エヌ氏の昭和ワンダーランド

小林こばやしあお

回送電車をふたつ見送ったという連絡が入った。

私の意識はスマホの画面の先に沈んでいく。少しして、メッセージアプリに「ついたー」という伝言が表示された。

「どこ?」

既読が素早く付いた。

「エスカレーターした」

地上へと伸びるエスカレーターの下に彼女は立っていた。

麦わら帽子に同じ素材のハンドバッグ。ネイビーの、麻のワンピースに日傘という出で立ちのエヌ氏に私は手を振る。彼女も気づき、手を振った。白いTシャツにジーンズというラフな格好の私は少し戸惑った。

エスカレーターで地上へ上がる間に、エヌ氏と近況を伝え合う。澄んだ綺麗な目。今日は眼鏡をしていないことに気づいた。

地上へと出ると、夏の強い日差しにたじろぐ。午前中は曇っていたのに計算が狂う。踏み切りを渡ると、エヌ氏と私は鬼子母神の参道へと歩き出した。参道の両脇には大きな木々が並び、木陰に包まれて空気は少しだけひんやりとした。

参道にあるいくつかの店にエヌ氏は興味を惹かれている。すれ違った黒いランドセルを背負った男の子たちが「うんこが! うんこが!」と叫んで私とエヌ氏は顔を見合わせて笑った。

参道を曲がる。

夏祭りだ。赤や黄色の出店が並ぶ。エヌ氏の狙いはこれだったのか。そういえば今日は七夕だった。

ふわふわの綿あめ、香ばしいたこ焼き、色とりどりの水風船、冷やしたチョコバナナ。出店の前の雰囲気を感じながら二人で歩いた。スマホで写真を撮るエヌ氏は楽しそうだった。

「何か買う?」

「ううん。雰囲気だけがいいの」

特に私達は出店に寄らずに、先を行く。つきあたりにかき氷の店が見えて、キンキンに冷えたかき氷を頬張る子どもたちが見えた。その脇でおじさんが物凄い勢いでかき氷をかきこんでいる。きっと暑かったのだろう。

鬼子母神の本堂の前で萎びた朝顔を見た。

振り向くと冷たいチューハイやドリンクが目に入った。喉がごくりと鳴る。きっとこれだけ暑いのだ。冷たいお酒はさぞ美味しいだろう。

そんなことを思っているとエヌ氏が盆踊りの話を始めた。今年の夏は盆踊りをハシゴすると意気込むエヌ氏だった。練習もしている。エヌ氏曰く太鼓の打ち手に惹かれて、盆踊りをしているらしい。

小さな女の子が浴衣を地面に擦りながら、金魚すくいに興じている。エヌ氏は金魚すくいの網は強いものと弱いものがあると力説した。そうかと思いながら、的当ての前でいかにもガキ大将といった感じの男の子が玉を大きく振りかぶっているのが見えた。周りにいた女の子や背の低い男の子たちにアピールしたいのが見え見えだった。

「かわいい」とエヌ氏は言った。私も同じ意見だった。

境内から出ると私達はスーパーの前を過ぎ、開けた大通りに出た。エヌ氏に連れられ古書店の前に立つ。店の前には以前話題になった小説が並んでいた。米澤穂信の「いまさら翼といわれても」が目に入って指を差した。私は私の知る全ての知識でこの小説を説明したが、エヌ氏には響かなかったようだ。

店に入ると、クーラーの涼しい空気が心地良い。エヌ氏は本棚の上に並べられた雑貨やおちょこを矯めつ眇めつしていた。ビジュアルブックや画集を見ながら、店の奥へ奥へと入っていく。

エヌ氏は全く本が読めない。

本の背を見ながら、私は青い背の本を探していた。青い背の本なら分かるからだ。青い背の本を見つけると、私は少しだけ得意な気分になった。

エヌ氏は私を見て「動物農場」を指差した。ジョージ・オーウェル。なかなかのチョイスに唸ってしまう。店を出ると、さっきの本棚をもういちど見た。「コロンビア・ゼロ」が目に入って少しだけ嬉しくなった。

