外務大臣でもあるアシュアン伯爵の夫人レイナは、カインザー王家に預けられた不思議な少女アーヤ・シャン・フーイの歴史の勉強のために家庭教師をかってでていた。夫と好一対といった感じの小太りで気のいい婦人は、午前中の授業にやって来たアーヤを見て、予想はしていたもののその衣装のあまりの色使いにショックを隠し切れなかった。
ごてごてした襞飾りを多用した目もくらむばかりのピンクのドレスを、まるで中に埋まってしまうのではないかと思われるように着こなし、真っ白なふわふわの髪に大きな黒いリボン。黄色の靴と青い縞のソックスをスカートの下からのぞかせた小さな淑女は、それでも仕草だけは優雅にレイナ夫人におじぎをすると、屈託の無い笑顔を見せて右足のつま先でくるりと回った。
「どう、アシュアン伯爵夫人」
お茶を入れようとしていた夫人はポットを手に持ったまま、しばらく言葉が見つからなかったが、ポットを胸に両手で抱きかかえるように持ち上げてようやく答えた。
「あなたには絶対にお洋服のセンスを教える先生が必要だわ。セントーンからお招きしなければいけないかもしれないわね」
「いいえ、私がセントーンに行くわ。帰っていらしたらオルドン王様とマルヴェスターおじい様にお願いする」
小さなアーヤはこの話に目を輝かせて飛びついた。物心付いた時から、このがさつな王宮に、なぜ自分がいなければならないのかが不思議でならなかったのだ。セルダンをはじめ、城の住人は決して悪い人達ではないのだけれど、思いっきり繊細さにかけている事は否定できないと思うのだ。小さな拳を両脇に握り締めて詰め寄るアーヤに、レイナ夫人は一瞬だじろいだが、それでも気を取り直して言った。
「でもセントーンはとても危険なのよ。だからマルヴェスター様は、旧シャンダイアの国々の中で一番安全なカインザーにあなたを預けたの」
「それじゃあ、私の生まれた国は危険だったという事なの。わからないわ、私ってどこの生まれなのかしら。ねえ伯爵夫人、あなたの深い知識で何かわからない」
これはいつものアーヤの質問だが、誰にも答える事ができない質問でもあった。マルヴェスターが大事にするこの娘の素性を知りたいと思うのは、もちろん本人だけでは無かった。少女の出生を詮索するのは、他の国の人ならば控えた事だろうが、あけっぴろげなカインザーの人たちは、そんなことは気にせずにアーヤの前でたびたび話題にした。そんな大人達の自然な態度が、逆にアーヤの成長期の負担を軽くしていたのかもしれない。
レイナ夫人は二人分の紅茶を注いでたっぷりと砂糖を入れ、一つをアーヤに渡すと自分の椅子に落ち着いて、ぽっちゃりとした皺の無い頬に指をあてて考え込んだ。
「そうね。カインザー人ではまず無いわ。私達カインザーの女性は、あなたのように細い肩はしていないもの。旧バルトールの人たちとも違うわね、バルトールの人達は皮膚の色が濃くて、顔の彫りが浅くて、髪の毛も真っ黒なの」
「そう。私は髪の毛が真っ白なの。私はこんな髪の色の人を他に見たことが無いわ」
紅茶にさらにミルクを並々と注ぎながらアーヤはすねるように、指で細い髪の毛をいじりまわした。そして灰色のうるんだ瞳を夫人に向けた。夫人はそんなアーヤを見て、一瞬はっとしたように息を飲んだ。まだ十歳にも満たないこの子は、成長すればおそらくすば抜けた美しい娘になるに違いない。
「サルパートの人はどうかしら、みんなスハーラさんのような感じなの」
「そうね。智慧の峰サルパートの人たちはだいたいが大柄だし、ちょっと険しい顔立ちになるので、あなたはサルパート人の血は引いてないと思うわ」
「スハーラさんも背が高くてちょっと厳しいお顔をしていたわよね」
「あなたの顔立はどちらかと言うとセントーンの人たちに似ていますね。たまご形であごがほそくて、色が白くて」
「セルダン王子のお友達のエルネイア姫ってそういう方なの」
アーヤは小さい頃からいっしょに遊んでもらったセルダンに対して、子供らしい独占欲をちょっと覗かせながら言った。
「セントーンの宝石ね。伝説的なエルディ神の美しさに迫ると言われているわ」
アーヤの顔が急に曇ったのを見て、夫人はあわてて続けた。
「一番可能性があるのは、ザイマン人かしら」
これにはアーヤは断固として反対する姿勢を見せた。
「うそっ。あの樽のようなドレアント王やブライス王子と私が似ているっていうの」
「いいえ、ザイマンの男性達はたしかに大柄で色が黒いけれど、エルディ神に遠慮して女性は大事に扱われているからたおやかよ。それに船でいろいろな地方からご婦人を連れてくるのでバイルン子爵のお母様のように見事な青い目をした方もいらっしゃるわ。風変わりな変わった人が多いの。それにわがままだし。ザイマン人の可能性が高いかもしれないわね」
「エルディ神は好きよ。とても美しいんでしょう。でもわがままなのは私とは違うわ」
レイナ夫人は目をくりくりさせてアーヤをにらんだ。アーヤが可愛く舌を突き出してこれに応戦した後、二人はそこでちょっと黙り込んだ。もう一つ国がある。アーヤがさりげなく聞いた。
「ソンタール人の可能性はあるかしら」
「わからないわ。私はソンタールの女性に会った事が無いから。でもあなたはバステラ神を崇拝できる」
「絶対に無理。ねえ、誰も行った事がない大陸があるでしょう。あそこには人は住んでいないのかしら。」
「未踏の大陸と呼ばれている場所ね。いつも霧がかかっていて、船が近づく事ができないの。ただマルヴェスター様がそこのご出身だという噂は確かにあるわ」
「決まった。そこだわ、私はやっぱりマルヴェスターおじい様の孫なの。そしてお母様とお父様がその大陸にいらっしゃるんだわ」
レイナ伯爵夫人は、急に胸が締めつけられるような気持ちになった。これがこの子が欲しがっている答えなのだ。家族が必ずいるという事が。夫人はゆるやかに話題を変え、やがて伝説の時代の様々なおとぎ話を、やさしく少女に語り聞かせていた。遅い夏の明るい日差しが部屋の中に差し込んでいる。
アルラス山脈の麓。聖地ライア山の神殿への入り口にあたるクライの町では、クライバー男爵の父である神官長マイラスとその片腕ダーレスの指示によって、四千の神官戦士団による万全の警戒体勢が整えられていた。しかし来襲するのがゾックであろうという推測がすでに伝えられていたので、二人ともそれ程の危機感は感じていなかった。クライドンの神官戦士をもってすれば、平地での一対一の戦いでゾックに引けを取る事はまず無い。むしろ戦場暮らしが長かったマイラスなどは、相手不足であると不服そうだった。しかし若いダーレスの方は、直前にライア山上で不思議な体験をしていたので、それよりはやや慎重だった。
今回の戦闘で問題なのは、この二千五百年間にわたって誰もゾックの集団と戦った事が無いという事だった。シゲノア城方面で輸送部隊が襲われたケースはあったが、これは少数のゾックによる奇襲戦であり、大部隊でどのような戦法を取ってくるのかが全くわから無いのだ。さらにもう一つ、主にダーレスの頭を悩ましていたのは、敵がどの方角から敵が来るのかが予測できない事であった。クライの町には城壁が無く、三方をアルラス山脈に囲まれているため、山からゾック部隊に雪崩のように攻め落とされた場合には、勢いの違いでさすがに神官戦士団も苦戦するだろう。しかも山は町のすぐそばまで迫っているため、不意を突かれる危険性がかなり高かった。
勿論斥候を放って警戒はしているが、ゾックの伝説的なスピードがその報告の先回りをする可能性もあった。そのためマイラスとダーレスは相談の上、念のために市民を山から一番遠い東の区画に一時的に避難させて、北、西、南の町の三面の端にあたる民家二十軒分ほどを空き家にして兵を配置した。特に山頂まで通じる西の街道の入り口には主力部隊を配し、さらにそれに次ぐ部隊を敵から見て一番近い側面に当たる北面に配置した。そして町の西にある聖剣の碑の広場に指揮所を設営して、マイラスとダーレスはここで指揮を取ることにしたのである。
もちろんゾック部隊が南まで迂回して攻めてくる可能性もあったが、さすがに山中をそこまで迂回してくれば察知は可能と思われ、攻撃を受けるまでには迎撃の体勢を整えられるはずだった。また、万が一のためにクライの町で罪を償っている最中の囚人の中から選んだ、約八百人の男達にも出撃の準備をさせておいた。
