第一章 暁の女神


 クライドン神は憤怒に身を焦がしながらも逃げた。背後から反逆者バマラグと黒い指輪の魔法使いガザヴォックによって、この世に導き入れられた宇宙神バステラの神気が追いかけて来るのが感じられる。クライドン神自らもアイシム神の力を引いているとはいえ、聖宝の小神が宇宙神の力に単独で逆らえるものでは無い。クライドン神はやっとの事で追跡を振り切ると、カインザーと呼ばれるソンタール大陸の南西にある大陸まで逃げのびた。そしてその大陸の中央に背骨のように隆起するアルラス山脈の高峰に降り立つと、怒りのあまり目の前にあった大きな岩に聖なるカンゼルの剣を刃の中程まで突き刺した。すると岩は命を受けたように輝き出し、やがてその岩を中心にして大地に光の輪が現われた。輪は脈打つように拡がり、波のように大陸全土に広がった。その輪に触れた人間達は体に力と勇気が湧きあがってくるのを感じた。
 この大陸を治めていた、かつてのシャンダイアの貴族だった領主は、すぐさま家臣を連れてその原因となった輝く頂を見つけ出し、脈打つ岩の横に立っているクライドン神に拝謁した。クライドン神は、輝く岩の隣に巨大な体で仁王立ちになって人々を待ち受けていた。
「よう来た人の長よ。この剣を持ち、我が兄弟達の導く国々と力を合わせて、バステラの野心によって汚された暗黒の国をうち平らげよ」
 クライドン神はそう言うと剣を岩から引き抜いて領主に授けた。剣を抜いた後も岩は淡い光を内に宿して明るく輝いていた。カインザーの領主は畏まって剣を受け取り、敢然とソンタール帝国に対して戦いを挑んだのである。

 −−−−−− 
「暁の女神号」は、その名のとおり暁に差し込む白い光の中をやって来た。
 カインザー王国の王子セルダンは、まだ暗いうちからソラムの街と港を見おろす丘の上に馬を止めて、待ち望んだ友人達の船がやって来るのを待っていた。丘に着いて空を見上げると、そろそろ月と星が天から去りはじめる準備をしているように見える。やがて、水平線と空が別れるあたりに、かすかに識別できる程度のざらついた明るさがやって来た。そして薄暗い空を押し分けてオレンジ色の雲が輝き出した頃、小さな点が白い光を浴びて水平線に現われた。巧みな技術で操られる海の民ザイマンの国王が乗る帆船は、みるみるうちにその姿が確認できるようになるまで近づいて来た。
「さすがにザイマンの船は速い。もうすぐに港に着いてしまう」
 セルダン王子は嬉しそうに声を上げた。横に轡を並べていた武術師範のベロフは口元がほころぶのをこらえた。ザイマンの船は速い。子供でも知っているこの事実を、こうもあけすけに感動できるおおらかさが、この王子をカインザーの国民に愛させる魅力の一つになっている。
 今日もいつもの淡い水色の上下の服に白いマント。長い剣を馬にくくり付けて、肉が付ききっていないスラリとした体をやや右にかしげて立っている姿は、まるで瑞々しい一幅の絵を見るようだ。
 隣に立つベロフは、若い王子とは対照的に完成された戦士の体格をしている。背が高くやや細身に見えながらも、引き締まった筋肉とすぐれたバランス。黒い髪を刈り込んで短い口髭を生やした険しい顔を持つ忠実な男は、朝の静謐さを守ろうとするかのような静かな声で王子の言葉に答えた。
「暁の女神エルディ様が導いているのです。なんといっても光の聖宝の危機なのですから」
「うん」
 セルダンの父、カインザー国王オルドンがソンタール帝国の西の将マコーキンに敗れて、カンゼルの剣を奪われてから一か月が経っている。しかしセルダンはザイマンの船と朝焼けを眺めているうちに、この数週間の暗い思いが心から吹き払われるような気がしていた。耳を澄ましても聞こえるのは潮騒のざわめきだけで、鳥達はまだ歌い出していない。しかし顔に感じる東からの風は朝だというのにもう暖かかった。
 セルダンは朝日を顔に正面から受けながら、東の水平線を見つめた。この風が来る方角にカスハの冠を守る盟友ザイマンの島々がある。そしてゆっくりと視線を北東に移した。この方角の遥か彼方に、ザイマンと対立するソンタールの南の将の要塞がある。そしてさらに北、このカインザー大陸とソンタール大陸を繋ぐパイラルの陸橋の前に、宿敵マコーキンと黒い盾の魔法使いゾノボートがたてこもる、西の将の要塞が立ちはだかっている。
 セルダンの体に流れる戦士の民の血が燃えた。
(必ず西の将の要塞を突破する。ソンタール大陸への道を切り開く)
 セルダンは無言でそう朝日に誓った。
 丘の上の二人の戦士が見つめる中を、海洋民族の王の巨大な船は、朝の光を背に堂々と港の中に進入して来た。
「ベロフ。もう港の人達は気付いているだろうか」
「すでにアシュアン以下、迎えの者達が桟橋に駆けつけていることでしょう。我々もそろそろ行ったほうがよろしいかと存じます」
 セルダンは軽くうなずいて馬首をめぐらすと、港に向かって一気に丘を駆け降りた。ベロフはいずれ聖剣の担い手となる(もし取り返せればの話だが)若きカインザー王国の後継者の後を急いで追いかけた。そして前をゆく王子の姿を見ながらふと思った。
(あの右肩を落として走る癖は直したほうがよさそうだ。いまのうちからあれでは実戦で剣を振るう時にバランスを崩してしまう)
 蹄鉄に蹴り上げられた草が舞って、風の強さを二人に教ようとしたが、すでに二つの影はその遥か前方を駆けていた。
  
 港ではすでにザイマン国王を迎える準備が、外務大臣のアシュアンの手によって整えられていた。桟橋に駆けつけた王子の姿を認めると、小柄でぽっちゃりした大臣は転ぶようにその馬前に走り出て、王子を咎めるような目つきで見上げた。
「遅うございますぞ、殿下。探しておりました」
「まだそれ程遅れて無いよ、アシュアン」
「はい。しかし賓客をお迎えする装束を整える時間はございませぬ。ベロフもそろそろこういう事にも気を遣ってもらわんと困る」
 アシュアンはセルダンの後ろに頭一つとびだしている、長年の友人である武術師範の顔をにらんで言った。
「カインザーの王子は武術を覚えればほとんど事足りよう」
 ベロフはどこ吹く風といった感じでアシュアンの抗議を聞き流した。セルダンは身軽な動作で馬から降りると待っていた兵士に手綱を渡した。
「いいだろう。ザイマンの王室はよく知った人達ばかりだし、ドレアント王にしたところで別に正装なんてしてこないと思うよ」
 平気でこう言ったあたりは、まだいささか甘えんぼうな部分が残っている。
「しかし王の代理としてお迎えするからには、少々の格好付けは必要ですぞ」
 さらに何かを言おうとした大臣を、まだ幼い少女のかわいらしい声が遮った。
「もうそれくらいにしてあげて、アシュアン大臣閣下。私がセルダン王子のぶんまでおめかしして来ましたから」
 近くに停まっていた馬車の扉が開き、黄色い襞飾りをふんだんに使用した、まるで人形のような衣装を身にまとった小柄な少女が出て来た。風変わりな灰色の瞳に白い髪。その白い髪をふんわりと広げて、全然似合わないピンクのリボンを頭のてっぺんに飾っている。カインザーの王家に預けられている少女アーヤ・シャン・フーイだ。
 五年前、旧シャンダイアの国々の相談役として尊敬を集めている魔術師マルヴェスターが、まだ三歳だったこの少女を抱いてやって来た時、カインザーの宮廷はちょっとした騒ぎになったものだった。三千年生きた魔術師についに子供が生まれたのかと思われたのである。この勘違いに、威厳を傷つけられたと激怒したマルヴェスターは、あやうく王の居城のマイスター城を魔法で吹き飛ばすところだった。それ以来アーヤはカインザー王家に預けられて育てられているが、その出生について老魔術師はいまだに一言も口にしていない。
「アーヤ様。おそらくマルヴェスター様はその衣装をお気に召さないと思いますよ。それにおリボンの色が髪の毛の色と全く合っておりません」
 これもあきらめ顔でアシュアンがため息をついた。仕方の無い子供達だという思いが、その年齢より若く見える顔全面にあらわれていた。戦士の大陸に似つかわしく無いくらい、細かい事に気がまわるのがこの大臣の一つの不幸になっている。
「そんな事は無いわ。ちゃんとしたレディに育っていることをおじい様にお見せしなければいけないの。セルダンのお兄様、船が着いたわ。きちんと王様にご挨拶しなきゃだめよ」
 セルダンはムッとした顔でアシュアンを横目で見た。
「アシュアン。この迎えになぜアーヤが必要なのか理由をまだ聞いていなかったね」
 もちろんアーヤがわがままを通して勝手に付いて来たのに決まっているのはわかっているのだが。その時、朝の空気をつんざいて華々しいラッパの音が頭上を鳴り渡った。続いてカインザー王室付きの楽団員による、あまりアンサンブルの良く無い歓迎の演奏が早朝の港町に流れ出した。
 堂々たる姿を桟橋に横付けした「暁の女神号」のタラップから最初に降り立ったのは、真っ赤な地に銀の刺繍入りの上着を着て、赤いマントを羽織った巨漢のザイマン王ドレアントだった。大嵐の中でもビールのジョッキを手離した事が無いといわれるその顔も、さすがに早朝なのでスッキリしている。
 続いて、白くて長い衣をまとったの智慧の峰の若い美しい巫女が続いた。これはセルダンには予想外の客だった。アシュアンもちょっと不思議そうな顔をした。そしてその巫女の後にセルダンの年長の友人ブライスが、父王より締まってはいるものの、やはり樽のような巨体をとどろかせて降りて来た。これも赤い袖なしのシャツに革のチョッキを着込んで、海洋民族の王子と言うよりはまるで海賊のようだ。そしてブライスの颯爽たる姿の後に、船酔いで真っ青になった魔術師が、両脇を船員に抱えられて引きずられるようにして降りて来た。ご自慢の鍔ひろのとんがり帽子はしおれ、黒いローブにはあやしい染みが点々と付いている。
「大丈夫ですかマルヴェスター」
 先に地面に立ったブライスがニヤニヤしながらたずねた。
「もういかんわい。おおセルダンか達者でなにより。アシュアン頼むからこの恐ろしい音楽をすぐに止めてくれんか。そなたの王よりはるかに調子が悪いぞ」
 アシュアンが慌てて楽団のほうにとんで行った。ブライスが船員に船に戻るように合図をしてからセルダンに言った。
「ずっとこうだったんだぜ。三週間も船酔い状態で歩けるのがむしろ不思議なくらいだ。いったいいつになったら船に慣れるんですか長老様」
「あと千年はかかるだろうな。とにかくはやく宿舎へ連れていってくれ」
 そんな魔術師の様子を横目で眺めていたザイマンのドレアント王が、咳払いを一つしてからうやうやしく言った。
「しばらくお待ちください。聖宝の守護者の相談役にして、翼の神の第一の弟子様。王家にはそれなりの挨拶が必要なのです」
 マルヴェスターの険悪な凝視の中、ドレアント王は巨体をピンとそらしてセルダンに向き合った。
「戦士の大陸の王家に栄えあれ」
 そして手を胸に当てて深々と礼をした。さすがに海の王の声だ。セルダンはこの声の使い方を憶えておこうと思った。父のオルドンの声は鞭のような厳しさがあるが、ドレアント王の声には海風でさらされたおおらかさがあった。しかもその声の大きさたるや一キロ離れていても聞こえる程だ。あまりの大声にマルヴェスターがうめいて港の敷石に膝を着いた。しかしドレアント王はその後に続くはずの「聖なる剣に光あれ」の言葉を言うことができなかった。
「すまん、セルダン」
「いいえ、責務をまっとうできなかったのはカインザー王家の責任です」
 鋭い痛みが一瞬セルダンの胸を刺したが、なんとか表情には出さずにせいいっぱい威儀をただしてこう答えた。
「ようこそ海洋民族の王。暁の女神に守られたる王家に栄えあれ、そして美しき聖なる冠に光あれ」
 次に智慧の峰の巫女に向き直って続けた。
「ようこそ智慧の峰の巫女様。こんな南の国までおいでいただけて光栄です。さぞや長い旅をなさったことでしょう」
 それに答えるようにドレアント王がほっそりとした若い巫女を横にうながしながら紹介した。
「智慧の峰の巫女スハーラ殿だ。サルパートのレリス侯爵の娘ごにあたる。ちょうどザイマンに見えておられたので、サルパートにお送りする途中で寄ってもらうようお願いした。癒しの術ではサルパートでも傑出しているとの噂が高い」
「ありがとうございます。カインザーの民も心から歓迎いたします。父は実際には身体のほうはそれ程弱っているわけでは無いのです。それよりもむしろ聖剣を奪われた心の傷に参っています。巫女様のおいでは、さぞかし父も心強く思うことでしょう」
「できる限りの事はさせていただきます。でも、実はお役に立てるかどうか不安になってきているのです。マルヴェスター様の船酔いを直そうと思ったのですが、私の知ってている呪文がちっとも効かなくて」
 セルダンはその頼りなげな声を聞いた時、この巫女が思ったよりずっと若い事に気がついた。おそらく二十歳そこそこ、自分より二つ三つ上というところではないだろうか。智慧の峰の賢者と名乗る老人は何人か見た事があるが、どちらかというと閉鎖的なサルパートの巫女が、よその国に来るというのはあまり聞いた事が無い。ザイマンに何の用だったのだろう。セルダンのその疑問を遮るかのように、極まったような魔術師の声が巫女の後ろから聞こえた。
「わしは特別なんだ。翼の神の弟子が波の上で揺られて無事でおるわけが無かろう。それよりシャンダイアの貴顕の方々、そろそろ日が暮れるような気がするのはわしだけかのう」
「おそらくそうだと思いますが、ええ、わかりましたマルヴェスター様。すぐに宿舎のほうに向かいましょう。マイスター城へは明日の朝出発する事にします」
 セルダンはアシュアンに、一行を宿舎に案内するように合図した。
「宿には酒とうまい食事を頼む。世話係は若い娘でなけらばならん。それから風呂はいらんぞ」
 マルヴェスターはもうおなじみになっている注文を早口でまくしたてた。その時、それまでベロフの後ろに隠れるようにして待っていたアーヤが、気取った足取りでゆっくりと前に出て来た。
「入らないといけませんわおじいさま。凄い匂いがなさっていますよ」
「アーヤか。なんだその格好は。五百年くらい前のお針子でも見つけてきたのか」
 マルヴェスターはあきれたように両手を大きく挙げた。その腕の中にアーヤは思いっきり飛び込んで行って、その白い巻髪を老人の顔いっぱいに広げた。
「これが最新の流行だって私が決めたの」
 そう言うと、ひるむように魔術師から体を離した。
「絶対にお風呂が必要よ」
 一行はその日一日、ソラムの街の中心にある豪華な宿で休息した。旧シャンダイアの勢力の国々の中で、カインザーのみは常に攻める姿勢で国を維持してきたため、国境からこれ程離れた地方ではまるで戦時下とは思えない程平和だった。そのため王室専用の城等は必要無かったのである。ソラムからマイスター城までは街道が整備されているため、十日間の道のりの予定だった。
 翌日はみんな朝寝坊して遅い時間の出発となった。ドレアント王は馬に乗れなかったので、アーヤとサルパートの巫女スハーラと共に馬車に乗った。アーヤはまだ毛布をかぶってスハーラに寄りかかって眠っている。この不思議な少女は初対面の人間でもすぐに保護者にさせてしまう魅力を持っていた。
 そしてその馬車の前をセルダン、ブライス、マルヴェスターが轡を並べて先行した。少年時代、各国の王室に学んだブライスは馬に乗る事ができたが、背負った馬はその重さに悲鳴を上げそうな顔をして、休憩の度に乗り手を配した大臣のアシュアンをにらんでいた。その隊列の周りを三十名の戦士が警護し、最後尾にアシュアンの馬車とベロフの馬が続く。
「ブライス。一言忠告させてもらっていいかな」
 セルダンはひょこひょこ上下するブライスに馬を並べて言った。
「この尻の痛みを軽減できるなら、何でも聞くぞ」
「もう少し馬にまかせて乗ったほうがいい。意識的に体を上下させ過ぎている」
「間違っているか。セントーンでこう習ったんだが」
「セントーンの民は、もともとそれ程乗馬がうまいほうではないからね。あんまり痛いのならスハーラさんに直してもらったら」
「尻を見せるのが恥ずかしいや」
 ブライスがあまり真面目な顔で言ったので、セルダンは笑い過ぎて馬から落ちそうになってしまった。そして暖かい気持ちがセルダンの心に広がった。この友人達が来てくれて本当によかった。
 
