二百日紅
軽茶一 成助
・しょの13 序1 時駕籠の巻
「でわこの時駕籠に乗って参りましょう 源内どの」
「なに おいらも一緒に行くのかい」
「もちろんです 今はすでに安永八年 このままではあなたはある事件に巻き込まれてしまう この際消えれば良いんです そして」
「ま いっか どうせおいらの寿命だァ これもまた一興」
軽茶一成助の『時駕籠』は一応は完成していた しかしケッテ的な問題があった エレキテルでは力不足とゆうこと もちろんそれは長崎から取り寄せた密林の「電気鰻」でも足らなかった 鰻一匹では約900Vで1Aつまり900ワットしか出せないのだ 何百匹揃えたところで1.21ジゴワットなどは夢の話 そこで軽茶が考えた切り札とは
カビであった
のちに仁が考えた青カビによるペニシリンの合成ではなく これはいわゆる江戸時代版・DSC胞子ドライブ
それよりタイムスーツの方じゃないのとか 細かいツッコミは無しにしましょう^^ なにしろ洒落本 滑稽本なのだから
「でわもう一度 ブラックアラート!」
序2
「着きにけり」
「うー ギボヂワドゥイ」
「ここは計算によれば安永八年からおよそ十年後の天明八年(1788年)のはず なにしろ馬力がないので一度に沢山タイムワープできないんです それでこの時代にそれを補う面白いものがあるとゆうことで」
「おいらはいねぇのか 田沼さまはどうなった 玄白どのは」
「田沼意次は失脚して今は老中松平定信です 杉田玄白は現役ばりばりですね 残念ながらあなたは居ませんが おかげで別人としてこここの時代で生きられますよ」
「それはまたあとで考えよう 気持ちの整理が着かぬ さてここで何をするのか」
「ちょっと銀座あたりへ行きたいのですが 今は何とゆうところかしら 山東京伝とゆう人物を探すのです」
「京伝とな 山東とゆえば伝蔵 いや浮世絵師の北尾政演のことではないか あやつは京橋のあたりに屋敷があった 確か妹が居たはずだ」
「なるほど京橋の伝蔵とゆうことで京伝を名乗っていたのですね 京橋より吉原大門の蔦屋さんの所で会えるかも知れません そっちへ参りましょう」
「蔦屋 をを 重三郎も息災か」
序3
江戸の街をぶらぶら見物しながら二人は日本堤沿いを歩いた
「蔦屋重三郎の親父てのはもともと吉原遊郭の勤め人でね あやつも吉原生まれで 丸山てんだがのちに喜多川の養子になった 蔦屋も喜多川の屋号だがもとは茶屋だぜ 耕書堂は相変わらず流行っているのかねぇ 吉原細見は大当たりしたようだからな」
「ですね 私の時代にも飲み屋街には似たような案内所は必ずあります 蔦屋は案内書の販売から今では大きな版元です もっともそれまでの老舗の版元たちからはその強引なやり方を疎んじられています」
「さもあらん 狂歌師連中とも付き合いが広くての 粋狂な催しが好きだったのさ」
「私の時代でゆうならあなたがコピーライターであるように彼はプロデューサーです もっともやりすぎて次の寛政年間には取り締まりを受けますが」
「さてここが見返り柳よ 登楼の帰りに名残を惜しむ客が振り返ったとゆう場所さ 五十軒道からさぁ大門だ」
・しょの14 破1 蔦屋の巻
「シワスだナイヤ おいら12月になるといつも・・」
「源内どの あなたもしょもないことゆいですね 私と同じ星でないかい お誕生日がわかりませんが おそらく木王星の申でしょう」
二人が吉原大門の前で喋っているところへ ひとりの町人が通りかかった
「をや そこへ行くのは勝三郎ではないか」
「えっ 源内さんでわ あンたは伝馬町の牢屋で てっきり・・」
「しーっ」
「いや ぢつわおいら このお方のおかげで助かったのよ 詳しい話はまた それより」
「はぁ あンたのことだから何があっても不思議やないで」
「成助さん こいつァ おいらとは山師のダチで司馬江漢てンだ 司馬なんてごたいそうな唐人みてぇな名前だが なァに 芝新銭座(今の港区東新橋)に住んでいるってだけよ 浮世絵師としては鈴木春重ともゆう」
「お名前はかねがね 博学はもとより一芸にも秀でたお方ですね」
「あちしは 源内さんのエレキテルにしびれて いや『物類品隲』に感激しちまってね 狩野派から宋紫石の門下に鞍替えして 洋風画なんぞ始めたんですが 今は前野良沢先生門下で大槻玄沢どのと蘭学も勉強しております 安藤峻と申します」
「勝三郎でいいじゃねぇか いまから『なか』を冷やかしついでに蔦屋へ寄ろうと思ってる どうだ 一緒に」
「いまは勝三郎じゃなくて 孫太夫でござんす」