しかし、ここで小さな問題が起きた。当初、模範囚のみで部隊を編成する予定だったのだが、バンドンという重罪の盗賊の頭だった男を指揮官に起用しない事には、どうにも囚人達がまとまらなかったのだ。バンドンはアルラス山脈の南部を中心に、貴族の財宝等を盗みまわった盗賊団の頭で、この男を万が一の場合の部隊の指揮官に任命することには若いダーレスが断固として反対した。しかしその山に関する豊富な知識と実際の戦闘の経験を買ったマイラスの決断で、バンドンは起用されることになった。囚人達がこの男に付いてくるなら、バンドンはその囚人達を守るだろう。
緊張に張りつめた一日が終わりにさしかかった夕暮ごろ、神官長マイラスは輝きを失った聖剣の碑の前に立って、地に落ちた剣の柄の部分をぼんやりと見つめていた。気力を振り絞って町の防衛の指揮をしているが、戦場を離れて十五年の間に神官の生活に慣れてしまったためか、集中力を保つのが難しくなっている。クライの町の神官戦士達は訓練こそ積んでいるものの実戦の経験は無い。バンドンというならず者を頼みにしなければならない状況まで考えなければならないのは、なんとも残念な事だった。
ただ一つ、心強い希望があった。明後日になれば、息子のレド・クライバーが一万の騎兵を率いてやってくる。そうなれば、この町での戦闘に関するかぎり、ほぼ勝負は決したと言ってもよいだろう。明日一日、何事も無く過ぎてくれればこの町は守り切れる。
「マイラス様、バンドンを連れてまいりました」
背後からの声に振り返ったマイラスの前に、若い神官に連れられた盗賊の頭のバンドンが立っていた。バンドンは体が頑強なカインザー人にしては痩せ型の体形で、背もそれ程高くない。ただ細いズボンの中の足から、シャツに包まれた長い腕の先まで、その体にはよく制御された神経が通っていて、無駄の無いキビキビした動きをしている。顔は丸くて小さく、人なつっこいように見えるが、それでいて世間を見下しているような笑顔がいまもマイラスを見つめ返していた。柔らかそうな短い髪は淡い金髪だが、苦労が多かったせいなのか白茶けて薄く頭にのっていた。マイラスは、この男はもしかしたらカインザー人とバルトール人の混血かもしれないと思った。全体的にアクセントが少ない平凡な雰囲気を持っているが、紛れもないリーダーの資質が備わっている事が見てとれる。軍人ではないかもしれないが、流れ者や盗賊の頭としては確かに一流だろう。マイラスは静かに話しかけた。
「バンドン。いまの所お主の出番はないが、場合によっては出陣してもらう事になるやもしれん。しかし町から逃げ出そう等とは考えないほうがよいぞ、クライドン神の罰が重くなるだけだ」
バンドンはばかにしたようにニヤニヤ笑いながらしばらく黙っていたが、やがてマイラスの言葉が聞こえなかったように言った。
「一つ聞きたいんだがな、老クライバー」
若い神官がはっと息を飲んで後ろからバンドンに注意しようとしたのを、片手で制してマイラスが聞いた。
「わしは今ではクライドン神の神官長マイラスだ。何を聞きたい」
「ここまで来る途中に町の兵の配置を見てきたんだがねえ、もし敵が東から来たらどうするんだい」
「そうなれば望む所だ。平地で一対一の戦いになる。わしらの勝ちだ」
「だけどな、もし敵が東から来たら、いまんとこ、この町の兵隊はみんな敵に背中を見せている事になるんだぜ」
「振り返ればよいのだろう。それくらいの時間はある」
「振り返っても、まず見えるのは、東の区画に避難させたこの町の神官以外の市民達じゃねえのか」
バンドンとマイラスをはしばらくにらみあっていたが、やがてバンドンは脇にふっと唾を吐いて言った。
「俺はこの町にいる千五百人の囚人の命を守る。それだけでいいか」
「それでよい、残りの三千人の市民と四千人の神官はわしが守る」
「そうしてくれ。お荷物はたくさんだぜ」
バンドンはそう言い捨てて勝手に振り返ると、若い神官を引きずるように従えて町の北側にある収容所に向かって歩み去って行った。
深夜。クライの町には明るくかがり火が焚かれていたが、専門の軍人ではない神官戦士達はさすがに緊張をといている時間帯だった。歩哨の中でも、町の中心部あたりに立っている者の中には、民家の壁に寄りかかって居眠りをしている者もあった。それでも山際に配置された者達は、注意深い警戒の目を暗闇にそびえ立つ山並みに向けていた。
空気が冷えきり、かがり火のはぜる音がやけに規則正しく聞こえだした頃、西の広場につくられた指揮所から神官長マイラスは自宅に戻るために外に出た。深夜の指揮はダーレスが担当する事になっている。家では歳老いた妻が待っているだろう。マイラスは妻に感謝していた。息子のレドのもとに留まって孫の世話でもしていたかったのだろうが、マイラスが神官になる事を決めた時にこの町までついてきてくれたのだ。
星がよく見える夜空を見上げ、指揮所の窓から見えるダーレスの生真面目な横顔を確認した後、マイラスはゆっくりと町の東の区画に向かった。クライの整然とした街並みにはさすがにこの数週間の混乱の跡が見えていたが、宗教都市特有の厳しさにも似た緊張感は失っていなかった。この静謐な空気がマイラスは好きだった。
歩きだしたマイラスは、視界のやや上のほう、町の東側の家並みの屋根の上に赤い光が一つ灯るのを見たような気がした。なんだろう。目をこすって見極めようとした時、かん高い女性の悲鳴が夜空を引き裂いた。続いて男達の太い叫び声が聞こえ、何かが倒れるバリバリという音がして、屋根の上の赤い光が一気に家並みの上に帯のように広がった。一瞬の驚愕から立ち直ったマイラスは、指揮所に向かって走り出した。指揮所からはダーレスがマントと兜を持った部下を従えて飛び出してきた。マイラスは叫んだ。
「東だ。東から襲撃だ。信じられん、山を伝ってくるのではなかったのか」
ダーレスが素早く答えた。
「ゾックは異常なスピードと組織力を持つといいます。もしかしたら、斥候を振り切る速さで山を駆け下り、東に迂回したのかもしれません。しかしこれが陽動作戦の可能性もあります。我々が東に兵力を投入した後、敵の本隊が山から襲う気なのかもしれません」
「よし、おまえは取りあえず、ここにいる一隊を引き連れて東へ向かってくれ。西と北の守備隊から兵を回す。わしは引き続き、山側に備える」
長身の体に鎧をまとい、青いクライドン神の神官のマントをひるがえしたダーレスは広場にいた神官戦士をかき集め、続け、続け、と叫びながら町の東へ向かって走って行った。マイラスは伝令を走らせ、西に配備してある守備隊の一部を急きょ東へ向かわせるよう指示した。まだこの時点ではマイラスもダーレスも、小鬼の魔法使いテイリンが三千の全軍をもって東から突入してきている事を知らない。
カインザーの補給の要衝セスタから続く街道は、クライの町に入ってそのまま町の中央を東から西へと横切っている。その道の、町の中央部からやや西寄りの所に聖剣の碑の広場がある。薄い守りを突破して街道の東から突入したテイリン率いるゾック部隊は、周りの家々に火を放ち、立ちふさがる神官戦士達をズラリと並んだ半月刀で斬り下ろしながら、この道を猛スピードで西に向かって直進していた。
ゾックの前進は跳躍の繰り返しである。間隔を明けて並んだ前列のゾックがラインを揃えてジャンプをし、刃先を揃えて敵の頭上から振り降ろす。その第一列目の間隔に次の列が続き、その間に次の列が続く。倒れた者にはすぐに別の者が交代し、三列の隊が繰り返し繰り返し前に立ちふさがる神官戦士を斬り倒していった。神官戦士達はなんとか乱戦に持ち込みたかったが、この集団攻撃の不意打ちに一方的に後退を続けていた。
今回はテイリンは部隊の最後尾にいた。けなげに走る小さな馬の背から意志の力を放って、全部隊にとにかく密集体系を取らせることに専念していたのだ。今、テイリンが取っている作戦は単純だった。
この日の日中、テイリン軍はクライの町の北方の、町まで半日の距離にある山の中で休息を取った。テイリンはゾックにかつがせて山の中を運んできた小さな馬の鼻をなで、かすかな魔力を送って落ち着かせながら、クライへの襲撃作戦について考えた。ゾックの持ち味は山岳戦だ、平地では個々の戦闘力がとても低い。最初から万全の準備で待ち構えているカインザー人の真ん中に突撃するのは無謀に過ぎる。山中で騒いでみても敵が追って来なければ手の打ちようが無い。そのため、ゾックのもう一つの特長であるスピードと組織力を最大限に活かす作戦を取ることにした。
夕暮と共にゾック部隊は山を下り、そのまま思い切って平地に飛び出す。それから猛スピードで町の東側に迂回し、そのままクライの町に突入して、一直線に山にむかって殺戮を重ねながら走り抜ける。これしか効果的な襲撃法は無いだろう。もし追いかけてくる軍があれば、それこそ罠にはまったも同然。山の中で散々悩ませてやろうではないか。テイリンは魔術師としてはまだ一流とは言えないが、戦闘の指揮に関しては獣的な嗅覚を持っていると言ってもよいかもしれない。
