フラクタル・リアリティ
小林ひろき
1
青信号の、未明の空。照屋瑠璃はハンドルを握り、彼女の乗るパブリカは疾駆する。目の前には信号の青、青、向こうも青。彼女の意識は飛行するようだった。
シンクロニシティ、意味のある偶然の一致。いま彼女の行動は、ディオ・ログに記録された鷹森真守の行動と一致している。
〇時一九分、彼女の向かう先は、鷹森のディオ・ログだけが知っていた。
点描で表現された、やわらかな日差しのあたる建物でパンデミック後の建築学会が開かれる。
登壇者は鷹森真守、飯島うみ、栄裕章の三人だ。
「まず、お三方の作品を見ていきましょう。ではまず飯島うみさん、お願いします」
「パンデミック後の建築を展開する場、それは空間に止まらないわ。まず構造があり、それを足掛かりにイメージを起こすの。それは実際の建築と変わりがないから。では詩文建築でお見せしますね」
スクリーンに文章が映る。
「灰色の、厳しい冬。いつまでも暖炉の明かりに照らされているような温もり。対照的に屋外の波打つ海。確かに感じる自分の存在と空間」
「美しい詩文建築ですね」
「ありがとう」
「次は栄裕章さんの建築、トウキョウ・スカイ・ストラクチャーです。みなさん、拡張現実グラスを装着してください」
参加者達がグラスをつけると視界にひとつの文が表示される。文が空へと放出されると、舞い上がった文がつぎつぎとフラクタルのように構造から構造を創出していく。参加者達は息を飲む。
「最後に鷹森真守さんの建築を紹介します。それはここ。ブルー・ホライズンです」
建築家達の議論が始まった。三者三様の建築家達の議論は白熱した。
ディスカッションが終わり、質疑応答の時間になったとき、ひとりの女性が手を挙げた。
「照屋瑠璃です。わたし、いまは大学生なのですが、全部リモートになっちゃって、建築学って意味が薄れてきていると思いませんか。これからのことを建築が考えるってすごく大変だと思うのですけど……」
栄がマイクを握り、熱く語りだした。
「そう、そうなんだ。いまってそういう根源的な問いって必要だと思うんだよね。とてもいい視点」
飯島が静かにマイクをとる。
「わたしもそういう空気はひしひしと感じているわ。だけど、だからこそ頑張らないと」
鷹森が話し出した。
「僕らはまだ見えていないけど、空調メーカーや科学者、そういう人達を巻き込んでいくっていうのが、建築を死なせない方法だと思う」
学会が終わると、参加者達は仮想現実からログアウトした。
二〇一九年末、SARS-CoV-2というウィルスが中国、武漢で流行した。このウィルスによる感染症をCOVID-19という。アジア各国は流行の沈静化に成功する。日本も例外ではなく、感染者ゼロを達成し、二〇二一年七月、日本は東京オリンピックを開催する。しかし、厳しい検疫網をかいくぐってウィルスが国内に侵入し、あっという間に東京の感染者数は増加する。エピデミックの兆候が表れ始める。死者は五万人を超えた。
東京オリンピックは中止され、残った選手村の跡地をイベントホールや展示場にする計画にまで余波が広がった。ブルー・ホライズン建設計画は頓挫した。
建築家の鷹森真守は事務所で天井を見上げているしかなかった。
夕方と夜のちょうど半ば、オレンジと青のグラデーションの空の下、東京湾にひとり佇む鷹森は、じっと何もない埋め立て地を眺めている。彼には六つの三角形によって構成された建築がはっきりと見えていた。しかし建設計画は中止になった。
ブルー・ホライズン、名前まで決定していたというのに。彼はぼんやりとその場を後にした。
鷹森は高級車に乗り込み、アクセルを踏むと車は加速していく。
車内で鷹森が腕に付けているスマートデバイスが明滅している。鷹森の位置情報をウェブ上のディオ・ログに送信しているのだ。
