神の笑える妄想話

doru

第三章 やもり三夜

その一 尻尾のないやもり

以前は毎年夏の夜になると風呂場の窓ガラスに一匹のやもりがやってきていた。 よく見ようと覗きこむと臆病なのか、するするとガラスを這い登って見えないところにいってしまう。 そのため家族は気をつかってやもりがいるときは餌である羽虫が集まるように脱衣場の灯りをつけ、 怯えさせぬよう人の気配を消してそっと見守っていた。


いつだったかなかなか寝つかれず麦茶を飲んだり本を読んだり家の中をうろうろしているとき、 ふと見ると階段の天井にやもりがぴたりとはりついていた。外へ逃がしてやろうとしたらぽとんと落ち、 階段を走りまわり、ようやく尻尾をつかまえたら、ぽろりと取れてしまった。うにゅうにゅと動く尻尾は放っておいて、 やもりの胴体をふにゅと捕まえて玄関を開けて逃がしてやった。

昔、寝室に同居していたやもりに同じことをしたのを思い出した。 逃がしたのはもう秋の終りでがりがりに痩せていたから、そのやもりはたぶん死んだに違いない。

今回はまだ夏の盛りで、よく太っていたからそんなことはないはずだと思う。 それから一週間後、尻尾のないやもりが隣の家の芝生に向かっていくのを見えた。


それ以来我が家にはやもりは現われなくなくなった。たかがやもりなのだが来るべきものが来ないと妙に寂しいものだ。


その二 私は少し悩んでいます

この夏から玄関にはいつも一匹のやもりがいます。

私の家ではうす暗くなる夕方から夜が明ける朝まで毎晩玄関に防犯灯の光をつけています。 防犯灯の光に誘われお馬鹿な羽虫がたくさん集まり、やもりは羽虫を食べているようでした。 そのようすを見て愛らしく思い神経質なやもりが怯えないように家の中からそっと優しく見守っていました。


夏のような暑さはなくなり、少し肌寒くなってもいまだにやもりがいるのです。 やもりがいつもいるのは玄関の格子に挟まって抜け出せなくなっているせいです。 やもりは厳しい寒さをのりきるために冬眠するのは知っています。 そのためやもりは厳しい寒さをのりきるために防犯灯の光に集まるお馬鹿な羽虫を大変な食欲を出して食べ続けています。

やもりは夏にすんなり格子に入れたもののお馬鹿な羽虫をたくさん食べ太ったため抜け出せなくなって困っているかもしれない。 やもりは太り続け、格子から抜け出せなくなり、厳しい寒さのためやがて死ぬことを知らないかもしれない。

お馬鹿な羽虫と同じくやもりもまたお馬鹿でした。

また私は我がままで自分勝手な人間です。 やもりを愛らしく思う反面やもりのために玄関の防犯灯の光を消して格子を外すようなことはしたくありません。

そのやもりのために私は少し悩んでいます。


その三 鏡にうつる

少年はやもりが嫌いだった。

夏の夜になると蛍の群れに混じり、村のどの家にもやもりが羽虫を食べに壁を這いまわっていた。

当然少年の屋敷のやもりも壁に這いまわるだけではなく、屋敷の座敷にまでその姿を現し、這って羽虫を食べにくるのだった。

少年は、外だけではなく内にまで這い回るやもりを見るだけで醜さに鳥肌が立ち、 眼が届く範囲まで探し出し、すべてのやもり殺し続けていた。やもりへの憎悪が深い分だけ、殺し方も徹底していた。 やもりの尾を押さえ、壁に力一杯打ちつける。そうすると、びしっ、びしっ、びしっ、 哀れなやもりが潰される湿った音が少年に聞こえてくる。 それでもまだ死なない弱り果て逃げることもできないやもりの身体をつかみ、壁にごりごりと擦りあわせては、悶え苦しむさまを見ていたのである。