戦闘を続けながらも、テイリンは逃げる市民やクライドンの神官戦士をゾックに追わせる事はしなかった。無駄な行動は行わない。混乱と暗闇、この二つにスピードを加味して、カインザーのかつての九諸侯の一人が立てた防衛作戦をくつがえすのだ。時間をかけていては、逆にテイリン軍自体が取り囲まれる可能性があった。ゾックに追われ、逃げ惑いながら西に向かって流れ出した避難民は、山側から駆けつけた神官戦士達の道をふさぐ事によって混乱に拍車をかけた。あまりにテイリン軍の動きが速いので、避難民の中にはゾックに追い越されてしまう者も出てきたが、そういった者達は、今度は逆に東に向きを変えて町から離散していった。
ダーレスは戦闘が行われている区画に駆けつけると、自ら剣を振るって必死に防衛線を組み立てようとしていた。ゾックの放った火が家々を焦がし、火の粉の降りしきる中を市民達が逃げ惑っている。そんな中で神官達を指揮してゾックをくい止めようとしたが、次第にこれはとうてい無理なのでは無いかと思い始めた。
困るのは、深夜であり、避難民があちこちに迷っているので弓が使えない事だった。どうしても接近戦で崩さなければならないのだが、正面から少人数の神官戦士で立ち向かっても歯が立たない。しかしその敵の圧力を感じながら、これがおとりでは無い事には確信を持った。ダーレスはマイラスの元に伝令を送り、聖剣の碑の広場に敵を一旦入れさせてしまってから、全軍で包み込む作戦を取るように進言した。そしてマイラスが体制を整えるまでの時間稼ぎのために、懸命の防衛戦に身を投じていった。
マイラスはダーレスの報告を受け取るとすぐに、町の西と北に配置していた神官戦士を呼び戻し、聖剣の碑の広場を囲むようにして位置につくよう命令を下した。しかし広場は避難民でごったがえしている状況で、たとえここにゾック部隊が来ても効果的な反撃ができるかどうかが疑わしい現状だった。まずは避難民を広場から南の方角に誘導して逃げさせるのが肝要だったが、深夜のためなかなかはかどらなかった。
戦闘の音はすぐ近くまで迫っており、ここにきて、マイラスはバンドンの囚人部隊に出撃を命じる事にした。町の北側にある収容所から、真っすぐゾック部隊の横腹に攻撃を仕掛けさせるのだ。
すべての指示を終えた後、マイラスは広場の中央にある聖剣の碑の前に小さな椅子を置き、かつて着慣れていた鎧を身にまとって陣取った。近くで市民を誘導していた神官がマイラスに気付いて、驚いて駆け寄った。
「マイラス様。兵は広場を包囲する配置に就いております。マイラス様も広場から外にお出になって、兵の後方から指揮してください」
マイラスは傷付けられたような顔になって答えた。
「馬鹿な事を言うな。敵は獣ながら、あっぱれにも正面からやってくるのだ。囲むのは兵法だが、将は中央で待ち構えるものだ」
その言葉を聞いた神官は唖然としていたが、悲鳴に似た声でマイラスの説得にかかった。
「そんな。危険過ぎます。ゾックは猛スピードでやってくるのです。逃げる暇がありません」
マイラスは声を静めて、子供に教えるように言った。
「折れたとはいえ、クライドン神の聖剣の碑の前で、神官の長が逃げる事はできないのだよ。それに、広場に敵が入った時に誰もいなければ、さすがに罠だと察するはずだ。わしは動かない。君は早く市民の避難をさせなさい」
神官にはそれ以上マイラスにかける言葉も無く、しぶしぶ市民の避難の誘導に戻っていった。しかしマイラスに気付かれないように、碑の反対側には忠実な神官戦士の一団が集まり始めていた。
バンドンは収容所の庭で、軽武装した囚人達の部隊を前にして落ち着くように言いきかせていた。戦闘が町の中央の街道沿いに展開されている限りこの収容所に被害は及ばない。むしろ、町の東から近づいている火の手のほうが心配だった。風はいまのところ無いが、戦闘が長引けば、火はやがてこのあたりまでやってくるだろう。バンドンは赤く染まった南東の空を眺めて舌打ちした。言わんこっちゃない。かつての猛将マイラスは老い、片腕のダーレスには戦闘の経験が無いのだ。そこに、マイラスの使いの神官が駆けつけてきた。
「マイラス様からの出撃命令です。ここから真っすぐに南へ向かい、襲撃者の横腹を攻撃してください」
「断る」
バンドンは即座に拒否した。
「な、なんと」
「俺の分担はこの町にいる千五百人の囚人達の命だ。他の市民と神官はマイラス自身が守ると言ったはずだ」
神官は怒りに真っ青になって、怒鳴りつけた。
「しかし、町が危機に晒されているんだぞ。貴様、この町の人間をを見殺しにするのか」
「戦わずに逃げればいい。敵の数は少ないはずだろう。町を占拠する余裕は無いはずだ」
「しかし」
言いかけた神官に今度はバンドンが怒鳴った。
「用件は聞いた、俺は俺の流儀でやる。てめえは収容所の門だけ開けて、さっさと市民の避難の手伝いにでも行きやがれ」
使いの神官はしばらく唇を震わせてつっ立っていたが、それ以上何も言わずに駆け戻って行った。後ろで、囚人達の一部から声があがった。
「バンドン様。どうなさるんですか。町を見捨てるおつもりですかい」
バンドンはそう言った男を一べつしてたずねた。
「お前はどうしたい。この町を助けるか、お前を罪人にした国の町を。門は開いてるんだぜ、町は混乱している。逃げるんならこんなに都合のいい時はねえぜ」
「おいらはクライの町なんかはどうでもいいやい。でもな、この国がソンタールの魔法使いの物になって、バステラ神っちゅうのをあがめるのはいやだ。それに、セスタにゃ弟夫婦がいるで」
後ろから、別の男が叫んだ。
「そうだ、おらもマイスターにおっかあが居るだ」
バンドンは目を細めて皆を見回した。
「俺もソンタールの世にしたくは無いな。西の将が治める国では盗賊も生き辛かろう。戦いだけが趣味のシャンダイアの間抜けな貴族どものおかげで、こっちも楽しく盗賊家業ができるんだからな。ならばこの町のために戦うか野郎共」
「おおー」
威勢のいい掛け声があがった。しかしその囚人達を見回したバンドンの心は晴れなかった。冷静に分析してみると、どうやらこの戦いは劣勢らしい。クライの守備隊が敗けてもゾックは町を占領せずに出てゆく。ならばなるべく余計な命は失いたくない。ゆっくりと出撃してゾックの後ろをついてまわろう。そう心に決めたバンドンは、右手をあげて囚人部隊に出撃の合図をした。軽装ながら喧嘩慣れした猛者達は、バンドンの後に付いてもくもくと進軍を始めた。
その頃ゾックを指揮しているテイリンは、必死になって精神を落ち着かせていた。この町のクライドンの神官戦士団の抵抗のねばり強さは全くの予想外だった。奇襲は、相手が動揺して混乱してこそ効果がある。逃げ出してくれればなお良い。しかしここまで抵抗されると、そのうちに数と個々の能力で劣るゾックは、戦闘の、ある局面において必ず押されはじめるだろう。一度守勢に立ったら、それを建て直す余裕はテイリン軍には無い。テイリンはここが頑張り時だと思った。指揮官の自分が恐怖心をはねのけ、さらに強い心をゾック達に送って一気に押し通すのだ。町の地形はあらかじめわかっている。敵が広場で建て直しを計る前にそこを突破しなければならない。そうしなければ、ほぼ間違いなくテイリン軍は全滅するだろう。
焦るテイリンの気持ちを徐々に軽くするかのように、戦闘はようやく広場に近づいていった。やがて前方の道の両側に、何も建物が建っていないのが見て取れた。広場が近い、神官達の抵抗が止んでいた。テイリンは部隊に停止を命じ、ゾックの中をかきわけるようにして部隊の先頭に進んだ。テイリンは一応は獣をまかされている魔法使いである。神官の中でも、要塞付きの高位の神官達に次ぐランクの一人だ。その常人よりも拡張された視覚で広場全体をみまわした時、一瞬にして相手の弱点を見つけた。広場の中央、碑の前に陣取っている老人だ。おそらくここの長だろう、その後ろに碑を囲むようにして神官戦士の一団が控えている。
見回せば、広場を囲む路地や家の屋上に兵士の気配を感じる。しかしそれらの兵と戦う気はさらさら無い。三千のゾックのほとんどを無傷でここまで連れてきたのだ。殺すわけにはいかない。テイリンは意志の力でゾックを二手に分けると、軽く顎を振って、広場に突入させた。
