父が託した二つの遺物、それが全ての始まりだった。偽史と小説、大国・伍州で生まれ、その奇抜を極めた内容から遠古より虚構とされてきた二書には、伝説の国、壙(こう)と臷南(じなん)を巡る、ある“悲劇”が記されていた。数奇なる運命のもと、時代・国を超えて読み解かれていった物語の結末とは。そして、書に導かれるごとく、約束の地を訪れた“私”が目撃した光景とは――。二つの虚構が交わる時、世界の果てに絢爛たる真実が顕れる。5000と70年の時を繋ぐ、空前絶後のボーイ・ミーツ・ガール。
大規模な温暖化と海底の地殻変動が組み合わさった結果、地球の表面は海で覆い尽くされていた。その空を四億羽の鳥の群れが飛び続けていた。彼らは羽を休める陸地が無いため一生空を飛び続けなければならないのだ。
人間とハクセキレイの遺伝子交雑により生まれた人に近い知性を持つ鳥たち。一羽一羽が脳細胞だとしたら、鳥のさえずりが神経間の伝達を司る集団知性なのだ。
遺伝子の均一化を防ぎ劣性遺伝子が出現しないように、彼らは一年に一度、ツメナガセキレイの集団との逢瀬を重ねるのだった。
今月の著者インタビューは、『約束の果て 黒と紫の国』で、第3回日本ファンタジーノベル大賞(2019)を受賞された高丘哲次先生です。
高丘先生初めまして。日本ファンタジーノベル大賞受賞おめでとうございます。よろしくお願いします。
ありがとうございます。伝統あるアニマ・ソラリスの著者インタビューを、ゲンロンSF創作講座生がなかばジャックしている状態ですが、大丈夫でしょうか。SFファンのみなさまが怒っていないか心配です。よろしくお願いいたします。
2018年に日本ファンタジーノベル大賞に応募するまで、本格的に公募文学賞に応募したことはありません。厳密に言えば、大学院に通っていたころ筆のすさびに書いていた掌編小説を何本かあつめ、純文学の賞に送ったことがありました。十数年も前のことで、もはやどの雑誌だったかも定かではありませんが、一次も通らなかったことは間違いありません。
そのときの掌編小説は、長くて10枚くらいだったと思います。SF創作講座に通うまで、短編の一本すら仕上げることができないレベルでした。
ゲンロンSF創作講座は有力ですねえ。
2018年の応募作「人の身には過ぎたる願い」はどういった作品だったのでしょうか。
ロシアを彷彿とさせる架空の国で、人類史上最大の聖堂が造られるという物語でした。この小説については、創作講座が終了してから着手したので、二ヶ月弱で仕上げました。選考委員の先生にもご指摘いただいたのですが、オチが弱かったですね。正直に言えば、時間切れで提出したようなかたちになり、夢オチのようなラストにしてしまいました。
ラストシーンが思いついたのは、投稿してしばらく経ってからのことです。今でも、その瞬間のことは忘れられません。小田急線に乗っていたときのことなのですが「なぜ、もう少しねばって書けなかったのだ」という思いがこみ上げてきて、泣いてしまいました。はたから見れば、完全に不審人物だったと思います。
「人の身には過ぎたる願い」についても、いずれご覧いただけるかたちにできればと思っています。
新しいラストの「人の身には過ぎたる願い」、楽しみにお待ちします。
日本ファンタジーノベル大賞を受賞されて、なにか生活上で変化したことはおありでしょうか。
またSF創作講座の話になってしまいますが、まじめに受講すると1ヶ月に1本のペースで短編小説を仕上げなければならず、かなり厳しいスケジュールでした。もちろん提出をサボってもOKなので、本人のやる気次第でたいへんさは変わってくるのですが。いま数えてみたのですが、私は全10回の課題のうち7本提出していました。
講座のなかで、編集者の方が「このSF創作講座のペースに慣れれば、プロになっても大丈夫です」とおっしゃっていたのですが、これは完全にリップサービスでしたね。デビュー後の方が5倍ほどきついです。
仕事と子育て以外の時間は、全て執筆に費やしています。(と言いつつ、高丘が手にするスマホには、スキルが最大値まで育成されたサーヴァントが並ぶ「FGO」の画面が表示されていた。)
資料以外の本を手に取るための時間がなく、小説を読むペースが落ちたことがつらいところです。
うちでは、長男が「FGO SEIKO オリジナルサーヴァントウォッチ」ってのを着けてます。私はせいぜい、バルタン星人の免許証入れとか科特隊仕様の財布とか(汗;)
