青きこころに、三つと数えよ
小林 蒼
「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。ぼくが時空跳躍のミスに気がついたのは、三時間前のぼくがすやすやと眠る横顔を見たときだった。世界五分前仮説というものがある。実は世界が五分前に誕生したのではないかという哲学の思考実験だ。ぼくがこうして時空跳躍によって過去にいることは時空跳躍機の実証実験が成功したことを意味する。ほんとうによかった。ぼくが時空跳躍できるのはあと四回でうっかりミスはしたくないしドジは踏みたくない。
ぼくは先生を探している。
ぼくの未来には先生はいない。
ただ、ぼくの過去には彼女がいたのだ。
ぼくがこうして先生を探しているのには理由がある。二三〇三年の地球でありとあらゆるエネルギー現象が停滞し静止する凪現象が観測されているのだ。気象現象が静まり、海が赤潮でいっぱいになって漁獲高が減り、土地は砂漠化し、作物の生産も滞っている。生命の星、地球は静止したのだ。残されたわずかな太陽エネルギーでさえ取り合いになっている。昆虫たちの動きは緩慢になり植物は光合成ができずに二酸化炭素濃度は毎年上昇し続けている。科学者たちのリーダーであるぼくはこの問題に頭を抱えている。コンピューターに映る地球のリアルタイム映像を眺めながらぼくは少しずつ終わっていく世界を眺めていた。
新聞もニュースもさいしょは凪の話でいっぱいだったけれど悲観論が多数派になり、淡々とデータを更新、報告するだけの装置になっていった。国際的な枠組みのうえでぼくは科学の粋を結集してなんとか問題に取り組めど、どうにもならず、時間理論を完成させて時空跳躍機を乗り込み先生を探すことにした。先生を連れ戻さなければ人類は滅亡する。
ぼくの先生は科学者で錬金術師で魔術師だった。地球を離れて宇宙の孤城でひとり研究を続ける変人で天才だ。ぼくは十歳のとき、科学者になりたくて彼女の城に入り込み、ネズミ捕りにひっかかり、彼女の弟子になった。先生はびっくりするくらい白い肌と赤い瞳の吸血鬼みたいな女性でぼくのことを「のろま、のろま」と言って悪戯っぽく笑うのであった。
先生の城が宇宙を滑るように進んでいく。動作音はほぼない。ぼくはそこで科学を学びはじめた。光速で宇宙を伝播する重力波のうえを波乗りするようにどこまでも城は進む。宇宙のあらゆる瞬間に立ち会えるその城はぼくにとって刺激的な場所であるとともに、とても怖い場所だった。
あるとき極寒の惑星で静止軌道に浮かび、磁力線とプラズマが交差して輝くオーロラを、先生と見た。
宇宙の果てで理論でしかありえないとされたブラックホールを赤外線観測器越しに、先生と見た。
終わっていく宇宙の片隅で超新星爆発のヴァイオレットの光を、先生と見た。
すべての現象が宇宙をそこに立ち上がらせ、闇のなかへと引き込み、消えていく。ぼくは自然のそうしたダイナミクスに驚異の眼差しを向けて、ときに腹の底から湧き上がるような愉快な気持ちに踊らされ、ときにぞっとして冷や汗をかくような恐怖を覚えた。先生はそのたび不敵な笑みを浮かべて僕の横顔を眺めていた。
先生は笑わないひとだった。
でも、宇宙の神秘に触れる瞬間はいつも違った。彼女がロマンチストだったのかはわからない。先生の弟子になったあの日、彼女は「きょうからお前はわたしのモノだ」と宣言した意味をぼくはいまだに理解できずにいる。
観葉植物にしてはよく育ってしまったパキラの葉の間から、まばゆい光があたりに差し込んでいる。ぼくは宇宙シミュレーターを起動させた。ビッグバンの初期宇宙から地球のような惑星誕生の歴史を眺める。宇宙シミュレーターがビッグバン以前の宇宙を再現できないのは仕方がなかった。先生に聞けば正解はあるのかもしれない。
