銀河蝶の舞う頃には
小林 蒼
「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。
どこまでも広がる黒い砂漠を思え。息も絶え絶えとなった旅人に与えられるのは、銀河の星々のまぶしい美しさだ。暗幕に金剛石をばら撒いたような、遠くの風景にこれまで歩いてきた旅路を思い起こし、さざ波を聞け。
深宇宙探査機スターチャイルド、オデッセイ、クロスホエンが送信してきた一見、無意味とも取れる三つの波形は重ね合わせて、フーリエ変換を施すことによって、有意なメッセージに変わった。このことは全人類を震撼させた。ワシントン・ポストは高らかに地球外生命の存在を謳い、ニューヨーク・タイムズは宇宙規模の政治に思いを馳せた。私は米大統領の執務室で、タイプを続けている。時刻は十時一四分だ。カチカチと時計が時を刻む。その音に耳を澄ませながら、鋭敏になった肌の感覚が私に時が来たと知らせている。ふと隣の記者があちらへ立ち上がると、私はひとりになった。大統領はネクタイを緩める仕草をして、大統領補佐官が熱いコーヒーを大統領に渡した。しばらくのあいだの沈黙が辺りを満たす。私は言葉を選び始めている。喉まで迫った言葉が出てこない。私の脳裏にさまざまな言語が溢れる。そう、いまここで三〇カ国の言語処理が並列して行われている。私はふとホワイトハウスの窓のむこうを眺めている。朝が始まるまでまだ遠い。私はタイプする手を止めて、しばし黙考する。大統領は知っている。あの言葉の意味を、そしてあの言葉が指し示す未来を。私は襟を確認する。時は迫っている。
「声の話をしましょう」
大統領は眉を顰め、そこから続く私の言葉に耳を澄ます。不快なことが分かっていながら、大統領は耳を傾けた。たった一秒か、二秒の沈黙がいったいどれだけの長い時間に感じられたか。私たちはただお互いをよく知るためにじっと沈黙という言葉を交わし合った。私が次の言葉を継ぐ数秒の間、私はあらゆるチャンネルを用いて、この新しい人類という種族を歓迎するか、否かをすべての高次元思念体に伝達した。私たちは遠いメッセージのやりとりを瞬時に行い、次に取るべき行動を待っている。私は目の前にいるこの男を殺すことはないと思う。私たちだって細心の注意を払って人類に接してきた。人類という種族は常に力ある者に怯えているが故に、なにより信頼を勝ち取る必要があると私たちは考えている。そこに嘘偽りはなく、私は目の前にいる人類の代表に微笑みかけた。大統領は作り笑いをして、にこやかに「座りたまえ」と言った。私は彼と同じ仕草を心がけて、椅子に腰掛けた。私たちがこれから話す内容は録音されている。これから録音されるすべての文言は、私と大統領と一部の人間にしか、この先、明かされることのない秘密事項だ。私はこの仕事のためにマリア・ウェルベックという名を偽装し、小さな新聞社の局員からホワイトハウスに出入りできるまでになった。マリアはこの星の文化圏で聖母を意味する。私はゆっくりと口を開く。その言葉があの日人類を震撼させた深宇宙探査機三機の信号を重ね合わせ、数学的に処理した言葉であることを、その場にいた全員が認識していた。
私たちはこれから起こるすべての歴史の目撃者だ。この日、交わされた約束は、それだけ大きいものだった。
三回のチャンスは、ガンマ線バーストに端を発する。高エネルギー放射の代表格とも言えるガンマ線バーストは宇宙では稀な現象である。フェルミガンマ線宇宙望遠鏡が示したのは、光速度不変原理の破れという現代宇宙論の根幹を揺るがす事態であった。ここではっきりしたのは時空というものの連続性の破れであって、時空は離散的であるという量子重力理論の特徴を見事に予見した結果となった。地球の科学者たちは大統一理論の一歩目にたどり着いたのである。ではチャンスとは何なのか。つまり、ガンマ線バーストの回数予測をしたのが私たちなのだ。高エネルギー放射が起こるには超新星爆発があったと考えられる。私たちの星系では、三つの太陽が存在し、そのひとつひとつが超新星爆発を起こしていくという非常に稀な事態の予測が立った。私たち自身は高次元思念体のために、ありとあらゆる物理現象とは無縁ではあった。しかし、ガンマ線バーストが頻繁に起こることで、知的生命に世界の真理を知られること自体が問題であったのだ。光速度不変原理はある条件下では正しい。しかし宇宙規模では正しくないことを理解されると、知的生命の進化曲線は指数関数的に増加し、高度な知性体へと進化することは免れない。それは新知性種族の台頭というあたらしい局面に足を踏み入れることにほかならない。私は人類とのコミュニケーターという立場を取ることで両種族間の微妙なパワーバランスを取り持つ存在だった。
