怪談エンジン

小林こばやしあお

誰が弾いているのか分からないピアノの音色。

――別れの曲だ。

世界が幻のように現れる。

濃紫の雲が夜空を覆い、闇のなかに白い校舎が浮かび上がると、曲はやや強い響きや情感を持って聞こえ、胸に迫ってくる。

夜空は凍りついている。動かないよう固定されている。音楽の調べのみが時間を体感させ、印象的な旋律をただ繰り返している。自分で作ったものだとはいえ、ヨシキは寒気を感じた。

ヨシキはチョコレートバーを齧る。甘い味が口のなかに広がるはずだったが、味はあまり感じなかった。目の前のバーチャル・リアリティの方が本物らしかった。

そろそろミコやサチも準備を終えて来るだろう。集まったら行動開始だ。

二人は姿を現した。

「待った? 怪談探し、楽しみだなあ」

ミコは興奮を抑えきれないようだ。音声のみだというのに、ウキウキとした様子が伝わってくる。

後ろにくっついているのはサチだ。震えているようだ。

「ミコちゃん、怖くないの」

「怖い? 怖いよ。でもさ、一橋タカシの怪談なんだよ。わくわくするじゃん」

一橋タカシからのメールの文面は一部が文字化けしていて、完全な怪談として読むことはできなかった。

ヨシキはデジタル空間上に、一橋タカシの怪談をシミュレーションした。冒頭の別れの曲、夜の学校という状況を再現した。普段、3DCGや映像制作をしている彼ならではの方法だった。

ミコ、サチ、ヨシキの三人はヘッドマウントディスプレイを被り、デジタル空間上の怪談に没入した。

「行こう」

ヨシキを先頭にミコ、サチが続く。

校内は暗い。ハンドライトで辺りを照らす。いくらCGとはいえ作りは精巧で、反射光も再現されている。ヨシキは自分が作った世界がうまく機能していたので安心した。

二階に上がると、別れの曲の音は大きくなる。

「やっぱりピアノだから、音楽室だよね」

ひそひそ声でミコが言う。

暗い廊下が続いている。壁に貼られた白い折り紙は、女の手の平のようで薄気味悪い。どこか学校ではない別の世界に迷い込んだかのようだ。

「もうすぐだ」

ヨシキは音楽室の扉を開いた。少し重く感じるのは気のせいか。

音楽室のなかへと入る。今までうるさいくらいに聞こえていた曲がピタリと止んだ。

「ピアノの音は続くはずなのに」

ヨシキは首を傾げた。サチは我慢の限界だったようだ。めそめそと泣きだした。

「う、う……」

「大丈夫だよ、サチ」

ミコはサチの髪を撫でた。

「でも……これってヨシキの再現した空間で、異常が起こるわけないでしょお」

サチは怖がっているんだか、怒っているんだか分からない。

ヨシキはヘッドマウントディスプレイを頭から取ると、パソコンのモニターで設定を見直した。変わったところは何もない。

「おかしいな? 音楽室を歩いてみてくれ、何か結末に繋がりそうなことが発見できるか?」

「そんなもん、ヨシキの想像の範囲内で見つかるわけないじゃん」

確かにヨシキが作ったのはホラーゲームではない。あくまでも背景となる情報を描いたに過ぎない。

世界は凍り付いたかのようだ。数秒、いや数分であったかもしれない。しかしその間は数時間にも感じられた。ふたたび、ピアノの印象的な旋律が場を支配した。

「この音?」サチが呟いた。「ああ」ヨシキの耳にも聞こえた。別れの曲がふたたび聞こえ始める。

部屋の青いカーテンが揺らめいている。窓から見えるのはミコの仁王立ちだ。ヨシキは正座していて、サチはどうしてよいか分からず二人の間でうろうろしている。ミコの息は荒い。ヨシキの額には一筋の汗が流れていく。


ミコの大きな声が部屋中に響いた。

「音楽ファイルの編集ミスぅ? 何でそんなことが起こるの?」

ミコはヨシキを問い詰めた。

彼は目を泳がせた。

「別れの曲に雰囲気を出そうと思ってさ、何も聞こえないブランクを入れてたの、忘れてて……ごめん!」

ヨシキは両手を合わせて謝った。

「でも、これで大体の雰囲気の共有は出来たと思うの。ヨシキ、ありがと」

ミコは可愛く微笑んだ。ゲリラ豪雨のあとの、雲間からのぞく光のように。

三人の運営する「霊界リンク」はそこそこ有名なサイトだった。投稿者から送られてくる怪談や心霊エピソードを文章や映像コンテンツにして、サイトにアップロードしている。作業は三人で分担していて、投稿されてきたエピソードを独自の理論でシナリオにするミコ、上がってきたシナリオを文章にするサチ、映像化するヨシキといった具合だ。