広場になだれ込んだゾックは、二列になって碑を挟むようなコースで広場を突っ切っていった。クライドンの神官戦士にも、逃げ遅れた市民達にも目をくれない。目指しているのは広場の西の出口、そしてその先に続く道を直進してアルラス山脈に逃げ込むのだ。さっきまで圧倒的に勝っていたゾック部隊が、一転して逃走にかかった事にクライドンの神官戦士達はまだ気付かなかった。猛スピードで目の前を通り過ぎてゆくゾックを目ざして、広場の両脇に配置された弓兵部隊は次々に矢を放った。矢は怒涛のように通り過ぎるゾックの列の、外側に位置した者達を倒していった。しかし跳躍を交えた不規則な動きに目標を定められず、その精度は低かった。
マイラスを守ろうと碑の周りに集まった戦士達は内側からゾックに斬りかかったが、これは無駄に命を失う結果になった。当のマイラスは、剣の碑の両側を走り抜けていく奇怪な怪物を呆気に取られてみつめていた。まさか、自分達に目もくれずに通過してゆくとは予想していなかったのだ。そしてふと正面に向き直った時、目の前に茶色のマントを細い体に巻きつけた、明るい茶色の髪の若い男が小さな馬に乗って立っているのに気が付いた。
「すみません。これが私の生まれながらの使命なのです」
茶色の髪の男はそう言って、右手の人さし指を立てた。その先からから針のような細い光が伸びた。次の瞬間、若者はその指をマイラスに向けて突きつけた。それが神官長マイラスに意識された最後の光景であった。光の針がテイリンの指から飛び出してマイラスの胸を貫いたのだ。マイラスは絶命した。
マイラスが倒れたのが、広場を囲む家々の屋根に配置された兵達の目にとまり、叫び声が広場を満たした。広場の西の出口の神官戦士団は、すでに三千のゾック部隊の先頭と激戦を繰り広げていたが、その悲鳴に引きずられるようにして一気に壊滅した。その上を次々に飛び越えて突破口を開いたゾック部隊は、そのままアルラス山脈にむかって走り去っていった。三千のゾックがすべて広場から出ると、最後に馬に乗ったテイリンが続いた。後に残されたのは、町中に広がった炎に照らし出されて踊る、傷だらけの神官戦士達の黒い影だけだった。
バンドンは決して意識的に遅れたわけではなかった。皆の前ではああ言ったものの、バステラの獣に人間が蹂躙されるのを見ているのは気持ちがいいものではない。しかしいかんせんゾック部隊はスピードが速過ぎたし、マイラスの出撃命令も遅過ぎた。囚人部隊が町の中央の街道にたどり着いた頃には、戦場はすっかり広場の方向に移動してしまっており、やがてアッという間にその騒音も消えた。住民も逃げ去り、あたりでは燃え続ける炎のはぜる音だけがやけに大きく聞こえている。囚人の一人が気味悪そうにバンドンに聞いた。
「終わっちまったんですかい」
「らしいな。しかし心配するな、化け物共はこの町を占領するだけの数はいないんだ」
「すると何しに来たんですかねえ」
「レンドー城のほうで王様が西の将と大戦をするそうだ。オルドン王の戦力を分散させるための作戦だろうな」
その時、道に散らばる神官戦士の死体をつつきまわしていた囚人の一人が言った。
「何人か生きてますぜ。どうします」
「放っておけ、それより火の始末のほうが先だ。おめえら、この付近から南北に向けて二三軒ぶんの幅で帯のように家をぶっ壊せ」
「へえっ」
囚人達は一瞬何を指示されたのかがわからなかった。
「今燃えてる家の火は消せない。だがここから西に火事が広がらないように、家を壊して火の道を断つんだ。物をぶっ壊すのは得意だろ」
「しっかし、大変な仕事でっせ」
「仕方ねえ、とりかかれ。それから一人広場に行って、神官共を連れてこい」
囚人達は、手近の家の一軒をみんなで壊して太い柱を取りだすと、その柱をかかえて次の家にぶち当てた。そうして次の家を壊すと、残骸の中から柱を拾い出し、いくつかのグループに別れて町中に散って行った。さすがにこのあたりの手際はいい。簡素な宗教都市なので、家が木造だったのも幸いした。しかしそれでも火がここまで来る前に緩衝地帯を作るのは間に合わないかもしれない。
バンドンは顔をしかめた。神官戦士達は何処に行ったんだ、役に立たねえ奴らだ。ふと見回すと、鎧だけの戦士に混じって青いマントの男が倒れているのに気が付いた。
（ダーレスの野郎だ）
駆け寄って、顔を二回程ひっぱたいてみると、身じろぎして目を醒ました。
「生きてるんじゃねえか。早く起きやがれ、だらしのねえ」
バンドンに抱え上げられて、ダーレスはようやく立ち上がった。背が高いので、立ち上がるとバンドンにのしかかるようになった。幸い、動けない程の深い傷は負っていないらしく、すぐに自分一人で立って、頭に手をやるとフラフラしながらあたりを見回した。
「戦いはどうなった」
「終わった。とにかく戦闘の音は聞こえない」
「それでは広場に行ってみよう」
「アホウかてめえは、戦いが終わった以上、問題なのはこの火だ」
ダーレスはアホウと言われてムッとした顔を見せたが、バンドンが指さした火を見て事の重大さにすぐに気が付いた。
「すまん、俺がだらしなかった。神官達を指揮してくる。囚人達を頼む」
「おおさ」
ダーレスは広場に向かって走り出そうとしたが、そこに先に呼びに行った囚人に連れられて神官達がバラバラとやって来た。先頭の神官が叫んだ。
「ダーレス様。マイラス様が討ち死にされました」
ダーレスは一瞬、目をつぶって動きを止めたが、すぐに大声で指示を出した。
「神官長の葬儀は、明日行う。まずこの火災の始末を行う、現在囚人達が家を壊して緩衝帯をつくっている。それを手伝え。それが終わったら、散りじりになった市民を探して町の東に野営地をつくって休ませろ。戦闘は終わったが、まだこの戦役全体は終わっていない」
翌々日、カインザーの若き獅子。赤いマントのクイライバー男爵が一万の騎兵と共に駆けつけた時には、クライの町はすでに火災の煙も消えて、焼け落ちた無残な瓦礫の山が、やけに明るい日差しの中で風に晒されていた。重々しく馬を寄せるクライバー一行を町の入り口で迎えたのは、傷だらけの青い鎧の神官戦士の一団と、裂けた青いマントのダーレス。そして小さな花を手に持った、白い衣のマイラスの妻だった。金髪のハンサムなレド・クライバーはそれを見ると、表情一つ崩さずにひらりと馬から飛び降りると、ダーレスの前に深々と頭を下げた。
「すまなかった。私が駆けつけるのが遅かった事。父の指揮に誤りがあった事。聖なるクライの町をこれ程までの姿にしてしまった責任は、我がクライバー家にある」
「いいえ。すべてはこの二千五百年間、誰もゾックと戦った事が無いという情報不足からきたものです。ゾックがあれ程まで速く、そして統制の取れた動きをするとは誰も予想していませんでした」
ダーレスは、やや歳下のがっしりした男の手を取って、ゆっくりと男の母親の手に渡した。クライバーは小柄な母親の前に跪き、目を閉じて静かに落涙した。母親はかばうように息子の大きな体に腕をまわし、親子は悲しみを分かち合った。
しばらくの後、聖剣の碑の広場の指揮所でクライバー男爵はダーレスと作戦会議を開いた。クライバーは机の上に広げたカインザー大陸の地図を前にして言った。
「問題は、この後のゾックの移動先だ。西の将の要塞に戻るのか、南下して他の町を襲うのか」
ダーレスは明快に答えた。
「要塞に戻るのであれば、手の打ちようがありますまい。しかしこちらにとって危険でも無くなります。やはり、南下すると見て手を打つべきでしょう」
「レンドー城の情勢からみて、これ以上の兵は割けない。このゾックの始末はどうしても私がつけるぞ」
「お願いいたします。今度敵が平地に出てくれば、クライバー様の相手ではないでしょう。しかし山から山へと伝って、町々を深夜に襲撃してくるようだとやっかいな事になります」
「一言、言わせてもらってもいいかねえ」
ゾック襲撃の状況を説明するために呼ばれていた、元盗賊の頭バンドンが口をはさんだ。クライバーは涼しい目を向けてうなずいた。
「ソンタールの小さな獣ってえのは、バステラの神官が指揮しているんだよなあ」
ダーレスがハッとしたように答えた。
「そのとおりだ、バステラの神官がいた。マイラス様の命を奪ったのは、茶色い髪と茶色いマントの男だったと、広場にいた神官達が報告している」
クライバーはいきなり細身の愛剣をスラリと抜いて机の上に振り降ろすと、地図のわずかに上で止めた。
「その男が、私の目標になる」
「ちょっと待ってくれい男爵。俺が言いてえのはなあ、今回の敵襲で感じた正直な感想なんだが、その魔法使いはかなり頭がよくて統率力があるぞ。山に分け入っちゃあなんねえ。間違いなく敵の思うつぼだ」
今度はクライバーは剣を水平に振って、バンドンの鼻先で止めた。そして剣越しにバンドンの顔を見据えた。
