っているのですから、バレようがバレまいが関係ないわけです。包丁でも握ってさっさと実行すればよいのであって、そもそもあの能力を使う必要がない。でも、彼女は今までそうしなかった。もし能力がなければ、おそらく両親を殺そうという発想も持たなかったんだろうと思います。
彼女は、あの能力を持ったがために、「自分はいつでも人を簡単に殺せる」と舞い上がってるんですね。だから人の生死を軽んじていた。それが、自分が危うく殺されそうになったり、母親や女の子が病気で亡くなるのを見たりすることによって、人の生死の重みを実感し、自分の能力にさしたる価値がないことを知っていくわけですね。だから「能力を軽く扱う」というご指摘は、まさにおっしゃる通りです。簡単に言ってしまうと、「主人公の中二病が治るお話」なんですよ(笑)。
凄く納得(笑)>「主人公の中二病が治るお話」
私は電子版で『死なないで』を読ませていただいたのですが、作中では主人公の超能力が本当にあるかどうかははっきりと書かれていませんよね。偶然として片付けられてもおかしくないような感じで。
はい、意図的にそう書いています。最終的には主人公も「能力の有無など些末なことだ」という結論に達しているので。
ただ、最初に四六判の単行本で出していただいた際には、少なくとも書き手としては「能力は存在している」という前提に立っています。でも、10年ほど経って文庫にしていただいた際には少し改稿して、書き手としても「どちらとも言えない」というスタンスに変更しました。
両方の版を読まれた方(滅多にいらっしゃらないでしょうが……)はお気づきかと思いますが、文庫版では、主人公が医師の目の前で能力を実際に行使する場面を削っているんですね。行使する対象が対象だけに「あれはちょっと酷いよねぇ」という編集部の見解もあったのですが、SF的な要素を薄めることでSFにあまり関心のない読者層が受け入れられやすい作品にする、という方針もあったのだと思います。
その関係でしょうか、単行本の時は帯とか表紙袖の惹句に主人公の超能力について触れていますが、文庫の時はいっさい触れていません。
SF色を薄めるというのはSF者としては切ない話なんですけど、結果良かったような気がします。ネットの感想などを読んでみると、一般読者の評価の方が高い感じを受けましたから。
ところで、『死なないで』(徳間)『響ヶ丘ラジカルシスターズ』(ソノラマ)『悪意のクイーン』(徳間)と、主人公が女性なのですが、これは女性が主人公の方が書きやすいとかでしょうか? それとも出版社側からの要請なのでしょうか。
中学高校と男子高出身で、女性というものに多大なる憧憬を抱いていたので、その頃から男を書くより女を書く方が楽しかったんです。たぶんその名残でしょう……と回答しようとして、今あらためて自分が書いてきたものを思い返してみると、趣味でノートに小説を書いていた時期から新人賞応募時代を経てデビューに至るまで、別に女性主人公偏重というわけではなかったことに気づきました。ですから、結果的にそうなっただけで、強いて意図しているわけではありません。
なるほど。若い女性の心の動きを上手く書かれているなあと感じたので、男子校出身とは意外です。私なんかいまだに女性心理はわかりかねるところがあるのですが、女性の方からの助言は受けられたのでしょうか。
いえ、一度も(笑)。今のところ、「こんな考え方や行動をする女性は現実にはいませんよ」という忠告を受けたことはないので、何とかそれなりには書けているのではないかと。
現実に居そうな感じで怖かったです、『悪意のクイーン』のママ友たち。
えーっと、『死なないで』の時は、「受賞後第一作どうしますか」と徳間さんに問われて、三本の企画を提出したのですが、「これでいきましょう」とチョイスされたのがあれだったんです。自分にとっての本命は、『マーブル騒動記』とよく似た方向性の「社会的な大問題+人間関係の再生」というネタだったんですが、これは男性主人公でした。
『響ヶ丘ラジカルシスターズ』の時も、三本の企画を提出したのですが、ソノラマさんがチョイスしたのがあれだったんです。
両方とも三本の企画を出されて編集部の意向で決まったんですね。
本命・対抗・穴、という取り合わせのつもりなんです。『死なないで』は対抗で、『響ヶ丘』は穴でした。考えてみたら本命が採用されたことが一度もない(泣)。
『悪意のクイーン』は、「イヤミス(イヤな読後感のミステリ小説)を書いてください」という依頼で、参考にしようと思って人気のあるイヤミスを何点か読んでみたらたいがい女性主人公だったので、じゃあ自分もそうしようか、と。
(笑)>人気のあるイヤミスを何点か読んでみたらたいがい女性主人公だった
湊かなえ先生みたいというと少し語弊があるんですが、面白かったです。嫌な後味は、牧野修先生のホラーで耐性が付いているんで大丈夫なんです(汗;)
『死なないで』と『悪意のクイーン』は、電子書籍で簡単に読めますしお薦めですね。あと電子書籍というと、『アレ! Vol.18 日本SF作家クラブ50周年記念小説特集』掲載の「8分20秒」は少年の超能力を扱った、ほのぼのしているんだけどちょっと怖い短編で、『SF宝石2 電子特別版』掲載の「生き地獄」はテレパシーを扱っている怖くて嫌な短編でした。ひょっとして嫌な読後感の小説を書くのはお得意なのでしょうか?
