踊れ、雨の中で

小林こばやしあお

空から降る一億の雨だ。

目覚めたチェンは顔を洗い、鏡を見る。

自分だ。もしくは自分が自分だと感じられる、感覚。今の所属はシステムデザイン学部、システムデザイン学科……長くなるから止めよう。

寮から見る空はくすんでいた。彼はノートパソコンを鞄に突っ込むと、玄関のドアを開けた。

ビニール傘から入る、鈍い白い光が差す。彼はスマートフォンを見ている。メールが二件、入っている。それを無視してチェンは歩く。

ここ、今いる場所からチェンの意識は遠のく。

接続ワイアードした、ここからの逃避行だ。

たとえばベッドに潜り込んでいる、30分前のチェン。凍結された時間の中でならそれは可能だ。時間データはノートパソコンのなかにいつでも格納されていた。

さらに彼は接続する。30分後のチェンは二件のメッセージを読む。ピザ屋のクーポンと文面が文字化けしたメールだった。

(なんだ、これ)

これまで数秒。気分転換には丁度いい。こんなこと今どき、誰だってしている。

彼は研究室にやってきた。デスクトップ型のコンピュータの前に座って、ファイルを開く。車のデザイン案だ。流れるようなフォルムは特にこだわった。

これで次の発表会は大丈夫だ、とチェンは思った。

少し、時間が空いたのでチェンは接続する。禁止事項に抵触するであろう、カンニングをする。こうするのは自分の才能のなさにあることをチェンは知っていた。

無能の烙印を押されたのは彼だけじゃなかった。この国の大人全員が接続技術によってバカであることに気づいたのだ。その結果、この国は洗練されていった。

あと数分で締め切りだった。チェンはデータをアップロードすると、評価シートの出力を待つ。AIによる判定はA+。なかなかのものだ。

チェンは研究室を後にする。これで単位は取得できるはずだ。こうしてチェンの学生生活は順調だった。 


――嫌なら普通の仕事、してろ。

チェンはリサーチ・マーケティングの会社のデスクに座りながら、上司に怒鳴られていた。完璧なはずのデータは狂っていた。接続に失敗したのだ。

顧客データは間違っていないはずで顧客の望むものも間違いはない。インターンでさえ間違えない仕事だった。

「いま人事が決定した。お前はクビだ」

チェンはそのまま会社から追い出された。こうなると自分は自分でいたくない。それから、彼は誰かに接続する。

次の朝、チェンの遺体が発見された。

チェンは肉体を失い、けれども意思は損なわれなかった。チェンはずっと夢を見ている状態に近かった。情報の断片を齧りながら、チェンは接続先を求めて旅をする。チェンは自分を魂というものかもしれない、と思った。

チェンは接続した。


それはただの真円だった。ピーターはそこに陰影を書き込む。ピーターの手元でそれは月に変わった。モニターの中で月が浮かんでいる。次にピーターは二次元の絵をベースに三次元の絵を描く。モニターの中の空間に月が現れた。最後に月の下の岩場と荒野を造形する。そこは火星だ。人類未踏の地は頭の中にある。いまここには無い。

惑星シリーズの描写をピーターが終えるころ、実際の惑星は消失していた。ここから遠い、火星は実在しない。全てはピーターの頭の中に、過去に人類が残した写真の中に、描写した物のなかにしかない。

箱庭の宇宙だ。

宇宙が消えてしまったなら、宇宙は記述し直すしかない。ピーターはコンソールの前に立ち、しばらくモニターを見つめていた。自然の美をそこに感じる。

ここはイデアメモリのなかだ。そこでは日々、宇宙をシュミレーションしていた。ピーターはイデアメモリ内のホストだ。

ピーターは自身の描写した惑星シリーズをモニターに表示させ、並べ立てる。それらの修正箇所を探し出すと、データを編集した。参考にした写真は古かった。ただ、描写には問題にならない。生成される宇宙のなかで宇宙を生成する作業だ。

彼に呼び出しがかかる。ピーターは作業を中断して応えた。

「アンドレ、今は惑星シリーズの編集中なんだ。話かけないでくれ」

アンドレは要点を手短に伝えた。

「今から十秒後に超新星爆発が起こった記録がある。描写を頼む」

「分かった」

ピーターは描写にかかった。

これも過去にあったことだ。ピーターたちは歴史を繰り返す。これもまた仕事なのだ。描写は少し時間がかかった。この超新星爆発の描写はイデアメモリ内に保存された。

ここでは起こることが未然に分かった。十億年分の宇宙の変動がモデル化され、ホストたちによって描写されている。描写には時間がかかるため、宇宙の記述全体は膨大な時間を要した。ピーターやアンドレなどホストにとって時間は無に等しい。空間もまた無限でホストはゲストを待つ。

最後にピーターは運動の記述を行う。時が、無意味な時が動き出す。宇宙は音楽を奏でる。彼は感動しない。ピーターにとってそれはつまらないものでしかなかった。彼が興味を持つもの、それは惑星シリーズにある地球という星だった。

すべての原型が生まれた場所だ。イデアメモリ内にある、すべてのデータの生まれた場所だ。この虚無の宇宙でそこだけが特別だ。豊穣なのだ。ただ今は「そうだった」というしかない。

接続したチェンはイデアメモリ内の惑星シリーズを眺めた。いい出来だ。

惑星が消えてしまったのは観測者の消失が原因だったという。宇宙はあるという信念だけが宇宙を支えた結果、イデアメモリ内に宇宙を描き出すプロジェクトが開始された。ホストたちは魂だけの存在になって今も作業を続けている。

