鉄道街のジュブナイル

小林こばやしあお

ベルが鳴っている。今が一体何時なのか、日の高さからして正午過ぎだということは分かった。肌に絡みつく空気は湿気を帯びていて気持ち悪い。ついさっきまで雨が降っていたのだろう。

窓を開け放つと、夏の眩しい日差しと青空と白い雲が見える。体のなかがうずうずして、とび出したい気持ちに駆られる。視線の向こうには大きな鉄道のための高架がある。どこかから心地よい風が吹いてきている。

ベルがふたたび鳴って、わたしは階段を下りる。ギシギシと階段は音を立てる。築三〇年は超えている建物だもの。薄暗い一階の台所にエラァンがいて、食事の準備をしている。包丁の音がリズムよく聞こえる。

時計を見れば、出発の一五日前といったところ。それ以外の細かな時間などの情報は無い。

「おはよう」

「おはようではございません、いまはもう昼です」

エラァンは怒ったような声で言ったが、顔は無表情だ。

「シパ様からの用事は済んだのですか?」

わたしはボードの上に貼ったメモを見る。確かに期限はだいたい今日というところ。でもそんな気分ではなかった。

いまは夏なのだ。刻一刻と時間は迫ってきている。一五日などあっという間だろう。冬はすぐ目の前だ。鉄道に乗り込む前にわたしはこの町の空気を胸いっぱい吸い込みたい。夏の記憶を留めておきたい。ただ、そう思ったのだ。

色紙が床に散らばっている。シパからの用事はまだ完成とはいえない。

エラァンもシパも黙々と仕事を進める。さすが電人。光沢を失った金属の身体。でも彼らは冷たくはなかった。暖かい眼差しをいつも感じている。わたしのおかあさん。おかあさんと呼ぶのは少し照れくさい。

「エラァン、少し休んで」

「ありがとう、ティ。でも心配には及びません。わたしは電人です、しばらくは動けます」

優しい響きを持った声。わたしの胸の奥に小さな火が点る。

うずうずした感覚がまたやってきて、わたしは思わず、扉を開いた。

気持ちのいい、高い空のもとをわたしは歩いた。遠くに一羽の鳥が飛んでいる。壁の外まで彼は飛んでいった。わたしの知っている世界の向こうまで、それはきっと自由なことだろう。

わたしは鉄道が来てくれるまで待つことしかできない。

世界。

この町に鉄道でやってきたのは九年前のことだ。わたしたちを運んできた鉄道は、来た道を戻っていった。

雪が降っていたのを覚えている。かじかむ指の感触と、凍えそうな夜だった。わたしたちは鉄道のなかでぎゅうぎゅう詰めになっていた。でも暖かさは感じなかった。

いまこの鉄道が横転して谷底に落ちていったなら、わたしたちの旅は終わる。最悪な想像をしていたわたしは、鉄道から降りて、これから住む家に案内され、ベッドに横になり眠った。すると鉄道が横転する夢を見た。そんなわたしをエラァンが揺り起こした。

「大丈夫ですか、大丈夫ですか」

わたしはその夢にうなされていたのだ。目覚めた私の目に飛び込んできたのは、金属でできた電人だった。わたしは驚いて悲鳴を上げた。それからはよく覚えていない。その夜、飲んだハーブティーの味が辛うじてわたしの記憶を繋ぎとめていて、そしてこんなふうに思ったことだけは覚えている。

ここにいていいのだ、と。

夏が来たのはそれからすぐのことだった。気温がぐんと上がり、日差しが強くなった。二駅前の町にも夏という季節があったけれど、この町ほど暑くはなかった。からからになりそうな暑さとときどき来るスコール。それがこの町の表情だ。赤子のようにころころと変化する気候にわたしを含め、町に住む子どもたちはうんざりした。

ボロボロになった建物が並ぶ表通り。高架の方向へ歩いていくと高架の巨大さがだんだんと分かってくる。わたしたちの乗ってきた鉄道も大きかったけれど、次に乗る鉄道も大きいのだろうと思う。わたしたちは成長した。背丈ももうすぐ大人と変わらなくなる。大人になったわたしたちの乗る鉄道を想像してみる。黒い煙が上がって、わたしの身長より大きい車輪が回る。ガタガタと町全体を揺らしながら鉄道は来るだろう。電人達が手を振っている。わたしは彼女にさよならを言って、旅の続きを始める。

