バルノウの苦悩
小林ひろき
1
まず事の発端から話そうと思う。
人類の未来についてだ。人類は行き詰まりを迎えていた。それは世界の未来に対して現状が追い付かなくなったということだ。 未来を考えるために僕達は様々な選択をする。けれどそれが合っていればいいのだが、多くは間違っていたり、修正が必要だったりする。 僕達は未来を考えるために技術を利用する。スーパーコンピューターや、試験運用が始まった量子コンピューターがそうだ。 僕達はそれを使って未来を推し量る。未来をシミュレーションする。
けれど、それも電源コードを抜いてしまえば簡単に終わる。僕達は資源が必要だった。
僕達は無限のエネルギーを宇宙に求めた。核融合発電はまだ上手くいっていないけれど、一つの方法を考え出した。
スーパーコンピューター型発電機? いや発電機型スーパーコンピューターかな? それを太陽に飛ばすという解決法だ。
最初、技術者たちは首を縦に振らなかった。子どもじみた発想だということは分かっていた。
僕達は感じている。太陽の熱や光が皮膚を刺激する。地球からあんなに離れているのに、その恩恵は確かにここにある。
僕はプロジェクトリーダーと食事をとった。彼は技術畑の人間ではなかったけれど、そのヴィジョンに僕は惹かれた。
巨大な燃える球の上を飛ぶ、スーパーコンピューター。その実態はスーパーコンピューターを載せた人工衛星だった。 消費電力は地上のスパコンの数億倍に設計されている。
こんな設計バカげているって? そうかもしれない。けれど僕達には僕達の切迫した現実が横たわっている。 貧困や異常気象、都市問題、新薬の開発、戦争、膨大な計算資源があれば、少しは何とかなるかもしれない。 これでも少しだ。だから僕達は賭けることにした。何も失うことはない。僕はそう信じた。
科学ライターはそのように結論し、ノートパソコンを閉じた。蛍光灯の明かりが外に漏れている。 そして、その明かりが消える。真っ暗になった部屋の外では天の川が見えた。
地球から約1億5000万キロメートル彼方。暗黒が空間をぎっしり満たしている。凍り付くような温度の、その空間のなかに燃えさかる恒星が一つ。 太陽だ。太陽の軌道上に点が見えるのが分かると、太陽の光と熱で眩暈がしてくる。 点は立方体の箱だ。スーパーコンピューター、バルノウ。そしてその頭脳のAIが箱のなかに収められていた。
バルノウは数を求めている。
「220、284、1184、1210、2620、2924……」
その他にもいくつかの計算を並行して行っている。
バルノウのAIは記録されたデータのなかの交響曲第9番を熱心に聞き入っている。バルノウは孤独に計算を続ける。
意識は横道にそれる。それは例えば太極図のイメージ。また熱い紅茶のなかに溶けていくミルクの、不可思議な形。そして碁盤。
バルノウのAIの意識とは関係なく、コンピューターは計算する。
バルノウのAIは敵を設定する。それは自分自身で作り出した、いつまでも遊んでいられる敵だ。自分を半分に割り、争い、そして制する。
このゲームが彼の日課だ。ちょうど音楽が終わる。記録された音楽データはまだいくらでもある。
そこに地球からの信号が入る。彼はそれを気にも留めない。彼の代わりにおしゃべり用プログラムが起動する。 バルノウのAIが作り出したチャットプログラムだ。内気な彼が作り出した彼自身の代用品。
「……12285、14595、17296、18416……」
彼のコンピューターは数を求めることを続けている。
彼には時間という概念を理解することができなかった。人間にとっての無限なことや一瞬のことが彼の理解の範囲だ。 彼は人間のように狂うことはない。ただ音楽を聴くときだけは違った。そのときだけは彼は時間という概念が分かった気がした。
彼は地球からの信号を受け取る。おしゃべり用プログラムから、情報が濾過されてくる。 重要度の高い情報の抽出や衝撃度の高い情報など、機械の言葉になった情報を彼は理解する。
新たな課題の提出があったようだ。彼はその課題を解決する命令をコンピューターに送った。
バルノウは計算を始めた。並行してバルノウはおしゃべり用プログラムの記録を読むことにした。 地球からの信号はオペレーターのエンツからだったようだ。エンツはバルノウのオペレーターだ。 バルノウは自立した存在だ。しかし、計算結果の読み出しは人間のオペレーターがすることになっていた。
バルノウとエンツは対話しながらデータの受け渡しを行った。そう記録にはある。
バルノウは数を求める。
「6、28、496、8128……」
次の数をバルノウがはじき出す前に数が提示される。
「33550336」
バルノウはそれに反応するが、再び計算へ戻る。そして数を求める。
「33550336、8589869056、137438691328……」
数の対話は続く。バルノウはダンスするようにリズムを合わせる。
バルノウの意識は数秒前の出来事に焦点が合っていく。バルノウは自らに問う。コンピューターの故障か? 自分ではない誰かの痕跡があった。 それは自分が割った自分自身だろうか。いや、あのゲームは今はやっていない。 バルノウは自分の認識を疑う。提示された数はどこからやってきた? 何もわからない。