「てこた おまいさん 嵌ったナ」
「源内センセのおかげでありんす ところでさっき北尾政演さんも見かけましたよ 蔦屋さんにいるんじゃないかぇ」
「をを伝蔵が ちょうど良いわ 行こう行こう」
破2
「ああっ 錦絵や 江戸絵やっ」
軽茶は燥いだ
蔦屋耕書堂の店先には 数々の それはもう 豪華絢爛 痛快丸かじりの
XXクラゲ であった
んな あーな^^
源内と勝三郎(司馬江漢・鈴木春重)はさっそく蔦屋重三郎を店内に見つけた
「いつ来ても賑やかですね 蔦屋さん」
「これはお耳障りで申し訳な あっ あなたは源内さまでは」
「蔦屋さん 面倒な話はあとだ 今日はちぃと訳ありで」
「それでございましたら 奥の方へどうぞ」
「蔦屋さん こないだまた西村屋の与八さんがこぼしてましたで」
「春重さん 『大絵錦摺百枚綴』のことでっしゃろ 西村屋さんの『雛形若葉初模様』の向こうを張ってやろうと思ったんですが 以前永寿堂さんのことでおこらえて出禁になっちまったことがあって 意趣返しのつもりが今度も待ったですわ あちしの面目も丸つぶれで」
「でも へこたれてないと」
「ようご存じで 次は西村屋さんとこに画いてる新人を引き抜くんです」
成助が割って入った
「それはたぶん北川豊章さん つまり」
「左様でおます 北川 あらため 喜多川歌麿で売り出します」
破3
「ところで蔦屋さん 歌麿さんは大当たりですよ 錦絵は第一人者の鳥居清長さんの陰で出番がなかったからきっと傑作を物にするでしょう」
「なんとまぁようご存じで このお方は一体どなたですか源内さま」
「このお方は上方から参った えーと かけ出しの絵師でござる そうですな はは」
「へぇ お名前は」
「軽茶一 いや 流光斉如軽 とでも覚えておいてください ぢつわ折り入ってお頼みが その正月に売り出し予定だった『大絵錦摺百枚綴』に画くはずの北尾政演さんのことなんですが」
「京伝さんのことですな さきほどまでここにおいでになってましたが をを 噂をすれば」
そこへまたちょうど 入ってきたのが 北尾政演こと 山東京伝であった
・しょの 幕間
平賀源内や司馬江漢また曲亭(滝沢)馬琴はともかく
蔦屋重三郎や山東京伝については あまり知らないシトもあるだろう
源内がコピーライター 重三郎がプロデューサーなら 京伝はデザイナーの元祖である
資料
蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日(1750年2月13日) - 寛政9年5月6日(1797年5月31日))
>江戸時代の版元(出版人)である 朋誠堂喜三二 山東京伝らの黄表紙・洒落本 喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる 「蔦重」ともいわれる 狂歌名を蔦唐丸(つたのからまる)と号し歌麿とともに吉原連に属した
山東 京傳(さんとう きょうでん、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))
>江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。浮世絵師としては北尾政演と号し、葎斎、北尾葎斎政演、北尾京伝まさのぶ、山東政演とも号して寛政元年(1789年)まで活動した。作画期は安永7年ころから文化12年ころであった。寛政の改革における出版統制により手鎖の処罰を受けた。現在の銀座一丁目に紙製煙草入れ店を開き、自分がデザインした煙草入れが大流行した。
>本名は岩瀬醒(いわせ さむる、初めの名は田臧(のぶよし))。一説に排田または灰田。狂歌名を身軽折輔と号した。幼名は甚太郎。通称は京屋伝蔵または田蔵。字は伯慶。後に酉星(有儕)。戯作号として山東庵、山東窟、山東軒、珊洞散士、鼯鼠翁、臍下逸人、洛橋陳人、甘谷、菊亭、菊軒、菊花亭、醒斎、醒々斎、醒世老人と号す。江戸・深川の出身。後に京橋銀座1丁目(新両替町)、さらに同所東側。この店で京屋といって煙管、紙製煙草入などを商い、その傍ら戯作も著述、後半生はこの方面で活躍した。
※天明8年(1788年)の時点で
田沼意次 70歳 この年死去
平賀源内 存命なら60歳
杉田玄白 55歳
伊能忠敬 43歳
司馬江漢 41歳
蔦屋重三郎 38歳
喜多川歌麿 35歳
大槻玄沢 31歳
松平定信 30歳
葛飾北斎 28歳
山東京伝 27歳
東洲斎写楽 25歳?
