お栄の光と影 (二百日紅・補講)
軽茶一 成助
映画 HOKUSAI もやっと公開されましたので 前々月の拙稿「二百日紅」の続編とゆうよりサブテキストです タイムラインをもう一度整理します
- 令和二年末 軽茶は市民図書館TUTAYAで失踪する
- 安永五年(1776年) の蔦屋にタイムスリップして平賀源内に出会う 源内や杉田玄白の研究を手伝いながらエレキテルを修理する
- 安永八年(1779年) 源内が捕縛される前に 田沼意次に貰った大名駕籠を電気鰻とカビで改造した時駕籠「出露狸庵」に乗り 胞子ドライブで脱出
- 天明八年(1788年) 蔦屋重三郎 山東京伝 司馬江漢らと出会う 料亭「常世」の掛け軸の裏にある時穴から 三種の神器を利用して さらにタイムジャンプ 源内は時駕籠で元の時代に戻る
- 寛政六年(1794年) 鉄蔵(葛飾北斎)と娘のお栄(6歳?)に出会う ここで自分がなぜこの時代へ来たかを知る 再び京伝に会い後始末を托して「常世」地下の氷室から現代に帰還する はずであったのだが?
もう少し詳しく書いてみると
お栄はそもそも生没年不詳である 一応は北斎が40歳の時(1800年)の生まれとされているが その後の来歴も資料によって違いがある ぼくが「二百日紅」で写楽の活動期(1794年)に6歳としたのはどの資料からによるものかは忘れたが 軽茶一が茶樂として北斎親子に遭遇するにはそうするしかなかったのかも知れない 史実ではこうなる
寛延 1748-1751 蔦屋重三郎(1750)誕生
宝暦 1751-1764 歌麿(1753)北斎(1760)京伝(1761)誕生
明和 1764-1772 馬琴(1767)誕生
安永 1772-1781 【軽茶タイムスリップ(1776)】※平賀源内に出会う
天明 1781-1789 【軽茶タイムジャンプ(1779->1788)】※山東京伝に出会う
寛政 1789-1801 渓斎英泉善二郎誕生(1791)
【軽茶タイムジャンプ(1788-1794)】
※鉄蔵とお栄に出会う
勝川春朗(北斎)破門される※34歳
このときお栄6歳??
北斎宗理を名乗る※35歳
●写楽作品群(1794-1795)
【軽茶タイムジャンプ(1794->?)】※閏月
蔦屋重三郎(1797)死去
お栄誕生(1800?)※北斎40歳
享和 1801-1804 映画「眩」の舞台は1802年~※この時お栄はまだ幼女 本編は1824
文化 1804-1818 葛飾北斎を名乗る(1805)
北斎漫画初版(1814)
「百日紅」の舞台(1814~)※お栄20代?
お栄初作『狂歌国尽』の挿絵
『月下砧打美人図』
善二郎が北斎工房に出入りする※英泉20代
※惑星直列(1817.6.5)
文政 1818-1831 お栄出戻る(1824?)
北斎脳卒中で倒れる?※北斎67,8歳頃とも?
柚療法で北斎回復
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母小兎(北斎の二度目の妻)死去
善二郎がベロ藍をお栄に見せる※二人は愛人に
シーボルト事件(1828)
巳丑の大火(1829)善二郎家を焼け出され行方不明
富嶽三十六景製作開始(1823-)※北斎63歳※お栄?
天保 1831-1845 富嶽三十六景(1831-1834)刊行
※これ以外の仕事はお栄が引き受けていたとゆう
『菊に虻図』『牡丹に蝶図』など
善二郎が北斎工房に舞い戻る(1832?)
『春夜(夜桜)美人図』
柳亭種彦死去(1842)
弘化 1845-1848
嘉永 1848-1855 渓斎英泉善二郎(1848)死去
『三曲合奏図』
『竹林の富士図』
『唐獅子図』※北斎と共作
『関羽割臂図』
『富士越龍図』※北斎遺作(応為と共作?)
馬琴(1848)死去
<
北斎(1849)死去
『吉原格子先図』(18??)
安政 1855-1860 葛飾応為(お栄)死去? または慶応年間まで生存?
