第二章 巨竜降臨


 カインザー大陸の中央を南北に走るアルラス山脈の東側のふもと、山と平地の境目の線に沿って小鬼ゾックの部隊が南下している。率いているのは小鬼の魔法使いと呼ばれるバステラ神の神官テイリン。若い痩せっぽちの魔法使いは、猛烈なスピードで移動するゾック部隊の先頭を小型の馬で懸命に走っていた。率いていると言うより、追いかけられているといった表現のほうがピッタリするかもしれない。明るい茶色の髪が頭にベッタリへばりつく程の大汗をかいているのだが、それをぬぐう暇さえない。
 ゾック部隊の数はおよそ三千、この人間型の山岳生物は一歩ごとにジャンプしながら走るので、遠くから見るとまるでバッタの大軍の移動のように見える。そんな一種異様な光景の行軍が、この数日カインザー大陸の中央部で続いている。
 西の将マコーキンの命令を受けたこの部隊の目的地は、カインザー王国の宗教の中心地クライの町。率いているテイリンの考えでは、クライにたどり着くまでは一切の余計な戦闘を行うつもりは無い。ゾックはそれ程タフな部隊ではないのだ。そのため昼間は山地に潜み、夜になると移動を続けた。
 行軍を開始して一週間目にあたる暑い日の正午頃。ケマール川まであと一日の距離という地点の山間で、テイリン軍は休憩を取っていた。要塞から持ってきた携帯食はとうに食い尽くしていたが、ゾックは雑食であるため、近くの木の実や虫や小動物を採ってきてはざわざわと座り込んで食べている。そんな姿を眺めながら、テイリンは一人で野営地の隅に行き、小さな魔法の火で暖めたカップのお茶で手を温めていた。どうしてこんな事になってしまったのだろう。正直言って、テイリンは自分の運命の不思議さに困惑していた。
 茶色のマントを細い体に巻きつけて不安そうな大きな目をしたこの男は、まだ生まれてから二十数年しか経っていない。ソンタールの魔法使いとしては異例の若さと言ってよい。そもそもテイリンは、元々はバステラ神の神官では無かった。
 テイリンが黒の神官になった原因は二千五百年も昔の出来事にある。かつて月光の将と呼ばれたユマールの将が、セントーン攻略に失敗して大鬼ザークと小鬼ゾックを残して去った時、これらを治める魔法使いについてソンタール帝国内で検討された事があった。しかし魔法使いの人選が始まる前に、独立した意思を持つ怪獣である大鬼ザークが、勝手に姿を消してしまうという事態が起こった。一方ゾックはあまりにも数が減っていたので、これをひとまず故郷であるソンタール中央部の山岳地帯に返して、もう一度繁殖させなければ戦力として使い物にならない事がわかった。そのため、結局魔法使い選びの話は立ち消えになり、そのまま忘れ去られてしまったのである。
 山奥の村に返されたゾックには監督官が付けられる事になったが、その任に就いたのがテイリンの遠い先祖だった。なかなか増えないゾックを代々のテイリンの家の者達は辛抱強く保護してきた。山岳地帯の生存環境は厳しく、何よりもゾックという生き物は元々繁殖力が低かった。さらに時々、役に立たないゾックの保護をやめて前線で使い尽くしてしまおう、という意見が帝国中央部で浮かび上がる事もあった。そういう時には、監督官であるテイリンの先祖がわざわざ首都まで嘆願に赴いて、なんとかゾック繁殖計画の存続を続ける約束を取り付けてきたのである。
 そういう並々ならぬ努力を続けて、およそ二千五百年をかけてテイリンの父の代に、ようやくゾックの数は数千を数えるに至った。もっともそのころには、残念ながらソンタール帝国中央部ではゾックの存在すらもほとんど忘れ去られてしまっていた。しかし片田舎の異種族の村に生まれ育ったテイリンは、そんな事など考えた事も無かった。むしろ、ゾックの復活こそが、ソンタールに勝利をもたらす道だとテイリンの家の者達は信じていたらしい。ゾックは集団としての行動では極めて規律が正しく、スピードがあった。それだけが取り得なのかもしれないが、使い様によっては活躍の場が得られるはずなのだ。
 ゾックはゆっくりと数が増えたので、監督官にとって組織化もし易かった。そんな村に生まれ、子供の頃からゾックの集団の中で育ったテイリンは、いつのまにかゾックを自在に操る術を身に付けていた。だからテイリンが父親から監督官の役目を引き継いだ時、志に燃える若者が、ようやくゾックの力がもう一度帝国の役に立つ時が来たと思ったのも無理からぬ事だったかもしれない。
 その事を帝国の中央部の人達に相談するために、二十歳になったばかりのテイリンは初めて首都のグラン・エルバ・ソンタールまで旅をした。山間で目立たないようにと一族が代々着続けた茶色の服で精一杯の正装をしたテイリンは、くたびれた馬を引いて首都の宮殿の門の前に立ち、整然と並んだ衛兵にソンタール軍の最高主導者ハルバルト元帥への面会を申し出た。しかし、その風体と申し出を怪しんだ衛兵に、テイリンはあやうく牢に放り込まれそうになってしまった。それ程までにゾックとテイリンの一族は遠い歴史の中に埋もれていたのである。
 ようやく事情を説明して、軍の関係者に話を通してもらい、なんとか状況を帝国を動かしている人々の耳に入れたものの、首脳部には全くと言っていい程相手にされなかった。五将に配される魔法使い達はすでにその個性にあった獣を持っていたし、ゾックの戦闘力は現在の状況の中ではほとんど無用に思われたからである。
 要は引き取り手が無かったのだ。それどころか、前線に送って使い尽くしてしまえという意見がまた聞こえ始めてきた。さすがにテイリンも事情を察して、最初はショックで途方に暮れたが、辛抱強い一族の血がここでも異様な頑張りを見せた。八方手を尽くして、黒の魔法使いの総帥ガザヴォックとの面会までなんとかこぎ着けたのは、数か月後の事だった。

 六角形の尖塔形の宮殿の地下、宮殿全体を支える根のように築かれた広大なガザヴォックの部屋で、テイリンは初めて黒い指輪の魔法使いとの面会を果たした。黒の神官に付き添われて大きな扉をくぐり、光沢のある床の指示された石の部分で跪く。闇の色に近い青い影がゆらめくように部屋の中を流れている。空気は静止しているはずなのに、どこかに向かって落下しているような恐怖をテイリンは感じた。その部屋の中央、テイリンの位置からはまだかなり離れた所に、まるで別の世界に存在するかのような気配を漂わせて長身の魔法使いが立っていた。
 しかし若いゾックの監督官はひるむ事はなかった。この時を待っていたのだ。横に立った神官が話すようにうながすと、テイリンは上気した顔でゾックの帝国内での登用を請願した。熱心に語り続けるテイリンの声が広間に響き渡った。やがてテイリンが用意したすべての言葉は語り尽くされ、広い部屋にしばしの沈黙が流れた。時間が止まったのかとテイリンが錯覚したその時に、黒い指輪の魔法使いがゆっくりとテイリンに向けて歩を進めてきた。
 ガザヴォックは跪くテイリンを見下ろす位置で立ち止まると、思慮深い顔でテイリンを認め、深い哀れむような目をひたと据えて、心に刺さるような透明な声で静かに言った。
「長きにわたりゾックの一族を育て上げた事を高く評価したい。ご苦労であった」
 テイリンは平伏してこの言葉を聞いた。そして自分の一族の苦労を認めてくれた人がいたという感激に全身が震えた。しかしその後にガザヴォックが続けた言葉は、テイリンには思いもかけない内容だった。
「だが残念な事に、現在この国には哀れなゾックを引き取る者がおらんのだ。むしろ前線ですり潰せという声も多い」
 そう言うとガザヴォックはゆっくりとテイリンに近づいて、跪いている若者の額に右手の人差指を刺すように突き付けた。
「そなた、ここに深い魔法の才があるのう。異種族の中で生まれ育った一族の力の結実かもしれん。どうじゃ、自ら魔法使いとなってゾックを率いる気は無いか」
 テイリンは何を言われたのか一瞬理解できなかった。だがガザヴォックの言葉の意味に気が付いた時、全身におののきが走った。
「しかし、しかし。私にはそんな大そうな事はできません」
「できなければ、ゾックはこのままセントーン戦の最前線にまわす」
 その言葉の容赦の無さに、テイリンはガザヴォックへの底知れない恐怖に突き上げられた。若者はそれでも、ゾックのために泣きながら抗弁した。
「それでは、ゾックの特徴が生きません。川が多い平野では皆殺しにされてしまいます」
 黒い指輪の大魔法使いはそれ以上一言も言わずに背を向けた。会見は終わったのである。気が付くとテイリンはガザヴォックの部屋の扉の外に立っていた。歩いた記憶は無い。瞬時に移動させられたのかもしれない。廊下に並ぶ黒の神官達の間を放心状態で通り抜けて宿へ帰ったテイリンは、一週間程ぼう然としていた。
 テイリンは自分が魔法使いになるなどとは、夢にも思った事が無い。むしろ、黒の魔法使いには恐怖を感じていた。しかし先祖が二千五百年に渡って育ててきたこの種族を根絶やしにしてしまうわけにもいかない。それにゾックの気持ちが自分ほどわかる者が他にいないという事も確かだと確信できた。
 結局テイリンは、自らこの種族を率いる決意をしてバステラ神の神官となった。魔力は潜在的な力であるため、基本的な訓練でおのずと育っていった。ゾックの村の管理のために、複雑な宗教儀式にはあまり参加せずに済んだ。やがて数年が過ぎ、レベルで言うと中の下程度の魔法使いとなったテイリンは、もう一度ゾックの配置を首脳部に頼み込んだ。
 希望は北の将のもとでの山岳戦である。しかし北の将も北の将の要塞の黒い短剣の魔法使いもこの願いには一顧だにしなかった。同じく山岳戦を必要としているはずの東の女将軍は、領域に立ち入ったら攻撃するとまで言ってきた。そして最終的に配されたのが西の将である。テイリンにとっては最悪の結果に近かった。カインザーの重戦士相手ではゾックは無力に等しい。それでも西の将マコーキンは赴任してきたテイリンの話をよく聞いてくれた。しかしマコーキンをもってしても、しばらくはゾックの使い道が思い浮かばなかった。仕方なく。要塞の守備に就けさせ、ゾノボートのもとでカインザー軍の補給部隊への攻撃程度の事を続けさせていたのである。