ループ仮説、多元宇宙仮説、そんな仮説を並べたてられるのはご免だったので、ぼくはいわゆる正史を順繰りに眺めていた。タイムスケールをずらしつつ、現在の地球のその後を探るのはなんともいえない快感と楽しみがある。ぼくが見ていたのはずっと未来の五〇億年後の地球だった。このころには膨張して大きくなりすぎた太陽が赤色巨星になっていた。ぼくは太陽のおわりのまえに地球最後の人間たちに知恵を与えて逃がすための策を考えていた。
コツコツ、と先生の靴の音が聞こえてくる。嫌な響きだ。ふと見上げると庭へと続く階段の最上段から先生がこちらを見下ろしている。先生はやはり不敵な笑みを浮かべて、サングラスを外すと下へと降りてくる。先生が宇宙シミュレーターに気づくとぼくは画面を傾けて内容がわからないようにする。この宇宙シミュレーターは二日前に先生がぼくに捨ててよいと言った物だったのだ。先生は眉を微動だにせず、ぼくの宇宙シミュレーターを見て、近づいてきた。先生はいきなりシミュレーターの時間進行を早送りにした。
「先生、ちょっと……」
やめてほしかった。なかの人間たちは赤色巨星にすっぽりと飲み込まれてしまった。ぼくが悲鳴に似た声を上げると先生は言った。
「弟子よ、万物は流転するんだ。すべてのものは移り変わっていくのが常だ。宇宙では似たような現象がそこかしこで起こっているんだ。そこにいた人々は君が偽善で助けようとした人々だよ。科学者だったとしたならもっと高い次元で物を見るんだ。いいかい?」
「倫理に背けというのですか」
「わたしたちは何でもできるようで何もできない。これは、魔術師の語る真理だ」
何もできないという言葉にぼくは寒気がして震えた。ぼくはただ見ているだけなのか。先生はなにかを察して、こう付け加えた。
「だから日々、努力を怠ってはいけないよ」
ぼくが確実に彼女に出会えるのは先生の城が静止したあの瞬間のみなのだ。
あれは、そう――。
ぼくが先生のもとから出て行ったあの日だった。
ガス星雲が濃い。城は雲のなかを移動していた。曇った宇宙の風景を眺める先生の部屋のテーブル上にはいま淹れたての、じつに香しい紅茶があった。部屋の窓からリアルタイムで外の風景が映し出されており、たしかに外宇宙がこの城という内世界と接続されていることに安堵する。城の中庭にいると、いま自らがどこにいるのか時々わからなくなる。自分が生きている時空とはまったく違った時空に飛ばされているのではないかという焦燥がぼくを包み、科学の勉強を続ければ続けるほど、ぼくはこの身につけた知識や技術をどこかで生かしたいという気持ちが強くなっていた。ぼくはたしかに先生の言うようにのろまなのかもしれない。のろまでも地球では亀より兎になれた気もしている。どんなに頑張ったとしても追いつけないのは先生だけで地球上では賢い部類に入るのだという自負があった。
先生にいつかこの気持ちを告げなければいけない。
先生がふと、ビジョンに地球の映像を流す。いま地球では隕石の衝突で騒ぎになっているらしい。
一二〇年という、宇宙から見れば一瞬のあいだ。
それしか時間的猶予は残されていなかった。国連の試算で何千万人もの死者が出る予測が立っていた。ぼくは口を手で覆い、これから来る恐怖を想像した。急いでぼくは着替えを済ませて先生の城から出て行くことを決意した。科学者であるならばこの未曾有の事態に対応しなければならない。
「待ちたまえ。行ってもなにもできない。わずかな時間で君になにができる?」
ぼくの頭のなかで何かがプツンと切れた音がした。
「逆に問いますけれど、先生ならなにができますか? そしてなにをしたいと思いますか?」
「弟子よ。ここにいなさい。世界は無常だよ」
「先生、ここでお別れです」