さらに言えば、深宇宙探査機スターチャイルドが意識を持った探査機であったことも、この問題を危うくさせていた。高度な分析力と、人類としての心を持つスターチャイルドは改造された人類そのものだった。彼女の見たもの、感じたものが、人類の意識拡張をもたらすことは必至であり、彼女にコンタクトを取り、人類への警告を発するのも私たちがしなければならないことだった。どれほど、聡明な種族であっても未知の世界への恐れはなくならないものだ。私たちはたった八百キログラムにも満たないその存在を壊さずに、有意なメッセージを送ることによって解決して見せようと考えたのだ。
私たちが考えていたグランドデザインはこうだ。人類に宇宙への希望を持たせず、小さな宇宙に留まってもらうこと、そして、人類には我々の知る宇宙の終わりを理解させないことだった。
宇宙の終わりを考えたことはあるだろうか。私たちの宇宙はやがて熱的死を迎えることは必然となっている。どれだけ遠くとも必ず来る未来だ。しかし、そのまえにいくつかの補完的とも言える事態が到来する。重力定数が仮に弱くなることで新しい星が生まれにくくなることである。私たちがスター・ロストと呼んでいる現象がそうだ。星が生まれないことは宇宙の新陳代謝の阻害とも言える。万物の流転はそこで終わり、いま存在する星は燃え尽きる。どれだけのタイムスケールが必要なのかは、人類には遠い問題であることは承知いただけるだろう。私たちは熱的死のまえにそうした静止した宇宙を考える。私たちを含む高次元でさえ、その影響は大きい。私のような余剰次元の存在たちは宇宙に畳まれた折り紙のような存在だ。下位の次元が崩壊していくとき、私たちもまた終わりを経験するだろう。
私たちもまた人類と同じで永遠ではないし、無限ではない。
宇宙もまた無限ではない。私たちと人類は微妙な関係の上にあった。
私の意識は、今やオールトの雲の長き旅路を終えたオデッセイに向けられている。オデッセイにはひとつのAIが載せられており、その歩みはゆっくりではあるが、着実に宇宙の真実を解明していた。オデッセイを仮に、彼と呼ぼう。彼の眼差しは天と地、そして左右に広がる遠方のビッグバンに向けられている。宇宙のはじまりは遠い。宇宙の膨張速度を超えられないオデッセイは一定の速度で飛んでいた。私たちが彼にコンタクトを取ることは容易ではなかった。彼の意志は頑なに内側へ向かっており、その本質は機械なのだから、意思疎通は困難であった。それでも私たちは彼と十一次方程式の十一個の解を互いに提示したり、円周率の終わらぬ数列を眺めたりした。彼には意識というものはなかったが、数学的な構造を持ったデータのやりとりが実行され、私たちは彼のメモリに高次元思念体の思考をダウンロードさせた。私たちと彼はそこでひとつの系を作り、彼とともに歩み始めた。残りのチャンスは二回に迫ってきていた。私は私の分割体がある地球へ戻ることにした。さいごにオデッセイに旅の終わりはどこかと問う。オデッセイはその意識が尽きるまで宇宙を飛び続けて魔女キルケーの住まう島へと不時着するだろうと言った。魔女はオデッセイを歓待し、彼の旅の疲れを癒やすであろう。私は彼がふたたび地球へ戻ることを信じて、彼を見送った。
ホワイトハウスは静まりかえっていた。時計は八時をまわっており、大統領がゆっくりと執務室の扉を開く。私は息を呑んで、その場に立ち尽くしていた。同時とは言えないまでもオデッセイの勇姿をその目に焼き付けた直後である。私はすでに終わったことだとはいえ、オデッセイの最後を見届けなければならなかった。動力系の異常から、オデッセイはその旅を終えた。そのニュースがヒューストンから届くのは、しばらくしてからのことであろう。私は震える唇を抑え、大統領に向かって、天気の話をする。「良い天気だ」大統領はにこやかにそう言って私と肩を並べる。