十返舎一九 23歳
滝沢馬琴 21歳
黒鳶式部 17歳 この年死去
徳川家斉 15歳
間宮林蔵 13歳
・しょの15 急1 時穴の巻
件の山東京伝である
「これはこれは 京伝さん」
「あれま おっ死んじまったはずの源内さんではないかぇ どうゆうことですか蔦屋さん」
「いや 手前にも とんとわけがわからないのでございまして」
「ま ことの子細はともかく 今日は京伝さんに会わせたいお方がござっての」
源内の紹介で 軽茶は前に進み出た
「私は上方の(本当はずーっと向こう)から参りました 流光斉如軽こと軽茶一成助と申します 本日は京伝さまにゼシお伺いしたいことがありまして」
「ふうん そいつぁ何か訳ありだね んじゃ ちと河岸を変えてお聞きしますか」
「さすが 話が早い 十八大通のわけしりとゆわれただけのお方かと」
「はは 通人なんてもなぁ 過ぎたるは及ばざるが如し なんつって 所詮いい加減なもんでござんすよ」
「いえいえ それを私の所では お洒落 と伝わっております」
「ま いいや 皆でどこへくりだしましょうか」
「深川に『常世』とゆう料亭があるはずですが」
「おう どうしてそこを 成助さんとやら おまいさんも粋なお方だねぇ」
「深川の『常世」だって おいら知らねぇぜ」
「あちしも知らぬ存ぜぬ でありんすゑ」
源内も勝三郎(司馬江漢)も自分の在所でありながらそんなお茶屋は知らないと驚いた
急2
本所深川とゆうのは 現在の門前仲町のあたり 深川区は江東区の北西部である
明暦の大火のあと木場がおかれて商業開港地域となる 吉原とは別に深川岡場所もあり ここ深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれ粋で気っ風の良さが売りであった
曲亭(滝沢)馬琴もこの地で生まれ 源内や芭蕉らも深川が在所なのだ
料亭『常世』はその中で特に目立たない場所に佇んでいた
<かこーん>
鹿威しだけが響く中 奥座敷にはただ沈黙が流れていた
「うーん」
京伝が唸ってしまったのは 成助が 亡くなったばかりとゆう京伝の妹 およねの事を切り出したからであった
「ぢつぁ およねは死んじゃいねぇんでさ」
京伝がぽつりと語り始める
急2の2
京伝が打ち明けた話はこうであった
「まー自慢じゃねぇが うちの家系はみな美形なんだ およねも可愛くておまけに画才文才と達者なもんでお武家さん達には大評判 是非後見人にとゆう話が引きも切らなかったのよ 天明4年の折に上野不忍池畔でちょっと風流な催しがあって そのときに『たなぐひあはせ』って手拭いの図案集を出したんだが 其れを仕切ったのが黒鳶式部ことおよねでござんす この会の後押しをしてくだすったのが江戸大通の 雪川公 とゆう出雲松江の松平出羽守さまのご実弟でね このお侍がまたなんとも色男でさ およねはすこぶるまいっちまったとゆうわけ そんで ご多分にもれず色々あって 柳橋の料亭に万八楼てのがあるんだが 或る日そこへたぶん其奴に呼び出されたおよねが帰ってこなかった つまり簡単にゆうと神隠しにあったとしか言いようがねぇ話なわけだが」
「で どうなさったのか」
「もちろん 探し回ったんだがね どこもかしこも梨の礫って奴で だからわっちはその料亭に乗り込んで見聞させてくれと頼んだんだ そしたらなんと」
急3
このくだりは長いので端折る^ ^
「北尾政演は素晴らしい画家だよ。山東京伝は文豪だ。それに岩瀬伝蔵は江戸ッ子の見本だ。」
京伝にはまたあとで登場してもらうとして
かいつまんでゆうと妹のおよねが神隠しに会ったとゆうのは
時空の裂け目 つまり時穴に落ちて行方不明になったとゆうことだったのである