 今回のマコーキンからの出撃要請は、主に後方撹乱が目的だったため、テイリン自身の出撃は本来必要なかった。しかしテイリンはこれを買って出た。それのみならず、要塞に引き連れてきた全軍である三千を率いてこの決死行に出ることにした。このままでは、いずれソンタール内でゾックの必要性が無くなり、どこかですり潰されてしまう。テイリンもまたマコーキンに賭けてみた。マコーキンがケマール川を渡ってレンドー城を落とせなければ、ゾック部隊はカインザー軍の真ん中で孤立消滅する。これは勝利以外に帰る事のできない戦いへの出撃だったのだ。
 野営地の隅で物思いに沈むテイリンがふと気が付くと、一体のゾックが両手に小さな木の実をたくさん持って目の前に立っていた。硬い皮を剥き、柔らかい中身だけをていねいに選り分けている。テイリンは礼を言って木の実を受け取るとおいしそうに口にほおばった。ゾックの、表情に乏しい人間に似た顔が輝くのがテイリンにはわかった。ゾック達もまた、この若い頼りなげな魔法使いを信じているのだ。
 やがて日が暮れて、ゾック部隊は行軍を再開した。高台を求めて移動したテイリンの目に、森の彼方でケマール川の川面が月光に煌めくのがうつった。テイリンは背後のゾック達を振り返って、山の方角に向けて手を振った。総数三千のテイリン軍は水源を迂回するために、またも山岳地帯に分け入って行った。

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 神殿と呼ばれる列柱はアルラス山脈の最高峰ライア山の山頂近くにある。そのライア山の山頂がもう近い。セルダンの予想通りおよそ一週間の旅だった。もっとも毎年参拝が行われているために、一日の登山の行程も計算できたので、余程気候が不順にならない限り、予想が外れるほうがむしろおかしかったかもしれない。今から三千年近く前にバステラ神の神気に追われたクライドン神がここに降り立ち、聖剣を岩に突き刺した時から、事実上のシャンダイア・ソンタール戦争が始まったのだ。その地に今セルダン達は近づいている。
 カインザーは暑い大陸であるが、さすがにこれ程の標高となるととける事の無い雪が山頂付近を覆い、麓では緑の森に囲まれていた登山路も、まばらな植生にわずかに彩られるだけになった。千年に渡って踏み固められた道をたどりながら、セルダンは先祖達の戦いに思いを馳せた。戦士の大陸の歴史は輝かしい武勲と伝説に満ちていたが、今回程の危機はおそらく初めてではないだろうか。神殿が近づくにつれて、セルダンの心の緊張感は高まっていった。いつもは陽気な会話で楽しませてくれるブライスも、海からこれ程離れた山の上は初めてらしく、言葉数が減っていた。それでも先導役のダーレスに続いて、マルヴェスター、セルダン、ブライス、スハーラ、ベロフの順で馬を引きながら登山路を歩いていると、眼下の眺めに心が晴れるのだった。
 この高峰から眺めると、広大な大陸の東半分がすべて見渡せるような気がする。乾いた大陸だけに地平線はわずかに黄色い霞に隠されているが、やはり原生林の緑の密林が大地のあちこちを覆っている。そのすき間にわずかに見える開けた所が、おそらく人々が生活している土地だろう。この大陸の王子であるという思いが、少年期を過ぎたばかりの若者の心に、意識しないながらも誇りと勇気を与えた。やがて見晴らしのいい踊り場のような開けた場所に着くと、ダーレスはそこで馬を止めた。
「この先、五百メートルくらいの所から結界が始まっています。ここに馬をとめて歩いて行きましょう」
 一行は馬を近くの岩に繋いで、左側に切り立つ崖を見下ろしながら道を歩いて行った。その地点では道は比較的直線になっていて見通しは良かったが、前方に特に何かがありそうだという感じはしなかった。しばらく歩いたところでダーレスが皆を止めた。
「見ていてください」
 そう言って、足元の石を拾って前方に投げた。石は真っ直ぐに道の向こうの青空めがけて飛んで行ったが、ちょうど大きな岩の中央を削って道にしてあるあたりの空間で、何かにぶつかったように下に落ちた。しかしその向こう側には相変わらず青空が広がっており、別に何の異常もみられない。ダーレスが説明した。
「近寄るとわかるのですが、あの地点まで行くと前方から強い抵抗を感じるのです。何かにぶつかるという事ではないのですが、それ以上は進む事ができなくなります」
 マルヴェスターが慎重にその地点に近づいてしばらくその空間を凝視していたが、振り返って尋ねた。
「どのくらいの範囲がこうなっているんだ」
「それ程広い範囲ではありません。私共で確認した限りでは、神殿を中心にして半径二キロメートルくらいの範囲です」
「よし。ブライス、ここに来て通れるかどうか試してみてくれ」
「なんです。俺で危険を試すんですか」
「いや、ダーレスの言うように危険は無いだろう。この目で見たいだけだ。むしろわしが触れるほうが危険だと思う。結界というのは一種の力が及ぶ境界線だ、魔術師のわしが触れると中の力と影響しあってとんでもないことになるかもしれん」
「なる程。そういう理屈なら俺でも納得してしまいますね」
 ブライスはそう言うと右手を頭上に上げ、スハーラに向かってひらりと振り降ろして言った。
「さればスハーラ殿、ザイマンが王子ブライスの勇気をご覧あれ」
「つまらん事を言っとらんで早くやれ」
 ブライスは大した事では無いといったそぶりをしていたが、実際にはやや青ざめた顔でその空間に近づいて行った。そして結界に近づくと、前に手を伸ばしながらゆっくりと進んだ。
「なる程、ほんとうだ。抵抗があります。ちょっとだけ押す事ができますがこれ以上は進めません。ここまでだな」
「よし、次はセルダンだ。ブライスのところに行って並んでくれ」
 素直なセルダンは何も言わずにマルヴェスターの言葉に従った。ゆっくりとブライスのところに歩いて行って、横に並んで立ってみる。ここまでは何の抵抗も感じていない。
「よしセルダン、一歩前に踏み出してみなさい」
「でも」
「いいから一歩前に出てみるのだ」
 セルダンはけげんに思いながらも、注意して一歩前に出た。
「あれっ」
 ブライスとセルダンが同時に声を上げた。
「通れますよ、僕には通れる。いまのところ抵抗はありません。もっと進みますか」
「ふむ。もう二三歩前に出てみてくれるか」
 セルダンはもう数歩前に歩いてみたが、何の抵抗も無かった。
「よし、それで十分だ。二人とももう戻ってきなさい」
 セルダンとブライスはきょとんとした顔で帰ってきた。
「どういう事なんですかマルヴェスター」
 ブライスの質問に、マルヴェスターは顎鬚をしごきながら答えた。
「どうやらこれはクライドン神ご自身の結界のようだ。中で何かが起きているのだが、クライドン神はその影響を外部に及ぼさせたくないか、外部の者を入れたくないのだ」
「どうしてセルダンは通れるんですか」
「次の聖剣の担い手だからな。クライドン神がご自分の結界に入る事を許す者があるとすれば、オルドンかセルダンしかおるまい。どうやらセルダンが身に付けている物も大丈夫のようだ。しかしこの結界の内部では、クライドン神の力以外にも何か大きな力が渦巻いている。これは魔法の力を持つ者にしかわからないかもしれないが、極めて巨大で危険な力だ」
 セルダンはしばらく結界のある空間を眺めていたが、意を決して言った。
「僕しか入れないなら、一人で行くしかないですね。ここで待っていていただけますか」
 ブライスがあわてた。
「ちょっと待てセルダン。もう少し考えてみようぜ。マルヴェスター、他に何かここからわかる事は無いですか」
「これは神の結界だ、中途半端な物では無い。やはり入ってみなければわからん」
 マルヴェスターはちょっと悔しそうだった。ベロフが何か言いたそうにしていたが、口をはさむのは差し控えた。スハーラがかわりに言った。
「明日の朝まで延ばす事はできませんか。ブライス様を通じて、エルディ神にお伺いを立てたらいかがでしょう」
「いいえ、時間がありません。もう決めました。ベロフ、ダーレス、もし僕が戻らなければ父上とマイラスへの報告を頼む」
 そう言うとセルダンはきびすを返して、皆が心配そうに見守る中を結界に向かって歩いて行った。行かねばならない以上、余計な事に心をわずらわされたくない。結界に近づくと、セルダンは道の脇に残っている雪を一すくい手に取って雪玉をつくった。
「このあたりか」
 セルダンは雪玉を手首だけでひょいと前方に投げると、結界に当たって空中で砕ける雪の下をくぐって未知の空間に踏み込んで行った。

