第七章 洞窟


 殺風景な城塞都市が多いカインザー大陸の中で、ひときわ異彩を放つ華やかな大都市セスタ。そこを治める若きクライバー男爵の長男が、親友であるバルトール王のために園遊会を開く。この噂がカインザー全土にもたらした衝撃は大きかった。セスタの町には以前にも増してバルトール人が溢れ、フスツに留守をまかされているクチュクが作るバルトール人の有力者リストは膨大な数にのぼった。しかしそれよりもクライバー男爵夫人のポーラを驚かせたのは、夫を戦場に送りだしたカインザー貴族の夫人たちが大陸各地の領地からはるばる遊びにやってきた事だった。
 園遊会を明日に控えた天気の良い日の午後、クライバー邸の庭で娘のようにはしゃぐ貴族の夫人達を窓から眺めて、ポーラは後ろに控えているクチュクにたずねた。
「クチュク、あのご婦人方が喜びそうなものを大急ぎで仕入れられるかしら」
 待ってましたとばかりにクチュクは、ぽっちゃりとした艶の良い頬を光らせながら両手をすりあわせてポーラに歩み寄った。そして懐から明るい輝きの宝石を加工した首飾りを取りだして、両手で広げて見せた。
「はい奥様。宝石、首飾り、かんざし、ドレス、その他様々な品物をもう御用意いたしております」
 ポーラはニコリとして振り返ると、クチュクから首飾りを受け取った。長い美しい髪が外の光を浴びて明るい栗色に染まる。クチュクはその美しさに心の中で賛嘆のため息をついた。クライバー夫妻の美男美女ぶりはつとに名高い。
「これをいったいいくらぐらいで売るつもり」
「たとえば、その首飾りで五百ソシムといったところでしょうか」
 ポーラは手の中の首飾りを丹念に調べてみた。
「三百」
 バルトールのやり手の地下商人は顔に両手をあてて大げさにあえいだ。
「奥様、これは、セントーン産の宝石をちりばめたとても珍しいものですよ」
「うまい事を言ってもだめよ。私には夫の友人の奥様達の財産を守る義務があるの」
「しかしせめて四百はいただかないと商売になりません」
 ポーラはしばらく眉をよせて考え込んでいたが、首飾りをクチュクの手にゆっくりと返した。 
「わかったわ。あなたにも守るものがあるものね、じゃ三百五十」
 クチュクはしぶしぶとうなずいた。
「それで何とか私の商人としての名声も傷付かずに済むでしょう」
 そう言うと声の調子とは裏腹に、いそいそと部屋の扉に歩み寄ってノブに手をかけた。その後ろ姿にポーラは呼びかけた。
「この屋敷で商売する時はそこから百を私にちょうだいね」
 クチュクはあんぐりと口を開いて振り返った。ポーラはヒラヒラとしたとっておきの笑顔を振り向けた。
「私には、戦場で戦う夫と幼い息子がいるのよ。今の彼らにはお金を稼ぐ手段が無いの。わかってちょうだい」
 クチュクはガックリとうなだれてブツブツと何かつびやきながら扉を開けて出ていった。そのクチュクとすれ違いに滞在中の外務大臣アシュアン伯爵夫人レイナが入ってきて、ポーラに疑惑の目をむけた。
「あの可哀相なバルトール人に何を言ったの」
「あらレイナ、商売を教えてもらっていたのよ。私はカインザー人なのでこういた事には全くうとくて」
 レイナは窓の外の貴婦人達をながめて意味あり気にうなずいた。
「そうね。簡単なお金儲けの機会を見逃してはいけないわ。でもあの娘達はバルトール商人の手から守ってあげてね」
 ポーラは心配そうな表情を浮かべて両手を胸の前で握りしめた。
「もちろんよ。私はそれをクチュクに頼んでいた所なの」

 翌日の大園遊会は盛大かつ華やかに行われた。セスタという都市は元々戦場への陸路からの補給基地だったが、いまでは最前線はソンタール大陸に移って航路によって補給が行えるため、セスタにはいささか物資が余りぎみになっていた。ポーラは園遊会にたっぷりとお金を使い、物を使い、さらにクチュクと相談しながら巧みにその余った資材をバルトールの商人達に売りさばいていった。
 一方、主人役のアントン少年は、とっておきの衣装に身を包み如才なく訪れた貴族達をとりなしてまわった。少女のように美しい少年の正装姿は、貴族達の目を楽しませ、さすがに聡明で名高い男爵の跡取りだと皆はこの主人ぶりに喜んだ。アントンは特にバルトールの有力者達に気をつかって、積極的に会話をしてその心を掴む事に専念した。
 この園遊会の実質的な指揮官であるアーヤは、バルトール人が好む色にあわせた薔薇色のドレスをまるで大きな袋のように身にまとい、主賓席の隣に立って会場を監視していた。クチュクはアーヤのために特別あつらえのドレスを用意したはずなのだが、いつになってもこの女の子は着こなしが悪く、久々にアーヤの世話役に返り咲いたレイナ夫人の懸命の努力もいまのところ実を結んでいなように見えた。