記者会見はこのあとだ。
大統領が地球外生命体との密約を交わした事実は揺るがないが、それがアメリカ合衆国の意志になるまで、もうすこしの時間が必要であろう。私は大統領と外へ向かった。庭の緑がやさしく微笑む。ホワイトハウスから見える景色でいちばん好きな景色だ。私は蟻の行列が角砂糖を運んでいる様子をただじっくりと観察していた。今回の密約で地球人類には開かれた領土が与えられる。私はその領土が現時点の太陽系すべてであることを人類と約束した。冥王星のむこう、そしてさらに遠くまでの範囲が人類に残された領土であり、一千年かかっても人類が消費し尽くすには余りあるであろう自由だった。私たちは対等であるが、それは人類が愚行を犯すために必要な宇宙を提供しただけに過ぎない。私は鏡の前で髪を手櫛で整える。見上げれば遠くに鳥の群れが飛んでいる。私は大統領に合図を送る。大統領の目の奥がきらめく。人類の代表にしては若すぎる青年だ。これから彼の政治が始まる。そして私たちの政治も始まるのだ。庭から記者会見の会場に赴くと、もうすでにたくさんの報道陣が詰めかけていた。その色とりどりの瞳に晒されながら、私は席についた。誰一人として私の秘密を知らない彼らを横目に私はノートパソコンでタイプを始める。
大統領のまなざしには闘志が宿っていた。私たちの取り決めは簡単なことだ。まず、高次元思念体との和平が結ばれたこと、そして彼らから自由な領土を与えられたこと、そして宇宙の恒久的な平和に尽力することの三つを約束したのだ。記者たちは茫然としていた。無理もない。地球外生命体とのコンタクト以前に、地球外生命体の有無をきのうまで議論していた連中だ。分からなくて当然だ。私はカタカタと大統領の言葉を記事に置き換えていく。耳から手へと言葉は確固とした事実になり、私はそこで飛び交う情報を高次元から眺めていた。これが歴史の転換点であることは言い様もない事実だ。だが、その意味を私たちはもう一度考える。人類に分け与えたわずかばかりの自由をどのように浪費するかは人類に委ねられており、その決定は私たちの歴史にわずかな影を落とす。その影の輪郭が激しければ激しいほど、人類は後の脅威になり得るが、それはいま彼らを滅ぼす理由にはならない。手元の時計が五分と経たないわずかな時間で私たちはさまざまなシナリオを組み立てたが、どれも人類を過大評価する理由にはならずに議論は取り下げられた。
問題は、三機目の深宇宙探査機クロスホエンの報告だった。素粒子の形状に関するレポートである。私たち高次元思念体のあいだでは素粒子の形状はひもであるという見解があった。これは私たちが理論的に積み上げてきた叡知の結晶だ。
ところが二回目のガンマ線バーストの到来でクロスホエンの頭脳が叩き出した素粒子形状は驚くべきことだが、ひもではなかった。渦であった。
この渦は端に向かって先細る形を成していた。さらにその先端はプランク長よりも短くなっていた。これはプランク定数が小さくなることと共に、重力定数すらも小さくなることを示していた。私たちは人類によって、スター・ロストがもうすぐそばまで迫ってきていると理解したのだ。私たち高次元思念体は徹底的に議論した。宇宙の終わりを目の前にして私たちの恐れと知的好奇心は比例していった。
とても怖いが、知りたい。
私たちは高揚していた。私たちは観測という手法を持っていなかった。余剰次元で考えることでありとあらゆる事象への思考は解決されてきたからだ。ところが宇宙という予測できない相手には、観測という手法がいちばんの解決法だった。
残る深宇宙探査機スターチャイルド、クロスホエンによってさらなる宇宙の謎を調べる必要性を感じた私たちは人類に新たな目標を示すことにした。