ミコの書いてくるシナリオは背筋が寒くなるくらい怖い。

シミュレーションした学校での体験から、ミコは数行の文章を書き上げた。ヨシキは感想を漏らした。

「これ怖いな」

ヨシキの手は無意識に震えている。

「ありがと」

ミコは上機嫌だ。サチも感想を言った。

「絶好調って感じね」

「褒めすぎ」

ヨシキが伸びをしてから言った。

「でもさ、どうしてこうポンポンとアイデアが浮かぶんだ?」

「知りたい?」

ミコはニヤニヤした。ヨシキは麦茶の入ったグラスを移動させる。

「いや、聞きたいような。聞きたくないような……」

ヨシキは目を伏せた。

「じゃあ、前回の怪談を例に挙げてみよう」

ミコは素早くマウスを動かし「霊界リンク」の画面から怪談をひとつ表示した。

彼女は先生のような口調になった。

「問題はこの怪談ですね」

ヨシキは前回のことを思い出して言う。

「ごめん、ミコ。俺、この怪談のオチがよく分かんなかった」

「しょうがないなぁ。サチ、怪談の要約できる?」

「ええと、夫が夜遅くに帰宅すると、すでに妻は二階で眠っている。喉が渇いた夫が冷蔵庫を開けると一本の薬指があった。くの字に曲がった薬指には指輪がはめてあった。これでいい?」

ミコはこくりと頷く。

「オチは妻がすでに死んでて、二階で眠っているのは別の誰かっていう話」

「じゃあさ、冷凍庫には?」

「それは……」

ヨシキは感嘆の声を上げた。ミコは人差し指を立てた。

「いい? 恐怖=驚きなの。出した情報の衝撃度、それに新鮮さが最も大切な部分」

サチが考えて答えた。

「確かに。冷蔵庫にあったのが、ちくわだったら誰も驚かない……」

「なにその例え」とヨシキ。ミコは腹を抱えて笑った。

「サチの言う通り」


ヨシキたち三人が「霊界リンク」を始めた五年前のことを話そう。発端はミコに起こったことだった。

暑い夏。草むらが青々としている。虫の羽音が微かに聞こえる山の中だ。日の光はじりじりと肌を焦がすようだ。

ミコは家族でキャンプをしていた。ミコの隣には幼い弟のユウタがいた。ふたりはどこへ行くにも一緒だった。キャンプの近くに清流があると知ったミコは、ユウタと共にそこへ向かう。山道をやっとのことで下ると、さらさらとした川の音が聞こえてきた。ふたりは熱くなった岩に腰を下ろした。

「暑いね、お姉ちゃん」

「おでこ、汗でびしょびしょだよ」

ミコはユウタの額の汗をハンカチで拭いてあげた。

二人は足を水につける。

「気持ちいいね」

「うん」

二人は浅瀬に入った。足元から冷たさを感じる。

気持ちのいい風が吹いてきた一瞬のことだ。ミコはユウタから目を離した。

「トンボが飛んでるよ、ユウタ?」

浅瀬にいたユウタに何が起こったかは分からない。ミコが振り向いたときにはユウタは流されていた。

「ユウタ! いま助けるから」

ミコは泳いだ。ユウタを助けようとした。水の中で服がどんどん重くなり、次第に自分も沈んでいくようで怖くなった。

「誰か、助けて……」

川辺でミコが目を覚ましたとき、ユウタは川で溺れて亡くなっていた。

ミコは「どうして?」を繰り返した。悔やんでも悔やみきれなかった。泣き続けて、食事も喉に通らなかった。衰弱していくミコを両親は心配した。

「お願い。電話をしてあげて。あの子を元気づけて」ミコの母は友達のヨシキとサチに頼んだ。事情をすべて知った二人はミコに電話をかけ、ミコの気持ちを受け止めた。

すべてを吐き出し、ミコは落ち着いてきた。

ミコに回復の兆しが見え始めた頃、彼女は怪談に興味を持ち始めた。埋まらない現実に物語を与えたかったのだろうか。ミコはのめり込むように怪談の蒐集にあたった。ミコの部屋には次々と怪談の本が並んだ。

