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シャンダイア物語

第二部 智慧の峰
第八章 牙の道

福田弘生

 サムサラ砦へグルタス・ゼンダの軍の攻撃が始まって一週間がたった。カインザー軍の総指揮官ロッティ子爵は、ゼンダの大軍が押し寄せるたびに、積極的に出撃してこれを撃退した。だがゼンダ軍の攻撃が重なるにつれ、確実に砦への包囲網はせばまってきている。カインザー軍の客将の位置についているかつての盗賊の頭バンドンは、このロッティの戦略が不思議だった。そこでその日の夕暮れ、ゼンダ軍を撃退して帰ってきたロッティをつかまえてたずねた。
「なあ、ロッティ。なんだって敵の消耗戦に生真面目に付き合うんだ。適当に砦にこもるなり待ち伏せて罠を仕掛けるなり、自在な対応があるだろう」
 丸一日、馬上で戦闘を指揮していたロッティは、疲れも見せずに部下が持ってきた水をうまそうに飲み干した。
「残念だがゼンダ軍と我が軍には圧倒的な兵力の差がある。もし敵が本気でここを落とすつもりならば、どうあがいても俺達はかなわない」
 そこまで言って明るい茶色のマントの小柄な男は近くにある岩に腰を下ろした。
「だがゼンダの目的は北の将の要塞軍への合流だ。おそらくライバーに取って代わるつもりなのだろう。ここでの戦力消耗は避けたいはずだから、俺達が手強いと思えば無理には押してこない。それが証拠に日に日に戦意が落ちている」
 バンドンは丘の上から旗が林立しているゼンダの陣に向けて手を振った。
「戦意は無くても包囲はできるぞ」
「そのために敵の後ろにクライバーがいる」
 ロッティはまだ水の袋を手放さずに、立っているバンドンを横目で見上げて笑った。
「この砦は小さいが、包囲をすればゼンダの陣は薄くなる。卵のカラのように薄く砦を囲んで、クライバーの攻撃を背面から受けて持ちこたえる程の兵力はさすがに敵にも無い。クライバーが後方にいる以上、ゼンダ軍は完全な包囲作戦には出ないはずだ」
 バンドンはロッティのこの自信に、いささか気味が悪くなった。
「カインザー軍の強さを印象づける事で、除々にゼンダ軍の行動範囲をせばめているわけか。さすがに自信に満ちたカインザーの将軍らしいな。俺にはとうてい思いつかない」
 ロッティは惜しむように水の袋を逆さにして最後の一口を飲み込んだ。
「おまえにはおまえの、俺には俺の戦い方がある。だがな、これはゼンダが相手だからできる作戦だ。たとえば相手が西の将マコーキンだったら、俺は一目散に退却したよ」 
 バンドンは破顔すると、両手を膝について大きく息をはいた。
「そうか、それを聞いて安心した。俺は狂人の軍隊に取り込まれちまったのかと思ったぜ」
 ロッティは立ち上がって尻の土をはたいた。
「狂人かどうかはともかく、俺達は戦士だ。勝つために戦っているんだよ。それだけは信じてくれていい」

