バック・トゥ・メモリー
小林ひろき
1
成田全便ストップ。
そのニュースが流れたのは、日曜日の昼下がりだった。
ニュー・トキオのラウンジで俺はニュースを見ていた。立体映像が切り替わる。
「放送を中断します」
成田の様子が映し出される。
大きすぎる黒い壁だ。ニュー・トキオでは成田のモノリスと名前がつき、たくさんの人々が情報を拡散している。仮想空間には黒い壁が描出され、人だかりができている。俺はヘッドセットを外す。すこしVR酔いしている。吸い殻でいっぱいになった灰皿をまえに俺は煙草に火をつけた。
もういちどヘッドセットを被る。明日はきっとこの仕事で埋まるだろう。会社のあるエリアは日曜日なのでいつもよりガラガラだ。疲れた顔で銀杏並木の通りを歩いていく。自然――つくられた自然だが――に触れるのも仮想現実都市、ニュー・トキオに生きる俺たちには重要だ。ストレス指数が急上昇してしまうだろう。
オフィスのある階へと上がる。冷房のせいでつめたい。つめたいと感じるのは五感を司る脳の一部がヘッドセットにより電気刺激されているからだ。
リアルの会社にいる同僚に声をかけると、高橋は、はきはきとした口調で答えた。
「ええ。いつでもいけます」
カメラ付きドローンがデスクの上に3機ほど置かれていた。明日、成田空港から仕事の依頼があると踏んだのだ。
仮想会議が終わる。見上げれば夜空で渦を巻いている星々の光。ゴッホの星月夜のようだ。
晴れ渡る空、旅客機の停まっていない飛行場はがらんとしている。予感は的中した。月曜日の朝、空港にやってきた俺たちは飛行場に現れた巨大な壁を眺めた。目測では幅と高さはともに五〇メートル程度。奥行きは大したことはない。
「小野田さん、すごいですね、アレ」
横で壁を見ていた高橋が息を飲んでいる。ドローンを飛ばして壁を観察することにした。俺はラジコンの要領で、ぐるりと壁のまわりを撮影する。目測の通り、幅と高さは五〇メートル。奥行きは二〇センチメートルだった。観察して分かることは、もうない。風ひとつない飛行場のむこうに陽炎が立っている。仕事が終わったら、よく冷えたジョッキのビールが飲みたい。
俺たちは壁に近づいてみる。空港のスタッフが安全を確認済みだ。壁からバケモノが出てくる心配はない。
どうしてこんな巨大なものが突如として空港に現れたのかが分からない。推論を立てるのはまだ早い。俺は高橋と壁のまわりを歩きながら観察する。俺は内心で言いようのない感動を覚えている。生きているうちにこんなことがあるなんて。胸が高鳴っている。
空港側としては、壁を撤去してもらいたいのがホンネだろう。俺たちもまず壁を片付ける方法を考えなければならなかった。空港に許可を取って解体することにした。解体業者が足場を組み、壁にダイナマイトを設置していく。準備が整う。
ドンッという音がした。
俺は双眼鏡で壁を見た。亀裂も走っていない綺麗な壁がそこにはあった。
全員が目を丸くしていた。
大変な仕事になる、そう俺は直感していた。
巨大な構造物のため宇宙線ミューオンラジオグラフィで壁の構造を調べた。他にもサーモグラフィ、赤外線など、ありとあらゆる方法で壁の実態に迫った。
壁の内部は分からず終いだった。しかし、壁は外気温より大幅に冷たかった。絶対零度、マイナス二七三度に近いマイナス二七〇度。宇宙空間と同じ温度だ。
宇宙か。ある考えが過った。彼女の現在地を検索する。民間の宇宙企業の掲示板には記念日の印がついている。太陽圏脱出の文字。先輩はどうしているだろうか。俺の記憶は、あの夏の日に帰っていく。
2
「小野田君、彼氏のフリしてくれないかな?」
突然のことで俺はぼんやりと口を開いていた。いかにもマヌケだっただろう。
宮沢あさみは俺の一つ上の大学の先輩だ。夏休みに実家に帰るらしく、祖母の勧める許嫁と会わないといけないという。先輩としてはどうしても許嫁と会いたくない。そこで、俺を彼氏と言い張って逃れようという作戦らしい。
「べつに構わないですが」
「なら、オッケーね」
宮沢先輩の家は中部地方の旧家で、由緒正しい家だという話だ。