軽茶はそれをまた利用して次のタイムジャンプをやろうとしたのだ
目的地はここではなかった
・しょの16 常世の巻
さて料亭「常世」での京伝・源内・江漢そして軽茶の四密の夜はまだ続く
ここで司馬江漢についても少し補足する
司馬 江漢(しば こうかん、延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日))
>浮世絵・大和絵・南画(中国の絵画)を極めたのみならず、18世紀の時点で遠近法や油絵を習得した上に、銅版画や油絵の技法を日本で初めて確立した天才画家。
>「地動説」を我が国で初めて人々に啓蒙し、望遠鏡や顕微鏡を自作した科学者としての一面を持つ。
源内と並んでもうシトリ江戸のダビンチともゆわれる奇人変人 そして先祖は紀州人であるとゆう司馬江漢は 唐風の雅号「司馬」の由来が 住んでいたのが「芝」新銭座(現在の港区東新橋二丁目)だからとゆう生半可な人物で また浮世絵師・鈴木春重として19歳から師事した鈴木春信は 源内が当初住んでいた神田白壁町(現在の神田鍛冶町三丁目)の長屋の家主であった 源内の次にこの長屋に越してきたのが 江漢が25歳から唐画を師事した宗紫石とゆう画家で さらにその隣に住んでいたのが杉田玄白なのである とにかく江戸は広いが世間は狭いのだ
かくて彼等奇人変人通人がニヤミスしながらお友達になってゆくのは至極当然のことである
・
「京伝さん あンたおよねさんがどこへ行ったのか知ってなさるね」
とゆう江漢の言葉はどうやら的をついていた さすがに長崎で地動説を学んできただけのことはある 神隠しなどとは非科学的なとゆうことだ
「まーはっきりとはわかんねぇんだが その時穴はどうやらどこかの外つ国と繋がっているようなんだ 一度だけおよねがまた帰りかけたことがあって そん時いくつかの本を投げ寄越してまた行っちまった なんのことやらさっぱりわからん蘭学書みてぇなもんだったんだが 画いてある挿絵だけはわかった それでまー色んな図案の参考にはなったってことよ」
「京伝さんがデザイナーたる所以ですね その時穴は たぶん私の時代に続いているのですよ」
軽茶は京伝に酒をつぎながらにやりと笑った もちろんおよねの行き先は知っているからこそここに来たのだが 今はそれ以上説明してもわかるまい
「ほう じゃ 成助さんもその時穴をくぐって来たってわけかい」
「いいえ 私がどうやってここへやってきたかはわかりません その時穴はまだ開いていますか どこにあるんでしょうか」
「ぢつわ この料亭『常世』は世間から其れを隠すためにわっちが作ったようなもんさ ひょっとして色んな異人がそこからまたやってきたら まずは接待しないといけねえだろ」
それが江戸っ子の通人の心意気だとでもゆうのだろうか 京伝はひとりでなにやら悦に入っていた
「でわ 私はそこを通ってまた出かけます 源内さんはどうしますか」
「ああ いま考えたんだが 成助さんが時穴を使うなら 時駕籠の方は要らないんだろ おいらはも一度もとの時代に戻ろうと思うんだ 菊乃丞とのこと始末付けないとな ここへ来る道すがらおいらのお墓を見して貰ったとき 彫ってあった玄白さまの碑文を読んでそう決めた」
「わかりました それが良いと思います でわそろそろおいとまを」
「ところでここの勘定はどうするんだぃ」
「はは ここはまだ正式にやってるわけでもねぇんで要りませんよ ぢつわ吉原でわっちが昵懇の菊川って花魁を今度身請けしたら ここをまかそうと思ってンで」
「夫婦になってね^^ ならここはご祝儀でワリカンにしましょう」
「なんでぇ そのワリカンてのは」
