最果てへ走った女
小林 蒼
女は走っている。
永劫に続く宇宙の進化によって、その広い、あまりに広い空間のなかで引き伸ばされた彼女の走りは永遠に止まらなかった。
十億分の一秒のあいだに、遠のき、光を失い、人々の熱狂ごと渦巻く凝集した宇宙の闇のなかを女は走った。
天の川銀河で超大質量ブラックホールがどうして消失したかは定かではない。はっきりとしたことは誰も知らず、天文学の権威が束になってもその原因を究明できた者はいなかった。さらに不運なのは、その当事者たちはそのあとの災害によってほとんど死亡したからだ。小惑星が地上に降り注いだことによって二四〇八年、七月三日にアメリカ西部の大部分が消滅したことが知られている。
そのころ、ジェニィは汗みずくになって走っていた。さきを走るランナーの背中が徐々に遠くなり、息を上げながら、白く、淡くなっていく視界のなかで喘ぐ。あと何キロ走ればいい? 空を見ることも忘れてしまった。見上げれば深い青空が見えるのだろうか。息が荒い。立ち止まると彼女は咳き込む。すると轟音とともに上空で燃えさかる火球が横切っていった。まるで地獄が空から落ちてきたみたいに。脚に痛みが走った。力が入らなかった。
中心を失った銀河は数十時間のあいだ混乱を極めたが、享楽が銀河を覆うのも早かった。
賭けられる。
人々は気がついた。
そうして銀河じゅうの悪党たちは、そのレースを始めたのだ。
日の光の運行が変わろうと夜が一瞬の明滅であろうと金がすべて。悪党たちはレースを始めた。
とあるレースを。
太陽系は、天の川銀河の端にある。銀河の中心には信じられないくらい大きな超大質量ブラックホールが存在しているらしい。
「そこまではわかった? おばちゃん」
ジェニィは頷く。十二歳の甥のクリストファーが胡桃の殻を転がしている。殻はブラックホールで、周りの石ころは、ぼくたちだと。ふたたびゆっくりと頷く。
「ブラックホールが回転して、その強い重力で星々を引きつけてる。そこで、ね」
彼は胡桃を天井へ投げ上げてしまった。胡桃の飛んでいく放物線を目で追いかける。部屋の隅で胡桃が落ちる音がした。呆然としてクリストファーの瞳を見つめた。
「対称性は破れた。これからどうなると思う?」
石ころを見つめている。わからない。クリストファーの温かく柔らかい手を握って震えていた。外では信じられないくらい暗い闇が広がっていた。
暗い夜空に雷が鳴り響いている。銀河系の悪党たちは、目を瞑っている。
これから始まる会談の模様は、すべての銀河の宇宙市民に量子通信で中継されている。地球も同様だ。そのビジョンの前に、あのジェニィもいた。
太陽系どころか、そのさきに広がる数多の星系の悪党たちはメキシコ・カルテルのノリでしゃべり出した。
「いいアイデアを思いついた。密売ルートの効率化なんてどうだ?」
「なに? 教えろ」
「ひとつ答えるごとにこれくらいで」
「金を取るのか、ちきしょう」
「静粛に!」
議長であるサミュエルがひとつ咳払いをした。
「超大質量ブラックホールの消失は嘆かわしいが、我々はこれから始まる壮大なレースの駒になった」
ジェニィはなんとなくサミュエルのことが気に食わなかった。サミュエルは金歯の入った前歯を露わにする。下品だ。
「はっきり言おう、星々の軌道はもうめちゃくちゃ。取り返しがつかない」
なにを言いたいのか、さっぱりわからない。
「もうすでに始まっていることだが、それぞれの星々の軌道は変化して、星々の外縁部には巨大なコースが生まれた」
悪党たちが感嘆の声を上げる。
「そこでだ、全宇宙でさいごのお祭りと行こうじゃないか」
サミュエルは筆を執る。ジャパニーズ・スタイルでさらさらと筆を走らせる。力強い筆致で書かれた銀河マラソンという大きな文字だ。
「われわれ宇宙市民は、レースの参加者だ」
ルールは簡単だ。
各星系の外縁部ベルトを選手が周回し、マラソンする。その周回タイムを競う。参加資格はジェニィの年収分の出場料だ。優勝すれば莫大な賞金が得られる。
仮想ループ競技場、反重力スニーカー、核融合空調服の開発は進み、なんとか選手の生存は保障された。タイムがどんどん更新されていくなかでサミュエルたちはレースの裏で賭博行為を繰り返して莫大な資金を得る。
それぞれのアウターエッジベルトの距離はその星系ごとに異なる。しかし、アウターエッジベルト長は超大質量ブラックホールの消失によって時間とともに大きく広がっていく。星々の軌道も同様だ。天の川銀河の辺境に位置するエッジワース・カイパーベルトが銀河中心のユークリッド・ベルトと距離を同じくしたとき、レースは最高潮に盛り上がった。
サミュエルは泡風呂に入っていて、その模様がジェニィの見る小ビジョンに映っている。にかっとサミュエルは笑って、通信が切れた。
むかつく。グレープフルーツの厚い皮は固い。地球がどこかへ飛んでいくこと、それはきっと今まであったゴールから、さらに違うゴールへと人類が足を踏み入れたことに他ならない。
走りたい。でも走れない。あの日の怪我が原因だ。
グレープフルーツを口に運ぶ。ジェニィは永劫のリングのうえで朝から昼、そして夜まで、自らをいじめ抜いて、走ってきた。終わらぬ螺旋のうえを走ってきたのだ。それがいまはどうだ。螺旋は歪な軌道を描いて人々は宇宙の迷子にほかならない。サミュエルが銀河マラソンで勝とうとそんなことはどうでもいい。フルーツの食感と酸味が口いっぱいに広がる。
ただ走りたい。
もうすぐ予測された寒気がやってきて、そのあとは灼熱の光が降り注ぐ予測が立っていた。そうなったら地下のシェルターに籠もらなければならない。
地球の、大地を走れるのは、あと一回だけ。レースはここで終わってしまう。お金がいる。クリストファーの難病を治してあげたい。このままでは彼は五年、生きられない。レースに賭けろとでもいうのか。銀河マラソンに参加しろというのか。くだらない銀河マラソンの選手なんかよりもずっと崇高な人間なんだ、私は!