朝の新横浜で待ち合わせた。新幹線で長野まで行く。
そのあと鈍行の列車にふたりで乗った。開け放たれた窓から風が舞い込んできた。向かい合っていると、どきどきして本当に俺は彼女と付き合っているみたいだった。彼女と視線を合わさないように窓の外の景色を見る。黄色い花々が早送りで視界から遠ざかっていく。
車内で扇風機が回っている。風に当たると涼しい。
宮沢先輩の顔には覚悟の色が漲っていた。戦いにでも行くような顔だ。俺みたいなヒヨッコが訪れていい場所なんだろうか。俺は手を合わせたり離したりした。落ちつかない。喉が渇く。リュックに入れた水筒を取り出し、開けた。つめたい麦茶が喉を通っていく。
「小野田君、もしかして緊張してる?」
「え、いや……」
彼女の黒い大きな瞳に見つめられると何も答えられなくなる。やっとのことで口を開いた。
「緊張してるに決まってるじゃないですか!」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
彼女はくすくす笑った。その顔はどこか楽しげだった。列車から降りると田園風景の広がる道だ。日差しは強くて、眩しい。いま思えば、なにも覚えていない。麦わら帽子を被った白いワンピース姿の先輩についていくことに必死だった。
二十分ほど歩いて、先輩の実家に着いた。
家はがらんどうだった。大黒柱がどっしりとした印象を持っている家だ。家族は買い物に出かけているらしい。俺は玄関を上がると、先輩に言われるがまま、なかに入った。庭には向日葵が咲いている。すこしだけ開いた障子から、なかを覗き込む。
大きなカンバスがあった。
静かな湖畔とそこに佇む白馬の絵に目を奪われる。しばらく見ていた。どれだけ見ていたか分からない。先輩に呼び止められると我に返った。
「それ、おじいちゃんの絵だよ」
「へぇ……」
蝉たちが眠るように静かになり、夜の帳が下りて鈴虫が鳴いていた。
「すこし、歩こうか。小野田君ってさ、カノジョとか、いるの?」
「いませんよ」
「へぇー、そうなんだ。ちょっと意外かも」
きらめく星々が見える。ふと先輩が指を差す。
「あれ、おかしいよ。小野田君」
空を見上げると星の光が渦を巻いていく。ぐるぐると数多の星々が形を変えていく。
その日、先輩と俺は世界の秘密に出会った。
マスコミや当時の科学界はこの渦の真相に迫ったけれど謎は分からなかった。
家に帰ると先輩の家族が待っていた。
先輩の家族と顔を合わした。先輩の祖母は、驚きもせずに俺の顔を見た。予想に反して何も言われなかった。
夕食後、さっきの絵の前に立っていると先輩の祖父がやってきた。
作務衣姿の先輩の祖父はラガービールをグラスに注いで美味しそうに飲んだ。
「絵に興味があるのか?」
「はい。俺にはこんな絵は描けないと思って……」
俯くと、先輩の祖父が言った。
「人間のおなか、丹田には宇宙が広がっている。ひとひとりが宇宙を持っている。個人がみんな、それを信じたならば、人間は無限大なんだ」
先輩の祖父の話は、壮大で、意味が分からなくて、不思議で、どうしてか勇気が出た。
俺は絵のなかの輝く白馬を、自由で、どこへでも行けて、何にだってなれる、自由の象徴として見出した。
3
太陽系脱出速度で、私は太陽系の外へ向かっている。
私は、宮沢あさみの脳と機械ベースの脳の代用品とを外科手術で繋げたもの――そこに生まれた人工意識――だ。宮沢あさみの卓越した宇宙での経験と知識、それらを余すことなく利用した人類の夢の産物である。
X線検出器でブラックホールや超新星の残骸を観測する。地球にデータを送信する。タイムラグのあいだ、データを元に考察を進める。私は送り返されたデータを元に、小さなコンピューターのうえで研究を続けた。地球ではフェルミ・ガンマ線宇宙望遠鏡によって光速度不変の原理の破れが観測されたらしい。
もう人間に会うことは叶わない。私の目が捉えるのは様々な痕跡のみだった。