エヌ氏は道を歩きながら、楽しそうに野坂昭如の「マリリンモンロー、ノーリターン」という曲の話をした。午後の日差しが少しだけ傾いていた。

道の先に西武が見えた。池袋だ。私達は池袋の駅の西口へ出ると、風俗や飲み屋、カラオケ店がある雑多な通りを歩いた。喫茶店へ向かっているらしい。私はこのへんの土地勘がないからさっぱりだ。

「アイスコーヒーが濃いんだ」とエヌ氏は言い、私達は喫茶店に入った。

私は席に着くと水出しアイスコーヒーを選び、エヌ氏はアイスカフェオレを選んだ。注文を済ませるとエヌ氏は煙草を吸い始めた。加熱式煙草のようだった。

私の目の前には理科の実験器具のような大きな抽出器が置いてあった。少ししてアイスコーヒーを店員が運んできた。

ストローで口に含むと、濃厚な珈琲の苦味がした。美味しい。

アイスコーヒーがなくなり、グラスがじっとりと結露するまで私達は話した。


おととし、母が亡くなった。膵臓がんだった。病気が発覚したときには余命を宣告されていた。騙し騙しの痛み止めと放射線治療に望みを託したがうまくは行かなかった。最期の日、あんなに強かった母が漏らした呻き声を私は生涯忘れないだろう。母が亡くなって一年、父は母の実家にあった母やその姉の伯母の持っていたアクセサリーや宝飾品を整理し始めた。

行き場のなくなったそれらを私は少額のお金に変えることにした。

高校時代の同級生であるエヌ氏が古物商こぶつしょうを始めたというので、私はアクセサリーの引き取り先をそこに決めた。今日はそのお金を受け取りに来たのだ。

エヌ氏は赤い水玉模様の小さな紙袋のなかにポチ袋を入れ、手書きの手紙をいっしょにくれた。ポチ袋のなかには折り畳まれた紙幣があった。まるでお正月みたいだと私の心は少しだけ明るくなる。おばあちゃんみたいだと思った。

小さな黄色い紙に書かれたメッセージを読むと、私の心の奥底が少し軽くなった。

支払いを済ませると、ラブホテルの並ぶ街を歩き出す。私達は友達だった。西日が差す線路の上、ペンローズの三角形のような複雑な立体歩道橋を歩く。人気ひとけのない住宅地へ迷い込むと、エヌ氏は頭の中に地図があるかのように、迷わず進んだ。

上池袋のエヌ氏のお店に向かっているらしい。

私も一回か二回はそのお店に行ったことがあるが、北池袋駅から店の経路しか知らない。気づくと私達はお店の近くまで来ていた。

エヌ氏、すごい。私は心の中で叫んでいた。

お店に入るとスタッフは急用でおらず、エヌ氏に勧められるがままに二階へと上った。急な階段だった。二階はがらんどうで、猫のポンちゃんもいなかった。

日本家屋のなかでふたりきりになった。

窓は網戸を閉めてはいるが、開け放たれており、夕暮れの外の風が入ってきていた。扇風機が回っていて、居心地は悪くなかった。柔らかい緑色のソファに二人で腰掛ける。私は立ち上がって、部屋のなかの本棚やキッチンを見渡した。建築関係の本が多かった。

敷いてある座布団に座って、エヌ氏と向かい合う。

「風、気持ちいいー」

エヌ氏の髪が風でさらさらと揺れた。エヌ氏はスマホでさっき話した「マリリンモンロー、ノーリターン」を流した。尺八のような木の笛の前奏から始まり、読経みたいな野坂の声が混じる。曲が盛り上がっていくにつれ、聴いたことのある歌謡曲に姿を変えていく。