ヨシキはこんなことをミコから聞いたことがある。

「ユウタは帰らないの。でもわたしの気持ちは整理できる。だから心配しないで」

ミコは怪談の諸要素を5W1Hに分析し、記録してデータベースにした。

彼女は怪談を作り始めた。初めはただの遊びだったのかもしれない。だんだんとこなれてきて、学校でも披露するようになった。ヨシキとサチは少しホッとした。

ミコは人を楽しませるために怪談を作り始めた。

時を同じくしてミコはヨシキとサチにホラーサイトの立ち上げを提案する。ふたりは目を丸くした。

ミコは大胆だった。

彼女は一流のプロデューサーだった。サチの文章構成力とヨシキの映像の才能をいち早く見出していた。

「三人なら絶対成功できる。間違いない!」

ミコは胸を張って言った。

二人はミコの回復のためだと思って、聞き入れた。


三人は学校が終わるとミコの部屋に集まって、パソコンを起動し、投稿の様子を確認する。

メールボックスにはすでに数通の投稿メールが入っていた。

「今日もいっぱいだなぁ」

「ホントね」

「見てみよう」

三人はメールを開封した。

隣町へのトンネルで人影を見た、海で足を引っ張られた、ホテルの最上階で幽霊を見た、という投稿だった。

「うーん、どれもいまいちだなぁ」

ミコは口を尖らせた。

「どれも十分怖いと思うけど?」

とサチは寒気を感じつつ答えた。

「ええと、怪談っていうのは起こりにくい物事の連鎖系チェーンだと捉えているの」

ミコは真剣な顔つきで言った。

「どういう意味だよ」

「つまりね、良く起こることから始めて、オチへ向かって起こりにくいことが起こる、そんなまとまりが怪談なの」

「例えば?」

サチは怪訝な顔をしている。

「トンネルの話を考えてみようか? 隣町への、あのトンネル。おそらく夜のことだと思うけれど、人影が見えたなんてよくあること。だったら深夜、人がいないはずの場面を考えてみる。人影ははっきりと見えた。そうだなぁ、それが顔面蒼白の女性だったら?」

「ホントだ。どんどん怖くなる」

「でしょう?」

ミコは得意になった。

三人は各々の作業に移った。

三時頃になって作業を中断すると、近くのコンビニでおやつを買いに出た。紙パックのアップルティーとミルクティーとコーヒー牛乳を買い、肉まんを四つ買った。

ミコは肉まんを食べながら、サチとおしゃべりをしている。ヨシキは黙って二人を見守っている。ミコの小さな背中を見つめる。最近のミコは五年前に比べてパワフルだ。手に提げていた肉まんの一つ入った袋。

「ユウタ、安心していいぞ……」

ヨシキは小さく呟いた。


毎週のことだが、メールボックスには十通くらいの投稿がある。ネタに困ることはない。ただ映像化や文章化には時間がかかる。

ミコの部屋で打ち合わせを終えると、ヨシキは自宅へと帰った。ミコの書いたシナリオを丹念に読み直す。ヨシキはシナリオをどのように作れるかを検討する。パソコンのライブラリには効果音、3Dオブジェクト、背景音楽がぎっしりと並んでいる。いくつかの要素を拾い、パイロットフィルムを制作する。

没頭していて気がつかなかったが、十二時を回っていた。二人はまだ起きているだろうか。動画ファイルをアップロードすると、さっそくチャットの通知が届く。赤い通知バッジが点ると、どんな反応が来たか、楽しみだ。ミコとサチが反応を示している。ハートや星のマークが連打される。

「すごい、リアル」

「怖い」

ヨシキは頭を掻いた。作品を制作して人に見せる。ただそれだけなのに反応をもらえると嬉しかった。

風が吹いてきた。開け放した窓の外では県道が見え、淋しく信号機が点灯する。何も起こっていないというのに妙に胸がざわつく。遠くにはマンションの部屋一つ一つの明かりが整然と並んでいる。胸の奥に整理できない衝動が沸き起こってくる。

