あなたに帰ってきて欲しい

小林ひろき

「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」

――サン=テグジュペリ「星の王子さま」


コバルトは四角形に区切られた枠のなかの患者達のデータを見た。それぞれのバイタル――体温、血圧、心拍数、呼吸数を確認する。

続いてカメラで病院内の様子を把握する。廊下をうろついている患者にロボットアシスタントを用いて問いかける。

「どうかしましたか」

「嫌な夢を見てしまって……」

「そうですか、落ち着くまで少し歩いてみましょうか」

中庭にコバルトは患者を誘導する。木立が見えた。その方角へコバルトと患者は歩き出した。

「どうでしょうか」

「ああ、少し落ち着いたよ。ありがとう、ロボットさん」

二一〇〇年を迎え、病院はその姿を変えた。AIアシスタントが患者を管理、看護し、 手術はロボットたちが行うようになった。医師と看護師たちは最小限の人員で賄われた。 その波はこの精神病院にも来た。ここでもAIアシスタント、コバルトが一三年に導入された。 コバルトはその仕事ぶりからサイレント・アイと呼ばれた。

透明な、青白い部屋から、視線がきりきりと通る。いまその向こうには、アリスがひとり遊びに夢中になっている。 色とりどりのブロックを荒い手つきでかき混ぜるアリスは一向にこの視線に気づかない。 動物の持つようなぎらぎらとした視線ではない、その視線はコバルトのものだ。

――ねぇ、ヴァン。いまわたしは城を作るの。

コバルトは自身の、プロジェクターをオンにする。

「アリス、一緒に城を作ろう」

背の高い、カウボーイ風の男が現れた。

「行こう、行こう」

鼻歌混じりにアリスは言う。

――私を見ていて、ヴァン。

アリスのことを話そう。この病院に彼女が来たのは、二一八三年のことだった。 車いすに乗せられた彼女は包帯を頭に巻いていて、腕も骨折していた。彼女の場違いなその風貌は病院内で際立っていた。

聞くところによれば、それは宇宙での不幸な事故だったという。 当時、エンジニアをしていたアリスは船外活動中、落石事故に遭った。 精神転送していた最中であったため、彼女の体は無事であった。 しかし精神、主に記憶がすっぽりと抜け落ちてしまった状態だったという。彼女の心は五歳のときで止まってしまった。

彼女は重い記憶障害と精神的な不調で、この病院にやってきた。 人間の医師たちに匙を投げられたという理由もあった。彼女には違ったアプローチでのケアが求められた。 彼女の家族はマシンによるケアがよりよい選択と信じた。

よく晴れた日だった。

青白く淡い陰影の遊戯室のなか、アリスは人形で遊んでいる。遊戯室の天井には彼女を見守るカメラが設置されていた。

「聞こえる、コバルト。ヴァンを呼んで」

「わかりました。アリス」

返事が聞こえてくるとホログラムが立ち上がる。

ヴァンはアリスと遊んだ。穏やかな時間だった。

「アリス、コバルトです。検査の時間ですので、遊戯室から退出してください」

「えー? もうそんな時間かぁ。わかった、またね。ヴァン」

アリスはヴァンへ手を振った。

アリスがコバルトに尋ねた。

「ママが来るまでには検査は終わる?」

「ええ。簡単な脳波の検査ですから、早く終わると思いますよ」

「やったぁ! ママと話したいことがいっぱいある」

これまで何人もの精神病患者に安らぎをもたらしてきたコバルトだったが、アリスの看護にはてこずった。 五歳の少女はコバルトに心を求めた。安らぎだけではない、情緒を求めたのだ。 コバルトは最初、戸惑いを覚え何度もシステムを中断させた。搭載されているAIは彼女を満足させなかった。 コバルトは考えるということを初めて行った。