 マイスター城へ向かう旅の最初の日の夜、街道の快適な宿の酒場で、セルダンとベロフは今回の戦いの詳細をドレアント王達に説明した。すでに眠ってしまったアーヤ以外の大人達は、それぞれ心地良い椅子に好みの飲み物を持って落ち着いた。ドレアント王は信じられない程巨大なビールのジョッキを手にして、聞くものを引きつける低くて太い声で言った。
「ベロフ。今回の西の将との戦いについて詳しく話してくれないか」
「はい。ちょうど一か月前です。我が軍はサルバンの野でソンタールの西の将マコーキンの軍と激突しました」
 ベロフは専門家らしい分析を加えて、その時の戦闘の様子を説明し始めた。
「新しい西の将はどうやら手強いようだな。野戦になったのか」
「そうです。マコーキンは今までの西の将と違って要塞にこもって戦う事をしません。また黒い盾の魔法使いともほとんど行動を共にしません。ですから常に野戦になるのですが、敵ながら天才的な戦闘指揮官と言ってよいでしょう。見事な采配で常に我軍と互角以上の戦いをしています。しかしまさか剣の業でもオルドン王を上回るとは思ってもみませんでした」
「セルダンは初陣だったな」
 ブライスがセルダンに話を向けた。
「うん。父上のそばで戦っていた。父の持つカンゼルの剣は話に聞いていた以上の威力だと思いました。まるで敵を寄せ付けず、次々に相手を斬り伏せていたのですが、マコーキンとの一騎打ちでその盾に打ち込んだ時にそれを砕く事ができず、逆に跳ね返されて腕に切りつけられました。カンゼルの剣ははたき落とされて、さらにその後父は何度かマコーキンに切りつけられました。組んででも戦おうとしていた父を周りにいた将軍達が慌てて助け出したのです」
 マルヴェスターが不思議そうな顔をして聞いた。
「その場に居あわせたわけじゃな。マコーキンが持っていたのは黒の盾だったかね」
「いいえ。黒の盾を見た事はありませんが普通の盾のようでした」
 ベロフが横から補足した。
「王子は初陣だったからご存知無いのですが、実はカンゼルの剣の威力はあの程度のものでは無いはずなのです。マルヴェスター様、確かにマコーキンは野戦の指揮と武術ではソンタールの五将の中では最上位にある者かもしれません。しかし果たして魔力の助けの無い普通の人間が、アイシム神の聖宝カンゼルの剣に打ち勝つ事ができるものなのでしょうか」
 ベロフがこの一か月間、カインザー王国の国民の間で最も不思議に思われていた疑問を口にした。
「それについてはいま少し時間をくれ、まだ情報が足りない。今はその時の状況が知りたい」
 マルヴェスターの言葉のあと、ドレアント王がベロフへの質問を引き継いだ。
「ドラゴンも出てきていたのかね」
「闇の獣、巨竜のドラティもとかげ兵のブールも、サルバンの野の方面には出て来ていませんでした。ブールの部隊は、その頃シゲノア城から要塞攻めに出撃したトルソン侯爵の軍と戦っています。ドラティはこの半年あまり姿を見せていません。一つ言えるのはマコーキンとゾノボート、あるいは闇の獣との間には連係が無いという事です」
 これはベロフをはじめとするカインザー諸将の共通見解であった。この観測がある一点において違っている事に一同は後で気付く事になる。
「それはわずかながら希望の持てる話だな。他には変わった事は無かったかね」
「シゲノア城から西の将の要塞を攻撃した我軍の補給部隊を、奇妙な部隊が襲っています」
「どんな部隊だ」
「背が低くて敏捷な部隊なのですが、全身を黒い革の服で覆っていてさらに顔には黒い布を巻いています。ちょうど目だけが見えるようになっていて、何物なのかはわかりません。我々の戦士部隊とは直接ぶつかっていません。深夜などに現われて、主に補給部隊を側面からかきまわしていました」
「撃退はしたのだろう」
 とブライス。
「もちろんです。しかし朝になって現場を探してみても死体は残っていませんでした」
 ドレアント王がゴワゴワした立派な顎鬚をしごきながら言った。
「マルヴェスター、いやな予感がするのう。伝え聞くゾックの姿に似ているようだ」
 ゾックと聞いて、セルダンはすぐには何者かわからなかった。ブライスがその事をマルヴェスターにたずねた。
「ゾックって、昔バルトールを滅ぼしたソンタールの将が使っていた獣の事ですか」
「そうだ。バルトールを滅ぼしたソンタールの将は、その余勢をかってセントーンの北方から陸路で攻め込んだ。しかし地形的に大軍を動かす事ができずにその作戦は失敗に終わったのだ」
 暖炉を背にした椅子に腰掛けた魔術師は、遠くを見るような目つきで説明を続けた。
「当時、月光の将と呼ばれていたその将は、失敗の後セントーンを陸から攻める作戦を東と南の将にまかせて、ユマール大陸に渡った。そこで艦隊を建設し、セントーンとサルパートに海からの圧力をかける作戦に切り替える事にしたのだ。その際に小鬼ゾックと大鬼ザークを他の将の遊撃隊として残していった。しかしセントーン攻めでゾックは数が激減していたから、その後の戦闘では使われていないし、ザークは気まぐれだからこれも最近姿を見せていない」
 セルダンは大きい獣のこの行動が不思議だった。
「ザークは他の将の言うことを聞かないのですか」
「ふむ。もう少しおまえは勉強せねばならんな。よいか、ソンタールの獣は大きい物と小さい物に別れる」
 マルヴェスターは大きなビールのジョッキを持った右手と、拳を握った左手を並べて顔の前にかざした。
「小さい獣は戦争の初期にバステラの神官達が普通の獣に魔法をかけ、変形させて新たに生み出した生き物だ。だから主に魔法使いが操っている。ちなみにゾックは、山岳地帯に住む人間型の種族の変容した姿だ。しかし大きい獣は自分の意志で動く。現在のユマールの将の獣の正体は謎じゃが、他の五体はもともとはアイシム・バステラの二神が、この星に住まわせようとお創りになった生き物の雛形だった。その中でバステラ神の力が強く影響していたものが、歳を重ねて巨大化し、魔力を身に付けて五将の陣にいるのだ。この星の最古の生き物達と言ってよいだろう」
「現在のユマールの将の獣はいったい何なんでしょう」
 セルダンはその事に深い興味をおぼえた。これにはブライスが答えた。
「小型の戦闘獣は七本足のイカだ。小さな船に大量に絡み付いて転覆させたり、海に落ちた者を襲ったりしている。しかし巨獣のほうはわからない。バルトール滅亡から二千年、いまだに姿を見せていないんだ」
 ドレアント王が、ジョッキを樫の堅いテーブルに置いて、しかめっ面をして腕を組んだ。
「いや、一度だけそれと関係ありそうな事件はあったのだ。五百年程前、ユマールを目指したザイマンの大艦隊が消息を絶った。その艦隊には優秀な提督と翼の神の弟子の一人が乗船していたのだが、アルバ海で忽然と姿を消してしまった。数日して一人だけソンタールの浜に打ち揚げられた船員がいたそうだ。それがただ一人の生存者だったらしい。その男はほとんど狂気に侵されていたが、巨大な影について口走っていたという」
 マルヴェスターが暗い顔でうなずいた。
「あれは失敗だったのう。セリスはまだ若過ぎた、もっとよく相手を調べてから出撃するべきだった。まあ今回の相手がゾックかどうかはいずれわかるだろう。今夜はこんなどころでよい。さあゆっくり休もう」
 そう言うと珍しく酒をジョッキに残したまま、真っ先に酒場から出て行ってしまった。ドレアント王が、この話題を持ち出した事を少し後悔したように説明した。
「魔術師セリスは翼の神の弟子の中で最年少の者だったらしい。マルヴェスター達は、その時ザイマンに若いセリスを一人にしておいた事を、今でも後悔しているようだ」
「翼の神のお弟子って何人いるのでしょう。僕はマルヴェスター様しか知らないのですが」
 セルダンはずっと知りたかった質問をしてみた。カインザーの大人達は戦闘以外の事にはあまり興味が無く、聞いてもはっきりした答えが返ってきたためしが無いのだ。ドレアント王もちょっと困ったようだった。
「実はわしも二人にしか会った事が無いのだ。マルヴェスターとセントーンにいる女魔術師ミリアだ。おそらく他にいてもあと一人か二人だろう。たぶんソンタール帝国内に潜り込んでいるのではないかな」
「レディ・ミリアって魔術師なんですか」
 セルダンは驚きの声を上げた。幼い頃セントーンの宮廷を訪れた時に可愛いがってくれた、美しい女性の姿が思い出される。セントーンの貴族の奥方だとばかり思っていた。ブライスが立ち上がって笑いながらセルダンの背中をたたいた。
「驚いたろう、俺も最初に知った時は驚いた。いったい何歳なんだろうってね。どうみても三十歳前後にしか見えないもんな。やさしくて気品があって、魔術師だとはとても思えない」
 そう言うとマルヴェスターのジョッキを取り上げて、残っていた酒を飲み干した。
「さてと寝ようぜ、明日は早いんだろう。俺は朝が苦手だ」
 一同はこの言葉を合図に、それぞれに割り当てられた部屋に戻って行った。
 
