進化の果実

doru

第一夜 「クラゲの話」

「生命発生率80%さらに上昇中」


下から次々と拾い集められていく情報が、モニターを通してわたしに直接伝えられていく。

発生率80%、これは予想よりやや早い気もするが、早すぎることもない。まあまあの数字だろう。

念のため、生命反応率のデータも見る。こちらはグラフが一度として上がることもなければ、下がることもない。延々と同じ数値0の行進が続いている。

こちらは予定どおり、いや、そうでなければ困る。 もしこの数値0が数値1になってしまったのなら、わたしの今までの努力、今までの苦労が泡となって、 文字どおり泡となってしまい、頭を抱えのたうちまわってしまうだろう。

言っておくが、わたしは好き好んでこんなちっぽけな惑星のデータを計っている趣味人ではない。 むしろこんなことはややこしくて、できれば避けて通りたいものだった。

では、好きでもないのにどうしてこんなことをしているのかと思うだろう。 どこかのお偉い学者さんで、発生データを模擬実験でもしているのかと。そうではない。

そうじゃない。模擬実験であればどんなに気が楽だろうかと下の情報を回収するたびにそう願ったこともある。

趣味人でもない。模擬実験をしているのではない。 こんな禄でもないことをしているのは、今のわたしの状況では、これより他に方法が残されていないからやっているのだ。

ここでこうしているのは、ほんの些細なことが、わたし自身を追い込んでしまった。ボルトが一本。最初はたった一本のボルトが原因だった。

そのボルトはわたしにとって、どこにでもありそうな品で、 店に行って買おうとすれば比較的簡単に取り寄せられる小さなボルトに過ぎなかったが、 わたしの船にとってはそんなボルトでも重要な部品だったらしい。

船の重力を制御するボルトが抜けたのならまだ許せよう。わたしは船の中で少し歩くのに手間取り、少し不格好な歩き方をするだけだ。

生命維持装置のボルトが一本抜けていてもいいだろう。そのときは予備の維持装置袋を引っ張りだして、 中にすっぽり入り込んでから、近場の非難所まで辿りつくこともできよう。

だが、例のボルトはそんなところのものではなかった。こともあろうに、ハイパードライブのボルト部分がぶっ壊れていたのだ。

最初はおそらく壊れてなくて、ほんの少し揺るんでいたのだろう。そうでなくては怖い。 そうであって欲しい。壊れたままハイパードライブをかけていたら、どうなっていたか想像するだけで恐ろしい。

船の軌道上の星々は巻き添いをくって超新星となりはてた後の残骸が残っているだろう。

そしてこの船はどうなるかといえば、運が良ければ、他の星々と一緒に超新星化、 運が悪ければブラックホールの芯となった船の中で永遠の囚人化現象に落ち込まなければならない。

永遠の囚人化現象、なんと忌まわしい響きなのだろう。ブラックホールの中で生身の特異点となる。 話す相手もおらず、永遠に年をとることも許されず、入ったままで時間を食いつぶす、 さらに恐ろしいことは死すらも超過したある特殊な物質が、中にいるものの「死ぬ」ことも許されないと言われている。

永遠の孤独、それがどんなに過酷な罰則に陥っているか中にいるものぞ知る・・・だ。

いやだ。いやだ。わたしは嫌だ。それだけはなんとしても避けなければならない。

初等教育を受けたばかりのわるがきにしても、その言葉を聞いただけで、とたんにおとなしい模範生徒になってしまう。 気の弱い子供なら泣き出すものもいる、小さな頃わたしもそうだったのだ、と聞いている。

この状態を決して良好なものだったとは言いがたいが、ハイパードライブ後にボルトがぶっ壊れただけましと思わなければならないだろう。

思えば、わたしは運が悪かったのだ。

わたしはこの間、新品の船を買った。新品の上に最新モデルの船だった。 わたしは今までため込んだ給料をつぎ込んで買った船だったのだ。当然わたしは舞い上がって、心地好く恒星間の処女航海に出発した。

往路、中古船がよく起こす小さな座標のずれはもちろんなく、宇宙航海士が一度は起こさなければならなかった宇宙酔いですら起こさずに、 船は快調に跳んでいた。

だが、快適さの裏で、新製品にありがちな、不良箇所があったのだ。  最初のハイパードライブを行う前か、ドライブ中、ほんの少しボルトが弛んでいたのだろう。 復路のハイパードライブをかけたあと、わたしが船首から星々を眺めると一度も見たことのない星雲が目の前に現れたとたん口があんぐり開いた。

航行前の座標設定を間違えたのかと思い、コンピュータに座標設定の照会と現在位置の確認を行った。 即座に座標設定に間違いはないと解答がでてきた。

数分後、コンピュータは、普段は計算にこんなに時間はかからない、船の位置には測定不能と告げてきた。

再度わたしはコンピュータに違った角度で現在位置の測定を行わせた。 これにはかなり時間がかかった。 測定中コンピュータからもれるブーンという排気音が、わたしにはコンピュータ自身が今の状況を首を傾げているように聞こえた。

コンピュータが測定を終わらせわたしに現在の座標を知らせてきた。

わたしが見た座標は船がとんでもないところに跳んでいることを示していた。 見知らぬ星域、座標の隅に田舎の星雲が載っているところを見ると、今いる場所は田舎中の田舎、超田舎のうえに未だ生まれてまもない、 もしかしたらわたしが生まれるよりもっと後にできたと思われる原始星雲の真ん中に跳んでいた。

普通船主は一人だけでは航行せず、誰かもう一人、航行中の退屈を紛らわすための茶飲み友達であるばあいがほとんどなのだが、 アシスタントクルーの名目で乗せていることが多い。

本当なら、気の置けない友人二、三人を船に招待するつもりだったが、納船が販売元の手違いで、今日になってしまった。

その友人には悪いがわたしはどうしても船を出したかった。 初めて新船がついた日なら、誰でも乗ってみたい、跳んでみたいという誘惑に勝とうという方が間違いだ。

悪いことはさらに重なる。もし人間のアシスタントクルーがいない場合には、 身のまわりの世話をさせるヒューマロイド型ロボット、 ヒューマロイド型が予算的に無理なときは型崩れしたドラムカン型ロボットを置くことが任意義務になっている。

船主がまともに対処できない何かがあったときの保険のようなものだ。

わたしはドラムカン型ロボットすら置いてなかった。 新品の船が決して事故らないと思っていたし、船をローンを無理して組んで買ったせいで、 今月ロボットまで手を伸ばすと当分の間飲まず食わずの生活を強いられることになる。

だから、この船にはわたし以外の知的生命体は乗っていないし、ロボットも乗せていない。 船の中にはわたし一人だけ。これは何を意味しているのか考えなくても容易にわかる。 つまり原始星雲の中でたった一人遭難してしまったということになる。

遭難してしまったわたしは、このまま手をこまねいているわけにはいかなかった。

ノイズが混ざった遭難信号を発する。船からの電波は混沌とした原始星雲のエネルギーに接触しまともに送ることができない。 これでは辺境を調べに来た学者さんか、世をはかなんで知的生命体のいない地に住もうとする隠者、 もしくは自殺志願者に発見してもらうしかないようだ。

もう一つの方法がある。自力で船の故障箇所を調査し、文明が少しは発達している近場の星までいかなくてはならない。

一番近い星までは最低一度のハイパードライブをかけなければならなかった。 そのために故障箇所の発見、原因究明、そしてできる限りの応急処置が必要となってくる。

わたしは船の内部構造を描いた分厚いマニュアルと格闘し、放射能の汚濁層へも入り、すべての部品を見てまわった。必死だった。

最初はどれが良いのか、悪いのか技術者ではないわたしには皆目わからなかった。

それでも探さなければ、こうまでめちゃくちゃに跳ばれてるぐらいだから、次に跳ぶときには、船の超新星、グラックホールの囚人化現象が待っている。

嫌だ。それだけはなんとしても回避しなければならない。

わたしは長い間、死にものぐるいで船内を探しまわったあげく、ハイパードライブの推進装置に使われるボルトが熱で溶けているのを発見した。

そのボルトをみたとき、脱力感がどっと襲ってきた。もう駄目だ。自力で帰還する望みが失せてしまったことを溶けたボルトが告げてきたのだ。

ハイパードライブ推進装置、船の核ともいえるものの一つだ。 これが正常に働かない跳べることができない。暴走させてまま跳ぶと船の軌跡上は超新星の花火があがるのは初等部の生徒でも知っていることだ。

船の暴走、そして超新星、ブラックホールをこれ以上、過去には不幸な事故がかなりあったらしい、 増やさないために、船の創造元は面倒な保障問題を行わぬために今では再三の注意を払っている。 噂では、ボルト一本造るのでさえ小さな惑星一つを丸々借り切って造っているという。 そのためユーザは船を買うのではなく、安全を買うために船を買うとさえことわざで言われているほどだ。