新しい生活の始まりだ。わたしは期待に胸を膨らませる。目は輝きに満ちている。

それから次の町で電人達に手紙を書くだろう。彼女たちを忘れないために、あの暖かさをもう一度、抱くため。幸福という名のエンジンを動かしていくだろう。それは永遠に生きられる電人達にとっては些細なことで、わたしは彼女たちの電子脳にひっそりと確かな像となって残る。わたしがいたことを覚えていてくれませんか、エラァン。


向こうに少年が一人、ぽつんと立っている。赤い髪で、一目でザックだと分かった。わたしはザックの元へ駆けていく。うきうきとした気分が高まってくる。口角が自然と上がった。わたしは彼が好きだった。彼のいたずらっぽい視線がわたしをとらえた。

「ティ、ずいぶん遅い起床だな」

「どうして分かるの」

わたしは眉をひそめた。

「ほら、寝癖ついてる」

ザックはわたしの髪を撫でる。

「あ、ほんとだ」

今まで気づかなかった。わたしの顔は赤くなっていたと思う。

「ティ、これからどこへ行く?」

わたしは間を置かずに答えた。

「シモンの家へ行こう」

「ああ、シパの宿題か」

そう、とわたしは返事をした。

ザックの足音がペタペタ聞こえる。サンダルの音だ。

わたしたちふたりは東の壁の方角へと歩き出した。

わたしはザックに問いかける。

「あとだいたい二週間だね、準備はできた?」

「ヌスルからも繰り返し聞いてる。持っていくものもたいしてないんだ。特別になにかってことはない」

ヌスルはザックの家の電人だ。

「俺は楽しみだよ。次の町のことを想像するだけでワクワクする」

「そうだね」

わたしとザック、それにシモン。みんなこの町に来てから仲良くなった。昆虫を一緒に捕まえたり、壁をよじ登ったりした。壁の外には出られなかったけれど、わたしたちはよく遊んだ。

シモンの家、町の外れにレンガ造りの家が見える。煙突から白い煙が上がっている。シモンは昼食を取っているのだろうか。

ベルを鳴らす。

セェド、シモンの家の電人が答えた。

「あら、ティ様、ザック様。いらっしゃいませ」

「シモンはいますか」

「いま、二階にいますので、少しお時間を頂けますか」

わたしとザックはシモンを待つ。

扉が開いた。

中から小柄な少年が出てくる。手には色紙を鳥の形に折ったものを持っている。一つや二つではない。百から三百はあるだろうか。わたしは目を丸くした。振り返るとザックは口を僅かに開いている。