 カインザーの誉れ高き紅の男爵レド・クライバーは、北の将の補給基地に対する襲撃を繰り返してサムサラの村の北方を転々としていたが、サムサラ砦にゼンダ軍が押し寄せたきっちり十日後に、突然南下してゼンダ軍の後方のサムサラの村を占領する構えを見せた。
 その報告を受けたゼンダ軍は緊急の軍議を開いたが、出される意見には消極的なものが多かった。巨大なかがり火を円形に焚き、その内側に豪勢な椅子を並べて軍議は進行した。そこには戦場の厳しさより、同族が集まって談笑するおだやかさすらあった。総大将グルタス・ゼンダの甥のダイレスは絶望的な思いで中央のグルタスとその両脇に座っている二十代前半の長男ジョンス、次男のハンダーを見やった。
(残念だがこの親子には、やはり将軍としての器量が欠けていると言わざるをえないだろう。家格も高い、見栄えもよい。だが残念な事に戦士としての勇気が、カインザーの貴族達とは比べものにならない。伯父のグルタスのあの自信も戦意も兵の数だけが頼りなのだ)
 グルタスのほぼ正面に座っていたダイレスは、意を決して席から立ち上がった。
「伯父上、私に北方のクライバー討伐をお申しつけください」
 息子のジョンスと何かヒソヒソと話していたグルタスは、黒い髭をしごきながらうんざりしたような顔を向けた。
「まだ言っているのか。放っておけばよいのだ。目の前の小さな砦を落としてしまえばクライバーの軍など孤立して自然に消滅する」
 ダイレスは愕然とした。そして泣き出しそうな声で訴えた。
「一万五千の軍隊は消えたりしません。すでにサルパートのマキア王が二十万の兵を率いてライバー将軍の要塞に向かっているとの報告が入っております。我々はここで時間をつぶしていてはいけないのです」
 これを聞いてグルタスの右隣にいた長男のジョンスが甲高い声で相づちをうった。
「それもそうだ。ライバーがマキアの軍を全滅させて手柄をあげてしまえば、我々が北の将にとってかわるのが困難になる」
 これにはグルタスも心を動かされたらしい。
「おお、そうであった。ライバーに手柄を立てさせてはいかんな。マキアめは我々がつぶさねば。よしダイレス、三万の軍を与える。クライバーめをさっさとつぶしてこい」
 ダイレスはかしこまって、これに答えた。
「敵は紅の男爵の異名を取る勇将。せめて五万の軍をお貸しください」
 今度はグルタスの左に座っていた次男のハンダーがあざけるように笑った。
「おいおい、相手は要塞にこもっているわけではないぜ。ただ平地に陣をしいているだけだ。倍の軍でも多いくらいだろう」
 ダイレスは食いさがった。
「それでは伯父上、せめてジョンス様かハンダー様を総代大将にいただきたく」
 ジョンスとハンダーは顔を見合わせた。ハンダーが手を振って言った。
「クラウスでいいだろう」
 正妻の子でないため、親子から少し離れて、親族の席に座っていたクラウス・ゼンダは突然の指名に驚いた。だが意外にも総代将のグルタスはこのハンダーの言葉に喜んだ。グルタスからしてみれば、いつも腹違いの兄達からいじめられているクラウスに、手柄をたてさせるいい機会に思えたのだろう。
「おお、そうだそうだ。よし、行ってこいクラウス」
 まだ初陣を済ませたばかりの細身の青年は、何と答えてよいのかわからずオドオドしていたが、ダイレスは内心でホッとした。この若者は上の二人の兄ように戦場の苦労を嫌がらない。少なくとも将としての最低の条件は満たしている。
「それはありがたい。それではクラウス様」
 ダイレスは大声でそう言ってクラウスの元に行くと、手をとって立ち上がらせた。
「ソンタールの誇り、ゼンダ家の恐ろしさを見せてまいりましょう」
 こうしてダイレスは自ら精鋭を選び、クラウスを先頭にゼンダ家の大熊の旗印をかかげて意気揚々と出陣していった。そして二日後、クラウス、ダイレスの軍はサムサラの村の北方でカインザーの紅の男爵に正面から戦いを挑んだ。
 戦場となったのは、この地方特有の潅木の茂みが点在するだだっ広い荒野だった。戦上手で知られたダイレスは、今回は策を用いる事をしなかった。いやしくもソンタールの正規軍が、何の障害物も無い平地で半分の数の敵と戦うのだ。真正面からクライバーの軍を破ることが、ウサギ捕りの罠にかかったようにダラダラとサムサラに滞陣しているゼンダ軍を奮いたたせる事になるだろう。
 一方クライバーも、倍の数のクラウス軍を前にして少しも引く構えは見せなかった。ゼンダ軍来襲の報告を受けると、悠然と軍を鳥の翼のように展開して待ち構えた。それはまるで自軍より数が少ない敵を押し包むかのような自信に満ちた構えだった。これを遠くから見た若いクラウスはさすがに激怒した。
「あの構えを見よダイレス。我がゼンダ軍をここまで馬鹿にする者は初めて見た。目にもの見せてくれるわ」
 こうして両軍は激突した。クラウスとダイレス率いる豪華な鎧につつまれた三万の大軍は雪崩をうってクライバー軍に襲いかかった。一方、クライバーは真っ赤なマントをひるがえしながら、細身の剣を風車のように振り回して、全軍に激をとばした。
「これを待っていたのだ。この一戦でサムサラの戦いを決するぞ。叩け、叩け、徹底的に叩け」
 そう叫んで自ら先陣を切って突撃していった。一度開くと見えた陣はあっという間にクライバーを頂点にした楔形に切り替わり、クラウス軍の中央に切り込むと散会して敵の中央部を一気に強襲した。
 クラウス、クライバーあわせて四万五千の大軍による白昼の激突は、濛々たる土埃と戦士達の雄叫びの渦となって大地を揺るがした。軍馬のいななき、剣と剣がぶつかる乾いた金属の響き。耳をつんざかんばかりの騒音の中、長剣を振り回して奮戦していたクラウス軍の事実上の司令官のダイレスは、次第に自分たちの想像を遙かに越えた戦士団を相手にしている事に気がついてきた。
(これは、あの砦にいる鋼のような騎馬軍団よりさらに強い。我々もゼンダ軍の中では精鋭のはずだが)
 まわりを見回すと半数の数の紅の男爵の赤い軍団に、豪勢な鎧を身にまとったクラウス軍は次第に突き崩され混乱に陥っていた。ダイレスはさっきまで近くにいたはずの総大将のクラウスを探した。しかしクラウスの姿は見えなかった。ダイレスは近くで戦っている部下に叫んだ。
「おい、クラウス様はどこだ」
 部下はわき目もふらずに戦いながら答えた。
「まだ先ほどの場所に」
 ダイレスは無意識のうちに自分の軍が引いてしまっていた事を深く恥じて、総大将のクラウスを探すために馬に鞭を入れた。