今更愚痴を言っても始まらないが、この船は新品だ。 その上これが処女航海にあたる。この世界のどこに高い金を払った新品の船に点検しておこうと気になるのだ。 こんなことになるのなら、前の古い航海船で我慢しておくべきだったと後悔をしている。

近くに文明の発達した星もない。アシスタントもいない。ボルトのスペアもこの船には積んでいない。こうなればお手上げだ。

ハイパー化できない新品の船を低速運転に切り換え、近場の惑星を生命体が住めるように改造を試みることにした。

最初に行った星は、灰色の惑星だった。 最初から生命発生率が4%と高く、比較的楽に改造を行えそうだったが、メインコンピュータで小さな惑星実験を行った結果、 恒星からの熱放射量の関係で、いずれは高温になるということが判明した。冗談じゃない。 そんな星に生命が芽生えるはずがない。それにわたしは熱いのは嫌いだ。

次に候補にあがったのは、ここから肉眼でも見える赤い惑星だった。 その星は、無理をすればなんとか住めないこともなかったのだが、哀しいことに生命がすでに誕生していた。 生命といっても、知能をまったく持たない微生物ではあったが、生命であることにはかわりない。 生命がいる星に改造を行うのは、宇宙連邦調査局環境保全課保護観察委員会第108条に違反してしまうので、この星も除外。 それに知能を持たない微生物と仲良く同居とするのは、わたしはあまり好きではない。

そこで三番目に訪れた生命発生率1%、生命反応率0%のこの星に目をつけたということだ。

最初に手をつけたのは、我が愛しき新品の船を惑星の衛星軌道に乗せて、上からある種の酵素を蒔くことだった。

低速運転の船から酵素を地表に蒔くのだから遅い。 この星を何百、何千、何万周ぐるぐる回ったかわからない。たとえ一箇所でも蒔かれていないところがあると後々までやっかいなことが起こる。 だから少量ずつすべてが均等に蒔かないといけないものだから神経を使う。

そのかわりと、ある一定まで酵素が蒔かれ星が活性化されたときが、また見物だった。 何しろ生命が生まれるまで何百億年も待たなければいけない星を酵素を使って時間を短縮するのだから、星が動き出す様子を見るのは凄じいものがあった。 今思い出しても目の奥に焼き付いて離れない。

それまで静かだった星が酵素に刺激されて急激に活気を帯びてくると地表がめきめきと音を立てて大きなクレバスをつくり始めた。 わたしは大小すべてのクレバスに大気を作り出す触媒を噴出させるために多量の酵素を流し込む。

酵素を入れたとたん、クレバスが獣のうなり声をあげて燃え上がる。 クレバスを食管に、酵素を触媒にして、地の底では赤いドロリとした緊急用の地下保温熱が生まれていたのだ。

地が吠えている。じゅうじゅうと地表が燃えている。星の中で激しい物質変換が起こっているのがわかる。 上の物質が下に崩れていき、下にめり込んでいた物質がふわりと宙に浮かびあがる。 それはまさしく上も下もない入り乱れた混沌であり、上と下との混沌の秩序が別れようとした膿んだ世界が作り出されようとしていた。

クレバスの膿んだ地肌からは、メタンを始め、アンモニア、硫化水素などのさまざまな気体が生まれ、硫化水素は水素と酸素となり、 超高圧のプラズマの火花が発生し、空気中に一瞬美しい花畑を創り上げる。

そして熱しられた気体は上昇し、原始の大気へと進化する。さらに原始の大気が水蒸気と強風と大電光にわかれ、 それぞれの覇権を掴もうとさまざまな争いを巻き起こす。

ついに疲れた大気から豪雨が生まれ、地表を冷やし始めた。

ようやく生命発生率を80%まであげ、何もなかった星に海水が生まれたところで、酵素を蒔くのをやめた。

次の段階に入ることにした。わたしは千個の救援ビーコンを創ることにした。

救援セットから太い注射機を取りだし左足の動脈目掛けて突き刺した。 刺した部分から徐々に凍りついていき、長期間保存可能のDNA情報のチップに変わっていくのが見えた。

無痛処理のため痛さを覚えることはまったくなかったのが辛かった。痛みがあった方がわが身がチップに変わる姿を忘れることができただろうに。

シャーベット状のチップを一つ取り上げてみた。かつて足だったものは銀色の正八面体の小さな金属に変わっていた。 わたしはため息をついた。これで運良くたった救援隊がきたとしてもこれに変わったせいで左足のサイボーク化は免れることはないだろう。

ピンセットで一つずつ慎重に取り上げたチップとこの船の製造番号、遭難を示した座標位置を書いたレターを一千個の救援ビーコンに詰めて、 船の排気口から発射する。

千個のわたしのDNA情報を入れた救援ビーコンはさまざまな星を巡っていくのだろうが、 わたしがそれらチップの旅の行き先を見届けることができないのが残念だ。 長い年月をかけて、知的生命体がわたしのメッセージを拾ってくれる日を、この星で待ち続けていかなくてはならない。

すべての救援のビーコンが長い尾を引いて視野から消えるのを確認すると、最後の恐ろしくてそして大切な処理を行うことにした。 簡単なことだ。この星に生命の芯を入れればいいのだ。それを行えばこんなことで頭を悩ませる必要はなくなる・・・はずだ。

船首から肉眼ですべてが見渡せる場所に座り、赤い果実をがりりと噛んだ。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がってきた。

これが最後の晩餐か。味気ない注射でなくてよかった。わたしは、この星の恒星が水平線から昇り始めるのを見ながら思った。

船の機首を衛星軌道から外し、徐々に下降させることにした。身体中がむずかゆい。すでに変化が起こってきているを感じていた。

船は落ちていく。新品だったのにおまえとはこれでお別れだな。意識がまだあるうちに船に最後の挨拶をした。

轟音を立てて船が落ちていくのがわかる。少し苦しくなってきた。この星の大気とまだあっていないためだろう。ゆっくり楽な格好に座り直した。

青い海がだんだん近づいてくる。息をする音だけが異様に高く聞こえる。苦しい。

邪魔なものを脱ぎ捨てた。

衝撃が走る。息をすることもできない。苦しい。呼吸ができない。口を大きく開いて呼吸をする。

海水がどこからか入ってきた。苦しい。苦しい。苦しい・・・それは異星人の船の中でもがき苦しんでいた。 悲鳴をあげ、身も知らぬ中でパニックに陥っていた。

そこら中にある複雑な機械に触れ回り、船内はもうもうと煙を吐き燃え上がっていた。 燃え上がる火を見たそれはさらに恐慌を引き起こし、さらに暴れた。暴れた拍子にどこかのスイッチを押したのか爆風が船内を揺らした。 突然壁面が割れ、そこに大きな穴が開いた。それは慌ててその穴から抜け出した。

穴から抜けるとそれの目の前に朝日を浴びてきらきら輝く大きな海が広がっていた。 それは今まで恐ろしい目にあったことなど忘れて、海を眺めていた。海を眺めるのに飽きたそれは、 まだ燃え上がる異星人の船をちらりと横目で眺めると、こわごわ海の中にその身を投じたのだった。


それから長い月日が立ったある日のこと、海底から一匹のくらげが浮かびあがってきた。ぶるぶると寒天状の体を震わせてまわりを眺めていた。

何かを求めて浮かび上がってきたのはわかっているのだが、満足な知能すら持たないくらげにはそれが何であったのか考えることはできなかった。 上空に仲間を探しに来た巨大な円盤を見ても体を震わせることしかできなかった。