おそらく彼らの肉体もチェンと同じく消失しているだろう。すべてが無に帰してしまった。世界は終わる。シュミレーションされた宇宙はここではない、どこかに移転される。数学的記述された世界の実存がそこにはある。誰もそれを見たことがない。一という実存は無くても、一という概念は存在するだろう。すべては脳より以前の数の世界にある。

チェンは終わりの世界を知る。そこでは世界が終わりながらも同時に生成される世界だ。それはホストたちの描写によって成り立つ。

チェンはホストたちに蓄えらえた膨大な記憶に接続する。地球が地球らしかったころの記憶に。

青い海の中で、大きな水棲生物が泳いでいた。

チェンはどこにもいない。接続先のない意思は何も観測できない。彼は慌てて接続先を変えた。人類が人間と呼ばれるまで、凄まじい時間が経過した。

彼は情報の海で少し酔っていた。彼が次に接続したのは実在する火星だ。

火星で青年は風景画を描いていた。それを中断し、青年は恋人に手紙を書く。

――今、ぼくは広告の仕事をしているよ。で、始まる手紙は半分が嘘っぱちだった。なぜなら、青年は恋人に火星にいることを告げなかったからだ。青年はまたいつでも会えると恋人に嘘をついた。本当はもう会うことはないのが真実だった。

チェンは手紙を破棄した。その代わりに恋人に本当のことを告げることにした。恋人の反応は知らない。恋人の脳が発火したのは確かだろう。

チェンは悲しい気持ちになりながら、コロニーと接続した。

そして沈黙した。


風花は空を見上げる。そこには逆さまの大地。ここはコロニー・シィオ。監獄の街、そしてそれを監視する塔が頭上にある。

風花は数える。監視塔の隣は工場。古いもので工業製品を作っている。そして食糧プラントがその隣にある。そしてその隣は指令センター。そして……。分かりきっていた。その全ては、シィオの住民をただ生かすためだけに存在した。

もう十分、と風花は思う。楽しみなこと、それは風花にとっては冒険だった。このコロニーの隅々まで知ることが今までは全てだった。でもそれもおしまい。 

12になったころ、その星があることを知った。地球という青い星だ。とても美しかったことを覚えている。地球は青かったって昔の人がいったけれど、本当にそのままだ。

風花は手を伸ばす。何かを掴もうとする仕草をした。でも何にも届かなかった。

そう、ここにいるだけなら夢は夢のまま。風花は起き上がって、観測デッキに向かう。あの街路の先に観測デッキはある。彼女が観測デッキに到着するとガランとした空間が広がる。ここはいつもそうだ。外の風景が見られるっていうのに大人は興味がないのだろうか。

風花は観測デッキから外を見る。何も見えない。暗闇がぽっかりと見えているだけだった。

「……これだけ?」

観測デッキに来たのはこれが初めてというわけじゃなかった。時々、星々が低解像度で見えたこともあった。でも今日はほんとうに何も見えなかった。

楽しみは一瞬で無くなった。今日はこれからどうしよう? 風花には何も予定がない。

帰ろう。風花はそう思って、踵を返した。終業時間が迫っている。もうじき夕方だった。光がオレンジ色に調光されていく。コロニーに夜がやってくる。風花はこの風景がどことなく好きだった。夕食の匂いがする。ここにだって温かい家庭があることを風花は知っていた。

風花の親は罪人だった。だからといって愛情がないわけではなかった。ただ、この血筋のせいで地球へは行けないと知っていた。夕食を食べると、風花はいつの間にか眠ってしまっていた。深夜になって、お父さんがテレビに釘付けになっている。どうしたの、と声をかけようとすると内容が耳に入ってきた。

「コロニー・シィオは何者かにコントロールを奪われました」

荒本指令が難しい顔をして話している。

これって、どういうこと? 風花には訳が分からなかった。メディアは混乱しているようだった。情報が錯綜していて、伝えているほうも聞いているほうもピンとこない。風花は平静を装って自室に戻った。いつの間にかドキドキしていることに気が付いて、深呼吸をする。風花は椅子に座って何気なくパソコンのほうを見た。パソコンの電源が入っている。風花はパソコンの前に立った。黒い画面に、

「そこにいる?」

と表示された。

不気味だった。けれどYのキーを押した。

「何かない?」

何かって何だろう。風花は考えを巡らせた。

「このコロニー、どこへ向かっているのかな?」

友達に聞くような、そんな質問だった。

「……地球」

嘘、と風花は思った。なんでそんなことが分かるの、と風花はタイプする。

「だって、ぼくがそうしたことだから」

「わかった。あなたはテロリスト」

「N」

彼は続ける。

「ぼくはきみさ」

彼の言っていることが風花には分からなかった。

「私はそんなことしない」

驚きながらも彼女は強気だった。

「ほんとうに?」

その声は風花の脳を発火させた。コロニーは地球へ、原初の土地へ進み出した。もう止まらないだろう。


チェンは接続を解く。接続で自己同一性は保たれるか? 接続は霊素をもとに自らを転送する装置だ。転送先で電子に再構成され、精霊となって世界へ囁けるウィスパーする

チェンは真上を見上げる、さぁ。雨だ。空から降る一億の雨だ。踊ろう、世界と接続して――。