 その頃、クラウス・ゼンダもカインザー軍の強さに驚愕していた。しかしそれでもこの勇敢な若者は軍の中央に陣取って引こうとはしなかった。やがてクラウスは、いつのまにか自分が軍の最前列にいる事に気がついた。まわりはすっかり赤い鎧の兵でうめつくされている。そこに駆け寄ってきたダイレスがあわててクラウスの前を馬で塞いだ。
「お引きくださいクラウス様」
「しかし」
「この一戦、私の誤りでした。今は無事に引くことが肝要でございます」
 そう言ってダイレスは全軍に退却を命じた。クラウスを保護しながら軍を収集したダイレスは、クライバー軍の追撃をよく防ぎながら、戦場から半日の距離まで下がった。相手の統率のとれた動きに感心したクライバーはそれ以上追わずに、こちらも軍を引いた。

 その夜の野営地の幕営でダイレスは悩んだ。このままゼンダ軍に戻るべきなのか、あるいは北の将の元に走るのか。悩み抜いた末に決心したダイレスはクラウスに進言した。
「クラウス様、このまま北の将の元にまいりましょう」
 クラウスは驚いた。
「なぜだ、なぜ父上の軍に戻らん」
「我々が戻ったところで、おそらく戦況に影響は無いでしょう。お父上はゆっくりと、サムサラにある敵の砦を囲んでいるだけです。やはり北の将ライバー様のご出陣をお願いするほうが良さそうです」
「しかし父上が怒るぞ」
「クラウス様、今日の戦闘でのカインザー軍をどう思われました」
 クラウスは昼間の悪夢のような戦闘を思い出して歯がみした。
「強い。たぶんサムサラの砦にいた軍より強い」
「左様でございます。サムサラの砦にいたのはロッティ子爵、馬による機動力を活かした戦闘が得意の将軍でした。今日戦ったクライバー男爵は勇気をもって知られる典型的カインザー戦士です。しかし」
「しかし何だ」
「クライバー軍ですら、カインザー最強では無いのです」
 クラウスが思わず息をのんだ。
「なんと、まだあれより強い軍がいるのか」
「現在ポイントポートにいるトルソン侯爵の軍こそがカインザー最強と聞いております」
「その軍がやって来るのか」
「いえ、すぐにではありません。西の将の要塞軍との死闘の傷が癒えるまではしばらく出撃して来ないでしょう。しかし必ずやってまいります。トルソンが動けば、かつての西の将の要塞に陣取っている鋼鉄王オルドンもソンタール大陸に駒を進めて参りましょう。どうやらこの地域での戦闘は、私たちが首都にいる頃に考えていたものよりはるかに重大な状況にあるようです」
「もはやゼンダ家の家名のために戦っている場合でははいと言うのだな」
「よくおわかりくださいました」
「よし、父上達がロッティとクライバーを足止めしている間に北に行こう。北の将ライバーと話をしてみよう」
 しかしこの後、若いクラウスの軍が、北の将の軍ともゼンダ軍の本体とも合流する日はついに来なかった。この無残な敗戦を経験したことが、後にグラン・エルバ・ソンタールの戦いで活躍する、クラウス・ゼンダ将軍を誕生させる事になる。

 牙の道とは、谷の中央を流れる川からあがる温泉の蒸気が、ツララとなって、谷に点在する洞窟の入り口に牙のようにたれさがる景色からつけられた名前だった。
 ザイマンのカスハの冠の守護者ブライス王子は、洞窟の内側から朝の薄日にきらめく牙のようなツララを眺めながら、スハーラがどれだけ頼んでもあと十年はこの地に足を踏み入れないと心に誓おうかどうか迷っていた。どう考えても人間が生息できる場所に見えないのだ。しかしすぐそばでイビキをかいているセルダンが、そのブライスの確信を否定していた。いったいどうやってこんな所で、しかも魔法使いとの戦いの前夜にこうも無心に眠れるのだろう。
 偵察に出ていたアタルス、ポルタス、タスカルの三兄弟が戻ってきた。熟睡していたはずのセルダンが、その足音を聞くなり素早く飛び起きて剣を手にして立ち上がった。ブライスはそれを見て驚いた。なるほどカインザー人の神経の図太さと、危機に際しての反射神経は尋常ではない。
「ギルゾンが来ました。到着まであと一時間」
「よし」
 セルダンはブライスに目配せして立ち上がった。近くで休んでいたスハーラも立ち上がって洞窟の奥に寝ている巫女達を起こしに行った。やがて起きてきた巫女達は緊張感に蒼白になりながらも、手はず通りに二手に分かれて素早く洞窟を出ると、谷の両側の崖を登っていった。セルダン、ブライス、スハーラ、そしてベロフとサシ・カシュウ、アタルス達三兄弟も洞窟を出た。洞窟には、サルパートの外交担当者のエラク伯爵だけが残る事になった。セルダンは洞窟の入り口で心配そうな顔をしているエラク伯爵に笑顔を見せた。
「それでは行ってきます。ギルゾンとルフーを片づけて参りましょう」
「私にはいまだに信じられません。あのギルゾンと直接戦う時が来るなんて。くれぐれもお気をつけてくださいセルダン王子」
「ええ、気をつけます。それより、伯爵も少し離れた所から見物したらどうですか」
 エラクは震え上がった。
「とんでもない。私はマキア王に報告するために、ここで戦いの記録をつけさせていただきます」
 ベロフが意地悪く笑った。
「ここからでは見えますまい」
「いや大丈夫。私はことのほか耳が良いのです。ここからでも戦いの状況を察する事はできます。後にブンデンバート城の宮廷で歌に歌われるほどの勲を記録させていただきましょう」
「それは俺の役目かと思ったが」
 サシ・カシュウが手にした短剣の刃を確かめながら言った。エラクは少しムキになって抗議した。
「いえ、私のは娘達が涙するような劇的な物語ではなくて、あくまで正確な記録なのです」
「それはけっこう」
「いくよ」
 セルダンは声をかけて積もった雪の中に走り出た。幸い雪は降っていないが、牙の道は深い霧に包まれている。霧と積もった雪であたり一面は真っ白な世界だった。
(これほどの雪を天はどうやってためていたのだろう)
 セルダンは谷底から両側の崖を見上げてぼんやりと思った。