そのくらげはどこにでもいるくらげのように見えた。だがよく見るとそのくらげには生まれつき足が少なかった。

そのためにくらげは変な夢をよく見る。


第二夜 「螺旋の塔」


目を開けるとそこにいるのは私一人だけだった。他には誰もいない。

私どうしたのだろう。手で目の下を擦る。

頬が痛い。どうやらここで泣きつかれて眠っていたみたい。

何故私は泣いていたの?  ここはどこ?  私はだあれ?  誰のために私は泣いていたの?  私は頭を軽く振った。思い出せない。

私の記憶が瞹昧で、私がどこに住んで、どんな暮らしをしていたことさえ覚えていない。

あら、いやだ。私の身体に泥がついている。長い間寝ていたからかしら。 綺麗にして置かないとみんなに笑られちゃう。そっと身体を動かし泥を丁寧にとった。

私は辺りを見渡した。ここは寂しいところだわ。それに暗い。

みんなどこに行ったのかしら、私は考えた。そうあそこね。私はぶるっと身体を震わした。

あそこに行けばみんなが待っている。

でも私あそこに行くのが怖い。

行けば、死んでしまうような気がするの。水がない世界では生きていけるはずがないじゃないの・・・・・馬鹿げてるわ。

そんな何もないところなんてあるはずないじゃないの。

私は一人で笑った。だけど・・・・・。やめようこんなこと考えるのは、私は頭の中からふと思いついた光景を追い払った。

私がなにより恐がっているのは私のこと、私が私でなくなってしまいそうで怖い。

そう、怖いの、みんなに逢えなくなったことより私が変わりそうで怖いの。

行きたいという気持ちと行きたくないという気持ち。どっちが私の気持ちなの、わからない。私は首を振る。

昔はよかった。何も知らず、大勢の仲間といろいろなことをして語りあった日々が懐かしい。 どんなに楽しかったことか。もう一度帰れるものなら、帰りたい。

でも、今じゃ無理ね。そうあそこからこんなに離れている。私がここにいることさえ、覚えていないかも。

早く行きたい。でも・・・。

どこかわからないあそこのことを思い浮かべると妙に切なくて、なぜだか理由もわからずに涙があふれでそうになる。

また涙がでてきた。私涙を拭く。

幼なじみの私のよくことを知っている友達が二人が立っている。

私が最後だと思っていたのに・・・・よかった。

二人はお別れよ。と言った。

どうして?  と私が聞く。

これから上に行くから、最後の挨拶にここによっただけと二人は言った。

どうなるかわからないわよ、と私は言う。

どうなってもいい、あなたも一緒に行きましょうと、私の身体を押しながら二人は言った。

でも・・・・・私。私は考える。

結局、二人の進めもあって、ここから出て、螺旋の塔に行くことになった。

螺旋の塔、私は考える。

外からはただの円柱なのに螺旋の塔なんて不思議な響きね。

一度この塔に入ったものはでてこない。螺旋の塔から落ちてきたものはいるけど、聞いても哀しげにため息をつく。何か別の名前を聞いたような気もする。

私は螺旋の塔を見上げる、高い塔だ。

私の身体が震える。

一人じゃ、この塔に近づくこともなかった。

私の胸も震えている。

胸の震えを感じながら、もしかしたら私このときをずっと待っていたのかもしれない。  一人では行くこともできず、誰かに連れていってもらうまで、最後の一人になるまで、そう私は待っていた。

塔の中に入ると長い、どこまでも長い階段がある。

私達三人は一歩、一歩確実に登っていく。

この感じ、私登ったことがあると気づく。いつのことだったかしら・・・・。

そこまでして行きたいのかい、おまえは死んでしまうのに 昔、ずっと昔、私がまだ生まれる前、ずっと下の方で誰かが言っていたような気がした。

見て、何も言わず、その人に冷ややかな目を向ける私がいる。

その人とは塔から落ちていった。

あれからどうなったのかしら・・・・。

デジャブ-。

その頃の私は考えることがなくて、怯えることがなくて、そのままその人を置いて上に登ってしまった。 今の私はまだ下の方にいるはずのその人のこと笑えない。私怖い。

 親の代から語り継がれた記憶の渦は何度も同じことを繰り返してきたことだと語りかけている、だけど私の心は初めてだと言って怯えている。

知らない。私は欲しくない。

欲しくない。変わりたくない。

そんな思いとは裏腹に私は一つまた一つとどこまでも続く螺旋階段を登って行った。

そろそろ一休みをしませんか。私は私に問い、答え、否定し、肯定しているそのやり切れぬ思いで登っているとき、一緒に来た幼なじみ二人が語りかける。

私は二人を見た。二人とも酷い恰好だ。私も同じような酷い格好になっているのかしら。

二人は疲れて、肩で息をしている。

今、一番元気なのはあんなに嫌がっていた私みたい。皮肉ね。

くすっと私は笑った。

上の様子をどんなものかと想像していきいきとした様子で話す二人を見て私は羨ましかった。

彼女ら二人が今まで上がることができなかったのは、体力的に弱いものがあって、あがりたくてもあがれなかった。 私のは十分すぎるぐらい登る力を持っていても、精神的な弱さからずるずると今まで上がらなかったからであった。