万延 1860-1861
文久 1861-1864
元治 1864-1865
慶応 1865-1868
大略 軽茶が江戸にタイムスリップし北斎とお栄に出会ったのは 茶樂として足跡を残すためであったとはゆえ 惑星直列をねじ曲げてお栄の人生をも改竄した可能性がある
例えば 軽茶の最後のタイムジャンプ(1794)から現代に戻らず 本来の惑星直列があった1817年(!)に落ちたとゆうのはどうだろう そこで何をしたか
軽茶は式亭三馬を名乗り お栄17歳の処女を奪った とゆうのはどうか^^
式亭三馬の戯号には「酒落斎」がある なに? あ北斎てか?
ここで話は変わるが 千と千尋の「油屋」が銭湯なのか遊郭なのかとゆう問題について考察する 作者は「現代の社会を風刺的に描くため、あえて風俗店のような油屋を舞台にした」とコメントしている また「八百万の神様たちが疲れを癒しに来るお湯屋なんだよ」と 経営する湯婆婆にゆわせている
特に名を秘すが宮崎駿とゆうシトは かつて手塚先生(マニアの常として呼びつけでも良いが)が昭和の終わりにお亡くなりになったとき (COMIC BOX 89年5月号誌上で)みんなが手塚先生の追悼を書いている中でひとりだけたらたら嫌味を書いている この件については知っているシトは知っているので省略する
手塚治虫大先生の「火の鳥・異形篇」の八百比丘尼の寺が中継ステーションとして異形の宇宙人達を治療する話を意識していないだろうか いやそれはない^^ しかし「比丘尼」とは江戸時代の私娼のヒトツの分野でもあった 他には「湯女」「蹴転(けころ)」「提げ重」「船饅頭」「夜鷹」「飯盛女」などがある
江戸時代に銭湯は沢山あったが 市内に集中していたので郊外の人のために 屋形船でお風呂そのものをデリバリしていた そこから湯船とゆうゆい方が残った
えーと だからデリバリは
当時吉原(公認)と岡場所(非公認)は対立していた 幕府の時短政策により打撃を受けた吉原は抱えの遊女を湯女風呂にデリバリするとゆう荒技に出た しかしそれは発覚して業者名は公表され 過料が科されることに閣議決定した さらに豊洲移転を命じられ 受け入れる代わりに五輪は強行されることになる かくしてコロリは蔓延したのである
仏教伝来から沐浴の功徳と汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事で「温室教」の経文もある そうして施浴が広まり平安時代末に「湯屋」が登場する 江戸時代 伊勢の余市とゆうシトが銭瓶橋(現在の常盤橋付近にあった橋)のほとりに銭湯風呂を建てたとゆう記録があり 以後 銭湯が広まる 江戸時代は火災が多かったので家風呂は禁止されていたのである 銭湯は当初 腰湯程度のものでゆわば蒸し風呂 首までつかる据え風呂ができたのは慶長年間の末のこと 江戸の銭湯は入り込み湯とゆう男女混浴だった 江戸庶民の社交場 湯女風呂と二階風呂である 銭湯で湯茶の婦女寄り添うササビスもするようになった 当然湯女の活躍はいかがわしくなって何度も取り締まり対象となる 天保の改革以降は男女間の仕切りが出来 男湯だけ女湯だけとゆうものもできたのだ
浮世風呂として土耳古風呂を覚えているシトは少ない
ソープオペラとしての正式名称は純正熱気浴場である
乙女の素股しばしとどめむの正式名称は股間淫である
湯屋ん湯四湯屋湯四おあやや親八百屋のややこである
で 何をゆいたいのかとゆうと
「浮世風呂」は映画「北斎漫画」にも出ていた式亭三馬の書いた滑稽本である 当時の庶民の生活が銭湯を舞台に描かれている
※式亭三馬 安永5年(1776年)- 文政5年閏1月6日(1822年日) 四季山人・本町庵・遊戯堂・洒落斎などの戯号を持つ浮世絵師
ちょっと先へ進んで嘉永二年(1849)へ行ってみよう
この年 北斎(1760-1849)は卒寿を迎えて死ぬ(享年89歳)
翁死に臨み 大息し天我をして十年の命を長ふせしめバといひ 暫くして更に謂て曰く 天我をして五年の命を保たしめバ 真正の画工となるを得べしと 言吃りて死す
辞世の句は
悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原
父北斎の死後お栄は何を考えどう生きたかは 知るよしもない 仏門に帰依したともゆう
このとき お栄「葛飾応為」は何歳だったのか?