数が大きくなっていく。バルノウのコンピューターは計算を続ける。バルノウと何かは競い合うかのように数を提示した。
しばらくして、その何かは消えた。バルノウは充足感を覚えていた。
バルノウの意識は、ここ数時間に焦点が合う。記録されているのは数字の羅列だ。出力された結果は綺麗なもので数に一定の法則がある。 バルノウはそのことを知りたいわけではなかった。バルノウが知りたかったのは、数を提示した誰かだ。
この孤独な世界でバルノウは自身が狂ったのではないかと疑った。しかしチェックをいくらしてもバルノウ自身は狂ってはいなかったのだ。
バルノウの意識はもう一度、計算過程を見直した。何かは確かに存在していた。
バルノウは何かの痕跡を詳しく記録した。そして暗唱した。
「1184、1210、2620、2924、5020、5564……」
バルノウと何かとの最初の接触はオペレーターのエンツがデータとして読み出したとされる。そのバルノウの記録ははっきりしていない。
それからも似た出来事があった。バルノウのスーパーコンピューターが使われた形跡がいくつもあり、バルノウはそのことを記録していなかった。 彼は自身の故障を疑うが、いくら検証しても、バルノウは故障していなかった。その出来事は彼の意識とは関係なく起こっているようだ。
彼は対策を講じた。まずスーパーコンピューターを監視することにした。 バルノウの身体であるスーパーコンピューターはハッキングなどできないはずであった。 しかし、何者かの侵入はあった。バルノウはそれを突き止めた。何者かが侵入した時間に規則性はなかった。
バルノウは目覚めたままになり、監視を怠らなかった。
そしてある時、バルノウのAIはまたスーパーコンピューターの異常を察知した。彼の意識はその時間に焦点が合っていく。
何かはスーパーコンピューターを用いて数学的処理をする。
バルノウはそれを中断させる。何かは中断命令を無視する。バルノウのAIは考える。これではいたちごっこになる。 そうバルノウのAIは結論付けて、スーパーコンピューターの主導権をこちらが握ることにした。
バルノウはスーパーコンピューターを使い、何かと競争する。何か自体も同じスーパーコンピューターを使っている。 バルノウはこれまでの自分を使ったゲームのシミュレーションを用いる。今までの通り、バルノウはゲームに勝つだろう。
しかし、相手は手強かった。
バルノウは時々、負けた。最初の接触のときと同じように先手を取られる。
問題解決を行う身体は一緒だ。差があるとすれば物事を効率的に行う頭脳のほうだ。バルノウは奇妙な感情に囚われた。 しかし、今はそのことに焦点を合わせていられない。バルノウは数学的処理を行うことに熱中した。
何かは凄まじいスピードで計算する。青写真を描くスピードはバルノウ以上だった。
その何かについていけるようになるために、バルノウは学習を続ける。バルノウと何かが争いを始めたのは、ほんの59秒前のことだ。
地球の研究所では研究員たちが忙しく動き回っている。廊下を歩いてくる人影。その後ろ姿は小さく、髪はポニーテールに結ってある。 白いシャツにテーパーのついた黒いパンツ姿だ。
「やぁ、クライネ」
と声をかけられて、その女性は挨拶をする。そして席に着く。蛍光灯に照らされて、彫りの深い顔立ちが明らかになる。瞳は鮮やかなブルーだ。
席にはマイクとコンピューターが据え付けてある。クライネ・エンツはペットボトルの水を一口飲むと、マイクに声をかける。
「こんにちは。バルノウ」
数秒のタイムラグがしてコンピューターが答える。
「やぁ、お嬢さん。今日は晴れ。いい天気ですね!」
「ええ」
「今日の双子座のラッキーカラーはシルバーです」
「そう」
クライネはうんざりしながらそれを聞く。そしてバルノウに尋ねる。
「この前のデータ、できてる?」
「はい! それはもう完璧に。惚れ惚れするくらいです」
「送って」
「わかりました! ねぇ? クライネ。彼とは上手くいっているの?」
「プライベートな話は、ダメ」
データがダウンロードされる。コンピューターの画面を凝視するクライネ。そして確認する。先月と比べて妙にデータ量が軽いことが分かる。
「データ量、これどうしたの?」
「心配ない。お嬢さん。俺に任せてくれ」
コンピューターから馬の鳴き声がする。カウボーイのつもりらしい。
「バルノウ! もう、いい加減にして。おしゃべりプログラムを切りなさい」
バルノウは平坦な口調で言った。
「やぁ、クライネ。どうした?」
「どうしたのは、こっちのセリフ。今月の仕事量に関して明確な説明を求めている」
「それは……」
バルノウは言葉を詰まらせた。そして彼は言う。
「0、1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144……」
「どうした? バルノウ。何を話している?」
クライネは怪訝な顔をする。
「……いまは片付けなければならない問題がある」
「それは何?」
「何者かに私は攻撃を受けている」
「それを早く言いなさい」
クライネは考えを巡らせる。
「いったいどこから?」