 その頃、小鬼の魔法使いテイリンも、ゾック達を率いて牙の道を見下ろす山の上に陣取った。ここに巨大な魔法が集まりつつあるのがひしひしと感じられる。テイリンは魔法によって研ぎ澄まされた目で濃い霧に包まれたままの牙の道全体を見渡した。
 まずテイリンの数十メートル下の谷を見下ろす崖の上におよそ百人の智慧の峰の巫女達が、白い衣を着て雪に溶け込むように並んでいる。崖の向かい側にもほぼ同数の巫女達。その中央には痩せた男が立っている。こちら側の巫女達の中央にかがり火が一つ慎重に焚かれている。その横に立っているのが、おそらくリラの巻物の守護者のスハーラ・レリスと呼ばれる者だろう。
 崖の下、牙の道の中央に剣の守護者がいる。カインザーのセルダン王子は細身の若者で、水色のマントを羽織って黒鹿毛の馬にまたがっている。テイリンはその姿を認めたとき思わず全身に戦慄が走るのを感じた。まだ若いとは言え、あの男がソンタール帝国の最大の敵である事に変わりはないのだ。その横には巨漢の男が葦毛の馬にまたがっているが、おそらくはあれが冠の守護者、ザイマンのブライス王子だろう。二人の横には黒い鎧のみるからに武人といったおもむきの男が馬に乗っている。その後ろに黒いマントの大柄な男が三人。これは馬に乗らずに立っている。この男達と崖の上の巫女の中にいる痩せた男が何者なのかテイリンにはわからなかった。
 この一団の前方の道野の側に、黒い鎧の戦士たちが十人ぐらいずつの組をつくって潜んでいる。そうしてみると、剣の守護者の横にいる武人はこの戦士団の指揮官なのだろう。
 テイリンは翼の神マルトンの一番弟子、大魔術師マルヴェスターがここにいると思っていたのだが、それと思わせる魔力は感じられなかった。数日前に大地の底で、強大な魔法の力が発散されていたのをテイリンは感じていたが、あの魔法がもしかしたらマルヴェスターだったのかもしれない。それがなぜここにいないのか、それもまた不明だ。
 やがてはるか彼方から、霧にまぎれて巨大な魔法が近づいてくるのを感じた。すでにテイリンには痛みをともなったなじみのある魔法。ギルゾンとバイオンだ。テイリンは唇を噛みしめた。
(ついにきた。サルパートでの魔法の戦いの決着がつく時だ)
 しかしテイリン自身は、この戦いに介入するつもりは無かった。自分はソンタールの者だが、ギルゾンのこれ以上の殺戮に加勢するつもりは無い。それにテイリンの獲得しつつある魔法は、まだこれ程の強力な魔法の戦いに参加できるほど強くはなかった。その証拠に数週間前、ギルゾンに全く相手にされずに殺されかかっている。

 まだ夜が明けたばかりの薄暗い光と霧の中を、黒い短剣の魔法使いギルゾンは無数のルフーを引き連れてやってきた。抜刀隊の斥候の報告を聞きながら、セルダンは両わきにそびえる崖を見上げた。その崖の上にエイトリ神の巫女達が待機しているはずだ。やがてセルダンの目にも、牙の道の中央を流れる川に沿って歩いて来る小さい黒い塊のようなギルゾンの姿が見えた。魔法使いは何のためらいもなくサクサクとセルダンに近づいてくると、ツイと顔を上げて、セルダンを見てうれしそうに笑った。
「剣の守護者か」
 セルダンは馬上から皺一つない青白い顔をのぞき込んだ。驚くほど冷たい瞳が見返した。セルダンは剣をぬいて高々とかかげた。
「私の名はセルダン。カインザー国王オルドンの息子。クライドン神のカンゼルの剣にかけて、黒の短剣の魔法使いをここにほふる。覚悟するが良い」
 それを聞くとギルゾンは甲高い声でケケケケと笑った。その笑い声は谷中に響き渡った。崖の上でその声を聞いたリラの巻物の守護者スハーラは、首に巻いた白いスカーフをほどいて、それにルドニアの霊薬をふりかけると、霊薬で濡れたスカーフをかがり火に投じた。そして懐からリラの巻物を取りだして、目の前に両手で大きく開いた。
「エルゼン、アイシム、エイトリ、サル、ア、サラ、サ、デ、ザン、マラト」
 スハーラはピンと姿勢をただすと、美しい声で朗々と巻物の呪文を読み上げ始めた。その呪文に呼応するように、向かいの崖の上の巫女達の列の中央から、世にも美しい男性の歌声が流れ出た。それを聞いてテイリンはハッと気がついた。
(あれが噂に聞く、エイトリ神に声をもらった吟遊詩人サシ・カシュウだ)
 そして、そのサシの歌声に導かれるように、崖の上に待機していた二百人の巫女達が一斉に詠唱を始めた。白い雪をひきさくほどに切なく美しい祈りの声が谷を包んだ。
 セルダンの目の前にいるギルゾンが首の調子をためすように、首を左右にかしげた。
「ははあ、罠をしかけたのか剣の王子。このギルゾンにエイトリの子供たちが何をしようと効かんぞ」
 セルダンは無言でギルゾンを見つめた。ギルゾンの向こうにルフーの群がいる。そしていつのまにかその後ろに、そびえるように巨大な狼が姿をあらわしているのに気がついた。
(あれがバイオンか、なんという美しい狼だろう)
 セルダンはその気高い姿に感動さえおぼえた。

