神の笑える妄想話

doru

後書き

俺は今積み木のパズルをやっている。いつからやっているのかまったくわからない。 遥か昔からやっているようでもあり、またついさっきやったばかりかもしれない。 幾度も幾度もやり続けて、正解だと思って完成させてもいつもいびつな形になり、 俺が満足できるような完成形になった記憶が一度もない。 あるいは迷宮博物館に獣性を抑えきれず他の人々に危害をかけないために永遠の迷路の中に自ら進んで入り、 生きていたいがいつ殺されるかわからない哀しすぎる運命しか残されていない牛頭人身の化け物のような存在にはなりたくない。そ れに奴みたいに屍となって迷路を出るのを潔く諦めるほど俺は悟りを得ていない。 正解の道と思っても間違い、数え切れないほど正解だと確信をして選んでもいつも不正解の道になっている。 結局俺は牛頭人身の化け物の同様、屍となって、ようやく正解の道が開かれるのかもしれない。 それでもなおそれがわかりつつ永遠の迷宮の中で正解の道を捜し求めているような気がする。

そのうち人間は少しずつ積み木のパズルをやりはじめ、俺のような積み木のパズル中毒になると思う。

積み木のパズル中毒を抜け出すにはいくつか方法がある。魂の完全な崩壊か、それとも薬の助けを借りるか、それとも自決の道を選ぶしかない。

でもそれらは俺は好まない。このまま命が尽きるまで蛇の生殺し状態を保ったまま永遠の積み木のパズルの完成を目指してやりとげようと思っている。

そして俺自身矛盾に満ちた存在だとわかっている。そして人間やこの世界全体の進化の過程がすべて矛盾に満ちたジレンマになっているのではないだろうか。

それはまた神にも同じことが言える。創造と破壊これも矛盾の一つの例だと思っている。

神にとって人間の名前など記号にすぎない。だから俺はあえてこの物語の登場人物に一つとして名前をつけなかった。

もしかしたらこの世界や宇宙全体が一人の神に創造されすべて破壊された虚無の世界なのかもしれない。 一人の神が虚無の世界でかつて自分がやってきたことを繰り返し思い出して笑っているのかもしれない。

虚無の中の絶対の孤独でも、神は決して死ぬことはない。神でさえ孤独の中では哀しすぎる。

そして一人の神の中で俺は死にそして何度も蘇って、繰り返し永遠の螺旋の中で知らず知らずの生きていると信じ込んでいるだけの存在かもしれない。

そして俺はこの物語を自虐気味に『神の笑える妄想話』と名付けることにした。