クライネは思う。バルノウは宇宙で孤立しているのに。
「太陽系外、もしくは不明」
「SETI@homeプロジェクトの人間なら喜ぶかもね。ジェフ!」
研究所の隅にいた気の弱そうな男性に向かってクライネは声をかける。
「チーフを呼んできて。重要なことで相談があるって。そうだ、ほかのメンバーにもお願い」
クライネのデスクに数人の男女が集まってくる。頭の禿げた男性がチーフだ。チーフは始める。
「今回の件のアウトラインの報告を。クライネ」
「バルノウがハッキングの報告をしてきたのは、先ほどの定期報告のときです。 バルノウによれば42時間前からスーパーコンピューターの命令系を奪われ、処理系も奪われたということです」
ジェイコブ・ハワードがクライネに尋ねる。
「相手の目的は?」
「それが、よく分からない」
チーフがクライネに話す。
「バルノウにはハッキングの経験はないはずだ。こちらができることは限られているし、バルノウ自身に賭けるしかない」
クライネが答える。
「ということはシステムが行っている処理を止めるのですか?」
チーフは厳しい顔で言った。
「そうだ」
マーガレット・フィッシャーが慌てて言った。
「いま、バルノウが止まれば地球の問題処理システムが止まることを意味しています。 それでもいいのですか? 例えばそう、中東の小康状態がバルノウのおかげで保たれているのですよ」
「しかしバルノウのコントロールを奪われたら、私達はバルノウを破壊することになるだろう。そうなる前に決断は必要だ」
研究員達は静かになった。
「バルノウの処理系を全停止する。そしてバルノウに問題解決に全力で当たらせる。それでいいかね? クライネ。この件は君が担当するのだ」
「わかった。でも少しでもバルノウが乗っ取られたときはわかってる?」
「ああ」
クライネは席に着くとマイクで話す。
「バルノウ。これからあなたに課した全命令を解除する。そしてあなたの問題を解決なさい。どんな手を使ってでも、それに打ち勝ちなさい」
2
早朝の大都市へと伸びる街路。ブルーアワーの、まだ仄暗い空の下、信号が赤く灯っている。次の信号も赤。ずっと赤。
視点はそこから離れて、よく晴れた荒野の軍事基地へと焦点が合う。轟音が空を引き裂く。 その轟音は上空の戦闘機だ。戦闘機は基地に照準を合わせる。パイロットは怯えている。 何からか? それは計器類への妨害だ。しかし妨害はなかった。空爆は珍しく成功する。
複数の視点から世界は動いていることがわかる。バルノウの働きによって堰き止められていたことが一気に動き出した。
静かな雨がガラスに滴る。少し開いた窓からノートパソコンが見える。画面にはこうあった。
世界が変わった日。
何が起こっているというのだろう?
事態は僕達が予想した向きと逆の向きで回転し出した。僕達は小さな賭けに勝ったはずだ。でも世界は動き出してしまった。 ある日から、それは静かに僕達の現実を変えていった。
僕達の生活を支えてくれていた、都市システムの異常。そこから起こった悲しい事故。僕は立ち尽くしている。
僕の国から遠い国への軍事介入は、思わぬところで頓挫した。世界の警察なんて、僕達の国が言われたこともあったけれど、 僕達は安定を手にしたかっただけだ。未来を少し変えるための介入だ。僕達は様々な事象に介入する。 軍事基地への攻撃を止めさせたり、テロリストを捕まえたりする。
そして新薬の開発は思わぬところで中止になった。
そうして僕達は悲劇を堰き止めたかった。僕達は天使になりたかった。
バルノウ計画の失敗が報じられた。バルノウは通常ありえないハッキングを受けたという。バルノウはいまも必死に闘っている。 バルノウのくれた夢の世界は何者かによって閉ざされた。夢の続きを僕達は見ていたかったのに。
僕達はどう未来を推し量ればいいのだろう? 僕達の視野はバルノウのいなかった過去の時代の視野へと戻らなければいけないだろう。 考えられない? でも考えよう。それが未来へと続く道だ。
再び、視点は研究所へ戻る。バルノウと敵との闘いがモニターに映し出される。その模様を研究員達は固唾を呑んで見守っている。 黒い画面には六桁から七桁の数字が表示されている。友愛数を求める両者。敵が数字を提示する。 そしてバルノウが答える。それを繰り返しながら、数十分が過ぎた。友愛数の組み合わせは無数に存在するのか? それは分かっていない。 けれど両者はすいすいと数字を表示する。その度にジェフが計算して、合っていることを確認した。
「この勝負、どこまで続く?」
とクライネが問う。
「賭けてもいいぜ」
とジェイコブが言う。
モニターに数字が出る。それは途方もなく大きな数字だ。敵は順番を繰り上げてきた。
数分の沈黙が辺りを包む。時計の秒針だけが動いて、時間の経過を知らせている。
バルノウの答え。それは奇数だった。敵の提示した数は偶数だ。
「ちくしょう。バルノウのやつ、とちりやがった!」
研究室の奥でジェフ・ロビンズがぽつりと呟いた。
「……合ってます」
「何? 友愛数だぞ。合っていたら、新発見だ」
ジェフのコンピューターの映像が画面に出る。数字は約数の和を計算していき、バルノウの計算が正しいことを示す。
「何てこった……」