面白い構成の曲だ。

時計を見ると、六時半だった。

窓の向こうのマンションから反射する強烈なオレンジの夕日の光も和らいでいた。

「行こうか」

私達はお店を後にした。

北池袋の駅のホームで私達は座って電車を待った。準急の電車がひとつ通り過ぎていく。エヌ氏はさきほど自動販売機で買ったスポーツドリンクを飲んでいた。

私達が子どもだった頃、夏の気温は今日くらいのものだっただろう。先週の猛暑を思うと眩暈がしてくる。

電車で一駅。池袋で私達は別れた。

メッセージアプリにエヌ氏から「来てくれてありがとう」と伝言が来た。エヌ氏に返信をする。

既読がひとつ付いた。

昭和八八年の夏だった。



夜が迫ってきていた。冷たいきゅうりの食感はアルコールで火照った体に心地良い。

日没前の昼下がり、私は電車を待ちながら祐天寺ゆうてんじの駅で陽炎かげろうの立ち上る遠くの風景を眺めていた。気温が三五℃なら当然か。

昨晩のことである。エヌ氏からメッセージアプリで鬼子母神の夏祭りの写真が送られてきた。盆踊りを見てきたらしい。

「あした、ケイ先生がお店に来るよ」

「ケイ先生が?」


ケイ先生は私の高校の絵の先生である。唄うように語る人だった。筋張った腕でスケッチをゆっくりとした手つきでする人だった。絵にコンプレックスのある十六歳の私の絵を褒めてくれる人だった。

何気なく引いた線を、イラストを、抽象画を褒めてくれる人だった。褒めすぎだった。

エヌ氏の話ではケイ先生は私のことを覚えていてはくれなかったようだ。ほんの少しだけ落胆して、私は押し入れにあった高校時代の銅版画を見つけ出す。埃をかぶった銅版画を見せれば、きっとケイ先生は私を思い出してくれるに違いない。

けれど、そう思ってリュックに銅版画を入れて、私の胸に冷たいものがつたう。

――それでも、思い出してくれなかったら……。

私は銅版画を元の場所に仕舞い込んだ。

ケイ先生は過去に私に言った。

「絵は描いていれば上手くなる」

先生、ごめんなさい。私はもう絵を止めてしまったんです。そのことが引っかかったままだった。 

エヌ氏のお店に着くと、エヌ氏が店番をしているのが見えた。いつもの麦わら帽子だった。エヌ氏に声をかけて、隣の喫茶Mでアイスコーヒーを飲む。冷たい液体が喉を伝っていくのに、冷たさを感じられない。

エヌ氏の話もどこか上の空で聞いていた。エヌ氏の話ではケイ先生はいま上野であるらしい。大遅刻である。しばらく二人で近況を話した。扇風機が生温い風を送ってくる。乾いた風はありがたい。赤いテーブルが反射して、エヌ氏の白い肌を赤くしている。

「日に焼けた?」

「いや、そうかな?」

私達は話し込んだ。あっという間にアイスコーヒーは無くなった。トイレに入って出て、待っているとエヌ氏のスマホが鳴った。いよいよ、ケイ先生が北池袋駅に来たらしい。外で待っていると、麦わら帽子に藍染めの服を着たケイ先生がやってきた。

「ご無沙汰ぶさたしてます」

ケイ先生と目が合ったが、ケイ先生はやはり私を覚えてはいなかった。それも当然だ。約十年ぶりに会うのだから。ケイ先生はにこやかに笑いながら、エヌ氏と店の奥に入っていった。

私は後ろをそれとなくついていった。距離感を近づけすぎてもいけないし、遠すぎてもいけないと思った。賢しい知恵だ。

ケイ先生は少し小さくなったし、痩せた。でも顔のシミはそのままだった。

先生はエヌ氏と私に難しい経済の話をした。日本の未来の話をしているようだ。私達がもっと年を取ったら、日本はどうなっているかわからない。未来をもっと真剣に考えないといけない、そんな話だ。

一通りエヌ氏の店を見たケイ先生は、喉が渇いたらしい。ちょうどエヌ氏のお店の横のカフェでラガービールを一瓶頼むと、グラス一杯のビールがついてくるサービスがあった。

ケイ先生は使い込んだ財布から紙幣を取り出す。

おつまみに冷奴と枝豆を頼んだ。

鰹節をまぶした冷たい豆腐と青々とした皿一杯の枝豆を店員が運んできた。

私とケイ先生はラガービールを飲んだ。本当に美味しかった。暑さのせいかもしれない。けれど再会の喜びもあった。

「美味しいな」と先生は笑って言った。

先生はビールを飲みながら、経済の話や今の政治への怒りを述べた。私達は黙って聞いていた。ケイ先生は年を取ってさらにエネルギッシュになったと思う。青春を過ぎた私達よりも感情を爆発させ、正しい意見を言った。