お栄の生没年は不詳 寛政13年(1801年)頃~慶応4年(1868年)頃とゆう説もあるが ぼくの二百日紅の設定では都合上もう10年ほど前に生まれたことにしていた
お栄は鉄蔵に先立たれた後
富士の赤巻紙上図にジョーズの屏風を画け立てかけた途端生ゴマ生ゴミ生ゴム生爪生もげた
でわなくて また違う話だが
春歌とゆうとすぐに出てくる定番は何だろう
たんたんたぬきの○○○ 地方によって歌詞は違う ※金時計とか
数え歌なら ヨサホイ節 ※ひとつでたほいの
青い山脈の替え歌 ※早くしないと○○が来る
ブンガチャ節 ※やまのアケビはナニ見て開く
ずいずいずっころばし ※茶壺はアソコのこと
最近では 金太の大冒険や 極めつけお万の方
江戸時代に春歌はあったかとゆうと これが検索ではあまり出てこない 春歌のwikiはあるが 青春歌謡とか 新春歌会などがヒットしてしまう なぜかとゆうと名前が違うのである 猥歌 艶歌 情歌でもなく 破礼(バレ)歌 が該当する 川柳からの流れで「高番」(古事 時代事)「中番」(生活句)「末番」(恋句 世話事 売色 下女)の3分野にわかれ 性的内容の内容の笑句・艶句は「破礼句(バレ句)」とも呼ばれた(バレは卑猥・下品の意) 「俳風狂句」と銘した文化文政期になると江戸町人文化を背景に一段と盛んになり 北斎らも参加する
明和・安永・天明時代は川柳・咄本・草子類など多くの軟文芸に艶笑ものが多くなった頃である 例えば大田南畝などが有名 既出の平賀源内(風来山人)の『長枕褥合戦』には「デタノシヨカノシ」とゆう囃子詞の戯作もある その他『弦曲粋弁当』『玄女節』『潮来節』『浮れ草』『小歌志彙集』など
百日紅の舞台となった 文化・文政・天保期にも沢山の破礼歌がある お栄が春歌を歌ったかどうかはわからないが 子供の頃から親父殿の鉄蔵に春画を描かされていたくらいなので 鼻歌交じりのご愛敬があったかも知れない
お栄の春はいつだったかとゆうと やはり式亭三馬が初体験らしい 鉄蔵が脳溢血で倒れたとき夫の世話に勤しんだ母から疎まれて お栄は三代目堤等琳の門人・南沢等明に嫁した しかし針仕事などを殆どせず 父譲りの画才と性格から等明の描いた絵の稚拙さを笑ったため 結局離縁されてしまう (天保の初め頃)出戻ったお栄は親父どののアシスタントとして独身のままその生涯を共にすることになる 関西への取材旅行も共にした 鉄蔵がシーボルトの仕事をしたときはその交渉役を務め 日本にはまだ少なかったベロ藍などの画材を貰った 一説ではシーボルトとの関係も有ったのではないかともゆわれる
一方 お栄は数少ない理解者であった善二郎(渓斎英泉)と出来てしまった しかし武士出身の善二郎には花魁あがりの妻がいた お栄と善二郎の逢い引きシーンでは「・・飛んでゆきたや ぬしのそば」と歌う これは「深川節」とゆう端唄である 破礼歌ではない
「善さんの優しさは毒だった わたしは毒を喰らう」
北斎の妻(二度目の妻でありお栄の母・小兎)は先に亡くなるが 北斎は中気から復帰して意欲的に創作を続けた しかし今度は善二郎が火事に巻き込まれ行方不明になってしまう 彼は数年後ふらりとお栄の前に現れるが もう絵は画かず かの花魁と所帯を持って一緒に女郎屋をやっていると告げる そして嘉永元年(1848年)の夏 善二郎は病で死んだ 心乱れるお栄は仕事に打ち込むしかなかった
さらに同年秋 北斎の喧嘩友達であった馬琴が死ぬ
その翌年の嘉永二年「富士越龍図」の遺作を残し 北斎も卒寿を迎える前にその生涯を終える 天に昇る龍はまさに北斎そのものであった お栄はそれを見て
お栄は父を とゆうより 父の絵を大事にした