テレビをつけ、ニュースを見る。ニュースキャスターの微笑みに似た無表情が画面に映る。白骨死体発見というニュースに釘付けになった。ニュースキャスターは落ち着き払って、ニュースを読み上げる。すこし不気味なくらいだ。

遠くのことだというのに怪談を取扱うようになってから、この手の話題はどうしても気になってしまう。ヨシキはチャットに書き込む。

「ミコ、ニュース見てる?」

既読が一つ、ついた。

『何チャンネル?』

『ええと……』

チャンネルを伝えるとニュースをミコと見た。二人は黙って聞いていた。

『人の死ってさ、わかんないよね』

この問いは無意識だろうか。ミコが何回も繰り返す問いだ。

『そうだな。どうして? って思うよな』

『わたしはさ、ただ理由が知りたいよ……』

心の奥底からぎゅっと絞り出すような言葉だ。ミコには立ち直って欲しかった。

『理由があるからって、ユウタは帰ってこない』

カタンと何かが指先で崩れた感触だ。ほんの少しの間が苦しい。

『ごめん』

『いいよ。わたしもつい思い出しそうになった。あのことは済んだことなのに』


すぐに投稿メールには白骨死体の文字が並ぶようなった。筋書きは似ていた。

ミコは机に突っ伏して唸った。

「まーた、白骨死体の怪談だよぅ」

「今週のメールのうち、八割は多いな、これだけネタ被りがあると面白くない」

「そう、確かに……」

ヨシキは腕をまくった。

「編集会議を始めよう」

会議を始めて三〇分くらいで、ミコが声を荒げて言った。

「白骨死体は結果に過ぎないの。何か原因を考えないと、怪談にならない」

サチがもじもじしながら答えた。

「例えば、そうだなぁ……。江戸時代に、とある藩のお殿様が沢山の家来を斬り殺して、その遺体を塚に埋めた、なんてどうかな?」

「それいい! 塚の近くで白骨死体が出てきた、という話ね」

ミコは目を輝かせた。サチの手を取り、軽く握手した。

「ヨシキはどう思う?」

ヨシキは目を瞑って言った。

「うーん、八〇点」

「残りの二〇点は、何が不満なのぉ?」

ヨシキは腕を組んだ。

「家来より一族のほうが、起こりにくいんじゃないか? 殿様が愛している家族を、どういうわけか殺したっていうほうが怖い」

ミコはふーんと言った。

「確かに一理ある。ヨシキ、やるじゃん」

ミコは時計を見た。

「シナリオ、明日にはまとめておくから」

「分かった。今日はここで解散」

「シナリオ、出来たら早めに見ておきたいから、メールしてくれ」

ミコの家から出ると寒い風が吹いてきた。ミコたちとのホラーサイト運営は楽しい。けれど、映像の道も探究したい。

空の上に丸い月が見えた。

月明かりが一本の、か細い道を照らしていた。


ヨシキが二人と出会ったのは、小学生の時だ。今も変わらないが、ミコはやたら元気がいい女の子で、サチは反対に大人しい女の子だった。

ヨシキは図工が得意で手先が器用だった。ただ人見知りで友達ができなかった。彼は彼で自分の世界を持っていて、そこから出ることは無かった。3Dソフトを買い与えられるとその傾向は加速した。彼はますます人から離れていった。見兼ねたサチが言った。