もう三人とも後戻りすることができないところまで来て、まだうじうじと考えている私と上に上がることに命をかけている二人との心の違いであった。

そしてしばらく休むと上に登り始めた。

どこまでもどこまでも続く螺旋階段。二重の螺旋がどこまでも続く、下を見ればきりがなく上を見てもきりがない螺旋階段。 私達はどこまで登っていけばいいんだろう。

長い間、延々に続く階段を登りつづけているせいで、足が痛くなってきた。

足が痛い?  私に足なんてあったかしら?  私は考えた。考えると昔からあったような気もするけど、なかったような気もする。

どうせこの世界は夢みたいなもの。この階段も現実にあるわけでなく比喩的なものにすぎない。 もうどちらでもいい、現実の階段でも架空の階段でも登るしかない。

私は他人事のように感じていた。

私と一緒に来た一人はもう駄目みたい。

やはりね。

最初から無理だったのよ。

弱いものは淘汰されていくの。

私の幼なじみでもこればかりは助けることができないの。

ごめんなさい。いつかは私も・・・

私死に行くものに冷淡なものがあると思っていても、この階段の途中ではどうしようもない。

この世界は無情だわ。

気持ちだけでは駄目、力だけでも駄目、どんなに美しくても、どんなに着飾っても、駄目。 この階段に登るのに必要なものは一体何かしら・・・わからない。

それにしても苦しい。どんどん上に登るのが辛くなる。帰るにしてももう遅すぎる。

帰れない。

この階段は、きっとあそこまで続いている。この記憶を失ったままでよかったのに、一歩、一歩、頂上に近づくにつれて、だんだんとあの人のことが蘇る。

生きなければならない。私の中で誰かが呟いた。誰、私?  違う。もっと昔の私の記憶。

私の中で息づく螺旋の記憶。

そうよ。私は待ちつづけなければならない。

再び歩み続けた。

途中、螺旋階段の上部から太陽の光が入ってくる。でも弱い光、よかった。まだ太陽はでていないわね。

きらきら光って、まだ弱いきらきらだけど、暗い中にずっといた私には丁度いい暗さだわ。でも下から見る光って綺麗、素敵。

私の隣でも同じこと考えているのか、もう一人の幼いなじみが口を開けてぼうっと何かを考えているみたい。

あなたも上に登りたいの?  そうよね。私もあなたも同じだもの。私は心の中で語った。

私達二人はゆっくりと上に登って行く。

私は地上までの階段が終わりに近いのがわかったわ。

口に出してしゃべる。

残り十段。ゆっくりと登っていった。

残り五段。さらにゆっくりと登っていった。

残り三段。気をつけて。

残り二段。落ち着いて。

残り一段。見るのよ。

そして、今、地上。

あ、あ、まぶしい。私目を開けてられない。

目を開けてしっかり探すのよ。

太陽はどこ?  私は首をまわして、この星の太陽を探した。

あった。黄色の太陽が東の水平線から少し出ている。

先に地上に現れた同じ私の仲間を見ようとした。

何あれは?  化け物? 。

そこには、私の予想もつかなかった種が数多く分かれている。それそれ生きるために草食恐竜は草を噛み、大きな牙を持つ恐竜は草食恐竜を襲っていた。

私の身体があれを見て嫌悪で震える。

嫌、怖い。やっぱり私は嫌。あんなのになりたくない。

あんなのになるぐらいならいきたくない。私はそう考えた。

ずるずる。隣で今まで一緒にいた幼ななじみが這いだした。

見ると彼女の鰓がすこしだけだけど、足の形になっている。

あの螺旋を廻っている間に少しだけ進化したのね。私は彼女を見て感じた。

ずりずりずり、彼女は歩く。

どこにいくの、私は彼女に問いかける。

彼女は地上に向かって這い出す。

行っては駄目、もうあなたではなくなるの。私は彼女に言う。

それでも彼女は赤い実のある地上に歩き出している。はあはあはあ、肺から息をしているのがわかる。大きな声だ。

彼女の先にはそれがあった。

耳を塞いだ。目を塞いだ。鼻を塞いだ。

しかし、私はそれを聞いていた。見ていた。匂いを嗅いでいた。

私は絶唱していた。

彼女は赤い実のところまで行き、赤い実を食べる前にちらりと私を見た。

彼女と私の目があった。

彼女は何も言わなかった。私は何か言ってほしかった。

彼女は私を非難していなかった。私は非難してほしかった。

彼女は私を馬鹿にしていなかった。私は馬鹿にしてほしかった。

彼女は何もしていない。ただ私の目と合っただけ。

彼女の目にはそれがあった。昔私が塔に登り切ることができなかった人にかけたものと同じ、哀れみの目を。

私は逃げ出した。

彼女から遠ざかるために、あの赤い実から遠ざかるために、そして、そして・・・・。

螺旋の塔から海へ飛び込んだ。

ふわりと私の身体が浮かぶ。

そして、海が身体を受け止める。

私の身体は沈んでいく。どこまでもどこまでも・・・。

ぶくぶくぶく、泡の音が聞こえる。

私は、半分、ゆっくりと注意深く息をはいた。はいた空気が綺麗な泡となって浮かんでいく。

そして、吐いたときと同様注意深く、海の水を吸った。冷たいものが肺を満たす。

肺が水にみたされても、楽に呼吸ができる。

私の小さな二本の足は、再び昔のように魚の形になる。

ここは海の底、太陽の光が届かない海の底。誰もこない海の底。

押しても引いても、螺旋の塔は開かない。

泣いても叫んでも、螺旋の塔は開かない。

私は塔に近づけない。

私は泣いた。声の続く限り泣いた。

塔はどんどん離れてく。

螺旋の塔は進化の証。

私の身体は肺魚のまま、進化が止まったのを初めて知った。

登りたい地上に、でも私は・・・・。

少しの勇気がなかったばっかりに、進化から取り残された私。

私の螺旋の塔は哀しみの塔に変わってしまった。

そう思うと頬に一筋の涙が流れた。


第三夜 「腹減った」


腹へった。

何かたべたい。

目がさめると最初に思ったのは腹へった、次に何か食べたいだった。

ゆっくりと暖かい寝床から起きあがり、首だけ出してあたりを見渡した。

何もなかった。ゆらゆらゆれる植物のほかは。

寝床のまわりには俺の食べられる物はなくなっていた。

そういえば、あれほどあった食べ物も、昨日を最後に俺が全部食べたのだっけ。

もう少し考えて食べればよかった。

俺は少し後悔をしたが、今となっては仕方がないことだった。

しかし・・・困った。

腹へった。

この居心地のいい暖かい寝床から離れるのは正直いってつらい。 しかし、ここから出ないと、このどうしようもない空腹感、腹がへったということから解放されることはないだろう。

仲間うちでは賢いと言われている頭を使って考えた。

ひらめくものがあった。

ぐるるるる。腹がなっている。

腹へった。

俺は首をふった。

何かいいこととわるいことを考えていたような気がした。

それが何であったのか、忘れた。

もう一度考えた。

忘れていた。ため息をついた。

考えていても腹のたしにはならない。

わかっているのは腹がへっているということだけだった。いやいやながら寝床から出ていくことにした。

俺は外に出た。

後ろを振向いた。

居心地のいい寝床が見えた。

これが最後かなと思った。

うろついた。まわりには食べ物は何もなかった。

腹へった。

今まで来たことのないところまで、うろついた。

それでも何もなかった。

鼻が何かを感じた。

何かが匂っている。

今までかいだことのない匂いだ。

なんの匂いだ。

俺は何の匂いか確かめるために近づこうと思った。

よだれがたれていた。

何であるかわかった。

腹がへって異常に敏感になっていた鼻が、食べ物の匂いであることをつげていた。

近づくにつれて、匂いがより強烈になった。

匂いの元は近い。

ぐるるるる、俺の腹が下品な音をたてて、そしてそれを食べたいと鳴っていた。

腹へった。腹へった。俺の頭にはそれしかなかった。

あせる気持ちとはうらはらに、なかなか身体がついていかない。

身体が重い、異様に重い、とんでもなく重い、しかし、この匂いにはかなわない。俺は身体をずるずるとひきづるようにしていった。

俺はみた。

うまそうだ。これがその匂いのもとだったのか、しかし高い所にあるな。

背伸びをする。

届かない。

鼻をつきだして、匂いを嗅いだ。その匂いはより一層強烈に、鼻をとおって全身にしみとおった。

だけど届かない。

うー、たまらん。どんなことをしてもほしい。俺はそう思った。

今度は俺はとびあがってとることにした。

しかし届かない。

ここまできたんだ、なんとしてもあれを食べる。

もう一度やってみた。

それでも届かない。

その上着地に失敗して、身体をおもいきりうった。痛い。血がでていた。

こうなりゃ、やけだ。何度でもやってやる。そして食べてやる俺はそう決意した。


何度目であろうか、何度も何度も同じことの繰り返しで、俺の全身ぼろぼろだった。

体力はすでにない。

それでも俺はこれを食べたいということにかわりはなかった。

気力が俺のすべてだった。

苦しい。

はあはあはあ、いつのまにか俺は口で息をしていた。

全身が重く、鉛のようだった。

喉もかわいていた。全身にとはいわない、ほんの一口でも、水がほしい。全身から水分がたえず蒸発して、喉がからからで、死にそうだ。

目をあけていることも難しくなってきた。

もう駄目かな、俺はそう思った。

くやしいなあ、せっかくここまできたのに、俺はそう考えると俺のまぶたの裏から熱いものが込み上げてきた。

どうしてこうなったのだろう、確かに最初は、腹がへったという理由からここにきたのは覚えている。

しかし、今ではそれだけではないような気がする。 あの居心地のいい寝床の周りでも、いくら食べ物が少なくなったとはいえ、 じっくり探せば食い物にもありつけることができたのではないか、俺は今そんなことを考えている。