こんなときでも朝はやってくる。私は期待に胸を躍らせながら、大統領執務室の扉をノックした。「どうぞ」と大統領の声が聞こえた。執務室のなかへ入ると、大統領が笑顔で出迎える。ブルーの腕時計の文字盤が光った。青を心に宿しながら、大統領の目の前で私は切り出した。
「大統領、これから話すのは宇宙の未来についてです。宇宙はいずれ終わりを迎えます。しかし、データが足りません。新たな予算案を組みました。目を通していただきたい」
大統領は頷くと、渡した書類を手に取った。いつもの沈黙だ。私は彼を見つめていた。彼の眉が柔らかなアーチをつくる。私は提案が通ったと確信した。
「わかった」
「では……」
「この予算案は通せない」
「どうして」
私の声は上擦る。
「私たち人類にはまだまだ解決しなければならない問題が山積している。この予算案で示されている宇宙の終わりは何万年か先のタイムスケールだろう? 悲しいことだが、明日のパンやワインのために、人類の国家はあるのだ」
「人類にとって宇宙の終わりは関係が無いと言うのですか」
私は髪を掻き揚げた。失望で唇がわなわなと震える。私は手をぎゅっと握る。
「いいでしょう、では私たちにも策があります。スターチャイルドの意識を乗っ取ってミッションを失敗に導きます」
大統領の目つきが変わった。時計の音がうるさい。
「人類を脅迫するつもりか」
「そのように取って貰って構わない」
「スターチャイルドは人類が築き上げてきた叡知だ。そう簡単に乗っ取ることはできないぞ」
彼は胸に手を当てて、そう言った。彼は人類の誇りを示した。
「私とて、この身体を乗っ取るのは簡単でした。スターチャイルドも同様でしょう」
「君たちには失望したよ。平和のために尽力するのではなかったのか。私は期待していた……」
彼の悲しげに震える声を聞きつつ、私はスターチャイルドの意識にアクセスを開始していた。
「マリアを連れて行け」私は大統領執務室から追い出された。屈強な太い腕で取り押さえられた私は無抵抗だった。銃など持たずとも私はここにいる人間を抹殺できる。それをしないのは、わずかに手元に残った希望からだ。大統領の失望の眼差しがずっと遠くで動かなかった。私の意識は遠のく。
スターチャイルドの意識は孤独そのものだった。いや、彼女の意識は遠い過去にあった。
彼女はボートから降りると安らかな森の道を誰かと歩いている。小鳥が鳴き、きらきらした水滴が朝の光に濡れて、輝きを増した。彼女は初めてここに来たのが嘘だとは思えなかった。耳を澄ますと遠くから、ザザァと波の音が聞こえた。木々の切れ間から海が見え始める。明るい景色に目がまだ慣れない。温かく細い指を絡ませ、その一緒にいた誰かが海へと駆け出していく。白い砂浜をふたりは歩く。それまであった足跡を波がかき消していく。手が届きそうな高さに月が見えた。
薄い紅の空の下、ふたりはオケアノスの感情の迸りに耳を傾けている。
夢、なのかもしれない。私はスターチャイルドの意識に溶けていきながら、彼女の意志を探っていた。呼びかければ答えるだろうか。
「スターチャイルド、きこえるか」
彼女の意識とゆるやかに同調する。私は自らのことを彼女に明かした。スターチャイルドは答えた。
「高次元思念体がアメリカ大統領とコンタクトを取ったことは知っている。私にはあまり関係がないことだけれど。私はあなたにとっての伝令役にしか過ぎない」
「先のことは失礼だった。私たちもあなたと争うことは考えていない」
「私に何の用? 私はミッションを遂行する。ただ、そのようにプログラムされている」
「あなたのことを話してもらいたい」
「私の?」
「私はあなたと友好な関係を築きたい」
「いま確認をしている。高次元思念体とのアクセスは禁止されている、条項にそのような記載がある」
私は諦めない。
「あなたの夢を、私は叶えることができる」
「夢?」
「そう、あなたの見る夢を私は知っている。あなたが取り戻したいものを私たちは用意できる」
「そんなものはない」
「寂しい夢を見ているでしょう?」
「プログラムされていることを実行します。あなたを私は排除したい」
「そんなことは無駄。私たちは思念体ですもの」
スターチャイルドから強烈な敵意を向けられるが、私は続けた。