少年が住む屋敷の壁には、いつもやもりの死骸で黒い染みをついていた。 黒い染みを見ながら、薄笑いを浮かべ少年は醜いやもりを殺し続けた自分への一種の勲章のように感じていたのである。


風がまったく吹かない蒸し暑い夜のことである。

少年はいつものようにやもりを殺した後、蚊帳の中で眠っていた。 するとどこからか音が聞こえてくる。少年は、いぶかしげに思って、蚊帳から抜けると、天井に這っていた巨大なやもりを見た。 少年は驚き、その場にあった竹刀で殴り殺そうとした。だがやもりは、身動き一つせず冷淡に眺めているのであった。

「貴様を迎えにきた」やもりの感情を押し殺した低い声を聞くと、 急に少年の力が抜け、持っていた竹刀を床に落とした。恐ろしさのあまり、 やもりから離れようとするのだが、意志とは反対に、やもりに魅入られた羽虫のように身体が動くことができなかった。

「誰が助けてくれ」少年は情けなく悲鳴をあげ、屋敷のものに助けを呼んだ。

「誰も助けにこない」やもりが呟くと、少年の襟首を咥えた。

少年はやもりの喉元で恐怖にかられていた。誰か一人でもいい、物音を聞いて眼を覚まして欲しいと願った。 だが少年の願いとは裏腹に誰も助けに来る気配すら感じなかった。

やもりは羽虫のように暴れる少年を気にすることもなく、屋敷の外までずるずると引き

ずり出した。屋敷の内外から黒く染まった壁から何千匹もの小さなやもりが現れ、少年の周りに音もなく集まってくる。

風のない空の下、やもりの顎が、びしっ、びしっ、びしっと少年を振り回す音だけが聞こえていた。

少年はやもりの喉元で駒のように回る。大きく勢いがついたところで、ぐしゃり、 壁に打ちつけられる。少年の身体の骨がみしみしと音を立てて砕け、皮膚から血が流れて壁に染みをつけた。

「助けてくれ」少年は全身を赤く染め、やもりに許しを請うた。

「俺たちも貴様のように助けてくれるように願ったよ。だが貴様は俺たちがどんな目にあったのか忘れたらしいな」

「俺たちはこんなことをされていたのだ」やもりは、惨めな少年を見て笑った。

「それからあんなこともされた」顔が醜く崩れたやもりが壁の染みを見て、怒ったように笑った。

少年を咥えてやもりは、周りの小さなやもりに肯くと少年の皮膚を壁にごりごりと擦りだした。 少年の髪がごそりと抜け落ちる。皮膚が裂け血が滴り落ち、顔は崩れていく。 壁の中や地の底から、叩きつけられ擦り込まれた。 やもりの嘆きすすり泣く声、少年の皮膚が裂ける音や身体中の骨が砕ける音だけが聞こえてくる。

「苦しいだろう。辛いだろう。俺たちは生きるために羽虫を食べていただけなのに、 貴様はこんなことをしていたのだ」壁の染みや地の底から、やもりの呪いの声が響き渡る。

「悪かった」少年は叫んだ。

「俺たちがどんな思いで死んでいったのかわかったか」やもりが声をあげた。

「許してくれ」少年は叫んだ。

やもりは咥えていた少年を放し無造作に落とした。やもりを形づくっていたものが、ずるずると崩れ何千匹もの小さなやもりに変わっていった。

「貴様はこれから俺たちの分まで生きるのだ」やもりたちが一斉にそう叫ぶと、 惨めに横たわる少年の身体中のありとあらゆる裂け目に入っていった。 少年は少しでも動くとやもりがぐしゃり、ぐしゃりと身体の中で潰れる音が聞こえてきた。

その音を聞きながら、少年は失神した。


少年が目覚めるといつもの見慣れた蚊帳が天井に掛かっていた。悪い夢を見た。少年が

そう思って汗を吹くために額に何気なく手を当てると指の間から大量の髪がへばりついていた。 慌てて蚊帳から出て鏡を見ると巨大なやもりがうつっていた。