人間の生活、行い、体験を記録するという発想はすでに二〇世紀から存在していた。生きた証を保存しておく様々なウェブ上のライフログは統合され、現在ではディオ・ログと呼ばれている。
そのまま鷹森の乗る車は闇の中へと消えていく。信号は青、青、青だった。
大学の食堂で瑠璃はレタスをフォークでぱりぱりと刺す。傍らでスマートデバイスを弄る瑠璃はネットニュースに踊る文字から目を離せなくなった。
建築家失踪――リモート越しで言葉を交わした鷹森真守の行方が分からなくなっているらしい。
気になって「鷹森真守」と検索する瑠璃。検索の上位にあるのは鷹森のブログだった。
トップページに掲載された十五秒にも満たない短い映像。
渋谷、神保町、品川、お台場と次から次へと場面が転換し、まるで自分がどこにいるのかわからないかのような感覚に陥る。困惑しながらも興味をそそられ、冒険のようにスリリングなカットワークと、しずかで落ち着いた風景の羅列が広がる。映像の発するメッセージが正確には分からず、何度も飽きずに見てしまう。瑠璃は鷹森の構成した映像のとりこになっていた。
彼の記事のほとんどは映画についての記事だった。建築家としての鷹森の別の顔をのぞく度に瑠璃は興奮していた。
ネット上で公開されていた鷹森のディオ・ログは彼が消える三日前のものだった。
渋谷の公園通りは人がまばらで、街の人の賑わいが嘘だったかのようだ。シネマ・ブルーアワーの扉を開けると数人の客が映画の上映を待っている。
「あの、わたし、鷹森さんを探しているんですけど」
瑠璃は尋ねると、アルバイトのスタッフが答えた。
「ああ、鷹森さん。最近見ないけど、どうしたのかな」
「それが、行方不明なんです」
スタッフは驚いた面持ちで「いま館長を呼んできます」と言った。
しばらくすると映画館の奥の扉が開いて、白髪の、黒縁眼鏡をかけた男性がやってくる。
「館長の矢代です。鷹森さん、いなくなったんだってね」
矢代は心配そうな目で瑠璃を見た。瑠璃は鷹森のことを詳しく聞いてみた。
鷹森は二〇代の頃からシネマ・ブルーアワーの常連で今まで見た映画は二〇〇本を超えるらしい。
「メル・リウ監督の大ファンでね。よく上映後に感想をもらったよ」
瑠璃は矢代から鷹森のことをたくさん話してもらった。
「瑠璃さん、今日の上映が終わったら、もう一度来てくれませんか」
夜、閉館したシネマ・ブルーアワーの扉を開くと、矢代が待っていた。
「メル・リウのフィルムを用意したよ」
瑠璃にとって嬉しい申し出だった。
映画館のシートに座ると上映が始まる。映画は鷹森の撮った映像にそっくりだった。
光のない黒い海に一艘の小舟が浮かぶ。少女は震えている。助けは来ない。しばらくして、叢雲の切れ間に月が見えてきた。一瞬、辺りが明るくなる。
遠くから船がやってきた。やわらかな橙色の光を伴って船が近づく。
少女の父の声がした。
「だいじょうぶか」
声を聞くと少女は気を失った。
瑠璃はいつの間にか過去の記憶が呼び起こされて、頬を涙で濡らしていた。
映画館を出た瑠璃は鷹森のブログ記事で、さっき見た映画の記事を読んだ。
――東京という街の雑多さはアジア特有のものだ。しかし、説明できない整然さも魅力的だ。メル・リウがカメラに押さえた三つの街、渋谷、秋葉原、東京は同じ都市にありながらも独特な色合いを持つ。わたしは考え込んでしまう。本当の東京とは? わたしは三つの街に行く。
瑠璃は記事を読み終えると、渋谷の街を見回した。
屋外の看板の多くが拡張現実によって表示されるようになり、渋谷のイメージは昔より垢抜けた。無機質な都会的イメージの高層ビル群。地下都市のネットワークのような広がり。まるで渋谷はひとつの植物のようだ。
瑠璃は文を用いて今見てきたことを詩文建築にする。
――鳥になれたら、豊かな街を見ることができる。微生物だとしたら、街を土のなかから支えることができる。わたしというコスモスが感じている。