「FGO SEIKO オリジナルサーヴァントウォッチ」、つい検索してしまいました。誰のモデルなのでしょうね。気になります……。
スカサハモデルみたいです。キャラと時計のデザインが好みだったからだそうで。
ちなみに次男もFGOやってます。
FGOは売上が減少しているとはいえ、昨年も700億円以上を稼ぎ出しているコンテンツです。これは文芸書全体の売上と、ほぼ等しい金額になるようです。FGOも広い意味で「読書」体験を商品化しているわけで、いろいろと考えさせられる数字ですね。文芸書が持つコンテンツとしての潜在力は非常に大きいと思いますので、収益化の方法についても可能性が広がってゆけば良いなと。
私はかけだしの作家ですので、目の前の執筆に集中したいと思っていますが。
ええ~っ、そんなに大きい金額なんですか(驚!) ゲーム業界おそるべし。
しかし、そんなに忙しくなるんですね。>デビュー後の方が5倍ほどきついです。
それに子育ても加わるとなると確かに大変そうですね。
まあそれはそれで、嬉しい忙しさに分類されるのではないかと(笑)
今は、仕事と子育てと執筆に追われており、体力的には厳しいのですが充実しています。締め切りが近くなると精神的に余裕が無くなるので、妻には負担をかけてしまっているのですが。
おっと、ということは「波」に掲載されたエッセイに書かれていた奥様のご病気はいかがなのでしょうか。
おかげさまで、健康に過ごしています。エッセイのような出来事があった直後に長女を授かったのですが、妊娠期間中に検査をしたところ、腫瘍のようなものは消えていました。医師から聞いたところによると、妊娠の過程で吸収されることもあるようです。本当に幸運でした。
それはほんとうに良かったですね。どうしても悪い方向を想像しちゃいますし。
「円の終端」(「小説新潮(2020/06)」掲載)も読ませて頂きました。これも壮大で悲しくて、でもラストでカタルシスを得ることが出来たので良かったです。
生物学的なネタが大元にあり、変形ボーイ・ミーツ・ガールと言えなくもないということで、『約束の果て 黒と紫の国』との近似性も感じました。ひょっとして生物学にもお詳しいのでしょうか?
「円の終端」もお手にとっていただき、ありがとうございます。自分の短編のなかでは、いちばんよく書けていると思います。
大学・大学院の専攻は近代日本文学でしたので、生物学についてはまったく知識がありません。小説内で必要となる情報については、書きながら仕入れている状態です。最近は、新型コロナウィルスの影響で外出が気軽にできないことと、時間的な制約もあり、書店で購入可能な書籍については片っ端から自腹を切っています。
妻には「次作がヒットすれば、何倍にもなって帰ってくるから大丈夫」と言い聞かせていますが、内心かなり不安です。次作はまだ執筆中ですが(内容は秘密)、世に出た際にはなにとぞよろしくお願いいたします。
次作、楽しみにお待ちします。
ひとつ「円の終端」についてうかがいたいのですが、遺伝子操作されたのが、南極から北極圏まで渡りをするというキョクアジサシではなくて、なぜハクセキレイとツメナガセキレイなのでしょうか。
私の場合、全体のストーリーが最初に思いつき、そこから細部を固めてゆくことが多いです。鳥の種については、物語の必要上から決めました。あまり説明すると野暮になるかもしれませんが、①分布域が異なっている ②近似種である ③外見(色)が対照的である、などの条件を満たしているのがこの2種だったということです。
なるほどありがとうございます。高丘先生の物語の中で一番SF的な設定と展開をみせる作品だと思うので、広くSFファンの皆様にもお勧めできると思います。
「別冊文藝春秋」(2020/07)のインタビュー記事も拝見しました。
大好きな、第一回日本ファンタジーノベル大賞の『後宮小説』(1989, 酒見賢一著)に対抗しようと書かれたそうですが、どういうところがお好きだったのでしょうか。
わたしの本の読み方ですが、たくさんの種類を手に取るというより、同じものを繰り返し読むことが多いのです。ちなみに、これは『ノルウェイの森』の主人公であるワタナベトオルくんからの影響だと思います。『後宮小説』も、ボロボロになるまで読んだ一冊ですが、どこが好きなのか考えたことがありませんでした。
(長考)
端的に言うなら、箱庭的な物語と壮大な物語が同居しているところでしょうか。
『後宮小説』読み返してみました。箱庭的なところは「後宮内」でのパートかな。