 巻物を読み続けるスハーラの隣にあるかがり火から立ち昇る煙は、やがて灰色から白く透明な霧となって、斜面にただよい始めた。そして巫女達の祈りとともに霧は崖をくだってギルゾンのまわりにいたルフー達を包むようい見えた。しかし黒い短剣の魔法使いは、さすがにこの奇妙な魔法に気がついた。そして軽く両手を掲げると、風を起こして霧をルフーから遠ざけた。
 セルダンはそのスキをついて馬を寄せ、馬上からギルゾンに斬りかかろうとしたが、その前に巨体を躍らせてバイオンが立ちはだかった。セルダンは狼の王に向かって叫んだ。
「やめろバイオン。これはルフーを解放するための魔法なんだ」
 セルダンが驚いた事に、バイオンは歯がみして悔しがった。その声が心に響く。
「わかっておるわ。しかしすでに遅い。くびきの鎖がギルゾンの手に渡る前にそれをしてくれればよかったのだ」
「ヘヘヘヘヘヘッヘヘ」
 バイオンの後ろにいたギルゾンが奇妙な笑い声をあげた。
「バイオン、剣の守護者は俺の獲物だ。そっちの冠の無い冠の守護者をくれてやる」
 そう言うとギルゾンは猛烈なスピードでセルダンに襲いかかった。セルダンが手にするのはカンゼルの長剣。ギルゾンの手の中には黒の短剣。しかしギルゾンの短剣の黒い妖気は、セルダンの剣よりもはるかに長くセルダンのまわりに乱舞した。セルダンは暴れる馬からヒラリと飛び降りると、雪の中に体勢をひくく構えて、次々に襲い来る短剣の妖気を慎重に受け流していった。

 一方、巨狼バイオンは一声咆哮すると、ブライスめがけて飛び上がった。ブライスと愛馬スゥエルトは、その下をくぐり抜けるようにして走り出した。ベロフがそれに続く。バイオンは着地すると素早く反転してルフーに向かって吠えた。ルフーの群れが雪の中から沸き上がるように谷を走り、ブライス達をの行く手を塞いで取り囲んだ。その時、ベロフが口にした笛をするどく吹き鳴らした。戦士の大陸カインザーの剣の達人をよりすぐった、ベロフ抜刀隊が狼の群れの外側から切りかかった。バイオンはそれを見て、中央のブライスめがけて巨体を躍らせた。ブライスはあわてずに額の銀の輪の前で両手の人さし指と中指を交差させた。するとそこから空気がゆがむような力が発せられて、バイオンの巨大を宙で跳ね返した。