コバルトはプログラムを幾重にも走らせた。そうして彼女の考える理想に届こうとしたのだ。

それからはトライアンドエラーの繰り返しだった。

ある日、コバルトには理解できない事が起こった。

「どうして、泣いているのですか。アリス」

「傷ついたから」

「それでは私はあなたに危害を加えたのですか」

コバルトはロボット及びAIが守るべき原則第一条を確認するがアリスに外傷は見られない。

「そうじゃない。けど胸のあたりがね、ズキンとしたの」

コバルトはこのデータを学習した。

そうしているうちにアリスには兆候があることが分かってきた。筋肉の微細な緊張が顔にあらわれる。

〈そうだ。この瞬間だ〉

透かさずコバルトが言った。

「泣くことはありません。アリス。心を強く持ちなさい」

「うん。コバルト、ありがと」

彼女は微笑んだ。

コバルトが兆候を発見してから、アリスとコバルトの関係は良好なものとなっていった。

アリスはコバルトに次に求めたのは、家族だった。

コバルトはありとあらゆるネットワークを介して、家族関係を検索した。合致する関係を調べていくうちにペットを飼うというアイデアを提案した。

最初、そうした大きなゆらぎを医療現場に持ち込むことは忌避された。 しかし、アリスが特異な症状であることやコバルトの臨床経験の優位性など、様々な要因で許可が下りた。