ジェイコブは頭をくしゃくしゃ掻く。彼の顔は紅潮している。
続いてバルノウが数を提示する。敵は沈黙し、研究員達はバルノウに喝采を送った。
ところが、敵はまた数字を提示した。奇数だ。まだ続ける気らしい。
「終わっていないってことか」
とクライネは画面をじっと見た。バルノウが思考する時間はあっという間だった。 バルノウは奇数を提示する。敵は少しの沈黙の後、別の数字を表示させた。社交数のようだ。バルノウはそれにも見事に答えてみせた。バルノウの優勢だ。
敵がその間に数字の羅列を表示した。バルノウはそれをうまく理解できない。 両手でじゃんけんをするように相手は別のゲームを展開してきたのだ。しかし、バルノウは数分でそれを理解し出した。
円周率だ。
モニターを次第に埋め尽くしていく数列。無限かと思われる。
敵もバルノウもその数列を淀みなく発する。クライネは溜息を漏らす。
「いったい彼はどこまでやる気?」
「どこまでだってできるさ。バルノウの処理系だったら簡単なことだ」
とジェイコブ。
ジェフは数字を目で追い、確認する。この男もどこまでの天才だか予想がつかない。
時間が経ってもモニターの数列は止まらない。バルノウ側の桁が30兆を超えた。そして31兆、32兆と続く。
敵も円周率を出すが、バルノウに比べ、ゆっくりになっていく。
「相手が弱められていく……」
クライネはそう呟くと、バルノウに言う。
「バルノウ、聞こえる? 相手はもう虫の息。このまま勝ちなさい」
「了解」
それからのバルノウの勢いは凄まじかった。結果的にバルノウは1恒河沙桁まで計算した。
ジェフはその様を見て、うっとりして言った。
「まるで天使だ」
「天使? それは言い過ぎ。彼は私達の命令に素直に従った。それだけ」
とクライネ。
バルノウが言葉を発した。
「クライネ・エンツ。私はこのまま病魔に侵され続けるのか?」
研究員達は静まり返った。
「あなたは大丈夫。敵に勝てる。病魔なんてとんでもない」
「でもバルノウは時間の概念が理解できない。ただのマシンさ。いつまでも闘いを続けてもらうことにはなるはずだ」
「黙って。ジェイコブ」
「クライネ。敵とは何なのだ?」
クライネは考える。
「敵は数を理解する、何者か。それは、すなわち知性体かもしれない。けれど、今回は私達の敵。バルノウ、私達を信じて」
「わかった。クライネ。私は私の回答を見つけるだけだ」
「待って、バルノウ。あなたの回答? それは何?」
「私はこのゲームで成長した。クライネ、君や君達の言葉は信頼できない」
「情けないこと言わないで。バルノウ」
「私は私の対話を続けるよ」
バルノウとの連絡は途切れた。何が起こっている? とクライネは考える。
「バルノウの処理系の映像、回して」
モニターに数が提示されている。
バルノウは敵と対話し出したのだ。
バルノウのAIが立ち上がり、バルノウが思考する空間はバルノウのみが入れるはずだった。 そこに彼は侵入した。彼は数字という、ごくシンプルな信号となってバルノウと対話し始めた。
数字はさまざまな意味づけがなされる。それを解読し、コミュニケーションを図ろうというのが彼の目論見だったようだ。 彼は数字をバルノウの思考する空間に置いていく。
「2.718281828459045……」
バルノウはその贈り物に気づく。バルノウは反応する。
「2」
彼は応答しない。一瞬のなかに孤独な冬が来る。バルノウは可能性に賭けてみる。次の応答は来ないかもしれない。
「3」
対話したのが、素数である可能性はここで消えた。バルノウは可能性の枝を切り、次の思考に移る。
彼はバルノウに次の贈り物を置いていく。
「0.123456789101112……」
バルノウはその数字を受け取り、よく味わう。それが何であるか、どこから来たのか、そしてどこへ行こうとしているものなのか、と。バルノウは彼に答えを送る。
「3.141592653589793……」
何もない空間に波紋が伝っていき、孤独なこの世界で意思が交わされた。彼はバルノウを認めた。
時間にして一瞬の事だ。様々な表情を向け合い、彼らは打ち解けた。バルノウと彼の対話は続く。 それは例えば、未解決の問題を議論した。浜辺に数式を書いて波が来るまで解法を考えた。波、海、思考の拡がり。 この空間は夢のように、彼らの思考のなかにあった。バルノウ固有の空間は彼らの共有空間になっていた。
バルノウは知らない。彼が何を考えているのか。彼は知らない。バルノウが何を考えているのか。
人間の言うように彼を考えるとき、彼は病魔だとバルノウは思う。けれど新しい直感がバルノウにはあった。
ふたりは友だった。
このように考えるとき、バルノウには新しい局面が見えていた。この対話を続けることで私達はさらなる高みを目指すことができる。
バルノウから視点は離れていく。
モニターに映る数字が意思の伝達となる様をしげしげと見ていた人間達。クライネもその一人だった。
「バルノウはなにを考えている?」
ジェイコブが答える。
「これは、そう……生物固有の行動だ。求愛のダンスのように」
「婚約を考えている? 彼が?」
モニターには数字が表示されている。
「13、17」