 深夜だった。階下の窓のガラスが割れる音でセルダンは目を覚ました。そして異常ありと判断するや、すぐさま寝返りを打つように床に転がり降りて、傍のテーブルの上に置いてあった剣を引っつかんで廊下に飛び出した。このあたりさすがに戦士の子と言ってよい。
 体勢を低くして廊下に出たセルダンめがけて、まるで投石器の大石のような勢いで黒い塊が横から跳びかかってきた。セルダンは地に這うようにしてかわすと、着地したばかりの黒い革の服を着た小型の影に向かって低い姿勢から剣を突き出した。黒い影は跳びすさってその突きをよけると、次の瞬間にまるでバッタのようにセルダンの頭上に跳び上がった。セルダンは剣を横にして抱えたまま前方に一回転し、反転して跳び掛かって来る襲撃者を剣で貫いた。素早く剣を引き抜いたセルダンの目の前で、隣の部屋の扉が中央から突き破られて黒い体が半分飛び出した。セルダンが、裂けた扉にはさまってもがいている生き物の頭を躊躇せずに叩き落とすと、その扉を蹴りとばして斧を持ったブライスが飛び出して来た。
「ゾックだ。こいつがゾックという獣だ」
 叫ぶなりセルダンの頭越しに、手に持っていた両側に角の付いた兜を放り投げた。にぶい音がして振り返ったセルダンの後ろに何かが落ちた。セルダンは振り向くともがいているゾックに剣を突き立てて止めを刺した。その時、廊下の先にある部屋から寝間着姿のスハーラがアーヤを抱えて現われた。ブライスがセルダンを飛び越えるようにスハーラに駆け寄り、二人をかばうようにして廊下に注意を払った。
「セルダン下に急ごう。二階はどうやら済んだようだ」
 階下ではまだ、騒音が続いている。セルダンは急いで階段を駆け降りた。その後をスハーラと、アーヤを抱きかかえたブライスが続く。しかしすでにベロフとドレアントの指揮する兵達によって階下のゾックは平定されつつあった。ベロフがエントランスの隅に追いつめられた最後のゾックを冷静に始末した。
「殿下、他の方々はご無事ですか」
 セルダンは少し息を切らしているのを恥じながらも、つとめて平静に答えた。
「どうやらそのようだ。しかしカインザーのど真ん中で襲撃を受けたぞ、これはどういう事だ」
 兵が駆けつけたために開け放たれていた、宿舎の正面の扉からアシュアンが駆け込んで来た。
「ご無事ですか皆様。おお、なんたる事、なんたる事」
 うろたえるアシュアンに、ドレアント王が女性達の世話と宿場町全体の警備を要請している間に、セルダンはベロフに指示を出した。
「ベロフ。街道沿いの宿場の兵を増強してくれ。マイスター城には明朝、伝令鳥を飛ばす。さらに諸侯に闇の獣に気を付けるよう布告を出す手配をしてくれ。カインザー大陸全土で夜間の外出を自粛させよう」
 その時、マルヴェスターが階段の上に姿をあらわした。
「済んだかのう、この騒ぎは」
 ブライスが驚いたように階上を見上げた。
「まだ二階にいたんですかマルヴェスター。伝説の魔法の力で追っ払ってくれるかと思っていたのに」
 魔術師は片手で追い払うような仕種をした後、これに答えた。
「そんな無駄な事はせんわい。この程度の数のゾックはさしたる脅威では無い、おまえらで十分片が着く。わしは大鬼ザークの気を探っておったのだ。どうやらこのあたりにはおらんらしい。ゾックを操っている魔法使いの気も無い。どうやらゾックの単独の襲撃のようだな」
 ドレアント王が大きな体をゆすりながらエントランスの椅子に腰を下ろした。手にはすでにどこからか持ってきたビールのジョッキが握られている。
「ここはクライドン神の勢力範囲のはずだ。ゾック程度なら闇にまぎれて送り込めても、ザークまでは入ってこれないだろう」
 マルヴェスターは背中で手を握りながら、ゆっくりと階段を降りて来た。
「その事についてはあまり安心せんほうがよいぞ、どうも容易ならぬ事態が起こっているような気がする。何故かはわからぬが、クライドン神のお力が弱まっているのかもしれない。いずれにしても明日からの旅は急がねばなるまい」
 一同は不安な眼差しで顔を見合わせた。急がねばならないだろう。

 一行は予定よりも二日早くマイスター城に着いた。その夜さっそく開かれた会議に出席したのは、周囲の反対を押しきって起き上がったカインザー王オルドン、王子セルダン、王子の武術師範ベロフ、外務大臣のアシュアン、内務大臣のテューダ、さらにカインザーの長老ランバン公爵と前線にいる五人の諸侯の代理。ザイマン王ドレアント、王子ブライス。サルパートの巫女スハーラとシャンダイア王家の相談役のマルヴェスターといった面々だった。もともと気丈なカインザー王オルドンは、友人達の来訪と、智慧の峰の巫女スハーラの薬と治癒の魔法のおかげで、笑顔を見せるまでに回復していた。ザイマンのドレアント王が安心したように言った。
「しかしオルドンが思ったよりしっかりしていて安心した。伝令鳥の知らせを聞いた時は二度と立てないのでは無いかと思ったぞ」
 黒いローブ姿で深く椅子に腰掛けたオルドン王は苦笑いをしながら答えた。
「大袈裟なのだよみんな。しかしマコーキンめに打たれた時には驚いた。まさかカンゼルの剣を持つわしが負けるとは思わなかったからのう。傷そのものはさしたる事は無いが、聖なる剣を奪われてしもうた。それが痛いわ」
 セルダンは、痩身ながら鉄のような意志と肉体を誇っていたはずの父が、友人達の来訪に心から喜んでいる様子に意外な感じを受けた。やはり敗戦の影響で心が弱っているのだろうか。
 ザイマン王の言葉から会議が始まった。
「どうやら時間を惜しまねばならないような状況になってきたらしい。マルヴェスター、旅の途中でも聞いたのだが今回の件について率直な意見を聞かせて欲しい」
 ドレアント王の問いかけに、一人だけ席に着かずに窓から外を眺めていたマルヴェスターが答えて言った。
「確かな事はまだわからないが、アイシム神の聖宝の力が弱まっているのか、あるいはクライドン神のお力が弱まっているのか、そのどちらかは当たっているような気がする。最近アルラス山の神殿には誰か赴いたかね」
 高齢ながらカインザーの政治の柱石である、真面目なテューダが答えた。
「いいえ。年に一度、王が神殿のあるライア山のふもとの、クライの町の神官達を連れて参拝しますが、それ以外の時はクライドン神のお邪魔はいたしておりません。前回参拝したのは確か八か月前です」
「クライの神官達は変わった事に気付いていないか」
「まだそのような報告はありません」
 オルドン王が苦汁に満ちた声で言った。
「いずれにせよ、神殿に行かねばなるまい。我が不始末を神にお詫びせねばならん。一か月以上も行かなんだのが間違いだった」
 ドレアント王が心配そうにオルドン王を見て言った。
「その体では無理だ、クライドン神への報告の任はセルダンに任せたほうがよいだろう。そろそろ聖宝の担い手の交代の時かもしれんぞ」
「光の聖宝の力自体が弱まっている可能性もあるのだ」
 マルヴェスターが続けた。
「もとより六つの聖宝は一か所にあるべきものだった。それが世界のあちこちに散らばり、しかもアスカッチの指輪はクラハーン神が握って隠れたままだ。それに対して、バステラ神の黒の秘宝はすべてグラン・エルバ・ソンタールのバステラ神の像からその力を得て、それぞれが連携しあっておる。両者の力の差が徐々に広がってきているのかもしれん」
 カインザーの九諸侯の筆頭、高齢の大柄な武人のランバン公爵がマルヴェスターにたずねた。
「どうすればよいのでしょう長老様」
「こうなったら、少々の賭けをせねばなるまいの。聖宝をいくつか集めて一ヶ所の将にぶつけるというのはどうだろう」
 一同はこの言葉にしばし考え込んだ。やがてドレアント王が言った。
「危険だな、各国共に聖宝の力無くして国は守れん。あえて聖宝を集めるとして、ソンタールのどの将から攻める」
「もちろん西の将からでしょう」
 セルダンが我慢しきれなくなって言った。
「まず剣を取り返します。ソンタールに潜入させている者の報告ではまだ都には送られていないようですから、西の将の要塞にあるはずです。それを取り返します」
 セルダンの父であるオルドンもうめくようにこの言葉に同意した。
「さよう。六つの聖宝の中で唯一、攻撃的なのがカンゼルの剣だ。一刻の猶予もならん。剣を奪い返し、マコーキンとゾノボートを滅ぼし、ソンタールへの足がかりをつくる」
 ランバン公爵が思案顔で言った。
「我々が対策を練る時間はどのくらいあるのでしょう、マルヴェスター様」
「さほど無いと思う。マコーキンとゾノボートはあまりうまくいっておらん。おそらくマコーキンは、まだ奪った剣を神官である魔法使いに渡してはいないのだろう。しかしやがて本国に送るよう指示が来るはずだ。そうなってはカンゼルの剣を取り返すのは困難になる」
 そこでブライスが他の国々の置かれた状況について説明を行った。
「聖宝をいくつか集中させる案は良いとしても、セントーンの守りの盾は動かせませんよ。どうやらユマールの将がかつて無い大規模な艦隊を建造中のようです。我がザイマンの艦隊を上回る可能性が高くなっています。また東の将も山沿いに勢力を強め、セントーンの西の山脈沿いにたくさんの砦を築きつつあります。南の将はザイマン海軍が牽制していますが、ソンタール帝国は今度こそ本気でセントーン王国を征服するつもりだと思います」
 ドレアント王が話を引き継いだ。
「その件だがオルドン。ここカインザーでも艦船を造らせてもらえないだろうか。ザイマンは海洋王国とは言っても島国だ、艦船を造る資材に限りがある。今度のユマールの艦隊をなんとかしなければ、この戦いは一気にわしらの負けになるかもしれん」
「もちろんそれはかまわん。技術者をよこしてくれ。この国の技術ではザイマンのような船は造れん。アシュアンとテューダに後で詳しい話をしてくれ」
 ブライスが話を再開した。
「南の将がセントーン攻略に動いたら万事窮すです。南の将をけん制するためにも、ザイマンのカスハの冠を持ち出す事はできません」
 セルダンがおさらいした。
「ミルカの盾と、カスハの冠は動かせない。カンゼルの剣はマコーキンの手の中にある。アスカッチの指輪はクラハーン神がお持ちになって北の果てのシムラーの島にある。リラの巻物はサルパートの智慧の峰にある。バザの短剣は何処にあるんですか」
 マルヴェスターは腕を後ろにまわして、会議の机のまわりをゆっくり歩きはじめた。
「それを知るためには社会の下層に隠れた人達と連絡を取らねばならん。国を無くしたバルトールの民にお主らの先祖はいささか冷たかったからの」
「それは」
 オルドン王の抗議を遮るようにマルヴェスターが手を振った。
「仕方が無い。当時は今よりさらに激しい戦闘の中にあったのだ。人々の心も荒れていたのだろう。まずはカンゼルの剣を取り返すことにしよう。そして智慧の峰に行き、王と神官達を説得してリラの巻物を使わせてもらおう」
 ベロフが発言した。
「マコーキンを正面からの戦闘で打ち破って奪回する事は難しいでしょう。剣はどうやって取り返しますか」
「うむ、まだ西の将と真っ向からぶつかる時ではないだろう。しかしマコーキンはオルドンのように前線でカンゼルの剣を振り回すわけではあるまい。わしと次の聖剣の担い手であるセルダン、そして王子の守り役のお主の三人くらいなら、西の将の要塞に潜入できると思う。オルドン、マコーキンと魔法使いを要塞から引きだせるか」
 戦の段取りの話になって、オルドン王はようやく元気を取り戻して、いつもの様子になって言った。
「引き出せるかとは長老のお言葉でも聞き捨てなりませんな。攻め滅ぼさない程度に遊んでやると言ってもらいましょう。要塞に逃げ込まれても剣の奪回の妨げになるでしょうからね。それで、西の将の要塞に潜入するのはいつぐらいになる予定ですか」
「わしらはクライドン神の神殿に寄った後、カイラの港からサルパートのマットに渡り、そこからポイントポート経由で城塞に忍び込む。三か月先としよう」
「わかった。カイラになるべく揺れ無い船をまわしておく」
 ドレアント王が請け負った。その時、スハーラがおずおずと発言した。
「私もマットまでごいっしょしてよろしいでしょうか。オルドン王様のご容体も思ったより悪くありませんでしたし、いずれにしてもサルパートに帰るところですから。癒しの力が何かのお役に立てるかもしれません」
 マルヴェスターは少し考え込むふうだったが、問題無しと考えたらしい。
「それもよいだろう。リラの巻物ゆかりの者がいっしょだと何かと助かる」
 ブライスが当然といった感じで口をはさんだ。
「俺を入れて五人ですね」
「いや、おまえは必要無かろう」
 ドレアント王が即座に否定した。
「わしは明日にも帰りの途につくつもりなのだ。おまえにはここで艦隊建造の指揮をしてもらうぞ」
「そんな」
「わしらの相手は南の将と、ユマールの将の艦隊だ。忘れるな」
 マルヴェスターが顎鬚をさすりながら、思案顔に言った。
「しかし、これからの行動にはどうしてもエルディ神ゆかりの導き手が必要だなあ。わしが翼の神から授かった魔力は気まぐれなところがあるからのう」
「ならばどうするおつもりですか」
 やや憮然としているブライスの質問に、魔術師は当然といった感じで答えた。
「その解決策は直接聞いてみるしか無いだろう」
「聞くって。誰にですか」
「エルディ神に決まっておろう。ブライスこれはそなたの役目だ」
 これを聞いてそれまで悠然としていたドレアント王が急に青くなった。
「なんたる事よ、わしは別室で待つぞ」
 みんなは驚いて一斉にドレアント王を見た。
「ブライス。これはザイマン王室の跡継ぎの試練だ、気をしっかり持って乗り越えよ」
「父上、何をそんなに慌ててるんですか。父上は以前に会った事がおありのはずですよ」
 答えもせずにドレアントは出て行った。マルヴェスターがわけ知り顔で言った。
「そういう事だ。神を相手にする経験はそう何度もしたいものでは無いのだよ。だが冠があるザイマンと違って、ここではまさに暁の時刻にならねば女神を呼びだす事はできない。それも女神にとってはぎりぎりの範囲だろう。明日の未明に聖堂にてお呼びしよう。今夜中に各自旅の準備をしておいてくれ」
「それでは私たちはマコーキンとゾノボートに対する陽動作戦の準備にかかります」
 オルドン王は諸侯達と今後の作戦についての打ち合わせに入った。諸侯は王の体を心配したが、聞き入れる王では無く、会議は深夜遅くまで続いた。
 