「ごめん、宿題、遅くなった……」

わたしはやっとのことで口を動かし、シモンに言った。

「こんなにも、たくさん……。シモン、大変だったでしょ?」

シモンはつぶらな瞳をまっすぐこちらに向けて、言った。

「ぼく、こういう作業が得意なんだ。だから、その、平気……」

シモンは頭を掻いた。

わたしは振り返る。ザックは親指を立てた。

「これからシパのところへ行こうか?」

とザック。

わたしは自分の宿題が終わっていないことを思い出した。

「待って。わたしの家に来て。そんで、宿題……手伝ってくれないかな?」

ザックとシモンは顔を見合わせた。

昼食を済ませると、二人がわたしの家に来た。

ザックはたくさんのきれいなままの色紙を見て言った。

「ティ、お前。計画性なさすぎ」

「へへへ……」

わたしは笑うしかなかった。

シモンは床に寝転がると色紙を折り始めた。

「わたしも」

「じゃあ、俺も」

色紙がつぎつぎと鳥の形になっていく。わたしたちの周りは折り紙でいっぱいになる。

赤、黄、緑、ピンク。

気づけば千近くの鳥の折り紙を折っていた。

西日が、窓の向こうで輝いている。夕方のちょっぴり寂しい気分が胸の奥底から湧いて出てくる。

ザックが言った。

「この鳥って名前あるのかな?」

シモンは折り紙に夢中になりながら、答える。

「鶴。いまはもう絶滅しちゃった鳥なんだって」

わたしはふたりの会話をぼんやりと聞いていた。カタカタと地面が揺れた気がした。

「ねぇ、いまの。列車が来たのかな?」

コップの水が僅かに波打つ。

「まだ予定よりだいぶ早い」

「気のせいだよ」

ふたりは言った。

わたしはこういうことをよく感じる。それはわたしが世界のことを何も知らないからだと思う。この土地が、どこにあるのかもよく知らない。物心ついたときにはわたしは列車に乗せられていて、旅をしていることになっていた。この世界がどんな歴史を持っていて、そしてどこに向かっているかもわからない。だから知りたいと思ったし、もっと世界を見たいとも思った。レールから外れたっていいじゃない。わたしは壁の向こうの、世界を見てみたい。

折り紙を束ねると色彩豊かなオブジェができた。これを明日、シパのもとへ届けよう。シパも喜んでくれると思う。いつの間にか辺りは暗くなっていて、電灯の光が窓から漏れていた。わたしはシモンとザックを町の中心まで送ると、手を振った。ふたりも振り返りつつ、手を振ってくれた。空を見上げれば、星がいくつか見えた。オレンジ色の光と白とも青ともつかない光。あの世界までわたしは届くことができるだろうか、そんなことを思う。あと一五日後にはわたしは別の世界へと旅立つ。それが大人になることだと信じている。

スコールがかれこれ三時間は止まないでいる。

わたしは駅舎に集まった人々と一緒に、じっと外を見ながらやり過ごしている。こんなに雨が長く続いたことはなかった。この町に来てから、初めての経験だ。

列車はまだ来ない。

ダイヤグラムではもう来てもおかしくないはずだった。

わたしはザックと手を重ね合わせていた。ザックの手は冷たかった。ザックは震えているみたいだった。

「大丈夫だよ、ザック」

「分かってる、分かっているさ」

レインコートをぎゅっと掴む音がした。

「電車、来ないね」

シモンは小声で囁いた。

それから一日経ち、流石に待っていられなくなって、わたしたちは町に戻った。時は経過した。三日、一週間、一ヶ月と、わたしたちは見捨てられたのかと思った。

その頃からか、エラァンやシパの調子が悪くなっていった。彼らだけではなく、ヌスルもセェドも、町中の電人の調子がおかしくなった。わたしはエラァンやシパに油を差したり、ボディをきれいに磨いたりしたけれど、調子は良くならなかった。彼らは座っていることが多くなった。わたしたちは畑をそのままにしておけないので、朝から起きて、農作業をした。土を触っていると、汚れるけれど、気持ちが落ち着いた。

夜になって町のリーダー格であるシドがわたしたちを呼び集めて、町内会を開いた。電灯の点が線になってわたしを導く。わたしがシドの家についたとき、もう二〇人ほどの人が集まっていて、議論を始めていた。そのなかにザックとシモンの顔を見つけるとわたしはふたりに声をかけた。

ザックが話の内容を要約してくれた。どうやら、電人達の不調と列車の未着は関係があるとシド達は考えているらしい。そして誰かが「工場の町に行けば、電人を修理できる」と言った。人々は口々に考えを言い合った。色々な考えが、わたしの耳から入ってくるけれど、ほとんど理解できない。