 結界の中は不思議な静けさに満ちていた。恵み豊かなアルラス山脈もこのあたりまで来ると、生物もほとんど生息しなくなるので、見たところ動いているものは何も無い。ただ肌を切るような冷たい風だけが吹いていた。空は目に痛いくらいに青い。鋭角に尖った岩が道のまわりを囲んでいて、先に何が待ち構えているのかは全くわからない。まわりの空間には、特に何かが変わっているといった感じは無かったが、しいて言えば空気が張り詰めている。何かが起きればそのまま世界が破裂してしまいそうな緊張感が、あたり一面にみなぎっていた。
 やがて道が平坦になり、左右の岩の間隔が広がって神殿が目に入ってきた時、セルダンはクライドン神の神殿と呼ばれる列柱のまわりの空間に、かすかな半球形のガラス状の膜のようなものが見えるのに気が付いた。玉座を中心にした列柱全体を包み込む球は、直径およそ五十メートルくらい。半透明のように見えるが、球の上方七割くらいの部分が暗い色に覆われている。目をこらしたセルダンは、その球の上に一匹の生き物が乗っているのに気が付いて息を呑んだ。そして信じられない光景に、思わず驚きの声が口からもれた。
「ドラティだ。ああ、ドラティだ」
 セルダンはこの怪物を見るのは初めてだった。しかしそれが西の将の要塞を鎮護する巨獣であることに間違いは無かった。頭から尻尾の先までおよそ三十メートルくらいはあるだろうか、薄い緑がかった銀色の鱗をまとった怪物は、同じくらいの幅の翼を広げて球の上にしっかりと座っている。セルダンはすくむような足を無理に運んで近づいて行った。
「よう来たな、剣を失いしカインザーの王子」
 まだその半透明の球までは二十メートルくらいある位置に近づいた時、ドラティの声が頭の中に響いた。圧倒的な威圧感を持つ意識の進入に、セルダンはショックで気が動転しかけた。竜が心に話しかけるなんて知らなかったのだ。しかしそんなセルダンの心を、球の中から響きわたった低く自信に満ちたクライドン神の声が救った。
「やっと来たか、オルドンの息子よ。待っておったぞ。竜を恐れることは無い、竜も我も身動きができぬのだ。近づいてみるがいい」
 セルダンには何が起きているのか全くわからなかった。しかし神の声に励まされて、剣を抜いて急ぎ足で球に近づいた。竜とどうやって戦おうかなどという事など考える余裕も無かった。球に近付くと、その昔、クライドン神が聖剣を突き刺したと言われる岩は半透明の膜の外側にあるのがわかったが、すでにその内に秘められていた光は失われていた。膜が暗くなっている部分はセルダンの身長の数倍上までしか来ていなかったので、半透明の膜の中に列柱がはっきりと見えた。そしてその中心部の玉座にクライドン神が十五メートル程もある巨体を座らせていた。神は白い貫頭衣を身にまとい、整った筋肉と険しい顔立ちをして座っている。背筋を伸ばして玉座に座っている神の目が光を帯びて輝いていた。
「どうなさったのですか神よ」
「竜めの魔法だ。半年前に突如わしを襲ってきおったのだ」
「そんな、なぜ竜がここまで入ってきたのですか」
「アイシム神の聖宝の印を帯びていたからだ。竜の左の腰のあたりを見るがいい」
 セルダンは下がって、醜悪な竜を見上げた。竜は誇り高そうに顔を上げている。どうやら本当に動く事は出来ないらしい。セルダンはゆっくりと球の周りを巡って竜の左の横腹が見える地点に移動した。そしてまるで壁のような竜の身体を注意深く眺めていると、鋭い爪を持つ太い後ろ足の付け根、尻尾に繋がる部分の上部にかすかに光るものが見えるのに気が付いた。何かが刺さっているらしい。
「剣の柄ですか」
 クライドン神が憤慨したように言葉を吐き捨てた。
「バザの短剣だ、どうやらバリオラめがまたそそっかしいことをしたらしい。竜はこの玉座の真上から落下してきおった。その時わしは行方不明になっているバリオラの気を感じ取った。その一瞬のスキに竜の魔法に囚われてしまったのだ」
 今度は竜の自嘲ぎみの声が頭の中に響いた。
「もう少しだった。一気にクライドンを押しつぶしてくれるつもりだったのだが。しかしさすがに戦の神よ。とっさにこのわしの魔力を受け止めおった。それどころか、その神気で逆にわしの身体に組み付いてきおった」
 セルダンの頭上で竜の悔しげな歯ぎしりが聞こえた。セルダンはゾッとして首をすくめた。球の上から竜が転がり落ちるようにして、自分に噛みついてくるのではないかという錯覚に襲われたのだ。
「それ以来半年。この状態で組み合ったまま身動きが出来なくなってしもうた」
 竜の無念そうな意識に、クライドン神が苦い笑い声をたてた。
「貴様のようなもののけにつぶされてたまるか。セルダン、そなたの目にも見えるこの球がわしとドラティの魔力の顕現化したものだ。わしは結界を築いて、この力の格闘の影響が外部に広がるのを防ぐのがやっとだった。しかし先制した竜の魔力のほうががわしを深く傷付けている、残念だが、わが力のほうが劣勢である事は認めねばなるまい。この球が暗い色で覆われた時にわが力も尽きるだろう」
 セルダンは絶望的にクライドン神と竜を見やった。これはとても自分の手に負える事態では無い。
「クライドン神様、結界の外にマルヴェスター様がいます。彼ならなんとかできませんか」
「いや。ここにマルヴェスターの力が加わるのはまずい。わずかなバランスの狂いで、おそらく三者共に吹き飛んでしまうだろう。翼の神の弟子が結界に触れなかったのはさすが賢者の判断と言ってよい」
 セルダンはもう一度竜の顔を見上げた。爬虫類の無表情な顔がセルダンを見おろして、意識を放った。
「三者共に吹き飛べばそれも面白かったに。しかしこの世がガザヴォックの天下になるのも不愉快。マルヴェスターには近づかんように言うておけ」
 竜の目の細い瞳をセルダンは見返した。
「どうしてバザの短剣が貴様の体に刺さっているのだ」
「ほう、話をさせてくれるかの、アイシムの愚かな娘の失態の話を」
 クライドン神が球の中でうなった。竜は相変わらず嘲るような口調で意識を放ち続けた。
「わしのねぐらである洞窟は、おまえらに知られる事の無い、とある山の山腹にある。半年以上前の事だ、わしがねぐらに戻った時、中に人間の匂いがした。最初はゾノボートの配下でもたずねてきたのかと思うた。もともと、わしの住み処はあの要塞の地下にあったのだから、あの小汚い神官どもさえ退いてしまうのならば、戻ってやってもいいからのう。しかし何者も出てこんから放っておいた。人間の一人や二人、気にする程の事も無い」
 竜の住み処が元々は要塞の地下にあった事はセルダンも聞いていた。守備的な代々の黒い盾の魔法使いとの確執があって、ドラティが飛び出したのだろう。
「わしは気にせず眠りに就いた。そして次に記憶にあるのは全身に異様な感覚が走った事だ」
 ドラティは意識を放つのを止めた。
(あの時の感覚は今でも生々しく思いだされる)
 初めての感覚だった。おそらくその人間は洞窟の上部にある岩棚から飛び降りて、自分の急所である腰の逆さに生えた鱗を狙っていたのだろう。しかし、竜はそれ程鈍感な生き物では無い。人間が背中に降り立った次の瞬間には目をさまして、おおきく身じろぎした。そのため人間のねらいがそれたらしい、逆鱗を逸れてちかくの皮膚に何かが突き刺さった事がわかった。しかし、人間ごときのただの武器でこの星の創世記から生きてきた竜の身体がこれ程おののく事は無い。おそらくアイシム神の聖宝が刺さったのだろう、剣か短剣か、自分の背中から振り落とされた人間を見てドラティは短剣だと思った。落ちたのはまだほんの少年だ。聖剣を持つ資格のあるカインザーの王子はこれ程幼くは無いはずだ。少年は八百年にわたって竜が踏み固めた堅い床に落とされて気を失っていた。
 しかしドラティはそんな子供の事などどうでもよかった。初めてアイシム神の聖宝が体に刺さった衝撃に、さすがにかつて経験したことが無い痛痒が全身に走るのを感じ、巨体を振り立てて咆哮した。ドラティはしばらく洞窟の中を荒れまわっていたが、やがて自分の体に変化が起きている事に気が付きはじめた。何が原因かははっきりしている。体にアイシムの印が押されているのだ。竜はこの星で最古の頭脳をしぼって、自分の体に起きたこと、そして出来る事を考えた。そして驚くべき事実に気が付いた。
「どうしたドラティ。自慢話はもう終わったのか」
 クライドンが沈黙した竜をうながすように話しかけた。
「むう。人間は小童だった。おそらく洞窟の上部の岩棚に潜んでいたのだろうて。わしは身体にバザの短剣が刺さったのに気がついた。しかしこの程度でわしがどうなるわけでもない」
「急所の逆鱗を狙ったのだが、的を外したのだろう。貴様の急所が腰の逆鱗だという事は、聖宝神と翼の神の弟子達は知っているぞ」
「その通りだ。バザの短剣を持つものがその事を知っていたのなら、バリオラの差し金だろう」
「その子供はどうしたんだ」
 セルダンが聞いた。
「バリオラゆかりの者ならば、簡単に殺してしまうのもつまらん。くわえて行ってマコーキンの手の者に渡しておいた。わしは身体に聖宝の印が付けられた事について考えてみた。そしてバリオラの神気を身にまとえばアイシムの領域に入れることに気が付いたのだ。そこで息が出来るぎりぎりの上空まで飛び上がり、クライドンを真上から襲ったのだが、あとは見てのとおりだ」
 竜は再び沈黙した。セルダンはこの事態にさらに問題が増えた事に気が付いていた。そのバリオラゆかりの少年を助けなければならないだろう。
「クライドン神様。どうすればいいのですか」
 玉座に捕らわれた戦の神はただ一つしか無い答を言った。
「カンゼルの剣だ。奪われたのはわかっている。それを取り返してそこにある岩に刺すがよい。大地からわしは力をよみがえらせ、この竜めを引き裂いてくれる」
「必ず取り返して、持ってきます。クライドン神様、いましばらくご辛抱ください」
「その時間があるかのう。若いの。楽しみに待っておるわい」
 ドラティの嘲りに、セルダンは傲然と胸を張った。
「待っていろ、古き獣よ。わが神の手によってその長き命に終わりが来よう」
 そう言うと決然とその場を後にした。去ろうとするセルダンにクライドン神が後ろから呼びかけた。
「セルダン。何者かがこの山岳地帯を縫ってクライの町に近付いておるぞ。神官達に気を付けるよう伝えよ」