彼の姿は私達の憧れだ。それは今も変わらない。

私は塩をふった枝豆を何個も口に運んだ。先生の話を聞き洩らさないようにした。暑さからビールが進んだ。エヌ氏は頷きながら、先生の話を聞いた。

私達は先生の話を完全には理解できないかもしれない。でも耳を傾け続けた。

ケイ先生は冷たい豆腐を口に運び、美味しそうに食べた。

しばらくケイ先生と話し込んだ。仕事のことや小説のこと、あの高校に来た理由。私は話し続けて、先生は熱心に聴いてくれた。

先生は言った。

「絵は描いた人がどれだけ自由か、測る物差しなんだよ」

私は思う。十六歳の頃より私は自由になれているだろうか? 自由を考えるとき、私は綱渡りの隠喩メタファーを思い出す。あの頃より、私は自由なんだろうか。

深い話に耳を傾けるにつれ、私は十年に一度の彗星を見に来たような気分になっている。

ずっと見ていると目が焼けてしまうだろう。

先生はさらに続ける。

「人間の丹田には宇宙がある。それを信じたならば人間は無限大なんだ」

先生の話は難しくて、壮大で、不思議だ。禅を取り入れた独自の世界観、宇宙観だ。先生の話をちゃんと理解できたかわからない。でも先生の言葉で絵を止めてしまった私の心は自由になれた気がした。

私達はどこにだって行ける。誰にだってなれるんだ。きっとそんなふうに教えられた。


ケイ先生はこのまま宇宙に飛び出して、どこまでも深い世界を旅するだろう。その輝きを誰しも気づかないままでいる。きっとその奇跡は、私達の秘密だ。

ケイ先生とエヌ氏と私でお店の二階に上がる。クーラーの効いた室内は過ごしやすい。猫のポンちゃんが来た。エヌ氏に抱え上げられ、ポンちゃんは中天を見ている。本当になすがままだ。ケイ先生がポンちゃんの顔を撫でた。

ケイ先生はベランダから外を眺めていた。エヌ氏が隣で話しているが、本当に何を考えているのかは誰にも分からないと思う。

ケイ先生はこの後、別の人と飲む予定らしい。とても元気だ。のっしのっしと歩いて、エヌ氏のお店を後にした。

その背中を見送りながら、私は火照った体を休ませた。羽蟻はありがどこからか飛んできて、私の腕にまとわりつく。払ってから風に当たる。まだ暑さは厳しい。

しばらくのあいだ、私は今まであったことを反芻はんすうしていた。日記にこのことを書くためでもあったけれど、ケイ先生とはこの先、何度も会うことはないだろうからだ。

ケイ先生は八〇歳だ。時の流れは残酷だ。きっとあと十年で、私の家に来てくれるかどうかも分からない。私は勢いよく繁茂はんもする夏の菅草すげくさが刈り取られる時期を知っている。

巡り合うこと、そして出会うことは一期一会だ。今日みたいな日は何度だって来ない。だから今日あったことを大切にしたい。

私はふたたび、色とりどりのエヌ氏のお店の商品を眺める。

お水を一口飲んで、エヌ氏と先生の言葉について話す。

お店の人が真っ赤になってやってきて、店の奥に消えた。そして戻ってくると青々とした割れたきゅうりを持ってきた。

商品にならないから、と渡されたきゅうりをエヌ氏と分け合う。

何もしない自然のままのきゅうりの味は格別だ。

テーブルの上の紙袋の中にはケイ先生が渡してくれた自家製ブルーベリージャムの瓶と有機農法で育てたきゅうりが一本だけ新聞紙にくるんで入っている。

エヌ氏と日の沈んだ北池袋を歩く。確かこんな日が幼い頃にあったのだと私は思い出す。隣にいた人は別の人だ。今は遠くへ行った。

電車を待ちながら、準急の列車が通り過ぎていく。遠くの高いビルが見えた。むこうはきっと池袋だ。

エヌ氏に今度、家に来てもらおうという話をしながら私とエヌ氏は池袋の駅のホームで別れた。電車に揺られながら、あっという間に祐天寺に着いた。

アイスコーヒーを買った。少し歩きたい気分だった。スマホを見ると、通知がいくつか入っている。私は構わず歩いた。

家の明かりが見えたとき、メッセージアプリにメッセージが入っているのに気がついた。エヌ氏からだった。

「来年、結婚するんだ」

私は、目を逸らした。青い夕闇はより深くなった。その匂いはコーヒーみたいな香りがした。〈了〉