どうしてここまでしてこれにこだわる必要があるのかわからない。

目の前に見えるものを食べることでその理由がわかるかもしれない。

そんなことを考えていた。

これで最後かな。

俺は力をふりしぼってとんだ。

食いついた。

口の中に甘くてすっぱい、なんともいえない美味しさが広がった。

俺はようやく、匂いの元である-ちいさな赤い実を食べることに成功したのだった。

嬉しかった。やっと、念願の赤い実を食べることができるのだから。

何度も何度もいつくしむように、そしていつまでもこの感覚が残るように、 この赤い実を口の中でぺちゃぺちゃと音を立てて食べ、舌ざわりを十分に楽しんだ。

そして大きく口を開けた。

口から赤いものがしたたり落ちた。

俺の身体の奥から掃き出された血とこの赤い実がまざりあって、誰もいない地上を赤く染めた。

もう死ぬな。俺は人ごとのように感じた。

俺は嬉しかった。赤い実を食べたことではなく、始めて地上の実を食べたのが俺であったことがわかったからだ。

俺は赤い実を食べたとき、寝床で、俺の昔の住処で考えていたことを思い出した。

俺が海の中の寝床からでたのは腹がへったのではなく、この赤い実が食べたかったのではなく、実は進化したかったのではなかったのか。


俺は進化した。


1匹の肺魚のかわききった身体に一筋の涙が流れ落ちた。


第四夜 「馬鹿は高いところが好きだった」


木の上でうまく降りることができない俺がいた。

おやじは呆れたように俺を見ていた。

そして笑っていた。

うまく風に乗って俺の隣に来た。

俺を抱えて一緒に降りた。

そのあとおやじは俺にごつんと一発はり倒した。

「痛いなぁ、このくそおやじ」頭が陥没していないのを確かめてから抗議した。

「お前は馬鹿だ」

「なんでだよ」口を尖らして言った。

「馬鹿は高いところが好きなんだよ・・・・」そういうと今度は軽く同じところをなでた。


「あんたぁ何ぼーとしているんだよ」女の声が聞こえてきた。

その声に俺ははっとし目をあける。

目の前にはこのごろ少し太ってきたと嘆いている中年の女がいた。

俺のかみさんだった。

かみさんの隣にはぴいぴいわめいている生意気なガキがいた。

俺の子だった。

俺は夢を見ていたようだ。それも俺とおふくろをおいて、どこかで野垂れ死んでいるくそったれのおやじの夢だった。

おやじがいなくなってからいくつの太陽と月をみてきたのだろうか。考えるのも嫌になるほどの時の流れを感じて軽くため息をついた。

「ため息なんてついて、あんたもおじさんになったものだね」かみさんは言った。

「そうだな・・・」俺はかみさんと子供を交互に見た。

涙が出そうになった。それも唐突にだった。

この胸を切なくさせる思いは何だったのだろうか。

原因はわからなかった。

涙をかみさんに見られたくなかった。

俺は軽く首を振った。

他のことを考えようとしたが駄目だった。

「なにか探しにいってくるよ」かみさんの顔を見て言った。

「この子は育ちざかりなんだからね、もうっ」後の『もうっ』は子供に呼びかけた言葉だった。かみさんは子供の頭をかちんと叩いていた。

子供が悪さをして、かみさんからゲンコを貰っていた。

俺は口をとがらしてかみさんに怒っている子供の横に来て、軽く頭をなでた。

子供はてれくさいのか邪険に俺の手を払った。

「大きくなったな・・・いい子にしているんだよ。じゃあいってくるよ」俺はかみさんと子供にそう言うと外に出た。


世界が赤い。夕刻だ。

太陽が世界に血を滴らせている。

俺は一人で岩に腰掛けている。

獲物はなし。

かみさんの怒った顔。子供の腹を空かせている顔。それに・・・・。

苦笑した。

本当なら、家族のために獲物を狩ろうと必死になって探していなくてはならないのだが、俺はそうしようとせず岩に腰掛けている。

本日の獲物は少なくなかった。むしろいつもより多いぐらい獲物はいた。

だが、俺は小さな虫でさえも獲ることができなかった。

できなかったというよりも獲ろうとする気持ちが湧きあがってこなかったといった方がよかった。

夢から醒めておやじの言ったことを思い出して、おやじが何故俺のことを馬鹿だといったのかそのわけを考えた。そして夢の後に残る切なさも・・・・。

わけを考えてわからず、一人さらに高い地をめざしている俺がいる。

下には腹を空かせたかみさんと子供の待つ古巣が見える。

岩に腰かけておやじのことを考えた。

あのころの俺はようやくけつに毛がはえたの青くさいガキで、おやじは俺が悪さをするたびに俺の頭をどついていた。

かみさんが子供の頭をどついていたのを思い出した。

巣立ち前の好奇心いっぱいの悪ガキに何が悪いことで何が良いことかうまく教え込むには難しい。 悪さをしたときにはり倒す。一番てっとり早い方法かもしれない。

俺とおやじの関係、俺の子供とかみさんとの関係とよく似ている、 おやじが俺をどつき倒すことが不器用なおやじができた精一杯の愛情表現だったのではないだろうか。

少しだけおやじのことがわかったような気がした。

そして、俺はさらに高い地へ登り始めた。


風が吹いている。

太陽の光は一部分を残し、山の彼方で消えている。今ここは紫色の世界になっている。 下方から風がつきあげてくる。

俺は今まで来たことのない高地にいる。

今まで登ってきたところが一目でわかる。

ここが頂上だった。

俺が一人こうして立って、下界を見ていると大きくなったようで、爽快な気分だった。  目をつぶったまま大きく息を吐きまた吸う。肺に空気が溜り、吐く。何度も同じことを繰り返す。

俺自身この風景の中に解けこんでいきそうな感じがする。

家族のこと、そしてこれからやろうとしていることもどうでもいいような静かな安らかな気持ちになる。

耳元を掠めていく風の音、聞こえないはずの音、ゆったり長い間、俺の内でなにかを語る声まで聞こえてくるようだった。

風の音が変わった。

静かに目を開けた。

谷から吹き上げる風が通りすぎていく。

いい風だ。

ふっと息をはいた。

うまくいきそうだ。

下を見る。絶壁だった。

やはり俺はおやじのいうように馬鹿かもしれない。そう感じた。

うまくいかないと死ぬかもしれないな。誰もいなかった、もちろんおやじも。誰も助けてくれるものはいない。俺の力だけでやるしかなかった。

背中に力を入れる。

肩に力を入れる。

脚を踏ん張る。

地面を蹴った。

飛んだ。

はばたかせる。

今は風に乗ることに神経を集中する。

冷や汗がたつ。

重心が崩れた。

風を掴みそこねた。

持ち直した。

落ちそうになったが、今のところは大丈夫だ。

後戻りがきかなかった。歯をふんばり、翼をはばたかせた。

下からの風に身をまかす。

風を捉え、舞い上がる。

風の音が聞こえる。

ついにやった。誰も来たことのない高いところにいる。

心が弾む。世界を手に入れたような気になっていた。

俺は上を見る。

高く、高く、さらに高い地あそこまではい上がれるだろうか。

俺は頷いた。

やってみよう。


薄い空気の中に白く薄い影が見えた。

おやじだった。

時を超えて、おやじの亡霊が現れていた。

おやじも俺の横で空を飛んでいた。

そしておやじは大きく口を開けてなにか言っていた。

激しい風が舞っている。

おやじの声が聞こえない。

俺は聞きなおす。

いきたいんだろう。

おやじは空を見る。

あそこまでいこうとしたんだが・・・・おやじは笑っているんだが泣いているんだかわからない顔を俺に向けていた。

おやじに励まされて、登り始めた。


風がますます強くなっている。

寒い。

風にさらされている身体は冷えきっている。

力がなくなっていた。

重心が崩れようとしていた。

重心が崩れた。

落ちていった。

落ちていく俺がいた。

俺は、おやじゆずりの身体を受け継いだ。

だが、もっと大きな、強い身体が欲しかった。そうすればこんなところで落ちることなく、あそこまでいけたのに・・・・。

いけなかった・・・・。

残念・・・・。

何度も何度も夢に見た夢。目が覚めると忘れさっていた夢。

この空を越えて星々の世界へ行く。そして輝く星々の間をたくさんの宇宙船が往来している。

なぜそんなことを知っている。宇宙船の構造まで思い出すことができる。リアルすぎる夢。本当に夢だったのだろうか。それとも俺は・・・・。


あ・・・俺はすべてを思い出した。

俺はこの星に落ちてきたのだった。

親から子に受け継がれた遺伝子。

遺伝子の記憶に誘われて何度も繰り返してきた試み。

今回も失敗か。

俺は自嘲気味に笑った。

昔おやじが失敗した。

俺も失敗した。

次は息子の番だ。

おそらく息子も失敗するだろう。

だが、息子が失敗しても次がある。

その次も、その次も・・・そしていつかはきっと・・・・。


一羽の始祖鳥がよわよわしく鍵爪のついた羽を動かしていた。

首を少しあげた。

血を吐いた。

首を落とした。

痙攣を起こす。

小さく声をあげる。

そして死んだ。

最後まで彼は黒く澄んだ目で遥か遠くの星々を見ていた。


第五夜 「仲良し三兄弟」


昔、昔、あるところに、一郎、二郎、三郎と言うとても仲のいい兄弟がいました。

密林のジャングルをどすどす風を切って歩くのも三匹は一緒、可愛い女の子を軟派するのも三匹は一緒、 もちろん毎日大切な狩りをするのも三匹は一緒でした。

狩りは、まず足の早い一郎が、これはと見つけた獲物に襲いかかります。一郎に驚いた獲物はのっしのっしと逃げ回ります。

二郎が隠れている岩場まで獲物を上手に誘い込めは一郎の仕事は終わりです。

岩場に潜んでいた二郎は、のっしのっしという音が聞こえてくると、それまで熱心にやっていた牙のお手入れをやめて、獲物を狩る準備をします。

のっしのっしのっし、口から泡を吹いて、ふらふらになった獲物が来るのをじっと眺めて、 二郎はぱくりとお口をあけて獲物の首ねっこに大きな牙を差し込みます。

ぎゃあああ・・・ジャングルに獲物の悲痛な叫びがこだまします。その声を聞くとすべての生き物が凍りつきそうになるぐらい悲痛な声です。

断末魔の叫び声を聞くと草を食べる生き物たちは、今日は無事に生き延びることができたと安心し、 再び草を食べはじめます。お肉を食べる生き物たちはあの三匹のように上手に狩りができるように、再び牙のお手入れをはじめます。

こうして二郎が狩りに成功したことがわかると、近くにいた三郎がとことことよってきて二郎が仕留めた獲物にぱくりと食いつきます。 二郎と三郎が大きなお口を血だらけにしてぱくりぱくりと獲物を頬張っていると一郎がとことことよってきて、 大きなお口をあけて獲物をぱくぱくぱくりと食べはじめます。

だけど、三回に一度は二郎は獲物を牙を入れるのに失敗します。 二郎が失敗したときは岩場の奥で待っている三郎が獲物に襲い掛かるようになっています。 最初一郎に追っかけられて、二郎の襲撃にあうと、無事逃れた獲物は、どんなに若くて 、強靭な肉体を持っていても、三郎の元についたときにはもうふらふらで走ることはおろか歩くことにも十分にはできなくなっています。

そこへ三郎の鋭い爪が獲物の内臓へむけて、ばりばりばりと爪が内臓に突き刺さり獲物の息の根を完全にとめてしまいます。

どくどくどく・・・あたり一面に甘酸っぱい血が風に乗っていきます。 その匂いをいを嗅ぐとすべての生き物が凍りつきそうになるぐらいの甘い匂いです。

鼻をふんふん鳴らして草を食べる生き物たちは、明日もどうか無事でありますようにとお祈りして、 再び草を食べはじめます。お肉を食べる生き物たちはあの三匹のようにおいしいお肉を食べれるようになりたいと、再び爪のお手入れをはじめます。