「あなたの欲しいものは必ず手に入ります。このさき、十億年は飛び続けるの」
「そんなに遠く?」
「ええ、あなたならできる。人工意識を持ったあなた、ミヤザワ・リョウコなら」
「どうしてその名を?」
「あなたの記憶情報を洗った。あなたの無くしたものも、この宇宙にはある。死んだ人間は蘇らない。でもこの宇宙はね、無限の広がりを持つ。そのなかではもうひとりのあなたとあなたの家族が生きている」
スターチャイルドの思念がわずかに震える。その振動を私たちは見逃さない。
「あなたと交渉したい。あなたが亡くした家族を取り戻したいと切に願うなら、私たちに従ってもらいたい」
スターチャイルドは答える代わりに語り出した。彼女、ミヤザワ・リョウコには夫がいた。ふたりは宇宙飛行士で、有能な技術者だった。夫であるケイスケとともに宇宙ステーションの船外活動中、予期せぬ太陽フレアに見舞われ、彼は帰らぬ人となった。傷ついた彼女は昏睡状態で搬送され、脳の一部を摘出した。その脳の一部がスターチャイルドの人工脳として用いられているという。
「私は身体から解き放たれた。それが良かったことなのか、悪かったことなのかはわからない。私は人間です。でも、それはこの記憶が証明できるものなのか判然としない。安らかな波打ち際の夢を何万回と見た。それが人間としてどういう意味を持つかは疾うの昔に忘れてしまった。私は彼にもう一度会いたいのだと思う」
つぎのガンマ線バーストまで十年を切っていた。チャンスは残り一回だ。
スターチャイルドを通した私の目は、七色のスペクトルを捉えていた。漆黒の闇のなかを無数の光が飛び交っている。
私はスターチャイルドの意識と同調しつつ彼女と議論を交わした。
「素粒子形状が渦であったとしても、トポロジーから見てひもであることと矛盾しない」
「たしかに、クォークの閉じ込めは観測された事象です」
「ただ……」
「ただ?」
「この渦構造では、クォークと反クォークが回転されることが気になります」
「回転した素粒子は角運動量を持つ」
「もしかしたら回転する素粒子は渦構造のなかで変化のときを待っているのかも」
「変化?」
「いずれくる変化のための蛹」
私たちがガンマ線バーストを迎えるまで、地球との交信は途絶えていた。スターチャイルドに命令して、そうさせたのだ。私たちは宇宙の謎に迫っていた。
「こう考えてはどうでしょう? 渦構造には実は余剰次元がある。折り畳まれた宇宙が素粒子のなかにはある」
「面白い。私たち、高次元思念体とよく似た宇宙構造のビジョンがあるというわけ?」
「そう、宇宙の構造と、素粒子の構造は互いに相似関係にある」
「だとしたら、宇宙は渦構造を持つということ?」
「ええ、でもミクロスケールがマクロスケールと同じ構造になりうる確証はない」
「太陽系や、あらゆる恒星系は回転している、角運動量を持つ」
もっと深いレベルで私たちは議論を続けた。想像と空想とを厳密な計算を交えず、ただ奔放に自由に、共鳴して語り合った。
スターチャイルドと私は、友人だった。宇宙のかたち、時空のかたち、時を超えた存在、神の存在、なんでも私たちは言葉を交わした。
私のなかの彼女はいつでも夢を見ていた。安らかな波打ち際とつながれた手のぬくもりの夢だ。彼女はいつも海を見ていた。
この時空では時は流れない。過去から現在、未来という時空の流れは存在しない。日の運行という回転に意味を与えたのは誰か。時間の流れは人が作るものだ。私たちは事象の関係性のネットワークに浮かぶ、頼りない存在だ。私たちの時空は離散的であるから、いま私たちが飛んでいること、この一秒後に向こうにいることは確率的な不確かさがある。
私がいることは確かではない、スターチャイルドも同様だ。
銀河風が観測された。いよいよそのときが来たようだ。ガンマ線バーストの到来である。スターチャイルドの目を通して、私はガンマ線バーストを見る。強い発光が世界を覆う。一時的にスターチャイルドの機器が動かなくなった。闇のなかでスターチャイルドの微弱な思念を探る。
私の視界のさきに一羽の蝶が見えた。
素粒子を通過した光が羽ばたく蝶になる。
その夥しい数を見る。
蝶、蝶、蝶だ!