壮大なほうは、幻影達の乱(渾沌の役)。
短くまとめるのが難しいのですが、カクートの内側で育まれた哲学と小説内で流れる歴史が呼応していたり、銀河の人間的な成長が乾朝の建国に繋がっていたりと、小説のいたるところでミクロコスモスとマクロコスモスの対比のようなものが見られるということです。後宮のシステムだけでなく、『後宮小説』という物語自体が妊娠〜出産のメタファーとして読めるのではないでしょうか。
と書きましたが、そんなことを考えながら小説を読んでいるわけでもないです。「なんとなく面白い」というのが、実感に近いです。
波長が合うのかも知れませんね。
「『後宮小説』という物語自体が妊娠〜出産のメタファー」には全く気がついてませんでした。確かにそういう面もありそう。
『後宮小説』も『約束の果て 黒と紫の国』も、架空の書籍に依拠した記述法で、その後的な章があるところも似てますね。もちろん意識してのことなんでしょうけど。
改稿されたという枠物語の効果と現代パートの語りについても、冒頭のシーンとラストのシーンが呼応していて、冒頭の“私たちが歩んだ道のりは、わずか5メートルを埋めるためだった。たったそれだけのために、五千と七十年の月日が過ぎた。”の本当の意味が理解出来て感涙モノでした。
『約束の果て 黒と紫の国』では、“螞九”と“瑤花”の出会いと螞九の成長に弓道が大きく関わっているのですが、弓道をされていたことがあるのでしょうか。私は大学の選択科目で弓道を選んだので二年間やりましたが、全くモノにはなりませんでした(汗;) でも、ここの弓道を極めるパートは哲学的だけどかなり好きですね。
弓道については、まったく経験も知識もありませんでした。これも、ストーリーありきで決まった要素です。ラフ書きのようなものを終え設定を固めている段階で、『礼記』のなかに射儀の作法が論じられているのを見つけ、「これで大丈夫だ」と思いました。それまで、識人たちがどのように弓を競っているか、具体的なイメージが掴みきれていませんでした。
え~っ、そうなんですか。てっきり弓道をされていたのかと(汗;)
やはり作家は小説の中で嘘をつくのが上手いなあ。
舞台が中国なのは、『後宮小説』の影響だけでは無くて、中国が好きなお母さまの影響はありませんか?
母は、趣味で中国語を習っているのですが、中国が好きというより色々なことに興味があるといった感じですね。今年のはじめには、ひとりでイタリア旅行に行ったりもしていました。私はどちらかというと出不精なので、そのバイタリティーは見習いたいと思っています。
ちなみに、母は音訳ボランティアを18年間続けています。『約束の果て』もさっそく読んでくれたらしいのですが、思い入れが強かったせいか新潟弁が出てしまい、校正担当の方から全ボツを食らったとのことです(笑)
再録をしているようですので、そのうちサピエ(視覚障がいを持つ方向けの音声図書検索サービス)に登録されると思います。
なんと、そうなのですか。うちの親父(故人)は晩年失明して、地元の図書館から録音図書(カセットテープ)を郵送で借り出して聞いていました。主にミステリとかが多かったように思います。小説以外では、週刊誌(確か「文春」だったような)もありました。
ひょっとしてお母様にもお世話になっていたのかも知れませんね。一冊の本がカセットテープ5~10本に録音されていて、かなりの手間暇がかかっているのはうかがえました。
親父によると話者によって上手い下手があるらしく、上手い話者の方のに当たると分かりやすいと言ってました。お母様にもよろしくお伝え下さい。
ありがとうございます。母が参加している音訳活動のグループには、書店員の方もいらっしゃるようです。音訳もそうですが、本というのは書いて完成というわけではなく、色々な方がバトンを繋ぐようにして読者に届けてくれているのだなと。デビューしてから、実感する場面が多いですね。
『約束の果て 黒と紫の国』の帯に“5000と70年の時を繋ぐ、空前絶後のボーイ・ミーツ・ガール”とあったので、螞九と瑤花の出会いから弓を競うあたりまでは、この二人のことかと読み進めていたのですが、途中で螞九は殺されちゃうし、前のパートでは、壙国の第四三二〇一王子の真气と瑤花が出逢うし。あれ、こっちもそうなのかと混乱してました。まあラストで二人の話が見事に収斂していく様は、読んでいてぞくぞくしました。
この菫と蟻のアイデアも、ストーリー展開からの要請で出てきたのでしょうか。