 旧シャンダイアの国々の王宮や城には、アイシム・バステラの二神と聖宝の守護神に祈りをささげるための聖堂がある。しかしそこには神像のようなものは置かれていない。神の存在がこれらの国々にとってあまりに生々し過ぎるからだろう。マイスター城の聖堂は、庭の一角に造られたそれ程大きくない石造りの建物の中にあった。そこにはかつてこの星を創った二神を表わす、先に実の付いた七本枝の樹木の紋章をデザインしたステンドグラスが正面の天井近くにはめ込まれている。そしてその前に祭壇があり、各国の守護神を示す象徴をかたどった彫刻が飾られている。カインザーではもちろん剣である。
 未明の薄暗い明かりの中、セルダン、マルヴェスター、スハーラの三人は、眠たがるブライスを引きずるようにして、ひんやりとした聖堂内に入っていった。体調が回復していないオルドン王と、ザイマンのドレアント王は出席していない。やがて曙光が差し込み、ステンドグラスから七色の光が丸い円を床に描いた、ブライスがその光の輪に踏み入って跪いた。
「これからどうすればいいんですか、マルヴェスター」
「ただ祈るのだ。エルディ神に心よりお会いしたいと願えばよい」
 ブツブツ言いながら、ブライスが目を閉じて何かを念じ始めた。ブライスを取り巻く七色の光は、朝の光が強くなるにつれて色が薄れ、ほとんど金色に近くなった。しばらく経った頃、差し込む光に混じってチリチリとした光の粉が空中に渦を巻いて現われた。やがて光は徐々に人の形をとりはじめ、気が付くと白の薄い衣をまとった、美しい女神の小柄な姿がそこにあった。
「おお」
 顔を上げたブライスがうめき声に近い声をあげた。女神は子供のように若々しい顔をほころばせてブライスの頭に手を置いた。
「かわいい息子よ。ようやく私を呼んでくれましたね」
 ブライスはまだぼう然としているようで何も言えない。セルダンもスハーラもその美しさに息を呑んだ。女神はマルヴェスターに深いお辞儀をした後、セルダンとスハーラに顔を向けた。
「はじめまして剣の守護者。あなたの剣は、この先ソンタールの将達を震え上がらせることでしょう。そしてあなたがスハーラね、あなたはリラの巻物にゆかりの者ですが、これからは冠とも深く関る事になるはずです」
 女神はもう一度人数を確認するかのように、一同を見回した。
「ドレアントがいませんね。来ているのはわかっているのですが」
 ブライスが慌てて弁明した。
「父は慣れない馬車の旅で具合が悪くなりまして」
「神を相手に嘘を付く事はやめなさいブライス。女神が残念がっていたと父上に伝えてね」
 マルヴェスターがうやうやしく頭を下げて言った。
「お久しぶりでございます暁の女神様。どうやらここカインザーで容易ならぬ事態が進行しているようなのです。どうか我々に進むべき道をお示しください」
 マルヴェスターはこれまでの経緯を女神に説明した。女神は真剣に話に耳を傾けていたが、クライドン神の話のところで顔を曇らせた。マルヴェスターはたずねた。
「エルディ神よ、クライドン神のご様子がおわかりにならないでしょうか。力が弱まっているような気配はございませんか」
「私もその事を心配しています。この数か月ほど、クライドンの神気が時々感じられないくらい弱まる事があるのです。久しぶりにこの大陸まで来てみましたが、やはり神気を強く感じません。西の将の要塞に潜り込む前に、まずクライドンの神殿を訪ねたほうが良いと思います」
「やはりそうしたほうがよろしいでしょうな。実はもう一つお願いがあるのです。我らに導き手をお貸しいただけないでしょうか、私の魔法は時々当てにならぬ時がありますので」
 最後は小声になったマルヴェスターに、女神は笑いながら答えた。
「あなたの魔法は強大ですが、感情によって影響され過ぎますからね。その点、セントーンのミリアのほうがずっと冷静。さてと、導く者が必要なのですね」
 女神の目に急にいたずらっぽい光が浮かんだ。
「ブライスをお連れなさい。私はブライスを通してならば印を送る事ができます」
 これを聞いた時、ブライスの顔にハッとした表情が浮かんだ。セルダンはその口の端が笑うようにあがるのを見逃さなかった。エルディ神は光の中で美しい横顔を向けると、しばらく目を閉じて何事かを念じるふうであったが、やがて両手の親指と人差し指で輪をつくり、それを広げてゆくと手の中にちょうどブライスの頭にはまる程度の大きさの銀色の輪が生まれた。女神は微笑んで言った。
「暁にこの銀の輪を頭にはめて私を呼びなさい。私は直接赴くことはできないでしょうけれど、何かの印を送ります。でもそれもアイシム神の聖宝の力の及ぶ範囲の地域に限ります。バステラ神の領域に入ってしまったら私も印を送ることはできません」
 ブライスはうやうやしく輪を受け取ったが、しばらく迷うように眺めた後、決心したように言った。
「一つだけおうかがいしたい事があります女神様」
「なーに、かわいいブライス」
「つまり道に迷う度に私は暁という時間帯に起きなければならないのでしょうか」
「そうよ。それがどうかしたの」
「実は私はこの世で早起きが二番目に苦手なんです」
 女神はこれを聞くと、嘆くように両手を広げて母親のような口調で言った。
「なんて事でしょう、暁の女神を奉じる王家の嫡子が朝が苦手なんて。早起きをしなさい。そしてもう一つ。ドレアントに、そのうち息子の躾け方について話をしに行くと伝えておいて欲しいわ」
 ドレアント王がこのメッセージを聞いたらどんな顔をするだろう。セルダンはちょっとドレアント王が気の毒になった。女神は急に心配そうな顔になってマルヴェスターに言った。
「気を付けてください。クライドンの神気がこれ以上弱まれば、バステラの獣達の中でも大型のものが大陸の内部まで進入してきかねません」
「まさかザークやドラティがやってくるってんじゃ無いでしょうね」
 まじまじと女神を見つめながらブライスが口を挟んだ。
「その事を言ったのよブライス」
 女神はピシャリと言ってブライスを黙らせた。
「ザイマンをあまり長く不在にできないので、私はそろそろ戻らなければなりません。マルヴェスター、子供達をお願いします」
「うけたまわりました。翼の神からの祝福も、きっとあなた様にあることでしょう」
「それはありがたいこと。ハンサムな神様に伝言をお願い。エルディが会いたがっているとお伝えください」
 女神は花がほころぶような笑顔を見せると、両腕を頭上に上げて組んだ。その二の腕の白さにセルダンは目が眩みそうになった。やがて皆の見守る中で女神の美しい体は白い光に包まれ、光の粉となって天井の窓のほうにゆっくりと吸い込まれるように消えていった。ブライスは泣きそうな顔でその姿を見送っていたが、やがてしてやったりといった感じでニヤリと笑って振り返った。
「やはり俺が必要って事だな、最初の目的地はアルラス山脈の神殿ですね。マルヴェスター、出発は何時頃にしますか」
「朝食をとり終わったら発とう。カインザーは比較的安全な土地だ、ここで時間をかせぐぞ。さっそく準備にかかってもらおう」
 魔術師はそう言い放って聖堂の出口に向かった。それを見送ったセルダンは、気になった事があったのでブライスに近寄って小声でたずねた。
「ブライス、ちょっと聞いていいかい」
「ふむ。その前にちょっと言っておきたい事がある」
「なに」
「おまえと俺は十も歳が違うがな、友達に物をたずねる時に一々断る癖は止めたほうがいいぞ。おまえ一昨年セントーンに行った時も、林の中でエルネイア姫相手にそれを繰り返しただろう」
 セルダンは、思いがけないブライスの言葉に真っ赤になって狼狽した。
「なっ、なんでそんな事を。あれはね」
 ブライスは意地悪くニヤつきながら、右腕でセルダンの肩を抱え込んだ。
「まあ待て待て、これからの旅は長いからなあ。この話は後でゆっくりしようぜ。それで、俺に聞きたい事って何だ」
 セルダンは、今後二度とセントーンでのエルネイア姫との事を話す気はなかったが、話題がそれた事にホッとしてたずねた。
「早起きが二番目に苦手なら、一番目は何だい」
 これにはブライスが困った表情を見せた。
「実はなあ、さっきまで早起きが一番だったんだ。だがな」
「変わったの」
「エルディ神に会って二番に降格されたのさ。一番目は女神様だ。あんなに美しいものを見た事は無いよ。参ったぞ、あの姿を見ていると俺は心を奪われそうになる。親父が会いたがらなかった訳がよくわかった」
 これを部屋の隅に残って耳ざとく聞いていたスハーラが、やや険を含んだ声でつぶやくように言った。
「お薬を調合いたしましょうかブライス様。女性に関心が無くなるような薬がございますよ」
 ブライスはゾッとしたように首をすくめて何か言いかけたが、スハーラの厳しい眼差しにあってたじろいだ。そして仕方なく右手を顔の横にちょっと上げて、心配御無用というような仕種をして去った。セルダンはその後ろ姿を見送っているスハーラに声をかけようと思ったが、その眼差しに真剣なものを感じたので何も言わなかった。部屋に帰ったセルダンは先程のスハーラの眼が、二年前のエルネイア姫の眼に似ていた事を思い出して複雑な気分になった。
  