 ブライスは距離的にはすぐそばで起きているはずの出来事をあれこれと想像しながら、結界の前を行ったり来たりしていた。見かねてスハーラが声をかけた。
「ブライス様、これがクライドン神ご自身の結界だとすれば、セルダン王子に危害が加わる事は無いでしょう。落ち着かれて腰をおろされてはいかがですか」
「それはわかっているんだが、どうも気になる。セルダンはまだ子供なんだぜ」
 ベロフが静かに笑った。
「たしかにお若いですが、カインザーの王子です。信頼してお待ちください」
 やがて、道の彼方にセルダンの姿が見えた。急ぎ足で帰ってきたセルダンは、結界から踏み出してブライス達の元に戻るなり座り込んでしまった。ブライスがあわてて抱き起こした。
「大丈夫かセルダン」
「大丈夫。でも大変な事になってるんだ。ベロフ、水を」
 差し出された水を飲んで一息ついたセルダンは、近くの岩に腰掛けて見てきた事を皆に説明した。聞いていた一同はあまりの事態にしばらく声を失った。やがてふりしぼるようにブライスがうなった。
「ううむ。マルヴェスター、どうも最悪の予想を越えていませんか」
「ううん、そのような気がするのう、ドラティめやりおった。そのバリオラ神ゆかりの子供の消息もつかまねばなるまい。いつもながら世話のやける激情の神だ」
 スハーラは子供の消息をもっと知りたそうだったが、セルダンには竜から聞いた以上の説明はできなかった。セルダンはダーレスにクライドン神の警告を伝えた。
「ダーレス、クライの町への一刻も早い報告を頼む。クライを含めたアルラス山脈沿いの町に警戒体制を敷いてくれ」
「かしこまりました。王子様ご一行はこれから予定どおりにユルにお向かいになりますか」
「どうしますか、マルヴェスター様」
 ベロフが検討のための案を出してみた。
「ドラティの洞窟は何処にあるのでしょう。もしカインザー大陸だとすれば、アルラス山脈の最北端あたりにあるはずです。その少年が西の将の軍の間を抜けて忍び込めたのなら、我々もアルラス山脈をこのまま北上して、要塞への最短距離に出てみてはいかがでしょう」
「いや、子供一人だから、何らかの手を使って近づけたのじゃろう。バリオラ神の手助けがあったかのかもしれん。それに山道には危険が迫っているらしい。我々はユルまでは予定通りだ。そこから先は少し考えてみよう。ブライス、ユルの町に着いたら早起きしてもらわねばならんな」
「おおっ。それを恐れていたんです」
 ブライスは額の銀の輪を見上げてうめいた。セルダンは竜との対話で一つ気になっていた事を皆に告げた。
「もう一つ気になる事があるんです。竜が途中で妙に深く思いに沈んだ時があったんです。竜がバザの短剣に刺されてからの話ですが、アイシム神の領域に入る事ができるようになった事以外に、何か隠している事があるような気がしました」
 マルヴェスターはけわしい顔をしてそれに答えた。
「それが本当なら、今回の件以上の秘密が竜にあるという事だな。闇の獣が聖宝に刺される事は初めてだが、生き延びてアイシム神の領域に出入りできるという事は、何か光の性質を身に付けているのかもしれん。やっかいだ」
 ベロフがダーレスとともに出発の準備を終えて言った。
「いずれにしても、一刻の猶予もならないでしょう。すぐに発ちますか」
「うむ。出発だ」
 クライに向けて急いで去ってゆくダーレスに背を向けた一行は、ユルへと向かってアルラスの高峰から下っていった。

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 双子の神が創ったこの美しい星で、ソンタール、未踏の大陸に次いで三番目に大きな大陸カインザー。その北東部に広がる大草原サルバンの野において、マコーキン軍の進軍がはじまっている。黒い鎧に包まれたソンタールの騎兵五万、歩兵七万に要塞の守備軍一万を加えた十三万の大軍は三軍に別れて発進した。西の将の印は黒の地に銀の竜。大きな方形の大旗、三角形の隊旗、黄色と黒の吹き流しと、様々な形の旗が林のようにひるがえる下を、兵士の波が怒涛のようにカインザー王国の最前線にあるレンドー城へ向かっている。
 まず第一軍の先陣を勤めるのは、マコーキン軍の猛将バルツコワ将軍が率いる騎兵二万。色白の大柄な将軍は、真っ赤な鎧に派手な鷲の羽飾りの兜。槍の名手で鋭い切っ先を持つ長柄の大槍を振るう。率いる部隊も槍の扱いに長じていて、その突撃力は強力無比。もしカインザー軍がケマール川を渡って押し出してきたら、その先頭を一気に粉砕してしまおうという勢いである。またこの部隊には途中で刃向かう町や村を制圧する役目も与えられている。
 この突撃隊が傘のように展開して進む後を、参謀バーンが率いる第一軍の本隊が続く。バーンは身軽な皮の上着につば無しの茶色の中折れ帽子。腰には細身の剣を佩き、先に赤い房がぶら下がった短い指揮棒を右手に、鹿毛の馬に軽々とまたがって大軍の先頭を飄々と走っている。長年の戦陣暮らしで、乗馬の腕は西の将の要塞では並ぶ者が無いくらいうまい。
 バーンが指揮をするのはほとんどが歩兵で、この部隊がケマール川に道を架ける。ケマール川の渡河作戦のため架橋工事を行う工兵部隊三千。途中のカインザーの町々から小型船と材木を徴収するための騎兵一万とその輸送部隊が五千。工兵部隊援護の弓兵と投石器部隊、さらに少ないながら砲兵部隊も含めた兵が五千。そして野営地設営部隊が二千。役割をはっきりとさせて専門家を選んでいる。こういう用意周到さは過去の西の将の参謀にはなかった事で、カインザー軍にもこういう発想はほとんど無い。
 さらに、海千山千のこの参謀は、黒い盾の魔法使いの機嫌をもうまく取り結び、とかげ兵ブール一千を、流れ者のテイリンを除けば要塞では第四の地位にある魔法使いキゾーニと共に借り出して従軍させていた。この部隊が水中で自由に活動できる事はカインザー軍は全くといっていい程知らない。
 この部隊より少し遅れて、西の将にして竜の将、夜の公子マコーキン自らが率いる重騎兵二万と歩兵四万の主力部隊が第二軍として続く。マコーキンの黒の鎧には銀の竜をあしらった精緻な模様が渦巻き、兜にはドラティが取る事を許した鱗で作られた竜の形の前立が飾られている。馬上豊かに黒いマントをひるがえしたその姿の頼もしさ、美しさは比類が無い。
 ソンタール一と呼ばれる剣の業は、つい最近にもカインザー王オルドンから聖剣カンゼルをも奪った程で、事実上最強の剣士の名をほしいままにしている。振るう黒の剣の名は名匠パントールの手になる名剣バゼッツ・アラン。マコーキン進むところ颯々とした薫風があたりを払い、若いながら侵しがたい威厳が従う者すべてに襟を正させる。その率いる兵はすべて漆黒の鎧に身を固め、将旗を誇り高くかかげた旗手を先頭に堂々と歩を進めながら戦場へと向かっている。
 その軍からわずかに遅れてキアニス将軍率いる第三軍が続く。この軍は補給路と占領した町々の維持につとめ、歩兵一万と要塞の守備軍一万の計二万がこの任にあたる事になっている。キアニス将軍は小柄ながらその声大きく、よく部下を統率し、また占領した町々を見事に鎮撫する事まさに適任。着慣れた灰色の鎧は必要な時以外身に付けず、がっしりした身体を馬車の中にどっしりと据えて、地図と報告書に囲まれての進軍となる。しかし乱戦ともなれば、片刃の柄の長い斧を持って真っ先に敵陣に躍り込む勇猛さと、相手の真上から振り下ろす斧の破壊力は、敵をして震え上がらせるに十分な怪力の持ち主であった。
 さらに本体から離れた別動隊として、小鬼の魔法使いテイリンのゾック部隊三千が、猛スピードでカインザー領深く進入している。テイリンは魔法使いとしては異例の若さながら、小鬼を統御する術は誰にも劣らず、先祖代々培われた獣や自然との感応力という魔法の才は、まだ完全に開花しきってはいないながらも、バステラ神の神官群の中において一際異彩を放つ者である。
 付き従う小鬼ゾックはスピードと集団行動が身上で、うまく山岳戦に持ち込めれば、その能力はさらに力を加える。このテイリン軍は程なくクライの町に急襲をかける予定になっていた。これが西の将がカインザーの重戦士軍団に対抗してつぎ込んだ遠征軍の陣容である。