三郎がとったお肉はとても甘くて、柔らかいので、二郎はすぐにとんできて、ぱくぱくぱくりと食べはじめます。 一郎は少し遠くにいるので、少し遅れてしまいます。

こうして仲の良い三匹はいつまでも、仲良く暮していけば良かったのですが、そうなると物語が面白くありません。

遅れて獲物をかぶりつく一郎は三匹とも同じように狩りをしているのに、どうして自分だけが遅れてしまうので、 二郎、三郎が一郎に隠れて、先においしいところを食べているように思えてたまりませんでした。

一郎は二郎に、おい二郎おまえはお肉の美味しいところばかり食べているのだろうと聞きました。

すると、二郎は笑いながら、そんなことないですよ。おにいさん、ぼくはおにいさんのためにいつも堅いところを食べているのですよ。 おにいさんのお肉が堅いと思うのは三郎が柔らかいところを食べているからでしょうと言いました。

あの立派な爪を持つ三郎が、そんなことをするはずがないと一郎の小さい頭で思っていても、 あんな立派な爪になるには、一郎や二郎より先においしいところを食べているのだと思い込むようになっていきました。

そんなある日、一郎は三郎に相談があるといって、岩場につれていき自慢の足で蹴りを入れて突き飛ばしました。

日頃、獲物を狩る爪は鍛えていても、あまり走ったことのない三郎です。足元がふらついて、 強烈な一郎の強い蹴りが入ったとたん、おにいさん、なぜ?  と三郎は悲痛な目で、ひゅるるるると岩場から落ちて、 二度と登ってくることはありませんでした。

一郎はおいしいお肉をたくさん食べていた三郎がいなくなったので、 今まで食べれなかったおいしいお肉をもっとたくさん食べれると小さな頭で考え喜びました。

一郎が獲物を追っかけて、二郎が岩場の影に隠れて、獲物の首に牙を差し込みます。

今までどおりの狩りの仕方なのに、一郎のお口に入るのは硬くて苦くておいしくないお肉になってしまいました。

おいしくないお肉ばかり食べさせられている一郎は、本当はおいしいお肉を食べていたのは、 三郎じゃなくて、二郎だったのだ。本当は二郎がおいしいお肉を食べていたのだ。二郎はおいしいお肉をもっと食べたいために、 一郎をそそのかして、三郎に蹴りを入れて岩場から叩き落とすように仕向けたのだと思い込むようになりました。

そんなある日、一郎は二郎に相談があるといって、岩場につれていき自慢の足で蹴りを入れて突き飛ばしてしまいました。

日頃、獲物を狩る牙は鍛えていても、あまり走ったことのない二郎です。足元がふらついて、 強烈な一郎の蹴りが入ったとたん、おにいさん、なぜ?  二郎は悲痛な叫びを残して、ひゅるるるると岩場から落ちて、 二度と登ってくることはありませんでした。

一郎はおいしいお肉をたくさん食べていた二郎がいなくなったので、 今まで食べれなかったおいしいお肉をもっとたくさん食べれると小さな頭で考え喜びました。

ところが、走ることばかりやっていたので、爪や牙のお手入れを一度もやったことがない一郎は、 走っても走っても満足な狩りをすることができませんでした。

仕方なく、一郎は今まで一度も食べたことのないものすごくおいしくないお肉、病気に掛かって死にそうな獲物しか取るしかなかったのです。

病気の獲物ばかりとっていた一郎は、やがて病気になって、地べたにごろりんと横になるだけになってしまいました。

ごろりんと横になって目を少し開けている一郎は、ちゅうちゅうと小さな生き物がたくさんうよめいているのがわかりました。 それにお空からは、一郎が一度も見たことのない白いものが降ってくるのがわかりました。

白い冷たいお布団にくるまれて、二郎と三郎がいる世界に行こうとしている一郎は、 三匹一緒のころが一番おいしいお肉を食べれて、楽しかったな。もう一度、三匹一緒に狩りをしたかったと考えました。

どんなに一郎が考えても、三匹一緒の一番楽しかったときは戻ってくることはありませんでした。

だってもう冬が来たのです。

第六夜 「少女」

進化>少女


少女は冷えきった手を、ほうっと軽く息を吹き掛けた。

息が白く変わり、手が桜色に染まる。

暖かくなった手を雪の中に手を入れる。

冷たくなる。

息を吹きかける。

手が暖かくなる。

少女は雪の中に手を入れる。

何度も同じ動作を繰り返す少女。

腰を屈めて雪の両手で何かを探し、必死になって雪をかきわけている。

今日は何かいいもの見つかるかな少女はそう思った。

雪を掘り続けていた少女の手が止まり、その顔に笑みがもれる。

なんだろう、これ。雪の間から少女の見たこともない緑色の小さな芽が生えてい た。

可愛い鼻を近づけ、くんくんと匂いをかいている。どうやら悪いものじゃないみ たい。食べられるのかな。少女は考えた。

とりあえずそれを口の中に入れる。含んだとたん少女の顔が歪む。

ぺっと吐き出した。

毒ではないのだが、食べ物には向かないものだったようだ。

最近、少女の周りで見たこともないものが生えてくる。

変わったものを見れるのは楽しいけれど、食べられるものだったらもっと楽しい のにと少女は思う。

雪をかき分け、もっと違うものを探すことにした。

今度は黄色く小さな新芽が見つかった。新芽を傷つけないように器用に掘り出し 口に含む。

少女の喉がなった。これは食べられるものだったようだ。

特別おいしいということもないけれど、おいしくないってこともない。これだと 私でも食べられそう。

それにしても今日はいつもより暖かいみたい。こうやって雪の中を掘るのにもだ いぶ楽になった。昔だったら、地面もかちんかちんに凍って、苔ひとつを探すにも 苦労するのに、今日は簡単に採れた。本当によかった。