「今後は敵は、今回のように大胆に平地には降りてこないだろう。どうしても山に入らねばその魔法使いの首を取れないとなれば、私は山に入るぞ」
「それじゃあ、死んじまうな」
ダーレスがカッとなって怒鳴った。
「貴様。それではどうやって、ゾックと魔法使いを倒すんだ。山から追い出す方法でもあるのか」
「追い出す方法はねえ。だが、山に入って戦う方法が一つだけある」
クライバーとダーレスは一瞬顔を見合わせた。ダーレスが疑わしげにたずねた。
「どうするんだ」
バンドンはニヤリと笑って言った。
「俺と手下を連れて行くんだ。もちろんその前に、酒とうまい食事を食わせてくれなきゃ動けないけどな」
バンドンは両手を広げて、近くの椅子にどっかと腰を下ろした。その顔にはいつものニヤニヤ笑いが広がっていた。
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カインザー大陸の北方にカインザーの九諸侯が治める二つの城がある。トルソン公爵のシゲノア城とロッティ子爵ボストール城。この二城の歴史は、ポイントポートからソンタール帝国の西の将が大陸に渡ってきた千九百年前にまで溯る。カインザー王国側の戦闘体勢が整うまでの間、激しい戦いがこの二城を中心に繰り広げられたが、カインザーの諸侯はよく持ちこたえ、攻勢に転じるに及んで不落の城としての名声を勝ち得た。もちろん当時から現在に至るまでに城は拡張され、城壁は怠りなく補強され、城下町も繁栄と共に広がって、現在では完全な要塞都市となっている。
アルラス山脈をくだったセルダン達が向かっているボストール城に、ユルから陸路で補給を行う西の街道は良く整備されており、またロッティ子爵家がユルを治めてからは馬での旅のための工夫もこらされて、とても走りやすくなっていた。それでもユルからボストールまでは馬を急がせて十日もかかる。
この二か月近い旅を通じてセルダン達一行の様子にも徐々に変化があらわれていた。それは主に育ち盛りのセルダンに顕著であった。お気に入りの水色の衣装のセルダンは、ベロフに注意されて右肩を下げる癖を直すように努力しているが、この姿勢の悪さはそう簡単には直りそうもなかった。しかし将来自分が王として統治する領内を、これ程の長い日数にわたって旅した事は、その心に大きな責任感を持たせる事になった。若い次期君主に逞しさが増している事にベロフらは頼もしさを感じている。
セルダンと馬を並べて常に先行している、もう一人の王子ブライスは、ユルのエンストン卿から贈られた雄大な葦毛の馬の背の上で、不器用に巨体を揺らしていた。相変わらず不平屋だが、馬にはそうとう乗り慣れた様子だ。すり切れた赤いシャツに革のチョッキ、額の銀の輪はそのままだが、手首の鉄の入った革のバンドは捨ててしまった。銀の輪を身に付けると、なんだか手首がかゆくなるのだ。女神は鉄があまり好きではないらしい。伸び放題の髭は最近スハーラが定期的に刈り揃えている。
智慧の峰の巫女スハーラも、これ程の距離を馬で旅するのは初めてだった。淡い黄色の上着とうすい茶色の長いズボンはすっかり埃にまみれたが、その清楚な美しさと、やや厳しいまなざしはいささかも損なわれていない。休憩の度に小柄な牝馬にやさしく話かけている。馬の言葉がわかる人間がサルパートにいるという伝説は嘘では無いのかもしれない。もしそうなら、ロッティ子爵が知りたがることだろう。
魔術師マルヴェスターは全く変わらない。三千年以上も生きてきたのだから、この程度の旅では変化しようが無いのかもしれない。シャンダイア分裂の直後に歴史に登場して以来、変わる事の無い灰色の鍔ひろ帽と黒い長いローブは、あるいは魔法で維持されているのだろう。手に持っているねじくれた長い杖は、いまのところ出番が無い。そこにどんな力が秘められているのかは誰も知らないが、おそらくその杖はただの飾りで、力はマルヴェスター本人にあるのだろう。
列のしんがりをつとめるベロフは、長旅ですり減った地味な茶色の服を長身痩躯の体にさりげなく着こなしている。黒い髪がやや伸びはじめたが、口髭の手入れだけは忘れていない。
この旅の中で、セルダンが一つ気にしている事があった。智慧の峰の巫女スハーラは、どうしてこの旅についてきているのだろうか。いや、そもそもなぜザイマン船に乗っていたのだろう。ボストールまであと一日という所で休憩している時、セルダンは思い切ってこの事をスハーラに聞いてみる事にした。
スハーラは小さなたき火にやかんをかけて、お茶をわかそうとしていた。日は照っていないが、明るい光の中で緑の木々を背景にした若い巫女はとても楽しげで、まるで戦乱の最中とは思えない安らかな風景だった。
「スハーラさん」
たき火の前にしゃがみ込んでいたスハーラは、左手で、やかんをちょっとゆすってからセルダンに顔を向けた。
「何、セルダン王子」
「一つ聞いていいですか」
スハーラはにこやかに笑って答えた。
「はじまったわね。セルダン王子の一つ聞いていいですか、攻撃が。もちろんいいわよ」
馬達のために作られた街道の脇の空き地で、他の男達が耳をすませている。セルダンはスハーラに近寄って、地面に座った。
「スハーラさんはどうしてザイマンに行っていたのですか。もしよろしければ教えていただけませんか。僕は智慧の峰の巫女がこれほどの長い間、国外に旅をするという話は聞いた事がないんです」
スハーラは軽く目を細めたが、あまり気にするふうでも無く言った。
「狼よ。北の将の狼がサルパートの町々へ激しい襲撃をかけだしたの」
セルダンの後ろから、マルヴェスターが近づいてきて説明を加えた。
「ソンタール帝国の主力はセントーン王国の攻略に向かっている。北の将はソンタール内では、いまのところ影が薄いのだよ。ましてやセントーンが陥落してしまっては、ユマールの将や東の将の地位が上がるばかりだ。その前にサルパートを攻略して、手柄を上げ、できればセントーン攻撃にまで加わりたいのだろう」
セルダンは真後ろに立ったマルヴェスターを見上げた。
「北の将ライバーっていうのは、どんな将なんですか」
スハーラはカップを地面に置いた木の板の上にていねいに並べていった。
「老いた狼だわ。氷のような心の持ち主」
マルヴェスターが付け加える。
「昔は激しく厳格な武将だった。だが今ではいささか偏屈と言ってもよかろう。柔軟性に欠けるあの将軍には、知恵に溢れたサルパートの攻略は出来ないだろう。問題は脇にひかえている黒い短剣の魔法使いギルゾンだ。この男こそ本当の狼だ」
スハーラが、薬草を入れたお茶を男達に配った。セルダンは最初このお茶の匂いがあまり好きではなかったが、飲んだ後、体の中に元気がよみがえる事に気が付いてからは、残さずにきちんと飲むようにしている。スハーラはカップを両手でささげて言った。
「荒れ狂う狼達を食い止めるにはサルパートに戦士の数が足りません。でも狼を魔法使いギルゾンの呪縛から解き放つ方法が一つだけあるの。それがルドニアの霊薬」
マルヴェスターが続けた。
「エイトリ神がバステラ神に追われてサルパートの峰に逃げ延びたときに、流した涙を集めて作った霊薬だ。もう五百年近くも前の事になる。わしら翼の神マルトンの弟子達の中で最年少のセリスがあの霊薬を欲しがってのう。ユマールに遠征して海に消える前に持っていたはずなのだ。それが最近、ふたたび世に現れてザイマンのある船乗りが手に入れたといういう噂があった」
「そうか、それを探しに行ったのですね。それで見つかったのですか」
今度はブライスが大きな体をゆらしながら答えた。
「噂だけだった。いや、もしかしたらあったのかもしれないが、ザイマンの酒場で物を探して見つけようってのが無理な話だ。船乗りも霊薬もすぐに行方がわからなくなっちまったのさ」
「その霊薬にはどんな力があるのですか」
マルヴェスターが答えた。
「一言で言えば、魔法からの開放だ。魔法にとらえられた者をその支配から開放できる。しかし、それを扱えるのは智慧の峰の最高位の巫女か、サルパート王国の王位の継承者だけだ。しかも量が少ないから獣の軍団相手に使うのは本来無理なのだが、どうやらサルパートの知識を使えばなんとかなるようだ」
「智慧の峰のすべての巫女と王家の者の力を合わせ、地形を十分に利用すればできるはずなのです。この話はいずれいたします」
セルダンは首をかしげた。
「魔術師セリスはどうしてその霊薬を欲しがったのでしょう。智慧の峰の最高位の巫女か、王位の継承者だけにしか使えないのでしょう」
マルヴェスターは一つげっぶをしてお茶のカップをスハーラに返した。