ぼくは部屋から出て行った。階段を駆け下りて庭の、いつも学んでいた机を横目に城の出口へ急ぐ。備え付けられた小型探査艇に乗り込んだ。これまであった様々な出来事があたまのなかでつぎつぎと現れては消えていく。その全てをぼくは否定する。否定しなくてはいけなかった。そうでなければ揺らいでしまうから。ぼくは震える手で操縦桿を握った。城は光速で動いているのだから簡単には出られないだろう。ハッチを開けると驚くべきことだが静かな宇宙の風景が広がっていた。先生がしてくれたことだった。
「止めないか……」とぼくはつぶやいて前に進んだ。もう戻らないと固く決心して地球に向かった。ぼくの小型探査艇は地球に着き、ぼくは一〇〇年の間でもっとも活躍した科学者になった。大いなるミッションを乗り越えたぼくはそのまま年を重ねた。先生に会うこともない日常へと帰っていく。ぼくがあの城で学んだすべてを使って人類のために奉仕し、貢献をし続けた。ぼくは先生みたいに天才ではない。ただ諦めが悪かっただけだ。
非線形ダイナミクスは線形ダイナミクスのように一を入力すれば線形和を出力する単純な力学ではなかった。二重振り子の実験例を参照してみるとよい。一押しの単純な入力が複雑なフィードバックを生みだす。それは自然界ではごく当たり前に存在している。気象現象の例がそうだ。ごく当たり前な挙動がカオスを生み、マンデルブロー集合のような自己相似性を持つ構造を生み出す。それは一から多様な有様を現す自然の神秘だ。
ぼくが直面している問題、凪現象は一押しの入力があったとき、そのフィードバックがゼロのフィードバックを得る特異な現象だった。これまでは机上の空論とされてきたのにも関わらず、こうして現実の世界にゼロのフィードバックがかかる現象が見られるのは興味深くもあり、戦慄する。エネルギーの保存則がそもそも破れていると考えるのがふつうであるが、太陽系全体でこのような現象が見られるのは地球のみである。ぼくはデータを眺めながら、更新される情報からなんらかの期待できる要素がないか、洗いざらい考える。
理由なき現象はない。現象があるなら、それを理解することから始めるべきだ。何度も考えてはメモを残し、ボードに貼り付けて眺めた。解決の糸口は見つからず朝になる。曙光を受けて先生ならどうするだろうかと考える。万物は流転する、じゃなかったのか。ぼくは苦笑いして研究室の奥にあるキッチンでお湯を沸かす。ふつふつとした音に気づくと、インスタントコーヒーを淹れて、デスクに座る。目の前のテレビをつけると、録画してあった世界のミステリー番組を見始める。謎を考えるのは科学にも通じる。芸能人の笑い声も終わっていく世界ではどこか空虚だ。番組もさいごのほうになって、歴史事件で暗躍する謎の人物に焦点が当たる。
ぼくはぼんやりした頭で必死になって画面を見つめていた。どうしてか数枚の写真のなかに、あの先生がいた。先生は番組ではドラキュラと表現されていて歴史事件の裏側に彼女がたびたび現れることを番組は追究していた。
時空跳躍、ぼくは電撃に打たれた。ぼくは研究のあいまを縫って時空跳躍の研究に乗り出した。世界が終わることを皆なんとなく察していたし、研究者のぼくが自分のお金を使ってなにをしようと勝手だろう。ぼくは時空跳躍機の基礎付けに先生の城で学んだ重力波の知識を存分に生かし、それを開発した。
白いカラーリングのアルミ製のボディ、未来のクルマのような外観だ。ぼくが作れたのは不完全時空跳躍機だった。未来には飛べず、過去に飛ぶものだ。それでも十分だ。ぼくが探しているのは、あの先生だけなのだから。先生を連れ戻せば問題は解決に向かう。その望みに嘘はなかった。
あの日、たしか先生の孤城は静止状態にあった。ぼくは広大な宇宙から先生の孤城をすぐに発見できるだろうと思った。
時空跳躍が出来る回数には限りがあって五回のみだ。ぼくは貴重な時空跳躍の一回目を失敗してしまった。
そこで四回目の時空跳躍を果たす。この日の重力波観測記録から大きな時空が歪むほどの重力波が検出されている。どこかで大質量のブラックホールといくつものブラックホールが衝突して合体したのだ。