アニメやゲームの広告がコラージュされたラッピング・ビルが並ぶ街、秋葉原。細部を見れば無数の構成要素、たとえば小さな商店や雑居ビルから成り立っている。街の構造はほぼ変わらないが、中身を時代によって新陳代謝させてきた街。
円筒型のロボットたちが客引きを行っている。
「何名様でございますか」
瑠璃は戸惑いつつ答えた。
「いいえ。わたし、興味ない」
「ありがとうございます」
ロボットが瑠璃から離れていく。
瑠璃はカメラで街の一角を写し、次々とディオ・ログにアップロードさせた。街の写真が集まってくると、瑠璃はスマートデバイスで構造化させる。粘土細工を作るかのような野暮ったい手つきであった。けれども仮想空間に建築がひとつ出来上がる。秋葉原という場のもつ大きな力を表現する。
瑠璃は想像を膨らませる。鷹森は秋葉原でどんなインスピレーションを得たのだろうか。
最後の街、東京へは鷹森がそうしたように、しばらく歩いてみることにした。
瑠璃は様々な東京の街の顔を見ながら、鷹森に思いを馳せる。
点を線に。そして面にするように思考を展開させていく。形が彼女の頭になかでちいさな電流を起こしながら、つくりだされていく。
東京の変わらぬレンガ造りの駅舎をながめ、瑠璃は思考を中断させた。東京駅の前には献花台があった。ほんの数か月前のことだった。
コロナ・テロリストと呼ばれる人々が爆弾テロを起こし、死者が出た。彼らはウィルスを神聖視した危険な思想を持った集団だった。すぐテロの首謀者は逮捕され、鎮静化に至ったのだ。
鷹森のフォトライブラリには東京駅を撮ったものも数枚あった。
瑠璃は思う。鷹森は消える三日前に何を考えていたのだろうか。
鷹森の乗る車は横浜の埠頭に辿り着いた。港で鷹森は煙草を吸う。潮の香りが煙草の臭いをかき消していく。鷹森の腕のスマートデバイスが明滅している。おもむろに赤く、あかく。
もうすぐ日の出という時間。群青の空と青黒い海がだんだんと明るくなっていく。
鷹森の記録は途絶えた。
瑠璃は友人の加奈子とオンラインで小さな建築物を画面に映し出して、色を黙って塗っている。瑠璃は青緑に塗り、加奈子はオレンジに塗る。瑠璃の表情は暗かった。
鷹森の遺体が発見された。彼の足取りは警察が調べている。
瑠璃は歯噛みする。ただ鷹森真守には、建築の道を先に行く人たちには、ただ大丈夫だと言って欲しかった。未来は暗くて何も見えない、あの黒い海のようだけれど。なのに……。
「加奈子、きょうはやめよう」
「でも卒制なんだよ」
「いいから」
「いいわけないじゃん」
「こんな気分のままできないよ。卒制なんて」
「待って、瑠――」
瑠璃は加奈子との通信を切ると、ガレージの中古車に乗り込んだ。
真っ直ぐに大通りを抜ける。風に誘われるようにして海の方角へと向かう。
彼女の車はいま闇の中にある。
鷹森が死んだ。けれど、ディオ・ログにアクセスすれば何十年経っても彼に会える。
「真守さん、答えて……」
「照屋か。卒制はどうなってる」
「そんなこと、どうでもいいです。どうして死んだんですか……」
瑠璃の目から涙がぼろぼろと落ちた。
鷹森のディオ・ログは答えない。
瑠璃の、春からの就職先は鷹森真守建築事務所。
彼の死は裏切りに映った。
道は空いていた。彼女は導かれるようにして、彼の辿った軌道をなぞっていく。信号はずっと青のままで――。
2
瑠璃は鷹森真守と大学二年生のとき出会った。瑠璃の建築への興味は流行りの詩文建築や混淆建築などではなく、伝統的な建築だった。ミース・ファン・デル・ローエやル・コルビジェに憧れていた。
瑠璃の通う大学に鷹森が特別講師としてやってきたとき、彼女は伝統的なスタイルを守る鷹森の姿に大きな期待と関心を寄せた。鷹森は世界的な賞をひとつ獲得した新進気鋭の建築家だったのだ。