 その小さな監視者の鋭い目は、会場の客達の仕草の一つ一つを丹念にチェックして、ほんのわずかの不信な動きも見逃さなかった。やがて、クチュクに付き添われて、ベリック王の身代わりの少年が会場にあらわれた。王は薔薇の刺繍の上着を身にまとい、流行の提灯型のパンツに黒いタイツ。豪華なマントと宝石をちりばめた王冠でその地位を皆に示していた。衣装の豪華さに目を奪われた客達は、その平凡な顔立ちをあまり記憶にとどめる事ができなかった。
 客達は盛大な拍手で王を迎えた。アーヤはすぐに少年の手をとってクチュクの反対側から少年を守る位置についた。アーヤとクチュクは目で合図しあって、ゆっくりと王を主賓席に導いた。ここまでの手はずは完璧だった。会場の拍手は鳴り続き、宴はとどこおりなく進んでいった。
 無事にベリック王のお披露目が済み、一休みしながら手際よくテーブルからお菓子を掴んでほおばっていたアーヤは、突然髪の毛が逆立つような鋭い視線を感じて客の中を見回した。この特殊な感覚には以前から気がついていたのだが、アーヤはいままで保護者であるマルヴェスターにもこの事についてを話をしていない。注意深くまわりを観察したアーヤは、色とりどりの衣装の客の中に一人の女性を見付けた。その人は地味なドレスをまとった中年の女性らしかった。頭から薄い布をかぶっているので顔立ちはよく見えないのだが、その全身から発せられる意志の強さが異様だった。アーヤはクチュクを探し出して、袖を引いた。
「どうしました、レディ」
「あそこを見て、あの女の人」
 クチュクは、アーヤの指さすほうを見て舌打ちした。
「誰なの」
「あれがマスター、メソルです。あの身ごなし、間違いありません。王とフスツ様が留守の間に面倒な人物がやって参りました」
 アーヤはクチュクを不思議そうにじっと見つめた。
「どういたしました」
「いえ、やはりあなたもタダ者ではないわね。あの人の特殊な雰囲気で正体を見破るなんて」
 クチュクは少し嬉しそうな顔をした。
「お誉めいただいて光栄です。さて、気を引き締めましょう。相手はまだベリック王への忠誠をはっきりと示していないバルトールのマスターです」

 いつ混乱がはじまったのか、アントンにはしばらくわからなかった。建物を背にしたベリック王の身代わりの少年がいる近くで
「偽物だ」
 という女の声があがった。そのまわりのバルトール人が騒ぎだし、アントンが見るとクチュクがあわてて身代わりの少年を屋敷に入れようとしていた。それがまわりのバルトール人の動揺をかった。混乱に陥った会場の中を縫うようにして、アントンはクチュクに駆け寄った。
「クチュク、何がおきた」
 クチュクはベリックの身代わりの少年を部下に託すと、アントンの肩を抱くようにしてささやいた。
「マスター、メソルがいます。王の身代わりを見破りました」
 アントンは振り返って人込みの中を見回した。クチュクが言った。
「逃げました。一瞬の事でした。フスツ様が精鋭を連れていったしまったので、今の手勢ではメソルを追いつめるのは難しいかもしれません。何と言っても相手はマスターですので」
 事実、マスター、メソルの行動は素早かった。人込みの中を苦もなくすり抜け、追いすがるクチュクの部下達を手刀で軽々とたたき伏せると、身にまとったかぶり物を次々に脱ぎ捨てては人込みに紛れた。しかしただ一人アーヤだけは身に備わった超人的な勘で、その不思議な女性を追い続けた。もちろん足は遅いが、メソルがどこにまぎれてもなぜかアーヤにはその存在に気がつく事ができた。そしてついに屋敷の裏手の木戸の所で、少女はメソルに追いついた。
「まちなさい」
 アーヤのするどい一言に、メソルは足を取られたようにたたらを踏んで立ち止まった。そして驚いたように振り向いた。黒い髪の毛が大きく揺れて女性のかぶっていた布がほどけた時、アーヤはその額に宝石の輝きを見た。若くは無いが黒い目の印象的なバルトール人特有の美しい顔立ちの女性は、その大きな目を丸くしてアーヤを見つめていたが、やがて瞳をうるませた。
「おお、それではあなたですね。マルヴェスターの隠した子供というのは」
 アーヤは驚いた。
「私の事を知っているの」
 メソルは余計な事を言ったのに気がついたのか、素早く頭を振って右手でアーヤを制した。
「今はいいの。まだ知らなくていいの。ここにいらっしゃい、ここならば安全だわ」
 メソルはそう言うと身をひるがえして塀に手をかけ、駆け登るようにしてそれを越えた。
 その頃、混乱していた会場では、アントンがいままでベリック王の身代わりの少年が座っていた椅子の横に立って会場を見回していた。やがてアントンは思い切って大声で叫んだ。
「みんな静まれ」
 少年のかん高い声を聞いて、会場の騒ぎがドヨドヨとしたざわめきになった。