アルタイル辺りを飛んでいたところ、ぼくは見たのだ――。
いま、まさに青年のぼくが小型探査艇で先生の城から旅立とうとしている。ぼくの年老いた身体が震えている。
あの瞬間がぼくの目の前で起こっている! 不思議な感動で目頭が熱くなり、ぼくの鼓動は速くなる。
小型探査艇が飛び出していった場面をぼくは見ていた。そして、城から先生の乗った探査艇が現れた。この場面をぼくは知らないし、記憶がない。先生がぼくを引き止めようとした? 信じられない。あの冷血な吸血鬼がぼくを? ぼくはしばらく先生が必死になってぼくのすがたを追っている様子を見ていた。先生の表情はヘルメットで見ることはできなかった。見てしまったらぼくの心は大きく揺らいでいただろう。先生、先生、せんせい……。
ぼくは心が震えて叫んでいた。
「戻れっ! 戻れぇー!」
ぼくは泣いていた。
先生の城は目の前にあった。ぼくはその場に立ち尽くしていた。
これは過去の残像にしか過ぎない。そのことがよりぼくの胸に食い込んできて痛かった。ぼくの前には茫洋とした宇宙の闇がある。時空跳躍機のシートに座り込んで、身体の重みをずっしり感じた。様々な思いが錯綜していた。ぼくはほんとうにこれでよかったのか? ずっと先生のもとにいれば探すこともしなくてよかったじゃないか? 一緒にいれば時は止まらなかったじゃないか。ぼくはなにもない空間を抱きしめる。
もういちど、時空跳躍をするべきか? ぼくは人類のことなどすっかり忘れて先生をただ追っていた。先生とともに生きるのも悪くないだろう。ぼくが「あの日のぼく」を引き止めれば時空が修正されて永遠に彼女と生きられる。現在のぼくが消えるが、先生の研究の手伝いをして、たのしい日々を過ごして、真理を追い求めて、学んで、老いて、彼女と死ぬだけだ。きっと悪くない。万物は流転するなら凪という現象を受け入れて静かに人類が終わっていくことも悪くないだろう。先生は言ったじゃないか。「わたしたちは何でもできるようで何もできない」
ぼくは時空の狭間で迷っていた。彼女と生き直すのか、人類を救うために先生を連れ戻すか。彼女と生き直すことと連れ戻すことは互いに矛盾しない。けれど、先生はきっと言うだろう。「そんなことはお断りだ」
ぼくは時空跳躍の回数と自分にできる最良の選択肢を計算する。
なつかしい先生とのやりとりが頭に浮かんでくる。
「もしこの世に多元宇宙があるというのが正しいとして、弟子よ、君はどうするかね?」
気まぐれに先生は言った。
「どうするって漠然としていますね」
「いいから、答えたまえ」
「この世界で叶わなかった可能性を模索したいですね」
先生の育てる甘い花の香りがしている。ぼくは自分の研究ノートに数式を書き並べている。天井からは白い照明がぼくらを照らしている。
「可能性とはなんだい?」
「できなかったこと、でしょうか」
「なら、君にはたくさんあるだろう」
私より、と先生は小さく笑った。ぼくはむっとした。
「ぼくにはぼくでしたいこと、見たいものがあります。世界は広いんです。世界は美しいに違いないんです。見られるものも一握りしかないはずです」
「ふむ」
「だから、二度生きられるようになるってことでしょう?」
「一理あるな」
先生はいつもの笑みを浮かべて、自室に入っていった。ぼくは備え付けられた窓に描かれた青空と草原の理想郷をじっと観察し、つまらなくなって視線を外した。
ぼくの求めた真理だって、先生が望んだことだって、ぼくらのすれ違いのなかでそっと消えていく。ぼくらは出会えない。会いたくても、求めても、きっとその幻だけ見て、いつだって終わっていくのだ。
何度、生きられたとしてもぼくは愚かな間違いを犯すだろう。ぼくはぼくでいまの目的を手放せない。いつの間にか目の前の先生の城は幻のように消えていた。ぼくは慌てた。