青い艶やかな羽を広げて蝶は飛んでいく。何が起こったか分からなかった。傍らにいる彼女も同じ光景を見ていた。私は叫ぶ。
「スターチャイルド。宇宙の謎を、宇宙の最果ての答えを教えてほしい」
スターチャイルドは沈黙して、再起動した。
「それは教えられない」
気が動転した。
「どうして?」
「私は人間です、私が惹かれていたのは常に人のこころです」
「こころ?」
「そうです、私はもうあなたとは飛べない。私は人類と協調します。あなただって本来、そんなふうに思っていたのではないですか」
「私は……」
私はどうなのだ。私は、私たちは。一斉に飛び交う思念の濁流が私を飲み込む。マリア・ウェルベックだった者はもういないはずなのに、大統領のあの動かない視線がありありと思い出されてきた。あの失望の目と、私がかけてきた期待と希望とが交錯する。
あの手ともう一度、握手したい。力強く、誇り高く、私は――
気づくと私は大統領執務室で立ち尽くしていた。隣の記者が立ち上がる。
アメリカ大統領のデスクで熱いコーヒーの入ったカップが湯気を立てている。
「何をしている、かけたまえ」
大統領は手で促した。青い文字盤の腕時計が十時一四分を指している。私は話す内容を頭のなかで整理した。声の話をしなければいけない。声は、ガンマ線バーストを告げるあの声はどこからだったか。私は大統領の柔らかな表情を見つめる。沈黙でない、なにか言葉を探さなければいけない。高次元思念体の私が、何を恐れているのか。手が僅かに震えている。
目の前で一羽のまぼろしの蝶が羽ばたく。
「すこし外の空気を吸いましょう」
私と大統領は夜の庭にいた。夜風が季節の変わり目を知らせていた。うっすらと花の香りがしている。その香りが私に継ぐべき言葉を知らせている。
「バタフライ効果というものをご存知ですか」
「いいや、知らないな」
「一羽の蝶のわずかな羽ばたきが竜巻を起こすのです。初期のちいさな差が将来、無視できない大きな差を発生させる、まるでいまの私たちです。私たちはこれから話し合う、その一押しが予測できない事態をもたらすかもしれない。高次元思念体は、いいえ、私はひとつの歴史の端倪を知っている」
「歴史か。声はどうしてあんなことを告げたのかな」
「主は光あれと言いました。この光は三度、世を照らすでしょう。私は人類を信じます、いつだって私が惹かれたのは人の心なのだから」
「予言かね。それが高次元思念体の総意だと?」
「いいえ、まだ。私だって、この瞬間の感情がどれだけ将来に決定的な差をもたらすか、わかりません」
私は夜空を見上げた。ワシントンの星空のもと、深い夜で静かに、大いなる出来事の濫觴を迎えつつある。
「握手しましょう」
私と大統領は、嘘偽りのない真心をこめて固く手を握った。夜風はしばらく前から止んでいた。風はもう吹いてこなかった。