「それ、発表したらどうかな」

急なことでヨシキの声はうわずった。

「そんなことして、いいのか?」

「……いいと思う」

彼はウェブサイトを作った。モデリングした飛行機や車のオブジェクトを展示すると、たちまち評判になった。更新を続けるとサイトの来客数はどんどん伸びた。

「最近、ヨシキは変わったね」

とミコはヨシキに言った。

「変わった? 俺が?」

ミコの笑顔をヨシキは忘れない。眩しいものだった。気持ちがふわふわしたことも覚えている。

ヨシキは自宅に帰ると、何かを思い出したが、机に向かうとスッと消えてしまった。


ミコの部屋の扉を開けると、いつもは整然と並んでいるぬいぐるみが床に落ちていた。ヨシキはぬいぐるみを拾った。何かがおかしい。

「落ちてるぞ、ミコ」

「ヨシキ、昨日の投稿見た?」

昨日の投稿は白骨死体の話ばかりだったはずだ。

「見たけど、何?」

「一番下にね、あの一橋タカシからのメールが入ってた」

どこかで聞いた名前だ。ヨシキは思い出そうとする。思い出した。確か、ミコの持っている本の中に名前があったはずだ。本棚を確認していく。

「一橋タカシってプロのホラー作家じゃないか」

ふたたび扉が開いた。

「お邪魔しまーす」

固まっている二人を見て、サチは二人の顔を覗き込んだ。ヨシキがじたばたしながら、口を開く。

「サチ、すごいぞ」

「え? え? 何が」

サチは見るからに戸惑っている。ぱちぱちと瞬きをした。

「一橋タカシから投稿が来たの!」

サチの体は硬直した。

パソコンの画面に釘付けになる。三人は恐る恐る一橋タカシからのメールを開いた。「夜、学校で別れの曲が」からは文字化けしていて完全には読めなかった。白い画面が際立った。

三人は溜め息をつく。

しばらく画面を眺めていたミコが言った。

「ねぇ、ヨシキ。良いことを思いついたんだけど」

「良いこと?」

ミコは不敵な笑みを浮かべた。嫌な予感がする。

「この怪談、私達で作っちゃおうよ」

「一橋タカシの怪談を勝手に作る? 冗談じゃない。一橋さんから怒られるぞ」

「だったら、誰からのメールかを伏せておけばいいでしょう? 一生に一度あるかないかのことだし。いいじゃん」

彼女は本気で言っているらしい。

「本当にやるの、ミコちゃん?」

ヨシキは漂わせていた視線をミコへと定めた。

「な、なに?」

「まぁ、やってみよう。俺も試したいことがあるし」

日曜日にヨシキはミコとサチを家に呼んだ。

部屋の青いカーテンを開けると、白く眩しい光が部屋に満ちた。

机の上にはヘッドマウントディスプレイが三つあった。ミコがいたずらっぽく笑いながら頭につけた。

「これ、どうしたの?」

「先輩から借りたものなんだ。何か映してみようか」

「え、もう映像はあるの?」

「ゲームの開始画面だけど、やってみよう」

ゲームのスイッチを入れると、映像がディスプレイを介して流れてくる。

「うわ! うわあ……」

ミコは驚きのあまりしゃがみこんだ。

「オーバーだな。これからもっと驚くぞ」

残りの二人もヘッドマウントディスプレイを被った。ヨシキの作った映像が目の前に映る。

広い草原と高い空。そこに吹く風さえも感じられそうなリアリティの高い映像である。

「これ、ヨシキが作ったの?」

「ああ。上を見て。二人とも」

ミコとサチは見上げると、飛行機がさっと飛んでいった。震える空気も感じられるくらいに近くを自由に飛んでいる。

飛行機が上昇していくと、辺りはいつの間にか橙色と赤のグラデーションに染まり、飛行機雲が横切っていく。

「すごい……」

サチは思わず呟いた。

ヘッドマウントディスプレイを外すと、麦茶のグラスがじっとりと結露している。

「ヨシキ、これを使って何かする気なの?」

「霊界リンクに体験型の怪談を作れないかって思ってさ」

「サウンドノベルみたいな?」

「近い。ノベルを読みながら3D空間で怪談を体験してもらうみたいなイメージ」

「ちょっと。ヨシキのヴィジョンが分かりにくいんだけど……」

ヨシキはサチに真剣な眼差しを向けた。

「サイト上にお化け屋敷を作るんだ」

「は、はい?」

ヨシキは思い返していた。自分の背中を押してくれたサチ、自分の変化を認めてくれたミコ。二人になにか恩返しができないか。

ミコが口を開いた。

「面白い、面白い!」

彼女は言葉を繰り返した。楽しみでうずうずしているようだ。

「まず一週間待ってほしい。一橋タカシの怪談をシミュレーションした世界を作るから」


ミコは書いたシナリオをしげしげと見た。

「うーん、怖いとは思うけれど、何かが足りない気がするなぁ。でも何が足りないかは言葉にできない」

「いつもだったら、これでゴーサイン出しているよね?」

「やっぱり……」

ミコはもじもじした。

「一橋タカシの怪談だから、でしょ」

「分かってるじゃん、サチ」

ヨシキは二人のやりとりを黙って聞いていた。

「なぁ、ミコ。怪談っていうのは起こりにくいことの連鎖系なんだよな?」

「そうだけど?」

「だったら、起こりにくさを確率として表して、物事をひとつひとつ吟味していけば、いいんじゃないか?」

まず三人はこれまで作ってきた怪談を5W1Hに分けた。物事の起こりにくさを確率で表した。また、ミコの怪談データベースも同じように分析し、結末に至るまでの出来事の起こりにくさも確率で表した。三人は二ヶ月かけて怪談の確率による解析を終わらせた。怪談は確かに、起こりにくい物事の連載系だったことが分かった。次に三人はすべての怪談から最も起こりにくい結末を百個抽出した。