そのうち、シドが落ち着いた声で場を鎮めた。

「工場の町へは誰が行く? そこに行っている間、列車が来てしまったらそいつだけは列車に乗れないんだ……簡単には決められない」

シドは顔を歪め、苦しい表情をした。

わたしは口を開いていた。自分でも信じられないくらいだった。

ザックは目を見開く。

「それでも構わない、エラァンたちはわたしたちによくしてくれた! 恩を忘れちゃ駄目だよ。わたしが工場の町へ行く!」

シドは頭をグイッと後ろにそらした。

彼は頭を戻して言った。

「ティ、それでいいんだな? 電人達のために工場の町へ行ってくれ」

シモンがもじもじしながら言った。

「ぼくも、行きたい……」

そして続いてザックが大きな声で言った。

「ふたりが行くなら、俺も!」

町内会の帰り道、わたしはふたりに言った。

「ねぇ、本当に良かったの? ふたりを巻き添えにして」

わたしの先を行くザックは前を見たまま、言った。

「いいじゃんか。これで」

「良くない。わたしのわがままだ、これじゃ」

「わがままじゃないよ」

後ろからシモンの優しい声がした。

「こういう関係って、なんていうんだっけ? ザック」

「……運命なんとかってやつ?」

「そう、運命共同体!」

シモンは珍しく大きな声で言った。

「運命共同体、パートナーってやつだな」

ふたりはわたしを差し置いてどんどん話を進める。彼らの話は小気味よい。けれど、すこし照れくさい。

夜が明けると、わたしたちはリュックを背負って線路に出た。

「ドゥマ、道案内を頼む」

「わかりました」

ドゥマはシドの家の電人だ。シドが工場の町へと案内するように命じた。

線路は砂利道だ。

わたしとザック、そしてシモンとドゥマは歩いた。

日の傾きからだいぶ時間が経っていることが分かった。疲れはまだ感じていない。汗を拭う。こんなに歩いたのは久しぶり。

「鶴」

「ルール」

「ルビー」

「ビール」

「留守」

「スツール」

「もう、ザックったら、ずるい」

ザックとシモンは笑う。

わたしたちは疲れないように、水筒の水で喉を潤した。

未だ世界はこんなにも広いのだと思う。わたしたちの町も大きいけれど、線路から見える草原とどこまでも広がる空はもっと大きい。空気がひんやりとしてきた。雨でも降るのだろうか。

向こうから白い霧が出てきた。

何も見えなくなり、ふたりの名を呼んだ。彼らの声が返ってきて安心する。

「進む?」

「いや、これは留まった方がいい」

「そうだね」

ドゥマとわたしたちは霧が晴れるまで待った。

霧の向こうに太陽が見え始める。あと少しかと思い、わたしは遠くを見た。いや何も見えないのだから、遠くですらないのかもしれない。光る目が見えた。何だろうとわたしはじっと睨む。目はむこうへ行ってしまった。

「ザック、あれ何だったんだろう?」

「ごめん、違うところを見てた」

シモンが言った。

「草食動物かな」

「見たことないね、それ!」

わたしは好奇心で目を輝かせていたと思う。

霧が晴れるとドゥマが「少し休憩がほしい」というのでわたしたちはそこで止まった。

ドゥマの調子を見て、わたしたちは彼に地図を書いてもらう提案をしたが、彼は「だいじょうぶです」と頑なに断った。仕方なくわたしたちは歩くことにした。

しばらく歩くと、線路の上に乗り捨てられた四人掛けの乗り物を見つけた。箱に車輪が四つついた簡易な乗り物だった。

ザックは丹念にその乗り物を調べた。

「動く、かな?」とシモン。

「いけそうだ」

エンジンの音がした。

わたしたちとドゥマはその乗り物に乗り込んだ。

乗り物はだんだんと速度を上げた。吹いてくる風が心地いい。

柑橘類の匂い。

自生した蜜柑の木。その木を追い越し、なおも乗り物はぐんぐん進む。

わたしは興奮していた。ザックもシモンもそうだ。

これに乗っていけばわたしたちはどこにだって行ける。そんなふうに感じた。

湖が見えてきて、太陽のキラキラを反射する。眩しい光にたじろぐ。けれど、乗り物は光の向こうへと走る。そう、光の向こうだ。


三本の煙突の先から灰色の煙が上がっている。遠くから金属を叩くような音が聞こえ、誰かが作業する音、機械が動く音、それらは不思議とリズムをとっていた。いまわたしたちは煙突を彼方に見つつ、小さな作業部屋のなかにいる。わたしたちと相対しているのは技術者のお爺さんだ。彼は部品を矯めつ眇めつしながら、ドライバーで螺子を締めたり、ルーペで確認したりしている。お爺さんは口を開いた。