 それから二時間後には、全員が朝食を済ませて城門の内側に揃っていた。旅立ちには気持ち良く晴れた日だったが、カインザー大陸はほぼ全域にわたって比較的乾燥した土地が続くため、このまま晴天が続くと暑くなりそうだ。重たい鎧を荷馬車に積んで、おなじみの水色の衣装で大剣を鞍にくくり付けたセルダンと、地味な茶色の服のベロフ。赤いシャツに革のチョッキ、手首には鉄の入った革のバンド、足に厚い布の伽半を付けて体力に合った斧を鞍に横たえたブライス。灰色の鍔ひろ帽に黒の長いローブ、奇妙にねじくれた長い杖を携えた魔術師マルヴェスター。そして、淡い黄色の上着と薄い茶色の長いズボン姿のスハーラは小柄な牝馬にまたがっている。その姿をさっきからブライスが惚れ惚れと眺めていた。
「どうかなさったたのですか、ブライス様」
 あまりブライスがじろじろと見つめるので、けげんな顔をしてスハーラがたずねた。
「いや、サルパートの巫女が馬に乗れるとは思わなかったもので」
「サルパートは平地もありますが、教育施設はすべて山岳地帯の交通が不便な所にあります。乗馬は平均的な教練の一つでした」
「ブライス、おそらくスハーラ殿はおまえより乗馬がうまかろう」
 見送りに出ていたザイマンのドレアント王が軽く笑って言った。先程までブライスと小声で朝の出来事について話していたようだが、その時の顔は見ていて気の毒なくらいの憧れと哀しみに満ちていた。並んでいたカインザーのオルドン王は厳しい眼差しをセルダンに向けた。
「セルダンよ。かつて二度、カインザー王国は西の将を追い払ってパイラルの陸橋を渡り、ポイントポートに城を築いた事がある。この戦い、まずはそこを目標とするぞ。いま一度ポイントポートにカインザーの青い旗を立て、グラン・エルバ・ソンタールを牽制するのだ。我が軍は、来週にも陣容を立て直して陽動作戦を開始する。そなたも遅れるでないぞ」
「わかりました。必ずカンゼルの剣を取り返します。父上もそれまではご無理をなさらぬよう、お体にお気をつけください」
 そして父子はしっかりと抱きあった。
「しゅった―つ」
 ベロフの声とともに一行はマイスター城の城門を出た。まずは街道を真っ直ぐ北上して、サルバンの野までの中間地点にあたる大都市セスタまで行き、そこからアルラス山脈の麓の神官達が住むクライの町に方向を変える。クライからはクライドン神の神殿までの登山となる。神殿は大陸のほぼ中心部、高峰三千メートルのライア山の山頂近くにあった。登山路は険しいながら、昔から多くの王と神官達が利用してきているため、道幅も広く馬を引いて行く事ができるはずだった。
 鞍の上でしきりにお尻の位置を調整しているブライスが、不具合を忘れようとするかのようにたずねた。
「一つわからない事ことがあるんですがねマルヴェスター。翼のマルトン神はなぜ直接この事態に介入してこないのでしょう。バステラ神が現われる事ができないのならば、若いマルトン神の力でも十分に聖宝を集めて、黒の秘宝との決着を付けられるんじゃ無いですか」
「おらんのだよ」
「はあっ」
「おらんのだブライス。マルトン神は秤をこの星のどこかに隠した後、わしらを育てた。そしてわしらがバステラ神の高位の神官達に対抗できる程度に成長したのを見届けると、どこか他の宇宙へ遊びに行ってしまったのだ」
「なんと」
 マルヴェスターが頭をかきながらボソボソと弁解した。
「仕方が無いわい。なんといってもマルトン神はまだ若いのだ。兄達の不始末の後片付けをやり通す程の根気が続かなかったのだろう。それに結局はこの星に住む我らの手で決着を着けるべき問題でもある」
 それを聞いていたセルダンがマルヴェスターにたずねた。
「マルトン神がこの星を離れていても、あなたの魔力は弱まらないのですか」
「うむ、それはわしらも不思議に思った事がある。どうやらわしらの力はマルトン神から授かったものというより、マルトン神が管理をまかされたコウイの秤から来ている部分が多いらしいらしい。もちろん翼の神特有の能力もあるのだが、それも衰えないということはどうやらマルトン神は時々この星に立ち寄っているのかもしれないな」
 ブライスはそろそろわけがわからなくなってきた。
「そのお力を期待いたしておりますよ、長老様」
「力のバランスを決めるのはアイシム神の聖宝だよ。お前も冠の守護者である事を忘れんように」
 ブライスは額の輪をうらめしげに眺めた。
 セルダンは街道の左手の常緑樹の木立に目を向けた。青い空の下のほう、遥か彼方にアルラス山脈がそびえている。若い王子は漠然とこの旅は一つの夏で終わるだろうと考えていた。けれどもそれは、いくつもの季節を越えなければならない冒険のはじまりだったのだ。

 −−−−−−−

 西の将マコーキンは前線にいる。年齢はようやく三十を迎えたばかり。九百年以上にわたる五将の歴史の中でも最年少の将である。黒い鎧に黒い髪、銀の剣に銀の盾。背高く整った顔立ちと獣のようにしなやかな筋肉。首都の宮廷にいた頃は夜の公子とうたわれた若き将軍は、暑いサルバンの野を前に十二万の大軍を展開していた。
 この熱い大陸に赴任してから二年。その短い間に旧シャンダイア王国最強のカインザー軍と幾多の戦闘を繰り広げたが、その間この男は不思議なくらいに防御の戦いをしていない。いや、してはならないと思っている。西の将は由来攻められ続ける将であった。そのために魔法使いも防御に長けた黒い盾の魔法使いが配されている。しかしそのこもる要塞は度重なるカインザー軍の攻撃と二度の落城によって実際には廃城に等しい。カインザー軍はその事を知らないし、黒い盾の魔法使いは考えもしないのだろうが、戦闘の天才であるマコーキンには要塞を攻める方法は百通りでも考える事ができた。
 だから城を出てサルバンの野において野戦を展開しているのだが、まだ若いマコーキンは、その戦闘における指揮能力こそ評価されているものの、帝国を指導している中央部に支持者が少なかった。セントーン王国攻略にソンタールの主力を集結しようとしつつある現在、西の将はカインザー軍にパイラルの陸橋を渡らせなければよい。というのがソンタール帝国の中央部の意向であった。そのため兵の数が常に少ない。

 バステラ神の高位の神官、黒い盾の魔法使いゾノボートからの使者がマコーキンのもとを訪れ、しばらくして去った。ザイマンの王族がカインザーに到着した事。そして街道の宿におけるゾックによる襲撃が失敗した事を告げていった。
「つまらない事をする」
 厚い天幕で覆った幕営の中で低い椅子に腰掛けたマコーキンは、吐き捨てるようにつぶやいた。ただ警戒させるだけではないか。ゾノボートは確かに防御に関しては経験豊かな魔法使いだが、敵に対して能動的に行動するときの手口はほとんど夜盗と変わらない。こういう無用な行為がマコーキンは大嫌いだった。戦闘は常に勝利という終点を設定し、そこに向けて緻密かつ大胆に展開するべきものだ。
 しかしこの時期、マコーキンはその勝利の終点をどのように設定するかで迷っていた。最大の理由はカインザー軍の勢いである。驚いた事に、一か月前の戦いでカンゼルの剣を奪われた後も、カインザー王国の戦士達の戦意は一向に衰えていない。マコーキンは不思議なものでも見るかのような気持ちであった。国王が傷つき、力の源とも言える聖宝を失いながらも、いまだカインザー三十万の兵は満々たる戦意を漂わせて最前線の四つの城に対陣している。この大陸の戦士はマコーキンの知るソンタールの兵士の規格からは完全に外れていた。しかし攻めなければならない。セントーン包囲作戦に兵力を徐々に引き抜かれつつある今、大軍を組織して攻め込める時間は限られている。
 幸いソンタール軍の戦意も旺盛だった。マコーキンの将としての美質は、部下に対しておごりを見せなかった事だろう。今回の大勝の後もそれまでと何一つ変わる事なく前線を駆け巡り、兵士達の名前を呼んでは言葉をかけていた。ソンタールの兵達はその姿に子供のように限りない信頼を寄せている。いままで防戦一方だった西の将のもとで戦っていた兵士達にとって、マコーキン将軍着任後の二年間は、初めて訪れた戦士としての誇りを感じる事ができる日々だったのだ。