自分としては圧倒的に「イイ話」のほうが好きだし、得意だと思っています。ですので、徳間書店の編集の方から「イヤミスを書きませんか?」と言われた時は戸惑いました。どうして自分に? マジですか? という感じです。でもせっかくのお仕事をお断りするわけにはいかないので、二つ返事で「書きます!」って。
その後、作品の方向性などについて説明を受けて、どうやらマジらしいと確証を持ててから、恐るおそる「念のため確認ですが、井上はイイ話のほうが得意だ、というのはご承知いただいてますよね?」と尋ねると、「存じてますよ。でも、イイ話とイヤな話というのは表裏一体みたいなものですから、何とか書けるんじゃないかと思いまして(笑)」って。
ご指摘のように、ここのところイヤな短篇を書いているところを見ると、徳間さんの見立ては正しかったのかも知れませんね。
「SF Prologue Wave」に掲載されている井上先生作のショートショートは、「方舟」「革命」「消滅」「電話」「縁日」「悪魔」「抱擁」(+コラム「よこはま・たそがれ」)とあるのですが、ダークなものやブラックなもの、ブラウン氏を思わせる落ちのもの、ティプトリー女史を思い起こさせるモノなどバラエティに富んでますね。イヤな落ちのショートショートは、「電話」だけかな。でも、イヤな落ちの方がインパクトありますよね(笑)
「革命」は「北海道ネタ」という特集への寄稿だったのでちょっと別なんですが、他のショートショートは全て「原稿用紙ジャスト2枚」という縛りを自分に課して書いたものです。思いついたネタをどうにかして限られた長さに落とし込もうとして工夫したことで、結果としてそれぞれ毛色が異なったものになったのだと思います。
それはそれで面白かったのですが、その縛りはさすがにキツくて、あれ以上続けられませんでした(泣)。
そんな縛りがあったとは気がついてませんでした(汗;)
《九十九神曼荼羅シリーズ》は「道を開く」と「貌を描く」の二作だけなんですが、このシリーズの全体の構想はあるのでしょうか。
あのシリーズは、参加メンバーがたくさんのイラストの中から自分の気に入ったものを選んでそれをモチーフに短篇を書く、というのが発端でした。自分が選んだイラストのうち2点がたまたまプリンタ関連だったので、ダブル主人公で書けるな、と。
二作目の際に、「前作の主人公と新しい主人公が絡んで、展開を次々にバトンタッチしていく」という構想を思いついたのですが、すみません、そこで息切れしてしまったので、あの続きはないのです(泣)
それは残念です。
みんな読んで売り上げを伸ばして、続編の依頼が来るように頑張りましょう!
出力側とマシン本体とパーツ、それにインターフェイスと広げていって、やはり最後は全員で世界征服を(笑)
最後に、執筆中の小説、または現在あたためているアイデアとか企画がございましたら、可能な範囲でお教え下さい。
『悪意のクイーン』が少し売り上げが良かったのでそれと似たテイストで、と徳間書店さんから指示をもらって、企画はOKをもらったのですが、その後、公私ともにいろいろありまして、まだ書き上げられていません。ごめんなさい。ってここで謝ってどうする。
あと、やっぱり「イイ話」のほうが得意なので、『死なないで』に近いテイストの題材をいくつか抱いています。他には、採用されなかった「本命」とか(笑)、近未来ディストピアもの(ただし変化球)が2題ほど、ちょっと説明に苦慮するようなユーモア連作等々、営業に行きたいネタはあるにはあるのですが、それもこれも仕掛かりになっている今のお仕事を書き終えて、採用していただけるかボツになるか、きちんと決着がついてからの話ですね。はい。
それは色々と楽しみです。個人的には笑いの中に本質をついたユーモアSFを書いていただきたいところではありますが、イヤミスの手際もお見事だったので、そっち系も読みたい気持ちもあります(笑)
今回は色々とお忙しいところインタビューに応じていただきありがとうございました。
新刊、お待ちしております。