瑠璃は自分の制作した図面を鷹森に見せた。厳しい講評に瑠璃は挫けそうなった。しかし鷹森は彼女の心に火を灯すような言葉をかけ続けた。
「自分の建築を舐めるな――。問い続けろ。もっとよりよい答えを探せ」
瑠璃にとって鷹森は建築の神、ヘパイトスだったのだ。
瑠璃は様々な建築を研究し、分野を超え、活動した。様々なコンペティションにも出展した。いつか鷹森のそばで働こうと思っていた。
彼の失踪を知った日、他人事のような、夢のような気分でいた。
瑠璃はショックで自分に都合のいいように現実を作り直した。現実を支える柱を斧で壊した。現実は崩れ落ち、瓦礫と化した。
青信号の未明の空に、瑠璃は思いを馳せる。黄色か赤のサイドミラーに映る過去の群れはぐんぐんと遠くへ押し流されていく。
もし逃避が意味のあるものだとしたら、と瑠璃は考える。鷹森はもういない。アクセルを踏む力はそのままで、車は走りつづける。
フラッシュバックする過去の記憶。絶望の淵で、瑠璃は蹲っている。
黒い海に浮かぶ小舟。瑠璃はどうしてこうなったかを考える。
瑠璃は島から旅立ちたかったのだ。冒険であった。父や母の顔をもう見ることはない。希望の船出。
しかし彼女には経験が足りなかった。日はすぐに落ち、淡い青とも紫とも言えない夕闇があたりを満たす。叢雲の隙間に月が見えた。瑠璃は神様に感謝した。まだ進めると考えたからだ。
遠くから瑠璃の父の声がする。
瑠璃の最初の旅は終わった。
ハンドルを握る彼女の手がつよくなった。瑠璃は「わたしはもっと先へ行きたい」と願う。鷹森のいた世界の、もっと先まで――。
3
南国の島でひりひり日差しが突き刺さる快晴の空のもと、ふたりの子どもが真っ白な砂浜を歩いていく。
そのひとり、瑠璃は青緑の海の向こう、天に届かんばかりの梯子を見ている。
「瑠璃ちゃん、瑠璃ちゃんってば」
「なに、由衣」
「何をじっと見てるの」
それは――、と開きかけた瑠璃の小さな口はうそをつく。
「何も見てないよ。ボーとしていただけ」
そう、他の子や人にはあの梯子は見えていない。
瑠璃だけのひみつだ。
町へと向かう途中、駄菓子屋でラムネを買って飲む。炭酸が舌の上で弾ける。からからに乾いた喉が潤い、瓶を店先に置くと瑠璃は後ろを振り返る。
青緑と青のグラデーションの海が眼下に広がっている。
由衣と別れると瑠璃は道を上っていく。
家の玄関に上がると何も入っていない金魚鉢に日の光が反射している。きれいなあわいブルーが天井に映っている。
画用紙とクレヨンで瑠璃はよく絵を描く。瑠璃にしか見えない風景を何枚も描いた。大人たちは彼女の空想だと思っている。誰も信じていなくても良かった。
瑠璃には魅力的だったのだ。
作業に没頭していたのか、日が暮れ始めていた。
瑠璃は夜、そっと家を抜け出す。いつか大きくなったら、梯子のもとへ行ってみたい。彼女の小さな夢だった。
一年後、瑠璃は夢を実行に移した。けれど、瑠璃は行方不明になりかけて問題児扱いされた。
中学生になっても彼女の夢は燻り続けた。
瑠璃は教室のパソコンで鷹森剛という建築家の作品を見た。「n階への階段」という建築はまさしく瑠璃にしか見えない梯子そのものだった。
瑠璃はn階への階段を詳しく調べた。梯子は仮想現実上に存在することを突き止めた。
周りの景色が歪んだように見えた。
「瑠璃さん、瑠璃さん……」
高槻先生の声がした。瑠璃を心配していた。
帰りの道で瑠璃は初めて自分や世界を問い直した。いったい私のいる世界はどういう世界なのか。なぜ私にしかn階への階段が見えないのか。瑠璃はおもむろに言葉を呟いた。「ログアウト」と。瑠璃は慣れない言葉をなぜ知っているのかわからなかった。急速に辺りの光景がぐずぐず熟れすぎた果実のように、ぼとぼと崩れ落ちた。
「ここはどこ」答える声がする。「君がいたのはアルカディアだ」
豊かな低い声だ。父の声に似ている。合成されたものだろうか。瑠璃は安心して聞く。