「皆で均等に勘定を分けるんです」
「そいつぁ 新しい いや 納得い って奴ですかね」
のちに 京伝勘定 と呼ばれるようになった割り勘の始まりである
・しょの17 九来印の壺の巻
前項で およねがどうなったかについては今回の話とはさほど関係はなく 時穴の存在だけが問題なのであった
そしてまたこの時代にそんな荒唐無稽な話をすんなり受け入れられるような 平賀源内・司馬江漢・山東京伝の三人が 如何に時代の先駆者であったかとゆうことだ
※筆者注 軽茶式ポストモダンシュニッツラー会話形式話者表記
おいら 平賀源内
あちき 司馬江漢
わっち 山東京伝
手前 蔦屋重三郎
拙者 杉田玄白 他
私 成助
ト書き 軽茶
となっています
とにかくこの料亭「常世」での一席により彼等の絆はまた深まったのである
この影響は 大槻玄沢とは仲違いするが伊能忠敬や橋本宗助や緒方春朔(済庵※緒方洪庵ではない)らに受け継がれていく
「成助さん これが時穴です」
京伝は床の間に飾ってあった掛け軸を捲った その後ろにそれはあった
「かすれていて気がつきませんでしたがこの掛け軸の絵はどうやら私の作です しかもこんなところに時穴もあったとは」
「おお これは成助さんのお作でござんしたか ぢつわおよねが時穴から持って帰ったもののシトツなんです それをわっちが表具いたしやした」
「巡り合わせとゆうか でも闇雲に飛び込んでも仕方ないですね どこに出るかわからない 私になにか使える小ネタで補遺はないだろうか」
「あちきが長崎に行ったときに仕入れた 杖先羅針はどうです 役に立ちませんか」
「だめですね 地面の方角じゃないんです」
「地転の説(天動説)は勉強しましたけどね 時はまた違うんで」
「その床の間に飾ってあるのは何ですか 京伝さん」
「これは源内さんが居なくなって 長屋に残っていたエレキテルの部品らしいのをわっちが勝手に形見に貰ったんですよ」
「あらま おいらそいつの使い道はとうとうわからなかったんだ」
「あっ あちきも狙っていたんだ 雷電瓶ってビードロの壺でしょ でもちょっと形が違うような」
「そうなんです およねがどうも時穴でこれに何か細工しちまったみたいで」
軽茶は答えた
「これはもともとは蓄電器のようなものですが ぢつわ九来印の壺です およねさんの形見でもあるのですね これを使わせて貰うわけにはいきませんか」
「どうぞ お役に立てるなら 源内さんも良ござんすね」
「もちのろんよ」
「あちきには何か他に」
「ええ あともう2つ要りますね それは 迷尾臼正邪鏡と神剣尾利春昆とゆうものなのですが」
「何とか探してみましょう」
「わっちも」
「おいらも」
-ちょっと端折る
迷尾臼正邪鏡は
江漢が西遊の途中 伊勢の外宮で知り合った月仙とゆう画僧が知っていたので 京伝のツテで取り寄せて貰うことになった
神剣尾利春昆は
熱田神宮にあるらしいとゆうことで 蟄居している田沼意次を源内が久しぶりに訪れ尾州公に取りなして貰うことになった
便宜上 テキトーな話ではある^^
とゆうことで 三種の神器が揃った(早っ
「源内さん 江漢さん そして京伝さん お世話になりました これで私も元の時代に戻れます」
「おいらは なんだか寂しいね まー自分も戻るんだが」
「あちきは もっと勉学に励み 宇宙と時間の秘密をば」
「わっちは お洒落に生きるぜ 割り勘てのはともかく」
軽茶は床の間に九来印の壺と迷尾臼正邪鏡と神剣尾利春昆の三つを並べ九字を切る
「ひらんやぱみや どんがささくや べんとらーぁ」
ほんとはばかじゃないのとあっけにとられる三人を後に
阿口米兎した時穴に飛び込んだ
以下次回