「父がいない間は私がこの家の主である。騒ぐ者はここから去れ、これはベリック王の帰還を祝う催しである。その正当性を疑う者はクライバーの名にかけて私が成敗する」
 会場が静まり返った。頃合いを見計らってクチュクが王の身代わりの少年を連れて現れた。それを見たポーラとレイナが狂ったように拍手をし、拍手はやがて会場全体にひろまった。
 遠くでざわめきが穏やかな歓声に変わるのを聞きながら、アーヤ・シャン・フーイは、マスター、メソルが消えた塀の彼方の空を見上げて立ち尽くしていた。

 ブライス達が洞窟に入って五日がたった。その間、小さな動物に若い巫女がおびえたり、闇の中の溝に足をとられてくじく者もいたが、総じて無事に通過してきたと言っても良い。この巫女達は治療の専門家なので、軽い怪我はほとんど行軍の障害にならなかった。むしろ心がくじけるほうが大きな問題だと思われた。雪深い外界と隔絶された洞窟の中、一人ひとりが自分の心の中の恐怖と向き合いながら、黙々と歩をすすめた。
 洞窟に入ってからの事実上のリーダーは、吟遊詩人のサシ・カシュウだった。真っ暗闇の中で、この年齢不詳の人物は気持ち悪いくらいに冷静に時間を告げ、休憩や睡眠の指示をだした。一行が体調に変化を感じることなく歩行を続けられている事実から見て、おそらくそれはかなり正確なのだろう。
 その日もサシの指示で、一行は洞窟のやや広い空洞に座って昼食をとっていた。二百人の巫女達はわずかな携帯食を、楽しみながら食べるコツを身に付けていた。松明の数は最小限に抑えているのでほとんど暗闇の中の食事だったが、それが単調な闇への恐怖に一息つけるほとんど唯一の時間だった。食事の後、列の最後尾を守っている魔術師マルヴェスターが闇の中で鼻歌を歌いながらピチャピチャと指をしゃぶっていると、ベリックがエレーデを連れてやってきた。
「エレーデがおかしな気配を感じているそうです」
 マルヴェスターは小さな灯を手に、心細そうな顔をしているエレーデに優しい視線を向けた。エレーデがおずおずと問いかけた。
「お話してよろしいですか」
「おお、もちろんだ」
「馬が恐がってるんです。この先の闇の中に何かがいます」
 マルヴェスターはまだ指をなめながら言った。
「馬は暗闇を恐がっているのでは無いのかね」
 ベリックが質問を受け取った。
「エレーデの話によると、馬は人間よりはるかに臆病な生き物なんだそうです。だから危険を感じる能力は過剰と言ってもよい程に発達しているらしいです。何か僕たちが気がつかない危険を感じているのではないでしょうか」
「よしわかった。わしが先頭に立つ事にしよう。エレーデ、教えてくれてありがとう」
 マルヴェスターはエレーデに礼を言って立ち上がると。列の先頭に行ってサシ・カシュウ、ブライス、スハーラと共に並んだ。それまで先頭にいたモント達が列の中段に、ベリックとエレーデはフスツ達を連れて最後尾にまわった。そしてその日は何事も無く過ぎた。翌日、目を覚まして歩き出した一行は、切り立った十メートル程の高さの崖の縁に出た、洞窟はそこでひときわ大きな空洞になっている。ブライスが松明で崖の下を照らした。松明の炎が下のほうで何かに映って揺れた。
「池がありますね。左手の崖が崩れた所を伝って池の横に降りれば、向こう側にあるに穴に入れます。馬も何とか降りられそうです」
 そう言って暗い水面の向こうに大きく開いた穴を指さした。横にいたサシ・カシュウが崖の上を指さした。
「上にも穴がある。難しいが、これも岩伝いに棚の上に登れれば行く事が出来る」
 スハーラが考え込んだ。
「上は危険だわ。二百人の巫女達が無事にあそこまで行けるとは思えません」
 心配性のブライスも同意した。
「俺もあの高さの岩棚を伝うのは無理だ。馬も行けない。下しかないでしょう」
 その時、下の池の水面にかすかな波が生じた。目ざとくそれを見つけたマルヴェスターが決断した。
「よし下だ。しかし急げ、何かがいるぞ。エレーデが言っていた馬達の勘は間違っていなかったようだ。まずわしが先に降りて池を見張る」
 そう言うとマルヴェスターは軽々と崖を飛び降りた。ブライスが驚いてつぶやいた。
「まさに魔術師。さあ、急げ」
 一行は大急ぎで崖のはじの土が崩れている坂を伝って下に降りた。二百人の巫女達はボロボロにほつれた衣を引きずりながらも、転ぶ者も無く機敏に坂を降った。山の上の学校の訓練は、娘達を決して甘やかしてはいないようだ。引き連れてきた七頭の馬もエレーデの懸命の説得にしぶしぶながら崖を降りて池のそばに降りた。しかし最後の1頭が坂の途中で足を踏み外して、池の間近に落ちた。先に下に降りていたエレーデが気がついてあわてて駆け寄ろうとしたのを見て、マルヴェスターが叫んだ。
「だめだ、池から離れろエレーデ」
 エレーデはかまわずに馬に駆け寄った。