 過去の西の将がカインザー王国を相手に苦戦を強いられてきた理由は、大陸全体を二つに分けるようにそびえているアルラス山脈にある。シゲノア・ボストールの二城が入り口となる西半分。サルバンの野の南を流れるケマール川を挟んで、レンドー・ブルックの二城が待ち構える東半分。どちらに遠征軍を送っても、西の将の要塞がもう一方のカインザー軍に攻められて、要塞を守るために引き返さざるをえないという状況が繰り返されていた。
 できれば両側から同時に攻め込みたい。マコーキンは狂わんばかりの気持ちで兵が欲しいと思った。いや、この現在の兵力でも今ならなんとか攻勢の戦いができる。シゲノア城方面の戦闘においても、ゾノボートが抱える皮膚のぶ厚い大柄なとかげ兵を前線に立ててじりじりと圧するように前進すれば、少なくとも防戦一方の戦いをせずに済むはずなのだ。その間にレンドー城さえ落とせればカインザーの防御陣は崩れる。しかしこの両面作戦には黒い盾の魔法使いが同意しなかった。
 薄暗い幕営に光が差して、前線の視察から戻ってきた参謀のバーンが入ってきた。
「マコーキン様、魔法使いの使者が来ていたようですね」
 そう言って鼻の汗をぬぐいながら静かに息を吐いた。乾燥した暑い草原の中で、ここだけは冴え冴えとした空気が支配していてひんやりと涼しい。
 マコーキンはゾノボートの使者との会見で少しイライラしていた気持ちが落ち着くのを感じた。バーン参謀にはそういう得難い雰囲気がある。バーンはマコーキンと共に首都グラン・エルバ・ソンタールから、ここカインザーに赴任してきた。中肉中背の特に特徴の無い容姿のこの男は、高い家柄の出身ながら政治に興味を持たず、若い頃から軍師を志して戦場を駆け回った。中年をむかえて、その経験と出自の良さが五将の参謀役という地位をもたらしたが、実際の家柄からすれば決して出世と言える程のものではない。マコーキンは年長のこの静かな男の意見を、常に頭を低くして尊重している。
「いつもと同じだよ。要塞に戻るように言ってきた。カンゼルの剣の扱いについて話したいそうだ」
「まだお渡しにはならないのですか」
「まだだ。ゾノボートに渡す前に見せなければならない者がいる」
 マコーキンはやや意地になって言った。マコーキンの脳裏には、この遠征のきっかけとなった半年前の光景がいまだに焼き付いている。
 遅い冬の日の早朝、まだ青黒い空の下で、要塞のある都市の郊外に一人馬を駆っていたマコーキンの上空を突如黒い影が覆った。空を見上げたマコーキンは、古き竜ドラティが巨大な翼を広げて上空を旋回しているのを知った。いつも気まぐれに戦場を飛びまわり、ポイントポートの牧場で家畜を食い漁っているドラティは、上空をゆっくり舞いながらマコーキンの心に話しかけた。
「西の将、そなたにカインザーをくれてやろう」
 深く、心に直接響く竜の意志。自分をしっかり持っていないと、その意志の力だけでこの獣の言いなりになってしまいそうな、圧倒的な支配力がそこに感じられた。
 実はマコーキンはこの不思議な生き物に、内心少し恐れを感じていた。生き物としてはあまりに巨大で異質な怪物であり、しかも高い知性と深い経験を持っている。カインザーに赴任するまではその存在すら信じてはいなかった。しかし要塞に着いて実際にドラティに会ってみた時、少なくとも黒い盾の魔法使いよりは信頼できるのではないかという直感がした。嘘を言う必要のない生き物を疑う理由は無い。それに、守りの砦と言われた西の将の要塞のあり方に、この獣が不満を持っているらしいという噂も聞いていた。
「古き獣よ、いかにして私にこの大陸をくれるのだ」
「いまから三か月後に兵を起こすがよい。戦場では真っ直ぐにカインザーの王をねらえ」
 竜は何の説明もせずにそれだけ言うと真っ直ぐに上空に昇って行った、マコーキンはみるみる点のようになってゆくその姿を、目をこらして仰ぎ見た。
(竜の申し出に従うべきだろうか)
 マコーキンは視線を要塞に向けた。灰色の巨大な建造物はいつもと変わらず、そこに新しい活力はうかがえない。古びた要塞の姿を見ているうちに、マコーキンは現在の状態を変えたいをいう強い欲求にかられた。若い西の将は竜の言葉に従う事に決めた。
 その後、ソンタールの誰もドラティの姿を見ていない。竜の言葉どおりマコーキンはゾノボートのいつもの反対を押しきって兵をおこし、苦戦の末にカンゼルの剣を奪った。だから竜に聖剣を見せたいと言うのはまるで子供の理屈だが、バーンはそれでもいいと思っている。剣を奪ったからこそ、この軍は旺盛な戦意のもとに遠征ができるのであり、それを取り上げられてしまってはただの要塞守備軍に成り下がる。マコーキンがゾノボートと対抗してこそ、対カインザー作戦は成り立つ。
 その聖なる剣は現在、要塞の南半分を占めるマコーキンの支配領域の最上階。マコーキンの部屋の隣の部屋にに安置されている。魔法使いは今のところ西の将と正面きって争う気はないらしく、剣については本国に送るようにとの要請にとどめている。聖宝はソンタールの者には何の力ももたらさないため、あえて帝国中央部もマコーキン・ゾノボート間に軋轢を起こさせるつもりはないらしく、今の所この件については特に指示はしていない。なんと言っても聖宝を奪ったマコーキンの功績は大きいものだったし、現在ソンタール帝国の首脳達の頭の中は、東のセントーン王国攻略でいっぱいであった。
 マコーキンは机の上の地図をバーンに指し示した。
「バーン。レンドーとブルック、そろそろどちらを攻めるか決めなければならん」
「レンドーでございましょう。艦隊があればブルックのほうが補給をし易いのですが、まともな艦隊が無い現状を考えると、まずレンドー城を奪取して補給路を強固なものにするべきです」
「だろうな。しかし正面から城を落とすには兵が足りない。前任者達の失敗の繰り返しになる。私に一案がある、聞いて欲しい。長駆クライの町を襲撃して戻って来る事が出来る部隊を編成できるだろうか。そうしてレンドー城の兵を分散させる」
「面白いですな、セントーン攻めに引き抜かれた兵の替わりにあてがわれたゾックですが、あれならスピードがあります。それにもともと山岳地帯の生物ですから、襲撃後アルラス山脈の山岳地帯を通って帰還できます」
 マコーキンは、部屋の中央の低い円形テーブルに広げられているカインザー大陸の地図を見ながら、しばらくこの案を頭の中で転がしていたが、やがてアルラス山脈が描かれた部分を北から南に棒でなぞりながら指示した。
「いや、クライの襲撃後はアルラス山脈を南下させてマイスター城の周辺の町を襲わせて欲しい」
 バーンはニヤリと笑って手を打った。
「うけたまわりました。いままでカインザーの重戦士相手に使い道の無かったゾックがようやく役に立つときがきましたな」
 マコーキンはそこまでは楽観していなかった。ゾックはやはり山岳地帯などで地形を利用しないと能力を発揮できないだろう。なんと言っても個体としての戦闘能力が低すぎる。しかし後方深く進入できれば、オルドンも注意を払わざるを得まい。なんとかカインザーの分厚い戦陣を揺すぶってやりたかった。そして今度こそカインザー王を討ち取る。若いマコーキンではあるが、さらに若い王子セルダンの存在を、この時点ではまだそれ程気にはしていなかった。

 カインザー国王オルドンの立ち直ってからの行動は早かった。まずシゲノア城を守る豪傑トルソン侯爵に伝令鳥を放ち、西の将の要塞への攻撃を、怪しまれない程度に鈍らせるよう指示した。マコーキンは硬軟自在の戦略を使ってくるが、用心深いゾノボートをおびき出すには慎重に慎重を期さねばならない。次にサルバン方面の主力部隊にブルック城への移動を命じた。マコーキンとの決戦はできれば野戦ではなくレンドー城で行いたい。中央部を薄くしておびき出す、そのための誘導作戦だ。そして王自らが兵を率いて街道を真っ直ぐに北上し、レンドー城に向けて駒を進めることにした。兵力の配置は西のシゲノア城が七万、ボストール城が五万。サルバン方面のレンドー城七万。ブルック城九万となる。もちろんブルック城の九万は必要に応じてレンドー城へ急行出来る体勢になっていた。その時間はケマール川が稼いでくれるはずである。
 対するソンタール軍は、サルバンの野方面がマコーキンの正規兵のうち、要塞守備に残っている一万を除く十二万。シゲノア城方面はゾノボートのとかげ兵ブールと神官兵と傭兵の混成部隊が八万。数においてはカインザー軍が確実に上回るはずであった。
 出発を直前に控えた王の執務室で、オルドン王は内外二人の大臣に最後の指示を与えた。
「王様、どうしてもご自分で最前線にいらっしゃるのですか」
 小柄な体を落ち着かなげに動かして外務大臣のアシュアン伯爵が心配そうに聞いた。
「そうでなければ陽動作戦になるまい。留守はランバン翁がうまく仕切ってくれよう。テューダ、ザイマンの艦船の建造を頼むぞ」
「はい。アルラス山脈の麓の森林から切り出した木材を、ベイン川を利用してソラム町の港まで運びます。すでに建造ドックをソラムの近くに建設する準備に取りかかりました」
「されば憂いなし。わしはレンドー城でマコーキンと戦おう。その勝敗にかかわらず、カンゼルの剣の担い手はセルダンに移ったと思ってくれ」
 しばしの沈黙が三人の間に流れた。朝の明るい光が窓から差込む中、やがて二人の大臣はうやうやしく頭を下げた。

 ソラムの港に停泊したいた「暁の女神号」は、ドレアント王の乗船を待ちこがれちたようにそそくさと出港した。船に戻った海の男達は、二週間程度の陸上暮らしでもう身体が鈍ったと嘆いていた。実際、ズボンのボタンがとまらなくなっている者がかなりの数いたのは確かであった。しかしザイマン王ドレアント自身は、腹が出ようが身体が鈍ろうが一向に関係が無い風情で甲板を闊歩していた。王には勇気があれば良い。ドレアントはそう思っている。単純だが、王の勇気はザイマンのすべての船乗りが知っている事だった。そして勇気こそが、船乗り達が命を預けるに足る男に求められる、最大の資質だったのだ。
 その王は、いましも飲み干したジョッキを豪快に海に投げ捨てる所であった。ハラハラしながら王の様子をうかがっていた侍従長のロタスは、悲しそうな目でため息をついた。これで、今回の航海でいくつめだろう、いっそ木のジョッキでも作って網ですくい上げさせようか。そんな侍従長の気持ちをよそに、ドレアント王は風を巻いて波をけたてるザイマン船のデッキを踏みしめながら、何が楽しいのかカラカラと笑った。そしてグイと振り向くとロタスにどなった。
「カインザー近海に高速艇は何艘ぐらいある」
「サルパートから向かっているものが一艘。現在こちらに技術者を乗せて向かっているものが一艘です」
「サルパートからのものをカイラの港に、今向かっているものは、ソラムで技術者を降ろし次第ブルックの軍港にまわせ。どちらもブライス達がいつでも使えるように準備しておくのだ」
「しかし、高速艇はたいへんに揺れます。マルヴェター様がお怒りになりますよ」
「ファッハッハ、かまわんわい。時間が大切なのだ」
 ドレアント王は、タイミング良く給仕が持ってきた銀のジョッキに手をのばした。それを見ながらロタス侍従長は今日のスケジュールに一つ付け加えた。あの給仕には酒を出すタイミングとジョッキの選び方について、後で厳重に注意をしなければならないだろう。

 −−−−−−−

 黒い盾の魔法使いゾノボートは、巨大な要塞の北側の地下にある祭壇の間に黒々とうずくまっていた。ここから離れることはめったに無い。
 うたぐり深く用心深い魔法使いは、小柄で痩せこけた体をしており頭髪は奇麗に剃り上げられている。その薄い頭皮には、魔力を引き寄せるいくつかの模様が入れ墨されており、低い姿勢で体を小刻みに揺らしながら不安げに動き回るのが癖だった。
 祭壇の間自体は、十五メートル四方程度のそれ程大きな空間では無い。その部屋の中央からやや北によった床の上に、一辺が二メートル程の六角形の黒い大理石で造られた祭壇が設置されている。その表面は長年の神官の祈りで磨き上げられたようにつやつやとして、薄暗い部屋の中の小さな明かりを反射させていた。祭壇の角にあたる部分には五つの黒の秘宝の形をした影がゆらめいているが、盾の位置にあたる部分だけ影が欠けている。その盾の本体は祭壇の中央の空中に怪しいゆらめきをまといながら浮かんでいた。
 魔法の盾と言っても別に巨大なものではなく、大人が片手に装備できる標準的な大きさだったが、その表面をうずまくように黒い妖気がうごめいている。その妖気の不気味さは部屋の中の空気全体を蝕んでいるようだった。
  