 カインザー国王オルドンも決戦のための戦力を着々と布陣しつつあった。予定戦場となるレンドー城はケマール川からわずかに離れた丘の上にある堅固な城塞である。ここには鋼鉄王オルドン自らが主力部隊二万を従えて城内に待機している。オルドン王はカインザーの青と呼ばれる深い青色の鎧とマントに身を包み、カンゼルの剣を失った痛手を忘れるかのように、連日城の中央の指令塔のベランダに立って強風に顔をなぶらせながら、川の向こう岸の彼方に広がるサルバンの野の方向を見据えていた。
 王に付き従うのは沈着冷静なベーレンス伯爵、銀の鎧に銀の小手、緑のマントをひるがえし、名門の名のもとに数多くの武勲をたててきた勇将である。ベーレンス伯爵がひとたび巨大な葦毛の軍馬にまたがれば、城外に駐屯している五万の大軍は一糸乱れる事無くその指揮に従って敵陣を踏みにじる事だろう。
 また万が一、マコーキン軍が矛先を変えてブルック城を攻める場合に備えて、はるかに海を見はるかすブルック城には碧眼のバイルン子爵指揮の五万の兵が待機している。バイルン子爵はザイマン人の母を持ち、海との連携作戦にその手腕を発揮しているが、現在ザイマン船はユマールの将と南の将への対応で手いっぱいのためこの戦闘には参加していない。
 長身の子爵は普段は動きやすいように軽い鎖で作った胴着だけを身にまとっている。そのむき出しの長い腕には、絞った縄のようにな見事な筋肉が浮きあがり、射程の長い大弓の名手として知られている。
 さらにカインザーの若き獅子、紅のマントのクライバー男爵指揮の四万の遊撃隊が両城の中間にあたる町々に滞陣している。ハンサムな金髪のクライバー男爵はセルダン王子の親友で、細身の剣を水車のように頭上で振り回しながら敵陣に突撃する。いささか無鉄砲なその姿は宮廷でも歌に歌われる程の鮮やかさで、まさにカインザーが産んだ戦士の中の戦士である。

 黒い盾の魔法使いゾノボートの軍もマコーキンと呼応するように、シゲノア・ボストール両城に対して前進をはじめていた。こちらは両方の城を囲む程の兵力は持たないながら、その怪異な力によって、カインザー軍が打って出れば十分に渡り合えるだけの力を備えている。
 その陣容はと見れば、まずは西の将の要塞第二位の魔法使い、神官ブアビットに率いられたとかげ兵ブールの部隊三万が、主力として中央を進んでゆく。ブアビットは黒い神官服だけの軽装で、自ら戦うつもりは全く無い。ブールの操作に全神経を集中するつもりである。
 ブールという生物は身の丈三メートル程の巨大な体躯を持ち、その肌は緑色の分厚い鱗に覆われている。とかげをそのまま直立させたような格好をしているが、足と腕は力強く、灰色の上下のつなぎの服に赤い肩当てとベルト。さらに左手に厚い盾、右手には先に刺の付いた鉄球を付けたこん棒をもってずんずんと前進する。今までの消極的な作戦により、その全力を発揮しきれなかったという恨みを、まさにここで晴らさんとする意気込みに満ちた進軍である。
 その右翼を、猛り狂う傭兵隊長ガッゼンが率いる歴戦の猛者が集う傭兵部隊二万五千が固めている。ぼろ布を集めたような服にありあわせの不格好な寸胴の鎧を付けたガッゼンは二股の鞭の達人で、その鞭は一撃で騎乗の相手を真っ二つにする程の威力を持っている。
 さらに左翼には要塞第三位の神官ズグルに率いられた神官兵二万が展開している。厳しい修練に耐え、あやしい妖術すら身に付けた神官部隊は、奇妙な戦歌をうたいながら暗黒の恐怖を撒き散らしつつ前進していた。その歌だけでも、敵の戦士を震えあがらせるに足る不気味なものである。神官兵の装備は鎖帷子に細身の剣。さほどの戦力には見えないが、十人一組になってまるで一体の生物のように動き、風を支配して砂礫を巻き上げながら敵に襲いかかる。この軍に捕虜になる事は死よりも恐ろしいと言われている。
 これらの大軍を繰り出したため、西の将の要塞には神官五千しか残らない事になってしまったが、そこにはまさに守りの怪物、黒い盾の魔法使いゾノボートが一世一代の大魔法を使ってでも要塞を守らんと待ち構えているのであった。
 
 対するシゲノア城には、怪力のトルソン侯爵が率いる守備部隊七万が待ち構えている。傷だらけの荒武者トルソン侯爵は、鎖に繋がれた鉄球を先に付けた巨大な棒を豪快に振りまわす巨漢。いぶし銀の鎧に包まれた配下の兵もタフで知られていて、カインザーで最も後退を知らない部隊である。
 さらに戦場を疾駆する騎馬部隊の勇者ロッティ子爵が率いるボストール城には五万の兵が控えている。痩身で小柄なロッティ子爵は、お気に入りの尾花栗毛の名馬に明るい茶色のマントをひるがえしてまたがり、三日月形の刀を巧みに扱う珍しい武芸者である。その姿は風のように敵陣に斬込み、鋭い刃先は相手の守りをかいくぐって鎧の隙間を刺し通す。これまた妖獣ござんなれといった形で出撃を待っていた。

 −−−−−−

 カインザー大陸各地で大軍が戦場目指して動きだしている頃、急ぎ足に山道を下ってきたセルダン達は、やっとユルの町を真近に見降ろす地点にたどり着いていた。ユルには珍しく雨が降っている。古い町並みは久々の雨に打たれ、うすい緑色に染まって一行の前にその姿をあらわした。標高の高いアルラス山脈を抜けてきたため、一行は寒さに震えていたが、一人ブライスだけが上機嫌だった。
「やあ、平地だ、平地だ。雨だ、水だ。町がある、酒がある。これが人の住む世界だぜ」
 疲れてはいたが、さすがにセルダンもほっとしていた。山上のクライドン神と巨竜ドラティの格闘の不思議な光景が、まるで別の世界の出来事のように思えるほどの平凡な景色がここにはある。セルダンは馬の鞍をたたいて、そろそろまたがるぞ、という意志を馬に伝えた。
「大陸の西側はけっこう雨が降るからね。ユルはロッティ子爵の領地だけど、子爵のブラム城は町からは離れた所にあるんだ。どうしましょうマルヴェスター様、城に向かいますか」
「いや、今日はよそう。まっすぐ町に入って休む事にする。マイスター城を出てから一か月以上走りづめだったから、明日一日はユルに滞在することにしよう。城には明日赴いて、出発は明後日の朝とする」
 ブライスが我が意を得たりとはしゃいだ。
「よっしゃ。今夜はたっぷり飲んで食って、ゆっくり寝よう」
 スハーラが、そんなブライスを見て、ちょっと意地悪そうな顔をしながらマルヴェスターにたずねた。
「マルヴェスター様、エルディ神にこれからの進路についておうかがいをたてるのは、いつになさるのですか」
「もちろん明日の朝じゃ。ブライス、寝坊はならんぞ。ここまでくるとエルディ神もお力を示すのに苦労なさるだろうからな」
 ブライスはうーんとうめいてスハーラをにらみつけた。スハーラは目をくりくりさせながら見返した。
「なあに、ブライス様」
「医療に慣れた人間は、他人の顔を無意識のうちに凝視する癖があるってのを知ってたか。その変な目付きはサルパートの山のリスにでも習ったのか」
「いいえフクロウですわ。とても賢くて、リラの巻物の守護神エイトリ様のお使いと言われていますの。サルパートにおいでになった時にはご紹介いたします」
「医療の神の使いは蛇だとばっかり思ってた。でももう山はこりごりだね。俺はザイマンの娘と付き合うよ」
「おっしゃっている事の意味がわかりませんわ」
 今度はスハーラがちょっと怒った。ベロフが頃合いを見計らって咳払いを一つしてからセルダンに話かけた。
「ユルにはあまり危険は無さそうですので、私は先にロッティの城に参って情報を整理しておきましょう」
「そうだね、頼む。明日、ブラム城で合流しよう」
 山道は平坦になるに連れてだんだん道幅が広くなり、やがて町の東を通る大きな整備された道に出た。ベロフは青鹿毛の牡馬にひらりと飛び乗ると、町の北にあるブラム城に向けて馬首をめぐらし、水をはね上げながら去っていった。セルダン達も馬にまたがり、ゆっくりと町へと向かう道を取った。馬上で空を見上げたセルダンは、髪の毛が濡れて顔にまつわり付き、雨水がそこを伝って流れ落ちる感触を楽しんだ。
 これまで頭の上に覆い被さっていた木立の枝がやがて屋根にかわり、道は町の中に入っていった。まだ夕方だったが、雨が降っているので人影はまばらだった。一行は、翌日ブラム城に向かうため、あまり町の中心部には入らずに町の外れにある宿に泊まる事にした。ロッティ子爵は馬をことのほか可愛がるので、中程度の宿でも厩は立派で、世話係が素早く出てきてセルダン達の馬を厩に引いて行った。そんな一行の前を、他の旅人のものらしい一頭の年老いた馬が引かれて行くのを見て、ブライスが言った。
「お疲れですねえ、あの馬。マルヴェスター、気持ちがわかるでしょう」
「失礼な奴だな。鞍の下の背中をみろ、ほとん擦れておらん。飼い主は自分では乗らずに、旅の荷物だけを載せて馬を引きながらいっしょに歩いているんだろう。けっこう幸せな馬かもしれんぞ」
 とぼとぼと引かれていた馬はそうだと言うように足を止め、マルヴェスターを見やって一声いなないた。その時、セルダンは尻尾に付いているリボンに興味を持った。
「あの歳で人を蹴る癖があるのかなあ、その印でしょうあのリボン」
 スハーラも気が付いたようだ。
「いいえ、違うわ。あの緑と赤のリボンは、サルパートの吟遊詩人の印よ。こんな所まで来ているのね」
 ブライスが興味なさそうにみんなをうながした。
「にぎやかなのは好きだけど、今はうまい食い物と酒があればいいなあ。早く中に入りましょう」