「だってあたしは、このために連れてきてもらったんだから」
 やはり坂の途中にいたベリックがこれを見て急いでエレーデの横に飛び降りた。馬は足を池にはめてもがいている。
「無理だよエレーデ、引き上げられない」
「だって」
 その時、池の中央に大きな噴水があがり、不気味な青い光をチラつかせた巨大な植物のツルのようなものが数本つき出した。ツルは何本も池からつきだしては、徐々に池いっぱいに広がっていった。巫女たちを向かいの洞窟へ誘導し終えたブライスが戻ってきて、そのツルを見上げた。
「何だこいつは」
 そうしている間にもツルはいつのまにか円形に広がり、やがて中央に淡いピンクの大きな花のようなものが浮かんできた。洞窟は怪しい光で照らし出された。ブライスの横に並んだスハーラが思わずため息をついた。
「綺麗」
 しかし怒ったような顔をしてツルを凝視していたマルヴェスターは、苦々しげにうめいた。
「ソチャプ」
 ブライスがマルヴェスターに駆け寄った。
「何ですかこいつは」
「ククルカートの悪魔だ。アイシム、バステラの二神がつくった最初期の植物だったが、危険過ぎたので駆逐された。滅び去ったはずだったのだが、生き残っておったのか」
 それを聞いたサシもうなった。
「そうか、これがソチャプなのか。ブライス王子、ククルカートはこれに最初に滅ぼされた町の名前だ。その後いくつもの町がソチャプに滅ぼされたらしい。美しいがこいつは肉食だ。さあ逃げよう」
「そうだ、早く逃げろ。ここはわしが何とかくい止める」 
 そう言ってマルヴェスターがソチャプに向かって足を踏み出した。そしてエレーデとともに池の向こう側の岩棚の上で、ぼう然とソチャプを見つめているベリックに叫んだ。
「急げベリック」
 ベリックはエレーデの腕をつかんで狭い池の横の道を駆け出そうとした。しかしソチャプのツルがうなりをあげて二人の前の水面を打った、ベリックはあわてて崖にしがみつき、足場を伝ってエレーデを上に引き上げていった。その二人をツルがからめとって、池の上に高々と持ち上げた。
「王」
 フスツとモントが叫んで走り出そうとするのを、マルヴェスターが制した。ベリックは空中でもがきながらも、バザの短剣を抜き放って体に巻き付いているツルに突き刺した。青い光を放っていたツルが一瞬赤くなって、マヒするように震えると、ベリックとエレーデを洞窟の上にある岩棚の上に振り飛ばした。そこまでがアッという間の出来事だった。ベリックは身軽に岩棚に降り立ったが、エレーデが岩の上に落ちてはずんだまま動かなくなった。ベリックはあわてて駆け寄ってエレーデを抱き上げた。少女を抱き上げたベリックは、そのあまりの軽さに少し驚いた。
「マルヴェスター様」
「ベリック、上の穴を使ってここから離れろ。どこかで落ちあえるだろう」
 それを見たフスツとモントは急いで崖を登ろうとした。ベリックが叫んだ。
「フスツ、モント、ここに来るな。皆と一緒に下の穴から逃げるんだ」
「しかし」
「今はここから離れる事を考えたほうがいい。僕ならば大丈夫だ」
 マルヴェスターもフスツに言った。
「ベリックの言うことに従うんだ、死んでは王を守れないぞ。あの子ならば大丈夫だ」
 そしてブライスに指示した。
「ブライス、後をまかせる。スハーラ達と一緒に逃れるんだ。サシ、案内を頼むぞ」
 ブライスが叫んだ。
「いや、あなたも急いで一緒に逃げましょう」
 マルヴェスターがブライスを振り返ってニヤリと笑った。
「ソチャプは歩くんだよ」
 ブライスはゾッとしたようにあとずさった。その時、ソチャプのツルが目にもとまらに勢いでブライスに向かって延びた。マルヴェスターは素早くそのツルにしがみつくようにして止めると、ウンとうなって引きちぎった。
「さあ、急げ」
「俺達も一緒に戦います」
 そう言うとブライス、フスツ、モントとその手下達が身構えた。
「いかん。屋外ならば矢でも松明でも使って少しは応戦できたろうが、洞窟の池の中ではこの怪物はほとんど無敵に近い。わしとてどうなるかわからん」
「そんな」
「ブライス、もし北の将を倒してもわしがおまえたちの元に戻らない時は、ザイマンのアードベルの町に行け」
 ブライスは始め、何を言われたのかよくわからなかった。
「アードベル。あの田舎の港町に何があるんです」
 マルヴェスターが背を向けたまま大声で笑った。
「わしの弟弟子がいる。翼の神の弟子の落第生さ。あんな奴でも何かの役には立とう」
 そして岩棚の上から驚いたような顔をして見下ろしているベリックにどなった。
「まだおったのか、早く逃げろ」
 ベリックは岩棚の上の穴にエレーデを引きずるようにしてとびこんだ。その時、巨大な植物の怪物のツルが花を中心に円形にバッと開き、次の瞬間に猛烈な勢いでマルヴェスターに襲いかかった。