「電人の修理だぁ? やめとけ、やめとけ」

お爺さんは首を横に振った。

「どういうことですか」

お爺さんは息を吐いてから言う。

「この工場の町じゃ、電人の修理はできねぇ。さっさと帰んな」

シモンがわたしをじっと見る。

「でも、電人たちはわたしたちに本当によくしてくれたんです。このままにしておくことなんてできない……」

お爺さんはわたしの目を見た。とても真剣な眼差しだった。

「電人は消耗品なんだ」

ザックが言った。

「爺さんのケチ!」

「なんだとっ」

ザックとお爺さんは睨み合った。

「もういいよ、ザック、行こう。別の人に相談してみよう」

わたしの体から力が抜ける。お爺さんが何か言いたげな顔をしている。

「他に当たっても、駄目だと思うがな。それにお前たち、箱舟計画の子どもたちだろう? さっさと内地に戻れ、これは警告だ」

「箱舟計画?」とシモンが言った。

「特別な遺伝子を持つ子どもたちの脱出計画さ。知らんのか」

わたしたち三人は顔を見合わせた。

「お前達のような子どもはこの辺にはいない。政府が朽ちた土地から救い出した保護すべき子どもたち、それがお前達さ」

話を徐々に理解したザックがためらいがちに微笑んだ。

わたしは部屋の奥にある鏡を見た。

わたしたち三人が映っている。赤い髪のザック、金色のもじゃもじゃ髪のわたし、黒髪のシモン。

「さっさと行け。作業の邪魔だ」

石畳が続く。

狭い路地をわたしたちとドゥマは歩いた。

どんっ、とわたしは後ろから衝撃を感じた。

「え、何っ?」

後ろから蹴られたのだと気がついたときにはもう遅く、シモンが連れ去られていた。

シモンを抱えた男にザックが飛びつく。

「この野郎、シモンを放せっ」

ザックは腹を蹴られて、うずくまった。

「ぐ……」

「ザック!」

わたしは叫んでいた。男は走り去っていった。

一瞬のことでわたしは気が動転していた。

「こんなことってないよ……」

わたしの目から大粒の涙が溢れた。

「大丈夫です、ティ様」

ドゥマが言った。彼の目には感情はなかった。けれど、わたしは彼に縋りついた。

「シモンを、シモンを助けて。お願い、ドゥマ……」

「ティ様、お願いがあります。シド様にわたしが帰らなかったときのことをお伝えください」

「ドゥマ? 何するの?」

「私のすべてを賭けてでも、シモン様をお守りします」


わたしはめそめそと泣いていた。ドゥマが走り出してからどれほど経ったかはわからない。ザックは仰向けになって呆然と空を見ていた。

「ティ……。ザック……」

懐かしい声がした。

「シモンなの?」

「そうだよ、ドゥマが助けてくれた」

「ドゥマはどこ?」

シモンは目を伏せた。

「ドゥマはぼくを救って、死んだ」

わたしは口を両手で塞いだ。

「死んだんじゃない、壊れたんだ」とザックは言った。

「同じことでしょう?」

わたしはドゥマの言葉を忘れない。

「シド様、あなたの出発を見届けたかった。ただそれだけで、もうあなたの家に帰ることのできない私をお許しください」

シモンがポケットに手を入れると何かを取り出した。

「ドゥマが最期に、これを持って行ってと言ったんだ」

三角柱の形をした部品だった。

「車の動力に困ったらこれを使って、と」

「ドゥマ……」

わたしたちは乗り物に乗り込んで、ただ失うだけの旅から帰ることにした。日が傾き始めて、闇が世界を覆う。フロント部のライトを灯すと、だんだん乗り物の速度は落ち始め、最後には止まった。ドゥマの言いつけ通りに、乗り物の三角の穴にドゥマの部品を差し込み、ぐっと奥に押し込むと乗り物から高い音がして、静かに乗り物は動き出した。

夜の道は街灯もなく、動物の影もない。

いまわたしたちはどこにいるのか、それもよくわからない。乗り物はレールの上を走る。ただそれだけだ。わたしたちは暗く沈んだ顔で前を見ていた。空には満月とは言えないやや欠けた月が見える。もうあと数日もすればきれいな満月が見えるだろう。

電人達は元には戻らない。

わたしはそのことをみんなに伝えなければならないと思うと気が重かった。わたしたちは無力な子どもだった。ただ促され、内地へ逃げ続ける。朽ちていく世界からただ守られるだけの子どもに過ぎなかった。