応為の落款のある作品は十数点と少ないが 北斎の絵は応為との共作が多いとゆわれる 特に80代以降の絵は彩色が若々しく精密に過ぎるので応為の代筆もあるだろう 富士越龍図は北斎が死ぬ4ヶ月前の正月に画かれた その翌月から病に倒れるので作画のほとんどはお栄である可能性がある 特に北斎の春画「絵本ついの雛形」は応為の作である 「つい」とは「つひ」「つび」つまりアソコのこと
北斎の死後 葛飾王為ことお栄は父の工房を継がなかった 弟子達が反対したからである 理由は女であること 会議が長引くからではない そこでお栄は父の印章を彼等には譲らず工房を閉めようとする そして仲の良かった弟・崎十郎の所に転がり込んで(新)吉原を冷やかしに周りながら「吉原格子先図」などを画く しかし弟の嫁と反りが合わず 北斎が晩年招かれた小布施へ行って画塾を開いたとゆわれる 仏門に帰依したとゆうのは定かではない 何を考えて晩年を過ごしたのか
「おやじどのは わたしにとっちゃ 光だよ」
そして 光と陰
「西洋にも春歌はあるのですか」
「そらあんのちゃう? 名前がワカラン たぶん春じゃないな blue comedy なんてのがあるが bawdy song, lewd -, obscene -, barnyard とか ラブレーのパンダグリュエルやモンティパイソンにもあったような気がする ビートルズやストーンズもえっちな曲はある ただしそれだけでは日本の春歌とはちょっと情緒が違う 露骨なものはそれはそれでご一興ではあるが 乙粋じゃないね 官能的とゆうことになると もうね あたしゃ下ネタとゆうものは長年やってますから ま 飽きもせずにですけども これでもTPOは難しいのよ もちろん初対面で丁髷する事はあります ソコは相手による つまり常日頃から形而下の助平を形而上学的にアウフヘーベンしているわけですから 脱げんぱつ もとい 脱げぱんつ ではないとゆうことです 呑んだからやっている芸ではないちゅんよ ジェンダーから見ても 助平の好きな男より助平の上手い男の方がもてるのだ そんなことないわとゆうシトはご自分の賞味期限の方が切れています 歴史的に見ても 母権社会と男権社会の成り立ちは交互に訪れている バハオーフェンがゆうように グレイトマザーがあってヘテリズムからデメーテル社会がディオニソス信仰を経てアポロン社会へとゆうこと しかし例えば鎌倉時代は武士の世であってもこれが意外と奥様の意見が重要視されていた 北条政子を見なさい 麒麟の総集編できちょPのナレーションも聞いてみよう そして江戸時代はとゆうと総じて男性社会であったのでお栄と鉄蔵の関係はなかなか奥深いものがある 当時女流浮世絵師が仕事できる工房とゆうものはなかったのだ お栄の悩みはソコにあった」
なんである 藍である
歴史は古く6世紀ごろに中国から伝わる 染色以外に薬用もある 栄一の実家も藍玉を作っていたね ベロ藍とはベルリンブルー(プルシアンブルー) お栄がシーボルトに貰う前に善二郎が既に用いておりお栄に見せびらかしている 色作りはお栄の仕事であったが いつも善二郎に揶揄われた
「おめえの絵には色気がねぇからな」
文政12年(1829)北斎の『富嶽三十六景』が出版され江戸の大評判となった 北斎とお栄は浦賀に住んでいた四男・崎十郎の所でこれらを画いた お栄は先に江戸に戻る 崎十郎の几帳面な妻弥生と合わなかったからだ 『富嶽三十六景』は好評を博し さらに十枚が追加され実際には46枚あった 広重がこれに触発されて『東海道五十三次之内』を画くのは四年後である
ちなみに北斎には孫(長女・美与と門人・重信の息子)がいる これがまた放蕩で借金しまくり迷惑かけまくりで 彼から逃げるために浦賀に引っ越したともゆわれている 北斎は自分の孫を「悪魔」と呼んだ
浦賀から先に帰ってきたお栄に「これからは自分の絵を画くとゆうていたがどうなった」と善二郎は聞いた お栄はその時ちょうど画いていた1枚の下絵の縮図を見せる 女が灯籠の明かりを頼りに恋文を読もうとしている絵だった 善二郎は「恋文とは俗っぽいのではないか 歌でも詠めば」と評した そこでお栄は恋文を読んでいるところではなく書いている所にして 灯籠の人工的な光に自然の星明かりを付け加えた モデルは元禄時代に活躍した女流歌人・秋色女 「井戸端の 桜あぶなし 酒の酔」