「セリスにはサルパートの王位継承者の資格があったのだよ、順位はずっと下のほうだったがな。しかし何に使いたかったのかはわしらにもわからん。すべては五百年前にマルバ海に消えたと思われていたのだ」
スハーラはきっぱりと言った。
「とにかくルドニアの霊薬が欲しいのです。でも今回の旅では見つかりませんでした。またザイマンに、そしてセントーンにも赴かなければならないでしょう。あるいはバルトールマスターの力も借りなければならないかもしれません」
ブライスがスハーラを力づけるように声をかけた。
「ちょうどいいさ。カインザーのバルトールマスターに、もうすぐ会える。何かわかるかもしれない」
スハーラは大きな男を信じるように静かにうなずいた。その翌日、道を急ぐセルダン達の前方遠くに城塞都市ボストールが見えてきた。ボストールの町は匂いでわかる。ブライスが鼻をしかめた。
「セルダン。この匂いは牧場のにおいだな」
「うん。と言うか馬の匂いだよ。中にはいるともっとすごい」
ブライスは顔に手を当てて天を仰いだ。
「おおっ。清らかな海の匂いが懐かしい。どうしてこんなに山の中ばっかり走り回るハメになっちまったんだろう」
マルヴェスターがニヤリとしながら言った。
「このあたりでネを上げてもらっては困る。いずれはサルパートの山にも登らねばならなくなるかもしれんぞ」
五万の兵を擁するボストールの城下町は賑わいを見せていたが、馬の数が同じほどいるので、匂いがなんとも言えなかった。魔法使いゾノボートの軍が要塞を出てこちらへ向かっている事を知っているはずなのに、不落の城に守られた住民達の顔に暗さは無い。
ようやく繁華街を抜けたセルダン達は、都市の中央の小高い丘の上に建つ、古城のたたずまいをみせたボストール城に入城した。
城門では、小柄で痩身のロッティ子爵が一向を待ち構えていた。いかにも俊敏そうな家来を左右に従えて、明るい茶色のマントをひるがえし、三日月形の刀を片時も手元から離していない。几帳面なロッティは一々全員の名前をあげて迎えの言葉を述べた。
「ようこそおいでくださいました。セルダン王子様。そして聖宝の守護者の相談役にして、翼の神の御弟子のマルヴェスター様。ザイマンのブライス王子。サルパートのスハーラ様。そして我が親友のベロフ。長旅お疲れさまでございます」
馬をロッティの家来の者に引き渡しながら、セルダンがたずねた。
「戦線の様子はどうなってる」
ロッティの顔が陰った。
「実は王子様にお伝えしなければならない事がございます。シゲノア城のトルソンが出撃の準備をしています。七万の兵は今週中にもゾノボートが繰り出した混成部隊を迎え撃ちにでるでしょう」
「そんなばかな、相手がどちらの城を攻めるか見極めてから、慎重に戦うように伝令鳥を飛ばしたはずだけど」
「はい、私も何度か使者を送って引き止めようといたしましたが、トルソンの馬鹿者めは聞き入れません。王子様にお願いがございます。我が軽騎馬軍団にもトルソンと呼応しての出撃をお命じください」
しかしこの願いは、セルダンの後ろに控えていたマルヴェスターが即座に却下した。
「いや、いかん。ここの騎馬部隊はゾノボートが守備的な戦いをする時に、要塞までの距離を考えて機動力を活かすように配備された軍隊だ、今回の敵はちょっと違う。やはり城を守ったほうがいいだろう」
ベロフがうんざりしたように口を開いた。
「なんとなく、私はこの事を予感していました。トルソンは悪い男では無いが自分の力に自信を持ち過ぎている」
セルダンが素早く一行を見回して言った。
「よし、僕が書状を書く。ベロフ。それを届けてくれないか」
ベロフはちょっと意外といった顔をした。
「しかし、私は王子に付いて要塞に潜入しなければなりません。ここで離れては、合流に逆に時間をくいます」
「父の命令ならともかく、トルソンは僕の書状くらいでは簡単に引き下がらないよ。ロッティはこの城と五万の兵を指揮しなければならないから、トルソンを説得できるのは同じ九諸侯の一人であるおまえしかいないだろう」
このセルダンの言葉を聞いてマルヴェスターが決断した。
「仕方が無い、そうするしかあるまい。ベロフ。今夜、わしらはバルトールマスターに会って今後の道筋を決定する。その結果にかかわらず、おぬしは明日シゲノア城に向かってくれ」
ベロフは小声で一言、二言トルソンを罵る言葉をつぶやいたが、やむなく承知した。ブライスがマルヴェスターに聞いた。
「バルトールマスターには誰が会いに行くんですか」
「わしとセルダンだけでよかろう。バルトールの民が、それ程多くの部外者を一度に歓迎してくれるとは思えんからな」
ロッティ子爵が言葉をはさんだ。
「この私の治める都市にバルトールマスターがいるというのが、正直なところなんとも不愉快なのですが、いっそ取り押さえて連れてきてしまえばいいのではないですか」
マルヴェスターがロッティをにらんだ。ロッティはあわてて言い訳した。
「いえ、バルトールの民は尊重しなけらばならないという事はわかってはいるのです。しかし良い噂を聞かないのです」
「悪い噂があるのか」
「西の将の要塞の者と取り引きをしているバルトールの地下商人がいるようなのです」
ロッティがやや険しい声で言った。セルダンやベロフはこの情報にショックを受けたが、マルヴェスターはあまり気に止めなかった。
「なるほど、ありえん事ではないな。しかしそこから情報もまた得る事ができるかもしれない。とにかく会おう。セルダン。その服は酒場の裏に潜り込むには丁度いいくらいに汚れているが、いささか生地が良すぎる。もう少し質素な服を用意してもらって着替えなさい。日が暮れたら城下町のはずれにあるトロットの酒場に行く、マスター・ロトフという男と話をしてみよう」
準備をしに行こうとしたセルダンは、思い出したようにロッティに言った。
「そうだ、ロッティ。エンストン卿にお願いして葦毛の馬を一頭ブライス王子に贈ってもらったんだ。いいでしょう」
ロッティは笑って答えた。
「もちろんです。スウェルトの鳴き声が聞こえた時にわかりましたよ」
ようやく馬にも愛着を覚えだしたブライスは興味津々だった。
「馬の名前か。やっぱり鳴き声が聞き分けられるのか」
「はい。サルパートの伝説にある、馬と話す人間でなくともスウェルトの言いたい事ぐらいはわかりました」
「なんて言ってたんだ」
ロッティは少し苦笑しながら言った。
「重たいと。言っておりました」
ブライスは傷付けられたようにスハーラを振り返った。スハーラは腕を組んで深く二回うなづいた。
ボストールの城下町の主要な施設やお店は、馬と共に目覚め、共に眠るので夜が早い。そんな中でも夜中まで開いている場所はもちろんある。なんと言っても、戦争の最中なのだし、兵士は町中のどこにでもいる、兵達が集う酒場が無くてはならない。質素な馬丁の身なりのセルダンと、一歩間違えれば浮浪者のような汚れた身なりのマルヴェスターは、そんな夜中まで明るい酒場の前に立っていた。ここはボストールの南の外れ、トロットの酒場。
「マルヴェスター様。そこまでひどい服装になさる必要があったんですか」
「いや、ちょっとやり過ぎた事にわしも気がついたわい。これでは入れてくれん。いかんなあ、バルトールの民に対してわしすらも偏見を持っているのかもしれん」
「そんな」
「心配するな。試しに財布を開けるふりをして、コインを一枚落としてみろ」
セルダンはわけがわからないまま、財布を取りだした。普段使った事が無いような粗悪な小銭が入っている。僕が王になったらこれは何とかしなければ、そう思いながら小銭を一枚落としてみた。すると足元にすかさず何かが滑り込んでコインをかっさらった。セルダンはぎょっとして飛びのいた。目の前にあった黒いゴミの山だと思ったものは人間だったのだ。どうやらここで物乞いをしていたらしい。
しかしマルヴェスターは驚くふうでもなく、左手一本で素早くその物乞いの男の腕をつかんでひねり上げた。
「な、何をするんでえ、お、落ちてた、か、金を、ひ、拾っただけじゃあねえか」
男はあえぎながら抗議した。男の目の前にマルヴェスターは懐から二枚のコインを取りだしてちらつかせた。
「これが何だかわかるか」
男は目をまるくした。
「い、一枚は、き、金貨だ、く、くれ」
「もう一枚は何だ」
「し、知らねえ、み、見た事のねえコインだ」
「よし。この珍しいほうをおまえの主人の所に届けろ。間違いなく届けてきたら、金貨をやる」