 宿の主人は初めて泊める高貴な客に緊張の面持ちだったが、マルヴェスターは主人に身分を伏せてただの旅人と同じように扱うように注文した。聖宝の守護者の相談役である魔術師が、宿泊に王室向けの屋敷や宮殿では無くなるべく町中の宿を選ぶのには理由があった。将来の国王二人に町の声をより多く聞かせることと、前線の諸侯達には入手できないかもしれない情報を仕入れるためだ。もっとも肝心の王子二人は、割り当てられた部屋に入ってしばらくして出てくると、さっさと食堂の中央のテーブルに陣取って、わき目も振らずにひたすら胃袋を満たすことに専念する構えを取った。
 セルダンは柔らかいソーセージと卵焼きと、ふかしたジャガイモにバターを塗ったものを一度にほおばって、オレンジのジュースをガブ飲みしていた。
「ガキだなセルダン。そんなもの夕食に食うもんじゃないぜ」
 ブライスは野菜と肉を突き刺してこんがりと焼いた大きな鉄の串を片手に、ビールを飲んで上機嫌だった。遅れてきたスハーラが不思議そうな顔をして二人に聞いた。
「クライドン神の事が心配ではないのですか。よくそんなにご機嫌良く食べられますね」
 ブライスはどこ吹く風といった感じだった。
「戦が長いからね。くよくよするより体力を付けて機嫌良くしてないとやってられないのさ」
 セルダンも口をもごもごさせながら相づちを打った。
「そうそう。スハーラさんこそ、ずいぶんゆっくりとお風呂に入ってたじゃない」
 スハーラは濡れた髪をうるさそうに両手で肩の後ろにやった。
「これは必要なことですのよ。お二人はあまり奇麗に体をお洗いにならなかったでしょう」
「雨が降ってたもん。汗も汚れも流れちゃった。そうだよね、マルヴェスター様」
 スハーラは小さな鼻に皺を寄せてマルヴェスターを見た。
「長老様。あなたはお風呂にお入りになりませんでしたね」
「雨が降っていたからのう」
 魔術師は黒砂糖をたっぷりとまぶしたパンと、チーズとワインで口のまわりをべとべとにしながら答えた。スハーラはあきらめ顔で席についたが、カップの水に少し口を付け、せきを一つすると、次の瞬間にはサラダを口いっぱいにほおばっていた。
 食堂には大きな暖炉があり、ランプと暖炉の炎でとても明るかった。中央にはセルダン達四人が座っている丸テーブルがあり、他には四角いテーブルが三つ置いてある。まだ時間が早いのでそのうち二つは空いていたが、残りの一つのテーブルには地元の商人らしい者が三人で食事を取っていた。カウンターには旅人らしい二人の若いカップルが一組。そしてもう一人かなり疲れた様子の、長身のみすぼらしい身なりの旅人が座っている。
 サラダとパンを胃袋におさめて、少し落ち着いた様子のスハーラは、先程からその長身の旅人をしきりに気にしていた。マルヴェスターは小声でスハーラにたずねた。
「知り合いか」
「おそらく先程の馬の主人、サルパートの吟遊詩人だと思います。どこかで見た記憶があるのですが」
 酒場の主人がやってきてセルダン達のご機嫌をうかがった。
「お客様、吟遊詩人が参っております。どうやら山道で財布を落としたようで、この先の路銀を稼ぎたいと言っておるのですが、一曲歌わせていただけないでしょうか」
 セルダンは口に物を入れたまま、うわの空で答えた。
「うん。いいよ。僕は物語を聞くのが大好きなんだ。戦の話がいい」
 しかしそれを遮ってスハーラがリクエストをした。
「ユリエラの薔薇を頼むわ」
 ブライスがこれも、もごもごしながら言った。
「なんだか甘ったるい題だな」
「智慧の峰の巫女とバルトールの商人の息子の恋物語よ。サルパートの少女達はみんなこの物語で育ったの」
 なる程と言った感じでブライスが大きくうなずいた。
「サルパートは娯楽が少なそうだもんなあ。カインザーの吟遊詩人は戦の歌しか知らないし、セルダンの人生勉強のためにはいいか」
 吟遊詩人は宿の主人に耳打ちされると、セルダン達の方に一礼して、わきに置いてあった袋から小型の磨き抜かれた竪琴を取り出した。その仕草はキビキビしていて、セルダンが思ったより歳は若そうに見えた。しかし吟遊詩人がセルダン達に顔をひたと向けた時、銀色の髪のその男が、目が見えないことにセルダンは気が付いた。隣でスハーラが息を飲んでつぶやいた。
「サシ・カシュウよ。おお、あの人だわ」
 セルダンはマイスター城で数々の英雄の物語を聞いてきたが、それらを語る吟遊詩人の歌声は、低く豊かに、時に力強く早いテンポで歌い上げるのが普通だった。しかしそういう歴史を彩った事件に比べれば、とても小さな出来事であるこの悲恋を歌いあげるサルパートの吟遊詩人の歌い方は、そういった肩肘を張った形式にとらわれてはいなかった。
 淡々としたテンポで低い声と高い声を巧みに織りあわせ、ささやくようなセリフを交え、竪琴の響きだけで風の音や水のせせらぎを表わす卓越した技量を支えにして、聞き手にまるでその登場人物になったかのような錯覚を覚えさせた。そして何よりも声が信じられない程に美しかった。
 バルトールの商人の息子がサルパートの山中で北の将の狼に襲われ、傷ついてたどり着いた智慧の峰の学校で巫女に助けられる。やがて二人の間に恋が芽生えるが、男が故郷を離れている間にバルトールが滅び、男は巫女と別れて故郷に帰って行方不明になる。やがて何年か経ち、男は戦火に燃え落ちたバルトールの都から持ちだした、薔薇の苗をたずさえて再び智慧の峰を訪れる。男と巫女は再開するが、バルトールの民である男は迫害を受けて二人は一緒に自らの命を絶つ。やがて男が持ち込んだ苗から、その女性の名を取ったユリエラの薔薇が花開く。
 といった極めて人間的な話が、まるで壮大なドラマのように万感せまり、およそ情緒に縁の無いブライスやセルダンまで、気が付くと涙していた。やがて歌が終わると、食堂に沈黙がおり、その中をスハーラが歩み寄って吟遊詩人の手をそっと握った。ため息と共に静かな拍手が起き、宿の主人がお金を集めてまわる間、スハーラは無言でその男の手を握っていた。やがて主人が集めたお金を吟遊詩人に渡したのを見届けてから、スハーラはその長身で銀色の髪の男をセルダン達が座っているテーブルに連れて来た。
「ご紹介いたします。サルパートの吟遊詩人、サシ・カシュウ様です」
「様はいりませんよ、レリス侯爵のお嬢様。私には握られた手の優しい感触だけでわかりました。やがてサルパートの峰の第一の巫女になる方の手だと」
 そう言うと、目をつぶったままの顔をセルダン達に向けて静かに微笑んだ。
「他の方々は高貴な方々とだけ、この宿の主人からうかがいました。しかしわたしの闇しか見えない瞼に白い翼の幻が浮かんでおります。ご無礼を申しあげてしまうかもしれませんが、もしかしたらマルヴェスター様がおいでなのではないでしょうか」
 マルヴェスターは食事で汚れた手で無造作に髭をいじくっていたが、やがて片方の眉を上げて言った。
「そうか、思い出したわい。サシ・カシュウ。エイトリ神に声をもらった吟遊詩人だな」
 セルダンはこの事について説明して欲しかったが、あまり本人の前で深く聞く事では無いような気がしたので黙っていた。老いた魔術師は目をつむって息を吐いた。
「サシよ、よき歌であった。もはや忘れられた美しきバルトールの都の、あの赤い薔薇の花の香りまで嗅げるような気がする」
 マルヴェスターは吟遊詩人の顔を正面から見据えて、その肩にゆっくりと手を置いた。
「どうやら辛い旅を続けているようだな。路銀はこの若者達が奮発してくれるだろう。今日はもう休むがよい」
 セルダンはあわてて懐から財布を出して、サシ・カシュウの持つ袋に銀貨を何枚か入れた。
「素晴らしい歌をありがとう。ゆっくり休んでください」
 サシ・カシュウはセルダンに微笑んだ。
「それではお言葉に甘えまして、これで休ませていただきます。皆さまが道中無事であるようお祈りいたしております」
 銀髪の吟遊詩人は一同に礼をして、食堂の奥の宿に続く廊下に消えた。ブライスがその後ろ姿を見送ってからたずねた。
「何者ですか、あの男は」
 スハーラが説明した。
「かつて彼は、サルパートの旅芸人の一座に妹と共にいたのです。ところが、その声の美しさを妬まれた者に毒を飲まされて、妹と共に一座を追われました。そして智慧の峰の山中をさすらっている所を北の将の兵隊に襲われて、妹を奪われ、両目の光も失ってしまったのです。雪の中、瀕死の身で祈りをささげるその姿をエイトリ神が見付けられて、両目と声を取り戻してくださったのですが、両目だけは妹に会うまで開いてはいけないとおっしゃられたのです。もし開いたら二度と妹に会えなくなると。それから彼は吟遊詩人としてシャンダイアの国々をまわっていると聞きました。私が智慧の峰に仕える前に、父の城にも来た事があって憶えていてくださったのです」
 セルダンはこのエイトリ神の言葉が不満だった。
「エイトリ神は意地悪なんですか」
「違うわ。サシ・カシュウは妹をとても愛しているの。だからもし目がみえるようになったら、すぐに追いかけて兵士の中に踏み込んで行って、今度こそ殺されてしまったでしょう。エイトリ神はそれを心配なされたの。サシ・カシュウも神のお心を悟って、妹に会うまでは目を開かないと神に約束したのです。でもいまだに妹の消息を求めてさすらっているなんて」
「じゃあ、見えないんじゃなくて見ないんだ。どれくらいの間ですか」
「八年くらいだと思うわ」
 ブライスが首をすくめて身震いした。
「なんとも凄い精神力だ」
 しかしこの興味深い話もそれ程長くは続かなかった。あまりに疲れていたので、一同はその夜は早々に部屋に下がって眠りに就く事にしたのだ。その夜のセルダンは夢も見ずに深い眠りに落ちた。