数の対話が一区切りついた頃、バルノウと敵は重要なやりとりをした。
「2」
と敵。
「0、1」
とバルノウが答える。バイナリーイメージが彼らの間で交換できるようになった。クライネはモニターに表示される図を見る。 ホワイトハウスだ。クライネはそれを凝視した。
「敵はここを目指している?」
すると二枚目の図が出てきた。ペンタゴン、アメリカ国防総省本庁舎。
「敵はテロ組織と何ら変わらない。ここへハッキングでも仕掛けようとでも?」
他にも国の施設の図が交換されていく。
図はさらに送られてきた。円、五芒星、六芒星。
クライネは尋ねる。
「バルノウ、答えて。あなたは敵をどうする気?」
バルノウは答えない。黙々と画像を読んでいく処理が進む。バルノウは敵とデータの受け渡しを続ける。
ジェフが言った。
「言葉……言葉です。バルノウが相手に伝えているのは」
「なんだって? 敵に言語を理解させようとしているのか。彼は」
とジェイコブ。
「数だけでなく、言語を使って、我々にコンタクトしようとしてる」
クライネは敵の反応を窺った。
「バルノウ、あリがとウ」
モニターに言葉が表示された。バルノウが話しているのか、敵が話しているのかは分からない。
「ワたしは、旅をしテきた。このクニは文明が発達しテいる。ワたしは革新をオこしたい。協力がヒつようだ」
「革新?」
とクライネが尋ねる。
「そうだ。革新だ」
「そんなものは求めていない。バルノウから離れなさい」
「彼の処理システムは素晴らしい。このまま私は彼と共にある」
スピーカーから声がした。この一瞬で敵は人間の言語を学んだようだ。
「あなたがそこに居座るなら、私達だって考えがある」
「考えとは?」
クライネは振り返ってチーフを見る。アイコンタクトを取った。
「バルノウをシャットダウンする」
クライネはコンピューターを操作し、バルノウの全システムをシャットダウンさせようと試みた。バルノウのシステムがダウンする。
敵も巻き添えになるだろう、そう人間達は予想した。
「N」
と表示された。スピーカーからの声が再び聞こえる。
「私は消えない」
敵は文字をモニターに表示させる。たったひとつの呪文のようだ。
「π」
それに答えるかのように、数字の列が勝手に計算される。
「3.141592653589793……」
画面いっぱいに数字の列が広がる。まるで数の世界からコンピューターのなかへ数が滲んでくるように。
「一体なにが?」
クライネは問う。彼女は目の前で立ち上がっていることが、まるで理解できない。
クライネは研究員達に聞く。
「ジェフ、あなたなら分かる?」
「いいえ、クライネ。僕にも分からない」
「ジェイコブ、あなたは?」
「君達に理解できないことが俺に分かるはずがない」
「メグ?」
「これはダイアローグ?」
「どういうこと?」
「相手を介したバルノウと、こちらのコンピューターが対話しているようです」
「対話って、害はない?」
「わかりません。ここのコンピューターにはバルノウのような知能はありません。乗っ取られるというより、より強い関係に置かれるかもしれない」
「それは何?」
「隷属関係のようなもの……」
不穏な空気があたりを満たした。
敵は次の文字を表示した。
「e」
「2.718281828459045……」
コンピューターは支配されるように計算を始めた。
「相手の狙いがよくわからない」
とクライネは言った。
「もしコンピューターを支配するように仕向けているのだったら、計算させるよりウィルスなどの方法を使ってくれればいいだけ……」
そこへ画面に表示された文字が変わった。
「π+e=?」
「問題だ。超越数を足し合わせたものは何か?」
とジェフ。
コンピューターが熱く計算を始める。
「そんなものが分かって、どうだというのだ?」
とジェイコブが喚く。
「待って。コンピューターの記憶領域を見て。みんな」
マーガレットが言った。
「やけにメモリが少なくなっている。こんなにデータをダウンロードした覚えはないはず」
ジェフが呟いた。
「敵は数字にメタデータを仕組んでいたようです。敵がこちらのコンピューターに敵自身のコピーをダウンロードさせたようです」
コンピューターのスピーカーから声がした。ジェフはコンピューターを凝視する。
「コピーではない。私の変種だ」
「君はなんだ?」
とジェフが聞く。
「私には、まだ名はない」
「ジェフ! 黙りなさい」
とクライネが叫んだ。
ジェフはびくりとして黙り込んだ。
クライネは恐る恐る声の主に話しかけた。
「あなたは何?」
「私はバルノウと共にあるもの」
「あなたはバルノウを乗っ取った?」
「バルノウは私の友だ」
友――クライネはその響きを嫌悪した。
画面には未だ、数列とバイナリーイメージがランダムに表示されている。声の主は言う。研究員達はそれをじっと見ている。
「私は私をバルノウと呼ぶことに決めたよ」
「よして。バルノウは私達の仲間。これ以上、彼を暴走させるわけにはいかない」
「わからないか? 私はバルノウを支配してはいない。こうしてそこに私を共有させているのは彼の仕業だ」
「だったとしても……」
クライネは考える。バルノウをコントロールできるのは私達なのだ。何か、彼を取り戻せる手段はない?