さらに工程は進んだ。

抽出した結末部分までを一橋タカシの怪談の「夜、学校で、別れの曲」に続く物語へ付け加えた。切り張りで怪談を作り、編集会議をした。

検討は続いた。

出来上がった怪談の意味である。

意味が支離滅裂な物語であれば、人の心をとらえるのは難しい。三人は意味を三段階、怖い・ふつう・怖くないというふうに評価した。

怪談は完成した。


一方で三人は予想していなかった。怪談を数学的に記述できることは思わぬ副産物を生み出した。怪談生成エンジンの発明である。誰でも簡単に怪談をつくることが出来る――この衝撃は大きかった。SNS上でひそかに怪談生成エンジンが話題になった。

ヨシキは怪談生成エンジンと映像とをうまく掛け合わせられないかと考えた。たとえば、3D空間上にいくつもの背景素材つまりセットを用意しておいて、怪談生成エンジンが作り出すシナリオに沿って、セットを選び出す。ストーリーを進めるにつれて怪談生成エンジンが導き出した怪談の諸要素をリアルタイムで追加していくのだ。お化け屋敷のように驚かす必要はない。怪談の作り手も観客も誰も怪談のシナリオを知らないまま、素の状態で怖がってもらえる空間の創造。ヨシキはイメージをメモすると、夢のひとつにこのヴィジョンを加えた。

怪談生成エンジンの登場は怪談の作り方を飛躍的に変えた。人工知能のアルゴリズムに怪談生成エンジンが採用された。三年後には人類の書く怪談の大半は人工知能が書いている。良く知られている怪談生成エンジンの応用は、宇宙でのミッションの訓練シナリオである。宇宙でのミッションは予期せぬことが起こるため、起こりにくい結末を提示してくれる怪談生成エンジンは有用だった。


完成した怪談の話に戻ろう。

ヘッドマウントディスプレイを被ると、濃紫の雲が空を覆い、白い校舎が浮かび上がった。

三人は校舎の中を歩き回った。二回目とはいえ、背筋が寒くなるのは変わりない。たとえ結末が分かっていても、怖さは感じるのだ。

いま、リアルタイムで百人以上の人間がネットワークを介して一堂に会している。彼らは思い思いの場所から、三人の作った怪談を肌で体験している。

別れの曲が聞こえ始める――。

暗い廊下を歩いて音楽室へ向かう。蛍光灯の僅かな光が、床にぼんやりと映り込んでいる。

いつもより重い扉を開けると、音楽家たちの肖像画の並びが見える。音は止まず、印象的な旋律を繰り返す。

ピアノを弾く子どもの影。

その顔はどこか見覚えがある。

先日の水難事故で亡くなり、卒業できなかった生徒である。


ミコの頬に涙が流れた。

「そう、ここにいたんだね。わたしはもう一度会いたかったんだ、ユウタに」

理由は考えても探しても見つからないかもしれない。

でも結末は塗り替えられる。いつだって。

三人はヘッドマウントディスプレイを外すと、口々に良かったところや改善点を話した。青いカーテンの外は夕暮れ時になっていた。

「今日はここまでね」

ミコが立ち上がった。

サチが思い出したように言った。

「そういえば、一橋タカシさんに出来た怪談のことをメールしたんだけど」

ミコはぎょっとした。

「余計なことを。それで?」

「メール、返ってきちゃうんだよね、どうしてだろ……」

二人は画面を覗き込んだ。

「Message could not be deliveredだって。なんだろう?」

二人はヨシキの部屋から出た。二人の会話が壁越しに聞こえる。

ヨシキはテレビをつけ、ぼんやりとチャンネルを変えた。ニュースでふと手を止める。彼の手は震えだした。

「白骨遺体の身元は作家である一橋タカシさん。本名、須藤タカシさんのものであると分かりました。遺体は死後、半年経過し――」(了)