そう言ってマルヴェスターは男の腕を離した。男はしばらくマルヴェスターの手の中の二枚のコインを見つめていたが、マルヴェスターがもう片方の手で金貨だけ取り上げておもむろに懐にしまってしまうと、残りの一枚をむしり取るようにして暗闇に消えた。
「今渡したコインは、吟遊詩人のサシ・カシュウが持っていたものと同じものですね」
「わしも数枚残しておいたんだ。こんな所で役に立つとは思わなかった」
待つ間も無く二人の後ろに、黒い服を着た大柄な三人の人影が立った。一人がセルダン達の前にまわって、無言で付いてくるようにうながした。セルダンとマルヴェスターは取り囲まれるようにして、酒場の裏口に入って行った。
黒い服の男達に連れられた二人は薄暗い階段を降り、石で壁を固めた通路を通って再び階段を上がった。おそらくもう酒場とは別の建物に入ったのだろう。幾度か角を曲がる度に廊下の造りが奇麗になってゆき、やがて豪華な燭台が飾られた広い廊下にでると、目の前に細緻な模様が施された厚い木製の扉があらわれた。
マルヴェスターは扉の模様を眺めて目を細めた。セルダンはちらとマルヴェスターを見たが、心なしか瞳がうるんでいるようだった。そしてすぐに目の前の扉が開かれ、二人は明るく、広い室内に導き入れられた。
部屋の中央には大きな椅子があり、小柄な男が微笑みながら座っている。両脇には癖のありそうな様々な衣装の数人の男が並んで、セルダンとマルヴェスターを見つめていた。セルダン達を案内してきた黒い服の屈強な男達は二人の背後に立った。
中央の椅子に座った男は年齢が全くわからない。子供のようなしわの無い丸い顔。赤いチョッキと白いシャツ。椅子に深く腰掛けているので足は床に付いていない。黒い髪にあまりアクセントの無い顔立ち、口元に薄い笑みを浮かべているが、決して安心してはいけないとセルダンは思った。
「バルトールマスター・ロトフですね」
セルダンは中央の男に向かって声をかける事によって先制を期す事にした。小柄な男はセルダンとマルヴェスターをまばたきもせずにじっとみつめた後、弾かれたように甲高い声で笑って口を開いた。
「はい、まさしくそのとおり。私がバルトールの七人のマスターの一人ロトフです。私の元に、今日カインザーの王子一行がボストールに着いたという報告がきています。バルトールのコインを持つ老人という事実から推測すると、お二人はセルダン王子とマルヴェスター様とお見受けいたしますが」
セルダンは慎重にうなずいた。ロトフはひょいと椅子から立ち上がると、二人の前にツカツカと歩いてきて、右手を胸に回して優雅におじぎをした。それを見たマルヴェスターは、懐から金貨を取りだして指先で後方にはじいた。後ろに立った黒い服の男の一人がそれを受け止める。マルヴェスターは肩越しに言った。
「バルトールマスターとの話の前に、約束を守ろう。先ほど酒場の前にいた男にそれを渡してくれ」
後ろの男はちょっと躊躇して主人を見た。
「それほど巨額な金をあの男に渡しても使い方がわからないだろう。酒場の主人にあずけて、困った時に少しずつ渡すようにさせなさい」
ロトフにそう指示されると、コインを受け取った男は素早く部屋から出ていった。マスターロトフとセルダン達二人はしばらく相手を値踏みするように見つめあった。そしてやはりセルダンが先に口を開いた。
「ユルの町でサシ・カシュウという吟遊詩人に会いました。僕達と同行しているザイマンのブライス王子がエルディ神におうかがいを立て、サシ・カシュウの持つコインに注目せよと教えられました。彼はバルトールのコインを持っていました」
ロトフはちょっと驚いたようにセルダンを見た。
「お見事。率直にして明快。カインザーの王子は噂以上に聡明なようだ。それで私に会いにいらしたのですね」
マルヴェスターが切りだした。
「時間が無い。単刀直入に言おう。西の将の要塞に入りたい」
ロトフは顔をしかめて、魔術師を見た。
「簡単におっしゃる。私はソンタールに滅ぼされたバルトールの末裔ですぞ。しかもシャンダイアの国々にまで虐げられた民族の端くれです。ソンタールの将の要塞などにどのようにして入る事が出来るのか見当も付きません」
マルヴェスターはかまわず続けた。
「西の将の要塞の者と商売をしているという噂があるそうだが」
ロトフの顔にかすかに朱が差してきた事にセルダンは気付いた。思ったより感情的な人間なのかもしれない。やはりバルトールの民の特性だ。
「なる程。カインザーの王子の前で私がそれを認めるとお思いですか。それに、魔術師マルヴェスターという名前は、我々の間ではそれ程重んじられていない事をお忘れなく」
セルダンは意外な事を聞いた気がした。マルヴェスターは旧シャンダイアの国々の最も信頼された相談役ではなかったのか。マルヴェスターはちょっとためらってから言った。
「ふむ。つまらん伝説がいまだに残っているようだな」
「その通り。あなたは我が祖先の王国が滅びる時に助けてくれなかった」
「理由があったのだ。今はまだ話せない」
「二千五百年経っても話せない真実などあろうか。お帰りいただきたい」
ロトフの言葉と共に、椅子の両脇に控えていた男達が動きだした。セルダンは身構えたが、馬丁の格好をしているので、短剣しか手元に無かった。マルヴェスターは動じる事なくロトフを見つめて言った。
「バザの短剣はどこにある」
この意表を付く問いかけに、ロトフはちょっととまどったように口ごもった。
「もちろんマスター議会の管理の元にある」
マルヴェスターは、近くに寄っていた男の懐にひょいと手を突っ込んで、煙草を取りだすと、ちょっと見つめただけで火を付けた。まわりの男達が驚いて動きを止めた。
「ここにいるセルダン王子がつい最近、バザの短剣を見たと言ったらどうする」
ロトフは馬鹿にしたように笑った。
「そんなはずは無い。あの短剣は七人のマスター以外持ち出せない。今、カインザーにあるはずが無い」
マルヴェスターは煙草をちょっと吸ったあと、手のひらの上で燃え尽きさせた。
「それがあるんだ。バザの短剣は今、西の将の獣、巨竜ドラティの腰に突き刺さっている。わしらがこんな事でお主に嘘をつく理由が無い事はわかってくれような」
ロトフは青ざめてセルダンを見た。セルダンは話を引き継いだ。
「本当です。そしてそのドラティはライア山の山頂の神殿で、クライドン神の上に乗っかっているんです」
部屋の中が凍り付いたようになった。セルダンはマスター・ロトフの動揺を感じる事ができた。
「まず僕達の話を聞いてください」
そう言うとセルダンは、ここまでの経緯を説明し始めた。説明がライア山でのクライドン神と竜の会話に及んだ時、ロトフは、そんなはずは無い、と繰り返しつぶやいて椅子に座り込んだ。セルダンはかまわず説明を続けた。やがて話が終わった時には、カインザーのバルトールマスターは椅子に沈み込んで、沈痛な面持ちで頭を抱えていた。
「わからん。もしそれが本当なら、いったいどのマスターが短剣を持ち出したんだ。ドラティを襲った子供は何者なんだ。もし本当にドラティを突き刺す程にまで短剣を扱えるのなら、必ずバルトールの王家の血を引いているはずだ。しかしわしらの王家の血筋はもう絶えたんだ」
そう言って、ロトフはハッと気がついたようにマルヴェスターを見た。
「あなたは知っているのか、バルトールの王家に生き残りがいる事を」
マルヴェスターは首を振った。
「いや、知らん。もし知っているとすればバリオラ神以外に考えられない」
「しかし我らが神もまた、この二千五百年の間そのお姿をあらわしてくださらない」
マルヴェスターはやさしい声で、ロトフに言った。
「謎は少しずつ解いていくしかあるまい。その少年は西の将の要塞の牢でまだ生きているかもしれん。それにバザの短剣を取り戻すにはドラティを倒さねばならん。ドラティを倒すためにはカンゼルの聖剣が必要なのだ。どうしてもわしらは西の将の要塞に潜入して、マコーキンに奪われたカンゼルの剣を取り返さなければならないのだよ」
ロトフはしばらく頭を抱えて考え込んでいたが、やがて振り払うかのように頭を振って決然と言った。
「明日の夜、我らが商隊がこっそりボストールの町を抜け出して、西の将の要塞の者と取り引きするために出発します。そこにまぎれていただくのがよいでしょう。明日の夕方、酒場の裏口においでください。馬はいりません」
まわりで男達がどよめいた。この二千五百年ではじめてバルトールマスターがマルヴェスターとカインザー人に協力を申し出たのだ。マルヴェスターはうなずいた。セルダンは、いよいよ敵のただ中に入っていく事が決まって緊張に身震いした。ロトフは部屋にいた男達に命じて二人を外に案内するように指図したが、その前にセルダンは聞いておきたい事があるのを思い出した。