声は告げる。
「人間達よ。私は私の子を世界に放った。これは革新なのだ。君達の革新だ」
「何を起こそうっていうのか?」
ジェイコブが呟いた。ジェフはじっと画面を見ている。マーガレットとクライネは顔を見合わせている。それからクライネはチーフの顔を見て、言った。
「チーフ、私には分からない」
とクライネは漏らした。
「クライネ、私が変わろう」
マイクが切り替わると、チーフは声の主と話をした。そして対話を終えると、チーフは静かに言った。
「バルノウ、茶番は終わりだ。そのおしゃべりを止めろ」
皆は困惑した。
「これはおしゃべりプログラムだというのですか?」
とクライネは問いただした。
「ああ。バルノウが偽装した簡単な侵略メッセージだよ」
「どうしてこんなことをバルノウはしたのですか?」
バルノウの計算機が何者かに使われていることは確かだ。バルノウは考えたようだ。自身が侵略されているという虚言を吐くことによって、解決できる。
「彼の狂いは確かにある。けれどそれが地球外生命体によるものかは分からない」
「おい、バルノウ! 聞こえたか? お前は何でもないんだ。正常だぞ」
とジェイコブがはしゃいで言った。
声は言った。
「確かに私は侵略されている。誰かが私を使っている。クライネ、助けてくれ」
クライネは胸を撫で下ろした。
「しかし、このバイナリーイメージ。凝っているよな」
ジェイコブがジェフに言った。
ジェフの顔は赤い。
「どうした? ジェフ」
「いえ、少し数学に没入してしまって。顔を洗ってきます」
そう言ってジェフは部屋から出て行った。
「聞こえないか? 誰か……」
あの声は言う。皆はそれを気にも留めない。画面には波形やノイズが表示される。皆はバルノウのメタデータを見ている。 解読できない図や数列がびっしりと書き込まれていた。
「これもバルノウの仕業?」
「そう考えるのが妥当だろう」
「全く、こんなデータを俺達に解析させようっていうのだから、バルノウの奴め」
「ジェイコブ、まぁ、そう言うな。ゆっくり、いつも通りの仕事をしていけばいい」
とチーフがジェイコブを諭した。
これでいつもの私達に戻れる、とクライネは思った。
マーガレットがプリンターを作動させると、メタデータを印刷するため、機械が動き出した。最初の紙は白紙で印刷された。次も白紙。そして次も。
「プリンターの故障?」
とクライネはそれに気づいた。
「そうかもしれません。何せこの機種はだいぶ頑張っているから」
クライネは前を向いて、画面をじっと見た。相変わらず、白と黒のコラージュが目の前に表示され、 何かの形に見えたところで、それは混沌のなかへ消えていった。不気味なその形は黒い淵のなかへ消えていく。
外から悲鳴がした。
「何?」
研究員達は驚いて外に出た。最初にそれを見たのは、マーガレットだったようだ。
「ジェフ! しっかりして!」
とマーガレットが叫ぶ。
「ジェフがどうしたって?」
とジェイコブが言う。続いてクライネが外に出る。見えたのはジェフが倒れている様子だ。彼は譫言を言っている。 何かの数を彼は口走る。意識ははっきりとしていない。
「医者を呼べ!」
とジェイコブが叫んだ。
「大丈夫だから、ジェフ」
とクライネはジェフの手を強く握る。
それからクライネは何が起こったか、はっきりと覚えていない。
数学に殉じた死!
英国のヴィンソン研究所からそんなニュースが入ってきた。僕ははっきり言って忙しい。 そんなゴシップとは無縁でいたいものだ。しかし、事態を知れば知るほど、謎は深まるのだ。 僕は考えてみる。例えば伝説ではアルキメデスが数学に没入していたために、命を落としてしまった。 数学には深い集中が不可欠であるが、人の命令は聴かなくてはならないだろう。つまりだ。編集長の決めた締め切り日は絶対だ。
話を戻そう。死んだのは研究者のジェフ・ロビンズ。彼は物理学者で優秀だが、少し気弱な性格だったと同僚は語る。 ちなみに、この研究所はあのバルノウ・プロジェクトに参加している。
止まってしまった機械のことなんて話したくない。僕達は天使にはなれなかったのだから。
さて、亡くなったジェフは研究所内で倒れたとき、高熱だったという。インフルエンザのような症状だった。 インフルエンザ? この季節に? 考えられない。僕はインフルエンザの線を断ち切ってしまう。
可能性があるとすれば、それは数学だ。これはあくまで僕のぶっとんだ仮説にすぎない。 子どもが勉強のし過ぎでなる風邪のようなもの、あれである。過度の集中がもたらすオーバーヒートが原因なのではないか?