 山の上からテイリンは驚きをこめてこの戦いを見ていた。そして自分がほとんど何もできずに重傷を負わされたギルゾンの攻撃と、真っ正面から渡り合う剣の守護者の存在に恐怖すらおぼえた。巨大なバイオンと格闘するように馬上で仁王立ちする冠の守護者と、恐れを知らない黒い鎧の戦士達。サルパートの峰を荒らし回った狼ルフー達がタジタジとなって、雪の中を右往左往している。
(シャンダイア、ソンタール戦争に入り乱れる魔法の力と戦士の強さには上限が無いのだろうか)
 テイリンが我を忘れかけた時、セルダンの振るう剣がギルゾンの妖気をひときわ激しく打ち返した。牙の道全体が魔法の衝撃で揺れた。ふと我に返ったテイリンは身を潜めていた雪の上に立ち上がった。やはりこの戦いを傍観するだけでは済まされない。意を決したテイリンは山の上から地面に向けて押し込むように力を発した。するとギルゾンの起こした風が大地に吸い込まれ、スハーラの元から流れ出るルドニアの霊薬の霧がふたたび降下してついに牙の道の底に達した。そしてほとんど見えなくなるくらいに透明になってルフーの群を包んだ。
 セルダンの剣からはじけるように飛びすさったギルゾンは、自分の魔法の邪魔をした者をすぐに見付け出した。ギルゾンは山の上のテイリンを見上げて舌打ちした。
「生きておったか」
 そう叫んで、テイリンめがけて短剣の妖気を放とうとしたギルゾンは、目の前にルフーが走り込んできたのに驚いて手を止めた。その次の瞬間、ルフーはギルゾンめがけて襲いかかった。ギルゾンは素早く身をかわすと、魔法でルフーを操作しようとしたが、そこでギルゾンは狼を制御できなくなった事に気がついた。ブライスに襲いかかっていた巨狼バイオンが動きを止めて、ギルゾンのほうに顔を向けて耳まで裂ける笑いを見せた。
「子供達よ、エサはそこにあるぞ」
 バイオンの吠え声にルフーたちは狂喜して、呆然としているギルゾンに襲いかかった。ギルゾンは狂ったように狼をはね飛ばした。
「こしゃくな」
 しかし積年の恨みをはらす機会を与えられた狼たちは容赦しなかった。一瞬も目を離せない狼の群れと黒の魔法使いの死闘が始まった。超人的な反射神経を持つギルゾンは、懸命にルフーを切り伏せ続けたが、やがてさしものギルゾンも徐々に深手を負っていった。
「クラアアアアアアアアア」
 血まみれになったギルゾンは、絶叫をはなちながらそれでも最後の力を振り絞って闇雲に短剣をふりまわし続けた。しかしセルダン達の見つめる前で、その小柄な肉体はルフー達によってズタズタに食いちぎられていった。やがて後ろで見ていたバイオンが一声鋭く吠えると、ルフーは一斉にギルゾンから離れた。その後にはボロボロになった黒と赤の塊が残った。セルダンはギルゾンの血が赤い事に意外な感じを受けた。バイオンがセルダンの心に叫んだ。
「カンゼルの剣でとどめをさせ。魂を逃がすな」
 セルダンがはっと気がついて、ギルゾンに駆け寄ろうとしたその時、ボロボロになったギルゾンから黒い煙のような魂が抜け出して、黒の短剣を掴んだまま虚空に消えた。その煙の後に細い鎖が一筋のきらめきを残して続いた。

 牙の道のはるか東の方角にあるソンタール帝国の首都グラン・エルバ・ソンタールでは、黒い秘宝の魔法使いの総帥ガザヴォックが、北方でまた一つ、秘宝の力が極端に弱まった事に気がついた。やがて青い影が飛び交う広大なガザヴォックの部屋に、黒い短剣の魔法使いギルゾンの魂が短剣をかかえて現れた。
「ガザヴォック様。不覚」
 ガザヴォックはギルゾンの手にしたくびきの鎖に目をとめた。
「うむ。そなたわしに反抗を企てたな」
 ギルゾンの魂は悪びれもせずにニヤリと笑った。
「それが黒の神官でしょう。師よこの短剣。いまいちどお役に立てるように」
 そう言うと、ギルゾンの魂は悔しさに怒りながらグラン・エルバ・ソンタールを囲む六つの塔の一つにある、自分の塔に向かった。すると塔に近づくギルゾンの魂に、別の塔からあざけりの笑い声があびせられた。
「ホーホホホホ、愚かなギルゾンがおでましじゃな」
 ギルゾンの魂はキッとなってその塔を振り向いた。
「ゾノボートか、この魂の切れ端め。まだ意識があったのか。さっさと消えてしまえ」
「貴様も同じよギルゾン。しかもガザヴォック様に謀反まで企てたとは。少しお仕置きを受けるかもしれんぞ。イヒヒヒヒヒヒヒ」
 ギルゾンは悪態をつきながら自分の塔に戻ると、短剣をポイと宙に放った。短剣は空中でゆっくりと数回転して空中に浮かんだまま止まった。ギルゾンの魂は部屋のはずれにある座布団の上に収まると、短剣に向かって残っている己の持つ妖気のすべてを注ぎこみはじめた。やがて短剣に再び妖気が満ちたとき、ギルゾンの魂は消え、次の魔法使いに短剣は引き継がれる事になるだろう。

 一方、ギルゾンの魂を見送ったガザヴォックは珍しく怒りの表情を見せた。
「おのれ、シャンダイアの守護者達め。ギルゾンは死なせたくは無かった」
 そう言うとガザヴォックはギルゾンが残していった鎖に向けて指先を鋭く振った。するとくびきの鎖はスルスルとガザヴォックの手の中に収まった。黒い指輪の魔法使いは無言のままその鎖をグイと引き寄せた。