蟻の集合による大知性体というアイディア自体は、ゲンロンSF創作講座で思いついたものです。長編化するにあたり、それを倒すものは何かと考えたとき、菫に辿り着いたかたちです。
最初に蟻と菫の関係性があって、それが芯になっていたのかと思ってました(汗;)
ちなみに、ゲンロンSF創作講座で書いた短編では、アリの集合体を倒すのはセンザンコウでした。最後の場面で、巨大なセンザンコウがいきなり現れ、アリをべろべろ舐め取ってしまうのですね。あらためて思い返してみると、すごいオチだなあ……。
元の短編では、巨大センザンコウがべろべろとですか、それは凄まじいかも(笑)
『約束の果て 黒と紫の国』では、穿山甲(センザンコウ)は、臷南国の識人としても出てますね。
あと、カバーの折り返しの所に【主要登場人物】の紹介と読みが書いてあって良かったです。本文にも適宜ルビが振ってあるのも、なかなか覚えられない身には親切で嬉しかったです(汗;)
この“螞九”とか“壙国”とかのいかにもな雰囲気を持った人名・地名はどのようにして決められたのですか。
地名、人名についてはズバッと決まることが少ないですね。原稿を書き進めるなかで、何度か変わっています。字面で見て紛らわしくないことや、文字からイメージを想起させられることなど、気にしている点はいくつかあります。あとは、主要な名称については新しい文字は使わず、甲骨・金文から選ぶとか。
外字を用いるべきか(“螞九”や“臷南”)については、かなり悩みました。これらの文字を採用したことで、出版社や印刷会社さんには、かなり面倒をかけてしまったのではないかと思っています。
(以下ネタバレ部分は白いフォント>{}部)
やはり色々考えてらっしゃるんですね。
第四三二〇一王子の真气ですが、この43201の数字に意味はあるのでしょうか{(螞九が切り刻まれ分断された数なんですが)}
43201という数字ですが、蟻のコミュニティとして成立する規模かつ努力すれば{一人で切り刻めそうな数、}ということで決めています。むしろ、禺王の行為は非常に残虐なものですので、特定の事件を想起させる年月日など象徴性を持たせることは避けたいと思いました。
意味を持たない数字を選ばれたわけですね。なるほどなあ。
最後にもう一つだけ質問をお願いします。
別ファイルにも書いたのですが、『約束の果て 黒と紫の国』は、帯の煽りにある“5000と70年の時を繋ぐ、空前絶後のボーイ・ミーツ・ガール”であると同時に、螞九と瑤花の出会いがもたらした戦役の多大なる影響で、数多くの無辜の民が犠牲となった「悲劇」としての側面も描こうとしてらっしゃるような気がしました。
もちろんこの小説は「ボーイ・ミーツ・ガール」としても読めるのですが、必ずしも男女が出会う物語とは言い切れないような気がしています。瑤花は神のような存在なので、彼女が何を考えているのか、私もさっぱり分かりません。螞九に対する感情も、それが恋愛的なものなのか、それとも友情なのか、あるいは自分を慕うファンに対するサービスなのか、色々な可能性があると思っています。
基本的に小説にメッセージをこめているわけではないのですが、ひとつだけ言及しますと「希望」についての物語は、非常に地味で、特徴の少ない、さえない登場人物たちによって支えられています。現代パートだけではなく、真气などもさえない人物のひとりでしょうね。というわけで、この小説は「悲劇・ミーツ・さえないおじさんたち」の物語でもあるのですが、この文言をオビに入れたら売上は下がったと思います(笑)
菫の識人と蟻の識人とでは、子孫もできないだろうし、そもそも働き蟻の識人なら、雌だろうしというのもありそう。まあ雄蟻の識人という可能性もわずかにあるか(笑)
「別冊文藝春秋」(2020/07)のインタビュー記事の中に、“小説や偽史って簡単に言うと噓の話ですよね。そういう、世の中で一番役に立たないものからリアルな手触りを立ち上がらせたいなと。”というご発言がありましたが、これはかなり成功を収めているし、読者の感動を呼び起こした時点で、大いに役立っているのでは!と思いました。
先ほどの“43201という数字”の決め方とか、名前・地名への拘り、“花冠”の扱いとか“螞九が弓道を極める”ところとか、正に「細部に神は宿る」描写が、小説への没入感を加速させ最後の感動へと導いてくれたと思います。
次作もその次の作品も、全国の読者の皆様と共に一日千秋でお待ちしております。