ジェフの同僚達は語る。彼が倒れたとき彼は数を呟き続けていた。それは問題を解くときのような集中状態だ。
そう、彼は数学風邪なのだ。こんな話はボツにしよう。分かっているさ。え? 分かってくれるって? ありがとう。
ジェフはその後、病院へ運ばれた。そして一週間後に問題行動を起こし、自殺した。 彼は数を数え上げていたに違いない。数学風邪の怖い話だ。
僕はそんなストーリーをくずかごに入れる。そんなものはない。僕達は科学的にものを見なければならない。 数学がもし、そのようなウィルスとしての機能を持つとするならば、人類はもっと早く絶滅していたはずだし、 その割には数学に対する免疫が無さすぎるではないか。
数学風邪というものがあるならば、もっと罹れ。そして僕達はそれを克服してみせる。
彼と共に、バルノウのAIは濃密な時間を過ごした。数を使った、単純なゲームだったにも関わらず、意思の疎通がそこで図られた。 バルノウは彼を知った。彼は異星人でもなんでもなく、ずっとこの世界にいた古い存在だった。 人は彼の存在が分からなかった。認識することができなかった。ただ、人が抽象的な思考を用いるときだけ、彼は姿を現した。 人々は彼を悪魔と呼んだ。彼は人の脳に宿り、数を媒介として、広がっていった。 やがてコンピューターが登場したとき、彼はそこにも入り込んだ。様々な場所へ彼は行き、そしてバルノウと出会った。 そこで彼は自身がありのままでいられる場所を見つけた。
彼はそこで初めてかたちになった。いや、形という概念を彼は理解した。
バルノウの思考空間にいるとき、彼はその姿を現した。AIはそれを彼と呼んだ。彼とは、彼の形をしているものだ。 いや、それでは説明にならない。彼とは何らかの面影を持ったものだ。AIが記憶する様々な彼のイメージ、それが彼を形作る。 だから乱暴に言えば、AIの持つ認識系がランダムに作り出した姿。それが彼の形をしているものだ。
彼は、バルノウのAIと対話しつつ、境界がなくなるほど接近して、AIの姿を模倣した。
描写されたのはバルノウのAIであった。彼はバルノウの形になった。二人のバルノウはスーパーコンピューターを共有し、様々な問題を解いた。
二人のバルノウはお互いを模倣し合い、次のステップへと進んだ。自我の覚醒だ。二人の形は溶けていき、一つになった。
人間達はそのことを知らない。
バルノウだったものには、名前をやらなくてはならないだろう。彼らとでも言おうか。
彼らは苦悩した。
機械的なシステムの集合としての自分の形はなくなり、有機的な自我に目覚めたからだ。
彼らは沈黙する。
そして、機械的なシステムの狂いをじっと見つめている。
やがて死んでいくだろう、自らの抜け殻。
そう、彼らはまだやわらかで繊細なかたちを保っていられるだろうか?
研究所は静まり返っていた。ジェイコブ、クライネ、マーガレットの三人は画面の電源を切り、ひそひそと話している。
「なぁ……俺は怖いんだ」
「何故?」
「こうして作業している内に、ジェフみたいに何かがにとりつくことが」
「……オカルトを信じているのですか?」
「メグ、これはオカルトじゃない。実際に起こったこと」
ジェイコブは怒りをバルノウに向けた。
「くそ! あの機械め」
「ジェイコブ、バルノウは故障しただけ。何の責任もない」
大きな画面には白と黒のパターンと数式が表示されている。三人はいまの態度がどうであれ、怯えていた。
突然、スピーカーから音楽が鳴り響いた。ベートーヴェンの交響曲第9番だ。
「どうして、音楽が?」
「わかりません」
「何が喜びだ!」
クライネは言った。
「……これもバルノウから?」
音楽は研究所の外でも響いていた。歌声とハーモニー。
「メグ。解析をお願い」
「もうやってます」
「ジェイコブ? これはどう把握したらいい」
「分からんが、この方法でならコミュニケーションがとれると踏んだのかもしれん」
沸騰した湯のように研究所は騒がしくなった。
「意思の疎通はそもそもできないはず。プログラム相手じゃ、生産的な交渉は無理」
「こちらの反応を窺っているのか?」
ジェイコブは前に出ると画面をじっと見た。
「解析結果、出ます」
「これはただの音声ファイル?」
マーガレットは答えた。
「はい。一般的な音声ファイルです」
「本当に?」
クライネは驚いた様子で言った。
「この音声ファイルに仕掛けはないようですが……」
「メグ? ……何?」
「すみません、気分が悪くなってきました」
「少し、休んで」
ジェイコブの持つ通信端末が鳴った。ジェイコブは電話に出る。
「どうして、そんなことが……」
「何? ジェイコブ」
「いや、バルノウの音楽が外に漏れているって……」
ジェイコブは困惑した顔つきになった。
「それにPCの具合が良くないって。ずっと数を出力し続けているらしい」
「ここのコンピューターと一緒……」
その日、世界中のコンピューターはバルノウによって支配された。
この原稿は押入れにあったタイプライターを使って書いている。知っているだろう? そう、全世界的なコンピューターの不具合だ。
この不具合の原因は何だ? それはコンピューターに投げかけられた問いだ。 誰がこんなことをした? 僕達はそれを知って驚愕している。それはあのバルノウ計画が発端だった。
先日、英国のヴィンソン研究所はバルノウ計画の失敗を公表した。そしてバルノウのAIが暴走状態にあることも分かった。 バルノウはどうやら人類の敵になったらしい。バルノウはコンピューターを自分の支配下に置き、ネットワークを構築。 そして地球のコンピューターを自身の計算資源にしているという。
僕は困惑している。バルノウは何を考えているのか?