 マルヴェスターは、一声うなるとからみ寄せてくるツルを次々に脇に抱え込んだ。ソチャプの巨大な体がズリズリと池からはい出してきた。そしてツルはマルヴェスターを高々と持ち上げると、植物の中央の巨大な花弁に運んでいった。老魔術師はあわてずにされるがままに花の中央に持って行かれると、自ら花の中央に踏み込んだ。巨大な花びらがマルヴェスターをすっぽりと包み込むと、花のピンクの光がしばらくして黄色く脈動し出した。
 呆気に取られて見守っているブライスとスハーラをサシが叱咤した。
「急げ、言い伝えによれば、あれは消化している時の色だ。すぐに俺達に向かって襲いかかってくるぞ」
 ブライスはあわててスハーラの手を取ると、すでに巫女達が避難している洞窟に駆け込んだ。フスツとモントは、一瞬ベリック王が逃げ込んだ穴を見上げたが、すぐにブライス達の後を追った。
 サシは素早く巫女達の列の先頭に駆け戻ると、一行を率いてさらに洞窟の奥に進んでいった。スハーラは後ろから列をまわり、巫女達に落ち着くように声をかけた。最後尾からフスツとモント達バルトール人が残った六頭の馬を引きながら続いた。エレーデはいなかったが、馬達は恐怖から逃れる本能が後押しをしたのか、荒い息を吐きながらも抵抗せずにモントの部下達に引きずられていった。
 やがて先ほどの池からかなり離れたと思われる天井の高い空洞に出たところで、サシは皆に休息を命じた。巫女達は円陣組んでおたがいを守るようにして座った。しかしさすがに誰もが恐怖に声も出なかった。疲れた巫女達のあえぎ声が、洞窟内を重苦しく満たした。
 ブライスはサシに話しかけた。
「マルヴェスターを助けに戻るか」
「ばかな。あの魔術師に勝てない怪物だったら、俺達にはどうしようもない」
 しばらくして、ブライス達が話し合っている前の空間に白い光が現れた。巫女達は新しい驚異におびえて身を寄せ、サシがまぶしそうに目をしかめた。
「また何か来たのか」
 しかしスハーラは、その光からは邪悪な意志よりも、むしろ優しさが感じられるようだと思った。やがてその光の中から腰布をまとった白く光る少年が歩み出てきた。スハーラはハッと驚いて、その少年に駆け寄ってひざまずいた。
「エイトリ神ですね」
 不思議な少年はひざまずいたスハーラの頬を両手で包み込むと、その額にやさしくくちづけした。
「遅くなってすまない巻物の守護者よ。だが私の力ではソチャプとは戦えないのだ。さあ娘達、ここから先は私が導こう」
 スハーラはエイトリの言葉に自分が守護者として認められた事を知り、頬を涙で濡らした。知恵と医療の神エイトリは、巫女達が組んだ円陣のまわりをゆっくりと歩いてまわった。巫女達は突然の守護神の来訪に驚いたが、エイトリ神が通り過ぎた所に座っていた巫女達の疲れた体には体力がよみがえり、中には笑みをもらす少女さえいた。最後にエイトリはおびえた六頭の馬をモント達の手から受け取って、馬をなだめながら空洞の一方にある別の穴の入り口に立った。ブライス達が列を整えて進み出すと、そのまわりの壁が淡い光で照らされれ、洞窟に入って初めて一同の心に安らぎがおとずれた。
 列の中央でしばらくぼう然としていたフスツが、ハッとしたようにエイトリ神に駆け寄って訴えた。
「エイトリ様、ベリック王が途中ではぐれました。お救いいただけないでしょうか」
 エイトリは残念そうに首を振った。
「ベリックはバリオラの子だ。バルトールの一般の民ならともかく、短剣の守護者に私がむやみに干渉する事は出来ないのだよ」
 フスツとモントはがっくりと肩を落とした。次にエイトリはブライスに向けて片目をつぶった。
「おまえの女神にさんざん文句を言われたよ。しばらく会っていなかったが、ちっとも変わっていないなあ」
「それはどうも。私たちも叱られてばかりです」
 やがて一行はもう一つの池にたどりついた。ブライスが不思議そうに池を照らした。
「暖かいですね。エイトリ神、この池は大丈夫ですか」
 エイトリはうなずいた。
「温泉が涌いているのだ。ソチャプは湯の中には生息しない。スハーラ、明日には洞窟を出られる。ここからが本当の戦いだ。巫女達をここで湯につからせて体を休めてゆきなさい」
 スハーラをはじめ、巫女達の顔が輝いた。スハーラはキョトンとしているブライスに呼びかけた。
「殿方はあちらの岩陰に行っていていただけますか」
「あ、ああ。おい、まさかここで風呂に入るのか」
 スハーラはブライスを睨んだ。
「あなた達も私達の後に入るのよ」
「風邪をひくぞ」
「馬鹿をおっしゃい。医療の神のおすすめなのよ」
 エイトリが笑った。
「大丈夫だブライス。筋肉をほぐしておけ。これからそなた達が相手にするギルゾンは並大抵の怪人ではない、しかもその後ろにはバイオンも北の将ライバーも控えておるのだ」