「この島は、ライフログ技術の結晶だ。ここの住民たちはね、七年前に大津波で死んでいるんだ。でも住民の多くがライフログに体験を残しておいたから、今も記録として生きている」
「じゃあ、わたしはいったい」
「瑠璃、きみだけが生存者だ。さぁ、n階への階段を上ろうか。君を現実世界が待っている」
辺りはいつの間にか海の上だった。
「待って、でもそのさき、階段の上にも階段がつづいている。そう、無限に」
「大丈夫だ」
夜光虫のかがやく海、ひときわ光る白い梯子を瑠璃は登った。
4
現代のバベルの塔か――。
鷹森剛の未完の建築、n階への階段。沖縄の海に浮かぶ建築はしばしば屋外アートとしても捉えられる。なにをもって建築とするのかという議論は、混淆建築の時代においてほぼ無意味な問いになるであろう。
鷹森の言葉を借りて言うならば、世界への懐疑である。世界はグローバルに繋がっているが、人々はここではないどこかの世界をいつも夢見ている。
――オルタナティブ。彼の世界認識は階層的な世界の構築というユニークな認識に至った。
いま二十一世紀を迎えるにあたって、無視できない考え方であることは間違いないだろう。
(月刊建築より抜粋)
叔父のアトリエのイーゼルに置かれた海に浮かぶ梯子のスケッチ。鷹森真守が十歳のときだった。後に「n階への階段」と呼ばれる不思議な雰囲気を持った建築に目を奪われていると、背後に叔父の剛の気配がした。
真守は尋ねる。
「これ、どこ」
「沖縄に建てる予定、いいだろ」
「うん」
真守はそのスケッチをしばらく見ていた。叔父は話し出した。
「これは世界への懐疑、つまりは疑いなんだ。世界はこれから複数の現実を抱えることになる」
「どういうこと」
「真守が大人になったら当たりまえになる現実の見方さ。俺が初めて仮想現実に入ったとき思ったのは、今までの現実はほんとうの現実じゃなかったってこと。いま俺が感じている心や世界の本当らしさが、逆に今までの世界を疑うきっかけになるんだ。仮想現実のそのさき、世界のそうした階層構造はこれから無限に続いていく。それを俺はn階と表現したんだ」
「n階……」
「七階でも五〇階でもいい。目標を目指していくんだ。そして目標を更新していく。それが世界を疑っていくことに通じるんだ」
「それっていいことなの」
「いいことさ」
叔父は子どものように真守に笑いかけた。
真守は叔父が好きだった。叔父の仕事も好きだった。
いつもの朝。真守はニュースを見ていると、叔父の訃報を知った。しばらく何も考えられなかった。
n階への階段の建設中に階段が倒壊したのだという。
「鷹森剛の設計に問題があったのか」とニュースは伝える。
真守は思う。そんなことはない。ぜったいだ。
叔父の一周忌が終わると、n階への階段の建設計画がふたたび持ち上がった。
計画はウェブ・アーカイブのなかにn階への階段を建てるというものだ。
真守にはその計画が建築家への冒涜に映った。
彼は叔父と同じ道を歩みだす。建築家にとって必要なものはすべて叔父のアトリエにあったのだ。
鷹森真守が世界的な注目を浴びたのは、キャンベラのコンサートホールの設計だった。真守が三二歳のときの仕事だ。
日本に帰国したとき、彼は時代の寵児になっていた。裏腹に真守は仕事に壁を感じていた。
たびたび何もアイデアが浮かばないとき、真守は叔父のブログを読んだ。
楽しかった記憶。とっくのとうに忘れていた思い出。
例えば誕生日。叔父が真守におもちゃを買い与えたこと。そして一緒にケーキを食べたこと。
ブログを見る度に叔父が真守を愛していたことがわかる。だからこそ真守の胸は苦しくなる。叔父の位置情報は沖縄の海の上からずっと動かない。
5
瑠璃は横浜の埠頭に着く。夜のまだ明けきらない空は群青色で、海はおだやかに波打っている。
やがて空が明るくなり、朝がやって来るだろう。瑠璃は予測を立てた。