パイオニア一〇号、ボイジャー一号、ボイジャー二号、ニュー・ホライズンズ。数多の深宇宙探査機の後継としての私は人間よりも彼らに近いだろう。どんなに遠い世界に触れても、私の心、人工意識は驚くことはない。きっと変わらないはずだ。いくら通信技術が発展しても私は一人だ。
荒涼とした、なにもない世界。
つめたい宇宙、数多の星々。
それらはずっと孤独だった。
私が子どもだった頃に思い描いた宇宙とは全く異なる宇宙の姿だ。
人間だった頃の記憶を思い出している。何故そうしているのか、きっと私が孤独だからだろう。それが人間としてどんな意味を持つかは、私はとうの昔に忘れてしまった。
兄と見上げた夏の大三角。こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ。私は誇らしげに指差した。兄は興味を示さずに、遠くの無数に輝く星々を眺めていた。私達は同じものを見ているようで、きっと同じものは見てないのだろう。
兄がくれた苺味のドロップを舌の上で転がす。甘い味が広がる。
夏の昼下がりだった。蝶を探して遠くへ、兄はどんどん先に行ってしまう。
彼の白いポロシャツを追って、私は懸命に走る。けれど、いつの間にか一人になっていた。涙ぐんで、心細い気持ちで一杯になる。
――おにいちゃん、わたしを探して。いなくなんかならないで。
三億年ほど飛び続ければ私と兄はふたたび出会えるはずだ。
私が重力を感じるとしたら、兄の記憶だけだ。
4
俺たちは、壁のことを報告書にまとめて社長に提出した。
社長はなにも言わずに報告書に目を通す。これから先の調査は日本政府の管轄になるという。話では政府の調査チームが編成されるらしく、俺たちはこれまでの経験を生かして調査チームに出向することになった。
日本政府の省庁が集まるニュー・トキオのナガタ町に着くと、すでに政府の人間の前島、自衛官の楠見、科学者の柳原、市村がいた。政府の人間や科学者は肉体を持たずコンピューター上に意識をアップロードしている。
俺たちは定点観測カメラの映像を彼らと共有した。
早送りしながら映像を見せる。一羽の鳥が壁にぶつかり壁のなかへと消えた。
前島が慎重に言葉を選びながら話す。
「すると、壁には目に見えない内部空間が存在するということでしょうか?」
俺はゆっくりと頷く。
「ドローンを壁にぶつけてみます。運がよければ、壁のなかが撮影できるかもしれません」
俺と高橋はリアルの成田空港へ向かった。
ドローンのカメラに壁の表面が映る。俺たちは固唾を飲んで見守っている。ドローンが壁に近づいていく。するりと、ドローンが壁の奥に吸い込まれた。
間違いなくカメラは壁のなかにあるのに、カメラにはなにも映らない。
仮想オフィスにいる全員が身を乗り出して、モニターを食い入るように見ている。
ドローンの位置が分からなくなる前に、ドローンを回収した。
俺は腕を組んで考えごとをしていた。
「ドローンが無事だったということは、壁のなかは安全とみて間違いない」
パソコンの画面の向こうの市村が割って入る。
「そうでしょうか? たとえば動物で実験してみるのはいかがでしょうか」
俺たちは一匹の犬に命運をかけた。分厚い服を着せた大型犬、タロウに。
「行ってこい」
壁に向かってボールを投げる。タロウはボールを追った。
首筋に汗が流れていく。しばらく雲が動いている。タロウはボールを咥えて壁の向こうから帰ってきた。
楠見が現場にやってきて分厚い宇宙服を着て壁のまえで立つ。俺たちは彼と連絡をとりながら、壁のなかを調べた。
彼がなかに入って十分後のことだ。
定期報告に不可思議な文言が混じるようになった。
「母さんなのか?」
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもないんだ。急に昔のことが思い出されてきて……母さん、いるのか!」
様子が明らかにおかしい。
「戻ってきてくれ。ケーブルを使って強制的に引き戻す。いいな?」
壁の向こうから楠見がぐったりとした姿で現れた。
「おい、しっかりしろ」
彼の意識はない。救急車に彼は乗せられ、病院に運ばれた。
俺たちは議論を交わした。何らかの精神異常をもたらす壁の内部。これ以上、いたずらに人間を使った調査は危険だ。科学者たちの意見だった。