 カインザー大陸の北の入り口。パイラルの陸橋の前に建設されたこの要塞には、全く性格の違う二つの集団が同居していた。最上階を含む建物の南半分と外壁に近い地区には、黒い鎧のマコーキンの規律正しい兵が駐屯している。普通の人間であった初代ソンタール王ザマラブは魔法使いを五将の下に配したが、それから二千年以上の時が流れた現在では、魔法使いの権力もまた五将に比肩するところまで高められていた。それだけ帝国の中枢部に神官の影響力が浸透しているあかしとも言えよう。その魔法使いゾノボートを中心とするバステラ神の神官達は、要塞の北半分と複雑に入り組んだ地下に奇怪な宗教社会を現出させていた。
 ここに赴任してくる代々の西の将のほとんどは、要塞の守備に専念したためゾノボートも行動を共にする事ができたが、マコーキンの代になってからは完全に方針が別れてしまっている。ゾノボートはここに赴任してすでに四百年。マコーキンを含めて十八人の将と行動を共にしてきた。名将と言ってよいマコーキンですら、ゾノボートから見ると、代々の西の将の中で最も経験の浅い若造に過ぎない。
 ゾノボートの前任者は、前回の要塞陥落の時にカインザー王に斬り殺された。
(哀れなものよ)
 魔法使いは思い返してその前任者をあざけった。肉体は滅んでも、高位の黒の神官程のものならば、魂だけでもなすべき事はあるのに。しかしカンゼルの剣を体に受けるという致命傷はいかんともしがたい。当時の黒い盾の魔法使いは、後継者として側に仕えていたゾノボートの目前で、剣に魂を吸い取られて絶命した。その時の恐怖がこの老練な魔法使いに染み込んでいる。なまじ長寿なだけに死が恐ろしい。
 その憎きカンゼルの剣が、今この要塞にある。ゾノボートとしては一刻も早くその剣を首都に送って厄介払いしたかったが、マコーキンと正面から争う気はなかった。このあたりが、個性の峻烈なバステラの神官達の中では変わった存在であり、その用心深い思考が、あやういながらも異端児マコーキンと共にこの要塞を持ちこたえさせていたともいえる。
 むしろゾノボートは普通の人間であるマコーキンよりも、同じ闇に属する怪物である巨竜ドラティを憎んでいた。対立しつづけてきたと言ってもよいかもしれない。ドラティは守りに専念する代々の黒い盾の魔法使いを上空からあざけり続け、魔法使いは薄い緑がかった銀色の巨大な獣を、無思慮だと地下でののしった。その怪物がこの半年間程姿を見せていない。壇の上、吸い込まれそうな妖気が漂う盾を見つめながら、ゾノボートはまたもやいわれのない不安にかられた。どこへ行きおったのだ傷だらけの怪物め。
 チリチリと小さな鈴が鳴って。配下の神官の一人が上に上がる扉を潜り抜けて入ってきた。要塞でゾノボートの次の位に位置する黒の神官ブアビットである。まだ若いながら、その魔力には並々ならぬものがあった。
「ゾノボート様。シゲノア城と、ボストール城のカインザー軍が徐々に引き始めております」
「引くだと。カインザーの小僧共が引く事を知っていたとは、わしの記憶には無いぞ。確かな情報か」
「はい、前線からの報告がすべてこの状況を示しています。現在、西の将の軍がサルバンの野に分け入ろうとしています。すでにカンゼルの剣が無い彼らは、さすがに守りにまわっているのはないでしょうか。ボストールの城の兵が密かにサルバンの野の方面に移動を開始しはじめたという情報もあります。ザイマンの船のカインザー近海での動きが活発化しているのも、あるいはそれが原因かもしれません」
 ゾノボートはこの発言に露骨な不快感を示してみせた。なんと短絡的な発想だろう、この男がわしに取って替わる日は絶対に来るまい。
「断定をするでない。あの小僧共にはそれ程手の込んだ作戦は使えないかもしれないが、マルヴェスターめが来ておる。翼の神の弟子に気を付けよ」
「はっ。しかし、西の将がサルバンの野で戦うとき、わが軍がいつまでも要塞にいれば。やがてシゲノア城のトルソンめの兵がやってまいります。あるいは少しこちらから押し出してみる機会ではありますまいか」
 ブアビットの目には功を成そうとする野心があきらかに見え隠れしていた。これはゾノボートの最も嫌うところである。ゾノボートは厳しい言葉で叱責しようと口を開きかけたが、壇上の盾に目を止めてしばらく考え込んだ。部屋の中を重苦しい沈黙が支配する。年下のブアビットは内心で舌打ちをした。こうなったゾノボートが延々と半日近く思考を続けたのを見た事があるからである。
(臆病なおいぼれめ)
 やがてゾノボートは低い声でつぶやくように言った。
「ブールの隊を」
 ブアビットの目の光がにぶくなった。
「少し前に出してみてもいいかもしれんな」
 反対されると思っていたブアビットの顔に、意外といった感じの驚きが見えた。ゾノボートは部下のこういう動揺が好きでたまらない。
(悩むがよいわ)
「とかげ兵ブールを前進させよ。ゆっくりと、ゆっくりとじゃ」
 年下の神官が去った後、黒いゆらめきと共に不気味な存在感を示して浮ぶ盾を見つめながら、ゾノボートはその盾に秘められたバステラ神の黒い神気を探ってみた。あきらかに以前より強くなっている。この盾の力の異様な昂ぶりは何を示しているのだろう。対立するカンゼルの剣が担い手の元を離れた事がこれ程までに影響するのだろうか。カンゼルの剣とクライドンの力の関係については、長い研究を経てもまだ結論が出ていないが、クライドンの力が弱まっている事はどうやら確かなようだ。
 慎重に慎重を重ねて生き長らえてきたこの守りの魔法使いの心に、ふと積極的に出るときなのではないかという気持ちが湧いた。これは底無し沼のように抵抗を続けるセントーンにからみ取られた、他の魔法使い達を蹴落とす生涯にただ一度の好機なのではあるまいか。
 バステラ神の神官の世界にも当然のように権力抗争がある。実力と策謀、この二つを兼ね備えていなければ黒の秘宝の魔法使いにはなれない。ゾノボートはライバルである五人の黒の秘法の魔法使いの姿を思い浮かべて、日課と言ってもいい力の比較の検討をはじめた。
 悔しいが黒い指輪のガザヴォックには歯が立たない。もはや人間の域をはるかにを超えている。その魔力は六体の闇の巨獣をあきらかに凌ぎ、もしかしたら聖宝神をも超えるかもしれない。ガザヴォックは恐れるべし。しかし、現在のこの盾の力なら他の四人には勝てるのではないだろうか。
 哀しいかなこの盾には攻撃する力が無い。しかし、相手の攻撃さえ防ぎきれば、おのずと勝機はおとずれるはずだ。カインザーからアイシム神の力を一掃した時、この黒い盾の魔法使いの力はバステラ神の神官のナンバーツーになる。いや、なんとかして、ガザヴォックに比肩する超人マルヴェスターを罠にかけてでも打ち破ることができれば、ガザヴォックの力に対抗する方法も見いだせるのではないだろうか。ゾノボートは黒い盾をにらんで考え込んだ。そろそろ我が生涯にただ一度の賭けをする時なのかもしれない。