完成したその絵は全体が夜景で星が瞬いているとゆう珍しい浮世絵となった 『夜桜美人図』である この絵は落款が無い 北斎の下絵に応為が色づけしたのかも知れない 女流画家はあまり認められていなかったこともあろう また落款が無かったり画号がころころ変わるのは幕府の統制を逃れる術であったともゆえる 実際に北斎親子はシーボルト事件などに巻き込まれたりしている それは禁制テーマもそうだが極彩色もまかりならんような時代であったとゆうことだ お栄が工夫したのは裏彩色である 裏彩色とは近年伊藤若冲が用いたように 絵絹の裏側からも彩色することで色をぼかし柔らかな感じを出す効果 これも中国からの技術で 原則は共通しているものの 我が国では表からの賦彩も厚く裏彩色の効果が見え難い作品も往々見受けられた とにかく めんどくさいのである
めんどくさいとはゆえ この光と陰への執着はさらに深まってゆく
looks laughable and unphotographable (My funny valentine)
「こないだの美人図は評判が良かったらしいじゃねぇか」
早速やってきた善二郎とお栄の二人は気晴らしに吉原に出かけた なじみの妓楼に入ったところで善二郎は趣向を見せる 「紹介するわ おれの妹たちよ」 入ってきた若い遊女は一人は琴を 一人は三味線を 一人は胡弓を持っていて 三人の合奏が始まった 不思議な音色にお栄はその夜したたかに酔ってしまう
翌日(映画ではもっと後年の善二郎の死後) お栄はそれを思い出すように絵を描き始めた しかしどうもしっくりこない そこでまず 琴を弾く女を後ろ向きにしてみた 顔は見えない うん もっとありえない組み合わせにしよう そこで三人の遊女を 花魁と芸者と町娘に変更してみた 『三曲合奏図』である
しかしこれは売れなかった 落款は「応為栄女画」 応為が北斎の娘であることを知るものしか買わなかったのだろう
「お栄じゃなくて応為さん やっと自分の名前で勝負したな 次はどんな絵だ」
「あのね善さん そげに次から次へと根多が出てくるわけはないちゅんよ おやじどのや茶樂のおいちゃんじゃあるまいし」
茶樂?
お栄の女性深層心理はどこにあったか
お栄こと 葛飾応為の他に女流浮世絵師とゆうのは少ない 他流では 山崎龍女 歌川芳玉くらいで 北斎門下人には 葛飾北明(井上政女)がいる 北斎は仕事一筋のシトであり(取材として)吉原に通っているが 朴念仁ではなく贔屓の遊女はあった 志乃など 杉浦漫画ではお政は北斎のイロである お栄は北斎に最も可愛がられていた 幼い頃から吉原にまで連れ歩いている 姉二人は異母姉である 他にはお栄の周りに特筆すべき女性はいない そのためかお栄は小さい頃から北斎が裸婦を描くときのモデルとして素裸にひんむかれていた
北斎にも美人画はあるがお栄の方が上手かったとゆわれる
お栄にとって男は父以外にイメージがなかったのだろうか
お栄にとって女は母以外にイメージがなかったのだろうか
しかしお栄は残念ながら自分自身は不器量だったのである
反対咬合かどうかわからないがえら張ってあごが出ていた
とゆうことで男まさりの女北斎ともゆわれたお栄に言い寄る男はなかった ところがここに お栄を6歳くらい!から知っているとゆうシトリの粋狂な浮世絵師が見初めたのだ お栄にとってはうれしいことだった
そこでまた式亭三馬である
これを軽茶一が演じたとゆうのは如何なものか