でも俺はどうしても好奇心が抑えられなかった。
夜、飛行場で宇宙服を着込んで壁の前に立った。命綱はある。前へと歩み出した。
なかは闇だ。目が慣れるまで時間がかかった。むこうに星が見えた。視界に入ってきた星々は昔のままの輝く点だ。同時に俺は頭のなかで鮮やかな夏の青空のイメージを描いていた。この空間はどうやら人の認識システムにハックするものらしい。むこうで激しい閃光が降り注ぐ。とても強い光にたじろぐ。消え入りそうになりながら、瞼を開けると螺旋の構造が閃光を波長ごとに異なる光へと分光していく。無数の渦のようだ。光が鮮やかなグラデーションへと変わっていく、その様はきらめくように美しかった。光が電撃のように闇のなかを駆け巡る。視界の端に光が消えていく。俺はふいに彼女の記憶を思い出していた。ある言葉が浮かんだ。
――ひとひとりが宇宙を持っている。それを信じたならば人間は無限大なんだ。
彼女の祖父が言ったことだ。光の馬のイメージを描く。俺は腹にグッと力を入れた。
今、その名を呼べば、彼女はきっと振り向いてくれるに違いなかった。
「先輩、宮沢先輩!」
5
ひらひらと舞う蝶を追いかけてどこかへ消えてしまった兄を探すのに疲れた私は、その場で座り込んだ。お尻が冷たかった。寒気がしてきた。おにいちゃん、どうして私を置いて遠くに行ってしまったの?
私の意識は悲しみに暮れた夜にあった。
兄とは別れたきりになってしまった。悲しくて淋しくて泣き続けた私はいつだって、夏の森にいた。
おにいちゃん、蝶を追いかけなくて、いいの? 私の空想のなかの兄は微笑んで、私に飴玉を一つくれた。
手元にあったドロップの缶が音を立てて落ちる。
夏がふたたび来て二人でどこかにいるイメージ。二人で遠くにいるイメージ。私の人工意識が生み出すのは、そんな光景の万華鏡だ。
マイナス二七〇度の宇宙の向こうに、兄も知らない世界があるのだと知ったのは大学生の頃だった。
私は民間の企業で宇宙飛行士になった。宇宙ステーションや月面基地に滞在し、経験を積んだ。どこまでも新世界が広がっていると知った私は夢を描いた。
ひたすら遠くへ向かおうとした。どれだけ遠くを目指しても、私の心のなかにいる兄はいない。自分の肉体がなくなり、深宇宙探査機になったいまでも私は兄といた風景をずっと思い描いている。
夏の大三角をふたりで見た夜。心の底から満たされて喜びが湧きあがり、二人で笑い合ったこと。
けもの道を探検したこと、ちいさな甲虫を虫眼鏡でいっしょに見たこと。こんなに小さな生き物なのに精緻な造形に驚いたこと。
雨が降った後の森のなかで、地衣類のふかふかの絨毯を二人で歩いたこと。
夜明けや黄昏の美しさに感動を覚えたこと。
雲が動いていくのを見ながら、夜空に瞬く星の運行をじっと観察したこと。
花の蕾が開くうっとりとした時間を共有したこと。
本当にあの奇跡のような時間が帰らないことが悔しくて、切なかった。私は兄と過ごした時間を愛していたから。
眠ってしまった私を見守って、毛布を掛けてくれた兄。私を愛してくれた兄。彼がいないことを私は未だに受け入れられずにいる。
いま、ブラックホールが観測された。データが揃うと、私はありえない音声を拾った。
小野田君の声だった。
6
夏の思い出はいつだって眩しい。
俺はいつでも自然に振舞ってくれる先輩が好きだった。レポートを遅くまでみてくれたり、研究室での愚痴を聞いてくれたり、先輩には感謝しかない。
夏休みに入るまえに、みっちりと口裏を合わせた。はじめて出会った場所、はじめてのデートの場所。先輩をいつもあさみと呼んでいること。先輩は俺を亮と呼んでいること。
大学を卒業したら、結婚も考えていること。何でも確認した。家族の前でボロが出ないようにと、俺と先輩は細心の注意を払った。すべては演技だ。俺は自分にそう言い聞かせて、本心では嬉しくて仕方がなかった。おそらく先輩は知らないだろう。
家族の前で彼氏のフリをする俺は、ほんとうに彼氏になれればいいのにと思った。