時空跳躍機のフロントガラスのむこうになにか光るものが見えた。ズームすると黒い棺のようなものが浮かんでいる。吸血鬼には棺がつきものだという安直な考えがよぎる。ぼくはエアロックを解除して棺をなかへと持ち込んだ。棺は人間ひとり分の大きさで開くとなかには小さな黒い箱と先生の筆跡で書かれた簡単な説明がある。「これはわたしと完全に同一の経験情報を持つエミュレーターAIだ」ぼくは息を飲んでモバイル端末とそれとをつなぐ。モバイル端末からあの冷徹な吸血鬼の声が響き渡った。
先生の名前は、ノーラ・シュワルツシルト・モーニングスターと言った。
同時に黒い箱からホログラムが立ち上がる。先生の眠たげな顔を見ると、いままさに一〇〇〇年間の眠りから目覚めたかのような雰囲気がある。それほどの時間はもちろん経っていないし、ぼくも不死の眷属ではないのだが、こうして先生と言葉を交わすのはほんとうに久しぶりだった。
「おはようございます?」
「ああ、おはよう。弟子よ」
なにも、あの頃と全く変わらない先生だ。彼女は「ふわあぁ」と欠伸をした。ぼくの心は曇った。
「ぼくは先生を探しています」
「どうしてだい」
「先生には地球の難題を解いてもらわないといけないからです。先生を探せる回数は時空跳躍限界の三回のみです」
「わたしを連れ戻すってことか」
「はい」
「わたしはここにはいないよ。ここにいるのはたしかにわたし本体と寸分違わぬ存在だ。しかし、わたし本人ではない」
冷たい言葉だ。それでも、
「ほんとうの先生の居場所を聞き出します」
「なるほど」
先生は目を細めた。
「地球ではいまエネルギー現象が停滞し、静止に向かっている凪現象が観測されています。気象現象がなくなり、雨も降らず、砂漠化が進んでいます。潮流が海から消え、赤潮が発生してその水域の生物に影響を与えています。植物の光合成もできなくなっています。ぼくたちは日々、データを集めて考え続けた。でもダメでした。ぼくは先生みたいになれなかった」
先生は頬杖をついて聞いている。なにも楽しくなんかないのに楽しそうに聞いているのが腹立たしい。
「もう、ぼくたちはどうしたらいいのでしょうか……先生だったら、どうするのでしょうか……」
先生は視線をぼくから離して言った。
「弟子よ、時間の本質とはなんだと思う」
あまりに突然の問いで言葉にならない。呆気にとられていると先生は続けた。赤く光る目がこちらを怪しく睨んだ。
「時間とは、エントロピーが低い状態から高い状態になることをいうんだ」
エントロピー、乱雑さの尺度だ。情報学や熱力学で扱われる概念でよく整理された部屋から散らかった部屋になる喩えを用いて説明される。分子同士の動きについての科学だ。
「それが時間の本質ですか」
「ああ、歴史的にはアリストテレス、ニュートン、アインシュタインの三人の考察が統合されているのが現代の時間理論の基礎であることはわかるな?」
「時空とは重力場です」
「そうだ。わたしはね、君がこうしてわたしに時空を超えて会いに来ることを見越していてね。いち早く時間理論を完成させた。まったく、君はのろまだ」
「のろまとは失礼ですね」
そう言いつつも、たしかにほんとうにそうだ。先生が時空跳躍をしている証拠が挙がってきてから時空跳躍のアイデアは始まったんだから。
「そして、完全時空跳躍機を完成させた」
ということは先生は未来にも過去にも行けるとでもいうのか。くやしさを通り越して驚愕するしかない。
「わたしが時空跳躍を繰り返してわかったことがあります。それはなんでしょう?」
先生は悪戯っぽく問いを投げかけてきた。わからないことが多すぎる。
「きみのいう凪現象は過去の地球でも観測されているということさ。凪はエントロピーが高い状態から低い状態へと移行する。一種の時間逆行現象なのさ。世界を近似的でなく相違的に見てごらんよ、わたしの言ったことがわかる。経験的に過去のほうがエントロピーが低いというのは世界を統計的に見た結果だ」