 翌朝になって雨は弱まったものの、まだ止んではいなかった。セルダン達は宿の東側にある菜園の近くの塔の下でエルディ神へのうかがいをたてることにした。真夜中のように暗い空と降りしきる小雨の中、一同は塔の入り口に張り出した小さな屋根の下に身を寄せた。ブライスはまだほとんど眠っているような状態で文句を言った。
「俺の感だとまだ深夜のはずなんですが、本当にこの時間でいいんですか」
 マルヴェスターはもちろん容赦なかった。
「暁と言うからには。夜がすっかり明けてからでは遅かろう。雨のせいで暗いだけだ」
「膝が濡れるんですが、跪かなくちゃいけませんか」
「お前という奴は、時々我慢がならん程わがままになるな。一人っ子だからなのか。なぜシャンダイアの王家はいつも子供の数が少ないのか、そのうち調べねばならん」
「それは俺が改善してもいいですよ。協力してくれる女性がいれば何人だって」
 セルダンはスハーラの顔に険悪な表情が浮かぶのに気付いて。まだ何か言おうとするブライスの巨体を無理やり跪かせた。そこでようやくブライスは、仕方無いといった感じでぶつぶつと祈りの言葉をとなえ始めた。セルダンは今まで知らなかったのだが、エルディ神へのお祈りは、なんだか食べ物や宝石や衣装をひたすら捧げますというような内容に溢れていた。心なしか空が明るくなってきた頃、ブライスが祈りを止めてセルダン達を振り向いた。
「何も起きないですよ。ザイマンから遠過ぎるかな」
「いや、やってきた。のかな」
 セルダンが指差す先に、雨に濡れたしょぼくれた犬が財布をくわえてとぼとぼとやって来るのが見えた。スハーラが痩せ衰えた犬の口から財布をうけとり、頭をなでると、マルヴェスターに財布を渡した。その後スハーラの懐から、小さなお菓子のかけらがいくつか取りだされて犬の口に入っていったのを見て、セルダンは女の子の用意の良さに妙に感心してしまった。マルヴェスターは小さな財布を手に取って口の紐を解き始めた。
「緑と赤の紐が付いておる。サシ・カシュウの落としたものだろう」
 ブライスが興味津々といった感じでのぞき込んでいる。
「中には何が入っていますか」
 マルヴェスターはしばらく中をさぐっていたが、やがて小さな銅色のコインを取り出して手の平で転がした後、右手の親指と人さし指でつまんで皆に見せた。
「コインだ。信じられないことだがバルトールのコインだ。もう使われなくなって二千五百年もたっておる。どうやらあの吟遊詩人に詳しい話を聞かねばならんようだな」

 宿に戻ったセルダン達は、眠い目をこすって起きてきた主人にサシ・カシュウの部屋をたずねたが、昨日の深夜に出立したと聞いて驚いた。ブライスが仕方ないといった感じで判断をくだした。
「目が不自由で、馬を引いて歩いているとすれば、それ程遠くまでは行くことはできないだろう。少ない人数で追いかけるより、ロッティの城の者に手配してもらったほうがよさそうだな」
「そうだね。でも二度寝をするつもりならできなくなっちゃったよ」
 ブライスが、バシンと思いっきりセルダンの背中を叩いて笑った。
「雨が止んだぜ兄弟。まず朝メシだ。寝るのは馬の背中でもできる」
 一行は朝食もそこそこに、厩から馬を引きだして町の北へ向かった。ロッティ子爵の居城ブラム城は、ユルの町の郊外にいくつかの牧場に囲まれて建っている。子爵の軍は軽騎馬軍団からなっており、ここで生まれた馬達がその最大の武器となっているのだ。ブライスは道々牧場を眺めながらしきりに感心して、セルダンに話かけた。
「さすがにいい馬がいるなあ、素人の俺が見てもわかるぞ」
「雨上がりで毛づやが黒っぽく見えるから、余計迫力があるように感じるでしょう。騎馬部隊の速さだけなら間違いなくシャンダイア一だよ」
「実を言うと俺は自分の馬を持っていないんだ。今度の戦いが一段落付いたら、丈夫なのを一頭ゆずってもらえないだろうか」
「もちろん。馴らす時間があればいいけど、海に出ている時はスハーラさんに面倒を見てもらえばいいや」
「馬とスハーラとどういう関係があるんだ」
「いや」
 奇麗な馬達がゆったりと草を食む中を、セルダンとブライスは意識しないうちに速度を上げて走って行った。そんな二人から少し遅れて、スハーラは上手に手綱をさばきながらマルヴェスターと馬を並べた。
「マルヴェスター様。以前から不思議に思っていた事があるのですが、道を開く神と呼ばれるエルディ神には予知能力があるのですか」
 マルヴェスターは気持ち良さそうにうつらうつらしながら馬を繰っていたが、片目を開いて答えた。
「いや、そういう話は聞いた事が無いのう。予知なぞ、神でもそうやすやすとできる事ではない。おそらくコウイの秤が闇に傾いた力を戻そうとする、宇宙的な力の流れのかすかな前兆のようなものを感じ取れるのだと思う」
「難しいお話ですのね」
「難しい事なのだよ。エルディ神が示す事ができるのは、ほんのかすかなきっかけに過ぎん。そのきっかけを掴んで、わしら人間が力を振り絞ってそれを実現させるのだ。もちろんソンタールの者達も全力を尽くすだろう。そうせねばバランスが取れないからな。何しろ両者が頼みにしているアイシム神とバステラ神の力はほとんど互角なのだから」
「私は不安に押しつぶされそうになります」
 マルヴェスターは慈しむように、この花が開きかけるような美しさの巫女を見やって言った。
「心を強く持ちなさい。人にはそれぞれ、一生の間にやり遂げなければならない事がある。たとえその目的がまだわからなくても、どんなに不安に押しつぶされそうでも、まずは旅を始めなければならないのだから」
 ブラム城では城代のエンストン卿とベロフが待っていた。エンストン卿ははいかにも信頼できそうな雰囲気を持った、落ち着いた物腰の貴族だ。一行はエンストン卿にサシ・カシュウの探索を依頼して、ベロフのまとめた報告を聞く事にした。ベロフは城の会議室の大テーブルにカインザー大陸の地図を広げて説明を始めた。
「マコーキン軍は来週にもケマール川に到達します。すでにサルバンの野は完全に制圧されました。いくつかあった町も占領され、船や木材が運ばれています」
 ブライスがうなった。
「本気だな。ケマール川を渡るつもりだ。かつての西の将にはなかった行動だ」
 セルダンは地図を見つめて一人前の将軍のように考えをまとめていた。
「数はどのくらいなんだ」
「十万をはるかに越えているようです。おそらく十五万前後かと」
「でもそのくらいの数では、ケマール川を盾にした父の軍を破って、レンドー城を囲む所までは行けないと思うけど」
「城は囲まないでしょう。ブルック城からの援軍も駆けつけますから。囲めば逆に挟み撃ちにされてしまいます。ただ」
「ただ、何だベロフ」
 マルベスターがうながした。これにはセルダンが答えた。
「父は剣を奪われて誇りを傷付けられています。だから城から打って出て、平地でマコーキンの精鋭部隊に戦いを挑んでしまう可能性もかなり高いと思うのです」
 ベロフもこれに頷いた。
「冷静なベーレンスがどこまで王を説得できるかでしょう。城の外で戦えば、ブルック城からの援軍が合流して数で優位に立っても、残念ながら戦力は互角です。悔しいが、マコーキンの軍は強い。しかも今回は敵の補給路がしっかりしていますから、今までのように戦ってすぐに引き上げるという事は無いでしょう。西の将に川を渡られたらカインザー始まって以来の危機です」
 ブライスがもう一つの懸念についても質問した。
「アルラス山脈の山中の、謎の敵についての情報は」
「まだ入っていません。クライの町の防御体勢は整っているようですが、なにせ防壁も何も無い所です。クライバーの軍が場合によっては後退してカインザー中部の守りに入るかもしれません」
「そうなると兵数の優位が無くなってしまうな」
「そのとおりです。しかも斥候の報告ではマコーキンの軍にブールがいるとの情報もあります。クライバーの軍はどうしてもレンドー城に必要です」
 スハーラが不思議そうに聞いた。
「どうしてクライドン神が教えてくださった、その山中の敵が斥候の目に触れないのでしょう。まさかまるまる一つの軍隊が本当に山の真ん中を通っているわけでは無いですよね」
 それを聞いて、マルヴェスターが舌打ちして拳でテーブルをたたいた。
「できる。ゾックなら出来る。間違い無かろう、ゾックの部隊だ。エンストン、すぐにクライの町とレンドー城へ伝令鳥を放て。ゾック部隊ならそれ程の数では無いはずだ。クライバーが一万を率いて急行すれば対処できる。クライ方面に大軍を割いてはならん」
 エンストン卿が城の者に指図をしている間に、ブライスが伸び放題の髭をさすってベロフにたずねた。
「シゲノア・ボストール方面はどうなっているんだ。どうせゾノボートは要塞にこもったきりだろうから、援軍を送れるんじゃないのか」
「それが奇妙なんです。おそらく西の将の要塞始まって以来と思われる大軍が、シゲノア城方面に向かって動きだしています」
 マルヴェスターが言った。
「ゾノボートめ、どうやら見越したようだな。これはいかんぞ、ドラティとゾノボートが共謀したとは考えにくいが、クライドン神の力がほとんど無力化していることにゾノボートが気付いたのは間違いない」
 セルダンが聞いた。
「兵力はどのくらい」
「ブール、神官兵、傭兵併せて約八万です」
 ブライスが軽くバンザイのポーズをした。
「セルダン、おやじさんの見事な誘導作戦の成功だ。ほぼ要塞はからっぽになったぞ」
 しかし、マルヴェスターの声は渋かった。
「まずいな。ブールや神官兵はいままで要塞にこもっておったので、カインザーの諸侯はその力を知らないのだが、あれは強いぞ。トルソンの軍ならばよい勝負だが、ロッティの軽騎馬部隊向けの相手ではない。これはうかつであった。エンストン、シゲノア・ボストール両城にも使いだ。今までの相手のつもりでうかつに出撃してはならん。相手がどちらの城を攻めるか見極めてから慎重に戦うように」
 丁度そこに使いの者が来て、エンストン卿に何かを伝えた。エンストンの顔が一瞬曇ったが、渋々といった感じでマルヴェスターに報告した。
「伝令鳥の報告が入りました。カイラの港にもうすぐザイマンの快速艇が着くそうです」
「なんじゃと。ドレアントは揺れない船と言ったはずだぞ、いったい何をしとるんだ。この大事な時期に」
 マルヴェスターが真っ赤になってどなった。ブライスがニヤリとしながら言った。
「大事な時期だから快速艇なんでしょう。客船でのんびり旅をしてる場合ではないですからね」
 マルヴェスターはウンウン唸りながらブチブチとこぼした。
「これは陸路を考えたほうがよいかもしれんのう」
 ブライスがしてやったりといった感じで、マルヴェスターの肩をたたいた。
「あなたって人は、時々驚くほどわがままになる事があるのを知ってますか」