鈴虫が鳴く頃、先輩が散歩に付き合ってほしいと言った。
電灯のない道をふたりで歩く。先輩の表情は読み取れない。
「あのね、小野田君。私には兄がいたの」
その声はいつもと違って儚げだった。自動販売機の前に立つ。青白い光が先輩の顔を照らす。
俺は聞き返した。
「でもね、私が子どものときに死んじゃった。ねぇ、知ってる? ここから十万天文単位先の宇宙では、いま、こことは違う私達が生きているの。三億年は飛び続けないと辿りつけない太陽系のむこう。そこで私もお兄ちゃんも幸せでいるはずなんだ」
先輩はめそめそしている。こんな先輩を俺は見たことがなかった。俺は先輩の孤独を癒せない。そんなふうに気がついて、拳をぎゅっと握った。言葉が溢れだしてきた。
「お、俺が先輩を幸せにしてみせますよ! だから、あさみさん……付き合ってください」
先輩は俯いて何も言わなかった。ふたりで夜の道を黙って歩いた。そのあと告白の返事を聞いた。
先輩は夏のあいだじゅう、頻りにこんなことを言っていた。
「いつか、海に行こうよ。約束ね」
でも、その約束がついぞ果たされることはなかった。穏やかな日々を思い出すたびに切なくなる。あんなことになるなんて、俺は思ってもみなかった。
先輩は宇宙飛行士になった。宇宙を舞台に活躍しているという話だ。あの渦状の星々を目指したのだろうか。
俺が先輩の死を知ったのは、コンサルタント企業に勤めて二年目の春だった。俺は食堂で昼食をとっているところで、壁にかかったテレビから国際宇宙ステーションの事故の報せを知った。
太陽フレアが国際宇宙ステーションに直撃した事故だったらしい。地上でもその影響はあったが、宇宙ステーションの甚大な被害に比べれば些細な問題だった。
ほどなくして、深宇宙探査の計画が打ち出された。深宇宙探査機の名前が公表されたとき、俺は言葉を失った。
アサミ・ミヤザワ。
間違いなく彼女の名前だった。深宇宙探査機には彼女の脳の一部が移植されているらしい。俺は頭がくらくらして、堪らない気分になった。民間の宇宙企業の掲示板を利用していつでも先輩の名を呼んだ。先輩からの返事は日に日に延びていく。夜空を見上げながら過ごした。
四十年後。
壁のなかで先輩の名を呼んだ俺は、驚くべきことだが先輩とリアルタイムに言葉を交わしていた。人類が光速度不変の原理の破れを発見した一昨年、宇宙にはプランク長の極めて短い長さの構造〈渦〉が存在していることが分かった。この構造は光を屈折させる媒質で、光を真空よりも速く伝える。
壁は〈渦〉を用いた通信と量子もつれとのハイブリッド通信デバイスのようだ。人の意思は光を超える。
「どうして、小野田君が?」
「わからない。でも、先輩のことを考えていたんだ」
「私、混乱してる」
先輩の声は、先輩をエミュレートした人工意識の声は、全く学生時代の彼女のままだった。でも先輩は変わってしまった。
俺は、先輩のことをほとんど知らなかった。先輩と話せば話すほど、彼女は兄の死に引きずられていた。俺はふと思ったことを言った。
「提案があります。お兄さんの死を回避しませんか?」
「どういうこと?」
「この壁を使って、お兄さんに事故のことを伝えるんです」
「過去に通信するってこと?」
「ええ」
「私はあの日から囚われることはない。でもあなたが……」
「いいんです、先輩のためなら。未来で待っていてください。きっと、三億年先で、未来で、会えます」
「未来で? 約束だよ」
嘘でも構わない。先輩には笑っていてほしい。
俺と先輩はもつれあいながら彼女の兄に通信した。
「もしもし、電話を落としてしまって。この壁を介して話しています。驚かないで。明日、あなたに不幸なことが起こる。それを避けたくて……」
7
そうして宇宙の因果律は破れた。
宮沢あさみはただの女の子に戻っていた。あの夏の日に帰ったのだ。ひらひらと蝶が彼女のもとに飛んできた。足元で蝶はとまると、森のなかで泣いている少女はひとりではなくなった。彼女の兄が帰ってきたからだ。彼があさみの頭をそっと撫でる。いつの間にか、ふたりは静かな湖の前に立っている。光がきらきらと反射していた。ふたりは光に包まれた。