二十二世紀初頭、モノが朽ちていく現象「朽ち気」が観測された。原因は塩化物イオンであり、空気中の塩化物イオンが異常な濃度を示し、モノが次々と腐食した。多量の塩化物イオンは工場排水やし尿から出てきたものであった。研究者たちはこの異常な塩化物イオンを有効利用しようと考えた。彼らはそれを蓄電池に変えた。

蓄電池搭載型ロボット、電人が生まれた。

電人は様々なシーンで活躍した。

電人は大量に生産され続けた。動かなくなったら、使い捨てが当たり前だった。彼らを充電し、ふたたび使わなかった。


日が落ちてしばらく経っている。わたしたちの町に辿り着いた頃、列車はもうすでに町に着いていた。

わたしは乗り物から降りて、列車の車体を眺めた。赤いラインが入った美しい車両だった。

窓から外を見ていたシドと目が合った。

「ティ、間に合ったな! 行こう」

「ごめん、シド。ドゥマは……」

シドは何も言わなかった。

今まで気づかなかった、小さな揺れがした。

「ティ?」

「何かが、来る」

闇のなかで、何かが蠢いている。ひとつやふたつではない。たくさんの何か。

近づいてきたのは、電人達だった。

「どうして? みんなが……」

電人の一人が言った。

「見送りというわけではありません。最後の仕事をしに来ました」

「仕事ってなに?」

電人達は列車に取りついた。

「列車になにをしているの?」

一体の電人が車体から落ちた。ザックが確認をする。

「止まってる、でも壊れたんじゃない」

シモンが何かに気づいて、指を鳴らした。

「充電!」

「え?」

「列車の電力を供給しているんだ」

わたしは戸惑いを隠せなかった。この電人達のなかに愛おしいエラァンもいるのだと、気づきたくなかった。

「エラァン! 出てきて。お願い」

電人達のなかによく見慣れた顔を見出す。

――エラァン。

「エラァン、何で? あなたがここにいるの」

「最後の仕事です」

「あなたも……なの?」

わたしの目から熱いものが流れてきた。

「はい。ティ、泣かないでください。あなたたちはわたしたちに千羽鶴を折ってくださいました。それだけで十分なのです」

列車の汽笛が鳴る。

「行こう、ティ」

ザックがわたしの手を引く。

わたしはあの無表情をじっと見ていた。エラァンは最後に言った。

「ティ、今宵は月が美しいですね――」

見上げれば少し欠けた月、満月ともいえない月が見えた。

列車が走り出す。別れの言葉もまだ言っていない。

エラァンから聞いた四文字の言葉を、わたしはずっと忘れないだろう。


夢を見ているようだった。

目の前に映る景色も、過ぎていく風景さえも、新たな世界は現実感が無かった。

わたしたちはいくつかの町に滞在した。体を清潔にして、白いシャツに袖を通した。教育を受け、世界を知った。

旅の途中、夏の日が何度も蘇った。たとえば雨の日、エラァンがタオルでわたしの髪を拭いてくれたときのこと。硬い手のひらは優しくわたしの髪を撫でた。

わたしがよじ登った壁から落ちたとき、家までエラァンが背負ってくれたこと。次々と情景が浮かんだ。

滞在した町の人に電人の町の話をすると怪訝な顔をされた。意外だった。

驚くべきことだが、子どもたち以外に電人達の町を知る人はいなかった。

町は幻だったのではないか。時折、思う。電人達の暖かい眼差しも、してくれたこともすべては現実ではなかったのではないか。

でも忘れない。優しい世界を覚えていようと思う。

難しい文字が書けるようになって、紙にエラァン達への感謝の手紙をいくつも書いた。胸が熱い。伝えたいことが増えていった。送り先はないけれど。

列車の窓から潮の香りがする。海が近いのだと教師が言った。

列車はレールのない土地で止まった。先には海岸が広がっている。

少し肌寒い風が海から吹いてきている。「朽ち気」が観測される前から海岸の町では塩害があったことを知った。

海を見る。

彼らからの深い愛を抱きしめ、振り返る。

わたしは「朽ち気」と共存していく方法を世界から学ばせてもらうつもりだ。