 牙の道の中央で、抜け殻となったギルゾンの亡き骸を見下ろしていたセルダンの目の前で、突然巨狼バイオンが咆哮をあげた。そして何者かに吊り上げられるように空中に浮き上がった。セルダンは呆然とバイオンを見上げた。谷を降りてきていたスハーラとブライスが駆け寄った。
「どうしたんだ」 
 バイオンは空中でもがきながら激しく抵抗した。
「わからない、バイオンが何者かに引き上げられている」
 ルフー達はおびえたようにバイオンにむかって吠え上げた。大陸の遥か彼方から魔法使いガザヴォックはバイオンに呼びかけた。
「奮い立て狼。戦えバイオン。いにしえの血をよびおこせ」
 ドスンと空中から落下したバイオンは狂ったようにもだえると。巨大な牙をむいてセルダンに襲いかかった。バイオンが振り上げた前足の爪をセルダンはあやうくよけた
「やめろバイオン。もうそなたは戦う必要はないんだ」
 バイオンは荒い息をして立ち止まると、ガザヴォックの魔法の力に必死に抵抗した。そして苦痛のあまり悶絶して雪の中を転げ回った。
 その光景を、牙の道を見下ろす山の上からテイリンが見ていた。一度鎖を手にした事があるテイリンには、バイオンの首からのびる鎖が見えた。鎖の果ては空中に消えている。おそらくあの先にガザヴォックがいるのだろう。
「ガザヴォック様、おやめください」
 テイリンは思わず叫ぶと、指先から宙に向けて光を放った。光は一直線にのびてくびきの鎖を絶ち切った。そしてテイリンは雪の中に待機していたゾック達に手を振ると、全軍を率いて牙の道に駆け降りた。
 セルダンは山の上から雪崩のように駆け降りてくる小鬼の大軍を見た。
「ベロフ、抜刀隊を両脇によせろ、正面をあけるんだ」
 テイリンを先頭にしたゾック達は、真っすぐにバイオンの巨体に駆け寄ると、数十体のゾックがバイオンの下に潜り込んで、傷ついた体を持ち上げた。持ち上げられたバイオンは、テイリンの姿を認めるとうめくように言った。
「テイリンそなた、自分が何をしたかわかっておるのか。ガザヴォックに逆らったのだぞ」
 テイリンはうなずいた。
「仕方なかったのです」
 そしてセルダンを振り向いた。
「カインザーの剣の守護者よ、我が名はテイリン。小鬼の魔法使いと呼ばれる者だ。聖なる獣の体をもらってゆく。今日はこれで見逃して欲しい、いずれまた相まみえよう」
 セルダンは黙ってカンゼルの剣の刃を持って、顔の前に逆さにかかげた。テイリンと二千を越えるゾック達はバイオンの巨体を背負った一団を先頭に、セルダン達の元から去って行った。ルフーの群もそれを追った。
 見送ったセルダン達は突然の静寂に包まれた。やがて牙の道の斜面の雪が輝き、ようやく朝陽が山陰から顔を出した。今日の空はおそろしく青い事にセルダンは気がついた。

「テイリン感謝するぞ」
 ゾック達の運ぶ肩の上で揺られならがバイオンはつぶやいた。
「バイオン。死んではならない。俺ならばあたなを治せる」
「いや、ガザヴォックの魔法は魂に傷をつけるのだ。体の傷ならばそなたの魔法で治せるだろうが、魂の傷は治せない。残念だが我が命はもう尽きる」
「バイオン」
「今こそわしにはそなたの使命がわかった。新しくこの星に生まれる力があるのだ。ギルゾンはくびきの鎖を操る魔法を手にいれようとした。しかしそなたはガザヴォックのくびきに属さない獣を得る事ができるだろう」
 テイリンは雪の中で列を止めた。ゾック達がかかげるバイオンの巨体から血が吹き出した。バイオンは笑った。
「魂は体をも滅ぼすのだなあ、テイリン、我が血の下をゾックにくぐらせるが良い」
 言われるままにゾックに達はバイオンの巨体の下を血を浴びながらくぐり抜けた。狼の血を浴びたゾックの爪は赤身を帯びて鋭さを増し、小さな口の中の牙は研ぎ澄まされた。カインザー大陸で、巨龍ドラティの血を浴びた時に驚異的なスピードとジャンプ力を手にいれた小鬼達は、今また鋭い牙と強靱なあご、そしてするどい爪を手に入れたのだ。
 最後にテイリン自信がくぐりぬけた。外見に変化はあらわれなかったが、テイリンは自らの体がさらに強靱になった事に気がついていた。テイリンはゾックに命じてバイオンを雪の中に横たわらせた。そして遠巻きにしていたルフー達をよびよせた。
「そなた達の父が死ぬ」
 ルフーのリーダーらしき狼がすすみでた。そしてテイリンに心で語った。
「我々を解放してくれたのはサルパートの巫女達だ。我々は二度と再びサルパートの者は襲わぬ。しかし我らは狼。生き物をくらわねば生きてはゆけぬ」
 テイリンはうなずいた。
「ソンタールの山にも生き物はいる」
「そうしよう。そなたは我が父を解放してくれた。ソンタールの山の中で困った時には狼を呼ぶが良い」
 そう言い残すと、ルフー達は一匹ずつバイオンに近づいては、その顔をなめて東に去っていった。バイオンは最後に涙をうかべてテイリンにささやいた。
「解放してくれてありがとう」
 こうしてこの星の最初の狼は死んだ。