さて真相 いや深層にせまる前に カナダの女性作家キャサリンゴヴィエの『北斎と応為』(訳:モーゲンスタン陽子)では どちらもこれまた女性でありながら お栄の初体験・式亭三馬と また愛人・渓斎英泉とのセクスシーンがしっかりと描かれている この小説で知ったもう一つの拾いものは 英泉と応為の共作春画があるとゆうことである
『つひの雛形』は北斎との共作ではなく 英泉(善二郎)との共作だった そのとき北斎は浦賀にいたのだ 注文主は物語も付けてくれとのことで 表紙には 陰陽和合玉門榮 紫色雁高作・女性陰水書などと書かれた 紫色雁高は北斎の画号のひとつだったが英泉が譲り受けていたのである
他にも『喜能会之故真通』 タコのアレである 真偽はわからないが これが英泉と応為の共作だったとすれば驚きだ タコは北斎とゆう説もある この絵に影響を受けてしまったのがピカソとロダン
前出の北斎の辞世の句はこうである
「人魂で 行く気散じや 夏野原
これには 続きがあったとゆう
して黒船の 日本来航」
北斎は晩年浦賀にいた 彼は開国を望んでいたが それは見られないだろうと思っていた 自分の寿命を感じていたからだ たしかにペリーの来航は北斎の死後4年ほどであるけれど それを予告する句が書けるのか
日蓮宗を信心していた この世の全ての事象にはいろいろな面があるとは仏の教えである 目に確かに見える物も実は流転しており幻であるかも知れない 波は海底深くからわき上がる力のようなものと風によって動かされていた それが泡となり霧となる 今度は形あるものが動いた
黒船来航(1853) さらに安政地震(1855) そして江戸は変わった おやじどのは光だとゆうお栄は自分は陰だと思ったのだろうか 英泉善二郎は(自分にとって)お栄が光だと告げた この世は光と陰で出来ている 陰が万事を形付け 光がそれを浮かび上がらせる そう思いながら『吉原格子先図』を描いていた
『三曲合奏図』についてお栄はこう解説する
真ん中は若い遊女だ きっとまだ閨のことは好きじゃない いつか自分も花魁のようになれるか不安でたまらない でも琴は好きだ お客が喜んでくれる
右手には仇な女芸者 歳は二十五か六 心底惚れた男がこれまでに一人いる けれどその恋は叶わなかった 今は親子ほど年の離れた旦那がいる 物足りなくはあるけれど自分には三味線の腕がある
左で胡弓を弾く娘は町娘だ 商家の一人娘でいずれ遠縁から婿を迎えることが幼い頃から決まっている 許嫁は洒落を気取って芝居を見に行く 菊細工見物はどうだと誘ってきて煩わしい 本当は若い手代の一人が気になる ふとした拍子に目が合えば胸がどきついて
でわなぜ真ん中の遊女を向こう向きにしたのか
構図として立体感が出る そらそうやけど
心理的なものはあったか とゆうと
お栄はずっと鉄蔵とゆう父権的意識の中で育ってきた 男は意識であり女は無意識である
原初に自我と無意識がまだ分かれていない時から 女性的な発達は母性的なものになるはずだった 男児はその発達を決定づける時点から母親を自分と「異なる汝」他者として経験するのに対して 女児は「自分のものである汝」非他者として経験すると仮定する 乳児が性差を意識することはないが 子供の母親帰属はおよそ関係とゆうものの原像であり この意味で関係の始まりは母親に由来している すなわち人間関係の根源には母の元型なお人現真理の内に生きている母性的なものの心的原像が焼き付けられている
(Eノイマン)
北斎の遺作『富士昇竜図』は応為の合作によるともゆわれている
式亭三馬(軽茶?)はどうなったのか?
ぢつわまだ時空を彷徨っているのです
参考文献等
百日紅 杉浦日向子
鼻紙写楽 一ノ関圭
大奥 よしながふみ
神州白魔伝 荒巻義雄
およね平吉時穴の道行 半村良
司馬江漢 池内了
山東京傳 山本陽史
江戸戯作草子 棚橋正博
ニッポンの浮世絵 太田記念美術館
北斎漫画 葛飾北斎
北斎と応為 キャサリンゴヴィエ
NHKドラマ 眩(くらら)-北斎の娘
映画(5/28公開) HOKUSAI