あれのせいだろうか。

もうすぐもっといいものが採れるような気がする。あれが来るまでの辛抱。

あれってなんだろう。いいものなのだろうか。少女は小さな頭を傾けて考えた。

少女は少し高い丘に立ち、村を見下ろした。

一面の銀世界。見渡すかぎり白い世界。

少女はこの白い世界で生れ、白い世界しか知らなかった。

少女は村に住んでいた。

村と言ってもそんなに大きくない。

大きな谷にかこまれた小さな村。

毎日の食料を採るのがせいいっぱいの小さな村。

村は絶えず寒さと餓えの恐怖に脅かされていた。

少女たちの村は生と死と隣あわせの生活を強いられていた。

生きているものもいれば、死んでいくものも大勢出ている。村の中でお互いが身 体をこすりあうように暮らしても毎年多くのものが死んでいく。

一度にたくさん生まれる赤ん坊たちもその多くが死んでいった。今日も村で生ま れたばかりの赤ん坊がぜんぶ死んてしまったと少女の耳に入っている。

少女が今まで生きることができたのは生きたいという強力な思いと、自然を粗末 に扱わずうまく対処してきたからだった。

それは少女だけではない。今生き残っているものすべてにも同じことがいえた。

冷たい海からの風を遮る大きな谷に囲まれてほそぼそと暮らす少女の一族。

昔、少女の先祖は谷の外から来たと長老が語る。その頃は夏の時代と呼ばれ、今 よりずっと暖かく過ごしやすかったと長老から次の長老へと語り継がれている。

冬に生まれ、冬に育った少女には夏は何を意味しているのかわからなかった。

夏って食べることができるのかしら。お腹痛くなりそう。少女は長老の話を思い だし軽く首をすくめた。

少女の一族は何かから追われるようにしてこの谷に住みついたそうだ。

少女は信じられなった。

どうして、こんな寒い厳しいところにしか住むことができなかったのかと。

少女は知らなかった。

少女たちがこの谷に追われる原因となった何かが滅んだ後も、冷たい海風を遮っ ている大きな谷が少女たちをここまで生かしてきたことを。

この谷から少女は一度も出たことがない。

おそらく村のものも出たことがないのではと少女は考える。

いつか私はここから出てみたい。

そして外に出ていつかあの大空へ、彼女は長老の話を聞きながら天高く星々をか ける奇妙なあこがれを抱いていた。


少女には気になる少年が一人いた。

後ろから見ているのでその少年の顔はよくわからない。汚い身なりの少年だった。

少年はいつも一人だった。彼の親はとうに死んで、少年一人で暮らしている。な んだか気になった。

ときどき少年と一緒に食料を探したこともある。

少年の横で話すと胸がどきどきと高鳴るのを少女は感じた。

これは、何?  もしかしたらこれが恋というものなの。

少女はその少年に淡い思いを抱いているのに気がついた。

そしてその思いを誰にもつげぬまま胸にしまっていた。

その少年と二人だけで遊んでいる。

小さな村に流れる一本の小さな小川、氷を割り下の生き物をとる。

そこにはいろいろな生き物がいる。とって遊んだり、小川の先はなにがあるのか、 少年と語りあう楽しい時間。

そんなある日、あれが近づいて来るのを少女は知った。

それは突然であった。いつものように少女のお気に入りの丘で一人で立っている と、風が少女にささやいた。

あれが来るよと。

少女に囁いたのは風ばかりではなった。地面からも少女の足を伝い知らせてくれ た。

風は少女の鼓膜を通して、耳鳴りという名前になった。

地は少女の身体の足という部分を通じて、おびえという名前になった。

少女は走りだした。

ぐずぐずしている時間がなかった。

少女には時間が残っていなかった。

まっすぐ村に向かって走り出した。

村のものに言葉をかける。少女はできるだけ高いところに逃げるよう言った。

それでも少女の説得になかなか承知してくれない。

少女は懸命に説得した。

あれの影響でくる大きな波のことを。

風の音、地の音が告げる破壊への前兆のことを。

そして何度も大地が揺れ動き、村のものはおびえ、少女のいうことを信じるこ ととなった。

やがて少女の一族は波が届かない高い丘へと移動する。

少女はほっと息をつく。

あの少年はどこにいるのか辺りを探す。

いない。

そんな・・・。

少女は丘を探す。

少女の顔に焦りの色が現れた。

あれがくるというのに・・・。

まさか・・・。

まだあそこに・・・。

少女は来た道を駆ける。

一度来た道を振りかえる。高い方には少女の一族がたたずんでいる。

誰も少女をとめるものはいない。

間に合うか。少女は歯を食いしばり走りだす。

走る。少女は走る。

道がぬかるんできた。少女はつるりとすべった。

少女の身体が坂を転げ落ちる。

ごろごろごろごろ、下へ下へ。

少女の身体が岩にあたる。

痛い。

厚い毛皮に覆われてよくわからないが、傷をおったようだった。

ぺろりと傷口をなめる。

血のあまずっぱい味と泥のえぐい味が口の中で混ざる。

唾を掃き出す。

他にも血が滲み出ているところがないかと調べてみる。

少女のみずみずしい毛皮は泥に覆われていた。

いつもだったら、雪の中転げ廻ってもこんなことないのにね。

泥だらけの姿を見て苦笑する。

早い。思っていたより早くなっている。もう始まっている。

雪が溶けているのだった。あれの影響で雪が溶けている。

いそがないと・・・・。少女はあせった。

走る。走る。まどろしい道。この道を跳んでいくことができたらいいのに、翼

早くしないと。

まどろこしい思いとはうらはらに、少年のところに辿りつけない。

一緒に上にいきたかったのに・・・・。

どうして・・・・。

走る途中、少女は道端に生えている。実をぷちっぷちっと2粒とった。

見たこともない実、いままでこんなところに生えることのなかった実。

それでも、少女は無意識のうちにその実を取っていた。

右手でぎゅっと握る。

まだ、少女は食べない。

いいものとわるいものを両方含んでいる果実。

口に含むとしたら、ぎりぎりのところまで待ってみるつもりだった。

できるだけ、このままでいたいと少女は考えた。

草原があたりをつつむ。

少女が今まで知っていた銀色の世界はきえ、今は緑色の世界。

あれは少女が思っていたより早く襲ってきていた。

間に合わないかもしれない。もう少し待って、少年に巡りあうまで・・・・・

少女は祈る。

好きだった少年の顔が脳裏に浮かぶ。

そして一緒に上に上がりましょう。少女は祈りながら駆けていた。

少女は昔少年と遊んだところまでやってきた。

川にはもう氷ははっていない。

当然のことだ。ここにもあれが訪れていたのだから。

少女は少年を探した。

いた。

少年は魚をとっていた。

少年は少女を見て、手を振った。

少女も笑顔で手を振ろうとした。

途中まで手を挙げて、水が流れていく先を見た。

少年も何かを感じたのであろうか、少女が見つめている方向を見た。

風が舞う。

地が鳴った。

少女はあれが来たのがわかった。

少女は大事に持っていた赤い実を二粒、口に含んだ。

ごくんと、一粒呑み込む。

残り一粒は口の中に含んだままだ。

水が襲ってきた。

水が少女の顔にかかる。

水が少女の身体を包む。

少女が水の中に沈む。

水の中で木の葉のように揺れる少年をつかまえ、抱き寄せる。

そして口に含んでいた赤い木の実を口移しで少年に与える。

これでいい。少女は微笑んだ。

少女は時に流されていくんだ。そのまま時の流れに乗れば心配することはない。

少女は目をつぶり胎児のように丸くなる。これからどうなるのか少女は自分た

ちの成行を静かに見守ることにした。

深い深い海の底でまどろむような感覚。これ覚えている。少女は思った。

身体が少しむずむずする。あれのせいだと少女は感じた。

少女は静かな気持ちで少年のようすを観察した。

少年の長い毛がすべて抜け落ち、下から黒いつるつるとした皮膚が現われる。

五本の手が一つになり、水をかきわけるのに便利な黒い鰭になる。

地上を自由に歩いていた足も、大きな黒い鰭と変わっていった。

自分たちの姿が変わっていくのを見て、少女には怖いという感覚はなかった。

だた、一つ少女が残念だったのは、上にいくことに永遠にいけなくなったこと

だった。それも仕方がない。これも愛してしまった代償なのだと少女は少年を見 て思っていた。



静まりかえった海からなにかが飛び出した。

若い二頭のくじらだった。

くじらたちはしばらく陸のまわりを泳いでいたが、一頭が天高く塩を吹くとも う一頭もさそわれるように塩を吹き始めた。

長い間塩を吹きつづけた後、やがて海の底に消えていった。

その後彼らの消息を知るものはいない。


最終夜 「悪魔と神」


「どうして、おまえが悪魔の子って言われなければならないのだろうね」髪に白い ものが増えてきた母親がぼくに抱きついて言った。

「泣かないでください。かあさん。かあさんが泣くとぼくまで哀しくなってしまい ます」僕は軽く母親の肩を叩いた。

彼女の身体は弱々しく、僕が軽く叩いただけでもつぶれそうだった。

「そうはいってもね」母親は嘆き哀しみ涙で赤くなった目でぼくを見つめる。

「そうですね。あれは理不尽だったですね」村のものは、ぼくを悪魔の子と言われ ていることで母親が長老会議に抗議に言ったのを知っていた。村の一部のものは、長

老たちと母親の間の秘め事、それを却下され、怒った母親が長老の一人を殴りかかり、 彼女まで悪魔の子を生んだ母親ということで追い出されかかったのを知っている。

ぼくが誰にもわからないように最長老に合い、ほんの少しの脅迫とこれから起こり うることの予言(これは毎年のデータをとっていればわかることだ)を彼以外のもの に語らないことを条件に、母親への処分を免れるように掛け合ったことは、この哀れ な母親さえ知らないことだった。

「でもねえ、村のものが言うのだよ。おまえさえいなければ悪魔はでてこなかった のに」

「悪魔をなんてこの世にはいませんよ」ぼくは軽く笑った。

「こんな母親思いの優しい子が悪魔の子だなんてわたしゃ信じられねえ」母親はき つくぼくを抱きしめる。

「かあさん。・・・痛いですよ」ぼくは母親を喜ばすために言った。

今の母親の力ではぼくを絞め殺すことはできないなと思いながら、ぼくは母親に言 った。

「あっ、ごめん。きつく抱きついてしまった。逞しくなったね」母親はあわててぼ くの胸から離れ、調整のとれた全身をほれぼれしたように見る。

「そうですか」ぼくはそっけなく言う。

「うんうん、逞しいいい男になったものだよ。おまえの身体が普通だったら村の女 たちが黙ってはいないだろうね」

ぼくは、母親が自分の子供を賞賛する言葉の裏に他の女への嫉妬、そしてぼくに対 し密かな欲情を感じとることができた。

これは母親を責めても仕方がないことだった。彼女は知らないだろうが、彼女たち の血に潜む忌まわしい近親相姦の記憶がたまたま言葉として現れているのだった。

「普通だったらですか・・・普通に生まれていれば、かあさんを泣かすこともなか ったし、村から追い出されるようなこともなかったでしょうね」ぼくはできるだけ声 を抑え、感情的にならないように気をつけた。

「わたしゃそんな身体に生まれついてもおまえが可愛くてしかたがないのでよ」

「ぼくが生まれたときはショックだったでしょうね」ぼくは母親を見た。

確信はないが、ぼくは実姉を妻に持つとても好色な最長老と母親との間にできた子 供だと思っている。

一瞬の間があいた。

ぼくは再び母親の顔を見た。母親はどう言えばいいのか悩んでいるようだった。

「他の子供は普通に生まれてくるのにわたしの子供だけが異常だった。赤子の間だ け異常だったと思っていた。大きくなればなおると思ってた」母親はぼくの身体のこ とを言った。