「あなたがそうおっしゃるのでしたら」
 ブライスとフスツ達はスゴスゴと池から離れて、奥にある岩陰に退散した。スハーラはその後ろ姿を見送って、次にエイトリ神に目を向けた。今度はエイトリがキョトンとした。
「あの、一応、エイトリ様も男神様ですので」
「ああ、すまん。私は気にしないが、おまえ達は気にするだろうな」
 エイトリはそう言うと、洞窟の灯をやや弱くして、ブライス達の待つ岩陰へと歩いていった。エイトリ神の後ろ姿を見送る余裕も無く、娘達はいそいそと汚れた服を脱いで湯に体を滑り込ませ、心ゆくまで手足を延ばした。
 岩陰で、若い娘達のはしゃぐ声をぼんやりと聞いていたブライスは、光る少年の姿をした神がスタスタと歩いてきて隣に座ったのに驚いた。
「どうしたブライス」
「いえ、いささか勝手が違うと思いまして」
「知恵の神である私が子供の姿であるのが意外かね」
「ええ、それもあるんですが」
 エイトリは膝をかかえて面白そうに言った。
「少し前に似たような事を言う男の命を救ったよ」
「誰ですか」
「髪の毛の茶色い、若い魔法使いだ。ゾックを率いていた」
 ブライスは驚いて神に向き直った。
「その男はカインザーのクライの町を襲撃した魔法使いです。どうして助けられたのですか」
「助けなければならない気がしたのだ。それにその男はサルパートの峰の生き物を救おうとしてたから」
「どんな男なんですか」
「若い。しかし気をつけたほうがいい。わしですら知らない魔法を使う」
 ブライスは不思議そうにエイトリ神の横顔を見た。しばらくして岩の向こうからスハーラがブライスに声をかけた。オウと立ち上がって、岩をまわったブライスはスハーラが下着姿なのに驚いた。
「おい」
「服がボロボロになったので、つくろってるの。これだけ暗ければ大丈夫でしょう。さあ、殿方達もお湯につかりなさい」
 そうして美しい腕で、濡れた髪の毛をかき上げた。ブライスは薄暗がりでもはっきりとわかる、若い巫女のスラリとした足の白さに目を奪われた。
「なあにブライス」
「いや」
「はやくお湯に入って、少し体をこすってらっしゃい」
 ブライスとその後ろでスハーラに見とれていた男達は、モゴモゴといいわけの言葉を口にしながら温泉につかりに行った。そしてほんの申し訳程度に湯にひたっていたようだったが、それでも出てきた時には元気そうな顔をしていた。一行は、その池のそばの暖かい洞窟で眠り。翌日はまた智恵の神に導かれて薄暗い穴の中を進んだ。ブライスは輝く少年にもう一つ質問をする事にした。
「ちょうど言い機会なので、もう一つ、エイトリ神におうかがいしたい事があります」
 エイトリは横目でブライスを見上げた。
「なんだね」
「ベリックと共にはぐれたエレーデです」
 すぐそばにいたサシ・カシュウが驚いたように顔を向けた。
「俺達は、ギルゾンや狼達に襲われずに牙の道に二百人の巫女を連れてゆくため、このジンネマンの大洞窟に踏み込みました。もちろん中はごらんのように真っ暗です。そして出来れば馬も連れて来たいと思っていました。そこにサシとエレーデが現れた」
 エイトリは小さな顔を上に向けて口をとがらせた。
「ふむ。そうだな」
「何者かの意志を感じます」
「それが私だと言うのかね」
 ブライスは神を見下ろした。神が自分より小さいというのは、どうにも勝手が悪いものだと思った。
「いえ、マルヴェスターも言っていました。予知はエイトリ神の特性では無いと。あなたが意図して送りだしたのではないだろうと」
「ああ、予知らしき力を持っているのは強いて言えばエルディだが、エルディの予知はむしろ自らの運命を切り開く性質のものだ」
 ブライスは質問を変えた。
「何かこの戦争全体を示した予言書のようなものは存在しませんか」
 エイトリは笑った。
「神がこれ程身近にいるのに、預言者の妄想を信じるのかね。しかし中々興味深い意見だ。私も調べてみよう」 
 やがて一行は、洞窟の大きさいっぱいに巨大な丸い扉がはまっている所に突き当たった。
 エイトリがスタスタと扉に近づいて、黒い扉に両手をあててその堅固さを確かめるように数回押してから振り向いた。
「やれやれ、ソチャプを封じた口をもう一度開くとは思わなんだ。しかも内側から。スハーラ、そなたには勇気があるな」
 スハーラは胸をはって頬を紅潮させた。
「今は勇気が無ければ、智慧の峰は救えません」
 エイトリはうなずいた、そして今度はブライスを見た。
「頼んだぞ冠の守護者、スハーラと巫女達を頼む。一日も早くシャンダイアを一つにまとめてくれ」
「かしこまりました」
 ブライスも力強く誓った。その時、モントとフスツが進み出た。
「ブライス王子、我々はここから引き返します。ベリック王がまだ中におります」
 エイトリが首を振った。