小野田は記憶にある先輩との夏を手放してしまった。それが彼には少しだけ寂しく感じられた。記憶のレールは複線化する。
壁のなかの小野田亮というひとつの座標は消えてしまった。
8
私は目覚めるとボートの上でうたた寝していた。
「起きたか、あさみ。いつまで寝ているつもりだったんだ?」
朝なのか、静かな湖は靄がかかっている。
「兄さん、私ね。何か悲しいことがあった気がする」
「なんだ。私も同じようなことを考えていたよ」
「ねぇ、この宇宙はほんとうにひとつなのかな」
「わからない。もし、ここより不幸な世界があるとして、別の私たちが愛することができるか」
「でもね、きっと兄さんみたいな人が手を差し伸べてくれる、そんな気がするの」
兄さんは微笑んだ。私はその微笑みをなぜ懐かしいと感じているのかは分からないでいた。それはきっと錯覚なのだと忘れることにした。
ボートから降りると、安らかな森の道をふたりで歩く。小鳥が鳴き、きらきらした水滴が葉に落ちている。初めて来たのがどこか嘘のように感じられ、耳を澄ますと、遠くから波の音が聞こえてくる。木々の切れ間に海が見え始める。明るい景色に、目がまだ慣れない。
私と兄さんは手をつないで、浜辺を歩いている。ふたりの大人の足跡が続いた。砂の小さい僅かな山が崩れて、波にさらわれていく。
手が届きそうなくらいの高さに月が見える。嘘みたいだ。
兄さんは、きっといなくならない。
私も、だ。
当たり前のことなのに、とても尊いことなのだと私は知っていた。
いつかまた、私ではない私へ。
あなたはどんなふうに夜明けをやり過ごしていますか?
私があなたに手渡そうとしたものは、掌から零れ落ちていくようなものです。
薄い紅の空の下、ふたりはオケアヌスの感情の迸りに耳を傾けている。
9
もう一度、目覚めた朝。
朝という概念さえも希薄な宇宙のずっと果て。
私の光学素子は、新たな惑星を捉えている。私は見つけた惑星に海があることを知った。
浜辺にふたりの足跡を幻視する。
私は太陽系を超えてきたのだ。
地球からのリアルタイム通信は私への贈り物だろう。
私は寂しくなって、そっと海の惑星に不時着した。大気組成から人が住むことができない惑星で、透き通るようなマリンブルーのうつくしい色彩が広がっている。見渡せば誰もいなくて私を閉じ込めるものなど何もないのだと教えてくれる。
しばらくして、腐食を始めたボディが私に私の死を知らせている。
地球からの最後の報告はプランク長の〈渦〉の存在だ。無数の〈渦〉が重なり合って宇宙を飲み込む。おそらく〈渦〉は宇宙の新生をもたらすだろう。私は地球に報告をする。返事はない。人類は滅んだのだろうか。核戦争か、パンデミックか。
私は私を看取るプログラムを作った。彼に報酬をやるとアオンと鳴き、私の意思を分解して音楽を作る。そして広い宇宙へ電波として流す。無駄だって分かっていた。私は彼のプログラムに溶けていきながら、私を解放してくれた小野田君のことをずっと考えている。
小野田君にもう一度、会いたいな。
この記憶が未来へつながっていたらいいのに。
私は忘れつつある。小野田亮という名前が意味を成さないことを。
きっと幻の夢。
大輪の向日葵の咲いている庭に君を連れていこう。おばあちゃんの作ったオムライスをふたりで食べよう。懐かしいテレビゲームを一緒にしよう。君の手を引いてどこまでも行こう。一人でここまで来れたんだ。君と一緒ならどこへだって行ける。君はカッコつけだから、私に好きだとは言わないだろうな。それでもいいんだ。兄さんよりも、君が好き。
気づけば、惑星の静止軌道上に点滅する光がある。
三億年先、いや太陽系のずっとむこう。
十億年先? もっとずっと遠くを飛んでいく。
宇宙は無限大の広がりを持つ。そこでは出会ったままの、私たちがいる。無垢なまま、別れることも知らずに、幸福で生まれたままの世界がきっとある。
私は信じている。
世界に、私という音楽が満ちるころ。私はきっと泣くことができる。
私とあなたは渦のむこうで、ふたたび出会える。
〈終〉