 智慧の峰の大地の奥深く。光を失った地中の池の縁に魔術師マルヴェスターはぼんやりと座っていた。そこにどこからともなく少年の姿のエイトリ神が現れて、マルヴェスターに近づくと声をかけた。
「どうしたマルヴェスター、けがでもしたか」
 マルヴェスターは指の先で、ピンク色に輝く小さな花の茎をまわしながら答えた。
「ソチャプ。恐るべき花だが、こんなものでも永久に消し去ってしまうのは惜しい」
「そうだな」
 そう言うと、エイトリはマルヴェスターの手の中の花に手をかざした。花はまがまがしい色をうしない、かわいいピンク色の薔薇となった。
「ところでマルヴェスター、ブライスが何か大きな力がシャンダイア、ソンタール戦争に介入していると言っている」
「ええ、あなたではないのですか」
「知ってるだろう、私にその力は無い。一つ質問させて欲しいんだが、君はバルトールの首都ロッグが陥落する時にどこにいた」
 マルヴェスターは座っている自分の視線と同じ位の高さの、エイトリ神の目を見つめた。
「もちろんロッグにいました」
「やはりそうか。バルトールの民は魔術師マルヴェスターが助けに来ないからロッグが落ちたと信じてきた」
「そうです。バルトールの民に説明のしようが無かったのです」
「なにをだね」
 マルヴェスターはポツリと言った。
「バリオラ神の消滅を」
 エイトリが息を飲んだ。
「ガザヴォックは聖宝神の中で一番感情の起伏が激しく、そのぶん隙の多いバリオラ神を狙っていました。そして策略をめぐらしておびき出し、酒を飲ませ、踊らせた」
「それにまんまとかかったのがバリオラらしいな」
「私はある使命でロッグに戻るのが遅れました。私がロッグに着いた時にはすでに大都市は陥落の混乱のただ中だった。私はガザヴォックとバリオラ神が会った場所を探し出しました。しかしすでにガザヴォックはそこにはいなく、バリオラ神も消えていたのです」
 エイトリは池に小石を投げた。チャポンと音をたてて小石が水に消えた所から小さなあぶくと湯気が立ち上った。
「おまえも体をやすめてゆけ、マルヴェスター」
「かたじけない。風呂は苦手だが、ソチャプとの戦いでさすがに節々が痛む」
 そう言うとマルヴェスターは衣を脱いで、沸き上がった温泉につかった。エイトリは池の縁に腰掛けた。
「ベリックの存在はバリオラの力が残っている事を示しているぞ。バリオラはどこかで生きているはずだ」
 マルヴェスターが池の中で、バシャバシャと顔を洗った。
「そうです。私はこのサルパートの戦いが終わった後、ベリックを連れてバリオラ神を探しに、もう一度失われた都ロッグに行こうと思います」
「そうだな。頼む」
 マルヴェスターは顔からお湯をしたたらせながら、彫りの深い顔をエイトリに向けた。
「ところでエイトリ神」
「何だ」
「スハーラを、巻物の守護者をブライスに付き添わせてやっていただけますか。そうしないとあの男の能力が発揮されないようなのです」
 エイトリは寂しそうに笑った。
「仕方あるまい、エルディにもそう言われた。なあマルヴェスター」
「はい」
「シャンダイアの守護者はどの者も良い心を持っているが、欠点も多過ぎないか」
「それは彼らが人間だからです。人間を捨てた黒の魔法使い達とは違います。しかしその不完全な分だけ、聖宝の守護者達は協力しあい、お互いの欠点を埋めあう事を知っているのです」
「なるほど。マルヴェスターよ、彼らをよろしく頼む。私も少しは動き回れそうな範囲が増えた。エルディとクライドンと連絡をとりあう事にしよう」
 エイトリ神はそう言うと、にわかに湧き出た温泉の湯気が洞窟の天井で冷やされて落ちてくるしずくを、楽しそうに顔に受けた。そしてフッとかき消えた。

 洞窟から脱出した後、サルパートの峰を東側に下っていたベリックとエレーデの上に、白い鳥が飛んできた。鳥はくちばしに加えていた小さな花をベリックの手元に落とすと、空中でくるりと一回転して北へ向かって飛び去った。ベリックは鳥が落としていったピンク色の薔薇の花を見つめた。
「どうやらマルヴェスター様は無事だったらしい」
 そう言って、横で驚いているエレーデに薔薇の花を渡した。
「これに君の名前を付けよう。サルパートの戦いが終わったら、庭にさしてみるといい」
 エレーデは嬉しそうに薔薇の花を受け取ったが、すぐにベリックに返した。
「いいえ、王がお育てください。そして私の事を忘れないでいたら、年に一度花を贈ってください」
「ああ、約束しよう」
 ベリックは笑いながらまた一つ約束をした。やがて二人前方のはるか彼方に、フスツとモントが乗った馬が走ってくるのが見えた。

 牙の道の戦いが終わり、セルダン、ブライス、スハーラ達が北の将の要塞に向かって旅を続けている頃。ベリックがフスツとモントと再会し、エレーデと共に北の将の要塞を目指している頃。その北の将の要塞を遠くのぞむ平原に、サルパートのマキア王は二十万の大軍の布陣を終わらせていた。そして凍てつく氷の大要塞の中では、ついに北の将ライバーが出陣の決意を固めたのだった。

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