なんだって。ぼくが目を丸くしていると、その様子を無視して先生は続けた。
「わたしが知りうるかぎりでは地球という星は何度か時間逆行を繰り返していた形跡がある。わたしが未来へ進めど過去へ戻ることがあった。ときにはビッグバン以前へ向かって地球が時間逆行をしている。つまり地球はビッグバン以前にも存在した」
「先生、そんなこと飲み込めません。第一、因果律は。ビッグバンがあったから地球は存在しているのですよ」
ぼくは口角泡を飛ばして反論する。
「だからさ、地球という星だけはエネルギー保存則を破っているんだ。凪現象で確認しているだろう。入力値がゼロのフィードバックを得るのではないんだ。入力値が過去方向のフィードバックを受けて地球は過去へと時間逆行している」
「もし、そうだとしたらあらゆる気象現象の停滞と静止は時間方向が虚数方向へと進んでいるからだと説明がつく、と?」
ありえない、ありえない。ぼくは頭を抱えてしまう。
「その通り。もう分かったろう」
ぞくり、とした。
ここから考えられるひとつの可能性は、ぼくらの持つ時間理論といまの凪現象の理由から、ぼくらは惑星型超光速宇宙船を構想できる。ぼくらは地球ごとあらゆる過去と未来へと行き来できる。あらゆる可能性を手に入れられて、何度だって生き直せて、あらゆるものを失うことができる。先生は言う。
「わたしたちは何でもできるようで何もできない。しかし自然の驚異を目の前にしては別だ。自然は理想の教師だ。弟子よ、君にはわかるだろう、見てみたくはないか」
なにを。問う前にぼくはなにかを分かり始めていた。
「わたしたちは時空から超克したんだ」
たしかに、そうだ。いまのぼくらには手に入れられないものなんてないんだ。まるで親が子どもにすべてを与えられるように、何でも神から与えられるだろう。先生といたであろう過去さえも、そしてこれから先にある未来でさえも。
「さぁ、行こうじゃないか」先生の幻 が手招きする。
ビッグバン以前の地球を。
宇宙のはじまりを。
科学者なら胸を躍らせない理由なんてない。甘美な響きだ。
もうこの誘惑に耐えられそうにない。ビッグバンのときの地球への跳躍を入れたら、のこり二回か。そして宇宙のほんとうの始まりを理解したい。
「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。
「さぁ、行こうじゃないか。これは証明だ」
ぼくは時空跳躍機で宇宙が誕生した瞬間に向かうように、目盛りを調節した。
時間逆行する地球はビッグバンの強烈なエネルギーを受けていた。そこからどうなるのか。つぎの時空跳躍をすれば、宇宙のはじまりを理解できるのだろうか? 先生は宇宙のはじまりをほんとうに知ってるのか? 先生の言葉を信じていいのか? ぼくには無数の選択肢があるが、ぼくにできる時空跳躍の回数は限られている。ここから一〇〇〇〇年前か、はたまた十億年前か。先生が本当のことを言っているなら、地球はビッグバン以前にも存在していたと考えられるだろう。でも数学的に証明することはできない。先生がほんとうの答えを知っているのだとしたらいったいどこへ飛べばいい? ゼロ知識証明だ。こんなときでもぼくは先生の答えを待っている。ぼくの席の後ろで先生が囁く。
「弟子よ、わたしたちは多元宇宙演算で何千万回もの、この瞬間を生きて、繰り返してきた。確率的にわたしの言っていることは正しい。ほんとうの宇宙の始まりは……」
「先生、信じていますよ」見てみたい。ぼくは瞼を閉じる。
次の瞬間、ぼくの瞳に地球が映っていた。混沌の濁流のなかに星が見えた。
「弟子よ、多元宇宙に分岐する前の原初の光景だ。美しいな」
チャンスは残り一回。これより過去へ行くか、否か。青い星は、遠い過去へと終わらぬ時間の果てを行くのだ。
「行こう」
ぼくは魔術師に導かれるまま、操縦桿を引いた。