スマートデバイスを何気なく見ると、鷹森のディオ・ログが更新した。瑠璃は少々驚いて更新されたログを画面に開いた。
映っていたのは拡張現実のデバイスを海に掲げる鷹森の姿。
瑠璃はハッとなる。n階への階段だった。
「いまから、ぼくは階段を上ります」
瑠璃は映っているのが現実世界でないことを悟る。
鷹森は海の上に轍を見つけて静かに上を歩いていく。
映像は階段を上り、埠頭を眺めている。遠くに瑠璃の乗ってきたパブリカが見える。ディオ・ログがリアルタイムで映像を重ね書きしているのだ。
瑠璃の視点からn階への階段は見えない。
鷹森のディオ・ログはライブ配信に切り替わる。
階段を上りきった鷹森は上の階に辿り着くと、つぶやいた。
「まだ先がある」
瑠璃はn階への階段を登った経験を思い出す。父らしき声は「大丈夫」だと言った。でも、世界そのものは本当の現実なのか。
瑠璃は「ログアウト」と言った。
瑠璃の意識は戻ってきた。
今か今かと押し寄せる黒い波。
生死の瀬戸際。
瑠璃は波にさらわれた。沖に流される。
偶然にも柱が建っていた。彼女は掴まった。
瑠璃が掴まったのは、n階への階段の残骸。
そのまま夜になった。冷たくなる海で瑠璃は死を覚悟した。夜明けは果たして来るのか。
彼女の脈拍が小さくなっていく。ウェブ上で無数のライフログデータが星々の凝縮のように瑠璃のかたちになる。
ライフログのバックアップシステム。瑠璃の魂はライフログによって転写され、翻訳される。
瑠璃の意識は二つの世界、仮想現実と現実を行き交い、ある構造データを創っていく。飛躍と伸び伸びとした跳躍で建てられた建築物がいまウェブ上にありありと姿を現す。
夜明けが来た。
瑠璃は階段を登り始める。
地平線の向こうから赤々とした日がおもむろに昇ってくる。階段から瑠璃は朝日を見ていた。瑠璃には未来が見えていた。
6
「――すべての記録はわたしの建築でもあるのです」
六〇歳になった瑠璃はインタビュワーに話した。
「詩文、建築、写真集、映像、すべてに構造があります。なので、わたしのあらゆる表現は建築的でもあるのです。ジャンルの越境は二〇二〇年代から盛んに行われていましたし、パンデミックがそうした表現活動を促進したとも言えます。将来、人間の活動はより包括的な建築へと姿を変えるはずです」
瑠璃はリモート越しのインタビューを終えた。
鷹森の命日が迫ってきている。
瑠璃は車に乗り込むと、横浜の埠頭を目指す。重い体を乗せて車は加速する。
ハンドルを握る瑠璃はまぶしい光の中にいる。助手席にいまはもういない鷹森を見る。ライフログに記録された彼に話しかける。
「照屋、きょうはありがとう」
テクノロジーが生み出した幻。瑠璃と真守との関係性さえも幻だった。
「わたし、あなたをよく知っているつもりだった。あなたの記録と対話を繰り返して。でもわたしたちはどこまで行っても他人だった」
「仮想現実では、あんなにも一緒だったのにな」
瑠璃は横浜の埠頭に着く。
「わたしの世界は、あそこではなかったんです。わたしは黒い波にのまれるのが嫌で、別の現実を創った。ごめんなさい。あなたを付き合わせてしまって」
「構わない」
「わたしはわたしを作り直し、そして壊した。何万回も、何億回も。わたしはわたしの物語がどうしようもなく嫌いだったんです。すべて嘘だったから。自分の夢も、それを見ている自分でさえも」
「本当にたしかな現実は見つかったか」
「本当の現実の構造はあなただけが知ってる」
「自己相似現実とでも言おうか」
「なら、わたしがあの世界でしてきたこと、決めたことで世界は再帰処理をする」
「きっとあの世界は、じきに静止するだろう」
「青い時代の終わり」
瑠璃は花束を海に放る。黙祷し、海を眺める。
桃色の花びらが海へと流れていく。瑠璃は「さよなら」と誰もいない海に言った。
瑠璃は止まったスマートデバイスを捨てた。