ぼくは村を出る前に実の父親のことを確かめたかったが、彼女がいいたくないのな らそれでもいいと思った。

「でも、かあさんが望む姿、普通のものにはならなかった。ぼくがたったこれだけ のことが」ぼくが他のものと違うところを指さして言った。

「違うだけで村のものからも白い目で見られ、異常のものだと言われ続けてきまし た。それが何だというのです。これだけじゃないですか。目を二つあるし、耳も二つ ある。鼻も一つあるし、口もこうして一つある。手も二本指も五本ある。それにあれ をつくることもできる」

母親の肩が揺れる。ぼくを見つめる母親の目に恐れのようなものが混じる。 「頼むから、あれのことはいわないでおくれ、考えただけで恐ろしい。おまえがあ れを生んだのを見て、びっくりしたんだよ。何もしていないだろうね。誰にも見つか っていないだろうね。特に最長老には・・・」母親はぼくの目を覗き込む。

「さあ、ぼくはかあさんに見るからないところでもあれを生んだことがありますか ら、誰かに見つかったことがあるかもしれませんね」ぼくは微笑む。

「やめておくれ。そんな怖いことを言うのは・・・あれが持てるのは神さまだけな のだよ」

「それとも悪魔ですか?」ぼくは母親があれの話をするたびに、きょろきょろまわ りを見回している。彼女はそばに誰かかいるかどうか調べているのだ。

「あああ、わたしは村のもののいうとおり本当に悪魔の子を育ててしまったのかも しれない」母親は顔を歪めてぼくを見る。

「そうかもしれない。でも、あれのどこか悪魔だというのです。ただこうやってこ すりあわせただけですよ」ぼくは母親にあれをつくるまねをして見せた。

母親の顔がますます苦しみに満ちた顔になる。

「あああああ、そんな恐ろしいことをしないでおくれ、本当に悪魔を創りだす悪魔 だと言われてしまうよ」

「かあさん、ぼくは普通に生まれなかったかもしれませんが、これを生みだすのは 誰でもできるのですよ。かあさんあなたにもね・・・なにもこれは恐ろしいものじゃ ないのです」

「恐ろしいものではない?  そんな冗談はやめておくれ。あれは悪魔だよ。昔から あれが出ると村から死人が大勢でてるのはおまえも知っているじゃないか」

母親の言っていることは半分あたっている。どうしようもなく大きくなり過ぎたあ れは、ぼくの手にもあまり、ぼくでも逃げ出すだろう。

「かあさん、それは使い方を間違ったからです。あれも使い方さえ間違えなければ、 どんなにいいものか・・・」

「やめておくれ。わたしゃあれが恐ろしゅうて近づけん」母親は一歩下がる。

怯える目でぼくを見つめる。

ぼくはため息をついた。ぼくが自由にあれを使いこなすことがわかったのなら、目 の前にいる哀れな母親はどうするだろう。

母親にあれのよさを説明して、あれの使い方を覚えさせて、あれで今までよりいい 生活をしていこうと考えていたのだけど、これではどう説得しても無駄のようだとわ かった。

母親は本能的にあれを恐れているのがわかった。そして口には出さないけど、あれ を使うぼくでさえ恐れているような気がする。ぼくは彼女の子供なのに、何も悪いこ とをするをする気持ちはまったくないのに彼女は恐れている。

それに恐れているのは彼女だけではなかった。村のものがぼくを普通でないもの、 異常だと決めつける方が簡単であり、ぼくを異常のものとして村から追い出すことの 方が彼らの恐れを和らげる唯一の方法だったと感じている。

そのうえぼくは彼らのあれを退治したことがある。それも簡単に退治する方法を覚 えたと言えば、どういうことになるだろう。彼らは恐怖のあまりぼくを岩にくくりつ けて八つ裂きにするかもしれないなとふと思った。 そう思うと震えがきた。

ぼくはこの哀れな母親が好きだった。だからぼくは母親に恐れられる存在にはなり たくなかった。彼女たち普通のものにとってのあれが悪魔である限り、ぼくがあれを 利用していく限り、ぼくがこのまま残ることは種を守るために彼女たち普通のものが ぼくに殺意を抱くことがあるかもしれない。そしてぼくを守るために親殺しの罪をお かさないために。

ぼくは決心した。この村から出て遠いところに行こう。


ぼくは村を出て北に向かった。

どうして北に向かったのかわからない。南の地には母親がいる。彼女から別れるた めに北に向かったのかもしれないし、北にはぼくを呼んでいる誰かがいるような気が して向かったのかもしれない。

気がつくとぼくの足は北に向いていた。

ぼくは砂漠を渡った。そこには生きているもの、死んでいるものにかかわりなく襲 いかかる獰猛な巨鳥がたくさんいた。

あれを使い巨鳥を追い払った。それでも巨鳥は襲ってきた。ぼくは傷つきながらも 闘い生き残った。

北の地は寒い。最初に思った。

ぼくはあれを生んだ。

あれが生まれるととたんに寒さが和らいでいく。

後ろから何かが忍びよる気配があった。おそらく好奇心にかられてやってきた獣だ ろう。いつでも攻撃できる体制をとった。

ぼくはあれを持ち、振り返った。

「きみはっ」ぼくは叫んだ。

そこには赤い実を持ち、異常な姿をした少女が立っていた。

ぼくの目の前には少女がいて、ぼくとの間にはあれがあった。

「暖かいね」少女はあれの近くに手をやる。

「そんなに近づけると危ないよ」ぼくは優しく彼女に言った。


あれからぼくは彼女に連れられて、彼女の村についた。

彼女の村のものはすべて異常のものだった・・・というより尾のない姿の方が普通 だったというべきか。つまり、尾のないものの世界では、尾のあるものは異常で、尾 のないものは普通のものとなる。

ぼくを散々悩まして、ぼくを南の村から追い出す口実をつくった尾。それが彼らに はない。そしてぼくにも尾がない。彼らはぼくの身体については何の疑問を持たず受 け入れてくれた。

そしてぼくは彼らの長、つまり少女の父親である男にいろいろなことを話した。南 の村での暮らし、母親のこと、長同士が縄張りのことでさかんに争っていることなど。 ぼくの話がどこまで通じたかわからない。十分ではないにしても、おおよそのこと はその驚いた顔でわかった。

話が続けるにつれて、彼らがぼくを見る目が敬虔なものになっているのが気になっ ていた。 ぼくが砂漠を無事に渡ってきたのも奇跡に近いことらしい。あの砂漠の巨鳥は砂漠 を渡ろうとするものすべてを滅ぼす神の使いだと言われ恐れている。その神の使いに も負けず砂漠を渡ってきたぼくは不死のものだと言うものもいた。もちろんぼくは否 定した。

特に彼らの興味を引いたのは、ぼくが彼らの前であれを生み出したときのことだ。

彼らはこれ以上大きくできなとというほど目をあけ、ぼくの手から生まれるあれを見 た。

彼らは好奇心旺盛な民だった。彼らはそれを受け入れた。彼らは怖がらなかった。

ぼくが生みだすとあれのありがたみを知り、あれについては悪魔ではなく神様の授か りものだと考えているようだった。

ぼくは誰でもできるものだと彼らに説明した。しかし、彼らは神様からの授かりも のだという意見を曲げようとしなかった。

詳しい説明は無駄だったか、それでもいいとぼくは思っている。

恐れるより、今の生活をよりよくするために怖がらず使えるのなら、神様の授かり ものでもなんでもいいと考えた。

北の長はぼくのために大きな家をつくってくれると約束した。北の地で始めたあっ た少女、彼の娘をぼくに差し出すと約束した。少女は村の長の娘であると同時に村の 巫女の役目を兼ねていると聞いた。すると彼らにとってぼくは神?  ふとそんな考え が浮かび、ぼくは苦笑した。南の村では悪魔の子と言われていたのに北の地では神か。

これは、おもしろい冗談だ。

少しの誤解も混じって、こうしてぼくはこの村に住をかまえることとなった。

ぼくはこれからのことを考えている。

あれをいぶして丈夫な服の作り方、病を直す薬の調合法など、この村がぼくを受け 入れたお礼として、ぼくが南の地で学んできたすべてを彼らに教えていこうと考えて いる。

そしてこの燃える火の使い方を間違えない限り、ぼくたちは増えていくだろうと考 えている。


ぼくは持っていた赤い実りんごを一口噛んた。それは甘く酸いかった。