「いや、ベリックならば大丈夫だ。あの穴は小さいが地上にまっすぐに通じているはず。あの聡明な子ならば何の問題もなく脱出するだろう。外に出てから探しに行ったほうが早い」
 フスツとモントは心配そうだったが、知恵の神の言葉を信じる事にしたようだった。エイトリはスハーラに歩み寄った。
「娘よ、私の涙を見せておくれ」
 スハーラはルドニアの霊薬が入った、ふくろうの紋章の小瓶を両手でエイトリ神に差しだした。エイトリはその手を包み込むように握った。
「これは私が生まれたばかりの頃に流した涙。今の私よりもはるかに力に溢れている。使い方はわかっているね」
「はいエイトリ様」
 うなずいたエイトリは振り返って巨大な扉に歩み寄ると、小さな両手で押し開いた。サシ・カシュウに率いられた巫女達がまず通り過ぎた。次にフスツとモントとその部下達、最後にブライスとスハーラが扉をくぐって振り返ると、エイトリ神は静かに胸に手をあててフッと消えた。そして扉は音をたてて閉まった。

 再び暗闇の中に取り残された一行が、その後はさしたる障害も無く洞窟の中を数時間進むと、やがて行く手に小さな光の点が見えてきた。駆け寄ろうとするブライスをサシが制した。
「いきなり出てはいけない。目がくらんで歩けなくなるぞ。夕方まで待つんだ」
 そこで一行は順番に外の空気に近い地点まで行って、あえぐように空気を吸うと静かに外の光が薄れるのを待った。やがて、出口から差し込む光が弱くなり、サシはしずかに皆にうながした。
 こうしてブライス達はジンネマンの大洞窟を突破した。
「抜けたぞ」
 大声を上げて両手を上げたブライスは、突然息が白くなったのに驚きながらまわりを見回した。どうやら谷の底のようだ。雪は降っていないが、洞窟の中の空気に馴れた身にはさすがに寒い。
「ブライス王子、馬を二頭貸して欲しい」
 フスツが急ぎ足でやってきて声をかけた。
「ああ、もちろんだ。一刻も早くベリックを見つけてきてくれ」
 フスツとモントはそれ以上の声をかける間もなく、あっという間に馬に飛び乗ると沈みかけた陽の下に走り出して行った。残りのバルトール人たちも、一礼するとその後を駆け足で追った。夕暮れの雪の峰にブライス、スハーラ、サシ・カシュウと二百人の巫女だけが残された。
「こいつはおっそろしく無防備だな。いそいでセルダン達を探す必要があるぞ」
 ブライスは谷の中央に川が流れているのに気がついた。
「上流か、下流か」
 スハーラが答えた。
「上流だわ。ギルゾンを罠にかけるのにはギルゾンより高い所にいる必要があるの」
「よし、上流に向かおう。だがもう夜が近いから休む場所も探しておこう」
 一行が上流に向かって歩き出してからしばらくたった頃、意外に近くで馬のいななきが聞こえた。
「あら、向こうから見付けてくれたみたいよ」
 スハーラの指さす先に、葦毛の馬が雪にまぎれて転げるように坂を駆け降りてくるのが見えた。
「おお、スウェルトじゃねえか」
 その葦毛の馬を追うように、黒い装備の抜刀隊が谷のいたるところに顔をのぞかせた。
「さすがだ、ここにはいった者はすぐに見つかるようにしてあったんだ」
 嬉しさを隠しきれないブライスの元にスウェルトがぶつかるように走り寄ってじゃれついた。
「よおしよしよし。よくここまで来たなあ」
 やがてセルダン王子がやってきた
「ブライス」
「よおセルダン、待たせたなあ。間に合ったか」
「ああ、ギルゾンはまだだ。しかしもういつ来てもおかしくない」
 そう言って、セルダンは一行を見回した。
「ベリックとマルヴェスター様は」
 ブライスは歯がみしながら答えた。
「マルヴェスターはソチャプとかいう化け物と戦った。俺達は結果を見ずに逃げ出したんだ。その後どうなったかはわからない。ベリックは途中ではぐれた」
 セルダンは驚いて、心配そうな顔になった。
「よし、少し登った所に大きな洞窟がある。中は暖かい。温泉が涌いているんだ。そこでゆっくり話してくれ」
 ブライスはうなった。
「温泉には気がついた。だが湯に入るのはもういいぞ」

 一方、ベリックはソチャプから逃れてブライス達と別れた後、岩棚の上の穴から狭い洞窟を伝って地上に向かった。エレーデが足をくじいたらしく、そのほとんどの距離をベッリックは少女を背負って黙々と進んだ。エレーデがベリックの耳元でつぶやくように言った。
「ごめんなさい。馬の世話ができなくなってしまって」
 ベリックは笑った。
「また言っているね」
「だって私はそのために、王様や王子様達と一緒に歩く事を許されたんですもの」
「それは違うよ。僕が一緒に来て欲しかったからだよ」
 エレーデは黙って涙を流した。洞窟は狭かったが、これだけの長さ続いているのならば、必ずどこかに出口があるとベリックは信じた。ほとんど丸一日暗闇の中を歩いた二人は、やがて空気の流れを追って地上への出口を見付けた。ベリックは慎重に夕方を待って外に踏み出すと、あたりをさぐった。洞窟の出口は小高い丘の中腹にあった。