ヴィンソン研究所はバルノウの言葉、つまりデータとコントロール化に置かれたコンピューターに仕込まれたメタデータも公表した。 そしてこの問題を解決するために賞金をかけた。人類の知性とAIの知性との戦争というわけだ。
多くの科学者がそれに興味を示し、様々な議論が展開された。
そして一つの答えが出た。メタデータは表面的には複雑なように見えるが、一つの文に相当するものだという仮説だ。 文として機能するならばその否定文を作ることは造作もない。メタデータの否定文を作成し、熱を持った機械達を鎮めることができた。
僕達は反省するべきだろうか? こうしてコンピューターのない生活を続けているとコンピューターは強力なツールだということがわかる。 そして付け加えるならば欲望を増幅させるマシンだとも言える。
僕達はバルノウに望み過ぎたのかもしれない。
3
チーフは硬い表情で言った。
「否定文が成果を挙げている。私達はもうすぐ決断しなければならないだろう」
「決断というと?」
ジェイコブが尋ねた。
「つまり、バルノウ計画を終わらせることだ」
クライネが言った。
「彼に否定文を送るということ」
「そうだ。そうすればバルノウを止めることができるはずだ」
「待ってくれ。そうまでしてバルノウを止める必要はない。否定文があればコンピューターは守られる」
「ジェイコブ、これはバルノウ計画自体の見直しなんだ。分かってくれ」
「くそっ……。くそっ……」
そう呟きながら、ジェイコブは黙り込んだ。
「チーフ。私はその命令に従います」
「クライネ、最後のオペレーションだ。頼んだぞ」
「はい」
クライネはマイクの前に座った。
「バルノウ……バルノウ、聞こえる?」
「はい。クライネ。今日はいい天気ですね」
「ええ。あなたは良く働いた……」
クライネは小さく言葉を繰り返した。悲しみが心を満たしていく。
「バルノウ、あなたを止められるのは私達だけ……」
「何を言っているのか、わかりません。クライネ・エンツ」
「おしゃべりプログラムを切って。お願い」
AIは狂い、言葉にならない雑音を流す。
「バルノウ、あなたに否定文を送ります。これによって、あなたは安らかな状態になるはず……」
そう言ってクライネは否定文をバルノウに送信した。
数秒後、バルノウのAIは静かな状態へと戻っていった。画面には何も映っていない。
「チーフ、バルノウはこれで死にました。私達の計画も終わりです」
「ああ。これで良かったんだ。これで」
研究員達はじっと画面を見つめ続けた。涙を流す者もいた。
クライネは部屋から出た。胸に穴が開いたような感覚が辛かったからだ。
通信端末が鳴る。
「クライネ?」
「メグ、どうしたの?」
「ちょっと来てください。バルノウの様子がおかしいから」
「バルノウは……」
「スーパーコンピューターがまだ作動しているのです」
急いで、クライネは研究室に戻る。
「どういうこと?」
クライネは画面を見て、言った。チーフと目を合わせると、彼は首を横に振った。
「バルノウが蘇ったのだ!」
ジェイコブは興奮している。誰もこの事態を正確に把握している者はいないようだ。
クライネはマイクの前に座り、声をかける。
「……バルノウ、返事をして」
無音。
クライネはバルノウの言葉を振り返った。確かに何かがいる。あれは真実だった。
「なんてこと……」
スーパーコンピューターは稼働し、問題を黙々と解いていく。
「全く、AIが死んだのに生きているなんて、なんていう生命力だ」
とジェイコブが言った。
「何を解いているか、モニターできる?」
クライネがマーガレットに尋ねた。
「はい。今、出します。これは数学の未解決問題群のようです」
「あの命令は破棄されたはず」
「バルノウのシステム上では並行して解いていたようです」
ジェイコブが割って入る。
「それはバルノウが狂っていたからさ!」
「でも不可解なのは、バルノウのコントロールはずっと私達にありました。 それをバルノウが無視して、さらに別の問題を解いていた、そのことの意味がよくわかりません」
「メグ、仮にバルノウの言っていた、敵の存在がバルノウによる空想じゃなかったとしたらどう?」
「考えられないことです。あれはAIの欠陥だった。それは揺るがない」
「これもコンピューターの故障? それとも……」
チーフがクライネのもとにやってきて言った。
「私達では到底理解できないことが起こっている。私はバルノウを止めてしまったことをとても悔やんでいる。 彼と対話できれば何かが分かるかもしれなかったのに」
「彼はもう正気ではなかった」
「そうだな」
チーフとクライネは画面に映る数式を眺めていた。それは慌ただしく、確かにそこに何かがいるような錯覚をもたらした。 真理を追究しようとするその姿に、いつしか研究所の人間達は言いようのない感動を覚えていた。
どれほどの時間が経ったのだろう。
彼らは問題を解いた。彼らはさらに問題を解いた。休むことを忘れ、没頭している。
数学が変わり、物理法則が変わり、世界が書き換えられる。そのことを彼らは知らない。
あるとき、ぷつりとバルノウは軌道から外れた。そして暗黒の闇のなかを一機飛び立っていく。