私の血
小林 蒼
今年のブドウは不作だと言うので、農場に出た。
土地を離れなければならないだろう。
そのつぎは理髪店か? 靴磨きか?
土は、私の血だ。車でゴトンゴトンと農場に出る。紫色の夕暮れにブドウが辺り一面に生っている。今年は雨が多い。ニュースでは徐々にフランスが熱帯化してブドウが育たないようになっている。どこも状況は同じだ。火星も、アル・ガ・ナブーンも、今年はいいニュースを聞かない。良いニュースはどこにもない。地球は特に。
温暖化の影響は南極の氷を溶かし、ツバルを沈め、温帯を熱帯に変えた。特製のビニールハウスでブドウは育てるようになった。これは父の代からだ。変動世代の私はもう地球は終わっている星だって知っていた。友達の多くは火星へ、アル・ガ・ナブーンへ、あるいはもっと遠くへ行った。親友のアルも近々、フランスから発つらしい。でも土地から離れられない。特にブドウ農家なんていう、やっかいな荷物を抱えたまま、私はどこへも行けない。
今年のブドウは不作だと従業員達が言うので頭を抱えている。経営が立ちゆかないわけではない。どんよりとした気持ちの重さだけが、私を土地に閉じ込める。
電気会社の人間がフラワーヒルの案内へ来る。静止軌道上に太陽光プラントを作り全天候型発電施設を作るとかなんとか。電気料金だけなら他を当たってくれと、かぶりを振る。
もうずっとこんな感じだ。
地球ではイノベーションだの、クリエイティブだの、騒がれては消えていくのだ。一度ここへ来たデザイナーのヘイルトンは地域に密着したデザインと農業の未来だの何だの言って、二年でフランスを後にした。ほんとうにくそったれな奴だ。私に見る目がなかった。
未来へはキリストの血は持って行けないらしい。神の子の、血は私の血にも流れている。比喩ではなく、たしかにここに流れている。
醸造樽のワインは上手くいっている。今年はなんとか。来年はどうなるか。
一階の奥の部屋へ入る。ベッドに横たわる父にスープを与える。足腰が弱ってしまわないように少しだけ立たせて歩かせる。
農場を遠目に見て父は言った。
「もうずっと前、農場は広くて良かった……」
昔は良かったのかもしれない。ただ目の前にある、広く真っ白なキャンバスのような未来に私は立ちすんだ。
火星行きのチケットを抽斗にしまっている。いつでも飛び出せるようにと二十代のときに買ったものだった。それも五年、十年と経つと土地に縛られていることに否応なく向き合わなければならない。父の介護はどうなる? 農場はどうする? 経営が上手くいく未来は来ないかもしれない。
私には財産がある。この土だ。この土が私を育んできた。
空から一億の雨が振ってくる。
私を泥へ帰してほしい。
アルが電話を寄越した。もうかれこれずっと前だ。
「ノア、もう行こうと思うんだ。ずっと思ってたんだ、ノアはついてきてくれるって。でもノアには家があるからね……」
「方舟に乗れないノアか……」
「笑えるね、もしさ、ブドウが果樹園の果物みたくミツバチを介して出来たなら良かったのにね……。そしたらノアは家から出られる」
「ブドウはデリケートな植物なんだ。それは仕方ない」
「ねぇ、十年前の約束はダメになっちゃったけど……いつかまた地球へ戻るよ」
「ああ」
ワインを煽るとそんな未来がもうどこにもないことを知っている。時間は戻らない。一回切りだ。そうして気づくと十年前の私がどこでなにをしていたかという話をしなければならない。
私はブドウの品種改良をしていた。簡単に説明すれば自家受粉するブドウを他家受粉するものに変えるというものだ。ブドウは遺伝的組み合わせの多様性から見れば脆弱性の高いプログラムで出来ている。そのプログラムを私は一度、修正した。その遺伝子改良は特許を得て、莫大な資産を私に齎すはずだった。しかし、奇跡は起こらなかった。
バチカンの壁画にはミツバチの絵が彫刻されている。ミツバチは富と平和、秩序の象徴なのだ。農業に欠かせない生き物がミツバチだ。気候変動が齎したのはミツバチというひとつの受粉システムの破壊だった。ミツバチのスペインでの大量死が記憶に新しい。 私にとって試験用ミツバチの異常な高騰は研究を立ち行かなくさせた。
僅かな荷物を持って実家へ帰った。夢も希望も捨てたのだ。私は若かった。それでも火星行きのチケットを買ってアルと今まで見たことのない世界を見ようだなんて、そんな青い夢ばかりみていた。ほんとうに若かった。
火星ではブドウは育たないだろう。私にだって分かる。私の生業が不変ではないことを知っている。もうずっと雨ばかり見ている。すでに多くの農家がフランスを去った。農場はマンションになった。植物だって眠るのに、光がその眠りを妨げる。私にはもうここで何かを造っていくのは無理なのではないかとも思う。
その日も雨だった。郵便受けに目立たない封筒が差し込まれている。その封を開けるとアルからだった。火星からはるばる地球へ郵便船で遙かな旅をしてきた一枚の手紙は、こう告げていた。
私の作ったワインを飲んだ、と。それだけだった。それだけなのに生きる活力が漲った。私は世界から出られない、でも私の造ったワインは世界から出られる。地球を出ていけない私より遠い世界へ行ける。そうして、私の知らない秘密を持ち出してくれる。そうに違いない。私はワインをアル・ガ・ナブーンや火星に売り込むことにした。
いま宇宙じゅうの店頭に並ぶワイン。静かに沈む世界を映しながら、ふくよかな味わいを人々に齎している。