 遠くで狼の声がした。ベリックはエレーデに洞窟を少し戻るように手で合図すると、少女を落ち着かせるように両腕で抱いて座った。やがて狼の声は遠のいていったが、それでもベリックは暗闇の中でエレーデを抱き続けた。
 次に外に騒々しいざわめきが聞こえ、ベリックが穴の出口から覗くとゾックの群れが跳ねながら行進していった。
「ああ、ゾックが行く」
 ベリックはゾックの行進を見下ろした。おそらくはあの列の先頭に、カインザーのクライの町を襲撃してクライバー男爵の父親を殺した魔法使いがいるのだろう。ベリックはゾックの行軍を見送るように穴を出た。すでに夕暮れになり、あたりは薄暗い夕焼けに染まっている。後をついて外に出たエレーデがつぶやいた。
「まぶしい」
「そうだね。夕陽がこんなにまぶしいものだとは思わなかった。君の伯父さんが目を開けた時もおそらくこんなにまぶしかったんだろう」
 エレーデは黙り込んだ。
「まだ許せないかい」
「わからない」
 幼い二人が身を寄せ合ったとき、短剣を持ったイサシがその後ろに立った。

 夕陽は闇に溶け、最後の暖かさを吹き払う冷たい風が三人のいる丘の上に吹いた。ベリックは顔を向けずに後ろの男に呼びかけた。
「イサシか」
 イサシは少年の声の平静さに驚いた。バルトール最高の殺し屋に背を向けてここまで落ち着いていられる者など、この世にほとんどいない。
「貴様がベリックか」
 ベリックはバザの短剣を抜いて立ち上がった。イサシは振り向いたその少年の瞳の奥の深さに吸い込まれるような恐怖を覚えた。
(これは、もしかしたら)
「エレーデ、離れていなさい」
 ベリックに言われたエレーデは素直に二人から離れて、少女の腰くらいの高さの石の上に座って膝を抱いた。ベリックは抑揚の無い声で静かに言った。
「さあ、はじめようか」
 イサシは信じられない思いでその言葉を聞いた。
「この俺と戦うのか。俺はロッグのバルトールマスター、マサズの右腕だ。バルトール最高の暗殺者と異名を取るものだぞ。子供のおまえが俺と戦うというのか」
 ベリックはニコリと笑った。
「ああ、だから君はバルトールの王を殺せない」
 ベリックとイサシはそれからしばらくの間にらみ合った。やがて陽はすっかり沈み、冬の星座が天に駆け登った。ふと天を見上げたイサシは、カチンと短剣をしまって天を指さした。
「薔薇の星座が登る夜は、バルトールの者は人を殺さない。その命、今日はあずけた」
 そう言うと暗殺者はベリックにクルリと背を向けて歩み去った。ベリックはその後ろ姿に呼びかけた。
「その詩には続きがあるはずだ」
 イサシは心の中で続けた。
(バルトールの王が帰るとき、薔薇の星座が花開く)
 見上げると、天の薔薇の星座を中心に流れ星が無数に散っていった。

 ブライス達が洞窟を抜けたとの報告が、伝令鳥によって聖王マキアに届けられた翌日の早朝。サルパート王国の北方の城塞ブンデンバート城には、大軍が集結した。白々とした北国特有の夜が明けようとしている。マキア王は豪華な緑色の鎧の上に深い茶色のマントをまとい。ブンデンバート城の中庭にしつらえた王座に座っていた。
「寒いのう。伝統とはいえなんでこんな夜明けに出陣するんだ」
 横に控えているスハーラの父のレリス侯爵が素っ気無く答えた。
「昼が短いからでございます」
「わかっておるわい。よし行くぞ」
 王はどなって立ち上がった。そして隊列を揃えたサルパート軍にむかって声を張り上げて号令した。
「たき火に木をくべろ、松明を増やせ、沿道のかがり火にすべて火をつけろ。出撃だ。出撃だ。出撃だあ」
 そして大げさに東の空を指さした。
「我らが目指すは北の将の要塞。倒すは北の将ライバー。滅ぼすぞ、滅ぼすぞ、滅ぼすぞ、狼の将を葬るんだ」
 マキアの大号令に十万のサルパート軍が一斉に雄たけびをあげた。この軍には行軍の途中でさらにサルパート各地の貴族が合流し、最終的には二十万近い大軍になるはずであった。そしてこれがサルパートに動員できるすべてだった。老いも若きも、長年に渡る狼の襲撃と北の将の蹂躙に最後の抵抗をするべく結集した。戦士の質はともかく数だけは何とか要塞軍に匹敵できる。しかしこの軍では凍れる大要塞を落とす事は不可能に思われた。それでもサルパート軍は出撃しなければならなかった。これが最後の、そしてたった一度の機会だから。
 かがり火が天を焦がして、聖王マキア率いる北国の兵は、北の将の要塞目ざして進軍を開始した。

(第八章に続く)


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