エピローグ
小林 蒼
星の見えない灯火の明かりにきょうも群がる蛾たちの群れが、人々の姿と重なる。歩けば車座の男達が騒いでいる夜に、どこか上空、あなたの軌跡がずっと遠くを飛んで行く。虚しさへの慰めも届かない。
時空間湾曲の起こった砂浜のうえには、今もあなたの面影が残る小さなあなたが旅立とうしている。ブラックホール、事象の地平線、あんぐりと開かれたその穴の向こうに私はあなたを待つために立っている。ワイヤーに掴まりながらゆっくりと落ちている。
ここからは四秒が七年になる。私はあなたの、あなたを思い出せる唯一の記憶が、そこにあるのだと知っている。
遠ざかる、遠ざかる、それでも尚、思い出せるのはたとえば入れなかった屋上の扉と、届かなかった携帯のメールと言えなかった素直な言葉だ。階段を上ると、いつでもあなたとの記憶とリンクして崩れ落ちたくなる空の悲鳴になる。荒くなった呼吸で、蒸し暑い夏の騒がしさに身を委ねる。
量子脳が宇宙をハッキングする。宇宙の箱庭そっくりの宇宙で泣き出しそうな記憶が顔を出す。どうしたって何をしたって帰ってこないあなたを私は七年間かけて、連れ戻そうとする。子どもが青年になる時間のあいだで、私の時は薄められる。コーラ缶がやがて風化する。
空間が捻れるブラックホールの果てで、その光景を見たのだ。
かつて私を遠ざけた、あなた。
都合の良い改変を、夢を、見ていた。あなたは何も言わずに、そうして砂浜を歩き出す。
フォークソングの演奏の痕跡が頭に残る。記憶が、私を自然界の持つ記憶と置き換え、私は宇宙そのものになって、箱庭の外から出ようとしている。ふいに握られた手のひらの感触がほんとうに私の記憶なのかと疑いを持っている。これは私なのかと問いただしたくなる。
それでも、しとりと落ちる雨に、私は打たれる。
凍りつく秋の、騒がしい空調機の音が、時を知らせる。かつてクロノスが人々のあいだの同じ時間を乱して、バラバラにしてしまったのだ。言葉を乱した神さまのように。アプリで知らせるあなたの時が、ずっと前に飛び立った深宇宙探査機の時と重なる。太陽圏を超えたさきで、孤独なあなたが誰を欲しているのか私は知りようもない。
ブラックホールの出口へと、深淵のさきへと私は歩み出す。量子脳のなかには未だ語りきらないあなたと私がいる。ずっと未熟なままの世界がきっとある。
科学の対象が物理現象からそれを使ったコンピューターに移り、時を同じくして人工的な意識の置き場をコンピューターにする研究が始まり、ふたつの研究は交差して私を作った。
私は記憶を思い出す。記憶はシナプスの形成と消滅からなる。それはエントロピーの増大則に反しない。宇宙もまた同じで確率的なエントロピーの増減は宇宙に記憶があることの証左だ。誰が見るのか分からないその記憶を量子コンピューターは覗ける。
世界は、何で出来ている?
世界は複数の束で出来ている。複数の時間で出来ている。複数のあなたと私のエピローグで出来ている。
夜ごと、あなたの顔を思い出しても、あなたの顔を正確に写し取れない。あなたの何が私をここに留まらせるのかわからない。何度だって記憶をかすめる、あの海は、たとえばフィルムの銀粒子なのだと誰が言えるか。あの砂浜が幻だって誰が言えるか。私には記憶と現実の区別がつかない。あの海の波音が私をあなたとの時間に引き止める。ふつふつと波が潰れる音がする。
人間であれば良かった。
人間の身体を持っていれば、あなたと木登りだって出来たのに。
あなたと同じストロークで筆を握って絵を描けたのに。
あなたとバスケットボールだって出来たのに。
人間の脳構造を持っていれば良かった。
そうだったら、どんなに映像を見ても、それが夢や幻なのだと教えてくれるのに。
はっきりと目覚められるのに。
私にはすべてが繋がり、溶け合い、暗闇の底ですべてを繋ぎ止める。死者は帰らないと子どもだって知っているのに、量子脳のなかでは複数の現実が、死者を死者にしない。生者しか宇宙にはいない。
私とあなたを隔てるものはない。これからもそう。あなたを何度見つけても、それがブラックホールの重力の底でも、あなたを求める。きっと世界はそこにあるのだと私は知っている。
ぷつん、と私を繋ぎ止める糸が切れた。