胡桃を拾う。石ころはどこかへ行ってしまった。
彼女は小さな石ころだ。
次の夏だ。クリストファーが学位を取り、ある予測を立てた。
ブラックホール消失事件によって銀河は思わしくない方向に向かっている。重力波放射のエネルギーが失われたため宇宙構造に著しい変化――クリストファーは進化だと言った――が起こったらしい。
このころから、銀河マラソンは過熱していった。アウターエッジベルト長は各星系でばらつきが生まれ始め、距離の極端に短い星系の選手は重力ハンデを負う。しかしその重力ハンデはサミュエルたち運営側によって不正にコントロールされていた。それが原因でサミュエルたちはさらに大きな賭け金を得ることになる。さらなるスポーツ・ギアの開発が進んだ。
核融合人工心肺、亜光速ウェア、超高分子スタミナ飲料、アドレナリン・ブースター……。
宇宙市民は熱狂した。でもジェニィは違和感を拭えなかった。
量子通信の受話器を取ると、プロキシマ・ケンタウリにいるクリストファーのまえで問う。
「わたしたちは、どこへ行くの……」
「おばちゃん、あの超大質量ブラックホールの消失で空間は変化したんだよ。たとえば、遠くってどこだと思う?」
持って回った言い方だ。クリストファーは続けた。
「僕は遠くの眺めを見ていて、遠くにおいて近くの眺めを見ていて、遠くにおいて近くの眺めを見ているという眺めを近くにおいて見続けている。僕らの主観的感覚は、古い空間構造に慣らされたままだけどね。超大質量ブラックホールが消えたせいで、磁場の不均一性が変化して方角は消えた。僕らは銀河マラソンのあいだじゅう、歪な軌道を描いてずっと遠くへ走ってきたと思ってる。でもね、飛び出した宇宙のさきで星の色や絶対光度の関係を比べたんだ。各星系は、その外縁部ベルト上の選手は遠くへ走ってはいない。むしろ近づいている。境界がメビウスの帯状に反転したコースをずっと走っている、遠くへ走っているつもりで本当は近くへと走っている」
「空間に騙されている?」
ごくり、と息をのむ。
「計算したんだ。あたらしい空間構造は宇宙の膨張速度を超えて収縮している。それでわかった。僕らは銀河マラソンのあいだずっと、天の川銀河の中心に向かって凝集していっているってことをさ」
驚きで目を見開いた。
「コースは中心に向かって落ちている? それで……」
クリストファーは固く結んでいた口を開いた。
「すべてのコースはいっしょくたになって、また新しい超大質量ブラックホールをつくる」
「戻るの?」
「そう、僕らは光も届かない闇のなかを、どこまでもただ走っていくだけだ。そのあいだ、理論上では引き伸ばされるってことになってるけど、本当のところはよくわからない。永遠におばちゃんみたいに走り続けるのかもしれないね。僕にだってわかる。もう時間はないってこと」
彼は俯いた。
ジェニィはクリストファーの手の温もりを思い出した。涙がこぼれそうになる。失ってなんかやるもんか。
新しい反重力スニーカーに履き替えると、まだ明けきらないブルーアワーの空の下を走り出した。
エッジワース・カイパーベルトのスタートラインに立つ。重力ハンデの重みをずっしりと感じた。メタンや氷の粒で出来たコースがめまいのするような遠近感を持って目の前に迫る。
太陽が、冥王星が、土星が、星々が凝集したなかでも女は遠くを目指して走った。
星々が、コースが、空間の歪みへ落下するなかでも女は走った。
ブラックホールの新生のなかでも女は走った。
光が脱出できないなかでも女は走った。
コースのなかで女はきっと走ることを止めないのだ。
ブラックホールも宇宙も繰り返す。
引き伸ばされた女は果てへ、天涯へ、その走りは続いていく。ただ永劫に続く螺旋のなかを女は走ったのだ。
最果てを目指して。