「サシ・カシュウというサルパートの吟遊詩人を知っていますよね。差し支えなければ、彼がどうしてカインザーにいるのか教えていただけますか」
ロトフはしばらく頭の中でその名前をころがしていたが、たいして興味もなさそうに答えた。
「サシ・カシュウか、自らの意志で光を拒んでいる男ですな。それは申し上げてもよいでしょう。キンサトの町への使いです」
マルヴェスターが髭をしごいた。
「キンサトか、港があったな。もう一つわしから聞こう、ふくろうの紋章が刻まれた小瓶をどこかの商人が手に入れたという噂は無いか」
「いいえ、聞いていません」
「ふむ。聞いたら教えてくれ。それはルドニアの霊薬。サルパートの物だ」
ロトフがようやく落ち着きを取り戻して、にやりと笑った。
「サルパートにもって行けば、高く売れるというわけですね。探しておきましょう」
セルダンはこの言葉に一瞬言い返そうとしたが、マルヴェスターがセルダンの肩に手をかけてそれを押しとどめた。そして、先に案内に立った男達について部屋から出ていった。セルダンもやむなくそれに続いた。初めて言葉を交わしたバルトールの民については、まだどういうふうに理解してよいのかわからない。ただ、カインザーやザイマンやセントーンのように、表ではなばなしく戦をしている国の国民と、全く違う民族がいるという事だけは理解できた。
二人は夜中近くになってボストール城に戻った。城の上階にある会議室では、ブライス以下、スハーラ、ロッティ子爵、ベロフ男爵といった面々が寝ずに二人の帰りを待っていた。セルダンは友人たちにせかされるようにして、バルトールマスター・ロトフとの会談の様子を詳しく報告した。聞き終わるとブライスは、これでようやく酒が飲めるといった感じで、封がされていた瓶の蓋を開けて、ゴブレットに人数ぶんの酒を注いだ。
「いよいよか。行くのはセルダンと俺と長老の三人。ゾノボートの配下の神官に会うことになりそうだな。マルヴェスター、お望み通り陸路が取れてよかったじゃないですか」
「スハーラさんはどうなさいますか。さすがにここから先は危険でしょう」
セルダンはスハーラにたずねた。スハーラはブライスの付きだした酒に鼻をしかめて、お茶を入れにテーブルに近寄ったところだった。
「私は予定通りカイラからサルパートに戻ります。しばらく離れておりましたので、サルパートの様子も見ておかなければなりませんから」
ブライスがちょっと寂しそうな顔になったが、隣で、険しい顔をしてぶつぶつつぶやいているベロフに気付いた。
「どうしたんだベロフ」
「キンサトは我が領地です。バルトールマスターの使いのものがいったい何の用だったのでしょう」
「もちろん交易だろう、ユルの酒場でサシ・カシュウがキンサトの町の名前を出した時に俺は気が付いたぞ」
ベロフは驚いたようにブライスの言葉を否定した。
「わたしの領地に交易品などありませんよ」
「そいつがあるんだよ。カインザー全土にゆきわたる密輸品が、あそこから荷揚げされてるんじゃないかな」
ブライスは事も無げに言った。セルダン、ベロフ、ロッティの三人はショックに青ざめた。セルダンは憤然としてブライスに詰め寄った。
「カインザーで密輸が横行してるなんて聞いた事が無いよ」
ブライスはこの反応にやや意外といった感じの顔を見せたが、セルダンの両肩に手を置いて教えるように答えた。
「こう言うと失礼かもしれんがなあ、カインザー航路は、この世界全体の航路からいえば中心から外れているんだよ。表航路はザイマン・セントーン間、あるいはソンタール側から言えばユマールと南の将を繋ぐ航路だ。セルダン、すまんがこの近辺にまではザイマン艦隊の監視の手が回らないんだ。おまえらの注意は西の将に釘付けなんで、この国の海岸では密輸など、やり放題なんだよ」
ロッティが憤然としてマルヴェスターに向き直った。
「やはり、バルトールマスターを捕らえさせてください」
マルヴェスターはゴブレットの上で酒瓶を逆さにして振りながら言った。
「そうして、要塞に潜入する最良のチャンスをつぶすのか」
ロッティは悔しさに拳を握りしめた。
「この件は私は聞かなたかった事にさせてください」
ベロフも渋い顔でそう言い放つと退室した。ブライスがあきれ顔で両手を広げた。
「あのなあ、カインザーの九諸侯は、一度船でこの大陸の周りをぐるっとまわってみたほうがいいぞ。そうすりゃ、世界の広さとか、人の営みの多様さがわかってくる。目の前の敵と自分の城下町しか知らないんじゃ、柔軟性に欠けて、そのうち政治にまで支障が出てくるぜ」
スハーラが右手にお茶のカップを持ち、左手を体にまわして、しみじみとブライスの言葉の後を引き継いだ。
「そのお言葉は本当ですわ。私も今回はじめて船で旅をして、サルパートにいた頃には考えた事も無かったたくさんの事を知りました」
ブライスが意味ありげに誘いをかけた。
「そこにもう一つ二つ、付け加える気はないかい」
スハーラは一瞬ドギマギしたようだが、ちょっと怒ったような顔をして部屋を出て行った。ブライスは肩をすくめて酒を飲み干すと、大きくあくびをしてやけに大声でおやすみの挨拶を言うと、これも部屋から出ていった。明日にはベロフはシゲノア城へ、スハーラはカイラへと道が別れる。なんとなく寂しい夜だった。
翌朝、早々にベロフはシゲノア城のトルソン公爵を説得するために出発した。ベロフは出発前に一つだけセルダンに願い出た。
「何としてもトルソンを止めてまいります。しかし、やむをえぬ場合は、この私が先陣を切る事をお許しください」
「最前線だ、判断はお前にまかせる。でも、命を粗末にするような事だけはしないでくれ。僕らの敵は西の将だけでは無い。パイラルの陸橋を渡った後、グラン・エルバ・ソンタールまでの道を切り開くのは、やはりカインザーの戦士なのだから」
セルダンはそう言ってベロフを送りだした。うなづいたベロフの瞳が一瞬うるんだようにセルダンには見えた。スハーラもロッティ子爵の部下に付き添われて、カイラへの道へ出立した。ブライスとスハーラがけっこう素っ気無い挨拶をしただけなのに、セルダンは意外な気がした。そういえば二年前、セントーンの王宮からカインザーへ戻った時には、エルネイア姫が数日前に旅行に出てしまっていて、挨拶もできなかった。人の別れってこういうものなのだろうか。
二人を見送ったセルダンがふと空を見上げると、伝令の白い鳥が飛んできて城の中庭に舞い降りるのが見えた。鳥は大型のもので、飛ぶ速度は速いがおとなしい種類だ。この戦争の初期の頃、マルヴェスターをはじめとする翼の神の弟子達が飼いならして、シャンダイアの国々に伝えた。
「伝令鳥ですね」
セルダンの言葉のすぐ後に、城から兵士があわてて駆け出してきてロッティ子爵に小さな紙を手渡した。ロッティはその紙に軽く目を通して、セルダンに伝えた。
「セルダン王子。悪い知らせが入りました。クライの町がゾックの襲撃を受けて、大損害を受けました。神官長マイラス様は戦死、町の半分が火災で失われたそうです」
セルダンは意外な事態に驚いた。
「ゾックに神官戦士団が負けたのか、信じられない。それで敵はどうした、どの程度の損害を与えた」
「ほとんど無傷のままアルラス山脈に逃げ込んだそうです。そのまま南下してマイスター城方面の町を襲う可能性もあるとの事で、クライバー男爵が追っているようです」
セルダンは蒼白になってアルラス山脈の方向に目をやった。ブライスが腕を組んでうなった。
「どんどん事態が悪くなっていくぞ。ゾックは思ったより強いって事か」
ロッティが手紙の残りの部分を読み上げた。
「敵にはかなりの統率力のある魔法使いが一人いるそうです。その男がマイラス様を殺しました」
マルヴェスターも考え込んだ。
「その魔法使いの事は全く知らないな。黒い秘宝の魔法使いでは無いはずだ。いったい何者なのだ。いずれにしても急がなければならん。西の将がケマール川を渡る事にでもなると、カインザーの崩壊は食い止められなくなるかもしれん」
セルダンはキッとしてマルヴェスターに向き直った。
「父は負けません。マコーキンがケマール川を渡っても、父とベーレンス伯爵がそれより先は一歩も通さないでしょう」
いつのまにか風が強くなっていた。埃や草の切れ端を舞い上げる空気の流れの中で、セルダンとマルヴェスター、ブライス、ロッティの四人はしばらく無言で立っていた。そしてやがて日は高く登った。
ちょうどその頃、大陸の反対側ではマコーキン軍の第一陣がケマール川に到着し、参謀バーンの指揮の元、渡河作戦が開始されようとしていたのだった。