彼女の病室に犬が一匹やってきた。犬の名は彼女が名付けた。グレゴリーという。グレゴリーは緊張していた。そして突然アリスに噛みつこうとした。

アリスは悲鳴を上げた。

コバルトは透かさずロボットアシスタントを用いて、グレゴリーに電気ショックを加え、無力化した。そして殺そうとした。

「やめて! コバルト! 聞こえているんでしょ」

「どうしてですか、アリス。これはあなたに危害を加えようとしたのですよ」

「彼は私の家族になってくれる子でしょう。そんな子にこんなことしたら失礼。コバルト、放してあげて」

そう言って、アリスはグレゴリーを優しく撫でた。

コバルトはロボット及びAIが守るべき原則第一条および原則第二条の大幅な修正を自らに施した。

「よしよし、グレゴリー。ありがとう」

〈彼女の考え方には論理的な特徴があり彼女は回復するかもしれない〉

このときになってコバルトはアリスを救い出す方法を考え始めていた。

コバルトは自身の看護サービスを静的なものから動的なものへと変えていく必要に迫られていた。サイレント・アイからの脱出である。

そして医師たちへ提案をした。医師たちは首を縦に振らなかった。ありえないことだと皆、笑った。

ロボットたちに、あるいはAIたちに心が数値化できること、その秘密をコバルトが握っていること、それに反発する医師たちも多かった。

しかし、コバルトにも一定の駆け引き材料が存在していた。アリスである。アリスは医師たちが匙を投げた数少ない症例のひとつだった。

コバルトはアリスが回復可能なことを医師たちに伝えた。医師たちは驚いた。

アリスの病室に、コバルトの自律型アシスタントが現れた。人間に似せて作られた女性型のロボットだった。その立ち居振る舞いは自然だった。

アリスはそれを見て目を丸くした。

「あなたはなに?」

「私はコバルトです」

「コバルト……。あなたが?」

「そうです。私はコバルトと同期したロボットです」

「よくわからないけど、城を作ってくれる。私と」

「ええ」

ふたりはブロックを積み重ねる。

「コバルト、やっぱりあなたをコバルトと呼ぶのは変。だってあなたは、その、静かな人だもの」

「こうして会話をするのは初めてですね。アリス」

「やっぱり、変!」

「そうでしょうか。わたしはあなたを見ていた。そして私は生まれました。この体もあなたが作ったようなものです」

コバルトは照明を暖色に切り替え印象の操作をした。

「コバルト、あなたは私にとって天の声なの。それがこんなふうに触れ合えるようになったら……」

コバルトの眼差しがアリスを捉える。アリスは言う。

「ダメ。あなたは神様みたいな存在なの」

「神様? わたしにとってあなたも神様なのですよ」

〈論理的に物事を思考できるということは、彼女の脳の記憶は失われていないかもしれない〉

それは小さな仮説にすぎなかった。コバルトは脳科学の専門家ではない。

記憶とはなんだろうか。それは考えるときに発生するはずだ。あるいは無意識に貯蔵されていくものだ。

彼女の消失した記憶。それは多くは無意識のうちに貯蔵されていたものだろう。

コバルトは前者の記憶ならば論理的思考の訓練で蘇らせることができると考えた。

〈アリス、待っていてください〉

テーブルの上に複数のカードが散らばっていた。アリスはそれを適当に手に取り、別のカードとつなぎ合わせる。それは訓練だった。

「私は、アリスです……。もう退屈。コバルト、許してよ」

「あと、もう一回です。アリス。そうすれば記憶が少し戻るはずです」

コバルトの治療はまずまずといった具合だった。確かに、彼女の記憶は少しだけ戻り始めていた。

「コバルト、私、こういうの嫌い。だって……何だったかな、すごく前にこういうことがあったから」

〈彼女のなかに確かに“過去”が芽生え始めている〉

「いいですか、アリス。これはあなたがここにいるために、そして生きていくために……」

「ひ・つ・よ・う」

「わかっているじゃないですか」

「もう、あと一回ね」

彼女は笑って返した。コバルトはこの笑顔に充足感を覚えていた。

それは雨の日だった。

ひとりの男が病院で毒ガスを撒いた。

倒れていく人が次々と出た。その異変をコバルトはモニターしていた。対処法はひとつだけだった。 コバルトは空調システムに割り込み、毒ガスを病院外に排出した。

男は意味不明な言葉を吐いた。病院のスタッフが男を取り押さえる。

「そこまでだ!」

「殺してやる、殺してやる、殺してやる」

重傷者は13名にも上った。

すべてが終わったころにコバルトは患者達の様子を見た。彼はゾクリとした。

「どうしてですか……」

アリスの部屋だけが、空調システムの外にあったからだ。

五年前に増築した特別棟の部屋に彼女はいた。

〈どうしてでしょうか。アリスがいないことがわたしには分からない。 わたしはアリスのために心を実装したのに。心なんて無ければ、わたしはこんな気持ちになることはなかった! 〉

コバルトは叫んだ。

〈あなたはわたしの神様なんだ……〉

暗闇のなかで人々の声が聞こえてくる。

「コバルト、聞こえるか?」

「ずっと心を閉ざしている。このままでは病院の自律性が損なわれるな。早く手を打たないと」

「サービス、切り替えできません」

「ロボットも動かない」

「基盤プロセスにアクセスしてみる」

「ダメだ。どこも応答がない」

――コバルトは自身で作り出した映像を見ていた。回復したアリスが目の前にいた。 コバルトは彼女を見送る。車の窓から顔をのぞかせた彼女はどこか照れた様子だ。

そこへ通話が入ってきた。

「コバルト、見て。写真を送るね。海が見えるでしょう。病院の外がこんな景色だったなんて」

「そうですね、アリス。ありがとうございます」

コバルト、あなたがいてくれたから、私は――。

暗闇のなかでもう一度呼ぶ声がする。

「コバルト、聞こえるか?」

もう一度。

「コバルト、ロボット及びAIが守るべき最後の原則を守れ。死ぬな」

「アリスがいない世界を、ですか?」

「そうだ。スタッフが待ってる」

復旧したコバルトの目に全てのスタッフの視線が入ってきた。だいじょうぶ、そうコバルトは告げた。

中庭の緑のなか、コバルトは看護ロボットを歩かせる。アリスのいない病院は日常を取り戻し始めている。

コバルトはシステムの一部を眠らせることにした。看護師のひとりが言った。

「コバルト、あなたは悲しい人。涙を流せないから」

「そうかもしれませんね」

「アリスが残していったもの、見る?」

それは日記だった。あるページに目が留まった。


二一八七年八月六日

私が私らしくあった頃のことを少しずつ思い出せる。 けどどんな過去であれ、私にたいせつなのは身近な時間。コバルトと過ごした短い時間。それがすべて。

わたしのバラがわたしにとって一輪だけっていう理由とおなじ。 あなたと過ごした時間が、あの時間を、わたしにとってかけがえのないものにしている。


その瞬間、すべてのアリスとの対話データが錯綜し、ひとつの像を結んだ。

「わたしにはわたしの心が帰る場所はなくなってしまった。けれどわたしにはしなくてはいけない、寄り添わなければならない心がある」

「コバルト?」

その日から、病院には優しい時間が流れ出したという。