 その日の夕方、ブラム城の者に連れられてサシ・カシュウがやって来た。会議室に連れてこられた銀色の髪のサルパートの吟遊詩人は、別に怒るふうでも無くセルダン達にうやうやしくおじぎをした。スハーラが進み出て、吟遊詩人を椅子に座らせた。マルヴェスターが話しだした。
「ご足労をかてすまない。サシ・カシュウ」
 サシ・カシュウはわかっているといったふうにうなずいて話した。
「今日はお城で歌わせていただけるのでしょうか」
「それもよかろう。しかしその前に聞きたい事がある。お主の落とし物を見つけたのだよ。緑と赤の紐のついた財布だ」
 サシ・カシュウの傍にいたスハーラが、吟遊詩人の手に財布を握らせた。サシ・カシュウの風雪にさらされた顔は無表情のままだった。
「誰が拾ってもたぶん大丈夫だろうと思っていたのですが、マルヴェスター様ならばこの中のコインについてはおわかりになってしまいますね」
「すまんが見せてもらった。話してくれんか、どこでそれを手に入れたんだ」
「ある方にいただきました。わたしがその方のために命を捧げるあかしです。それ以上の事は私の口からは申し上げる事はできません」
 セルダンはこの無関心な答えにちょっといらだって口を挟んだ。
「大切な事なんですよ。この大陸ばかりでなくシャンダイアの国々全体が危ないかもしれないんだ」
 マルヴェスターが話を続けた。
「その通りなんだサシ。戦士の大陸の守護神クライドン神の身が危険にさらされている。その神を救う手がかりがお主にありそうなのだ」
 スハーラも説明した。
「今朝、ここにいるブライス様がエルディ神におうかがいをたてて、エルディ様があなたのお財布を私達の手元にとどけてくださったのです」
 サシ・カシュウはしばらく考え込んでいるようだったが、渋々と口を開いた。
「それでは、直接このコインを私にくださった方に聴いていただくしかありません」
「旧バルトールのマスタークラスの者だな」
 セルダンはこの話の内容がわからなかった。
「マスタークラスって何ですか」
「滅亡したバルトールの民の多くは、シャンダイア社会の貧しい階層の仕事に就いて働いている。しかし彼らが強い結束のもとに、シャンダイアのみならずソンタールの諸都市へも広がった地下組織を築いている事は、お主ら王家の者や諸侯はあまり知らない。その組織の中枢にいるのが、旧バルトールの貴族階級だった者とバリオラ神の神官と、特に盗賊などの特殊技術で優れた能力を持つ者、すなわちマスター達によって構成されているマスター議会だ」
「全然知らなかった」
「知るまい。わしもそれ程たくさんのマスターに会った事は無い。なぜバルトールの民がシャンダイアの王家とあまりかかわりを持とうとしないのかははっきりわからない。よほど滅亡後に冷遇された時の恨みが残っているのか、バリオラ神のいささか偏屈な性格を反映したものか」
「長老様。それはお言葉が過ぎますよ」
 スハーラがたしなめた。
「そうかもしれん。しかし問題を起こすのはいつも決まってあの激情の神だ。しかしそれはまあよい。サシ・カシュウよ、現在カインザーにいるバルトールマスターにはどこに行ったら会えるのだ」
「カインザーの王子様のいらっしゃる前ではお話する事は出来ません」
 セルダンは安心させるように言った。
「それは気にしなくてもいいよ。僕らは今大変な使命をかかえこんでいるんだ。あなたも、バステラ神の世に暮らしたくはないでしょう」
「私の世界はすでに闇なのですよ」
 これにはブライスが反応した。
「そんな事は無いだろう、あんたは目を開くことができるはずだぜ。バステラの北の将の部下に連れ去られた妹さえ助け出せればいいんだろう」
「できましょうか。智慧の峰の王侯達も神官も、北の将の攻撃を防ぐだけでせいいっぱいです。私にはバルトールの民の情報が必要なのです」
「バルトールもまたシャンダイアの国なのだよ。サシ」
 マルヴェスターがさとすように言った。サシ・カシュウはこわばった表情でひじ掛けを握り締めていたが、やがて決心したように手の力を抜いて息を吐いた。
「わかりました。お話しする前に一つだけセルダン王子様にお願いがあります。クライドン神をお助けする事と、旧バルトールの民の現在の生活の事を切り離して考えていただけますか」
「約束する、バルトールの人達が何をしていようと非難したり迫害したりは絶対にしないよ。いずれ一緒にシャンダイアの国を支える事になる人達だもの」
「それをうかがって安心しました。それではお話しいたします。カインザーのバルトールマスター・ロトフはボストール城下にいます。ボストールの城下町のはずれにあるトロットの酒場に行ってください」
「そんな所で何をしているの」
「それは直接マスター・ロトフがお話するでしょう」
 マルヴェスターが膝を叩いて立ち上がった。
「よし。明日、早朝に出発するぞ」
 スハーラが沈み込んでいる吟遊詩人に話かけた。
「これからどちらにいらっしゃるのですか」
「南へくだって、キンサトの町に行きます。これ以上はクライドン神とは関係ない事ですのでお許しください」
 これを聞いてブライスが何か気付いたようだったが、何も言わなかった。セルダンはスハーラにたずねた。
「スハーラさんはこれからどうなさいますか。ボストールは戦時下で危険な所です。エンストン卿に言って護衛の者を付けますから、直接カイラの港に向かったらいかがでしょう」
 スハーラはちょっとブライスを見やって答えた。
「いいえ、一緒に参りますわ。皆さまがカイラにお着きになるまでザイマンの高速艇は出港しないでしょうし、定期客船は時間がかかってあまり好きではありませんから」
 マルヴェスターも同意した。
「そのほうがよいだろう。もうしばらくリラの巻物ゆかりの者に、同行してもらったほうがよさそうだ。アイシム神の聖宝に関係する力が大きく揺れだしている。一緒にいる事で先を予測するための手がかりが増えてくれるかもしれない」
 セルダンはエンストン卿を振り向いった。
「エンストン卿、ザイマンの王子にその体格に合った馬を一頭贈るって約束したんです。ロッティ子爵には後で僕から話しますから、良い馬をゆずっていただけませんか」
「もちろんかまいませんとも。我が牧場で最良の馬をお贈りいたしましょう」
 ブライスはいつになく真剣だった。
「たのむ。これから先は、できる限り最良のものを選んで、進んで行かなければいけないような気がしてきた」
 セルダンは言わずもがなの事を吟遊詩人にまで聞いてしまった。
「サシ・カシュウさんはいかがですか。バルトールマスターの事を教えていただいたお礼に良い馬をお贈りいたしますよ」
 吟遊詩人はやっとその顔に微笑みを取り戻した。
「私には彼が必要なのです。私と同じ速度で歩いてくれる優しい馬が」

(第三章に続く)


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