 −−−−−−−

 セルダン達はセスタまでの道を七日で駆け抜けた。セルダンは幼い頃から何度もこの街道を通った事があるが、戦闘を経験してから通ってみると、実に機能的に整備されている事がよくわかった。
 カインザー特有の乾いた黄色い土の路面は平坦にならされ、小石まで丁寧に取り除かれていた。短い雨季に入っても、道の中央部から両側にかけてのかすかな傾斜と側溝によって水溜まりが出来ないように工夫されている。乗馬に飼い葉を与えることができる休憩所も規則正しい間隔を置いて設置され、さらに休憩所と休憩所の中間地点には道標が立てられているため、大軍の移動の際に距離や日程の目安になっていた。セルダン達は各宿場ごとにゾックの情報を聞いてまわったが、駐屯兵が厳重な警備体制を敷いていたので、深夜の襲撃はもう無かった。
 むしろこの旅は時間との戦いだった。まずクライドン神に何が起きたのかを知る必要がある。もし打てる手があるのであれば素早く打たなければならない。そしてさらにその先に、カインザー大陸を抜けてソンタール帝国への潜入という困難な旅が待っている。サルパートの港町マットから先、要塞に潜入するまでの時間については、いまのところ全く予測が付いていない。余計な時間を取らないように、ソンタールとサルパートの国境にあるテイト城には寄らないで行くという事だけが決まっていた。
 一行が進む街道の両側には常緑樹の並木が植えられていて、風とほこりを遮ってくれているので、セルダン達は自らの起こした風を追って走っているように快適だった。しかしこのスピードに一人だけ悲鳴を上げ続けている者がいる。ザイマンの王子ブライスである。馬に乗りなれない巨漢の海の男にはそろそろ騎乗の旅の限界が来ているようだ。セスタの城壁がもうすぐ見えるという頃になって、ついにブライスが音をあげた。
「待ってくれセルダン、この国には馬以外に人が乗れる生き物はいないのか」
 セルダンは振り返って笑いながら答えた。
「馬以外だと、牛とか、象とかになっちゃうよ。人が乗るのでは馬が一番速いんだ。もっともこの大陸でという意味ならドラティに乗ることが出来るかもしれないけれど」
「噂に聞く竜か、俺はまだ見た事が無いが、ドラティってのは乗っかると冷たいんじゃないのかなあ。マルヴェスター、あなたは南の将の獣のような巨大な鳥になれませんか」
「さてどうかのう、しかし、もし変身できてもおまえの重量を背負わされるのは御免こうむりたいな。スハーラならば考えてみないわけでもないが」
 格好はお世辞にも良いと言えないながらも、けっこう巧みに馬を操っているマルヴェスターは、そう言うと期待を込めた目でスハーラを見やった。
「とても素敵なお考えですわ長老様」
 スハーラは微笑しながら軽く受け流した。ブライスはブツブツ言いながら、馬の上でふて腐った。
「さあ、見えてきた。セスタだ」
 一行が越えようとしていた丘が頂点に差しかかると、長い城壁に囲まれた巨大な都市の姿が一行の目の前に浮かび上がった。ベロフがセルダンに一礼して都市に向かって先駆けて行った。
 セスタは元々は城塞として築かれた都市だったが、補給基地としての性格が強まるにつれて大きな倉庫や駐屯用の広場がつくられるようになり、その面積を拡張してきた。そのため都市全体に見張り塔のような高い建物は必要無くなったが、それでも多くの小さな塔を城壁が繋いで、都市全体が大地に広く根を張った形で地形に沿って広がっている。気分の切り替えが早いブライスは待ち焦がれたといった感じで嬉しそうな声を上げた。
「いやでかいなあ。セントーンの都市もそうなんだが、こんな大きな都市に生活していると、覚えることが多くて頭の中が混乱しないだろうか」
 ブライスのような島育ちではないが、やはり平地が少ないサルパート生まれのスハーラも目を丸くしていた。
「私はサルパートから離れたのは今回が初めてでしたので、これ程大きな都市を見るのは今日が初めてです。セルダン様、どうして王のお住まいになるマイスター城がある町よりも大きいのでしょうか」
「セスタはサルバンの野に大軍を送る際の中継地点になるんです。城壁は整備されていますが、まだ一度もここまで敵が攻め寄せた事はありません。だからここより安全なマイスターには、政治を行う機能さえあればいいんです」
 セルダンが誇らしげに説明した。近づく一行の前にはすでに巨大な門が開いていた。ここでセルダンが先頭に立った。何と言っても次期国王である。ベロフの知らせを受けたセスタの守備隊が一行を迎えに整列している。ブライスがうんざりしたようにため息をついた。
「なんともおおげさな。こんな事をするのは、こことセントーンだけだぞ」
「規律なのさ。大軍を動かすにはそれが必要になるらしい」
「そんな事は無いぜ。ザイマンなんて船長さえ知っていれば艦隊の指揮は出来る。船員が乗船前に船と船長を選ぶんだ。だから船長に命令すれば船員は従うし、船長を見れば船員の質もわかる」
「そんなものかなあ」
 精一杯の威厳を装ったセルダンに従って、一行は守備隊の列の間を通って門をくぐり抜けた。ブライスは物珍しげに頭上にのしかかる門の天井や城壁の側面を眺めていた。それ程高いものではないが、横から見れば城壁のぶ厚さがよくわかる。
 これまで進んできた街道は、そのままの幅で都市を突っ切るように北に向かって延びていた。その道をたどって街の中心部に近づくと、やがてにぎやかな繁華街に囲まれ、さらにそこを抜けると大きな広場があって様々な市場がたっている。そしてその広場の中央まで来ると、向こう側に大きな屋敷が見えた。
 この屋敷には、いつもはカインザーの九諸侯と呼ばれる貴族の一人クライバー男爵が住んでいる。しかし現在男爵は前線のブルック城に滞陣しているので、その留守を妻のポーラと幼い息子のアントンが守っているはずである。セルダン達が近づいてゆくと、屋敷の大きな門はすでに開かれていて、小さなアントンがピンと背筋を伸ばして待機していた。その後ろに母親のポーラが豊かに微笑んで立っている。セルダンは、その隣に背の高い、クライドン神の青い神官の衣を着た男が立っているのに気が付いた。
 小さな貴族、青い目のアントン少年がかしこまって挨拶を述べた。
「ようこそおいでくださいました、セルダン様、ブライス王子様、そしてマルヴェスター様。お待ちいたしておりました」
 セルダンはにこやかに微笑むとアントンの肩に手をまわして答えた。
「ごきげんようアントン、出迎えありがとう。ポーラ夫人、お久しぶりです。いつのまにか立派な男爵の跡取りが成長されていたのですね」
 ポーラは微笑んで優雅におじぎをしてこれに答えた。馬を降りたマルヴェスターは真っ先にクライドンの神官に質問した。
「おお、ダーレスか。クライの情報を聞かせてくれないか。どんな小さな事でもかまわん」
 青い衣の神官が前に出て、真剣な顔でマルヴェスターに報告した。
「クライの町の聖剣の碑が折れました」
 マルヴェスターの顔が一瞬ゆがんだ。
「剣の碑に異変があったのか。神殿へは誰か向かったか」
「いえ、近づけないことがわかったのです。神殿近くまでゆくと何かの結界に遮られてしまいます。何物かがアルラス山脈の高峰、神殿があるライア山の頂上付近を隠しています。石碑が折れるまで我々がこの異変に全く気付かなかったのはそのためです」
 ブライスがうろ覚えの知識を確認するように質問した。
「聖剣の碑っていうのは、クライドン神の象徴の剣の形をした石碑だろう。カインザー王国の始まりとなった出来事を記念して、剣が岩に刺さった形をしている物だ。それが折れるとどうなるんだ」
 ダーレスが説明した。
「折れたからどうなるかではないのですよ、ブライス王子。あの剣の碑はカインザー王国の建国期に神と王家が約束して神につくってもらったものなのです。クライドン神はあまり邪魔されるのがお好きではないし、神官達にしてみればやはり祈る対象が欲しかったものですから。この事態で心配なのは、何らかの理由でクライドン神の力が、そういうゆかりのものを支える力の限界点を下回ってしまった可能性があるという事なのです」
「それはまずいな。神というのはつまり力そのものという意味でもあるんだろう。力が落ちるということはクライドン神が消滅しそうだということなのか。マルヴェスター、神を消す程の力を持つものがこの星にどれだけいるんですか」
「数えるほどだろうな。しかし厳密に言うと聖宝神は神と言うより精霊に近い。アイシム神などのような宇宙神とは力がかなり違うから、消されてしまう可能性はもちろんある。例えば年齢だけで言えば、ソンタールの巨獣のほうが聖宝神より歳を重ねているが、年齢もまた力の重要な要素だ。あるいは黒の秘宝の力を統御しているガザヴォックが本気になれば、聖宝神を消すくらいの事はできるかもしれない」
 ブライスはしばらくマルヴェスターを見つめていたが、喉に何かが詰まったような声で言った。
「なる程。ガザヴォックとあなたの力がほぼ同等という噂を考慮すると、エルディ神があなたに丁寧な姿勢をとる理由がわかりましたよ」
「つまらん事を考えるな」
 マルヴェスターはすぐにも発ちたいといった雰囲気だったが、馬に揺られた後のブライスの妙な歩き方を見てあきらめたようだった。
「ポーラ、すまん。ゆっくりしたいのだが、急がねばならん。今夜一晩だけ世話になって、明日の早朝には発つことにしよう。ブライス、その妙な歩き方を明日までに直しておけ」
 ポーラは笑みを絶やさずに言った。
「奇麗な智慧の峰の巫女様がいっしゃるようですから、ブライス様も一晩あれば回復なさるでしょう。でもゆっくりしていっていただけないのは残念です。セルダン、ブライスの両王子様、次回はぜひアントンと遊んでいけるようなご予定を組んでくださいませ」
 セルダンは、アントンと手をパチンと合わせて笑いながら答えた。
「約束しますよ。この大陸から西の将を追い出したら、またゆっくり遊びに来ます」
 その夜、セルダン達はクライバー男爵の屋敷で暖かいもてなしを受けた。男爵の若い妻ポーラは、明るくキビキビとしたカインザー女性の典型のような人物だった。セルダンは姉のような雰囲気を持つこの女性が大好きだった。そして小さくても利発なアントンは楽しい話相手だった。一人っ子のセルダンは、赤ん坊の頃から知っているアントンを見て、こんな弟が欲しいと心から思った。アーヤの姿がふと頭に浮んだが、どうしてあんな妹のような者を持つことになってしまったのだろう。その原因となったマルヴェスターは、さっきからビールのジョッキを片手にポーラと話し込んでいる。
 ブライスはスハーラにかかりきりだった。ただ、二人の会話だけを聞いているとスハーラがブライスのお尻に興味があるように聞こえてしまうのだが。どうやらスハーラがブライスの鞍擦れを治療したがっているらしい。やがて夜が更け、日付が変わって濃紺の夜空が黄金色の朝日にきらめく頃、一行は馬上の人となっていた。

 智慧の峰の巫女スハーラはブライスの姿をいつも前に見ながら騎乗していた。乗馬が巧みなスハーラにとってこの早駆けは気持ちの良いスピードだったが、ザイマンの王子の様子が気になっていた。お尻の痛みのせいにしているが、この陽気な男が海から離れるにしたがって元気が無くなっていくのは確かなようだ。マイスター城を出発した時は左手の遥か彼方にあったアルラス山脈が、いつしか目前にそびえるように位置をかえていた。
 そのブライスがセルダンに話しかけている。
「セルダン、クライドン神に会った事はあるか」
「ある。年に一度の参拝に、やっと一昨年から同行させてもらえるようになって、最初にライア山に登った年に拝謁した」
 セルダンはその時の事を思い出すと身震いがしてくるのを抑えられなかった。玉座に座った神は圧倒的な威圧感を持っていた。美しいエルディ神とは全く異質なのだ。
「昨年の暮れ、僕にとっては二度目の参拝に行った時には、クライドン神はいらっしゃらなかった。いつもうつし身でそこに存在するわけではないんだって。ある種の神界のような領域がこの星の空間の中にもあって、そこにおわしたようなんだけれど、詳しくは誰にもわからない」
「ふむ。それでその神殿っていうのはどんな所なんだ」
「神殿と呼んではいるけど、実際には建物があるのでは無くて、大きな円を描いて石柱が並んでいるんだ。その中央に巨大な玉座があるんだけど、神は時々実体化してその玉座に座っているらしい」
 アルラスの高峰の頂上が視界の上方に隠れて何日か経った日の早朝、一行はようやくクライの町に着いた。クライドン神の神殿はこの町から遥か高い所、ライア山の山頂近くにある。カインザー王国の宗教の中心地、クライの町はアルラス山脈に囲い込まれるようにして建設されていた。ここに住むのはほとんどが神官という事になっているが、クライドン神の神官は戦士としても極めて高い力を持っている事はあまり知られていない。また、神官達以外にも、様々な罪を償う罪人達がいる。神の近くで浄罪する機会を与えるための施設がここに設置されているからだ。
 クライには城壁が無く、森から出るとすぐに町の中に入ってしまう。街並みは整然としていて清潔だが、それは清浄なたたずまいというよりは、厳しさにも似た緊張感に溢れていた。アイシムの聖宝神にはそれぞれに豊かな個性が備わっているが、クライドンは親しみやすいエルディや、やさしく辛抱強いセントーンの豊穰の神ミルトラと違って、人が関りにくい峻厳な神であるからかもしれない。先頭に立ったダーレスに率いられた一行は、真っ直ぐに町の西にある広場に向かった。
 聖剣の碑の前には、すでにクライの神官の長マイラスが待っていた。高齢の背の低い神官だが、壮年の頃はカインザーの九諸侯の一人として戦場で勇猛さをうたわれた。セスタのクライバー男爵の父親にあたる。引退して神官となった今でも神官戦士団の長として事実上この町を治めている。
「ようこそおいでくださいました。翼の神の弟子様。そして王子様方。伝令鳥の知らせを読んで、お待ちいたしておりました」
 丁寧な中にも緊張感がある声だ。マルヴェスターは一言二言、言葉を交わしたあと、台座に近寄って剣が岩に突き刺さった形の碑を見つめた。ちょうど刃が岩に刺さったあたりで折れており、柄の部分が下の台座の上に落ちている。普段は淡い光を放って輝いていたと言われる岩の部分にももう光が無い。
「輝きも失せたか」
「我々の手抜かりでした。先々月に王が剣を奪われた時から、ここに詰めていさえすれば、あるいはその力の衰えに気付いたかもしれませぬ」
「いや、無理であったろう。かなりの力の持ち主がこの事態を起こしている。あの山の上まで行かなければ、これを解決することはできないだろうし、おそらくそれは聖剣の担い手にしか出来ないことだ」
 マイラスはセルダンに向かって言葉を続けた。
「セルダン王子、ゾックめが現れたこともうかがっております。わが神官戦士団もいつでも戦闘に加わる事が出来るよう準備を始めております。王子様のお許しがあれば、罪人達にも戦場にて浄罪の場を与えることも可能でございます」
「まだそこまでは考えなくていいよ。ただ、健康な者はすぐに組織できるようにしておいてください」
「かしこまりました。しかし今はまずクライドン神の神殿への道をひらく事が大事かと思います。山頂の結界の事はお聞きになりましたでしょう」
 マルヴェスターが石碑に背を向けて厳しい顔をして言った。
「うむ。見てみないとわからないが、まずはそれを解決せねばならんな。今日はもう少し進んでおこう、最初の山小屋まで行く」
「そうくると思った。」
 ブライスがあきらめ顔で天を仰いだ。マイラスがダーレスに指示した。
「ダーレス。頂上までご案内しなさい。その後、戻って詳しい様子を知らせてくれ」
「かしこまりました。ベロフ様、登山の準備をお手伝いいただけますか」
 ダーレスとベロフが準備をしに去った。その間に一行はマイラスの館で食事を取ることになった。それらの話の間、皆の後ろでずっと熱心に耳を傾けていたスハーラは、馬から降りたブライスのお尻に触ってみたいという好奇心に負けて、こっそり移動してブライスの尻をそっとなででみた。キャッといってブライスが飛びあがった。その様子を見ていたセルダンは、なんだかこの二人が自分より子供に見える時があるのに気が付いた。セルダンはブライスに声をかけた。
「もう少しの辛抱だよ。第一の山小屋までしか馬には乗っては行けない。そこからは坂が急になるので馬を引いて登る。険しいけど道はちゃんとしているから、たぶん一週間くらいで神殿につくと思うよ」
 ブライスは、お尻をさすりながらブツブツと答えを返した。
「スハーラは山道でも馬に乗れるそうだぜ。先に行って様子をさぐってもらったらいいんじゃないか」
「それで、スハーラさんが危険な目にあったら誰が助けるの」
「それは考えていなかった」
 ざまあみろといった感じでブライスが言うと、スハーラはちょっとふくれて一行の後に従った。その時、ライア山から冷たい風が吹き下ろしてきて、若い巫女の頬を打った。スハーラは腕を体にまわして小さく震えながら山頂を見上げた。
 そこには、白く巨大ないただきがそびえ、冷たく下界を見下ろしていた。

(第ニ章に続く)


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